2010年12月31日金曜日

映画「ノルウェイの森」の失態

■今日は大晦日だ。村上さんとベトナム人トラン・アン・ユン監督の作品だし松山ケンイチだしと思い、昨日のうちに席を珍しく予約してちょっと早めに一人で新宿に出た。30分ほど早めに着いたので何かお腹に入れておこうと思い立ち、何故か「桂花ラーメン」喰いたしという事を身体が思い出したようで、何十年ぶりか足早に行ってみた。本年春のニュースでは桂花は倒産の憂き目を見そうであったが、とある九州の企業が助太刀をしたという人情話が流されていたので、安心して新宿駅前店を訪ねてあの独特のスープを口に運んだ。僕は今から35年ぐらい前に、東映の監督の梶間俊一君に新宿三丁目店を紹介されてこの味を知った。当時は九州の豚骨スープ味系が東京で全く流布されていない時代で、普通の醤油ラーメン以外はサッポロ味噌ラーメンしかなかった。だから桂花の味は美味しかったが、美味しいという前に不思議な味わいに驚いた記憶がある。で、僕はそそくさと堅めの例の麺をかみ切りながら平らげて、新装のコンプレックス新宿松竹に向かった。

■僕は「青いパパイヤの香り」と「夏至」を見ていたので、小津さんの影響らしさとか、執拗なクローズアップの連続の独特さ等の美しさと画面の落ち着きを評価していたので、TRAN ANH HUNG監督に期待していた(ハノイ読みなら、チャン・アイン・フン)。
さて、言うまでも無い。プロデューサーの仕事の大半は観客に支持される映画作りになっているかどうかを判断する事だ。特に原作が村上文学だから簡単ではないが、この作品では鮮烈な時代的印象を残して「直子」は死ななければならない。でも、その「直子」に菊池凛子を選ばざるを得ないほど、日本の20才代の女優陣は誰もいないのだろうか。生死の意味を問う役柄なら蒼井優だって良いし、他にもいそうだ。ベトナム人の監督と仕事をするのはプロデューサーも大変であったろう。まあ、フランス人と言った方が良いかもしれないが。でもだよ、この映画のプロデューサーは、(誰だか知らないが)、あの・・「パパイアの青き香り」の「ユン監督」と仕事が出来るという事に引っ張られた感が強い。己の判断つまり、助演女優直子を誰にするかの重要な志向と判断の基準を何処に置いたのだろうか。ユン監督は当代随一のアーチストの一人だから、プロデューサーが妥協したのだろうか。僕から見るとプロデューサーが不在であった。決定的なミスをこの映画の制作者のトップ二人はしてしまったのだ。まあ、失態を曝してしまったということだ。

問題はそのキャスティングだけでは無い。性と性交に付いての言葉の使い方についてもだ。連射される性の言辞が臆面もなく露わで上手く包み込むものも無く、日本人には聞くに堪えないと思うほど頻繁に役者たちは言わせられているのだが、映像とまるでモンタージュされておらず、文学の文字上のイメージの交差の豊かさに比すると「大空振り」も良いところの無惨さなのだ。映像と台詞のすれ違いは想像力を喚起せず、見る者に苛立ちを投与してしまう。そんな苛立ちを美しい画面から投与される僕ら観客の身になって欲しいぜ。画像が全体的に美しく、バランス良く配列されて居る分だけ、僕らの期待は混乱する。シナリオはユン監督が書いたようだ。もちろんフランス語だろう。それを誰かフランス人の日本語翻訳者が翻訳し、それを日本人翻訳者がオリジナル台本を照合しながら、調整したと思われる。多分これの反対の作業の流れでは無いと思われるね。もし、この作業を反対の流れにしたなら「科白の言葉」が微妙にでも救われたかも、と思うのは僕だけじゃあないだろう。これも、プロデューサーのプロとしての勘と実行力だぜ。村上さんの1960年代後半の当時の早稲田の騒擾のキャンパスに対する位相がそうであるように、同時代者である僕らにとって「性」は重要なモーメントで在ったが、最も僕らの心情というか激情の周辺を囲んでいた要素はヒューマンな理想主義であり、世代的な焦燥感であり、世界性を獲得したいという想像力への出血や吐き気の伴う創造過程であった。

従って、「ワタナベ」を演ずる松山ケンイチの一つ一つの相貌と語り口調は、60年代的雰囲気を漂わせて好感がもてるが、全体像で見る「ワタナベ」は軽々さが妙に前に出ていて、村上さんのイメージとはズレが生じているはずだ。当たり前だが、映画と文学は別な作品であるので、村上さんはそのズレをズレと見ないように評価したかもしれないが、文学と映画を一体と把握し「ノルウェイの森」の意味を確かめたい普通の観客は助演女優のキャストミス、画像と言葉のモンタージュ未消化、松山ケンイチのズレた存在をどういう角度から捉えたらいいのか混乱させられ、仕方ないので敢えて画面中に無理しても意味を模索せざるを得ない気持ちにさせられているのではないだろうか。ただ、ユン監督らしい落ち着いた画面の構成は優としたい。また「緑」の新人水原希子は悪くない。玉山鉄二の永沢は良いポジションを確保しているのだがもっと強烈で不可思議にすべきであった。シャブロール監督の「いとこ同士」(1959年)の助演ジャン・クロード・ブリアリを想起して僕は永山を見ていた。最後に流れる字幕の「学生運動監修」とかいう項があり、そこに早稲田の友人の名前があって思わずプッと吹いたぜ。でも、彼はリアルな”時代考証”の映像化に結構寄与していたね。

何年かぶりに日本映画を劇場で見た。新宿松竹のガラスで出来たようなシネマコンプレックスに初めて入って戸惑った。チケットの買い方や持ち込みの飲食の仕方も随分と変化していた。入場の仕方もルールができている様で、途中からの入場も不可となっていた。僕などは昔から上映予定時間に行かず途中から見て約1回半みる楽しみ方をしていた口なので、なにやらオンタイムのみエスカレータに乗って運ばれ、決まった時間に退場させられるこの劇場に健全であかるいハリウッド映画に相応しい洗練ビジネスシステムだけが目につき滅入ってしまった。映画と劇場の持つ期待感と不安と、別世界に観客が惹かれてゆく闇の魔力がもはや消滅させられていたことに強く気づかされ、溜息をついてしまったということだ。今どきの劇場(小屋)の様を新宿松竹の透明感溢れた現代建築の中で味わされた今回の久しぶりの劇場行きであった。
■《ブログご高覧感謝》
僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
多いのは一日1400名閲覧もあります。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2010年12月25日土曜日

★ 停電って、何だか心躍る / 乞食のおっさんのいる僕たちの界隈

■大佛次郎「天皇の世紀 文春文庫全十二巻」の第四巻130ページを読んでいたのが11月21日のブログに記してあるので、今日はまだまだの同巻の320ページだから、読書の進捗は低迷していたわけだ、この一ヶ月。勤王の志士たちの狂気のテロリズムと豹変志士の日本。尊皇攘夷のテロリストの一人である伊藤博文は開国派のイデオローグを斬り殺した経験もあった。でも、同時に文明の西洋にあこがれ、日本を離れたり、終には総理大臣になったりと、第二次世界大戦後1950年代「転向論」が鶴見俊輔や吉本隆明などによって論争があったが、幕末の志士が、文明開化に転向してゆく”自然さ”は、日本人論を構築する上で、一番のサンプルかもしれない。ともあれ、攘夷は狂気の台風として、武士階級だけでなく、一部の富裕町人階層も包含して、全土を吹き荒れた。

■停電って、結構わくわくするものだ。僕らが小学校低学年までのころ、つまり、1950年代は、日本で停電はさして珍しい事ではなかったね。子供の自分にとっては、停電は、夜に決まっていた。昼も在ったのだろうが、外で転がるように走りまくって遊んでいた僕らは気がつく術もなく、夜の遭遇が刺激があった。ラジオも消え、部屋中が真っ暗。すぐに、弟を脅かそうと、懐中電灯を顎から上に向かって照らして、フランケンシュタインを演じたりしたものだった。現代ほどではないが、煌々と部屋の団欒を照らしていた「マツダランプ」の常態が、いきなりいつもと違う「闇」に転ずるわけで、僕らガキたちにとって迷惑さは皆無で、いきなり劇場の舞台を与えられたごとくワクワクしたものだ。

この前、ハノイで、ベトナムのしょっちゅう起きる停電を汚い言葉で難じた正統なサラリーマンが居たので、鼻白んだことがあったが、僕らの国でも、停電は時々あった戦後の時期を彼は年齢的に知らないのだから仕方ないが、そういう己(ニッポン)の過去の環境ぐらい、想像できない頭の悪さを腹の虫の居所がたまたま悪かった僕は奴を罵倒した。あとで、やや反省したが、そういうちょっと前のニッポンが北朝鮮と同様な軍国主義であったとか、昭和20年代の荒廃の時代の日本は技術のぱくりと壊れやすい商品で一頃は世界中から、非難されていた歴史もあったとか、そういう40〜50年前のことぐらい、知識が無ければ想像力で補いやがれ!といったような、言わなかったような。

で、さっき、NHKのBSで「ニューヨークの停電」のドキュメントをやっていた。1968年とか77年とかの例の「出生率」向上したとか言う大停電とはちがって(結構多いね)、2003年の大停電の経験者たちのインタビュー中心のドキュメントだった。アメリカの明るいキャラもあって、どうもそのとき、ニューヨークの人々は、地下鉄もストップしたので、大変な迷惑を受けたに違いないが、それはそれとして、夏であったこともあって、オフィスに泊まってパーティーしたり、路上でバーベキューしたり、かなり、夜の暗さを単に楽しむだけでなく、非日常の人間関係を作り出し、結構事故を有効に使った人々が大勢いたことにハッとさせられた。アパートの住人同士の交流が出来たとか、長時間歩いて帰る途中に友人がたくさんできたとか、暗闇が意外なプレゼントを市民にくれていたようだ。我がベトナムでもレストランやピザハットとかで、僕も停電にかちあったことがあったが、その瞬間に悲鳴というより、「ヒャッホウ」と喜ぶ若者たちの歓喜の声が大抵、街中からわき起こる。暗ければ、つきあい始めの彼女に思い切ってキスの一つもしやすいのだろうし、次の展開に期待が生じるよね。

NYの若者が言っていた。「停電記念日」を作って、その日その時、電気に左右されない非日常を思い出し「不便さ」を楽しむ記念日を設けたらどうだろう、とね。なかなかまともな良い意見だね。特に日本人はこの10年、不便とか、合理的でない事を楽しむ人々というか、そういう気分が確実に醸造されているので、理解しやすい感覚だね、「停電の日」・・電気を使わない日の設置は面白いと思う。

■僕の居るハノイのレータンギーという地域は、東京でいえば、お茶の水界隈と言えるかもしれない。ハノイ工科大学やハノイ建築大学などが隣接しているいわば大学街なのである。カルチェラタンと言っても良いのだろう。学生街には安い食堂や本屋、「黒沢楽器店」とかパソコン屋がつきものだし、全く相似している。今からは想像ができないがそのお茶の水は明治や中大の、そして医科歯科大や日大の赤いへメットをかぶった社学同(ブント)を中心にした学生運動の一大拠点であり、新宿に次ぐ自由の天国のような若者たちの街であった。お茶の水の街にベトナム反戦闘争などの戦いが起きれば、すぐ飯田橋から白ヘルの法政の中核派の2000名が、本郷の東大や早稲田あたりからは青いヘルを被り武装した解放派や黒ヘルのノンセクトラジカル1000名の学生が一斉に駆けつけ、更に日大経済や文理などの全共闘の黒や銀、あるいはみどり色の戦闘部隊が数千名合流して、機動隊と対峙し戦闘を展開していた街であったのだ。

その上シンパやけしかけるサラリーマンやおっさんたちの群衆はすぐに万単位となり、機動隊を数の上でも凌駕する学生たちと市民のデモと隊列が出来ていたものだった。この極色彩のヘルメットの軍団の喧噪と騒擾は何かに突き動かされて、迷動していた幕末の尊皇攘夷の若者たちの武装した祝祭とどこか類似している様にも見える。大佛次郎「天皇の世紀」を読んでいると更にそう思う。心情は同位相なのだ。でも絶対の勤王と絶対の排外攘夷への衝動だけで自尽できる負のエネルギーに満ち満ちていた明治革命の第一段階の幕末と1960年代の僕らとは違いははっきりしている。

1960年代に起きた学生や若者たちの世界の反乱は個人のライフスタイルも、社会のシステムも、芸術の領域もパラダイムシフトしてゆく時代の、あらゆる世界性や都市性も含有していた。ベトナム戦争に反対するヒューマンな心情を僕たちは紛れもなく堅持していたものの、情報社会という魔物はテレビという堅牢なイデオロギー装置を市民社会に送り込み、あらゆるものを相対化してしまう「思考セオリー」を僕らの革命性の隣りに潜伏させたのだった。だから、僕らは若者としての想像力とポップな感性を肉体に搭載してはいたが、「何かが違う。こうではない!」という焦燥と体内に迸(ほとばし)っていたエネルギーを思想として止揚できず、結果次の時代からの回答をうまく得られず、70年代前半に無惨にも自壊し、霧消していった。結局、その後僕たちは高度資本主義のまっただ中で生きて、40年間働き続けてきた。
森田童子の歌に「みんな夢でありました」というのがある。

♪♪ あの時代は何だったのですか あのときめきは何だったのですか
みんな夢でありました みんな夢でありました
悲しいほどに ありのままの 君とぼくが ここにいる

ぼくはもう語らないだろう ぼくたちは歌わないだろう
みんな夢でありました みんな夢でありました
何もないけど ただひたむきな ぼくたちが 立っていた

キャンパス通りが炎と燃えた あれは雨の金曜日
みんな夢でありました みんな夢でありました
目を閉じれば 悲しい君の 笑い顔が 見えます

河岸の向こうにぼくたちがいる 風のなかにぼくたちがいる
みんな夢でありました みんな夢でありました
もう一度やりなおすなら どんな生き方が あるだろうか

で、話はレータンギーという街だ。僕の始終動いている界隈の或る路地に8月頃から、50才代と思われる乞食のおっさんが住み着き始めた。はじめの一週間は2メートルのばかりの道幅の片側の家屋の煉瓦壁に背もたれて座ってばかりいた。手持ちの家財道具もほとんど見あたらないので、はじめはその家のカカァに追い出された哀れな親父と思っていたが、10日もすると、2メートル幅の半分を占めた大きさに箱とか板きれなど組み立て始めていて、2週間ぐらいで僕がハノイに戻ったときは、いっぱしの小屋が建築されていた。日本のホームレスのおじさんの特許は青いビニールシートだが、彼は建築現場からいただいてきた青赤シート、昔海水浴で僕らが海に持って行ったそれだ、を器用に屋根や壁面に使用していて、きりっと締まった家屋に仕上がっている。もともと器用なベトナム人、家も建てればオートバイも直す。こんなビニール小屋など朝飯前ってものよ。彼がいつも背もたれしている壁の家の軒先は結構大きく、もともと、風雨をしのげる構造になっている。屋根など作らなくても良いのに、器用さともの作りの心が、屋根と天井までこさえてしまった。

僕は彼とお話ししたことはないが、いつもたいてい新聞や本を読むか、瞑想のように足を抱いて鎮座している。白髪に頬が痩けた面構え。彼は何者なのだろうか。不思議な事はどうも誰も立ち退きを迫ったり、追い出したりしていなそうだということだ。やはり、そこの家の親父なのかしら。日本の住宅街や商店街に一角に、路地とは言え、2メートル幅の路の半分を家にしてだよ。小屋を造る前に多分誰かが退散を迫るだろう。ポリスも来るだろう。でも、この4ヶ月見事に安泰なのである。「乞食」とは言え彼にも仕事がある。毎朝、側面の壁をお世話になっている家の玄関周りと周辺の道路を律儀にも掃き掃除しているのである。近隣と衝突を避け生き抜く彼の妙技なのであろうか。彼には彼の身を落とした何かの意志が見え「ホームレス」などという半端な形容はしたくないね。この項続く。

2010年12月15日水曜日

「ハノイ日本アカデミー」最新チラシ / 1月の講演原稿

■これは、最新の当校の日本企業向けのチラシの原稿です。当校の沿革、ポリシー、現況、成果などを解りやすく整理して記述しています。実物は写真を多用しています。

 ベトナムの理工系大学の精鋭をエンジニアとして採用しませんか?
  当ハノイ日本アカデミーはハノイ工科大学と提携しています。

世界の不況が長期化し、低迷が続く日本。その中にあっても、何とか成長を維持し、アジアの元気の素となっているベトナム。そのベトナムに進出の可能性を探りませんか。そして、その時必要になるのが将来のコア・エンジニアとなる精鋭たちです。この今だからこそ、優良なベトナム人エンジニアを採用し、不況明けに備えませんか。人材の確保はそろそろ積極策にでたいものです。日本企業に就職し、プロのエンジニアとして活躍したいと願っている大卒理工系の青年たちは数多く居ます。その中の最優良な数十人が私たち『ハノイ日本アカデミー』で日本語と日本の社会・企業システムなどを毎日猛烈に学習しています。

ウラのページ
《ベトナムは人材供給基地》ベトナムは8600万人の人口の半分が25歳以下の若い国です。かつ、理数系が強く記憶力なども大変優れた民族です。日本の産業界は今、企業のコアである開発のエンジニア(技術者)が何万人も不足しています。不況明けは、更なる不足が予想されます。半導体、機械設計、金型、IT、電機、ロボット、精密機械、化学関連・・このエンジニアの構造的な不足は、日本の産業構造を揺るがす大きな問題となっています。
2006年秋、日本とベトナムは戦略的パートナー宣言を協定しました。重要な点は日本政府がベトナムに対して「今後の最も大切な人材供給基地」と位置づけたことに有ります。

《当校の概要》2005年の開校(ハノイ市)以来、既に約140名以上の卒業生が日本に就労ビザで渡航し、日本全国の優良中堅企業で正社員の若手エンジニアとして活躍しています。
現在、日本人教員4名、ベトナム人教員2名の陣容で、毎年数十名の精鋭を日本企業に供給できる体制を作っております。2008年3月、ベトナム随一の国立ハノイ工科大学(正式名称BACH KHOA・5年制度)と当校は「日本語教育と就職支援」の業務協定を締結しました。また、本校の日本語の授業及び企業内コミュニケーション教育、技術者教育の実績は既に採用いただいたお客様はじめ各方面からご評価をいただいており、顧客様からのリピートオーダーも多数いただいております。3回目とか4回目の採用をいただいている企業もあります。

《当校へのご支援など》
今までセミナーなどの催事は社団法人九州経済連合会、社団法人九州ニュービジネス協議会、社団法人大阪国際ビジネス振興協会、社団法人静岡県国際経済振興会、社団法人岡山県国際経済交流協会、福岡商工会議所、早稲田大学ベトナム総研などのご後援や、東京都庁と東京都中小企業振興公社などのご視察もいただきました。また、在日ベトナム大使館、ベトナム労働省などのご支援もいただいています。更にNHK「おはよう日本」、日経新聞、日刊工業新聞などで、何回も好意的に取り上げられております。

《NPO法人VCI人材戦略研究所が運営》
VCI人材戦略研究所は2004年から任意団体として活動し2007年東京都からNPO法人として認証されました。ハノイにあるハノイ日本アカデミーはこの法人が運営する学校の名称です。当校によるこの“日本語ができる理工系学生の輩出”は、エンジニア不足に悩んで居られる中堅企業の人材戦略の一つの「解」と考えています。現在当「ハノイ日本アカデミー」で学ぶ学生のハノイ工科大での履修学部は、主に機械工学部、電機工学部、電子学部、IT学部、化学部、数学部、物理学部などです。

私たちは日本の教育分野のNPOとして、ベトナム人青年の夢の実現を支援しています。

《卒業生を採用いただいている企業》
採用いただいた全国の日本企業は東証第一部上場企業2社を含む約50社以上あり、多くの企業規模は従業員約50名から3000名規模のまさに中堅企業です。半導体、半導体装置、精密機械、金型、電機、機械設計,IT系(システム開発、組み込み系、ソフト開発など)、ロボット、鉄工・溶接など多様な分野の企業です。社名など詳細は、WEBサイト www.vietnam-waseda.org をご高覧ください。

《当校は日本企業に正社員エンジニアとして就職するための学校です。》
当校の学生は毎日8時間、約9ヶ月間にわたり日本語コミュニケーション教育、企業内コミュニケーション教育、技術者教育などを猛烈に学習します。合計は約1560時間です。卒業時は日本語能力試験の3級以上で2級の下のラインが平均値(N3)です。優良学生はほぼ2級レベルです。当校では夏、秋、春の年3回卒業があり、日本企業は各卒業前にハノイで面接し、採用します。当校の特徴は研修や派遣ではなく”御社の培ってきた技術を承継できる若手の正社員エンジニア”を採用できるということです。つまり、長期雇用が見込める事です。
費用や手続き、ビザ関係につきましては、お問い合わせください。
お問い合わせ abevci@vietnam-waseda.org
090-1767-7063 (日本の携帯 阿部) 以上

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■以下は近日、国際協力基金主催の「日本語教育国際シンポ」で講演する際の僕の予定原稿です。ベトナムの大学の日本語学部に向けた提案でもあります。

『日本に渡航して優良企業に就職するということを学生の目標とさせ、そしてその就職を確実に加速させるために』
〜〜学生の自己実現の第一歩は就職にあり〜〜

私は1970年代に就職関連の専門企業「リクルート」に勤務しておりました。リクルート社とは1960年当時、東大生であった一人の学生のベンチャー起業として出現し、今では巨大な情報企業となって日本では誰でも知っている、また、学生と企業には無くてはならない企業となっています。さて、その後、私は1980年マーケティングの企業を興しました。その仕事の関係で私は1993年に初めて、ベトナムの地を踏みました。そして2,3年後からベトナム交通運輸省、ベトナム外務省、MPI、観光総局(当時)、情報文化省の日本国へのパブリック・リレーション(PR)を各省の依頼に基づいて展開してきました。更に2005年、「理工系優秀学生の夢を実現する就職プレップ(準備)学校」として、当校を開校し今に続いております。これは、日本とベトナムにおける「就職と若い労働力」のマッチングを構想した2006年の両国政府の「日越パートナー宣言」の方向に沿ったものとして継続しております。

学生による「企業への就職活動」というものは、どうも偏った方向に流されていますが、情報と技術(知識)と人間形成が問われる大学生活にとって重要な活動なのです。スポーツマンが、努力し鍛錬するのと同じように、科学者が実験を来る日も来る日も地道に実践するように、就職活動は学問と同様で、「人間にとって仕事とは何か」を問い、自分にとっての適職は何なのか、それは社会に貢献できる仕事かどうか、あるいはその企業の財務内容はどうか、環境対策はどうかなど、自分の人生を深く考えることから情報の収集力を培うなどまで学習できる重要な分野なのです。つまり、個々人の就職であっても、就職するということは、実はその社会全体の文化と技術の承継であること、同時に「自分の人生と仕事」について学ぶ新しい専門領域なのです。「面接時に礼儀正しくしなさい」などと教えるようなレベルを申し上げているのではありません。つまり、就職活動は「仕事と人生」というくくりでの新しくて、かつ学生に必要な授業の領域になっているのです。従って授業として4年間、専門的に継続的に学習するカリキュラム編成が希求されます。そして、それを支援する新組織も必要になりましょう。新しいスーツを着込んで、焦心しながらエントリーした企業周りをするのが「就活」の本体ではないのです。

日本では、1970年代初期から、私がいたリクルート社が席巻し、政府の仕事斡旋センター「職安」だけの案内でない、もっと大がかりな「就職という社会の取り組み」が、社会各層に浸透し始めたのでした。特に80年代からは大学の社会における位置が大きく変動し、「大学は象牙の塔であり、学問を修めさえすればいい」という位置から、「社会に貢献する高度知識人財の育成」という方向に向かったのでした。従って、「卒業すれば、大学の役目は終えた」、から「学生一人一人の能力に合う適職」を提示し、就職して新たな人生を始めるまでを、大学が支援する体制に大きく変わったのでした。もちろん、個人の自立性を考えると、賛否両論がないわけではないですが、研究者にならない大多数の学生の社会への流入と受け入れは、社会的な要請として、その体制が新たに秩序付けられてきたわけなのです。

1960、70年代には、大学の中の掲示板に企業からの社員募集の紙を張り出すだけそして、企業ファイルを見られるだけの「就職部」はありました。が、80年代以降「キャリアセンター」として、大学側からの積極策が具体化してきました。大学として正式に就職活動を支援し始めたのです。また、変わったのは大学だけではありません。企業も採用をより戦略化し、本格化したのも同時代です。つまり、人材は、「人財」であること。企業に有益な優良人物はなかなか見つけられない現実の中で、如何に戦略的に獲得できるか・・・。企業は「人」で成り立っているからです。日本では大学、企業共に「人財」を通じて大きく、変容しました。が、それは80年代です。そんなに昔ではありません。

私たちは、2005年の開校以降、現在までにBK(ハノイ工科大学)の学生を中心に140名以上の「決意した青年」を、日本全国の優良中堅企業(メーカー)に、正社員エンジニアとして送り出してきました。それも、日本企業の現場の中で、新人エンジニアとしてすぐさま稼働できる人材を送り出してきました。このことはベトナムの政府だけでなく、日本の工業関係団体、中小企業の団体から、大いにご評価いただいて居ます。今まで3回、4回と継続的に採用いただいている企業、既に15名もの卒業生を採用いただいて居る企業なども在ります。企業規模は、50人から3000人ぐらいの日本の産業の裾野(すその)のまさに中核的企業群です。その中には東証一部上場企業も2社含まれています。

日本の法務省は、現在ベトナムの理工系出身者だけでなく、文化系出身者の日本での就職も大幅に認める傾向に変化してきました。「人文知識国際業務」というカテゴリーのビザの給付です。ただこれだけですと、まだ、通訳や翻訳などの範囲に収斂されるので、やはり、「日本の銀行が銀行の業務の担当者として」「証券会社が、証券業務の担当者として」「「出版社が、編集者として」ベトナム人が採用されるための育成体制が今後問われることになってくるでしょう。BKのIT学部では、既に特別のクラス編成をして、「日本語でITを学び実習する」授業が5年前から始まっています。

さて、セミナーやシンポジウムは議論するだけに終わるモノが多い。が、このシンポでは、「執行」を念頭において、具体化を話し合いましょう。
1 日本本土の日本企業就職を目的とした「毎年100名計画」を立てま
しょう。ハノイの日本企業へ就職するだけではなく、正社員とし
て採用され日本へ渡航・就労する学生100名の育成計画です。

2 そのためには、日本語学部の一年生入学時点から、「日本にいく
学生のための特別な授業」がカリキュラム化されなければなりま
せん。内容はまだ、研究中ですので、ここには記載いたしません。

3 更にそれらの学生を支援する体制が必要です。いわば「日本語学
部キュアリアセンター」です。ここでは、日本政府のお墨付きを
いただけば、就職問題が解決するモノではありませんので、マー
ケティング的戦略と中小企業との地道な組織化の活動が必要です。
ここでは詳細計画を明らかにする時間はありませんが、大学が本
格的に動き始めたとき、中小企業のパワフルなニーズの大風が吹
いてくるはずです。
日本社会は、誠実で頑張るベトナム人に好意を持っています。
そして、期待しています。また、現在、残念ながら、日本では企
業が求める優秀な人材が激減しています。

日本企業は、日本語の能力の高さだけを求めていません。むしろ、「伸びしろ」と言われる、未来の可能性を求めています。ここに現実の真実のポイントが潜んでいます。 さあ、動き出しましょう。 以上。

2010年12月9日木曜日

ジョン・レノンの死と僕らの死

12月8日は、言うまでも無い、ジョンレノンの命日だ。今でも鮮明に覚えている。1980年12月8日日本時間4時頃僕は何故か喫茶店にいた。ある会社のお客様と一緒だったと思う。店では何人ものサラリーマンたちが、いつもより新聞を大きく広げ、紙面を目で追っていた。そういう人が、4人も5人もいた。ちょっと異様な風景であったように記憶に染みている。で、紙面を大きく広げている人たちは、集中していながらも連れの相方となんとかなんとかと、話していた。普通じゃあないのだ。紙面の端に大きな黒地の大見出しが見える。大きな事件か事故の際にみられる紙面のレイアウトとレタリングだ。ぼくは、ためらうこともなく、隣のボックスの30才ぐらいの新聞を大きく広げている人に聞いた。

「何かあったのですか」と。彼もためらうことなく、むしろ第一発見者のような顔つきで僕に言った、ジョンレノンが殺されたんです、と。そうか、やっぱり大事件が起きていたのだ、それもあってはならない事が起きたらしい。ジョンが撃ち殺されたのだという。僕は隣のボックスに身を乗り出してその答を聞き、紙面の一部を見せてもらっていたので、反射的に僕のテーブルの対面にいる親しいお客さん、彼も僕の世代だ、に振り返って「ジョンレノンが・・」と言ったら、彼もつぶやくようにあああ、と血相を変えた面持ちで言った。これから来る時代の不安というか、黒い色の苛立ちが1980年12月8日のこの新宿の喫茶店の空気を支配していたとその時感じた。

その後の記憶は一切無い。その夜はどんな夜を過ごしたのだろうか。当時妻晃子の実家の一角に居を構えていた僕は、多分ビートルズの曲など聴かずに彼女と過ごしたと思う。沈黙しジョンレノン以後の世界について話していたのかもしれない。聡明な晃子は彼の死に振り回されることないように僕に何かやさしく意見していたんじゃあないかと思う。ともかく、まったく、記憶の破片もない。ただ、紛れもなく記憶しているのは次の朝に車の助手席にいたことだ。僕はカーラジオから流れる追悼の「イマジン」や「マザー」を聞いている訳でもないのに涙が止めどなく溢れ静かに泣きながら、目的地に向かった。もちろん、なぜ車に乗っていたかも忘れた。電車のつり革に掴まりながら、車窓から見える朝の明るい朝日に描かれた移り動く風景をぼんやり見つめながら涙していた記憶もあり、同じ日なのか、次の日なのか。

ここに、多くの友人たちの死も書こうと思ったが、まだ時期は早すぎるらしく、キーボード打つ指先に力も魂も入らない。情景だけが浮かんでも、文はまったく浮かんでこない。ちょっと中断。と言うより、中止の模様。

2010年12月3日金曜日

50年前のアンドロイド

■アンドロイド。何となく語呂が良く、未来がイメージできる様な言葉だ。ご存じのようにアンドロイドはグーグルの携帯用の新プラットホームだ。リナックスと同様のオープンソースなので、グーグルは、無料でアプリ各社に解放している。ハノイでも、アンドロイドのアプリ開発の会社も増えたようだ。SKYPEも使える様だから、通信の環境はより「無料化」に向かって進展してゆくだろう。このアンドロイドを導入した「au」の幹部もインタビューで、今後通信は無料になるだろうといいきっているし、トレンドはその無料の方向で大きく確実に歩み出したといえる。そういうインターネット・通信世界の怒濤の流れは、やはりマイクロソフトのビジネスモデルを既に過去のものにしつつあるね。

アンドロイドの広告は、あのレディーガガだ。中高年の皆さんも駅や車両のポスターで見かけるやや怪しげ、と言うより病的にさえ見受けられ、ちょっと硬質のソバージュのヘアーの女性のあの写真だ。目に隈ができていて、それは何か秘密めいている。「解禁」という文字もポスターに刻印されており、これは「通信がスカイプに依ってすべて無料になる」という今までの常識からの解放を暗示しているようだ。彼女はもともと1960年代末からイギリスで生起したグラムロック系の流れのアーチストでもあるので、このアンドロイドの広告はインターネットの原点であるヒッピー黎明の思想を垣間見せるコンセプトでまとめている様だ。ガガの化粧は60年代の平凡パンチなど当時の尖ったメディアにいろいろ登場した「思索する女」「闘う女」「飛ぶ女」「解放された女」の系譜をたぐり寄せ演出しているかのようだ。最近の「女子」とは、真反対の位置にある女性のイメージである。だから、僕のような60才代には、好みだし、理解もできる格好良さである。ああいうイメージの女子大生は、当時早稲田とか多摩美、武蔵美、日大の江古田あたりにわんさか居たものだ。

だからアンドロイドの言葉自体に懐かしさもある。僕は小学校高学年でこのANDROIDを知っていたからね。アンドロイドはヒューマノイド、ロボイドなどの造語と共に手塚先生の「鉄腕アトム」と、横山光輝さんの「鉄人28号」で既に登場していた。だから、ちょうど50年前ということになるね。これを読んでいるご同輩は「そうそう、覚えているよ」という人が多いに違いない。人造人間を意味するアンドロイドは音も意味合いも、インパクトがあるうえに記憶に残りやすい音声の構成になっている。一番多感な小学校の時に出会った、今となっては「懐かしき未来」。僕の記憶の海の底で静かに眠っていた言葉である。

■だんだん本を読むスピードと意欲が減退している様な気がする。半年前のこのブログで人生を終えるまで本をあと何冊読めるかをざっと計算したことがあった。そのときの基礎数字を年100冊とした。ここが大間違いだなあと最近とみに感じ始めた。昔は年に200〜300冊の本を約40年間買いまくり続けてきたとおもう。でも、今と違うのは本は読む本とは限らず、見る本もたくさん買っていた。多いのは美術書、建築書、写真集などが。また、たまにしか使用しないのだが、参考本、事典類も随分買った。また、買ったはいいが、意外につまらないので、うち捨てた状態のままの本も少なくない。目次とラストの解説ぐらいで放棄した本だ。従って、心してほぼ読了してきたのは、年100〜150冊位なのだろうか。

であれば、今後読む本は老人の僕にとって年間100冊で在るわけがないので、基礎数字を大幅に見直すことが必要であろう。最近はお金がないので、美術本、画集、書道書、写真集などは、全然買えないし、参考の本も買っていない。お金がもったいないものね。妻が生きていたときは、「しおこりもなく余計な本」を買ってしかられたものだった。いまごろ、晃子(てるこ)のいうことを聞いても遅いのだが、ともかく、現在は読む本しか買わない事に徹している。まあ、年に40冊だろうなあと、大幅に基礎数字を削減するね。また、今後何年生きるかだね。また、本を両手に持って、読書できる肉体をいつまで維持できるか。iPad等を使うようになるかもしれないが、もっと老人用に軽量になるとありがたいな。それはそうと計算する。一応、いきなり死ぬかもしれないが、元気さがまあまあ維持できれば、20年後の82才まで読み続けられると想定したい。であれば、40冊×15年=600冊、で、77才以降、量を減らして・・・24冊×5年=120冊。

ふむふむ・・というより、まいったなあ、というほか無い。この大事な人生で、人生あと僅か720冊しか読めないんだとさ。非道いなあ、神も予想以上に無慈悲だ。ほんとかよ〜、って感じです。目の前真っ暗くらだぜ。前は1500冊ぐらいの予想で、それでも、愕然ときて、読書の対象をもう日本の古典や名著といわれる作品だけにせざるを得ないと覚悟したわけだが、720じゃあ、どうすればいいのか。とんと見当がつかない。で、そろそろと思い昨日「天皇の世紀」の第五巻、第六巻を買った。これは12巻もの故、やっと、半分。で古典に絞らざるを得ないと思っても現代人もなかなかな著作を世に送ってくるので、また、幾つか、馬場あたりで、何冊か買ってしまった。「ヌーベルバーグの時代」(紀伊国屋書店)、書店をパトロール中にタイトルで衝動買い。本の装丁で買ったしまった。で帰ってから見ると、あれれれ似たような本が前も何冊か買っていたし、データ中心のもので、ちょっとしくじった。内田樹「武道的思考」(筑摩書房)の新「筑摩選書」の第一冊目だ。期待して買った。この新しい筑摩の選書シリーズは期待できる。筑摩はやはり流石だぜ。玄侑さんの「荘子と遊ぶ」、橋本治の「日本芸能史」、多木浩二さん「暴力論」、松井孝典さん「地球学的環境論」、池田晴彦さん「生きているとはどういうことか」とか、刺激的な本の予定リストが並んでいる。多木さん、松井さんは、かつて仕事でご一緒した方である。松井さんのは題名が貧相だね、彼らしくない。

東浩紀「日本的想像力の未来・・クールJAPANの可能性」(NHKブックス)、長谷川三千子さん「日本語の哲学へ」(筑摩新書)、フランスガリマール社の翻訳もの「フェリーニ」(祥伝社)、村山斉「宇宙は何でできているのか」(幻冬舎新書)、柳瀬尚紀「日本語ほど面白いものはない」(新潮社)も購入した。東さんのは、俊英の日本人論を読みたくて。偉大な映画監督フェデリコ・フェリーニの関連本は、自伝も含め結構持っているが、今回も何となく手が出てしまった。それの版元の「祥伝社」はかつて最悪雑誌「微笑」を出していたはず。ちょっと方向を変えたのかな。長谷川さんのは、読み始めた。和辻哲郎と対峙した展開で、魅惑的だ。東大のIPMUの初代所長村山さんの素粒子の知識にわくわく、これは新聞広告見ていて予定して買った。柳瀬本は、これは予定外だが、小学生との対話は僕の目線を引きつけた。さあ、早くも古典と名著だけで突っ走るとの決意も無理のようだ。

2010年11月21日日曜日

大卒者の就職率57%の実相 / 「天皇の世紀」


*当ハノイ日本アカデミーの教職員のメンバーの久しぶりの記念写真です。ハノイビンコムタワービルそばのレストランにて。食事の後に勢揃いです。

■さて、就職氷河期の再来らしい。前より深刻の様だ。企業の採用意欲の減退とか、採用不能な環境は、我々海外で優秀青年の就職を日本企業に提案している学校にとっても、バッドニュースだ。暗澹たる気持ちになってしまう。企業の特に中小企業の採用意欲が後退することは、当校のような海外にある就職プレップスクールにとっては、困った事態なのだ。採用数が、目に見えて激減する訳だからね。でも、それだけではないんだ。今度のことはもっと複雑だ。むしろ、その数字とは逆にベトナム人の採用は今夏から、漸増しつつある。問題はこの数字が一人歩きし、日本のアジアや世界でのプレゼンス(存在意義、価値)の低下に直接繋がってしまう事なのだ。

日本のこの20年間の長期低迷は大変知られており、ベトナムの大学生なら大抵知っている。景気は上下し、今は不景気。だがまた、しばらくすれば上昇すると、アジアの若者が「今までのルール通りの」景気として理解しているのなら助かる。それならプレゼンスの低下には繋がらない。でも20年も低迷が継続し、ソニーに「冴え」が無くなり、トヨタも(誤解も多いが)権威が落下し、中国とかロシアとの島や国境のトラブルも解決不能で、ハーバード始め海外の有力大学に行く日本の若者が減少、毎年3万人の自殺がある国、アニメやマンガ、ゲームのサブカルだけが孤軍奮闘している日本の今の姿を、ベトナムの感度の高い青年たちは凝視している。こういう時期にこの57%の数字の作り出す影響は痛い。

日本の裾野の広い産業構造と高度で研ぎ澄まされた技術力。品質の高さとデザイニング力、もちろん今でも世界一であろう。欧米の老舗も舌を巻くクッキングの世界とホスピタリティーとサービス分野、これも今でも誰にもとやかく言わせないさ。「クール・JAPAN」も「カワイイ」も、優れた日本の文化だけど、いわずもがな日本の伝統的芸術と工芸品は今も圧倒的魅力にまだまだ満ちている。でも、アジアの青年たちとか世界のマスコミにとって、今の日本は退色しかかった形容しがたい社会に見えているのだと思う。輝きがないというか、冴えがないというか、間違いなく「不思議さ」が消え、感動を与える躍動感が減退し、低下しているのだ。

先日ハノイで日本の文科省関係のJASSO主催の「日本留学のためのイベント」に行った。僕は初めての見物なので、驚く事も多かった。文科省の「30万人留学生受け入れ計画」が仕分けの嵐の中でまだ生きているかどうか解らないが、会場には有力国立大学はじめ、私立も有名大学が勢揃いしていた。京大、東北大、大阪大、奈良女子大など最有力大学がブースをデンと構えていた。早稲田、慶応、立教など私立の雄と言われているところもかなりブース展開しており、日本国内の日本語学校や専修学校含めて多分100校程度は出店していたと思う。この催事の近年の大学などの出店数の増減と、来場のベトナムの高校生や大学生、親御さんの数字がどうであったか、まだ伺えていないが、印象としてはそれなりの混雑で、盛況と見えた。とくに、集中していたのが京大、大阪大、東北大と、早稲田慶応で、人だかり状態。で、反対に気の毒にもお客が誰もいない暇そうな大学や、日本語学校も多かった。つまり15〜20校ぐらいの有名大学に集中の印象であった。学生(お客さん)が、じり貧だからアジアの金持ちの子弟を入学させようと目論んでいる三流大学や同レベルの専門学校の意図は、ベトナム人の青年たちに既に見透かされているようだ。参加関係のデータが今まだ無いのでこの体験を正確に分析できないが、「日本留学試験」(JASSO主催)の高得点を獲得し有力大学を目指すベトナムの優秀層の日本への関心が、そう一挙に落下している訳ではないようだ。ちょっと安心。2006年秋に「日越パートナー宣言」を交わし、日本とベトナムが若者の人材供給と雇用促進で提携し、お互いの互恵関係を定めた国同士の良好な関係の現れの一つなのだろう。

この国の大学生の就職率が最悪の57%だと言う。その数字の出し方は、卒業生総数から、大学院や留学の進学者を引いた人数を母数にして就職者数を割ったものだ。マスコミによると毎年20パーセント程度は、学校に報告もないグループ、つまり、「ふらふら」している遊び人から、世を捨てて閉じこもっている人、フリーター、公務員試験浪人までおり、したがって、天井数は80%らしい。であれば、就職率80%を誇ったバブル時代は、三流大学やインチキ大学も含めて、実態はほぼ100%誰でも就職できたということになるのだから、相当凄い。それはそうと、学生の報告に依っているので、一人三つも四つももらった場合の内定数も混在しているので、知っててそれを含めて就職率をアップさせている不埒な三流大学も数多いので、就職率自体が、数字的に根拠が薄いんだ。有力国立大学、有名私大は、正式に数字を出していないようだが、毎年進学者、留学者を含んで70〜80%は就職できている様だ。大学院進学の数字は把握しやすいので、これ以上にはならない天井数字が80%である事を考えれば、有力大学とそれに近い伝統的大学の就職希望者のほぼ100%が本年も適当な企業や公務員、団体に収まっていると言うことだ。歴史的最悪数字の57%は、ここではピンと来ない。

以前テレビのニュースを見ていたら、女子大生数人がインタビューを受けていた。画面では、ヨーロッパを国名と思っていた者が一人、インドだったか国名は忘れたが、あるアジアの国を探すのに世界地図でヨーロッパやアメリカ大陸あたりばかり見ていて、見つからないと嘆く者一人。インタビューのアナウンサーも予定通り(シノプシス通り)女子大生がバカなので、ニコニコしていたが、あまりにも非道いので、心配になり正解が出そうな次の質問を放った。「日本はアジアにありますか?ヨーロッパですか。アメリカ大陸ですか、南極大陸にありますか?」4人は「アジアだよね。ヨーロッパ?中国だっけ?南極はちがうよねえ・・」とゾンビに肉体ごと乗っ取られたような答を4人で内部議論していた。おいおい〜、これが女子大生の実態とは言いたくないが、少なくともこのレベルは現実に居るのだ。足し算、かけ算ができない大学生。大学入学後に、高校の教科書を使って、復習の授業をやらざるを得ない一部の大学群。本当に無残だ。日本には現在大学が750、短大と他が400位で、つかみの数字で合計1200校らしい。ベトナムは8600万人で、大学が120校、そのうち首都ハノイに35校ある。全く環境が違うので、安易に数字だけを並列できないわけだが、ベトナムはまだ、優秀で意欲のある者だけが、大学に行く社会なのだ。

で、テーマは就職率57%の事だ。仕事が無い、無いと言いながら、何処まで真剣にアタックしているのだろうか。中小企業のメーカーやベンチャー、これからの介護・CO-メディカル系、海外の日本企業、海外の地元企業、若い内だけでもガテン系・・などに面接にも行かないで、困った困ったと親子で嘆いている輩が多いのではないか。大田区、墨田区、東大阪などの日本産業の裾野をささえる中小メーカーには、世界的な技術が宝のように眠っている。なぜ、そこのドアーをノックしないのだい?ドアを開ければ、多様な仕事場が待っていよう。少々給与が少なく、会社は小さくとも、自分がひたむきにがんばれば、自分の提案を社長が直に認めてくれる、そういう職場が無数に存在している。何故本気になって、自分の実力を発揮できる仕事を探さないのか。なぜ、溶接や旋盤をやらないのか。大卒者がそれをやっていけない法規があるのか。実際の天上数の80から57を引くと=23% この23%は、文科省の無能な政策のため、無理矢理に大学生にさせられた犠牲者なのだ。本当に気の毒としか言いようがない。上記の女子大生4名もその犠牲者なのさ。そのうえ、近年は話題のゆとり政策のこれも犠牲者の何百万人が、去年あたりから社会に出てきたようだ。前途洋々として、社会から祝福されるべき青年たちが社会全体から、さげすまれバカにされている時代って、今まであっただろうか。これは既に喜劇の領域だとしか言いようがない。

先ほど、ハノイでの「留学イベント」の模様を語った。特に優良大学にベトナム人の高校生、大学生の親子連れが殺到していたと書いた。
僕はいままで、東北大学の工学部大学院のハノイ試験実施プロジェクトに関わったので、知っていたが、あの優秀で有名な東北大の工学部の大学院でさえ、学生の質が低下しているという。その質とは、情報量とか、知的能力と言うことではなく、若者が持つ特有ながむしゃらさ、熱気などの精神に関係したことだと、担当の教授は僕に何度も話した。確かに”数学を解析するのにも豪腕さが必要”とよく聞くね。そういうがむしゃらなパワーとかハングリーさ、お腹だけでなく知識に対するハングリーさに充ち満ちているのが、青年だよね。そういう青年・学生を東北大工学部大学院は具体的に東南アジアで探し始めているのだ。そこでその会場の幾つかの大学ブースで担当者に聞いてみた。総じて大学関係者の意識は東北大学と同様な考えのようだ。アジアとの具体的交流を始めたいという平板な答を言う人も多いが煎じつめると、優秀なアジアの青年を入れる事での大学の質の防衛し、世界の荒波に対抗しようと言うことであろう。たいした根拠のないデータだが、東大が世界で20番そこらで、早稲田なんて300番以下程度だからね。でも、いろいろ話をお聞きすると、大学自身が何処まで本気になっているのか、まだ不明だといって良い。

僕は、今就職率57%という「就職難の国」へ、ベトナムの優秀でやる気のある青年エンジニア候補者を送り出している。23%(80−57)の卒業生つまり、15万人ぐらいの大学生が就職できていない現状がある一方、国内の日本企業は中国人、韓国人、ベトナム人、インド人などの優秀者をどしどし、採用している。ワーカーも含めると中国人は70万人、韓国人は20万人ほど日本に在留している。楽天の本社などは、今春400名ほど外国人を採用したと聞いた。つまり、この57%の就職率の実相はどういう事なのか。

1 私の知っている中小メーカーの社長さんたちの主な言を借りれば、こうだ。「まず、エントリーも、面接も数が少ない。もちろん、ゼロではないが、面接に来た人の質が問題だ。好意的に見ても、1年以内に辞めそうな人物か、仕事の初歩さえおぼつかない感じの人間が多い」という。これは大卒、高卒を問わずだ。若者をここで非難するつもりは毛頭無いが、面接に来ても、採用の基準に達していないのだ。どんなに小さい会社でも、しっかりした独自の採用の計画や基準はあるからね。

2 日本の中小企業で、技術を承継し、品質を守ろうとしている企業は、はっきり言って、その就職できない23%という15万人を採用したいとも、しようとも思っていないのだ。だって、大企業に使えない学生は中小企業だって使えないよ。中小企業には中小企業の誇りと伝統がある。逆に会社が小さい分、人材の質の低下は企業としての致命傷に繋がるのだ。例を言えば、日本の産業を特に牽引してきた自動車産業はガソリンから「燃料電池」や「電気」へとエネルギーが変わるだけでなく、電気自動車などはエンジンが不要になり、1台の自動車の部品が3万個から1万個に激減するのだ。すなわち日本の産業構造が大きくシフト変動するのだ。したがって、産業の裾野が変わるこの大きな変革期にバカは採用できないのさ。むしろ、下請け構造から脱しようと、より良い人材を求め始めているんだ。そこに学問の基礎部分が不安な「ゆとり世代」を押しつけられても困るのだ。余裕の大企業が彼らを引き受けるべきだという政策提案したいと誰かが言っていた。

言いたくないが、80−57=23%の中に入ってしまった学生は、中小企業も彼らに採用意欲は無いと言うことだ。冷静に受けとめてほしい。いいかい、世界中に面白くて、意義のある仕事は山ほど転がっている。発想を変えてくれ、疲れた学生諸君。
学生の諸君、ごめんなさいね、バカ呼ばわりして。本当に気の毒に思う。君らだけの責任じゃあない。自分を信じて、別の方向を模索するといいよ。突飛と思われようが、新しいことを探せよ。歴史上始まって以来じゃあないかなあ。若者が大人にバカにされているなんて、あってはならない事態だぜ。歴史はいつも若者が大人をバカにし無視して、時代を超越し新しい時代を築いてきたものだ。三井物産にせっかく入ったと言う青年が海外駐在をいやがったり、アメリカを始め世界へ出ていた留学生が激減している内向きの時代の話題を聞くたびに悲しいなあと心から思う。

この「日本の大卒者の就職率57%」は世界のジャーナリズムの中で行き交うだろう。実態を物語っていないこのデータがアジアの青年たちの日本への興味や渡航意欲を減退させて行く。僕は、当校の優秀学生たちに「日本の大学生の70%は君らの競争相手じゃあない。心配するな。むしろ、日本に居て頑張っている何十万人かの韓国、中国、台湾、インドの青年たちが怖い敵だ」と叱咤・アドバイスしている。

■大佛次郎「天皇の世紀 文春文庫十二巻」の第四巻の130頁に来た。やっとだね。このブログで確認すると8月4日に読み始めたようだ。10月10日のブログには、第二巻の320頁とあるから、まあ順調に読み進めている。マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」は、前に書いたようにイントロが平板なビジネス書のようで、僕の読む気をそいだので、現在は気の毒にもトイレで読む本にランク下げ。トイレじゃあ、小用では流石本は読まないので、読書は大便に限られるわけだが、長くて10分だから、そうは進まないね。前田愛の「幻景の明治」(岩波現代文庫)は、7〜8年前に買った本だが、読み直していると、新たな発見がある。いま、僕自身が幕末・明治の本を立て続けに読破しているので、理解がちょっと進んだ感があるね。天皇の世紀の第三巻と第四巻は桜田門外の変を含む水戸の怒濤のような攘夷の風が、長州や薩摩を動かし、島津久光がクーデターのように上洛し、その後に江戸への進軍。力付いた朝廷・禁裏勢の巻き返しが開始される。禁を解かれた一橋慶喜。大久保一蔵(利通)や岩倉具視、伊藤博文、桂小五郎(木戸孝允)下級の官僚・武士たちの台頭と、東善寺襲撃事件とか生麦事件とか外国人排撃テロルが相変わらずの詳細な資料の引用でリアルに示される。

大佛次郎関係を調べていたら、この「天皇の世紀」の第八巻を読んでいるとか言う人のブログがあり、「龍馬暗殺のところが以外にあっさりしていた」と不満げに書いていた。バカじゃあないの、この人。大佛さんが明治革命という大河をどのように表現するか、想像できていなかったのかよ〜。龍馬にゃ悪いが、ここは2〜3行で済ましていいのさ、僕はそう思っている。司馬遼太郎が神話化してしまっただけさ。今回のNHKもやり過ぎだよ。幕末の先鋭的青年は龍馬だけじゃない。勝海舟の「氷川清話」(江藤淳編)では、龍馬は西郷の子分扱いだぜよ。

2010年11月10日水曜日

VCIスタッフの日本研修(写真とご報告)







10月27日から11月4日までの9日間、当校幹部職員の日本研修が行われました。現地会社のパートナーで社長のブオンさん(日本留学志望の娘リン12才も同行)と当校のメインのスタッフのゴックさんの2名が来日し、日頃お世話になっている顧客様の会社を7社訪問、また、VCI関係者、留学事業関係者、新事業関係者の方々とも懇談できました。研修のテーマは、ご挨拶と各社を取り巻く現環境に付いてお話しをお聞きすること、また、各社でがんばっている卒業生を職場で激励することでした。各社の社長さん、会長さんの好意溢れるご対応で、実りある研修となりました。本当にありがとうございました。更に、京都と東京で、地方からも駆けつけた卒業生十数名とも懇談できました。
■写真は上から1:静岡の株式会社恭和(車部品設計など)の本社前で、太田社長(ワイシャツ姿)、奥様を挟んでフエさん、クワ君。2:興南祭りに参加して。倉敷の興南設計株式会社(機械設計)の本社まえで。森社長と奥様を囲み、ツック、ルアット、ロンの各君。3:姫路のアユミ工業株式会社(半導体装置、真空装置)の阿部会長を中心にクオン、チェンの両君。左は奈良井さん。4:大阪のヨコタ工業株式会社(エアーツール)の正門にて、真ん中の横田社長とホアン君。5:株式会社電業(鉄道車両機器)の工場入り口にて、濱谷社長を囲んで、キエン、ギアの両君。6:株式会社関西セイキ(医療機器など)の小菅社長(真ん中)と設計部門の方々。社長の向かって右後ろにクアン君とダット君。

2005年6月の設立以来、当校の卒業生の日本渡航は、すでに140名を突破しました。3回、4回と採用いただいた企業さんもすでにあります。今まで15名採用いただいて居る東京の半導体関連企業もあります。すべて、労働(技術)ビザによる正社員エンジニア採用です。私たちNPOの最終目標は、ベトナムの中小企業の創設と育成です。つまり、このがんばった彼らの多くが、10年後夢を抱いて母国にもどり、お世話になった日本企業と一緒にベトナムの産業の裾野を広げていくことです。がんばれ、ベトナムの若きエンジニアたち!日本の中堅メーカー様には更なるご理解とご協力を心からお願いいたします。  * MSI(高畑所長)さんと、また関係者の方々とのお写真はレストランや居酒屋などでの写真はたくさんあるのですが、今回掲載していません。済みません。

2010年10月24日日曜日

「かわいい」と経済学への信奉

僕がよく見る番組の一つにNHKの「東京カワイイ」がある。沢村一樹とか、一緒の女の子たちのキャラが不思議と良い。「カワイイ」という概念は「COOL JAPAN」と同様にいま、その「感じ」というか感覚は世界中の若者を席巻している。この番組は次週からベトナムでも放送が開始されるらしく、そのオープニングに日本にいるベトナムの「カワイイ」が登場する。それに選ばれたのが、ハノイの当校に長くアルバイトしてくれ、その後に横浜国大の大学院に入学して、引き続き東京の当オフィスでも1年ぐらいアルバイトをしてくれたPちゃんなのだ。美人で物怖じしなく、日本語と英語も堪能、その上優しさに溢れている最高の女の子だ。半年前に高田馬場で一度食事したぐらいで、去年からここ1年ぐらいはウチのアルバイトから離れているので、最近の彼女の環境をよく知らなかったが、本日の「東京カワイイ」を見ていたら次回の予告編に突如出て来た。流石の僕も驚いたぜ。そして、深夜「おめでとう」の電話さっそくしたさ。

ベトナムは今でも農業国である。だから、ベトナムの若者の親世代で、企業に居る、あるいは居たという人はかなり少ない。社会主義と言うこともあって、50才代以上の世代では、公務員やそれに準じた関係団体や教員、軍人というサラリーマンと小さな商店主以外は、大半は農魚民と言って良い。だから、若者は親の世代から「商売、ビジネス、経営、マネージメント」の経験や知識、文化、感覚などが継承されていることが本当に少ないのだ。でも、ベトナム戦争がおわり、ドイモイ政策がはじまって20年以上になるので、都市部の新しい世代には、職業の分野も広がりそれぞれに関する新しい伝統とその継承ももちろん生まれていると思われる。だから45〜50才代の比較的若い親世代は、多様な仕事に就いている場合もあるだろう。がしかし8600万人という東南アジアで最大人口の中(ちなみにタイ人口が6500万、カンボジアが1500万、ラオスは500万人)では、そういう多様な職業人はまだまだ、大都市に限られているだろうと思う。

多くのベトナム人は最近、ベトナム国内で見られるアメリカ、フランス、韓国、中国のテレビチャンネルでいろいろな仕事や企業、ビジネスを見る機会も多いはずだ。しかし、見てるだけなので職業感を育成してゆく様な認識にはなっていないね。その上、各大学は、カリキュラムが古くさく教条的で、「進取の精神」が欠落しているので、授業の中で、多感な学生の心を揺り動かす職業:仕事と出会えるような環境にほとんどなっていないから。煎じつめると大学と大学の教員が学生の就職にほとんど関心がないからである。その点、理工学部の学生は、文化系に比べて「最新技術」など自分のこだわりや確信を持てる機会が多いので、当校出身者を見ていても、まあまあ安心できる。従って、文系に話を移す。例えば、日本の場合、IT企業のオペレーターやエンジニアで、文化系出身者も多い。特にアプリ系なら、比較的文化系の人間が入りやすいと聞く。日本では別に珍しいことでは無くなった。でも、ベトナムでは、発想上もあり得ないし、学生自身もまったく、そういうことは視線に入りようがないはずだ。以前もこのブログに書いたが、僕の周辺の文系の留学生は何故かしら、全員「経済学」という特徴のない分野で日々研鑽に努めている。僕はお節介とは思いながらも、そんな分野勉強しても、役に立つとは思えないし、ベトナム人同士の「経済学」競争も大変だから、経済学部の大学教授やベトナム政府の経済系高官を目指すのならともかく、ここは日本なのだからさ、歌舞伎、浮世絵、華道や茶道の研究するとかさ、あるいはアニメ、マンガ、ゲームなどのサブカル、またはジャーナリズム学、観光学、交通政策、環境政策などなど、学ぶべき分野は広大に存在しているぜ。君の未来は無限に広がってる。とうんざりしながらも、何回かアドバイスしたんだ。

まあ、でもね、僕の周辺の彼らは多様で新しい職業感を持っていない「親の意向」とか「経済は下部構造だから、基本だ」というマルクス主義的なベトナムの知識階級の既成概念の頑迷さのなかで、悩むけれども変えることはなかったね。余計なお節介なのだが、人生の先輩として、また「リクルート社」にいたプロとして、口説いたりしたわけだが、そこはどっこいベトナム人は頑固なのだ。戦術的にはひどく柔軟で、僕など卒倒するほどの斬新発想体験を何度もしているが、「目的や目標」に対しては頑固一徹なのだ。ご多分に漏れず横浜国大のPチャンももちろん経済が専門だ。アルバイトで来ていた当時、僕はランチを一緒に食べながら(彼女がまだ、横国に入る前で、選択の余地があった時)日本の伝統美術の研究とマスコミなどの関連の話題をよく話しては勧めたものだ。その彼女が今度NHKで「モデルデビュー」さ。いいねえ、そういう現場で、日頃知らない新しい「人種」や全く知らない「文化」と交わるのは良い刺激になるだろう。彼女の自分の将来イメージも一気に膨らむんじゃあないかなあ。良いことだね〜。いずれにせよ、努力の人だから、彼女は何をしてもきっと成功するはずだ。かんばれ、Pチャン。チャンスを掴め!

2010年10月23日土曜日

嬉しい事件

■昨日の朝、家を出ようとしたら、財布が無いことに気がついた。前日、何をしていたっけ?冷静に思い出そうとしたら、家の前で車を降りた時か、その車のなかか・・。財布の中身はたいした物が入っていなかったので、自分でも意外に動揺も失望の念も湧いてこず、カード関係の電話を入れる面倒くささが、先に立った。また、珍しく買った宝くじが10枚はいっていたなあ、と思い出して、これが出て来ず、1億円当たっていたらもったいないなあとか思いつつ、時間がタイトになったので、何処へも電話せずにともかく家を出た。お客様待たせちゃいけないからね。老人になったのだろうか。生まれて初めてである、財布やお金を落として経験は今まで62年皆無であったからね。今後、気をつけないといけないね。僕って意外に財布や大事なモノの管理は細心なんだ。

逆に今まで、何度も財布や、現金を拾った。総額では、推測だが30万円はあると思うぜ。大阪のホテルで、富裕な感じのおじさんが(20年ぐらい前)、ロビーにあるソファーを立ち上がったとき、おしりのポケットから、まん丸に太った財布がころころころ。運良くぼくの目の前を転がって、誰にも見えない植物鉢の影へ。僕は不埒にもゴクリとつばを飲んだような気がする。成田のトイレでは、3〜4万円入った財布が、大便所に鎮座していたし、駅で歩いていたら僕の目の前で1万円札をひらひら落とした御仁もいたし、電話ボックスにはいったら、緑色の電話器の上に丁寧に封筒に7万円が入っていたこともあった。長年ビンボーしているが、金を拾い上げる運は僕に無いでもないのだ、ハイ。すべて最寄りの警察や駅員に取得物としてもちろん届けています。

で、僕の財布のことですが、朝の会議中に警察から電話が有って、届けられているという。その上、あるべき金額もそのままのようだ。ありがたい話だ。もらい受けに行くと、大学生が届けてくれたらしい。早速警察から電話したら彼の母親が出られて、御礼の金品は固辞されたので、仕方なく息子さんと彼の将来を大いに褒めて、深く感謝し電話を切った。日本の青年、まだまだ捨てたモノでないなあ〜、と言う言葉が、僕の中で軽快に踊った。うれしいねえ。

2010年10月16日土曜日

ハノイ・コンビンザン考

■いま、「♪♪ホンキートンク・ウーマン」を聞きながら、これを書き始めた。なにせ、ストーンズが80年代末に東京ドームに来たとき、彼らのコンサートに連続三日間3回も行ったんだぜ。まあいいさ。で、コンビンザンだ。「COM BINH DAN」と書く。日本なら定食屋と言ったところであろう。日本の場合、定食屋では大抵各種の小皿とか、角長の焼き魚皿などに煮物、卵焼き、サンマの開き、唐揚げやコロッケなどから、おひたし、納豆、シラスおろし、お新香まで取り分けてあり、お客さんは、好きな皿を好きな数だけ、と言っても多すぎないように3,4点自分のお盆に乗せて、最後にご飯とみそ汁をいただき、席について食する。お店によっては、10も20個もある大皿にたくさんの各種おかずが並んでいて(良い皿使っていて結構壮観さを演出している店もある)、自分で適量をとったり、店員にとってもらったりするお店もある。「大戸屋」などのチェーン店から、昔から地元商店街に馴染んでいるおじいさんおばあさんのお店も結構あちこちにまだ、生き延びている。こんな事、これを読んでる日本人には常識の話だね、最近ベトナムの青年向けに書いている事が多いので、コンビンザンに至るまでのイントロ部分がうっかり長くなってしまった。

で、コンビンザンだ。大抵、お店の店頭に20種類ぐらいのおかずが、台所のシンクのようなものに入って並んでいて、お客があれだこれだと言って、大皿のに盛られたご飯の山の峰から、てっぺんまで、乗っけてくれるシステムなのだ。プレート(皿)の丼とでも言おうか。煮込んだ豚肉や鳥、インゲンやもやしの炒めサラダ、空心菜、牛の煮っ転がし、目玉焼き、卵焼きいろいろだ。南京豆の炒め物もあるぜ。一通りのっけてから、店員の田舎娘はつゆもかけるか、と聞いてくる。
僕のように、ビールを飲みながら食べる向きは、ご飯少なめにおかず多めに発注すると40000ドン位。つまり160円ぐらいで、結構旨い飯とおかずにありつけるということだ。ハノイの学生も金がないから、遠慮がちにおかずを乗っけて15000ドン〜20000ドンぐらいで済ましているようだ。ビールは現地生ビールで、大ジョッキで40円から50円ってところだ。アルコール度数が低く、ぐいぐい何倍でも飲めてしまう、結構僕は好きさ。ところで、味の素が多いんじゃあないか?農薬はきちんと洗い落としているのか?いつも気にならないと言えばうそになる。

が、しかし、その前にだ、もっと肝心なことが、凄いんだ。日本人女性には卒倒ものだね。厨房の現場をみた日には、「ベテラン」のぼくでも食えない。普通の上品なレストランでも、調理場は見ない方が良いというのはベトナムに詳しい人たちの常識なわけだから、コンビンザンの調理場、想像できる?ちょっと凄いぜ。娘のLINHは中学2年だが、ブオンによると、生まれてこの方、「怖くて」食べたことが無いらしい。ブオンもこの何年もコンビンザンでは食べたことないと宣う。まあ、それって理解できるね。だってさ、僕は何件ものコンビンザンの調理現場を偶然目撃しているが、調理の現場は厨房とは思えない。現場は土間やそばの路上なんだぜ。この間も店員と思われる如何にも田舎からの娘や小僧が空心菜などを道路のアスファルトをまな板がわりに・・・ここで、時間がきた。今から、ハノイ空港へ。続きは、近日に。じゃあね。

■今日、マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」を読み始めた。ハーバードや東大での白熱授業で、最近マスコミを騒がせている基になった本らしい。彼はコミュニタリアンと言う学派にいる現代きっての論客の一人と言われている。でも僕は彼の本を読むのは今回が初めてさ。いったいに僕はアメリカ人の学者の本はあんまり読まない。少しこだわって何冊かずつ読んだのは、スーザン・ソンタグ、ガルブレイス、P・ドラッガー、N・チョムスキー、ロバート・ライシュぐらいだろう。後はすぐに思い出せないなあ。この「これからの正義の話をしよう」を読み出してちょっと意外であったのはMBAや大学院の課題研究のような本のしつらえになっていたことだ。まるでさ、今から10年ほど前に話題になった本「ザ・ゴール」を思い出させるよ。なんかさあ、良書と評判なのに如何にもアメリカの”ビジネスソリューション本”風で僕は読みながらすでに辟易し始める。でも、もう少し耐えて読み進めれば、良い展開になるだろうと期待したいところだ。一瞬思い出したので、書き付けておくがライシュの「ザ・ワークオブネーション・・・21世紀資本主義のイメージ」は衝撃的本だ。画期的な本と言って良い。ダイヤモンド社刊のはずだ。90年代初頭に出てすぐ買って、一気に読んだことを思い出す。”シンボリック・アナリスト”になるにはどうすればいいか、真剣に僕はメモをいろいろ書いた。

■で、コンビンザンだ。コンビンザンとレストランの違いは、プロのコックが居ないことなのだろうと思う。コックが居ても、ベトナムではしれた環境なわけだから、コンビンザンは推して知るべし、まで前回書いたわけだ。コンビンザンは家庭の延長の定食屋なので、管理者が不明な上、元々お店を始めたオバチャンやヤクザな親父たちは、銭勘定に忙しいのが普通だ。入れ墨いれた親父の仲間と、日中からビールを呷り、お客からもらった現金入れたアルミ箱に手を入れては札束勘定して束にして、一握り持ち出したりしている。また、人件費を最低に抑えようとしているので、田舎から出てきた何にも知らない少年少女を使うしかない。ベトナムの義務教育は驚くことに小学校三年生までなのだ。だから、10才ぐらいになると労働しないと食えない子供が都市にどんどん流入してきている。そういう彼らが潜り込みやすい仕事が、こういった飲食と建築現場だ。ベトナムでは一般に社内や店舗でも「教育」を体系だって教え込む伝統が無い位な訳だから、ここでは、まったく「お客様へのホスピタリティー」など無縁なわけさ。先ほど定食屋と比較したが実態は戦後の直後の東京の闇市の飯屋に近いのかも知れないな。そう言うと、ちょっと酷かな・・・。

2010年10月10日日曜日

遷都1000年とノーベル賞

■1949年湯川秀樹京都大学教授が日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞したニュースが当時の日本にどのような衝撃を与えたのだろうか。敗戦し廃墟となった日本にとってはまさにこれからの明るい未来を象徴する最高の精神的プレゼントであったろう。敗戦から4年が経ち、今の日本人と違って生命力の強い当時の日本人は工業や商業だけでなく、闇市も一定の秩序すなわち流通や物流も形をなして来始めた時期であるものの、それこそ、世界から日本製品は猿まね、壊れやすいなどの非難がこの新興国に相次いでいた時期でもあろう。そのときにまさしくオリジナルな量子力学の理論で、ノーベル賞を受賞したのだ。日本国民の喜び様は、どのくらいのものであったろうか。また、湯川博士が東京大学でなく、京都大学であったことも、実は心理的に国民にフィットしたと思われる。第二次世界大戦に引きずり込んだ大多数の指導者は、東京大学卒業者であったからね。だから、京大は自由の象徴としても人々に愛されることになった。この湯川受賞の自信回復は戦後日本のエポックメイキングな出来事であったろう。

欧米の科学技術の壁に敗戦したという思いに上乗せて、この受賞によって日本の若い学究者や学生たちに政治や経済ではなく、科学技術こそが国作りの基礎になるという意識はこのような環境の中で培われたと思う。僕が小さいとき東北大理学部マスターであった母の弟も「遊びたい人は経済にいくのさ」と言っていたような、彼ではなかったかもしれないが昭和20年代30年代は理工学部へ行くこと、また科学を学ぶ事の大切さが、大学にも行かない多くの庶民にさえ、共通の認識であった気がする。科学の子アトムが生まれた日本だものね。

今、民主党は無能で、何もできないでいるし、自民党もあら探ししかテーマに無いようだし、公明とか日共は、自組織の維持で精一杯で完全に政治過程の欄外。日本人はかねてから大きな構想作りは、苦手にしてきた。でも、それにしてもだよ、いま日本の政治に大局的見地らしいものが全く見えないよね。これほど指針がない政治状況もおそらく初めてじゃあないか。僕らは、何に希望を託せばいいのかいなあ。はい、はい、はじめからやっぱー託しちゃいけないんだよね。政治は基本的に無視する事しかない。僕ら老人の将来は決まってしまっているしどうでも良いが、感受性の強く、今からの将来がある中学生とか、高校生は今後どうしていくのだろう。本当に可哀想だぜ。このような参考にも反面教師にすらなりもしない大人たちに囲まれてさ。ここを何とかしないと完全に凋落するしかない。ギリシャやローマの様に凋落後、数百年はだんまりを決め込むほかは無いだろうね。2年ほど前秋葉原で、多くの死傷者生んだ大きな事件が発生した。派遣社員加藤という人物が犯人であったが、彼の行為はインターネット上で、あろう事か英雄に祭り上げられていた。僕らはそういう国に住んでいる。国の骨格が無いどころか、神経や皮膚すらも訳もわからない病に冒されつつある。

今回の北大の鈴木章名誉教授と根岸栄一パデュー大教授(東大工卒)の受賞の僕らの嬉しさも、2年前の小林、増川、下村の名古屋大学関係トリオの時もそうでしたね。純粋にうれしい。日本人の地力というか、本来持っている能力が堂々と発揮される科学世界は、いいなあっと思うね。東北大の田中さん(島津製作所)の時も地道に努力することの大切さが、まさに証明されたようで、嬉しかったね。鈴木先生と根岸先生の快挙もいわずもがなだが、たいてい受賞の評価は30年、40年以上前の功績である。基礎研究にまだまだ予算が与えられ、それが、良いことなのだ、そうでないといけないという常識が働いていた時代の産物ですね。NHKなども、大分「ノーベル賞受賞者と子供たちの接触」をテーマにして、企画をしているようだ。が、まさしく、政府が、東工大でた理系の菅さんが、中高生と受賞の巨人たちの交わりを政策化すべきじゃあないの。子供の頃、天才や巨人とであった人は幸せだよ。会えただけで何かを得るものだよ。こういう施策を積極的にできないのか。僕らの日本は、現在の子供たちの能力と努力に運命が掛かっている。

いま、ベトナム人の青年向けに「日本語を学んで、サムライにならないか・・・日本企業へ就職の薦めとガイダンス(仮題)」という本を書いている。日本語で書いて、ベトナム語に翻訳して、ベトナム全土で発売するものだ。300ぺージもの中に、僕は日本の良いことをたくさん書いた。書きながらむずがゆい。というより、日本についての嘘を書いているかもしれないという責めもある。ベトナムのある長老が昔僕にこういった。「日本がロシアに戦勝したときの衝撃は世界を揺るがした」と、老人の父親が彼に言ったらしい。「それ以降、アジアの民衆は日本に尊敬の気持ちを持つようになった」と。思い起こすとまさにそうだね。魯迅、孫文、周恩来、チャンドラ・ボースなど歴史に名前を刻んだ人々だけでなく、アジアの何千人という優秀学生や若き革命家が、青年期の留学などの居場所として日本を選んでいた。日本には新興の生命力が横溢していたのだろう。次の何かが期待できる魅力的な国であったんだ、当時はね。僕が今まさに、今これを書いているベトナムの様にね。

■昨日の夜に、予感もあった。夜夜中まで、ハノイ工科大とか、統一公園横をとおっている市内幹線のうちのひとつレズアン通りなど、若者であふれており、バイクも車も立ち往生といった風情であった。テトは、国民の大半が帰郷するので、意外に静かだが、初めてのお祭りこの「遷都1000年祭」は、どう祝って良いか解らない青年たちが、ともかく夜右往左往していた。で、ブオンに言われたままに、10日朝9時に家を出て、ホアンキエムに向かって歩いた。「なんだ、バスもタクシーもバイクも通常通りだぜ」、とか愚痴を言いながら遠くの右に国営デパート(戦争前からのいわば「高島屋」)が見えてきた頃から、状況が一変した。数千、いや数万のホアンキエム湖から戻って来る群衆が今からそこに行こうとする数万の徒歩の人々と交差し始めたのだ。軍事パレードなどの催しものが終わったらしく帰途する群衆。何かやってそうだなとデパートの交差点からホアンキエム湖に近づこうとする刺激を求める強気の人々。これも数万かもなあ。まさにラグビーのスクラムだあ。それに車と突入してくるバイクも絡むので阿鼻叫喚。でもそこを超えると歩行者天国をやっていた。懐かしいほどの快感のある空間が一応演出されていた。ただ、驚くのは、なにもやっていないのに、ただ人は集まっていたことだ。僕もね。

驚きはホアンキエム湖の周りに人が溢れ、湖の岸に人垣がほぼ一周分できていた。何をするでなし。お祝いに来た、でも見るモノがない数万人が湖面に佇んだり押し合いへし合いのお散歩。お調子者は木や電柱に登る。昔から何処の国でも共通の現象だ。ホアンキエムでも、バカな若衆が木々にあがりふざけていた。「阪神フアンなら、こういう時、川や湖に次々飛び込むものさ」と、思いながらブオンとデザイナーフックさんがバイクで迎えにくるはずで、大混乱のホアンキエム周辺から脱し、白い館メトロポールソフィテルに向かった。そこいらでは空間に余裕がでたのでやっと気づいたが、凛々しく赤いはじまきをしている青年が目立った。何百人もいそうだ。額の刻した文字は読めないが「1000」は読める。おそらく「祝ハノイ1000年」というような事だろう。高校生か大学生の様だ。これらを見て思った。「江戸東京祝500年」とかのはじ巻きを凛々しく巻く東京の高校生が果たしているか。もちろん、一人もいないと言っていい。居ないのが当たり前で、それをいま、とやかく言うつもりは毛頭無い。だけれども、ハノイには、確実に存在している。「遷都1000年」に誇りをもっている青年たちが、確実に何十万人もここには居るのだ。都会から来た僕らなどに稚拙に見えていようとも、断固として国や郷土を思う途方もない数の若者たちがこの国にいるという現実。

20歳前後の数年間、日本とアメリカという帝国主義に牙を向けていた僕にはナショナリズムは、苦手だし、毛嫌いの対象でしかなかったね。でも、このごろナショナリズムの意味を時々考えることがある。そういう意味ではベトナムは僕にとって学習の場だね。
ノーベル賞は、欧米の価値観で決まるので、ハンディーキャップがあるけれど、ベトナム人が理工系分野で(現在欧米の在住者であれ)ノーベル賞を取ることを心から祈念したい。僕らの仕事もその一助になれば嬉しいね。

アントニオ・ネグリなどが9・11以後に捉えた「帝国」概念は、実はアメリカから中国に遷移しつつあるのではないかと思うこの頃ですが、「国家資本主義」中国は、自国のノーベル賞受賞を隠さなくてはならない事態に遭遇した。過去をみても、佐藤栄作に平和賞を与えるいい加減なノーベル賞委員会ではあるが、今回の劉暁波さんの平和賞受賞は、すでに、今春から、中国政府に圧力を受けていながらも民主化活動家で「08憲章」を起草した彼に贈ったことは、評価されて良いだろう。今後、中国の対応が見物だ。孔子、老子、孫子の国として?あるいは世界の新「帝国」として対応するのか。現在のところ二流の「国家資本主義」国としての振る舞いに終始している。そんな中で、中国共産党の元幹部の老人たちが、憲法を盾に自由を求めて反撃に出始めたようだ。

■大佛次郎「天皇の世紀」全12巻文春文庫を読んでいる。まだ、第二巻の320ページ。今回ハノイに居る間に第三巻に移行できそうだ。井伊大老の一見傲慢に見えるが、計算し尽くされた対水戸斉昭攻撃。これに対抗する水老こと斉昭らの攘夷派、実は息子徳川慶喜を将軍にする画策。分裂する京都の公家や禁裏サイド。水戸派の京都結集に対抗する幕府の京都支配はどうなるか。歴史というドラマは、現代人の知る映画や小説のシノプシスを軽々と超越してゆく。大佛さんと朝日新聞担当部門の資料収集のすごさと解析と抽出のエネルギーを改めてまざまざと知らししめる。何せ、資料分が30〜45%を占めているわけで、それが全部候(そうろう)文だから、どうしても読み解きに時間を要するので、大変は大変。でも追体験できる魔力が読者を離さない。

2010年10月9日土曜日

1000年祭りとKFC

今年はハノイに都ができて1000年だそうで、奈良の1300年と共にお祝いされている。ベトナムでは10月初頭から旗日で、ハノイの街中がお祝いムードに包まれている。昨日は2週間ぶりにハノイに入った。ベトナムのインターネット新聞の写真特集などでも数日前に東京で見ていたので、大体は知っていたが、こういうお祝いなどの喧噪は現場じゃあないと味わえないね。昨夜はブオンの娘LINHの13才の誕生日であったので、ミニパーティー会場である「KFC」に行ってみた。こっちの人はケンタッキーと言わずにKFCという。おめでとうと言ってチキンやフィッシュのフライを食べてとコーラを飲むだけのたわいのない集いだがわいわいと楽しい。ブオンの親友の女性会計士さんと、ブオンの前夫のお姉さんの娘で、時々我々の食事にも来るボーイッシュでかわいい子チャンのハノイ貿易大学の学生と子供が5人。その中の4名は中学2年生。日本で言うと中学1年生だ。「♪ハッピーバースディーツーユー♪」のCDが部屋にがんがん響き、あの油まみれの空気の中であったが、楽しくやっていた。リンはいつの間にか僕より背が高い。おめでとう13才。

ケンタッキーは、20年ぶりだろうなあ、食べたの。あのガーリックと複雑な胡椒がきつく効いた味わいは、嫌いじゃあないが、あまりにも食べ物としての健全性に欠けるので、自分から食べたいと思ったことはなかった。真っ暗な体育館の中、シーンとした物音ひとつしない暗闇。だが、何かの気配がある。撮影ライトをつけたら、そこに一面に何万羽という鶏が声も立てずに蠢いていた、とかいうレポートの噂などは誰でも知っている。工場化する理由もわからない訳じゃあないけれど、その暗闇で3ヶ月で成鳥にして、出荷するそのシステムは食べる以前の問題で、普通の感覚ではゾッとするよね。根拠もない噂であれば、KFCさんに営業妨害なことだが、これに近い実態が、リアルな事だろうと思う。消費量と生産を考えれば、このようにシステマチックにしなければ追いつかないからね。

でも、「地鶏」しかいないベトナムで、ケンタッキーはチキンの仕入れをどうしているのだろう。そして、お肉自体のお味はどうなのだろう。実は前々から、ベトナムのケンタッキーを試食してみたかったのさ。わざわざ、「暗闇のブロイラー」を日本から輸入する必要も無いしね。ベトナムのお肉の牛(ボー)と鶏(ガー)と豚のうち、ぼくは、豚の味が秀逸だ、その次がチキンやダックの鳥肉だと思っていると今までベトナムに来た関係者にそう語ってきた。牛も含めて、ベトナムのお肉は味が濃い。鳥と豚はそれこそ逸品と言って良い。まあ、ベトナムだけでなく、工場化し大量生産していないメコン地域の国々のお肉は本来の味わいを保っていよう。
さて、食べてみた。日本のケンタッキーに比べて、胡椒やガーリックの度合いは薄い。なあるほど、良い肉には「刺激」あるふりかけは少なくて良いはずだ。で、どうなの、お肉自体は?

・・うう〜ん。実はそうでもないのだ。おいしいチキンだ、とは言えない。残念ですが。ベトナムに通い続けて17年。ベトナムの鶏肉は何十キログラムと食ってきたはずだぜ。が、今回はっきり言って、良くない。ベトナムのチキンの本来の濃い旨み成分が感じられないのだ。おいおい、どういうことだ。ベトナムでも「暗闇ブロイラー」にしているのか。・・・この件、調べます。いい加減なこと、言えないからね。近々報告します。
さて、こういう事でも、西洋から来た「進んだお店」KFCは、親子や恋人で今夜も超満員でした。サービスはマニュアルが行き届いているようで、テキパキと快適に遂行されていた。通常のレストランにはないアメリカンスタイルのスムーズさが、少し散財しても良い日の気分を充足させるのだろうね。
ちなみに、ロッテリアはあるが、マクドナルドは、まだ進出許可が下りていない。

で、帰り道、ブオンやリンはオートバイで帰ったが、僕はぶらぶらすることにして歩き出した。1000年の誇りが、街中に溢れていた。大きな人だかりが、あちこちに生まれている。常日頃さえ、車道も歩道も区別無くオートバイがうねり、人が往来している街ではあるが、今日は(たぶん、この1週間)、歩行者天国状態で、危険といえば路上は危険状態だ、オートバイは普通にブイブイしてるからね。人混みを分けて入っていくとそこでは、仮設な舞台が設えられており、黄色い衣装の娘さんが10名ほど民族舞踊を舞っていた。音楽は、ドラムスや低音が効いた今風なもの、日本で言うと原宿などで例年やっているよさこい祭りというか、現代ソーラン踊り調なのだ。日本でそれらを見ると「衣装が香港っぽいなあ」と感じるけれど、まったくそういうものと同じで、こちとら本場だよと言わんばかりに、優雅にかつ激しく踊っていた。舞台袖には、赤い一群、後には青い衣装の一群もおり、おそらく、踊りのコンテストで、競っているものと思われる。まあ、大学の学園祭だね、街中が。テトと違うのは、旗日といっても休みが公務員だけとか、中途半端なようで、多くが田舎に帰郷していない分だけ、人々が何か楽しいことを探して街頭に繰り出していることだろう。特に僕が歩いている地域はハノイ工科大を中心にした大学の街のせいもある。若者で路上が溢れ、何となく懐かしさも漂っていた。

で、本日9日土曜。ベトナムでの僕の出版の重要な会議があった。夜、ブオンの家で、ブオンと親友の美人アラフォーファッションデザイナーと娘LINHと4人で飯食べつつ、明日10日は、遷都1000年祭のフィナーレで朝から、ホアンキエム湖周辺は盛り上がりが最高潮になるようだと、ブオンがインターネット新聞見ながら言い出し、ハノイに居るのだから明日を見逃す手はないわよ、でも、車もバイクも大半交通止め。徒歩で行くのよというので、朝から出かけることにしたが、女子三人組は疲労困憊で、日曜は昼まで眠らせてとのたまう。どういうこっちゃあ。リンだけには、「どう、行こうぜ」と声かけたが、ベトナムの中学生も日本や韓国並みに猛烈な毎日。日曜午前の眠りも大切だね。仕方ない、朝からひとりでホアンキエム目指してフエ通りを散策し祭りの熱気と喧噪に分け入ってみるとしよう、ということでこの項続く。

2010年9月28日火曜日

オッ金剛組だ、世界最長寿の / 「誰がために鐘は鳴る」

先日、早稲田通りを歩いていたら、良く門前を通ってきたお寺さんが、工事中であった。工事中というより、今までの本堂の全容は消え失せ、新しくお堂をこさえようというのだろう、白い工事用テント地の幕で、大きな敷地全体が覆われていた。何気なく見たら工事看板に目を見張った。僕は驚喜したというか、「おお金剛組だあ」と路上で声を上げてしまった。そこで、理由はともかく工事事務所を探そうと左右を見渡したが、見えない。見えないので、砂利石の参道を走り、寺務所の玄関をカラカラカラと開き、誰かに工事事務所の在処はどこか聞こうと思った。20畳も30畳もするような広い玄関は、誰もいない。僕の影が三和土で動くだけだ。すみません〜、と大声でよびつつ、呼び出しのベルも見つかったのでそれも連打した。「いらっしゃいませ」中高年の坊主が小走りで出てきた。僕は、すみませんねえ、と一言言いつつ「こちらさんの本堂の工事はあの金剛組がやっているんですね。あの有名な金剛組ですよね」と念を押すと、坊さん”どや顔”で「そうですよ、あの金剛組です」と応え、ちょっと離れたところにある金剛組の工事事務所の場所を教えてくれた。

いやはや興奮したぜ。日本には100年の歴史を持った企業が10万社ある。多分世界一だと思う。これだけでも凄いのに200年の歴史を有する企業もなんと3000社も我が日本には存在する。でもこの金剛組こそ何を隠そう(いや隠せない)飛鳥時代に、つまり聖徳太子が生きている時代に創業された世界で一番古い企業(西暦578年創業)なのである。金剛組は大阪にある寺社仏閣専門の職人だけのゼネコンで1500年も生き抜いてきた世界最古というか最長寿の企業なのだ。嬉しいじゃあないか、こういう出会いも。さっそく、工事現場に行って工事監督さんと名刺交換でもしようと、くびすをそちらに向けで歩き出したがだが待てよ、俺も62才だ。20代の時なら、いざ知らず今の僕が「あのう、済みませんが・・」と嬉しさだけで理由もなく追っかけ風に行ったらどうだろう、名刺はくれるだろうか、などと思い始め携帯のカメラで「金剛組」というロゴを撮影するだけにとどめて、商用に向かった。何と言ったらよいか、銀幕の往年のスターに出会ったときのような、ともかくとっても幸福感に包まれたひとときであった。

■ 先日、ジョンフォードの「荒野の決闘」と「誰がために鐘が鳴る」を見た。もちろんDVDで、だよ。390円で本屋に並んでいたものを無造作に買ったのだ。「荒野の決闘」はいわずもがな「クレメンタイン」の歌がながれる「OK牧場」ものというか、「ワイアット・アープ」ものだ。学生の時、どこかの場末の映画館でも見たし、ビデオテープも持っているので5〜6回は見たかな。言うまでもなく「シェーン」や「駅馬車」と並び賞される西部劇の名画中の名画だろう。俗っぽいマカロニウエスタンが始まるずうっと以前だから清教徒の清楚さと素朴な愛が全面にあふれている。今で言えばアーミッシュ的ともいえるプロテスタントの物欲も性欲も良しとしない原始キリスト教の時代的雰囲気に満ちている。悪徳と善良の対比もやや宗教臭いが、勧善懲悪の構図は水戸黄門と同じで結論が最初から見えていて安心して鑑賞できる。なぜか、今日は皮肉っぽく書いたが、ただ、本日の体調のせいだとご理解ください。

かつて母親が「誰がために鐘は鳴る」のイングリッド・バーグマンを「本当に輝いていたのよ」と僕が中学の頃、言っていた。今見てもその輝きは全く失せてはいない。反ファシスト戦争に命をかける乙女の麗しさは、まさしく太陽の様なのだ。彼女の微笑みに接した事のある中高年の御仁はたいていそう思っているだろう。新宿の伊勢丹の向かいで今の丸井あたりにかつてあった名画座で見たような気がするが、これもビデオテープを持っているので、いままで数回は見ただろう。バーグマンは、「カサブランカ」で評価をもらった直後に出演したのがこの作品であったが、英語が下手な(らしい)スエーデン人の大女である彼女に演技の期待は無いが、無心に愛に浸る彼女の陶酔の目とか、頬、首筋の美しさは、まさに燦然と輝いていた。この太陽の様な笑顔に母たちの世代(母は、現在84才)たちは輝く未来を感じ取ったであろう。母が仙台の文化劇場のスクリーンから彼女の愛に感涙したのは、多分昭和21年か、22年、結婚する直前か、その直後かだから、その輝きに満ちた笑顔に母は己のこれからの幸せと重ね合わせたことであろう。で、23年に僕が生まれたわけだから、バーグマンの笑顔は、僕の生誕に少なからず影響したはずだと言っていいかもしれないね。

でも、酒飲みながら、見た今回はかなり違った感じ方も改めてした。地方の反ファシストゲリラ群と共和国派の中央司令部の意識のずれと中央部のスターリン主義とでもいうべき硬直した上意下達組織の情けなさが、見始めてすぐに感じた。義勇軍として個人参戦していた原作のA・ヘミングウエイ自身がその組織の硬直したあり方に疑問を挺して居たからなのであろう。ドイツのナチズム、イタリアのファシズムに続くスペインのフランコ将軍のファシズム化から守るためスペインの共和国政府が全世界の闘う有志に呼びかけ、アメリカやフランス、イギリスや日本などから左派系インテリや、学生、マルクス主義者、アナキスト、自由主義者などが、統一戦線を構成し、スペインに集結してファシストと戦火を交え市街戦を展開した。それはイギリスの作家ジョージ・オーエルの参戦体験をまとめた名著「カタロニア讃歌」に詳しい。

この映画の舞台となったスペインの反ファシスト戦線では、ソ連を盟主と考える共産党派の傲慢が、正義感と情熱で世界各地から参戦していた数十万の戦闘的左派や市民軍、POUMの広範な統一戦線を分裂させ、ついにはスペイン人民戦争自体の敗北を招いた。その荒涼とした現代史をこの映画の中にほんの少しだが垣間見ることができる。だが、映画の主たるテーマは欧米や日本の戦後に求められる「愛と希望」さ。だからヘミングウエイが自分の体験を投影させたハンサム中年の大学教授役のG・クーパーが中央との板挟みに苦悩する左翼インテリゲンチャーを演じるが、バーグマンとのいちゃつきと口説き台詞は、クーパーの地が出てそこだけ冴えてしまうので笑わせる。自分の命を捨てても、愛する女と共和国に殉じる中年クーパーの泣かせるラストシーンもハリウッドのいつもの「感動フォーマット」そのままだ。ヘミングウエイの原作は読んでないが、ハリウッドは原作とは違い第三インターの内紛というかスペイン人民戦争への共産党の裏切りなどにははじめから興味なく、捨象して原作の恋愛部分を上手くチョイスして、戦後の希望と明るさを提供するアメリカの戦後処理イデオロギー作品と位置づけて、焼け跡の日本などに輸出したのであったのだろうと思う。その意味では深刻さを演じられない大根役者の二人を、つまり太陽の様なスマイルとアメリカの典型的ハンサムを画面にクローズアップさせただけで良しとした営業戦略は、計画通り成功した。つまりそういう作品ということだ。

余録だが、この主要な出演者に山岳ゲリラの剛胆な女親分が登場する。もの凄く良いキャラで、二人の心の進展に協力したりする婆(ばばあ)だ。この婆は紛れもなく宮崎駿監督の一連の作品に出てくる婆の原型に違いないと気づいた。面構えといい、態度やキャラといい、服装までも宮崎さんは、この婆から、あの一連の宮崎アニメの愛すべき婆たちを想像したと直感した。今回見ての収穫はこの婆だけさ。

■ はいはい、また、原稿の一部をもってきた。

3−4−2 「ベトナム人は、計画嫌いですか?」
16〜17年もベトナムのいろいろな階層の人々つきあっている。総じて言えることは、「計画」というものに関心が無い人が多い。計画が苦手というより、大して意味がないと思っているようにも見えるね。確かにいろいろな客体的な要素で成立させた計画は、自分に関係ない客観的状況によって、どんどん変化する。変化すれば、計画も変更をしいられる。だから、あまり計画にこだわりたくないと思うのであろう。それはわからないでもない。

君らと反対に日本人は計画が大好きなのだ。何をするにもすぐ、計画を作り始める。
一般的に僕らの言う計画は1:期間、2:費用、3:事業の内容の詰め という3点だ。この3点がどうなるのかを現在の時点で論理的に想像し構築するのが計画というものだろう。とくに3は、事業の内容を構成している客観的な要素が多い。わかりやすく言うと、他人や他社と絡んでいるわけだから、自分ではどうしようもないことが、突然起きることも多い。そこが変更になれば、当然1が変わる、普通は期間が延びてしまう。そうすれば、2も、大きく変わってくる。そんなことは、百も承知だけれど、日本人は会社や、役所の中で予算を確保するために、時によっては「形式的に」事業計画を作る場合さえ在るんだ。

それに比べて、ベトナム人は一般的に、そのような変化があるから、計画したって、意味ないんじゃあないかと考えているように、僕ら日本人の目には映っている。だから、積極的に計画は作らない人が多い。

ここは比較文化論のページじゃあないので、話を戻す。この「日本語を学習する計画」の場合の3は、他人とか客観的な要素が無いと言っていいだろう。問題は、自分だ。自分が決意して進めていくだけの計画なのだ。自分の意志が弱くなければ、ほとんど変更はない。だから、この1年間の計画を立案することは意味があるし、十分に可能だと言うことさ。

2010年9月13日月曜日

吉永小百合さんの朗読

■ハノイの夜明けだ。希望をもたらすような見事な朝焼けとはなって居らないけれど、だんだんと朝焼けが消え行き街並みが鮮やかに立ち上がってくる様は例えよう無く美しい。雑然とした喧噪の街ではあるが、流石フランスにかつて統治された街で、アジアの熱風とフランスの情緒が上手くお互いに練り込んだような雰囲気が醸し出されている。

■先日、NHKの深夜番組で吉永小百合さんの「原爆の詩の朗読」という番組を初めて見た。静謐な空間で吉永さんが語る、原爆の飛来下で起こった地獄絵の中での人びとの阿鼻叫喚と、恐ろしいほどに冷静な母たちの声。吉永さんは、余計な感情を交えずあくまで粛々と詩を形作る一文字一文字を目で追い、あの独特の鼻に少しかかった声でゆっくり語ってゆく。カメラマンも民放の若い撮影者と違い、彼女の不要なクローズアップはせず、精々バストサイズで落ち着いた画面を構成していた。吉永さん唯一人の舞台で、もう20年もご自分の仕事として、続けておられるという。意外と言っては失礼だけれど、優れて深いイベントであることが解った。

勿論、僕も吉永さんのフアンの一人として(サユリストほどではない位の)、この彼女の大切にしている朗読の会のことは、当然知っていた。ニュースでも何遍もちらりと見てきている。しかし、どうしても積極的にその朗読を見ようとはしてこなかった。ああいうイベントは僕、昔から苦手なのさ。労働組合的というか、共産党的というか、「ああいうたぐいは」として一括りにして「臭い」と感じ、イヤで無視してきた。吉永さんは赤胴鈴之助の時代(ラジオ)は別にして誰もが微笑む日活の青春スターとなった頃、中学生の僕の視線は吉永さんではなかった。ジャクリーヌ・ササール、クリスティーネ・カウフマン、クラウディア・カルディナーレ、ブリジッド・バルドー(B・B)、ミリー・パーキンスなんかのフアンであった。まだ、「映画芸術」誌、「映画評論」誌、「シナリオ」誌、「キネ旬」誌などの玄人向け専門雑誌の購読者になる前のことで、素人向けの写真の多い映画ファン雑誌「スクリーン」誌、「映画ファン」誌などの雑誌から猛烈に伝播してくる華やかで麗しい性的興奮を毎日収集しては友人たちに海の向こうからの別世界な情報を教えていた。

だから、いわゆる映画青年風情な大学生になったときは、吉永さんはもう全く視界に入っていなかった。だって、大隈講堂下の小講堂で、河津一彦などらと、フランスのクリス・マルケルの実験映画(題名忘れたなあ)の上映をやったり、「アルジェの戦い」をみんなで見て評論しあったり、ゴダールだ、ジガベルトフだ、アンドレ・パザンだの、ルイス・ブニュエルだとか、ジャン・コクトーとか、仲間とあーだ、こーだと、寝るのも惜しんで言い合っていた訳だし、大島渚や吉田喜重、今村昌平も論じ、鈴木清順を支援するデモで日活に押しかけたりしていた。だから、吉永さんが志向する原爆の詩を朗読する崇高な世界など、ほとんど視野の外だったのだろうと思う。所詮大人は敵でしか無く、知識や論理の絶対的自信を持って映画とか前衛の芸術を語り反抗していた20才前後という時期は、全身から全力発光する何かの呪祭であったのだろうか。今となってはまるで幻だねえ。吉永さんは青春期から、あの優しい真っ正面からの眼差しをいまも続けている。

■またまた、ネタを書く時間がなく、ベトナム語で出版する準備著作の一部からコピーした。
 『採用されるポイントは、はっきりしている』
   日本企業の学生評価の4ポイント
4−1−1現在の日本語能力の高さと今後の日本語伸長のポテンシャル
4−1−2高校と大学の数学、物理、化学、生物と英語の基礎的学力
4−1−3精神力、性格(積極性、明るさ、協調性:業務に適性があるかどうか)
4−1−4面接当日の戦略と戦術、態度、話し方、印象

上記は理工系大卒者向けの面接の日本企業の一般的な基準である。当校が今までの日本企業の採用活動に協力しながら、得た情報と、有力企業のトップから取材して得た情報をまとめた物である。従って、最新の日本企業の考え方がリアルに現れている。しかし、業界や分野、また、企業によっても採用の考え方は微妙に違いがあることは、当然、承知してほしい。
上記1に在るように、日本語の実力は高ければ高い方が良い。言うまでも無いね。でも、現状のレベルだけではなく、「今後の日本語上達の可能性」も、実は採点ポイントが高いんだよ。つまり、日本に来てからの生活態度が、どうなりそうか。そこを見ている。積極的に社内で日本人の友人を作ったり、中級以上の日本語学校に通ったりしてゆく勉強熱心な人物かどうか、企業は見定めようとする。将来の可能性も評価されると言うことだ。

2は、実は日本企業の多くが一番採点の判定の対象としているポイントだ。つまり、日本語や、新しい技術の知識は今から、何とか猛烈に学習すれば、一定のレベルに達するだろう。しかし、とくに高校時代の数学や物理の基礎学問は、エンジニアにとっての知識の基礎中の基礎の知識だ。この基礎知識が薄ければその人はエンジニアとして、大きく成長することは期待できない。だから、面接時に高校と大学の数学や物理の試験を行う企業も時々ある。この2は、日本企業に入社するには重要なポイントだから、高校や大学の基礎学問を、もう一回時間を作って復習する必要がある。文化系の学生も自分の基礎学問を復習した方が良い。基礎知識がしっかりしていない人間は将来能力が伸びないことが多いからだ。また、同時に英語の能力は必須である。日本では、会話能力は通常は使わないが、英語で書かれた資料やマニュアルも多いからだ。また、日本独特の「カタカナ英語」という使われ方もひんぱんに多いので、英語は、少なくともTOEIC600点ぐらいは欲しい。当校への入学時にも英語の基礎テストを実施している。

3は、性格や精神の強さ、周囲との協調性などさ。その企業の業務との適性を探るわけだ。日本企業の土壌には、「天才はいらない」という面が有る。一人だけ優れていても良い発明や開発ができない。むしろ、周囲と調和できずに人間関係がこわれ、組織的なことができなくなる、と考える傾向が強い。特に会社の幹部ほどそういう傾向が強い。つまり、一人の天才より、優秀な人や努力する人が例えば10人いた方が会社にとってプラスと考えるのだ。つまり、みんなと仲良く、協力し合って仕事ができるかが、日本企業の採用に関する際のポイントなのだ。もちろん、新しい小さな企業と、10年20年50年と歴史がある会社では発想が違うよ。小さな企業は革命的なブレークスルーを望むので、採用のポイントは違ってくるね。ただ共通することは、明るくて積極的な資質だね。仕事も積極的、新しい情報や技術の勉強も積極的、さらに明るく快活に積極的に遊ぶ人が好まれる。暗い感じの人や、引っ込みじゃんの人は、面接で絶対えらばれないよ。日本人は特に中高年の人は明るくてがんばる人が好きなのさ。次の4-2項を見れば、よりはっきりするだろう。

4の事は、当日の君の戦略と戦術の立て方と、その日の体調によって、大きく違ってくるということだ。一番大事なことは、自分の能力を具体的に提示することだ。例えば、卒業論文を持ってきて見せる。ベトナム語だから、日本人は読めないさ、だけれども、“持ってきて、一生懸命プレゼンしている”ことが、重要なのさ。他の人が余りやらないそのアイディアと熱意が評価される。何かチームでプロジェクトを行ったときの写真とかもGOODだね。工夫せよ。具体的に自分の能力や性格が伝わることを工夫せよ。さらに、相手の企業のWEB SITEは、当然事前に見ているはずだが、当日余裕(よゆう)ある態度をみせるためにも、前日はもう一回WEBを確認する必要がある。自分はその会社のどの事業に相応しいか、あるいは担当したいか、明確に言えるようでなければならない。相手の企業のことを詳しく面接時に語れば、「彼は、勉強家だね、事前に努力している。入社したい意志が強い」と評価される。入社したい意志や熱意に相手は喜ぶ。高評価さ。当たり前のことだが、実はきちんとやれていない人が現実は多いんだ。ここ、忘れないでね。だから、この4もとても大事だぜ。

■大佛次郎さんの「天皇の世紀」第二巻もまだ200p。読み方の進みが遅いが、井伊大老が大獄の当日に歩んでいくワクワクさせる項に差し掛かっている。なにせ引用の多くの資料が全部「候文」だから、読み込みに結構時間がかかるね。同時に読んでいるゲバラの日記は以前読んだ原書房の三好徹翻訳でなく、朝日新聞刊の1968年版だ。巻頭のカストロのチェへの賛辞文の格調の高さは見事なものである。演説の天才の世界の論理的把握とイメージ構成の妙に改めて驚かされる。
じゃあまたね、諸君。9月27日

2010年8月27日金曜日

★ 灼熱のアジアに神はやはり居た

今日は9月2日木曜。ベトナムは建国記念日で祭日である。
■しかし、おどろくね。菅さんって、まったく、政治的なセンスが無い人物であることが、今回はっきりわかった。田中派の残滓小沢に期待することは、以前から全くないが、市民活動家上がりで、厚生大臣時の官僚との押し合いへし合いでは、強みを発揮して、僕なんかも一定の期待感は持っていたのだが。だが、だが、なんだね、この3ヶ月なあ〜んにもやってこなかった、無策としか言えない。でも何故か対米追従だけは明言したようだ。信頼する作家高村薫さんがアエラ誌で喝破していたが、8月6日、広島で国連事務総長とか、アメリカの代表まで来た画期的な日の記者会見で管首相は何と「当面核抑止は必要で、アメリカの核の傘から出ることは考えない」と言ったらしいのだ。現実対応はいろいろあるにしても、何故その日にわざわざ、自民党さえその日に言わない様なことを、不用意に言ったのか。政治家としてのセンスというか見識がまるで無いと、僕ははっきりと認識した。

彼は、こんどの民主党の総裁戦で更に無策を曝している。9月1日の公開討論会でも良いし、本日の日本記者クラブでの討論会でもいい、世界とアジアへの当面の10年、20年の政治的経済的構想というかグランドデザインがなぜ、言えないのだ。おいおい、二人とも20年も30年も政治家をやってきたベテランだぜ、特に管さんは首相として少なくとも何故話ないのかあ?泣きたくなるぜ。今後のグリーンニューディール的なアジアでの互恵的な経済交流や日中をきちんと押さえたアジア平和外交、世界一の環境技術とサブカル含めたコンテンツの世界性が活躍できる内需外需を超越した施策、ベトナム他とのEPAの推進など何故言えないの?また雇用、雇用と言うけれど中小企業政策が全く不明、さらに中小をコアにした成長戦略もほとんど聞こえてこない。脱「官僚主導」も停滞している。この管首相の構想力の無さ、指導力の無さは何なんだあ。今後日本はどうなるのだろうか?日共や公明党はまったく論外だし。絶望だねえ。 村上龍の近未来小説「希望の国エクソダス」の冒頭部分が突如、脈絡無く僕の脳裏に蘇ってきた。アフガンから中央アジアにかけてのイスラムゲリラ地帯で、日本人中学生の武装ゲリラ部隊数百人と日本のマスコミが現地で遭遇したというテレビニュースが舞い込んできた戦慄の冒頭である。

■先日、NHKでドキュメントシリーズ「灼熱アジア 中東編」をやっていた。凄い。あのねえ、知っていますか。アフリカのサハラをふくむ赤道地帯から、アラビア半島、インド近くまでの赤道直下の地帯を「サンベルト」と言うらしい。で凄いのは、このサンベルトに強力に降り注ぐ太陽光のエネルギーのたったの6時間分が、実は全世界の必要エネルギーの1年分に等しいのだと言う!! ね、そこで、この50年間石油を世界中に供給し富と、時には世界を牽制する武器として使いまくり、ついには後20年もすると、枯渇に近づくと言われていた中東のイスラム国家群が、一斉に石油を過去の物として、太陽の恵みに国家の未来設計を大転換させたのであった。彼らは、石油の埋蔵が気になり始めていたが、不毛と思っていた砂漠と灼熱の太陽が実は、これからの国家を支える救いのアラーの神であることに気がついたのだ。ある時ふと空を見上げ、神に気がついたわけだ。いま、UAEやカタールなどの比較的小さな諸国が広大な砂漠に永遠に続いて見えるほどの太陽光パネルを並べ始めているのだ。間もなく巨大な王国サウジアラビアも始めるだろう。更に巨大ビルとビルの間にはこれも巨大な風力発電機を設置したりしており、排ガス・炭素という汚染物質の供給源諸国が一気に完全に太陽光と風力のエコ発電所の一大拠点に切り替わったのであった、このダイナミズムが番組からビリビリ伝わって来た。

サルタンの名前をもった36才の留学帰りの若いUAEの革命的官僚が、東奔西走して、郊外に新エネルギー都市「マスダールシティー」を作り上げていた。ここには中国、韓国、ドイツ、ロシアの有能な若い官僚たち、ビジネスマンたちが押しかけて、新しい事業と新しい世界作りに熱中しているのである。環境技術を持つドイツのメルケル首相はしっかりと、このマスダールの主力のシステムを受注していた。トンガやモロッコさえも、トップ営業でマスダール計画の展開構想に参入している。東電や物産、商事なども参画しているようだが、リーダーシップを発揮する位置にはほとんど入れていないようだ。菅さん!僕が言いたいのは、こういう新しい構想を東工大出たあなたの頭脳から発信できても良いのじゃあないか、と言いたいのだ。1時間のドキュメントは、心からワクワクさせられた。さあさあ、ニッポン、踏ん張ろうぜい!

■足の長いスーツの4人の男の子たちが、古い町並みの中を走る。赤い制服の数十人の女子高校生が、この愛らしいハンサム4人組を嬉々として追う。多分、この四人と制作者からのリチャード・レスター監督の名画「ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!」へのオマージュなのだろう。妻夫木、小栗、英太、三浦春馬の汗もかかない草食男子4人が「シュッシュー」とか言いながら走る、走る、ロンドンの街を駆け抜ける。僕の大好きなコマーシャルだ。資生堂のFOGBARが、また最近、固め打ちで、オンエアーしている。前回、去年12月も一連のシリーズがあって、思わずこのブログで褒めた。アビー・ロードスタジオ前の横断歩道でのビートルズのアルバムと同じシチュエーションは、まだ出てこないようだが、この「シュシュシュー」しか言わずシンプルなサウンドのCMは、眺めているだけで嬉しくなるね。「TUBAKI」もそうだが、映像コンテンツとして、資生堂のCMは近年の商品CMでは、ダントツにハイレベルで、かつ楽しいできばえとなっている。
■《ブログご高覧感謝》
僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
多いのは一日1400名閲覧もあります。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2010年8月18日水曜日

嗚呼、青春の「旅の重さ」/ ニッポン専門チャンネル欲しい!!

  《ニッポンチャンネル》は、下方に記述
■御嶽山に登る人々のドキュメントをNHKでやっていた。昔から日本では山や岩、川などにそれぞれの神を見てきた。なかでも山には畏敬と恐怖が混じり合った多様な信仰が各所に在るようだ。御嶽山は、映像で見ただけで恐れ多い神が居るような気配があるね。山岳好きの息子はここに登攀したことがあるのだろうか。今度会ったときに聞いてみたい。で、さきほど、アエラをパラパラ見ていたら、四国のお遍路さんの記事が特集であった。アエラ流の「登山ガール」などのアラフォーものの一環の記事らしいが、この四国お遍路巡りの記事は僕の目を引き込んだ。書き出しにあの初々しい名作「旅の重さ」のことから切り出していたからだ。松竹映画「旅の重さ」は僕にとって大切な映画の一つだ。

胸が「キュン」となるとはよく言ったのもだ、一瞬にして初々しい新人女優高橋洋子を思い出した。久しぶりのこの感覚。何かが疼くね。昔の忘れ物を幾つか思い出す。この「旅の重さ」は、お遍路をたどっていた少女の旅路であったらしい。そうであることを僕は全く覚えていなかった。カメラマン出身の斉藤耕一監督のちょっと軽いが巧みなカメラワークが、青春映画のリズムを軽快に刻んでいたし、全編ながれる吉田拓郎の「僕は今日まで生きてきました〜♪♪」も当時の僕らの胸にストレートとに届く詞であったからね。シナリオのシチュエーションなど目に入らなかったのかも。不思議な大人たちとの出会い。今を超えようと震える身体。でも、大人の世界に行くことを拒絶したいと号泣する。この映画は青春の巡礼さ、まさしくね。高橋洋子のみずみずしい笑顔と肢体。青春の苦悩を素直に受け入れている少女の全身が全部鮮やかであった。1972年の僕を圧倒してくれた。その年の3月僕は結婚したばかりであったし、闘う学生や若者たちが一敗地にまみれた季節でもあった。多分、高橋洋子のみずみずしさは、僕の新しく始まっていた妻晃子との生活と二重写しになっていたのだろうと思う。♪♪私は今日まで生きてみました 時には人の助けを借りながら 私は今日まで生きてきました そして明日からも 同じように生きていくでしょう〜〜♪と。
それにしても、10年前ならほとんど視線に入ることがなかった四国のお遍路さんとか自然信仰について知りたいと体や心が意図せずに動いているようである。今月末で62才だ。多くの先達もそうであったようにマルクス主義を含む西洋哲学だけでは近づくことができない文明史的な積み重ねが我々のアジアにはあるのだろうと思う。

■「天皇の世紀」第二巻にはいっているが、何回目かの「ゲバラ日記」とか他のも読んでるのであんまり進まない。でも、先日まで読んでいた「福翁自伝」「アーネスト・サトウの外交官が見た明治維新」や「勝海舟の氷川清談話」との事実の整合性もひしひし伝わってくるので、まさにドキュメントのリアリティを享受できる。
下記は、また例によって、ベトナムで発行する本の原稿の一部だ。そのうえ、この文章は、去年まとめて書いた「海外広報のだめさ加減」原稿の一部をベトナム人向けに編み直したものだ。でも、大切なことだと思うので敢えててまたここで現した。

■私はこの十数年ほど、ベトナムのハノイ市と日本をほとんど毎月往復している。ハノイにも家があるのでテレビ番組を見ることも多い。ベトナムのテレビ番組で特徴的なことは、いくつかのチャンネルで「ディズニーチャンネル」「韓流ドラマ」「中国歴史ドラマ」を朝から晩まで放映している事だ。チャンネルを回してあちこち見ているが、それらは洪水のようだ、と言っておこう。毎日見ている、君らはどう思うか。でも、日本の映画は、たまに流れるだけだよね。

私は1948年生まれ、いわゆる団塊の世代である。ベトナムの若い君らには解らないだろうが、1945年に第二次世界大戦が終わり、その頃同年齢が年200万人生まれたのだ。それが、数年続いたので、「塊(かたまり)の世代」と命名されている。対アメリカ戦争後に君の国で子供が一気に増えたのと同じ現象さ。僕らが小学校に行った頃、少年少女の当時の世界の中心は「ぼくら」「なかよし」「冒険王」「少年サンデー」「少年マガジン」などのマンガ雑誌と数々のアメリカ製テレビドラマであった。今から、約50年前の事だ。
以下のタイトルは連日、僕らの家庭で放映されていたアメリカのテレビドラマだ。『うちのママは世界一』『パパ大好き』『ビーバーちゃん』『名犬ラッシー』思い起こすだけでも楽しい。『ローハイド』『名犬リンチンチン』『ルート66』『ララミー牧場』なんて格好良いのだろう。毎晩僕らをわくわくさせたハリウッド製プログラムの数々。僕たちはこれらのアメリカ映画を見てアメリカ市民の生活に憧れ、アメリカ的勇気と正義を学んで大きくなった。大人の背丈もある冷蔵庫、大きな牛乳瓶、そして各家庭には必ず大きな車が在ることを知ったのであった。男女の逢い引きが、気軽なデート (Date)と言う言葉に置き換わったのも僕らが中学校の頃つまり1950〜1960年代初めの頃であった。

聞くところによると1950年代当時に日本のテレビの各キー局では、それらのハリウッドテレビドラマをほとんど無償か超廉価で仕入れて放映していたようだ。言うまでもない。アメリカの組織的文化戦略の一環であったからだ。ごはんは太るから輸入小麦のパン食にしようなどというキャンペーンもあったことを思い出す。また、保守的な大家族制度から、アメリカ的な一世代だけの核家族への社会的再編作業なども、これらハリウッド製テレビ番組と一体なって、広報戦略のもとで、展開されたのだった。僕らは、当時無自覚だったけれど。あはは、君らも、今まさに無自覚だよね。

アメリカはおそらく、戦後日本での広報戦略スタイルをこの60年間、世界中で継続しているだろうと思う。現在のその先兵はディズニーチャンネルなのさ。結果、英語の普及は地球上で圧倒的だ。韓国も、中国も同様に広報に力を入れ始めている。韓国では最近コンテンツとその販売の世界戦略を統括する省庁が発足した。日本への「韓流モノ」の攻勢もその一環なのだろう。ベトナムで日本映画の放映があまりにも少ないので現地テレビ関係者に聞いたら、日本の番組は高額すぎると言う。いま、ベトナムの或る局ではエミー賞受賞のドラマ『アグリーベティー(NHKで深夜放送している)』の「番組フォーマット」(番組のコンテンツとノウハウの売買)を購入し、ベトナム版連続ドラマを制作し、ゴールデンタイムに放映までしているのだ。私は今ベトナム以外の海外事情には不案内だが、国民の大半が日本を敬愛してくれているベトナムに於いてさえ、テレビなどを通じた広範な国民への我が日本の広報活動は完全に出遅れているのが歯がゆい。大切なことは、他の国の文化も摂取しつつ、ベトナム独自の文化を守り、そして育成してゆくことである。だから、君らからすると余計なお節介かもしれないが、ベトナムの文化の今後を心配しているんだ。文化というかセンス(sense)の持ち方もね。アメリカ文化に体中「毒された経験」がある先輩として。

我々の日本はこれから、技術移転も含む裾野産業構築を基礎にした各国国民との「共生的な外需」の方向に行かざるを得ないと、これも多くの人は既に予感している。そう言う意味で中国や韓国だけでなく、ベトナム、タイ、カンボジア、ラオスなどのメコン流域地域などもこれからの正にパートナーになっていくだろう。
我々がそれらの国々に提供できるものは多い。僕らの自負さ。「環境分野などを中軸とした技術とサイエンス」や「観光」、「サービス、サブカルチャー(マンガやアニメなど)、食と農などのコンテンツ分野」などは、成長分野であると同時に外需向けに相応しい。そうであるなら日本語の流布拡大と日本社会をアジアの国民の皆さんに身近に感じていただく広報活動を貿易、投資、企業進出に先駆けて本気で始めるべきなのだ。東アジア共同体構想の下にアジア政策を推進する場合、言わずもがな広報はそれらの基礎を作る先行のファンダメンタルである。だが、君らが知っているように、日本の海外広報は弱い。橋を建設したり、道路、ダムを造っているだけだ。日本はベトナムへ毎年約1000億円のODA予算を投入していても、おそらく、ベトナムの国民の多くはそのこと自体を知らない。知らせる努力も足りないが、支援の分野が建設・土木に偏りすぎているのだ。バランスが悪い、ゼネコン主導の分野がいつまで、のさばるのか。

はっきり言って、日本の良質な番組(世界の黒沢明監督や手塚治虫先生が代表する日本の良質な映画、ドラマ、アニメ、バラエティー、ドキュメンタリー)を日本政府は日本の各テレビ局や映画会社から計画的に買い上げ、アジア各国の主要メディアに無償で大量に供給したらいのだ。各国の国民が現地語で視聴できる独自の「チャンネルニッポン」を各国に設置することだってODAの予算の一部を確保するだけで、十分に可能だ(NHK国際放送は各国在住の主に日本人向けの日本語放送のみ)。そのほか現地新聞の活用とか、現地語のインターネットWEB展開など経費「縮減」の施策はいくらでもある。

世界語になった日本語は多い。中でも最近「もったいない」が世界語になったことは、未来志向のグリーンニューディール時代の嚆矢(こうし)だろう。日本古来のリサイクルシステムや節約の心から最先端技術まで、私たちが蓄積した“世界財産”は途方もなく膨大だ。ベトナムの知的な青年諸君、どうだね。ぼくの言いたいことはわかるね。僕ら日本は、ベトナムを兄弟と考えて、相互協力して未来を切り開くのが、一番現実的だと考えている。さあ、君はどう思う?     
 

2010年7月31日土曜日

「天皇の世紀」ハノイで読む

日付は、7月31日となっているが、実は今日8月4日である。
■世の中にはいやな奴がいるよね。いけ好かないという奴だ。古くはジャンボ尾崎。その後は柔チャン。田村で金、谷で金、ママで金の御人だ。今度は参議院議員で金を狙っているようで、いちいち鼻につく。こういう毛嫌いはよくないと自覚しているが、生理的に如何ともしがたいものがあり、「これぐらいはいいだろう」と自分の老人わがまま症を許してる。で、最近のいやな奴ナンバーワンは、なんと言っても「ワタミ」の渡邊美樹だろう。次は介護だ、学校経営だ、さらに政府の委員だと、へらへらしゃべってる。奴が「居酒屋つぼ八」でのし上がったドキュメントをだいぶ昔「東洋経済「で読んだことがあった。当時はまともな青年という印象であったが・・。だいたい、テレビの番組で何か意見をいっても、音声の出し方からして軽々しいし、内容はというとこれまた平凡、床屋談義レベルの意見だし、どこが良くてNHKあたりもコメンテーターとして招聘するのだろうか。「夢に色つけろ」だとさ。「夢に日付つけろ」だとさ。よしてくれよ。NHKもしっかりしてほしい。

■海江田万里。僕の数少ない政治家の知人の一人だ。彼は慶応でフロント派で学生運動をしていた男で、同じく慶応で中核派で活動していたかつての僕の上司であったA・M社オーナー河村氏から、30年前に紹介されてからの知り合いだ。その後、縁あって時々は彼のための協力もしてきた。今から10数年前、ベトナム航空機がカンボジアで墜落して、ホーチミンで南蛮亭を営んでいた僕のベトナムでの盟友高野くんも巻き込まれてしまった時、葬儀にて格調高い弔辞を念じたのも海江田だ。その彼が管さんに対抗して、9月の民主党大会で出馬して党首・首相を狙うという。何を考えているのだろう。全く、世間や世界の中の日本について熟考していないというか、冗談としか思えないぜ。確かに参議院選挙以降、管氏は最悪だ。こんなに彼は政治的センスが悪かったかしら・・とため息が出るほど、非道い歩み方だ。特に「国家戦略局」を事実上廃止するなんて、僕のように海外の仕事に専念していて、”日本のアジアのなかのプレゼンスが急落下している現実”に対峙している人間からすると、本当に裏切りだぜ。東京工業大学で、中核派の邪魔をもろともせず、独自のベトナム反戦の市民運動を行っていた御仁の構想力は何処へいたのか。だいたい、荒井なんとかという、どうしようもない面(つら)の男を戦略局担当大臣に据えたときから、心配していたがね。

まあいいや。そういう管の現状だから、海江田の気持ちは理解しないわけではないが、田中派の残滓の小沢を活用しての党首奪取は、方法論に誤りがある。もちろん、ご当人としては、敗北前提で拮抗し民主党の新しい首脳(都市部ネットワーク)に躍り出たいのだろうが、田中派と元社会党労組出身者の連合である小沢派を利用するのは、鮮烈な政治目的を堅持できていないからにすぎない、と断じざるを得ないぜ。海江田君、はっきり言って、都知事へのステップと考えているなら、今もっと世界に通用するメッセージを発してくれ。都知事とか、世界銀行総裁の道は、決して遠くないのだよ。今、松木だの、高島だの貧相バカ面の労組(ろうくみ)あがり連中と組むのだけはよしてくれ。国民が全く無関心の民主党政局に惑わされないで欲しい。たのむよ、海江田さん。

■ところで、NHKの企業買収の争闘を描く「ハゲタカ」は、傑作の連続ドラマだね。昨日の深夜の放映は再放送だ。以前、2年前にも見た。テレビドラマで同じモノを2度も見ているなんて初めてだね。スピード感といい、緊張感といい、心地よいね。銀行の非情で実は稚拙な体質。ハゲタカと言われる”前衛”の群れ。このハゲタカにしか資本主義の構造の冷酷さが理解できないのか。金の亡者と世捨て人の表裏。大森南朋がいいねえ。演技力は凄まじいと言っていいだろう。彼の親父の演技と舞踏は、数十年前に何度もテントの薄暗い演劇空間で見せていただいていたものだ。あの麿赤児だ。「ハゲタカ」は配役もほぼ同様で、劇場映画もあったようだが、今度NHKで放映するらしい。7日夜。残念ながら僕は在ハノイだ。

■書籍を本屋で購入するとき、僕はたいていワクワク感を味わう。大著の場合はなおさらだ。大佛次郎の幕末から戊辰戦争を描いた、そして彼の絶筆となった「天皇の世紀」を手にとって、その場で決めたので、出会いというか、選択のそのひらめきの確信のうれしさもあり、ひとしおの感がある。新しく刊行が始まった文春の文庫だが、約500ページもので12巻の大ボリュームだ。去年苦心しながらも充実した読書時間を僕に与えてくれたドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」(光文社:亀山郁夫訳)でさえ、各巻400〜500ページで5巻もの。あれに比しても、「天皇の世紀」は、大分なモノである。はじめ、荻原延寿の「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」が有れば買おうとしていたが無い。所沢じゃあ、しゃーねーか、ということで、仕方なく長編大作が読みたいというだけで、本屋であさり始めた。山岡荘八の「徳川家康」に浸るほどまだ老人じゃあないし、円地文子、瀬戸内寂聴や橋本治の「源氏物語」は、まだ、どれを選ぶか整理がついていないし、やっぱー吉川英治の「宮本武蔵」にしようかな、とも思った。最近、新渡戸稲造の「BUSHIDO」と武蔵の「五輪書」も読んでいたからね。でも、何か吹っ切れないモノがあって、踏み切れない。よくその正体がつかめないのだが、どうも「極めた人」「達人」の心境に入り込むのが、僕の体質じゃあないんじゃあないか、僕の強い関心はどうも違うらしい。

僕が高校三年生の春にビートルズが来日した。法被着てタラップを降りてくる写真で有名な来日だ。若い人には信じられないだろうが、武道館公演に高校生を行かせまいと、特に東京の教育委員会は必死に防波堤を張ったのだった。田舎の僕らの仙台はどんなであったかは、よく覚えていない。でも、東京の厳戒態勢は、ロックは社会の害毒だと権力側が信じ込んでいたということをはっきり物語っていた。マスコミも文化人もあまり物言わぬ中、大佛次郎氏だけは敢然と「ビートルズ公演に行った。会場は騒がしかったが、イエスタディーは美しい。名曲だ」と朝日新聞の夕刊の文化欄に大佛さんの顔写真入りで、ビートルズを養護した。僕などは目頭に涙が滲んで来るほど嬉しかったぜ。僕は何回かその記事を読み返したモノだ。大人にもまともな人物がいると、この記事で初めて知ったわけだ。だから、17才の時から大佛次郎さんには、漠然とだが強い信頼を寄せてきた。信じられる希有な大人として。

僕の親父の家族が経営していた「仙台中央劇場」は新東宝ほぼ専門館であったので、鞍馬天狗はそこで大分見た。言うまでもない大佛次郎の作家としてのデビューはこの天下無敵の鞍馬天狗だ。勝海舟と鞍馬天狗がお堀に浮かぶ小舟に乗って、「江戸城の明け渡し」について会談をするシーンを今でも鮮明に覚えている。僕らは、母親から風呂敷をかり、頭巾をかむり何度鞍馬天狗を演じ、チャンバラを繰り広げたのだろうか。言うまでもない。役者嵐寛寿郎がいたから、鞍馬天狗も大衆化したと言っていいだろう。なにせ、通称アラカンは、東千代の助、中村錦之助、や裕次郎や、長島と王が、出てくる前の大スターであったからね。マンガのヒーローには赤胴鈴之がいたっけ。アラカンのエピソードが凄いよ。アラカンの付き人の嵐寿之助は、「ある時ドロボーに入られたが、“警察に届けたらあかんで〜、折角ゼニつかんで喜んでるのに、気の毒やさかい”という人ですからね・・・“他人のためには金は惜しまん、おのれは最低必要なものがあればよい”という精神、これ昔からなんですわ。神様みたいな人です。」と証言している、とものの本に書いてあった。大佛さんはこういう本物のスターも誕生させたということだろう。

さて、僕が67年4月に早稲田に入って学生運動というか、いきなりベトナム反戦闘争に関与し雰囲気とか体で覚え始めていて、しばらくしたら、まさにこの「天皇の世紀」は、朝日新聞に連載が始まった。僕は板橋や下落合、江古田あたりの3畳一間の下宿やら、友人の家々を放浪していたので、新聞を毎月自分でとっていたのは、限られた短期間に過ぎなかっただろうと思う。だから、タイトルを目にし、連載の存在は知っていたが読むことは皆無であった。それは当時の僕らにとって、やはりタイトルが理解しにくかった。左翼急進主義の観念に支配されていた僕らは肉体から轟音炸裂ような熱気振りまいてキャンパスや街頭の戦闘現場を闊歩していた風だ。だからそんな僕に「天皇」という文字の奥にあるものなど全く読解不能であって、拒絶的対応をしていたのだろう。だから、当時は「大佛さん、どうなってんの?」というような気分で、それもテーマが明治維新ではなく”昭和裕仁天皇の一代記”と思い込んでいたと思う。この無教養でバカさ加減も最悪だが、18、19才ぐらいで、日本帝国主義に打ち勝とうと傲慢に夢想していた頭と肉体だから、そのあたりが限度であったようだ。

30才のころ何故か続けて、山田風太郎「戦中派不戦日記」と大佛次郎の「敗戦日記」を同じ頃読んだ記憶がある。続けた意味は特にないのだとおもうが、二つの作品共に意識して8月15日のページをまず、一旦覗き、それから巻頭に戻ったと記憶するから、ぼくは、明治革命にしても、アジア太平洋戦争の敗北にしても、実は人と人の日常は変わらないのだということを、15日があれば次の日に普通の16日が作家やその家族たちにやって来ていたということを確認できて、ホッとしたことをはっきりと覚えている。
「天皇の世紀」第一巻を開くと、明治天皇の生誕と取り巻く古式な環境、続いて渡辺崋山と高野長英の誠実に時代と奮闘するがまだ時局に恵まれない不運な人生が資料豊富に描かれる。
■《ブログご高覧感謝》
僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
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・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2010年7月25日日曜日

僕の「風に吹かれて」

最近、エビスビールのコマーシャルで、風の国のビールですと役所広司がつぶやいて、旨そうにビールを飲んでいた。風の名称がほんとに2000もあるのかいな、と思いつつ、風という浪漫がもつ響きで、ボブ・ディランを思い起こした。

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
Yes, 'n' how many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, 'n' how many times must the cannon balls fly
Before they're forever banned?
The answer, my friend, is blowin' in the wind,
The answer is blowin' in the wind.

どれだけ遠くまで歩けば大人になれるの?
どれだけ金を払えば満足できるの?
どれだけミサイルが飛んだら戦争が終わるの?

その答えは風の中さ 風が知ってるだけさ
・・・・
翻訳は数々あるが、これは忌野清志郎の翻訳である。ディランは、当時の英語詩翻訳の代表格であった片桐ユズル氏の訳詞が気に入っていなかったという風評も強く、未だ定番の訳がない。特にもっとも大切なラスト2行のニュアンスが、微妙だね。
英語の苦手な僕ですが、僕なりの解釈はこうだ。

「(友よ!)答とは(昔から)風の中にあるものさ。答はいつも風の中で舞っている。」

この詩は解説するまでもなく、1960年代の全世界の若者の心象を現していたのであった。当時、ジョンバエズや、PPMとかの厭戦的なフォークはいくらもあったが、全世界的なベトナム反戦闘争の時代の若者の思いと声に応えていた歌はこの「風に吹かれて」であった。僕は特別に音楽少年ではなかったが、中学3年でビートルズの衝撃を受けていた僕は、ローリングストーンズも聞き始めていて、「洋楽」一辺倒の音楽ライフに浸っていた。小島正雄の9500万人のポピュラーリクエストくらいしか田舎の高校生に情報はなかったが、ニール・セダカ、ポールとポーラ、カスケーズ、シルビーバルタン、リトル・ぺぎー・マーチ(I WILL FOLLOW HIMで大ヒットした彼女をいま、調べたら1948年生まれ。僕と同年齢であった。かなり大人に見えたのに)、ビージーズ、スコット・マッケンジー、フランス・ギャルとか、きら星が限りなく居て、ラジオからや買った来たドーナッツ盤から僕らのミュージックを解き放っていた。僕らは小学校の時から、「うちのママは世界一」「パパ大好き」「名犬リンチンチン」「名犬ラッシー」「サーフサイド6」「ルート66」「ビーバーちゃん」などのアメリカ製テレビドラマの洪水の中で育ったので、僕らのあこがれはアメリカだし、価値基準もそのなかに取り込まれていたので、日本の「流行歌」や演歌などに当時は僕ら聞く耳を全く持っていなかった。もちろん舟木一夫や橋幸夫とか、今となっては懐かしいけれどね・・。

1966年秋だと思う。仙台二高の映画愛好会(学校そばの河原で昼間から宴会して酔っぱらい、後日、学校に解散させたれた)の会長であった僕に、音楽好きの後輩の小野寺が、頭ぼうぼうで髪が逆立ちしているような風貌だが、顔は憂いがあるようなハンサム男の写真を僕に見せてくれた。これが、噂のボブ・ディランだという。奴が「彼は、朝起きて髪もとかさず、そのままレコーディングにいったり」「いつも風来坊で、レコード会社も困っているらしい」と、かなり低レベルの評論を映画愛好会の狭い部室で、ぼくに言ったものだ。「スゲーナー」僕なんかそれだけで、ぱっと未来が見えた気がしたもんだ。日本の高校生はみんな「バイタリス」を頭に振りかけ櫛を入れていた時代にだ。そのとき僕は、本当に衝撃を受けた。これが、あのボブ・ディランか。そうか、あちらの文化は今そうなっているのか。ハリウッド製アメリカのテレビドラマは幻想なのだった。その写真を見つめ、僕はビートルズやストーンズとも違い、つまり音楽の革命性だけでない俺たちの時代の生き方を一瞬にして、予見できたような気がした。僕らのまだ見ぬ未来をね。ああそういうことか、僕らには、もう一つの生き方があるんだ、とぼくはそう合点した。たかだか5分ぐらいのたわいない高校生の会話の中だったが、人生を変えた一瞬であったのかもしれない。「よし、東京へいって、どうしようもない大人たちに闘いを挑もう」と僕は決意した。

ボブ・ディランの「風に吹かれて」とか「Like a Rolling Stone」を聞くと、当時の友人たちの顔や心情、そして妻との出会いを思い出してしまう。いつの間にか、僕も老人になってきたと言うことなのだろうナ。
you tube で「Bob Dylan Blowin' In the Wind」とか「like a rolling stone youtube」で検索して開くとボブディランだけでなく、世界のアーチストたちによるカバーがたくさん載っている。

音楽は世界を変える、なんていうフレーズはきらいで、「へっ」何言ってんだよ、具体的な闘いだけが状況を突破するのだ、と二十歳前後は真剣に思考していた。でもやはり、音楽は世界を変えうるパワーを持っている。それはいま、はっきりとしているね。若者が思うほど世の中は急激には変化しない。そう、答はいつも風の中で舞(ま)っているのさ。

2010年7月22日木曜日

中小企業20社のトップと・・/ 「武士道BUSHIDO」

6月と7月にハノイや日本で企業のTOP約20名の方々と話す機会があった。急に増えてきた。当校の学生を何度か採用いただいている企業もあれば、初めての企業も多い。いま、総じて言えることは、ベトナムへの関心、とくに進出と人材の確保に関心が高まっていることだ。2008年の秋のリーマンショック以降、ベトナムへの進出などを計画していた日本企業の大半が、計画の中止や、調査の中止を余儀なくされた。いろんな関係者の話を総合すると数千社はあったようだ。まさにそうだと思うよ。当校や当NPOに相談されつつ、待機していた企業だけでも20社以上はあるモノね。その関心がいま、ようやくかなりの勢いで「再開」へと動きだしたのだ。だから、今月と先月お会いした社長さんらの熱意はかなりパワフルだし、目的がリアルだ。

初めての方も、当校卒業生がいる知人の社長の評価などを聞かれて安心して動き出したようだ。特に地方の企業は地元との狭間の中で、アジア進出は簡単ではなく複雑な要素もある。地元を簡単に置いてきぼりにはできない。じゃあ、まずは人材の確保から、と考えている企業もいくつかあるようだ。不況はまだ明けていないし、政治は相変わらず三流状態。環境が良くなったわけではない。が、中小企業のTOPお一人お一人の「次代」への意志が積極方向に現れている様な気がする。もう、状況を待てないのだ。待つ時間がもったいないのだろう。

■ 以下は、またまた、原稿からのコピーだ。忙しくなってきたからね。どうにも書く時間がね。例のベトナム人青年向けの著作の一部です。
「日本人の倫理感、日本人の武士道」・・・参考になるはずだぜ。ベトナムのサムライ君!

日本人にもいい加減な人も、本当に悪い人も大勢いるさ。他の国と全く変わらないだろう。でも、仕事に関していうと、与えられた仕事を丁寧に責任を持って完遂しようとする人々が他のたいていの国より多いことは間違いなくいえる。僕が主観で言っているのではなく、世界のジャーナリズムや学識経験者がいろいろなところで書いている。にもかかわらず、日本人の多くは宗教者ではない、ほとんど宗教には関心がない人が多いと言っておこう。お寺に行くのは観光で行く場合が多いし、先祖や家族のお墓にお花を手向け、お線香を上げるのはせいぜい年に一回だけだ。毎日曜日に教会のミサに出席するキリスト者はもっと少ない、国民のほんの一部だ。ベトナムは仏教国だ。ラオスもカンボジアもミャンマーもそうだろう。生活全体の指針とか規範は仏教で、それに先祖を敬う民衆の地元の宗教が加味されたものだろう。イスラムの国々はさらにその宗教的な戒律はいまでも厳しいのが一般的だ。アメリカは多勢がプロテスタントであり、イギリスは旧教か英国国教会だし、ヨーロッパの諸国はそれなりにカトリックを国の心の糧にしてきた。

でも、日本人から見るとキリスト者であった旧南ベトナムの支配者がベトナム人に対し非道なことを行っていたり、米軍の慰問(いもん)に神父さんがきて、「今からベトナム人を殺しに行く米軍兵士の無事を祈ったり」まったく理解ができないこともおおいぜ。では、日本はどうか。日本人の生活を律している価値基準は多様な伝統的事象が混在していることは確かだ。仏教、道教、儒教の影響を心の底流で受けており、だから何故か知らなくてもいつの間にか生活のあり方は、それに無意識に左右されている。

1900年に国際連盟事務局次長であり、教育者(東京女子大学創設)でキリスト者であった新渡戸稲造博士が英語で「BUSHIDO」を出版した。流麗な英語で見事に日本人の精神構造を書いたものとして、欧米だけでなく日本語版もあり日本の知識層にも強い影響を与えた。もともとは、西洋のキリスト教が西洋人の生活の規範となっていることと同様の「神」が、日本には居ないのか?宗教がないのに日本人は何を心のよりどころにして、生活の規範やひとりひとりの「良心」を形作っているのかという、インテリの友人たちの質問に全面的に応えるために執筆したのだ。武士道精神は「葉隠」や宮本武蔵の「五輪書」などの文書はあるけれど、経典がある宗教ではないので、明確な形があるわけではないが、日本人の責任感や倫理感、公平感、質実剛健な生活スタイルなどがそこに如実に表されている。特に「礼」、「誠」、「克己」などが、現代の日本の生活にまで脈々と流れていることを西洋の騎士道など似た例題をうまく引用して丁寧に綴ってある。「礼は寛容にして慈愛あり、礼は妬まず、驕(たかぶ)らず、己の利を求めず・・」と、明確に書いている。武士道、いや、日本人の心の持ち方の原点だね。「ただし、誠実と信頼がなければ、礼は茶番であるともいわれている」とも書かれている。むずかしいね。わかるかい?ベトナムのサムライ君。

「BUSHIDO」にはこうもかかれている。「富の道は、誠や名誉の道ではない」と。また「克己」は自分の妥協的ないい加減さや、楽をもとめる気持ちに打ち勝つ心のことだ、とね。このようなことが、この本にわかりやすく記述されている。英語が得意な人は英語版で読むと良いよ。読書家の青年は気づいたかもしれないが、この武士道精神のコアになっているものは孔子の儒教であり、孟子の道教なのだ。わかるかい?さらに、武士道や日本的な考え方と同時に僕ら日本人は、高校や大学でボルテール、モンテスキュー、ルソー、ロックなどを一応少し学んでいて、フランス革命で作られた人権宣言などもアジア人ではあるが、いつの間にか僕らの常識的な思考方法に影響を与えてきた。第二次世界大戦の敗戦後作られた現在の「日本国憲法」もその影響をもろに受けている。したがって、戦後生まれの僕らの「正義感」や思考感覚は、その憲法とアメリカからの生活の価値基準で形作られてきた。つまり「ヒューマンな感覚」という奴さ。とても大切なものだよ。

その上、我々中高年の世代はカント、キルケゴール、ニーチェ、ヘーゲル、マルクス、レーニン、ウエーバーなどを自分らで読みこなすことが常識であったので、西洋の思想的な影響を現代の若者より多大に受けた。しかし、東アジアの辺境にある日本人である自分の内部の底流に流れているものは、目に見えないが思考感覚や日常の所作などの中に、確実に儒教や武士道の精神が流れているのだ。その精神が西洋思想と複合しながらも僕ら日本人の内面の主な規範や基準となっているのだ。最近、課題になっていることだが、僕ら戦後の日本人の感覚は「個人主義」傾向が強くあらわれており、「公共」というもののとらえ方が、おろそかになっていた事は否めない。いま、日本ではまだまだ一部ではあるが、その隙間を埋めるような潮流も現れてきた。ボランティア活動が若者やリタイアした僕らの世代を中心に胎動しつあるのだ。グランドワークとか、プロボノというシステムなども新しい形態の一つだろう。

2010年7月14日水曜日

ユニクロとグラミン銀行

まあ、最近僕が購入する衣料品の大半はユニクロだ。お金もないし、行けばほどほどおしゃれというか、「すっきり系」の衣料品が買えるからだ。言ってしまえば、ありがたいということだね。下着から、シャーツ、ベルト、靴下までいやはや、ほとんどだね。そのユニクロがバングラディッシュのグラミン銀行(貧民銀行)と共同で事業を始めるらしい。うれしいね、すごいね、柳井さん。やっとこういう企業が現れてきたんだね、ニッポンにも。僕が1990年代初め、フィランソロピーの企画会社シグフロントをたちあげて、日本企業の大手を中心に「企業の社会貢献」の提案活動をしていた頃は、本気ではない企業もおおく閉口したし、疲れたことが多かった。「納税で十分。それが社会貢献というものさ」とか「アフリカあたりに、寄付しておかないと、批判出そうだしね」とか「おつきあいさ」みたいなことを平気で言っている担当もおおく、一部の積極派企業以外は、ビジネスで”使い物にならないおじさん”のあてがいぶち人事で、やらせられている人が多かったんだ。だから、ひねた人物もおおかった。特に大手商社の「**環境企画室」「企業市民***」「21世紀企画**」とか、たいそうな名称の割には実態はお寒かった。当時の明治生命や日産などは、担当者の方も熱心で教養の豊かな人で、ずいぶんお教えいただいたものだ。当時まだCSRなどという言葉はなく、コーポレートシチズンシップか、フィランソロピーといわれ、マスコミでも取り上げられつつあった。僕もテレビの仕事や広告の表層的おべんちゃら仕事にうんざりしていて、40代はまじめにやろうと言うことで、学生時代の正義感の勘を取り戻して、取り組み始めたのであった。

アメリカでは当時「BSR ビジネス フォー ソーシャル リスポンシビリティー」という団体が産声をあげていて、朝日新聞の編集委員であった下村満子さんと一緒にそのBSRのボストン大会に参加した。当時の僕の会社シグフロントは、日本企業の加入第一号となった。確か次年度も行ったね。サンフランシスコだった。そこで、学んだことは経営者の徹底した企業市民意識であった。彼らは経常利益の10%程度を貧しい子供たちの奉仕団体や医療団体に寄付し、また、アフリカ系住民の雇用拡大など協力活動を細やかにしていた。つまり、アメリカの貧しさと正面から対峙しようとしていた。もちろん日本と歴史も事情も大いに違うので、並列には語れない。語れないが、その本気さが違うのだった。
アップル、リーバイス、そのころ新進のシスコシステムズ、コカコーラ、アベーダ(エスティーローダに買収されたが)などが、幹事役でがんばっていた。まだ、確か当時200社ぐらいの小さな萌芽であったが、大統領夫人ヒラリーさんが参加したり、「スゲー」と僕に言わしめた。

経団連の1%クラブと提携させていただき、協力や後援をもらい、2度青山の国連大学の大ホールで僕の会社が主催で「フィランソロピーの国際大会」を挙行した。アップルの協賛などいただいてね(いまマクドナルドの社長である原田さんが当時アップルの担当の部長であった)。引退された経団連の房野専務理事も僕らの活動の面倒をずいぶんと見てくれた。房野専務の下にいらした上田さんにもいろいろ協力いただいた。上田さんはP・ドラッカーの一連の翻訳者で有名な方だ。
話をもどそう。ともかく、行動がいつも叫ばれていたのに、いつも日本的に「寄付金」で自己満足してきた。そうでない活動もありますよ、もちろん。大企業の方々が呼びかけ合って、富士山の掃除をする、良いことです。NYハーレムで、日本の証券会社の社員がおそろいのTシャツ着て日曜日に大掃除をする。社員の寄付金に倍上乗せして、地震の被災地に寄付する、あるいは物資を送る。もちろん、すばらしいし、それに誰も文句はいえないさ。そういうあり方もあっていいのさ。だけれど、どこか、それだけではない、もっと違う方向があるのではないかと、考えることも実は多かった。
その答えが、やっぱり、ユニクロなどのありかただろうね。そう、これが初めてではない。雇用促進をテーマに国内外で展開しているチームやNPOもたくさんある。グランドワークという考え方もその一つだし、最近増え始めたプロボノシステムもそうだろう。専門性を活かして、共同・協働を模索する試みさ。でも、ユニクロは世界企業として、取り組む訳だから、規模がちがう。すごいよ。
グラミン銀行のムハマド・ユヌス総裁が、語っている。「ユニクロの持つ優れた技術は、ビジネスのためだけではなく、世界の問題解決のために使うべきだ。(合弁は)寒さに苦しんでいる多くの人のためになる」と。ユヌスさんは2006年、ノーベル平和賞を受賞している。

2010年7月10日土曜日

ベトナム航空が不安だ

今読んでいる勝海舟の「氷川清話 ・江藤淳編」を不覚にもハノイの当校の門の鍵を開けようとした際、左腕脇に挟んで解錠しようとして、思わず本が左脇から落下、水たまりにチャポンさ。それも、いかにもキレイでない感じの水たまり。慌てて、洗ってベランダのテーブル上で干してみたが、やっぱーよれよれ文庫本に成りはてた。若いとき本をコーヒーかお茶でぬらして天日に曝したこともそういえばあった。20代の妻と一緒だった、懐かしくて胸キュンだぜ。ネクタイやYシャーツのよれない干し方は知らないでないが、本はどうしたらいいのか。いきなりどうして、あそこまで皺くしゃにかつ大胆に変形しちまうのだろう。製本というものが、かなり紙に無理を強いて整えた振りをしているとしか言えないほど、勝海舟の本は踊り狂った有様となった。本日、ハノイは快晴の土曜日だ。上半身裸で、さてさて、ベトナム航空の事、書いてやれ。

■ 僕はベトナム航空に毎年12〜13回、今年もすでに7回ベトナム航空のみを使って日本とハノイを往復している。つごう150回以上利用してきたはずだ。以前は日航とのコードシェア便も多く、ベトナム航空のチケットでも日航の機体で、かつ日航のキャビンアテンダントの場合も少なくなかった。その際は実は「おっ、今日は日航か」と安心したものだ。正確に言うと日航なら、映画を確実に見ることができるのでのホッとなのだがね。日航はあのていたらくだから、ベトナム航空との提携の度合いが減ったようで、関空からの便など、日航は確か撤退したとおもう。そういう意味ではベトナム航空は自立して営業から、整備までやらなくてはいけない環境にあるはずだと思う。ところが、最近のベトナム航空の機内の中の破損状況はひどい。一昨日、ハノイに来たときの事を話そう。機内の中央には、天井の中にしまわれて良いはずの大きなモニターが故障で、出しっぱなし、画面ではなにやら映像が放映されているのだが、雑誌を破いたような紙を画面に「すみません、これ故障です」とわびた風情で、貼り付けてあるひどさ。さて、僕の前の背もたれにある小型モニターは、点く点かない以前に手元の操作機器がのコードがちぎれていて、点くはずもない状況。男性のアテンダントに告げたら、「まいったなあ」とひとこといって、隣の席の雑誌ポケットにねじ込んだ。一件落着と言うことだろう。

次回の機内掃除の時、掃除の人が、それを見つけてもメンテの担当でないだろうから、例の肘掛けにある「操作機器収納」にただはめて、事は終了し、また、次の客が文句をいい、未解決のままことは推移するのだろう。推して知るべし。こんな調子だから、僕の周りのひとの20名ぐらいのお客さんは、みんなモニター故障らしいし、読書用のランプさえもつかないんだぜ。これが、初めて?というと、そうじゃあないぜ。最近とみに増えている。日航の機体がなつかしい。で、トイレにいっても、手を洗う水が出ないんだぜ。ちょっと非道い・・。でも、2回目に行ったときは、ミネラルウオーターの大瓶が無造作においてあった。たぶん、これ使ってね、ということだろう。書いているとあれこれ、以前のことも思い出して、疲れるので、ここで「事実の開陳」は終了しておく。問題は、じつは、こういう現象だけでないのだよ。これはベトナム空港の幹部から一般の社員、アテンダントまで仕事に対する関心についての重大な要素を指摘しておきたいのだ。

本年初めて、ハノイの市バスに2回乗った。ブオンと娘のりん、ブオンの母親と4人でね。ハノイのバスはヒュンダイ製、ベンツ製などがある。元々新車だと思う。バスの運行はまだ、5,6年しか経っていないのに、僕が乗った二回共に20〜30年ぐらい使いくたびれた、車体と車内に見えたのであった。たぶん、購入して一回もしっかり拭き掃除などしたことがない、錆が出そうなところには油で拭いたり、まったくしていそうもないバスの車内なのだ。運転手は陽気で、母親とはなしたり、他の数人のお客と冗談を言っていたので、雰囲気は明るく悪くはない。だけれど、僕は公共への関心や仕事への責任についてを考えながら、バスに揺られていた。このことは決してバスの車内だけのことではないのさ。飛行機の機内、ビルの構内、道路も同じ事なんだ。市民としての責任、公共意識、仕事に対する責任感、すべて共通していることなんだ。僕が言いたいのはベトナムだけじゃあないよ、多くの世界の国に共通した課題なんだ。このあたりはこのブログの2月27日「ベトナムのテト スローな元旦」に詳しく書いておいた。

日本のメンテナンスを理想として語るつもりは全くないが、美しさや、清潔さを保とうという意志は日本に昔からあった。あるとき、東南アジアの有名な政治家が、東京の地下鉄のエスカレーターの回る手すりを拭いている清掃員の老人を見て感嘆の声をあげたそうだ。「そこまで掃除しているのか」と。だいぶ前に雑誌に載っていた。お客様に責任を果たす。お客様に不快感を感じさせない仕事。日本人は元来から、自分を中心にした思考や感覚を紡いでこなかった、良いも悪いも、周囲のと関係で思考と感覚を設定してきた。他人が先なのだ。他人の感情や他人の主張がまず、先に気になることであり、自分は後回し。「空気を読む」とは、まさに言い得て妙だ。日本人の思考を少しおとしめて書いたが、この感覚は使い方によってずいぶん威力をはっきできる感覚なのだと思う。それをうまく使うと、他人に気を遣い、自分を律して責任有る仕事ぶりを発揮できる。日本人はこの「気遣い」分野では、世界に冠たるメンテナンスやホスピタリティーを発揮してきた。その技術の教育も膨大な蓄積がある。

ベトナム航空に不安を持つのは、自分の仕事に関心が薄いとしか思われないスタッフが多いと言うことだ。例えば、全部とは言わないが、機内でスマイルで仕事しているアテンダントはほぼ皆無だ。とくに女性アテンダントは無表情はまだ良い方で、苦痛の表情の者すら多いぜ。その上機内作業も、事務的で無造作だ。ホスピタリティーの「ホ」の字もない。だったらやめろ、と言いたくなるほど非道い。5年ほど前、麗しいアテンダントとしばらくつきあって居たので、彼女たちに言いたくないし、この会社には知り合いもいないわけじゃあない。でも、年間30往復もしている「顧客」の僕だから、あえて言ってるのだ。自分の与えられた仕事に関心が薄い社員の多い企業は末路が見えてくる。ただの普通の企業なら自業自得で、じゃあ、さらばでことは済むが、この企業は事故に直結する。機内のクルーは、機内のホスピタリティつまり、快適環境に常に責任を持たねばならない、僕が言うまでもないさ。機内がこの調子なのに、機体の修理メンテ工場のスタッフは、自分の仕事に極めて関心が高いのだろうか。僕はそうは思えない。企業の中の気分が全社的に連動してしまうのは、世の常さ。ブラックボックスの中だから、僕らはまったく、知らないで毎日利用している。

少なくとも、機内のビデオ機械、ランプなどの装置機械、水道の装置のメンテもほとんど関心をもたない機内クルーと、修理工場のスタッフは、どこがちがうか、誰か証明できるのか。機内のクルー・アテンダントは、ベトナムの労働者の中できわめて高い待遇だ。だけれどもメンテスタッフも最高級の待遇で、優秀正社員エンジニアでメンテナンスの牙城を築いているのだろうか。機内の電気系、電子系のメンテの担当が誰だか解らないが、このいい加減さは、機体の整備の細心の注意と技術がきちんと発揮できる環境にあるのかが疑わしく思えてしまう。かつては成田では日航がメンテを担当していたと聞く。さて、今はどうなのだろうか。ノイバイ空港では誰が、メンテをしているのか。僕がベトナムに来始めた1993年当時はキャセイが担当していたと聞いていたが・・。

最悪の事態とかの不安を煽る気などさらさらない。が、ベトナム常連の日本企業の人たちは、ベトナム航空に乗らない人が多い現実。乗らない理由はいろいろあるので、これ以外にも。ここではあえて書かないが、料金が高くともみんな日航か、ANAさ。ベトナム航空の幹部はいま、どう考えているのだろうか。現場の実態をどこまで把握しているのだろうか。ぼくは、たぶん今後もベトナム航空にのるだろう。だから、言いたいのさ。このブログは、結構読んでいる人も居るようだし、ベトナム関係者も多いらしい。いつか、ベトナム航空関係者も読むことになるだろう。むしろ、そうあって欲しい。少なくとも日本人スタッフからでも、改善の本気の声をあげてほしい。それも至急にね。

2010年7月3日土曜日

★ 福翁自伝の痛快さ / 戦後の僕らのバイタリティー

いま、福沢先生の「福翁自伝」を読んでいる。まもなく終わる。思い起こすと、この本は息子が塾高に入学したころ、女房が読んでいて勧められ、ちょっと読んだが、なぜかすぐやめていた。何故なのか思い出せない。こんなに痛快で人を爽快にさせる本はそう滅多にないのに、当時なぜ気付かず、たぶん10ページ程度で中断したのか。まあ、いいや。福沢諭吉という人物が日本の教育や社会を形作る規範などに与えた影響は本当に強烈だ。まさに2010年の僕が読んで、このラジカリストの深さに呆れるよ。現代人の僕を卒倒させるほどの本質を堂々と謳っているのだぜ、江戸末期から明治中期に。今更ながら、僕が言うのも恥ずかしいが、慶応の人は幸せだよ。この「福翁自伝」とか「学問のすすめ」などをたぶん中学高校で読むのだろうと思う。慶応出て、バカなやつも結構知ってるが、健全でまっとうな人物がすぐれて多い。早稲田出て良い人物は呆れるほど少ないぜ。だから早稲田にいた妻晃子が、息子を塾高に入れた理由もわかるよ。
慶応にはこの啓蒙家で冒険家で教育者で語学者の福沢の意志が今でも脈々と引き継がれているからだろう。日本における自立した「市民」第一号と言っていいと思う。総理大臣やって「在野」を語る大隈さんとは、いっちゃあ悪いが、比較できない才覚が福沢先生にはある。
と、いいながら、

■ また、ブログ書いていないので、またまた、原稿の一部からコピーしてきた。ベトナムで発行予定の青年向け著作さ。今秋ベトナム全国の本屋に並ぶ予定だ。
・・・
戦後の僕らのバイタリティー
日本は明治時代、西洋に追いつけ追い越せで富国強兵を歩み、1894年の日清戦争と1905年の日露戦争という大国との戦争に勝利した。その自信で比較的のんびりしていた大正時代をすぎ、昭和に入ると、国力にますます傲慢(ごうまん)さが現れてきていた。「神の国」は負けるはずがないと気負ったのだった。軍部の台頭と天皇の神格化がだんだん日本を覆うようになり、中国や朝鮮への出兵は、庶民レベルでさえも当然視されてきた。そして現在の北朝鮮と似たような国家になってしまったわけだが、北朝鮮より悪いのは、“やらされているのではなく、自らそう信じて協力していた国民が多い”ことだった。実はここが、国民性であり、日本人の問題点でもあるのだ。戦後、うまく転がると復興の国民的なパワーとなるのだから、国民性とは、実にやっかいなものなのである。

アメリカは、負けそうな日本に追い打ちをかけるように、1945年8月に広島と長崎に原爆を試験投下した。その前の3月には東京に猛爆を加えて、10万人を殺した。戦争にも国際法があり、関係ない市民を殺害した場合、罰せられる。それにもかかわらず、「民主主義の国アメリカ」は、ジェノサイド(皆殺し)を日本ですでに実行し、その成果をまた、1960年代に君たちの国ベトナムで再現した。歴史的にこのような市民を巻き込んで皆殺しにする犯罪的な戦争を繰り返し、罰せられない国はほかにないぜ。まあ、この話は別な機会にゆずり、日本の戦後のバイタリティーにテーマを戻す。

僕は1948年生まれである。1945年8月に敗戦なので、3年後に生まれたわけだ。日本では1947〜1949年生まれを団塊の世代(ベビーブーマー)という。戦争がおわり、軍国主義が壊滅し、明るい青空の下、結婚がブームとなり若い夫婦が子供を次々に産んだのであった。一気にそのころ急激に200万人の大量の赤ん坊が数年間続けて生まれた。日本ではこの世代を団塊(だんかい)の世代という。貧しくて、何もないが愛と将来への希望にあふれていたと、親の世代はよく言っていた。
そんな中で日本の経済や産業は立ち上がっていったのだ。東京無線工業(ソニー)やホンダ、京都セラミックなどを筆頭に無名だが、バイタリティーあふれる企業が胎動していった。流通ではスーパーのダイエーなどが、勃興(ぼっこう)していた。その頃の国民的な娯楽は映画とラジオであった。家族そろって時々行く映画とか、夕方に、工場から帰ってきたお父さんと一緒にラジオをきくという「団らん」は、戦争のない、平和な小さな幸せであった。ベトナムの若者は覚えていないかもしれないが1990年代に日本の有名なテレビドラマ「おしん」が放映され、ベトナムだけでなく、アジア一帯、ロシア、ヨーロッパまで大反響を巻き起こしたのだ。あの苦しい生活をしながらも明るく、がんばって幸せをつかもうとする少女の姿は、世界に感動を与えたのだ。じつは、まさに、「おしん」同様の生活環境の中で日本人はこぞって、幸せを模索したのさ。みんなで協力し合ってね。

で、当時の明るさの象徴は、1949年の湯川秀樹博士のノーベル物理学賞の受賞だった。自信が無くなっていた国民にとって、「やっぱり、僕らはすごいんだあ」と思ったものだ。この自信は大きかった。
このころ、1950年代、我が日本の中小産業はいかに安く作るかで健闘していた。大学との連携した研究開発はまだまだ行われて居らず自前で思い切って優秀学生を集めて研究部門を拡大していった。オートバイを、トランジスターを、セラミックを、自動車をいかに安く合理的に、早く作るかに腐心(ふしん)した。何を作るかではなく、“いかにつくるか”の競争であった。だから、いまでは、中国が世界の技術の真似をしてひんしゅくを買っているが、当時の日本製品は真似で成り立っていたし、すぐ壊れるで、有名であったのだ。まさに同じ事が起きている。でも現在の中国の技術の剽窃(ひょうせつ)は、乱暴で、その上ずるい手段で技術を盗むことを国が後押ししていると聞く。日本は「基本構造」はまねたりしたが、それを自分流にアレンジして内容を進化させてきたんだ。身勝手中国企業とは違うところだ。
日本は、真似をいち早く脱して、物作りといわれる「最新技術と職人芸」の合わせ技のような独特のシステムを各企業それぞれが編み出していった。

大変有名な教育者であり政治家で慶応大学の創設者の福沢諭吉の「福翁自伝」にこんな事が書いてある。「江戸時代にアメリカのペリーが黒船で日本に来てから、たった7年後には、日本人だけで咸臨丸は太平洋をわたった。黒船を見てから航海術を学習し、アメリカに行けるまでたったの7年でやり遂げる日本人の好奇心と探求心そして勇気は特別な物だろう」と。そういう探求心や好奇心が日本人のエンジニアリングの基礎となっている。1000分の1ミリの違いを見抜く職人の指先、コンピュータでは、表せない「ゆるみやあそび」を確保する微妙な感覚、音だけで聞き分けられる旋盤の作業、水を口に含んだだけで、全国各地の水源を見分ける水道技師など現場の匠(たくみ)たちは、いまでも元気だ。だが、現場での後継者の育成がうまく追いつかず、「ものづくり大学」のような教育システムに環境は移行しているが、器用でがんばるベトナム人に技術をじっくり教えて、育成したいと考えている企業や中高年のエンジニアたちは少なくない。

1950年代後半から、高度成長期に入った。テレビや冷蔵庫はすでに行き渡っていたが、象徴的なものは家庭の3Cだ。「カー」であり、「カラーテレビ」「クーラー」であった。日本の産業はまさにアメリカを追い越そう、追い越せると自覚し、結果、日本のオリジナルな製品が世界を覆(おお)った。ニコンやアサヒペンタックスのカメラであり、セイコーの時計であり、蛇の目やJUKIのミシンであり、ソニーのテープレコーダーなどであった。それを後押ししたのが、何を隠そう1964年の東京オリンピックであったのだ。
郊外には団地といわれる巨大なアパート群が建築され、新幹線が完成し、都市には未来型の高速道路が、あふれた。
1ドルがまだ360円の固定相場であり、欧米世界も東洋の小さな国の産業を競争相手とはせず、妨害も無かった中でのラッキーな日本の世界デビューであったのだ。いわばキャッチアップ(CatchUp)ビジネスモデルの最初で最後のモデルかもしれない。

2010年6月14日月曜日

不思議な日本のメンタリティー

久しぶりに「ワンス・アポーンナタイム・イン・アメリカ」を見た。セルジオ・レオーネ監督の名作、大河作品だ。これまで、4,5回見ていると思うが、昨日も新しい発見もあった。何回見てもエンリオ・モリコーネのオカリナをつかったメロディは言うまでもなく秀逸だ。1920年代から、60年代のNYの雰囲気を物悲しく現している。街のチンピラから連邦準備銀行の長官まで上り詰めた男と親友の物語。僕の映画ベスト10に入れている男同士の葛藤と成長のドラマだ。息子に是非見せたいなあ、と改めて思ったぜ。

これも、前項とおなじ原稿の一部さ。ベトナムの青年向けに書いている。
■「不思議な日本の社会のメンタリティー」
日本の大卒者の入社時の給与(初任給)は、いくらだか、知ってるか?企業によって違うし、地方によっても違う。東京が一番高い地域だ。平均的には2000ドル〜2300ドルだろうか。その企業の社長の給与はいくらかわかりますか?実はせいぜい10倍程度なのだ。信じられないだろう?でも嘘ではないんだ。日本の経済産業省などの外部団体が出しているデータに出ている。アメリカとか、中国は年収50億円(5000万ドル)とかの人物も平気で存在する。しばらく前のディズニーの社長の年収が100億円で、かなりニュースになったことがあった。その2国とも典型的な資本主義国だからである。それに反して日本の社会はあくまで公平で、ヒューマン精神に満ちている。先ほどの多くの月給20000ドル前後のサラリーマン社長は多い。勿論株やストックオプションをもてる機会も多いので、実収入はもっとある場合が多いかも知れないが、日本のドグマは、「公平・平等」に尽きる。去年始めて野党に転落した日本の保守層を代表する資本主義綱領の自由民主党でさえ、「私たちは、貧しい、弱い人の味方です」は、常套句だし、「お金持ちのための政策を実行します」などとは、口が裂けても言えない。福祉や平等は、棄てられない看板だし、戦後50年間政権党であったこの自民党はどう見ても「柔軟な(いい加減ということでもある)社会民主主義」と言った方が良いぐらいなのだ。資本主義の王道を主張している例えば、アメリカの共和党や英国保守党とは、大分違うのだ。

知ってるよね、世界のインテリ、政治家に「世界で始めて成功した社会主義国は、日本だ」と言われ続けていること・・。国際政治に詳しい人には、この「揶揄(やゆ)」は理解されているんだ。会社の中でも社内手続きなどもかなり民主的だぜ。民主的というより、公平さが重要な価値基準となっている。大抵、何でもみんなで会議です。社長が勝手に独裁的に方針を出すことは、特に大会社はほとんど無いと言ったらいいでしょう。これじゃあ、中国や韓国、アメリカに負けるぞ、と日本国内でも溜息に溢れるほど、異常なほどに手続きは丁寧だ。外国人には信じられないほどバカまじめなのだぜ。
勿論、今後の国際競争力を考えれば、現況の日本式スタイルだけでやっていくのが難しいのは解っている。けれども、アメリカのエクセレントカンパニーと言われているリーバイス(ジーンズ)、グーグル、SASインスティチュート、コカコーラ、アップルコンピュータ、マイクロソフト、シスコシステムズなどの先進的な企業の人事制度は、「売り上げ成果に巨額ボーナス」のような制度を脱して、日本の終身雇用を現代的にアレンジした制度が徐々に増加しているという。だから、今後の日本企業の運営の方策は模索中だが、「終身雇用」は「世界遺産」として残るかもしれないね。アメリカ的な価値基準では「非効率、不経済」と思われていたことが息を吹き返し、21世紀中半には、アメリカ的なもののアンチテーゼである「終身雇用などは、非効率だが必要なこと」「みんなで分け合うしかない。資源もエネルギーも維持していかなければならないから」・・が常識になる時代の予兆かもしれないのだ。良い例ではオランダの徹底したワークシェアリングへの評価が高まってきた。

その意味で、日本の終身雇用や年功序列は、問題が多いし、若者からすると、「ふざけるなあ」なのだけれど、実はうまく現代風に改善すれば、人間の歴史に裏付けされた、「妙案」なのかも。たぶんそう考えた方がいいぜ。
僕は1990年代の中半に2回ばかりこれらのフィランソロピーやコーポレートシチズンシップを徹底した米国のエクセレント企業とそれらの団体(BSR)に取材に行き、感銘を受けたことがあった。実は、「成果の上がった人物だけ、あるいは有能な者だけに大金」、反対に「そうでない人は、差別され、降格か、解雇」のような競争を純化したような「成果主義・能力主義」制度は、実は、最終的には成果が上がらないことが実証されてきたからだ。それに直面してエクセレント企業群は、システムを変容させつつあったからだ。日本の伝統的なシステムに近づいた形でね。だって、世の中は普通の能力しかない人が大半だからだよ。人間は自分にとって不都合で不公平に感じる制度やルールに誠意を費やそうとはしないものだ。原理は実に簡単なのさ。

日本は、2001年から2006年まで総理大臣をやった小泉純一郎がアメリカとくに、父ブッシュのマネをして、市場原理資本主義を導入し、日本の自民党ではじめて、金持ちや大企業を優遇し、弱者の福祉などを削減して「格差社会」を戦後始めて現出させた。といってもアメリカや中国に比較すれば可愛い程度ですがね。その揺り戻しが、今の民主党政権であり、野党に引きずり下ろされた自民党だ。で、その結果、両者共にさらに、弱い者や普通のサラリーマンへの社会保障や福祉の大事さ言い、そしてそれをメインのマニュフェストに入れ、弱者の味方を標榜しているのさ。これが、不思議な国ニッポンなのだ。

2010年6月13日日曜日

本の原稿、原稿

これも原稿の一部です。

■ 日本企業の心と、文化を見よ!
日本には大雑把(おおざっぱ)に言って250万社の企業が存在している。日本には何と、西暦(AD)578年(飛鳥時代)創業で現在も建築業界で活躍している世界一古い企業があるし、200年以上継続している企業が何と3000社、100年以上の歴史がある企業が10万社あるというように日本には企業の伝統と、技術と文化を大切にしてきた歴史がある。蓄積があるのだ。
日本の企業の特質は3つある。一つは、従業員を大切にしてきたことだ。従業員の能力を高めてお互いにがんばろうとしてきた。もっと言えば、家族と同じように考えてきた。日本の現在の法律でも従業員の保護は、全てに最優先されている。
二つ目は、従業員つまり社員への教育という投資をしてきた事である。日本の企業は基本的に終身雇用制だ。つまり、一度採用したら、倒産が無いかぎり、定年まで居てもらう日本独特のシステムである。これに、年功序列(ねんこうじょれつ)という制度も重ねて、安定した老後を送れるようにした制度であり、基本的には日本の多くの企業で現在もそれに準じた施策を行っている。が、現代はそれだけでは世界に立ち向かえないため、だいぶ新しいアメリカ的な制度を試験的に取り入れたが、結果はなかなか上手くいっていないのが現状で、富士通のようにアメリカ流のやり方を取り入れ、制度改革に大失敗して、一時混乱した企業もいくつか出た。IT系分野は全般的に企業規模が小さいし、仕事そのものがアメリカ基準だから、今までのスタイルと違うアメリカ風にした企業も多い。しかし、アメリカのエクセレントカンパニーといわれる企業群は、日本の方式をとりつつ、社員にやさしい企業に変容しつつあるようだ。三つ目は品質管理だ。生産した製品一つ一つに愛情を込めて製造してきた「職人の魂」が今でも、工場の中の雰囲気にはあり、工員労働者やエンジニア、職人(アルチザン)が製品を自分の分身と考えて、慈(いつく)しんでいるからである。

日本は、1000年も2000年も前から、野や山、川、海、家、石とか岩に神様がいると考える伝統がある。勿論現在はそのままの形ではないが、工場の機械や製品、素材にまでいとおしい感情を持っている傾向がある。先日、電器の大手企業の東芝のある工場で、この120年間白熱電球(家庭の普通の電灯)を作ってきたが、最近のLED電球に押されて、その製造を止めた。それが、ニュースになっていた。その終了の日、工員や会社幹部たちは、がんばって来た機械(製造マシーン)たちに深々と感謝の礼を行い、頭を下げ、みんな泣いていた。この気持ちが日本の製造現場の心なのです。だから、品質の悪い物を市場に出すなんて言うことはあり得ない文化なのだ。勿論、戦後(1945年)以降、アメリカから他の文化と一緒にQC(クオリティーコントロール)の技術や評価法が入ってきたので、ノウハウとして数値化され、緻密に定式化された。

サムライになりたい君!いいかい、こういう伝統のある産業構造の中にある日本企業の多くが、現在、積極的な営業マンや若いエンジニア、若い労働者、また、デザイナー、経営のセンスのある若者を求めているのです。勿論、チャイニーズでも、コリアでも、インディアでも良いのさ。しかしだよ、日本人の経営者の多くは、できたらベトナム人に来て欲しいと考えているのである。その理由は、あとの項目できちっとおしえるぜ。

2010年5月24日月曜日

さあ、ベトナムのサムライ君

最近、原稿書きでいそがしく、まったく、ブログがご無沙汰なので、今書いている原稿をここに載せてごまかそうかな。ベトナム人青年向けの著作の一部です。
日付は5月になってるが、実は今日は6月13日なのさ。

「日本語は、君の生き方を大きく変える」
2008年9月にアメリカNYでリーマンショックが起こり、世界同時不況となって地球上を駆け抜けた。また、ユーロ圏のギリシャの国家的経済破綻が最近起きて、また不安材料が出てきたが、不況の元凶であったアメリカは2010年春には既に立ち直った。中国、ベトナム、インド、ブラジルなどは相変わらず、6〜10%の経済成長を見せ、大いに元気である。
それに比べて、日本は政治が「幼稚」でもたつきが多く、まだまだ健全になっていない。一年未満で首相が4人も交代した。本当に恥ずかしい限りだ。が、全国の中小企業や大企業の努力もあり、今夏やっと回復の兆しも見えてきた。「2011年の春には、元気を取り戻すだろう」と、多くの専門家が言い始めた。(2011月3月11日以降の事加筆予定)

 さて、サムライになろうと考える君なら知っているだろう。日
 本は「ホンダ」「パナソニック(松下電器)」「ソニー」など世界
 企業を生んだ歴史的な実績がある。
 本田宗一郎、松下幸之助、ソニーの
 井深大(技術開発)と盛田昭夫(経営の世界化)の天才的偉人
 たちを生み、育成してきた背景が日本にはあるのだ。これが、
 日本の「底力」さ。
 さあ、その底力が発揮される季節がやってくるぞ。
君は、本気になって、日本語サムライになる気はあるか?
自分の未来をイメージしよう。君はどのような仕事をして、自分の人生を成功させようとしているのか。

■ ソニーもトヨタもホンダもキャノンもパナソニックもみんな日本の企業です。

さて、僕の知ってる企業名をかいてみるよ。どう?知ってるか?
株式会社村上開明堂、朝日エティック株式会社、株式会社電業、ヨコタ工業株式会社、株式会社ニフコ、岸本工業株式会社、株式会社YCC情報システム、興南設計株式会社 アユミ工業株式会社 株式会社スノウチ 株式会社ディスコ 日東製網(せいもう)株式会社、株式会社恭和、タツモ株式会社、関西セイキ工業株式会社、株式会社高城(たかぎ)精機製作所、応用電機株式会社、株式会社タカトリ、株式会社人財ソリューション、トレックスセミコンダクター株式会社、株式会社静岡制御(せいぎょ)、伊藤鋳造(ちゅうぞう)鉄工所、田淵(たぶち)電機株式会社・・・。知ってる会社ありますか?どれも知らない企業だろう。ホンダやトヨタじゃあないしね。半導体もあれば、精密機械、金型、IT、ロボット色々である。東証一部や二部に上場している企業もある。会社創設してからの歴史が100年以上の会社も2社入っている。ベトナムに既に工場進出を果たしている企業も在る。QC(クオリティーコントロール)関係や発明の関係で日本の政府や世界的な権威の団体から、表彰をもらっている企業も多い。当然、大半が主要ISOを取得している。

このリストにある企業は、日本のまさに中堅の優良中小企業のホンの一部のリストなのだ。これらの規模は50名〜3000名ぐらいの規模のメーカー(製造業)だ。こういった「余り知られていない優良企業」が、日本には、もの凄く存在するのである。約60万社ある。このリストは、製造業だけだ。この他に流通、物流、小売り、サービス、金融、コンテンツ、通信、さらに林業とか漁業や農業の企業、飲食などの分野を加えると、何と日本には総数で、250万社あるのだぜ。星の数ほど、というやつだ。

2010年春、日本政府は、新幹線や原子力発電、水処理大規模システムなどを大臣自ら営業しにハノイへ来た。ベトナム政府の方も大変好意的に対応し話し合ったと聞いた。日本はアメリカや、韓国、中国と違って、いままで「国家が企業の営業をサポートするのは憚(はばか)れてきた。それは、第二次世界大戦の時、日本は国家軍国主義で、現在の北朝鮮と同じような政治機構であったから、その反省とトラウマで、民間や市民の領域には国家・政府が関与しないという、異常なほどの「潔癖性」を戦後60年ほど続けて来た。ある意味ではとても良いことだ。世界遺産に登録しても良いほどの「平和憲法」を持つ日本だから、それぐらいであって良い。でも、アメリカが作り出したグローバル主義の怒濤のような経済の「肉食資本主義」のなかでは、黙っていると韓国が日本の技術をいくつか寄せ集め、それをまとめて(プロデュースして)、アラブ首長国連邦(UAE)に原発を売り込み成功した。元々の技術は大半が日本のものらしい。これじゃあ、まずいだろうということで、日本政府もやっと動き出したというのが真実だ。
1960年代、70年代にも、政府営業が無かったわけではないが、アメリカの政治取引の前に沈黙させられることが多かったのだ。1980年代のトロンアーキテクチャー、90年代のスパコン摩擦もそれだ。話をもどそう。

多様の技術や洗練されたコンテンツをもった大半は中小企業150万社のうち約50万社が製造業(MAKER)で、富士山の広い裾野(すその)の様に豊に果てしなく豊に広がっている。この裾野のような広大な中小企業の存在が日本の産業構造を支えているのである。ソニーのテレビを分解してごらん。おそらく、50社ぐらいの中小メーカーからの部品でアッセンブリー(組み立て)されている。トヨタの車を分解してごらん?約3万個の部品で成り立っている。提供している関係企業は何社なのだろうか。企業秘密だから、いま僕は解らないが、子会社を含む中小企業数十社からの製品の提供が在るはずだ。これらの部品や素材は、全国の優良な中小企業の社長やエンジニアや工場労働者、お年寄りの職人らが、毎日心血を注いで製作したモノばかりなのだ。この「汗の結晶(あせのけっしょう)」が、日本の部品なのである。それらを誰でも知っている有名大メーカーが、審査に審査を重ね高品質を維持して、ミスの一つも許さず、責任を持った製品にアッセンブリーして、ブランド化(branding)し、全世界相手のマーケティング戦略のもと、販売しているのである。

この中小企業から大企業までの総力をあげたもの作りの体制とそれを支える精神が日本の産業構造の一つの特徴である。裾野産業とも言う。解ったかい、青年!!大切なところだぜ。これはメーカーの例であるが、サービス業、小売業、物流・流通、コンテンツ(contents)業、IT業であっても、本質はまったく同じさ。この様なやりがいのある企業がベトナムの若くて、やる気のあるサムライを待っているのである。

2010年4月30日金曜日

幕末への関心

この項は、上記に4月30日となっているが、実はいま、5月24日で、ハノイに居る。最近、イギリス人外交官・通訳アーネスト・サトウの「一外交官が見た明治維新 上下」とか、勝海舟の「氷川清話」とか福沢諭吉の「福翁自伝」とか買って読み始めた。なぜか、急に江戸時代の資本性社会というか、ブルジュア社会の成熟度がどうであったかが、知りたくなったのである。江戸時代における封建制の崩壊から資本制への移行のダイナミズムをね。それに加え何故日本は英・仏など列強によって植民地化されなかったのか。大政奉還を迎えた1867年秋から江戸城の明け渡しの1968年(慶応4年・明治元年)が年表では、歴史の境目になるわけだが、その前後の市民の胎動と革命への情熱から、戊辰戦争などの内戦などまで、変化する時代のうねりにある面白さは尽きない。僕は天の邪鬼だから、流行の坂本龍馬とかにゃあ、ほとんど関心がないんだ。国民がこぞって関心するモノにはだいたい落とし穴があるもんだしね、そして、その評価のほどの割には実はつまらないモノも多かったというのが、僕の見方だね。いやむしろ生き方のセンスと言った方が良いかもしれないな。いま、上記の「一外交官が見た明治維新」の下巻を読んでいる。心から傑作だと快哉できる代物だ。例えで言うと、ジョン・リードの「世界を震撼させた10日間」と我がチェの「ゲバラ日記」と同列に並べたい冒険譚である。「世界・・・」は、ロシア革命に遭遇したアメリカのジャーナリストのリードの日記であり、ドキュメントだ。

ボルシェビキ、メンシェビキ、僕好みの社会革命党(SL)とかの盛衰、またレーニン、トロツキーらスーパースターたちの怒濤の進撃と、錯綜する膨大な闘う民衆たち。時空を超えて革命の途方もないエネルギーを現代でも体感できる良本だ。ご覧になった方も居られると思う。映画「レッズ」の原作でもあるのだ。ウオーレン・ベイティーの製作・監督・脚本・主演で、1981年のアカデミー賞最優秀監督賞を取った傑作だ。ジャック・ニコルソンやダイアン・キートンもキャラを添えている。ハリウッドの懐の深さを思い知らされるね。何せ、アメリカの娯楽の大本営がロシア革命の意義を思いっきり歌い上げてるんだからね。

「ゲバラ日記」は、彼がキューバを去り、新たなる革命戦争の旅に出た後、アフリカから、ボリビアに転戦した時の闘いながらの日記そのままだ。喘息持ちの彼が胸をヒューヒューさせ、息絶え絶えながら、世界の変革を夢みて毎日の戦闘に挑む姿は凄まじく、僕らを駆り立て魂を奮わす浪漫が溢れ出ている。2000年に「トラフィック」でアカデミー賞最優秀監督賞を取ったスチーブン・ソダーバーグ監督2008年製作の「チェ28才の革命」「38才別れの手紙」の二連作の原作の一つとしても有名な日記なのである。

このふたつの有名な作品に比べれば勿論地味な印象でしょうが、長州や薩摩とイギリスなど多国籍軍との戦闘あり、幕府とや不良素浪人たちとのアクション有りで、これも息をつかせぬ「映画向き」な傑作なのだ。桂小五郎、西郷吉之助、勝海舟、徳川慶喜、伊藤博文、高杉晋作、榎本武揚、大隈重信、明治天皇、坂本龍馬などまさに本人がリアルに登場し、アーネスト・サトウと会話を交わし、その上で厳しく論評されているから面白さは尽きない(吉田松陰と福沢諭吉はたぶん出てこないが・・)。それだけでなく、僕のこの本の読書テーマである、ブルジュア資本主義の成熟度の様子の描写も飽きさせない。1850年代、勿論江戸末期だが、全国の大都市の街の一角には本屋があり、公立学校があり、通信網も整備され、地方の港には各藩が大型軍用汽船も所有していた。現在とは大分違うだろうが特許制度もあった。越前福井辺りでは、道路にチリ一つ出ないように各家庭で玄関先にほうきと水を湛えた大桶を用意して毎日道を綺麗にしていた、とか。巨大商社も勃興しており、外国とバリバリ通商を開始していたんだ、とか。面白そうでしょう?
上記でこの本と「世界を震撼させた10日間」と「チェのゲリラ日記」を同列に並べたけれど、趣がだいぶ違うが正に体験を綴った「大佛次郎の敗戦日記」も時代の激変を見ることができる秀作だ。思い出したので加えておこう。

いま、ベトナムで発行する書籍の原稿書きに時間がとられて、どうも、このブログに向かう時間がもてず、というか書き出す心の勢いが減退しており、これには往生している。5月分も一本ぐらいは、近々まとめるとしよう。

2010年4月28日水曜日

卒業生が授業した :写真付き


*上の写真は、「先輩の授業」の記念写真。ご苦労様。


*上の写真は、中央の赤い当校ブース前での、ハノイ工科大学生への勧誘イベント。
先日、提携先のハノイ工科大の校庭で「就職祭り」があり、例年の事だが当校も参加した。当校現役学生もたくさん協力してくれてブースの中と外で「注目を引く」ためのイベントを展開してくれたり、新任の若い教員も張り切ってくれたり、とっても活気あるイベントであったようだ。日本語を猛烈学習し、日本で就職したい学生がいつもながらたくさん参集してくれた。また、一昨日は、アユミ工業でエンジニアとして働くチエンくんと、興南設計の設計のツックくんが、ハノイにGW帰省したので、当校で「VCIの先輩の体験・報告授業」を実施した。彼らが仕事上で体験した先進の技術、日本の仕事システム、社会の環境などなど、とっても重要な事を授業という形で、学生たちに「教授」してくれた。これまでも4回やってきたが、今回は「先生」が2名であったし、またお二人とも二年以上の日本体験者。だから、現役学生たちも熱心で質問も多く、とっても有意義な一時間半となったようだ。お二人ともありがとう。ご苦労様。また、アユミ工業さんと興南設計さんのご協力にも心から感謝申し上げます。

昨日、ニュースで「第五福竜丸」の何とかという方が、アメリカでの反核集会のためにアメリカに行ったことがニュースになっていた。ああおどろいたなあ。第五福竜丸って、僕が小学校の一年のガキの頃の事件です。ビキニ環礁での水爆実験で偶然被爆してしまったのが、この第五福竜丸事件で、乗船員が全員被爆し、確か久保山さんとかいう漁労長か船長が亡くなられた事件でした。当時、広島、長崎に続く第三回目の日本の被爆事件として、大ニュースであったことは、子供の僕も記憶に鮮明に残っている。その後、その船体の保存を巡ってのニュースが時々あった。その船員のお一人が、まだご存命で、それも元気な出で立ちで、アメリカン航空の機上へのタラップを上がっていった。本当に驚いた。この方は、元気で生き抜いておられたのだ。何かちょっとホッとする気分。でも、3回も被爆した日本が、3回の原水爆を破裂させ罪もない市民を数十万人殺したアメリカにほぼ60年間、子犬の用に従順で、軍事基地(占領の)の縮減や撤退の議論すら「抑止」の恫喝の下、なあ〜んにも動けない現状が続いて来たことに改めて愕然とする。

最近「ツイッター」が大流行で、例のバカ殿もすぐに会員になって、時々「つぶやいて」いるようだ。キチンとしたジャーナリストで高名な斉藤貴男さんが「エコノミスト誌」で、オープンな印象作りで始めたのだろうが、総理大臣の責任と権限についてまじめに思考していないのではないか。首相は野次馬じゃあないのだ、という趣旨の事を書いていた。まったく、そうだと思う。政治的責任の重さにほとんど頓着していないと言うことだろう。もし、重要な情報とか、方向性のニュアンスとかをうっかり「つぶやいた」ら、どうするのだろうか。オバマと1対1で普天間基地のことでツブヤキ合うのなら、勿論任せるよ。でもツイッターは世界中のスパイやらゴシップマスコミやら、政敵やらが、みい〜んなチェックしているのだぜ。いい加減してほしい。その前に、例の毎日無様に緊張顔や不安定な眼を晒している「変形ぶら下がりインタビュー」を止めないとまずいぜ。あれが、あなたを奈落に落とし込んでいく。 付録:口先だけで有名だし、自分の事しか考えていない桝添が、どうして人気があるのか、全く不思議だなあ。

2010年4月26日月曜日

中国は一気に電気自動車らしい

「赤ちゃんが生まれると、お母さんも生まれる」とテレビで誰かが言っていた。なるほどだね。子供が出来て、初めて女性は母性を獲得でき、母としての生き方が始まると言うことだろう。誰だったか知らないが、とても良い言い方だね。生まれたての赤ん坊は、まあ、猿と未分化でかわいらしさがあんまり無いとおもうが、3ヶ月ぐらいすると(だったかなあ、ちょっと忘れた。半年かな)目鼻も大分しっかりしてきて、無垢な美しさが少しずつ現れてくる。この幼児から小学校の低学年(8才〜10才)まで、あどけない顔と両眼に、世界の全ての総量を超える価値を携えている。この様なあどけなさと毎日肌触れ合っている母親が、正に子供から無垢の価値の影響を受けない訳がないね。人間だけでなく、犬、猫、ライオン、カバだって、ワニだって、イルカもさ、全地球の上の全ての森羅万象を超越出来るのが、子供たちの無垢さだろう。つぶらな瞳とあどけないお顔、全ての時間の歩みはこのためにある。

今年の母の日は、5月9日だそうだ。仙台の母を思い、その想いにしばらく浸りたい。亡くなった妻晃子(てるこ)も、僕の子供たちの母であった。僕にとっても、母のような面も多かった。ブオンも娘LINHの母である。現役の一生懸命に生きている若い母親の一人だ。
ありがとう。母たち。地球上で巡り会えた幸福を改めて噛みしめる。

缶コーヒーの広告で「我慢できない男」というセリフがあった。本当に厭なCMだ。ちょっと前には「あなたのわがままかなえます」みたいな女性誌の見出しとか、CMもあった。冗談じゃあないぜ。どうして、公器であるテレビで、わがままを良しとしたり、我慢しない事を可とする価値観を声高に喧伝するのだろうか。自由な生き様とわがままは対極にあるのに、なぜ、消費社会はわざと、それらを無理矢理に同一化させて、それを「個性」と総称させるのだろうか。情けなくなる。

消費社会ということで、急に思い出して、いいたくなったことがある。我々は日々を過ごしているので、客観的には見えないわけだが、我々の生活を包んでいる社会が、消費社会であり、情報社会だ。消費社会というシステムと情報社会というシステムは、そろそろ賞味期限が切れている。時代との整合性が合なくなり、綻びがあちこち見えてきている。事例は面倒でここでは言わない。そうだからと言って次の価値とか、次の時代が、見える形で顕現してきているわけじゃあない。何となく、解り掛けて来ているというか、ちょっともどかしいが、明確に認識されない何か。言えることは、今まで300年間の資本制社会の終焉とパラレルにその役割を終えようとしているということである。では、人類が創造する次はなにか。レギュラシオン(調整)とかアソシエーション(組織)と呼ばれる組織体が答えなのかも知れないし、アジアの家族社会を止揚した制度かも知れない。人類がまだ発見できずにいるNEXTの社会はまだ曙の中にある。

先ほど、テレビを見ていたら、中国の車社会の事を報じていた。トヨタは如何にも日本の伝統的な企業のスタイルを踏襲し、まずはハイブリッドを世に問うた。しかし、遅れをとった日産や三菱自動車は、中間項を飛び越し、電気自動車開発を急いだ。ガソリンエンジン自動車は30000個の部品で作られているらしいが、電気自動車は、エンジンでなくモーターで回転させることが基本となるので、構造も相当にシンプルになり、部品も半分以下のようだ。従って、生産のスタイルも大分変化する。変化というだけでなく、技術的にも新しい異業種の企業の参入も可能になってくるようだ。そこで新しい自動車企業が雨後の竹の子のように生成してきて、群雄割拠状態になってきたのが中国である。テレビによると、中古車屋の親爺や整備工場の青年社長らが色んな部品をアッセンブリーして、デザインは今ひとつだが、立派に走る電気自動車をほぼ手作り状態で生産し販売している、ということだ。かつての光岡自動車(日本の8番目の自動車会社を標榜)みたいに小資本だが、アイディアフルな企業群がたくさん生起し始めていると言うことなのだ。ホンダの偽物企業が、あまりにも熱心で品質が高くなり、ホンダが争わずに仲間に誘った(買収した)というとっても嬉しくなる事件が10年前、中国であった。産業の創生期は、そんなものさ。かつての日本もそうだったし、世界中で始まりはそんなモノだ。現在の「成り上がり電気自動車メーカー」の最右翼はリチウム電池のメーカーから出発したBYDだ。

どうして、我が日本は新参の自動車メーカーができないのだろうか。慶応の清水教授の会社の設立の報は聞いたが、それ以外誰も始めていないようだ。トヨタとかの巨大な企業でしか出来ないという先入観が、一種の怖じ気づきを生んだのか。3大カーメーカーに牛耳られていたアメリカでさえ、中小の参入は始まっているようなのに。日本の場合は大手企業と官僚が歴史的に支え合って「車検制度」を作り、中小の参入を阻んできた過程があった。そういう今や桎梏となった制度はそれこそ仕分けで、廃止し、新風が入り清涼な環境で電気自動車を開発する企業群が大量に胎動してくることを心から望む。電気自動車なら、ベトナムだってメーカーが登場してもいいね。むしろ、登場させたいですね。当校の卒業生は7〜10年間、日本で社員エンジニアとして研鑽をつみ、帰国したら、ベトナムの裾野産業に参入してくれ、そのために、君たちは今、当ハノイ日本アカデミーで日本語と日本企業について学習しているんだよ、と授業で僕らは声を大にして、彼らにメッセージを伝えている。彼らの何人かが、電気自動車をベトナムで始めたら、僕たちの本望だぜ。

日本の総合専門学校のベトナム進出

この間、ハノイの当校に日本の総合専門学校の大手と中大手が3校も視察に来た。うち一校はオーナーが数名の社員を引き連れてきて、勝手なことをああだこうだ言ったあげく、帰国後何にも連絡がなく、その傲慢さと下品さが丸出しであった。他の2校は誠実な視察であった。その相次いだ視察は、日本の専門学校業界の現況の深刻さを表しているということだろう。先日、テレビで「中国は経済の伸長に人材の育成がまったく追いついておらず、これからは日本の教育産業、コンテンツ産業の進出が中国の要請でもあり、重要だ」「工場の進出だけでなく、ソフト系・教育系の業界にとって歴史的なビッグチャンスだ」とかなり華々しい言葉が画面に躍っていた。カメラは中国内陸部の企業や学校を視察している日本の教育・トレーニング関連企業・団体の模様を賑々しく映していた。

上記の視察とこのテレビ番組の内容はシンクロしたもので、一般論で言えば全くそうだろうと思う。我がベトナムも、中国の後塵を拝しているとはいえ、中国よりも「やりやすそうだ」のイメージが幸いし、ベトナムも今後この様な分野の進出が盛況となろう。それも遠くない時期にね。中国の教育に関する法的なことは僕は知らないので、ベトナムの事をいえば、WTOの規定に従って2009年に開放された訳だが、「教育は国家にとって、重要な政治的、民族的な要素である」ので、実態はかなり違うようだ。従って、教育分野の進出はまだまだ難しく、時間のかかる作業となっている。

彼ら大手総合専門学校は、学校自体の進出と、ベトナム人富裕層の子弟の日本への留学(就学)促進の二本立てを考えている(近々留学と就学の区別は無くなろう)。そのうち当面は留学(就学)の斡旋と受け入れ事業が主軸となろう。ご存じかも知れないが、平成20年に文科省は、「留学生30万人受け入れ施策」を公表し、現在もそれに向かって省内や関連財団が動いている。だが、現在、留学生はたかだか12万人だ。その内8万人は何と中国人学生である。その期待の中国人学生や高学歴エンジニアが、不景気の日本にいても埒があかず、最近、帰国数が増えているという。環境を見れば、まったくなるほどと思う。だから、この一連の大手総合専修学校、専門学校の動きはこの文科省の現況に対応もしている動きでもある。現在ベトナム人の日本在留者総数は約40000人。そのうちの留学生が約3000名、さらにこのうち優秀理工系大学・学部や大学院に現役でいるのは、400〜500名ぐらいと思う。東大工学部に30名、東工大に30名(それぞれつかみ数)というかんじである。

この大手専修学校らの動きは、この上記優秀学生の大学留学とは、大分ちがったものになりそうで、いくつかの課題点がありそうだ。現在ベトナムの人口は8600万人で、生活に余裕がある中産階級は1200万人(エコノミスト誌)らしい。従って、その専修学校らの一連の動きはこの200万〜300万世帯の富裕層家庭の子弟を日本に送りだそう、否送り出せると踏んでの計画と思われる。僕の危惧はこの辺りにある。彼らの仕事は優秀なベトナム人学生を日本の優良な大学に送り出すことにはない。当然、自校の「ファッション、電子、CAD、アニメ、フードコーディネーター、日本語、スポーツトレーナー・・」などの学校や課程に入れるための留学(就学)促進である。

僕はそれらの学校の授業内容や授業料、また、就職の現況に対して一概に懐疑的であるというわけではない。しかし、日本の学生が減少しているからアジアの金持ちの子供をドンドン送り出し、受け入れようという魂胆が透けて見えるし、もともと大概の総合専門学校は過剰な学費をとり、低位レベルの高卒者に「プロ幻想」を付与し、甘いモラトリアムを提供しているだけの印象が強い。多くは本物の就職準備スクールになっているのだろうか。大いに疑問が在る。今後、ベトナム政府や日本文科省と相談して「入学する学校が客観的にみて問題ないのか。特に授業内容と授業料が見合っているのか。また、就職に不安がないのか。」を評価するベトナムの機関を作った方が良さそうだ。そのような一定の歯止めが可能な公的機関がないと、日本国内で留学生や就学生のトラブルが目に見えて増大する可能性が高い。それは、いままで親日的であったベトナム国民の日本への信頼を急低下させることに繋がる。つまり、大量でその上就職率に問題を孕んでいる「専門学校」への就学・留学は、とても危険な要素を含んでいると言うことだ。

日本に行ってから解ってくるわけだが、「授業料の割に授業のレベルが低い。日本で友人となった日本人に聞いたら、自分の学校は評判の良くない学校であった。プログラムが就職できる学力に到達できそうもない。企業の就職活動で門前払いを受けた。専門学校と大学の社会的な評価が全く違う、騙された!」など、起こりえる。ベトナムで留学を決めた際、正確な情報もない中で、いわば「騙されるように大金を払い」渡航してしまいかねないのだ。ご存じのようにかつてベトナム人研修生の脱走事件が相次いだ時期があった。10年ぐらい前だろうか。これを思い出させるようなトラブルが大量に再発しはじめたら困るなあ。日越関係者として、大いに危惧を持っている。


(*2012/01/26 加筆: 現在、当校はベトナムに進出予定の専門学校を支援する体制にある。マンガ、アニメ、会計、グラフィック、IT、料理・ケーキ、ファッションなどが、有力と思われる。)



■ 昨日、日曜のお昼前の「田原さんのサンデープロジェクト」の後番組にソフトバンクの孫社長と国家戦略相の仙石さんの対論があるというので、見た。すぐに解ったことは、日本の政治家の多くはとくに最近の民主党の人はバカ殿と日本の悪役小沢を抱え、毎日ひいこらひいこら政局だけに対応している内に、管さんも同類だろだろうが、日本の100年の計を構想する力を失っていると言うことだ。それに比べて、孫さんは、上手い。結論から言うと大した構想を彼は、言ったわけでなく、相変わらず通信だけで国を再興(再耕)するという計画を並べただけにすぎないのであるが、プレゼンのプロの説得力は政治家の数段上を行く。1:まず、落ち着いている。2:言葉がやさしい。3:プレゼン内容に見合った解りやすいチャート図、4:他者の話をじっくり聞く態度、5:龍馬を使っている。1〜4は当たり前のことではるが、ちゃらちゃらしゃべる人物に溢れているワイドショー的なテレビでは、極めて好感度を醸し出すことになる。

彼は、20数年前の創業時に、初めて借りた小さなオフィスで3名のアルバイトの学生を前にして世界一のコンピュータソフトの会社になる、いやなれると宣言してアルバイトの学生たちを呆れさせたようであるが、単なる大言壮語の人物ではなく、「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことをまじめに」話すことが出来る才能を持った人だと思う。この言葉は先日お亡くなりになられた井上ひさしさんの”名言”だ。

そして、特に上手いのはやはり上記の5、つまり龍馬のような幕末の志士たちのイメージを自社の社内的にも、業界的にも、さらに昨日のようなテレビでも上手に活用できていることだ。孫さんは、本心から龍馬を尊敬しているかどうか、解らない。むしろ、彼にとってどうでも良いのかも知れないとも僕には思える。本当に敬愛しているのは吉田松陰かも知れないし、高杉晋作、あるいは勝海舟かもしれないし、アジアは一つの岡倉天心であるのかもしれない。でも、彼は今坂本龍馬を活用しきっているのだ。僕のような我慢できない「前衛好き」は、30〜50%ぐらいな多くの民衆が関心あるものは、格好悪くて良しとしない。僕なんかは忍耐が出来ないので、0%〜せいぜい多くても5%程度ぐらいの少数のトンガッタ人だけが関心を示す事象とか人物しか良しとしない。でも、「新参」だけれども正統派のビジネスマン孫さんは器が違う。何が大切かを深いところで知っている。しかも、孫社長は昔から「ジジイ殺し」で有名であった。先輩たちは何時の世でも「過激でやんちゃだけれども、配慮の行き届いた若造」が大好きなのである。僕もそうだしね。

今回、彼の提案は「i Pad」とか、アマゾンの「Kindle」などのような簡便なツールで電子教科書をつくり、小学生から大学生の全学生に無料配布するものなど、彼らしい「成長産業」構想を解りやすく語った。僕からすると、是非、彼には「農業の未来」とか、通信以外で実体経済を形作る成長産業の生成にキチンと触れてほしかった。でも、孫さんがそこまで語ってしまったら、仙石さんも無用だし、その辺の政治家は誰もが不要となってしまうね。そこまで考えて、政治家にもそれなりのプレゼンスを残したつもりで彼は、全部の総論は控えたのかもしれない。そのときのテレビ視聴者は、彼に政治を任せたら面白いかもと、自問した人も多かったと思う。そのぐらいのカリスマ的魅力は在ったよ。でも、彼は番組のラストに彼らしくなく不用意に「僕に国の経営を任せてくれたら・・」とぽろりと、カメラの向こうの国民に語ってしまった。むむむむむ・・。これが、テレビの怖さだ。

2010年4月20日火曜日

オゾンホールに挑んでみた

地球という生命体の体調は、微妙なものである。アイスランドの火山の噴煙で気温も下がったという。日本などは、元々今春は日照時間が不足で野菜などが不作でスーパーと台所が混乱をきたしていたが、この噴煙で、更に被害が拡大するだろう。20年ぐらい前にフィリピンのビナツボ火山の大爆発があり、今回と同様大きな被害を与えたことを思い出すが、飛行機への影響は、ヨーロッパであるアイスランドの今回のほうが、過剰に影響をうけているようだ。

このことで、20年前の「オゾンホール」番組企画のことを思い出した。言うまでもなくオゾンホールとは、大気の外側を包み地球を紫外線等から守ってくれている薄いが最も地球上の生命維持に関係する”オゾン層”に出来てしまった巨大な穴のことである。現在あちこちにあるらしいが、南極とか北極の上空にはこの大きなホールがあって、紫外線が直接地上に降り注いでいる。人間なら、すぐに皮膚癌になると言われ、生命体である地球にとってもその体調不良をきたす可能性がある、環境問題として大きな問題の一つなのである。このオゾン層の破壊の原因多くは、冷蔵庫やエアコンに使っていた「フロンガス」であるとされる。

1988年頃から2年間程度であったが、僕は「タモリクラブ」や「秘密のケンミンショー」「イカ天」製作でテレビ業界的には有名な「ハウフルス」社でイベント事業部門の部長であったことがあった。ここの社長の菅原正豊さんは慶応の学生時代から、有名番組「11pm」のスタッフをしていたという根っからのエンタメのプランナーで、柔和なキャラ。で、いつも「うふふふふ」と薄笑いしながら、汗かかずにヒット番組を作り出すという名人であった。僕は彼の弟と友人で、その関係でしばらくその会社にいたわけだ。

そのころまた(1970年代中半から)、僕はダイアモンドビッグ社の「地球の歩き方」のコアスタッフの安松さん(後に社長)、前川さん、藤田さん、後藤さんと親しくなっており、「地球の歩き方」のPR映画などを受注し、プロデューサーをやったりしていた。で、僕がハウフルスに居るときに、ダイアモンドのごっちゃん(後藤)から、「阿部ちゃん、イギリスにオゾンホールの拡大を防ぐために、気球で大空に舞い上がり、特殊な機械でオゾンホールに酸素を大量に吹きかけて、オゾンホールを修復し、ホールを小さくすることに命を掛けている冒険家がいる。」と聞いた。吹き込まれたと言った方が良いかな。それは立派な仕事だと直感で納得し僕はすぐ動いた。

で、僕は社内でいつも一緒に仕事をしていた若手ディレクターの若目田君をイギリスに派遣した。社長と専務である弟が、快諾してくれたのだ。ロンドン郊外の何とかという田舎町についてすぐに、その冒険家と一緒に巨大気球に乗って大空へ、とはならず、気球の故障とオゾンホール修繕用のマシーンの未完成で、どうにも身動きがならず、若目田ディレクターは地上にてビデオカメラとスチールカメラで、その苦戦模様と初老の冒険家のインタビューを納めて、慚愧な気持ちで10日後引き上げて来たのであった。社内では阿部たちはインチキ話に騙されたと冷笑されたが、我々冒険派は、再度の撮影チャレンジと番組化をねらってそのタイミングを待っていたものだ。「科学冒険譚」は僕ら男の子にとって浪漫あるからね。それからもう20年、あのオゾンホール科学冒険オヤジはどうしたかなあ。アイスランドの火山噴火で緊急出動し、大気圏に大量に浮遊している火山灰の掃除をしているかもしれないね。それにしても、温暖化は話題になるが、オゾンホールのことは最近あまり話題にのぼらないね。こちらも深刻な事態なのに。

2010年4月16日金曜日

風姿花伝 / 宙を泳ぐ目

「ウイスキー〜がお好きでしょ♪♪」と艶めかしいサントリーのハイボールの歌がときたま流れる。なかなか良いね。石川さゆりの「ウイスキー〜〜」の「きー〜〜」のハイキーな声がとくに色気を醸し出している。気になって調べたら、もう20年近くCMとして使っているようだ。初めはハイボールではなくて、あるウイスキーの飲み方推奨風なものであったようだ。竹内まりやとか、ゴスペラーズのバージョンも悪くないが、小雪の大人の色気との整合性はやっぱー石川さゆりだろうね。あの「キー〜〜」の天に駆け上がるような高さが心地良い。お笑いのおぎはぎのふたりの照れた仕草も悪くないしね。このハイボール版になってから、小雪さんと会える気持ちになった男子が多いのだろう、ハイボール用のソーダとウイスキー角の売り上げが広告戦略通りすべからく増したと聞く。

ぼくが広告やSP、PRの仕事を青山の自分のオフィスでやりはじめたころ、1990年代初頭、丁度20年前だね。当時の第一企画のサントリーなどを担当していた知人がこう言った「阿部ちゃん、今の若者はサントリーオールドを知らないんだぜ。」担当者としてはかなりの危機感で語った。ウイスキーの売り上げが急降下していたのだ。確かに、時代はバブル。若者はこぞって、車を買って軟派に勤しんでいた時代だ。車文化と酒の両立は難しい。さらにウオークマンも定着し、パソコン、インターネットが広がり始めた時期だ。テレビすらも若者の関心から、ズレ落ちそうになってきた時代であった。そんな時期にストロングな酒、とくにウイスキーは分が悪い。女の子とワインとビールで、美味しく食べて、軽く嗜む。そんな都会のおしゃれな時代の空気感は、ウイスキーを自然と遠ざけていたのであった。そのころに、販促として、石川さゆりの歌をつかったウイスキーのCMが生まれたのだ。だから、この歌は20年のロングランということになる。

で、何故か、石川さゆりの「キー〜〜」の声と小雪の微笑が気になって、何年振りかにウイスキーを西友で買った。ソーダも買って、ぼくも小雪ちゃんにあうべく、ハイボールを作って、グイとやってみた。炭酸の発砲が心地良い。いいね、なかなか。今日はぼくもおぎはぎの二人と同様に小雪さんに会いたくて、超高層のガラス張りのバーの止まり木で、ハイボールを一杯ひっかけたの巻。でも、しがないマンションの小さな一室のテレビの前で、ハイボール飲んでも小雪さんは来なかった。その上、ウイスキーはウイスキー、なんだか胃に重く来るだけで、大した味わいじゃあなかんべさ。小雪さんに騙されず、ワイン買えばよかったかな。ああごめん、小雪さんが悪いんじゃあないんですよ、その気にさせられた消費者のぼくが悪いんでございます。そう言えば、去年お若くして亡くなったが、大原麗子さんのサントリーレッドの一連のCMもなかなかな傑作でしたね。麗子さんのあのハスキーなボイスがまだ、僕らの耳に残っている。

ご存じの方がおおいかもしれないですが、サントリーは、昔「壽屋」と言った。竹鶴氏が工場長で、ニッカも創業した不思議な両社。壽屋には、アートディレクターでアニメ作家の柳原良平が居た。また、何と何と開高健と山口瞳も居たのだから凄いね〜。彼らの広告作品の良質さで、サントリーADは広告の歴史に名を残した。「トリスを飲んで人間らしくやりたいな、人間らしく〜♪♪」僕らが小学校、中学校で何度も楽しんだ開髙さんと柳原さんの傑作の一つですね。広告の領域にアートと文化を明確に持ち込んだのは、1960年代のこのサントリーと、1970年代初頭のパルコ・西武であったろう。パルコ・西武は現在失速したが、サントリーの広告の上質と上手さは、まだ健在だね。「ウイスキー〜がお好きでしょ。もすこししゃべりましょ。あなたは忘れたでしょ♪♪」

桜の花が雪で隠れる。16日、珍しいがとっても素敵な気候の巡り合わせが自然界で演出された。何十年振りだそうだが、桜と雪の取り合わせです、それだけで、美しい。それだけで、圧巻の自然のアートです。日本の季節の持つそれぞれの風景がちょっとした変動で、組み合わせが変わる。こんな優雅な楽しみはそういつもないよね。わくわくした一日であった。今日は記さないけれど、植物を愛でてじっと眺めながら心を通わせようとする、老人としてのぼくの「植物誌」を書けたら良いなあと最近しきりに思い始めてきた。

最近、世阿弥の「風姿花伝」を読み始めた。世に言う「花伝書」である。言わずもがな古語だから、難解だ。すらっと読むと半分も意味が読み取れない。訳注と解題に目をやりつつだから、時間もかかるが、その分味わいが感じられ、一種の快感さえある。先日、宮本武蔵「五輪書」と新渡戸稲造の「武士道」も買ってきた。これは仕事で使うのもだが、目次を開いただけで胸が疼く。梅棹忠夫の名著「文明の生態史観」も最近買ってあり、机上に積まれて読まれるのを待っている。そう言えば「高校生のための東大授業ライブ・・純情編」も買ってきた。現在ハノイの当校の授業では「同本 熱血編」を使用しているので、これはその続きに使おうと購入したのだ。東大の中堅の教員がそれぞれの専門の領域の基礎的学問を解りやすく、高校生に教えている特別講座のノートをまとめたもので、知的なコーフンを感じさせるグッドな本だ。数学、物理、生物、世界史、地理、国語・・と多様な分野が親切な配慮の元で上手く開示されている。立花隆さんが書いた腰巻き文にはこうある「大学は世界一の不思議空間だ。とにかく何でもあるのだ。君たちのイメージするどんな大学よりも本当の大学は奥行きが深い。学問というのは何でもありの世界なのだ」と。

民主党の仙石国家戦略相が「参院選は、ダブル選挙になる。もし鳩山さんが辞めた場合、単なる首相交代では済まないだろう」と、今朝(18日)放映の「時事放談」の収録時に語ったと、先週金曜から、あちこちで喧伝されていた。それを確かめるべく、彼と司会の御厨(みくりや)の表情と、ビデオ編集の仕方を凝視していた。而して、何となくはめられて言わされたわけでもなく、一人で吐露しようとしたわけでもなく、ほぼ間違いなく、ディレクターと御厨と話し合った後に段取りよく、話した感が強い。彼がそう話さざるを得なかった理由はいくつかある。黄門様を自認するボケ渡辺恒三が「次の首相は管くんだ」とライバルの名前を言ったことも理由だろうし、選挙しないで首相を変えた場合、安倍、福田、麻生に続いて毎年首相の首がスゲ変わるニッポンの悲惨さが世界で露呈させられる。だからもし、変わるなら選挙を伴った物であれば、いくらかでも事態の深刻さを軽減できるのではないか、と踏んだのかも知れない。

ともあれ、平成維新があっという間にここまで凋落してきた。管さんが良いのか、仙石さんが良いのか僕は解らないが、小沢と鳩山という旧来から金権体質の色濃い田中派をここで一挙に放逐する選択肢はある。しかし、そうするなら、一挙にすべからく、国家戦略構想と成長戦略を図表みせて、解りやすく大々的に提示すべきだ。また、細かいことだ(実は大問題)が、毎日鳩山が宙に泳いだ目を国民に晒している「ぶら下がり」の変形の毎日の首相公邸ラウンジでのインタビューは、即刻止めることだ。鳩山さんは、すでに完全に宇宙人顔だよ、すでに。矢追純一がこれはUFOに乗ってきた火星人です、といってもばれないほどの域に達している。あのインタビューで、鳩山も含むこの四代の首相は引退に追い込まれた。あれが続くかぎり、首相は誰がやっても短命となるだろう。あのやり方は、多分10年未満だ。良くない慣例が定着したものである。完全にあの代表インタビューは、「政治家」としての顔と「政治思想」をすり切れさせる装置と化している。言葉と表情を異常なスピードで消費させる装置となってしまっている。マスコミも自重したほうが良い。

2010年4月12日月曜日

★ 行方なきこころの貧困

先ほどまで、NHKの深夜で「自分の聖地」を紹介する番組をやっていた。プロジェクトXに出ていた国井雅比古アナと阿川佐和子が司会していた。100年前の大正後期に人工的に創られた明治神宮の森。その森の苗木は全国国民から10万本ほど寄進されたもので、それをボランティアの若者たちが6年の歳月をかけて完成させたものらしい。しかも計画の当時に、150年後には人間の手を今後借りなくても自立的に成長発展できる鎮守の森となるように計画されていたという。更に誰が送った樹木が何処に植えられているかの記録も正確に残っている。番組ではインタビューに答えていた福岡の90才代の老婆の父と近所の方たちが当時、魂を込めて送付した樹木の行方の蒼々と茂った巨木になった写真を見て驚き安堵し森に感謝をしていた。彼女にとっての聖地となったということだろう。また、自殺願望の男が羽田空港のレストランで飛行機の発着を長い時間眺めることによって、別な生き方の可能性と希望の兆しをイメージできるにいたり、新生の発進となった羽田の滑走路は彼にとって聖地となった。また、ある初老の女性の癌患者にとって、沖縄戦で逃げ込んだ少年たちがそのまま米軍に焼き殺された洞穴が、自分の祈りの聖地だという。人々の多様な聖地を紹介していた希有な番組であった。

最上川の流れのうへに浮びゆけ行方なきわれのこころの貧困

斉藤茂吉の心の聖地であったということで、最上川の滔々とした流れの映像もこの番組に出てきた。彼の主要な歌集「白き山」の一つの歌らしいのであるが、この短歌に打ちのめされた。この歌が詠まれ、画面にこの歌の文字が浮かんだ後、番組の映像も音声も僕には認識できなくなり、一度倒れるようにベッドに入りいま、意を決して布団をはいで、今このPCに向かっている。この歌は、別に難解な精神性が複雑に入り込んでいる物でもなく、素人の僕がそのままに理解出来て解題出来る作品だと思う。「浮かび行け!」「行方なき」「われのこころの貧困」これらの言葉は、激しく胸を打ち、心を揺さぶる。だけれども、なんなんだよ〜〜、茂吉が自らを「こころの貧困」って、言ってしまって。高名な歌人であり有力な医者である茂吉が、自分の心を貧困とつぶやいてしまえば、ぼくは以後何を語れよう。多分誰しも言葉を失い身体全体から脱力せざるを得ない。失礼ですが禁句じゃあないですか、それって。大茂吉が詠んだら、卑怯じゃあないですかといいたくもなるぐらいギリギリのところを考えて刻んだ言葉なのであろう。僕ら市井の人間のこういった反論に似た異論の生起も充分に計算された上での表現なのであろうと思う。それを理解した上で、この短歌は今のぼくに重すぎる荷を背負わせた作品として、記憶に刻んでおくことにした。

先の項で日本文学の古典をキチンと学んでいないことを吐露したが、晶子も正岡子規、伊藤左千夫、そして、この茂吉も詩歌はほとんど読んで居ない。ぼくは中学校で斎藤茂吉には「赤光」という短歌集があるということだけを学び、一句か二句を授業で諳んじたに過ぎない。唯それだけにすぎない学び方であったのだ。心の貧困、知識の貧困。これから先「行方なき」自分の道をどの様に模索したらいいのか。ますます皆目解らない状態に入っていくような気がする。もう一回、声を出して諳んじてみよう。   「最上川の流れのうへに浮びゆけ行方なきわれのこころの貧困」

昨日、井上ひさしさんが癌で亡くなられたという。言うに及ばず「ひょっこりひょうたん島」の作者だ。「吉里吉里人」「ドン松五郎」戯曲「天保十二年のシェークスピア」「自家製文章読本」とか、ぼくが読んだ物はさほど多くない。彼は山形出身のようだが仙台の高校(仙台一高)出身であり、ぼくの実家のご近所の俳優菅原文太さんの友人でもあったということもあって、昔から親しみを覚えていたし、彼の文学作品や評論集、また彼の平和への熱心な行動に敬意を持っていた。ともあれ、井上さんは、文体の天才と思う。柔和で微笑を誘う文体と展開は、野坂昭如さんと双璧だろう。あまり知られていない中編だが「青葉繁れる」という作品は彼が孤児院から通学していた仙台一高時代の懐かしさに溢れた佳作だ。村上龍の高校物「69」ほどの大暴れはないが、蛮カラ少年たちの仙台グラフィティーと言って良い。ご一読を勧めます。東北の魂を持つ才人に心から合掌いたします。
* 俳優菅原文太さんの実家はぼくの家の近隣で、歩3〜4分のところにあった。文太さんのご尊父は西洋画家でぼくの父と親交があり、ぼくも父と一緒に時折そのモダーンで植物に囲まれたアトリエ兼ご自宅に遊びに行っていた。ぼくが小学1〜2年生である当時には、文太さんは不在であった。仙台一高を卒業し早稲田に行ってしまっていた時期だと思う、一度もお会いしたことは無い。それから15年後、1970年頃ぼくは助監督をしていた練馬の東映撮影所で一度か二度すれ違ったことはあった。人気を博す「仁義なき戦い」の直前の頃である。文太さんは「仁義・・」で主に東映京都スタジオに行かれた。