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2010年1月31日日曜日

生死の淵に佇む人へ / 藤原新也さんのこと

■ 先ほどNHKで、「私の子供時代」とか言う番組でたまたま藤原新也さんの子供時代をやっていた。偶然途中から見た。藤原さんは、写真とエッセイを両建てで展開する写真家であり、思索家というか哲学家である。僕は20歳代から好きで「七彩夢幻」とか「全東洋街道」「逍遙遊記」「メメントモリ」「アメリカ」とか、持っている。「東京漂流」も在ったかも知れない。「七彩夢幻」は当時華々しかった池袋パルコとタイアップした作品であったと思う。大分後で一緒に一度だけ仕事でご一緒させていただいた石岡瑛子さん、山口はるみさんらも、この本のアートディレクターとして参加していたんじゃあないかな。残念ながらこの大判の美しく怪しげな原色の色彩光線を放つこの本は、誰かに貸してしまって無くなっている気がする。藤原さんは、僕のたかだか4才上に過ぎないのに、僕ら20歳代のもの好きなややとんがっっていた連中に圧倒的な影響を与えた。天才だと僕は思っている。

この番組によると藤原さんの生家は、小さな割烹旅館のようだったらしい。伊達巻き卵を作るのが得意な板前であった父親の不思議な存在というか生き方が藤原少年の脳裏に威厳とファンタジーがない交じった感覚で残っているようだ。父親は、渡世人でもあったようだし、いつも周りには風の様に出入りする得体の知らない大人たちがいた。おそらくその周りにあった風来とか、旅そして別れなどが写真家としての藤原さんの思索と漂流に大きな影響を与えたのだろう。16才の時父の家業が破綻し一文無しで東京に。その後、東京芸大へ行かせ、写真家に押し上げる何かが、その当時に醸造されていったのであろう。

その藤原さんをやはり普通のアーチストとしてではなく特別視して、在る意味で対抗視していたのが荒木経惟(のぶよし)さん、天才アラーキーさんである。もちろん、荒木さんは藤原さんとは、まったく別な意味で、森山大道さんも、別格視している。そのアラーキーさんとは1980年代数年間ビデオの仕事が中心だが、ご一緒に仕事をさせてもらう機会があった。まだ、奥さまの陽子さんが健在の時分である。そういえば、静岡の富士山が見えるデパートの芸術イベント会場で今は30才ぐらいになった息子が彼の天才にだっこしてもらったことが、あったっけ。そのころ、荒木さんの広い交友の中から、作家の小林信彦さんを紹介してもらったこともあったなあ。当ブログの2008年11月の「赤塚不二夫先生」の項にもかいたが、赤塚先生を僕に紹介してくれたのはこのアラーキーさんでした。

その荒木さんとも、10年も前に飲み屋でばったりとか、渋谷の街頭で「どうもどうも」が2,3回あっただけで、最近は全くご無沙汰している。でも、最近の様子を撮った写真を見るとベランダ風景が見えるので、豪徳寺のお宅は変わっていないようで、何となくうれしくなる。最近は梱包して奥にしまってあるが、いただいたA全の額入り作品を持っている。僕の数少ない財産の一つだ。ついでにちょっと得意気にご披露すると日比野克彦さんからいただいた段ボール系作品も持っています、エヘン。

■ さっき(2月3日夕刻)東京の娘から至急のメールと電話がハノイの僕へ。仙台の親爺が危篤だという。もっと正確に言うと心肺停止状態という。で、10分ぐらい後の次の報で、何と息を吹き返したという。流石94才まで伊達に生きていない。3日前の1月30日土曜には入院していた仙台の病棟で会った。この半年で急激に全体の老衰が進んでおり、両腕などは胸に押し抱いて硬直状態であった。でも、面倒を見ている弟が言うには、久しぶりの長男の帰還で顔色がいい、と。既に声を発する力がないのだろうか、読唇術でもない限り、父親のほぼ最後であろうメッセージも読み取れないもどかしさに苛まれる。毎日父と顔を合わせている弟や奴の奥さんからしてみると「マ・サ・ユ・キ」って言ってるとか。ほんとかえ。

元来、102まで頑張るって言っていた手前、94才程度では、死んではいられないだろう。が、インテリ親爺らしく、根拠は良く分からないが「95〜96才が山場だから」と弟に言い切ってもいたようだから、本年7月に95になる彼としては、断固としてクリアしたい心中だろう。僕も、ハノイに昨日来て、最大限重要課題に7日まで取り組んでいるので、そう簡単に天国に召し上げられても仕事関係が大混乱に陥りそうで、不安がよぎる。
でも、何故か悲嘆に暮れたりのリアクションが僕の体内から湧き出てこない。小学校の高学年時には父親が最大の尊敬人物であり「親爺のためなら死ねる」と途方もない観念を膨張させた少年であったこの僕が、なぜいま、客観的にこのブログなどを認ためられるのか。不思議なものだ。生の絶対値が終焉しようとしている時には何処でも生成されるのだろうか、ハノイからでも僕の意志が伝播するかのような不思議な錯覚作用体内物質が僕の脳髄辺りを支配する。「お父ちゃん、がんばってくれ」

2010年1月28日木曜日

ジャーナリストの激減 / 阿倍仲麻呂はハノイの知事なのさ

■ 雑誌「マリークレール」が廃刊になったらしい。とっても残念だ。なぜって、この「マリクレ」は映画特集とベトナム特集が有名であったし、内容も充実していたからだ。また女性編集長が、ベトナムマニアで知られていたし、特に今年はベトナムの観光キャンペーンの年になるだけに悔しいなあ。僕の娘もここのそばにいたはずだ。彼女からこの件のコメントも聞いていないが、どう言うのかしら。ついでに言うと、僕とか当校のことを去年取材してくれた「フォーブス日本版」とか、一時代を築いた「Hanako」、僕が30歳代、40歳代に愛読していた「スタジオボイスと「エスカイヤ」、リクルートの「ガテン」、天野さんの「広告批評」も去年で終焉を迎えたようだ。残念、寂しい。

インターネットの時代を受け入れた僕らは、今までとても大切にしていた雑誌文化を手放しつつある。これで良いのだろうか。新聞さえも地球上に張り巡らされた情報蜘蛛の巣通信に敗北しつつある。メディアとして敗北し、次のメディアへ席を譲るのは仕方ないが、問題は洗練されたコンテンツだ。研ぎ澄まされたジャーナリズムの行方だ。これらは、雪崩をうって歴史の彼方に廃棄されるのではないか。その不安はほぼ当たりそうで恐い。かつては明治大正昭和を股にかけ活躍した反骨の「宮武外骨」とか元朝日の「むのたけじ」などがいた。彼らは日本のジャーナリズムを創始し、かつ権力から守ってきた。現在、テレビによくでている良識派的な報道人でも、筑紫さんは1年半に亡くなってしまった。立花隆さんや鳥越俊太郎さんも病を抱えている(お二人とも今元気だが、癌を自ら明らかにしている)。

鎌田慧さんとか、広河隆一さん、吉岡忍さんとかほとんどテレビに出ない一群の人たちはもちろん数多くいます。新聞社やテレビ局にも志の高い記者、編集者、ディレクター、ドキュメンタリストがいることでしょう。でも、まともなジャーナリストが次第に暫減状態であることは各社の内部ではハッキリしている。しかも何故か、若い俊英なジャーナリストがあまり育っていない様子。僕らが知らないところで、そして認識できない形の新しい心あるジャーナリストたちが育っているなら良いのだが・・。どうなのだろう。キチンとしたプロのメディアが衰退し、更にこの社会を凝視し批評する者が激減していく日本の姿。ジャーナリズムが脆弱な時代ってどんな社会になるのだろう。暗澹たる気持ちになってくる。

■ 本年2010年は奈良の遷都1300年であるそうだ。テレビコマーシャルで最近時々流している。そこで、日本とベトナム政府は、丁度遷都1000年のハノイと共同で歴史的文化的催事を行っていくようだ。我々ベトナム関係者にとって大変興味深い一年間となろう。ところで、歴史の教科書に出てくる阿倍仲麻呂をご存じですね。奈良時代の遣唐使の一人ですね。李白の友達にもなったそうです。遣唐使はいわば学生ですが、その勉学への一途な意志は僕らの想像を超えますね。彼は何度か日本帰国を試みたが不運にも上手くいかず、約30数年後(凄いですね。20歳代の学生が50歳代に!)に何度目かのチャレンジで、最悪なことに乗船した船が難破し南方に漂流してしまった。

そして流れ着いた先が実は何とベトナムであった。歴史の何と面白いことか。彼はベトナムで10年ほど世話になり、現地で行政の経験を積み、長安に陸路帰還したが、ベトナムでのその力量を認められ、正式にベトナムの総督(当時はこの一帯は大国である唐の一つの地方であったので、総督は県知事である)として赴任した。つまり、あの有名な阿倍仲麻呂って、結局一度も日本に戻れないまま、ベトナムのハノイで波乱の生涯を閉じたのでした。知ってました?いがいと知られていないよね。この彼の総督の城とお墓などがハノイにあり、現在発掘中と報道されています。もし、これがはっきりすれば、大変な観光資源となりましょう。

現在日本からのベトナム渡航はざっと年間40万人です(最近、伸びが遅くなってる)。韓国へが240万人、香港へが130万人を考えれば、今後まだまだ伸びしろがあるでしょう。是非、観光やビジネスでの渡航が促進されますよう、関係者みんなで頑張らないとね。CHAO:チャオは、「今日は」の意味です。イタリア語のCIAO:チャオと同義で発音も同じです。またベトナム人は電話での初めの挨拶を「アロー、アロー」とフランス語風に言う。昔の宗主国のフランス語の影響ですね。このあたりが、ベトナムにヨーロッパの痕跡みえるところ。現在、キャンペーン中の「ようこそ、ニッポン」ならぬ「ようこそ(CHAO)、ベトナム」をあちらこちらで振りまきたいですね。日本人関係者は、今年の観光キャンペーンに協力したいものですね。
■《ブログご高覧感謝》
僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
多いのは一日1400名閲覧もあります。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2010年1月24日日曜日

田中派の残滓

マスコミの一極集中の報道はどうにかならないのか。また、歴史に照らした冷静な報道やコメントが少なすぎる。最近の報道の現場は20歳30歳代が多く、ベテランがデスクとして現場から離任させられるマスコミの人事制度にそのゆがみの主な原因が在るといえるだろう。欧米のように管理者の道と、「一生現場」の道の選択可能な制度にしないと、ますます知識や洞察力に欠けるジャーナリズムが横行することになる。政治家を取り囲んだ記者が「幹事長!辞任するのですか」「石川逮捕の責任はないのですか。ゼネコンからの5000万はもらってないのですか!」とか、横柄にかけ声を投げつける様は、現在のジャーナリズムの現状の一端を見事に見せてくれている。これではメディアのテクノロジーが発達しても意味がない。

僕は民主党はどうも好きになれない。何かもう一つ引っかかるものがあるんだ。党内のリベラル系の人とは僕なんかと感覚が近いのであるが、なじめない何かがある。民主党は前から女性からの支持が薄い。臭覚すぐれた女性のその反応は僕なりに解るような感じがするね。その一つが、松下政経塾出身者を中心とした「好青年、さわやか、高学歴エリート、無表情、アメリカ一体派、苦労知らず、すらすらとおしゃべり・・」の印象が強い面々が多いということだ。どうもいけ好かないのはこのあたりかも知れない。嘘臭いというか、違和感がずっとあるんだ。

更に、前原、原口、長嶋、西村などの「日米同盟」べったりなタカ派的というか、旧民社党系というか、彼らはアメリカ共和党の知日派とかいってるアーミテージや軍事産業グループ、ネオコンに近い連中と親交が在ると聞いていることも、僕に違和感を感じさせる理由の一つだ。僕の経験値では、「保守ではない右派は危険」であるのだ。更に、言うまでも無く小沢、山岡らを中心にした田中派的ゼネコン土建グループの存在だ。ここに間違いなく収賄・不正は付きものだ。小沢は、「そろそろ、その体質を辞めようかと思っていた節もあるが・・」止められず、今回の問題が起こった。女性たちは結構こういう民主党の体質を正確に嗅ぎ取っているような気がする。最近の支持率の急降下は、彼女らが興味を失ったからなのさ。なお、旧社会党系の赤松とか参院の輿石(日教組)などのアホ連中は”ほぼ小沢派”になっている。

今回の問題で、小沢は政治家の矜恃として、即刻自ら議員辞職すべきだろう。今回の検察の動きは、検察の「正義」を御旗に「田中派的土建体質」の政界からの一掃を図っている気配も無いではない。この際、管や仙石らのリベラルグループは「自民党小沢」を切る決断を明確に打ち出すべきではないのか。140名の新人議員は、小沢の選挙支援によって当選したばかりであるので、動き難い面があるのは認めよう。しかし、管、仙石、岡田、野田とかそれにつづく、古川、大塚、枝野ら期待の中堅の言わばリベラル系の人たちが何も言わない体質は非道すぎる。政治家としての決断が欲しい。民主党内の自民党田中派系と訣別すべきだ。そういう、良いチャンスが到来したんだぜ。鳩山もしっかりせい。

自民党は元来、保守本流、保守系リベラル、革新土建グループの3系列で成立していた。三つ目が言わずと知れた不世出の天才的政治家田中角栄の流れだ。彼らは、国土を全てコンクリートで固める「土建重商主義」を掲げていた。であるからしてイデオロギーはほぼ無色で「銭の臭い、土建工事の臭い」がするモノは全て良しだから、中国との国交も可能であった。田中の「今太閤」的出世物語と貧しい新潟を背景に田中派は、1960〜70年代の民社党や日本社会党の右派よりも政治的志向が「貧乏人の味方」、つまり「左」であった。だが問題は裏金・収賄の不正まみれの体質である。ゼネコンからのキックバックで政治が引っ張られていく最悪の体質にあった。その体質が厳然と民主党に生き残っている訳だから、この際、この時代錯誤な「コンクリート派」は絶滅させる時代がきたと民主党は考えるべきでしょう。

自民党はいい加減な政党であったが、一貫して「人間味」もあった。田中角栄の様に貧しい階層と共鳴可能な政治家も結構おおく、共産党などがいう大企業だけにぶら下がっているわけではなかった。特にリベラル系には良い人物も多い。リベラルと言う概念は、結構微妙で難しい側面も持っているが、ここでは、大雑把に言って自民党の加藤紘一元幹事長、谷垣総裁(かわいそうな人)河野太郎、後藤田、塩崎あたりの面々の意味だ。系列では、藤山愛一郎、三木武夫、河本敏夫、宮沢喜一、河野洋平の流れに近い人々のことを指す。宏池会もリベラルも混在しているが・・。この政治家の人たちの方が民主党より、ちょっとマシと思う人は結構多いのではないか。まあ、日本の健全な第一歩、つまりとりあえず、民主党に負託して4ヶ月。この後3月までに予算だけは通して、すべからく、民主党のまともなグループと自民の保守リベラルが、2〜3年間「契約結婚」して、日本の舵取りの当面の基礎を培って欲しい。ついでに日共も名称変更とかしたほうが良いだろうね。

ところで、もう、僕も老人だ。
東京に来て42〜43年。初めて今冬「ズボン下」というかアンダーウエアを買った。高校まで居た仙台では、寒いので子供の時分から分厚いメリヤス股引を履いていた記憶あり。今年は別に寒い冬でもないのであるが、なんだか急に寒いという感覚に襲われて、西友で12月に買った。否買ってしまった。ひゃーっ暖けー。一度着ると止められないね、ももひきって。まあ、僕も老境に入ってきたと言うことだろう。老人になるとなんだか、足回りというか、腰回りがスースーする感じになってくるようだ。去年までそんなこと全くなかったし、冬でも靴下はかなくても、室内なら平気であったんだよ。今冬は、どうしたことか。61歳で、急に老人化が進むのだろうか。いやになるね。去年まで、朝起きると僕の下腹部にはたいてい力強さが満ちていたのになあ。考えれば、それも急に減退してるのかも。ふむふむ・・。そろそろ、介護士・看護士のベトナムプロジェクト本格化せんと、間に合わんなあ。僕もお世話になる季節なのかも。

2010年1月21日木曜日

青春の光芒

日頃、テレビ番組をぼろくそに言ってる私ではありますが、ちょっと褒めたい時もある。最近のテレビ番組で、評価できるのは民放でもサイエンスものや、「日本の中小企業の技術」などを扱う情報番組がいっきに増えてきたことだろう。時代の雰囲気が「日本は金融とかじゃあなく、技術で生きるべし」なトレンドの勢いが出てきたからだろうな。また「農」の復活を後押しするような番組もかなり増えているね。「田舎住まいが格好いい」価値観も、ジャニーズ系の出演も多く一気に増大している印象がある。なかなか日本のテレビも棄てたもんじゃあないね。また、知識力とか雑学や漢字の知識量と深さを競うクイズキング争い番組は今の日本のテレビ番組の世界に誇って良いノウハウだと思う。アイディアや工夫のレベルはもの凄いモノがあるね。世界へ今後ドンドン売っていける正に日本のエンターテインメントの真骨頂だろうと思う。たまに見てるが、京大卒のロザンの宇治原(彼の漫才とかコントなど見たこと無いが)とか、早稲田出のマンガ家やくみつるさんとか、麻木久仁子さんあたりの知識量は幅広いし凄いものがあるね。

まず、「企業と技術」にわかりやすくエンタメ的に触れている番組の増大はうれしい。例えば先日こういうのがあった。「世界中の企業で200年以上の歴史を持ってる老舗は何社ありますか」7000社強在るそうだ。「その中に日本企業は何社ありますか」3500社強が、なんと日本企業なのですね。凄いですね。我がニッポンは東の端、つまり島という辺境に在ったのであちこちから来る文化が集積しやすい地勢にあったことがその要因と思われるが、それにしても驚きですね。金剛組という宮大工の会社が聖徳太子の時代に創立されて、世界一古い企業であることはかねてから有名ですが、この綿々と繋がってきた伝統が技術を支え、新しい技術を生みだし日本の現代にも受け継がれてきている訳だ。こういう事が日本の底力なのだろう。世界に冠たる事実だね。こういう日本の産業や企業文化、さらに高い技術を扱う番組やコーナーが凄く増大した。良いことですね。うれしくなる。

今後、内需にやはり限界が見えてくるだろうし、我が日本はアジアとどの様に付き合っていかなければいけないのであろうか。言うまでもなく日本は環境に関連した技術だけではなく、機械関連や通信関連には世界トップの技術を持っている。マンガやアニメ、サービスなどのコンテンツ産業も世界一と言って良いだろう。また、農業技術も自然農法も含めアジア全体を豊にしていける技術を持っている。昨日設立された慶応大学の清水教授の電気自動車の会社は、世界最新の省力型電気自動車の技術をリナックスと同様にオープンソースにするという。凄い。世界は第二期の産業革命に入りつつある。購買をあおり、企業が成長していけば事は足りる単純な世界では無くなった。天然資源は、30〜50年後には枯渇する。人口も一気に100億人に到達してしまう。如何に地球環境を持続させるか。大きな価値観の変化、パラダイムシフトが求められている今、日本には技術大国として、中国を筆頭とするアジアの「エネルギー燃焼」的産業構造を共生的なかつグリーンニューディール的な構造に再構築して、双方を共に豊にしてゆく義務が在るのだろうと思う。東の端にあり「世界の文化と技術を数千年に渡って堆積させてきた」日本はその経験と伝統を活かして、アジアの皆様にお返しして行く順番なのかも知れない。

今日(23日)、車メーカーのスズキの鈴木会長がNHKに出ていた。この矍鑠(かくしゃく)とした大人(たいじん)は、昔から僕が大好きな叔父様連の中の一人だ。70歳代だろうが、彼はいつも新鮮な事を宣う。スズキは去年ドイツのフォルクスワーゲン社と提携した。司会者が「スズキはインドが強い。ワーゲンは中国、ブラジルが強いわけですから、まずは販売ネットワークから提携を始まるのですか」ときいたら、言下に否定「私らはもの作りで生きてきた。ですから、ワーゲン社とは共通部品の設計の摺り合わせからはじめている」とすらりと言ってのけた。「向こうは大型が強い、当方は小型がつよい」とかの提携は上手く行かない。かつてクライスラーと失敗した経験がある。「今回は両者とも小型につよい」から、上手くいくのだ、と堂々と宣う。強さを相互にぶつけ合って更に良い物に止揚するという意気込みなのだ。通常の提携や合併は自分の弱いところを相手が持っており、相手が弱い点を当方が持っている場合に遂行される。が、おっとどっこい、鈴木さんは並の人とはちがうんだなあ。だから、スズキに納品している部品や素材メーカーは新たな意気込みで機能部品開発に余念がない。相変わらず御大は「うちらは中小企業ですから・・」と衒い無く語っていた。更にこういう番組が増えればなあ。

最近は読んでいないが、旋盤工で町工場の研究とか、時評をされていた小関智弘という人がいる。作家と言った方が良いのかな。1980年代に彼の本を1冊読んだことを思い出した。朝日や日経にも時々論評も寄せていたので、知っている人も多いかも。もの作りの現場からの旋盤工本人からの本当の報告であり、批評なのであったので、淡々とした著作ではあったが、人の心を揺さぶった。彼のプロフィールをコピーしてみた。キャリア50年の職人さんです。この小関さんのような人も番組にどんどん登用してほしいね。

■ 小関智弘さんプロフィール
都立大学付属工業高校を卒業後、地元の複数の町工場で施盤工として50年働く。1975年に『粋な旋盤工』で作家デビュー。町工場で働く人々の生活やものづくりへの取り組み方を自身の眼に写る観点から捉えた著書が話題を呼ぶ。2003年 文部科学大臣表彰受賞。
■職歴・経歴
1951年 都立大学付属工業高校卒業
      以後、大田区の複数の町工場で旋盤工として50年間働く。
1975年 『粋な旋盤工』(風媒社)で作家デビュー(岩波・現代文庫で再刊)
1981年 『大森界隈職人往来』(朝日新聞社)で第8回日本ノンフィクション賞受賞。    
     (岩波・現代文庫で2002年再刊)
2003年 文部科学大臣表彰受賞
2004年 『職人学』(講談社)で日経BP図書賞受賞

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先日、新宿を歩いていたときに、急に新宿御苑にいってみたくなり、30分ぐらい時間があったので、寄ってみた。入ったのは何年ぶりだろうか。撮影かなにかで、20年ぐらい前に来たような気がしないでも無いが、思い出したのは妻晃子と1970年かそこらに、言わば熱々カップルとして、手を繋いでゆっくり散策したことだ。公園に差し込む光と影が僕たち二人の思い出を甦らせてくれた。その時何を話したのだろう。将来のこと。結婚のこと。映画のこと。親たちのこと・・何を話ながら歩いたのだろうか。愛しているときの感情、恋しているときの高ぶり、今となっては、ほとんど忘れかけている感情かもね。無垢な無償の情感。人生で一番大切な心だろう。それを僕らは自然に共有していたんだ。そのとき、僕らから仄かであっても光芒が未来に向けて確実に放たれていたはずだ。考えると目頭が滲んでくるけれど、その心の高ぶりは遠い彼方だね。晃子と出会ったのは1969年、結婚したのは1972年、旅だったのは2005年12月。毎朝、自室で線香を手向け、僕は彼女の笑顔を脳裏に呼び寄せ彼女の声を静かに聞いている。

その新宿御苑の入り口に新しい作りの建物があり、喫茶室やオフィスや誰も見ていない都庁関係のガイダンス機械などがあった。アートギャラリーという部屋があったので、そっと入ってみた。中には沢山の小鳥やフクロウ、ミミズクなどのカラーリングされた木彫が展示されていた。表示を見ると「八王子何とか会」とか「新宿小鳥・・会」とかあり、趣味のご老人が心を込めて作成した作品とわかる。さえずりが聞こえてきそうな秀逸な作品もある。一人の老人が展示会の「店番」をしていた。御客は、僕と立派なニコンをぶら下げた70歳代の方。僕ももう少し経つと小鳥と戯れたり、草木を愛でたり出来る老境に入っていけるのだろうか。穏やかな日々って、僕にも来てくれるのであろうか。求めなければ来ないのであろう。でも、僕の場合強く求め探してもそのような安寧な環境は来ないかもしれないなあ。僕はどう生きて行ったらいいのだろう。

 

2010年1月19日火曜日

頑張れ辻井くん / テレビカメラマンの無能 / 青春の蹉跌

■ 年末年始に書いた前項の「爆笑問題の失笑問題」は今までで最高のアクセスであったようだ(一日1400アクセス)・・さてさて、
なんだか最近、ベトナム私信とは言いつつ毎回テレビやCM評が増えてしまっているね。阿部さんひまだなあ、と言われそうだが、現に2,3名の仕事関係者に言われてしまったが、暇なわけでも無く、むしろシンドイ運営問題(不景気が長引いて日本企業の採用数がまだまだ回復して来ないんだよ〜)もあるし、かなり忙しいんだぜ、本当は。気持ちも晴れないしね。

まず、去年大変感動的に話題となった辻井伸行君のこと。去年初夏にアメリカのバンクライバーンピアノコンクールで優勝した、あの盲目の青年だ。ぼくはその優勝した当時、彼の幼少からの足跡などは良く知らなかったが、優勝を告げられた会場の舞台で長身のクライバーン氏に抱擁されてとまどい気味にしがみついていた辻井君の白くてまろやかな顔が忘れられない。おめでとう。僕は君をよく知らないが、おめでとう、やったね。僕もうれしい。テレビのニュースに出るたびに自分の息子が優勝したような錯覚が襲ってきたほど、狂喜できた。その彼のドキュメントを年末に見た。知性豊かな家族環境のなかで、育ってきたことが解る。キチンとした家庭、冷静でエネルギッシュなお母様、堂々と共に歩む息子。ドキュメントそのものはたわいもないプログラムであったが、登場する一人一人の心の豊かさがしみじみと見る者に伝播してくる。

見ていて、フジテレビで長年追いかけていたバイオリニスト五嶋龍くんと彼のお母さんを思い出した。龍君の姉は言わずと知れた天才バイオリニスト五嶋みどりさんだ。このお母さんがまた良いのだ。この二人の母親の共通項は多い。考え方や人生観が軽やかだ。無理はしない。モノの捉え方とか発想が自由。自立を促し、的を射たアドバイスは常に欠かさない。所謂教養というものをお持ちなのだろう。そうでないと天才は自在に飛翔できない。このフジテレビの番組「五嶋龍のオデッセイ」は10年ぐらいつづいたのだろうか。最近はみないが・・。番組はかつてのフジテレビの会長夫人で元NHKアナウンサーの頼近美津子さんの進行で展開していた。その頼近さんは、去年若くして逝去した。
話を戻そう。辻井君、さあ地球の真っ青な海原が君の前に広がっているよ。良い風も吹いてきた。地球の美しさは君のものだよ。

■ またまた、ドキュメントだ。偶然途中から見た。栗城史多(のぶかず)という30歳にもならないアルピニストの青年が主人公だ。凄い。畏敬。彼は、無酸素で既に世界の7サミットを登り切っており、最後のチャレンジがチェモランマ(エベレスト)なのだ。このNHKの番組では天候の悪化と疲労で、チャレンジは失敗する。大泣きに泣く栗城さん。でも、この番組の白眉はこれじゃあないんだ。凄いのは自分の登山の行程をインターネットで全世界に中継しているのである。従って、エベレストの頂上の中継はまだ為されていないわけですが、視聴者は天国に隣接した群青色の青空の中から通信される画像と音声を通じて、アタックの苦しみと頂上に屹立した歓喜を登山者と一体になり味わえることになる。本当に凄い。

かつて、1990年湾岸戦争の時、CNNの戦争特派員ピーター・アーネットがイラクから撤退せず残留し、怒濤のように攻撃してくる米軍をイラクサイドからパラボラアンテナを使って衛星中継した驚きに、この栗城さんのプロジェクトは似ている。生死を彷徨いながら孤独にたえて、「臨場の今を知らせたい」本能的欲望は同一だろう。ところで、アルピニスト野口健はすっかり胡散臭い環境イベント屋に成り下がっようだね。小池百合子の隣で万歳叫んでいたし。俗物は今後聖地へいちゃあいかんぞよ。

■ 最近というより、この方20年ぐらい気になっていることなのです。とくに、この10年は、非道いと思う。テレビのカメラワークの事である。ENGスタイルになり、取り直しが利くからかも知れないが、センス無い乱暴なテレビカメラ(マン)が多すぎる。僕は民放のドラマなぞ30年は全く見ていないので、ドキュメントやニュース分野しか言えないが、訓練を受けた痕跡すら見えないカメラワークが多い。一番のダメさは、カメラの対象者に涙が溢れてくる時のカメラマンのセンスだ。悲しさが極まり目から涙が溢れる状況に立ち会った際、すぐにズームレンズで、顔や目にアップで寄ってしまう。”きらりと光る涙を撮影できればニュースだ”と勘違いしないでほしい。ズームアップを我慢しろ、顔や目頭にある悲しみは、悲しみの一部に過ぎない。

悲しみは引いた画面全体に溢れているものである。深い悲しさは、顔や目にだけにあるのではないのだ。悲しみに耐えようとする手や指に、震える肩や胸に、全身からあふれ出てくる人間の悲しみは、全身に接している空気そのものを震わせる。悲しみに遭遇して悲しみに耐えようとしている人間の深い思索と感性は、立ちつくしている人間の全身を描写することに主眼を於かなければならない。こんな作法は古典的名画も含めた多くの優秀な映画を見ていれば、技術としても学べるはずなのだ。画面の人物が泣きそうになると、フラッシュが機関銃のごときに連射され、ビデオカメラのレンズはズームアップのバカの一つ覚え。もう、バカな撮り方は止めてくれ。いい加減にしてくれ。テレビカメラの放列に陣取る各局の”素人カメラマン”たちよ。サイズを引いた広い落ち着いた画面の中全体に被写体の悲しみを静かに表現せよ。

■ いま、ドストエフスキー亀山翻訳版「罪と罰 第三巻」が、やっと200P。あと半分だ。次は何読もうかなあ。日本の古典的な長編かなあ。身体の生理はそんな感じである。さて、2,3日前に読み終わった本『村上春樹と小坂修平の1968年』について。著者のとよだもとゆきさんという、初めての人だ。1968年とみれは、その関係者というか、団塊の世代の人はすぐに気がつく。1968年はまず、フランスのカルチェラタン(左岸)で、大学生と高校生がたちあがった大闘争「5月革命」があったし、この年の10月21日の世界反戦デーはベトナム反戦闘争として、全世界的に高揚した。この様な中で日本でも東大闘争とか日大闘争が急激に広範にたたかわれ、今までの全学連内部に巣くっていた新左翼諸党派の退屈な党派的形式的な闘いをラジカルな一般学生が軽々と超えていった。その「全共闘の戦い」が全国に広まった重要な年がこの1968年であったのだ。

日比谷高校とか青山高校でも、バリケードストライキに入っていたし、ほとんどの有力大学を中心に全国的に大学も高校も「ベトナム反戦」をコアにした紐帯で決起していた。僕は1967年早稲田入学だから、この68年は法学部二年生でその高揚した学内と街頭の戦いを毎日祝祭のように自由に遊泳していた。様々な出会いと怒りと悲しみなどが記憶されている年でもあったのだ。田舎の高校生が大人にならざるを得ない激烈な年でもあったということだ。
このとよだ氏の本はそのときの早稲田の事を書いたものであった。というより、全く僕と同じ時期に同じキャンパスにいた人物の言わば総括的な本なのだ。実はこの本の面白さはそのときの僕の感覚と共通性が多いことなのだ。

僕は19歳であったし、みんな生意気で議論付きな若造真っ盛りであった。多くは政治的というよりベトナム戦争へのヒューマンなリアクションであったり、「大学立法という治安維持法的な管理法案」へのアンチテーゼで瞬発的に反撃していた。そう言う感性で決起していたのだ。そう言えば早稲田祭のその年のキャンペーン命題は「感性の無限の解放を」であったっけ。センスの無い日本共産党系は、ただ縮こまって「ストライキ反対」とかいって、大学当局とほとんど一体に見えた。新左翼諸党派も「社会総叛乱」を捉えきれず、慌てふためいていて、政治的計画を膨大な数になっていた”闘う普通の学生たち”に押しつけていたように見えた。当時僕は「社会総叛乱としての全共闘」と位置づけ、いろいろな檄文を書いていたように、この著者のとよだ氏も芸術とか、デザインとか、映画・演劇も含めた戦いであったと回顧している。

僕らも他に負けじと、シュールリアリスム革命派とか、スパルタクスとか名乗っていた。「キリスト者反戦」と大書きした赤旗を掲げた黒ヘルメットの一群がキャンパスを走り抜けていったりしていた。一見遊びに見え冗談に映っていたかもね。でも、みんなアメリカのベトナムへの侵略や、日本の大人社会に本気で怒っていたんだ。法学部の僕が毎月「美術手帳」とか「映画評論」「映芸」とか愛読していたし、当時「朝日ジャーナル」とか「読書新聞」とか、「平凡パンチ」とか、あらゆる媒体が戦いの狼煙をあげていた。小田実さんや野坂昭如さんを直接電話して学内に招聘したり、キャンパスも街(主に新宿)も言わば高度成長期最後の徒花繚乱の季節であったのだった。この年、僕は新宿中心に映画を100本見た。東映任侠映画、フランスヌーベルバーグもの、アメリカンニューシネマ(初期)とか小川プロの三里塚の記録などの歴史に燦然と輝く秀作が街中の小屋(げきじょう)に架かっていた。もちろん、唐十郎さんの赤テントや寺山修司さんの天井桟敷、更に暗黒舞踏派などが、大都会東京の暗渠で蠢いていた。

海の彼方のカンヌ映画祭だって、ゴダールとか、ルイ・マル、トリュフォーとかが、スクリーンを引きちぎり、映画会場を占拠して毎日「革命論議」さ。ウッドストックでは数十万人のヒッピーが既成概念と既成のライフスタイルを突破しようとしていたし、黒豹党やマルコムXらがアメリカの都市部を震撼させていた。そう言う時代の政(まつりごと)について・・・・この項、近々継続。