2009年2月26日木曜日

小学生の見た大正末期 / ホイアン3《観光の戦略》

昨日から読み始めている本が、結構面白い。「小学生が見た大正末期・昭和のはじめ」というタイトルである。大正14年に小学校に入学した子供たちが、担任の恩師と成人になってまでも交流し、当時の小学校時代にたくさん書いた作文を生徒たちが老人となった1990年代にまとめ、出版したという代物である。面白くないわけがない。大正14年と言うと、僕の母親が生まれた年だ。その時、6,7才の小学一年生であるから、皆さん今九十歳超であろう。

生活、学校、勉強、社会、自然・・等に書いたテーマ別に整理されていて、当時の少年少女が大正の時代の平穏な市民生活、特に和気藹々とした兄弟姉妹たちとの遊びや親への敬愛の情、また迫ってくる軍国主義の社会の雰囲気を上手く書き込んでいるのである。舞台となるこの学校は都内の筑波大付属の小学校と中学校である。田中豊太郎先生という方の綴り方教育に対する特異希なる努力と生徒たちとの信頼関係から生まれた成果なのである。例えば選挙という作文がある。小学五年女子のもの。「・・・田中先生も教生の先生も(注:選挙には)いらっしゃるだろう。選挙権をすてる人が沢山あると新聞に出てゐたけれどこんな人は日本人のくせに責任をもたない人だ。いけない。もし、十数年たってから女にも選挙権が出来たらその時は一番によい人を選ばうと思ふ。英国では女の代議士もあれば女の大臣もあるさうだ。日本はやっぱり英国にはかなわない。なんでも負ける。これからは女でも英国のやうに元気を出さなければいけない。・・・」また、

 これは小学四年男子の二人の新聞配達というもの。「朝日新聞の配達人はしょうじきな人だ。時々朝日新聞がおそいと、お父様が、今日はおそいね、とおっしゃると、今日はねぼうをしましたからおそくなりました、としょうじきに答える。中略 おかんじょうを取りにくる時、内に誰もいない時では、又いつかきますから、ときげんよくかえってゆく。朝早くからあせみどろになって新聞をくばっている。報知新聞のはいたつ人はとてもおこりんぼだ。内に誰もいない時、おかんじょうを取りに来る。女中が今誰もいませんというと、ぶつぶついいながら、けちなうちだ、新聞代ぐらいはらえないのか、とどなって出ていってしまう。雨のふった日なんか新聞をおもてにおいていったこともある。中略 おそいというと、トラックがおそかったから、おそくなったんだとりくつを言う。・・」 良好な家庭環境の子供たちだと推察は出来るが、今読んで溌剌で爽快。そして、愉快だね。

このように元気でクリアな洞察力に溢れ、子供の目で時代を描写した作文集なのである。一級の歴史資料と言って良い。僕の亡くなった妻がやはりこの中学・高校(以前は教育大付属と言った)で少女時代を過ごしていた。妻の時代はこの文集の時代から大分後の昭和30年頃である。僕はこの作文集を紐解きながら、妻が溌剌として聡明であったであろう少女時代に彼女の胸を焦がした夢や希望を、この作文集の行間に想像した。書きながら切ないの思いで一杯となった。名もなき良書の一冊である。

■ 今までダナン・ホイアンには4回行った。今回は時間もないので、どぶ川に架かったあの有名な「日本橋」へは行かなかったが、夜に川縁のランタン風情が美しいレストランの一角で、件の職業訓練学校の校長や溶接の滝野講師やスタッフと、我がVCIの4名と美味しい夕べを楽しんだ。この一帯の洗練された観光エリアは以前はなかったと思ったので校長に聞いたところ、この3,4年で整備されたらしい。ベトナム航空のカレンダーにも採用されているくらいだから、ホイアンやダナンにとっては観光の目玉に成長させたいのだろうし、その意欲もインフラの整備から読み取れる。ただし、川の(名前は知らない)両側に色とりどりランタンを演出したクラシックなレストランが数軒存在するだけなのである。まだまだの感あり。

さっきどぶ川と言わせてもらった「日本橋」の最悪な環境を大分以前に見て、僕は憤激し、というより愕然として、それまでもあちこちの寺院や神社で情けない思いをしたことも総ざらいして、ベトナムの観光政策を当時の服部大使に4年前の今頃かな、提言したことがあった。マーケティングの専門家として、ベトナムの観光立国化を目指すための提言書として、したためたのだ。
主な趣意は、ベトナムには、沢山の観光資源がある。が、観光を資源として、磨き再生産していく知識と技術が地域住民にも、地方政府にも観光総局(現在観光省)にもほとんどなく、自覚さえもないことを明示した上で、観光資源をコアにした住民・市民・地方大学による資源の再生の委員会と運動体を設立し、一方、ホテルやレストランでのお客様を中心にしたサービスの改善や衛生教育の組織化とノウハウ開発と、観光総局の内部の組織改革、更にODA予算の観光への振り向け、またマーケティングの導入などを大胆かつ簡潔に具体的に記述した30ページぐらいのものであった。大使は、大変喜んで確か「こういう感じで行きたい」旨をおっしゃり、僕も期待がふくらんだ記憶がある。

う〜〜むでも、大分時間が経ってしまったなあ。誰のせいでもないが、こういうのは進まないものですね。今回、その日本橋は見ていないが、聞いたところ、まだどぶ川はそのままなようだ。さらに、日本橋と言われても日本人が見れば、まさしく中国デザイン風の橋であり、そんなものを見させられて”ホイアン観光の目玉です”といわれてもうんざりするばかりだろうと思う。後は「太いうどん」と日本風のしもた屋が何軒あるだけ。うどんは美味くてお勧めだが、それ以外のお粗末さは問題だよ。本当にベトナムの観光の未来が心細い、と言うより極めて深刻と言える。お隣タイに日本人観光客は年120万人、ベトナムは確かビジネス渡航も入れて約45万人。この差は、この何年も埋まらないでいる。

一回見れば、もう来ない。それが現状だ。有名なハロン湾でも同様である。まあ、悪くはないが、良くもない昔からのルートと島巡りスタイル。日本人で、ハロン湾にリピートで何回も行きたいと言ったり、あるいは何度も行ったという観光客を僕は知らない。先ほどの提言書の副題はたしか・・「リピートがある観光資源作り」であったと思う。
ディズニーランドをいきなり例えに持って来るのもいささか乱暴であるが、ご存じに様にディズニーランドのお客様の大半は10回、20回、多い人は100回来たというリピートのお客様で毎日埋め尽くされているのである。人がまた来たいと感じる魅力って何だろうか?答えはそう難しくはない。ベトナムには良い”ネタ”が無尽蔵にあるからだ。世界の観光地やリゾートも仕事で見ている僕としては、何とかベトナムの観光の芽を育み、協力したいね。毎年日本からベトナムへのODAの予算は約1000億円である。そのなかの10%でも、観光や教育に充当できないものなのだろうか。今夜はちと愚痴っぽくなってしまった。

2009年2月24日火曜日

ホイアン2

いきなりホイアンでの紀行に入るのも野暮なので、今日の朝の映画的出会いを一つ。朝、都庁関係の国際支援の部門に相談がありお邪魔した。ちょっと淀川長治さん風なUさんという方が現れた。僕からの相談目的は、ハノイの学校の活性化のための企業情報の収集なのだが、お会いして10分も経たないうちに何故かしら、ほんとに何の切っ掛けでそうなったか覚えていないが「笛吹童子知ってますか」と聞かれ、僕「シャリーコシャラレードー♪♪でしょ。」と答えていた。いやはや、これ以上楽しい会話はないですよ。と言うことで、近々新宿あたりで映画談義を下戸のUさんと、コーヒーやりながら、交じわすことと相成った。

で、改めて、ホイアン。ベトナムの理工系の高学歴の青年たちは、フランス的な習慣と文化もあり、言わば学歴の下の人や職人さんと一緒に仕事することは少ない。で、それに輪をかけてしまう環境が”大学に予算がないので、最新機械の導入がほとんど行われていない”と言う現況だ。つまり慣習と環境とがダブルで、現場で機械を使って体得する学習の機会を少なくさせているのである。ところが、変化も少しある。最近、ハノイ工科大よりも「レベルが低い」とされているある工業大に日本企業とか外国企業の寄付が集中し、一気に学習インフラが近代化された大学がある。その理由も含めちょっと僕は注目している。来月は視察してみよう。

で、当校のホイアンにいるトライアル4人組だが、現場で再会したら、何を隠そう予想以上に逞しく見えたのだ。まだ、10日程度であるにもかかわらずね、教室で日本語の会話を学んでいたときより、「男」になっていた。火花が散り、金属音があたりを切り裂く熱い現場で、彼らは、それぞれに「結構面白いですよ」とこの僕に言ってのけた。若者は凄い、奴らはやるぞ。思わず僕の瞼が震えた。滝野さんという長らく橋梁の分野のベテランの講師の人間味も最高。日本人誰もが知らないベトナムの片田舎で滝野さんの意志や本物の技術が、何物をも熔解させる灼熱の現場を創造させていた。4名はラッキーだよ。当校の彼らダオ、クイ、チャウ、ディエップの4君は4月に内定の朗報と共に、一皮むけて、ハノイに凱旋することだろう。

2009年2月19日木曜日

中部HOIANに行って来た。

ホイアンには、鎌倉時代に日本人町があり、そこでは2000人もの日本人が貿易などに勤しんでいた様だ。日本人にとって馴染みある歴史の町である。イスパニアの「ヤポン」さんの町等と同様に日本人は実は海洋冒険家も多く、世界のあちこちに日本人町があったようだ。また、朱印船や海賊の男たちとはまったく環境も位相も違うが森崎和枝の「からゆきさん」や山崎朋子「サンダカン八番娼館」にある様に強いられていた人々ではあるが、東南アジアだけでなく、アフリカまで自分の運命に逆らわず短い人生を、絶海の海の風と帆に託した女たちも数多く居た。
江戸幕府の鎖国政策によって、多くの日本人が帰国を余儀なくされたが、帰国せず越南の歴史のうねりに身を投じて行った者も数多くいたと聞いている。
今回ホイアンは3回目、17日の午後に行って、18日の午後にはハノイに戻っていたので、落ち着かない紀行となった。

当校の学生は全員ベトナムを代表するトップ大学の卒業生たちである。その彼らの大きな課題点の一つは大学の授業で最新の機械を使い「もの作り」をしたり、身体で体得するような現場作業の体験が少ないということである。フランスの労働の価値観の残滓ともいえるが、大きな要因は大学に良いマシーン、最新の機械が導入されていないのである。最近は良くなってきたとはいえ、つまり、途上国の大学の現状はまだまだ、こんな予算がない状況なのだ。これを少しでも突破し、「腕に技術がある大卒生」「溶接も出来る最優秀生」を輩出させようと、今回企画されたわけなのである。

母体はホイアンにある国立の職業訓練学校の中に日本の「鉄工・溶接業界」の有志のみなさんが、一昨年から立ち上げたプログラムだ。そこと提携したのが今回の当校の試みである。そういうことで久しぶりのホイアン行きとなったわけだ。飛行機でハノイから1時間弱、ダナン空港に下りると、大分地方に来たという感じがしてくる。ダナン市はご存じの様にベトナム戦争当時アメリカに占領されていた一大軍港があったところだ。目指すホイアンは、ここから車で30分。溶接学校がある国立職業訓練学校の校長が、愛想良く空港まで迎えに来てくれた。空が青い。地平線には、少し赤みが差してきた。数年前に2度ほど宿泊したことがある「フラマリゾートホテル」が目的地に行く道すがらちらっと見えた。快適なロードが続く。

空耳だろうか、シェーンの「遙かなる呼び声」が馬の闊歩のリズムで耳に現れた。
「シェーン、カムバック」の少年の声が寂れた俺の脳髄に響く。監督のジョージ・スティーブンスがキリスト者では有名だが、今回ハノイでビデオを見ていて、鈍い僕でもジーン・アーサーの清楚な愛が、如何にこの「シェーン」の重要な骨格になっているかが改めて僕の映画的記憶に染みてくる。しかし、実はモルモン的清教徒の誠実さや常識的健全観念が、如何に社会の現実に無自覚で、逃避させてきたか、結果差別を許し醸成してきたか。それに対する生理的嫌悪が僕の中で少し首をもたげてくる。10回以上も見ている「シェーン」に初めての明確な違和感だ。一回目は僕が小学校高学年に父と一緒に、叔父が経営していた仙台東一番町の仙台松竹で見たと思う。

ついでに、どうもこの土日、いきなりビデオが見たくなり、近所のビデオ屋から、サガンの「悲しみよ、こんにちは」とか、ゲバラのあの世界的有名な「肖像写真」を撮ったカメラマンのドキュメント「コルダ」、とかエンリオモリコーネの曲も聴きたくて、セルジオ・レオーネの「ワンス・アポーン・ア・タイム・イン・アメリカ」とか、ゴダールとローリング・ストーンズの「ワン プラス ワン 悪魔を哀れむ歌」のDVDを借りた。「悲しみよこんにちは」はビデオテープ持ってるがデッキは既に廃棄の時代、久しぶりに見たが、オットープレミンジャーの演出も今見るとノンビリしてるし、気になったのはあのキュートなはずのジーン・セバーグが美しくない、魅惑に欠けて見えたことである。多分、4回は見ているのだが・・。僕の生理があのセレブ生活に嫌気がさしているのかも知れない。最後に居眠りし、見直す気にもならなかったほどだ。

「コルダ」はカストロのお付きのカメラマンであったコルダ氏の革命前はファッションカメラマンで、革命の証言者に変わっていった人物の道程を追うもので、彼が数年前まで生きていたこともあり、もの凄く時間の軸を自在に動かした深いドキュメントになっていた、10年ほど前のカストロとの彼の懇談も貴重なものだ。監督は僕の知らない若手で、アメリカ人の様だ。ゴダールの「ワン プラス ワン」も初めて見る作品で期待がふくらんだのであるが、何と僕のMACでは、動かず。なんてこった。
で、「ワンス アポーン・・」をゴロ合わせではないが、代わりに借りたわけだ。実は最近のベトナム航空の機内で、乗る時と降りるときに静かに流れる楽曲が、このエンリオ・モリコーネのこの曲と思って、その確認のためもあったのだ。でも、映画を見るとどうも違う。オカリナを使ったようなあの1930年代のニューヨークの光と影を詠うようなメロディーは同じなのであるが、違う曲だというのは、わかった。ベトナム航空に聞くしかないな。しかし、この映画の壮大さ、構想の太さは正に尋常じゃあない。一介のユダヤの不良少年が大物ギャングにのしあがり、更には連邦準備銀行の総裁まで上り詰めるアメリカ社会の暗渠をイタリア人監督のレオーネが執念で描いている。名作中の名作だろう。今回で4,5回みたが、またまた発見は多い。225分。すごいぜ完全版。

ということで、ついでに榊原英資の「金融恐慌の深層 メルトダウン」読んだり、元フォーブスのフルフォードの「ルシフェリアン」読んだりで、結構忙しい土日であった。榊原さんは、元東大の全学連の社学同の幹部で、革命諦めてさっさと大蔵省に入って「ミスター円」と言われた名物官僚。リタイア後、慶応教授から、最近早稲田に移っている。僕の7,8年上かな。「ルシフェリアン」は2001年の9月11日の事件はブッシュ家も深く絡む謀略であるという、また、同時にキリスト教プロテスタントの本性と魔性を分析した本だ。やや、荒唐無稽な部分もあるが、一気に読ませる。
・・ということで、ホイアンの続き書くのは疲れた。次回ということで。

2009年2月13日金曜日

BIA HOI

ビアホイと読む。ベトナムの何処にでもある居酒屋と言えばいいだろう。牛、豚、鳥、魚、豆腐あたりを素材にした多様なバリエーションが何でもある、つまり、それらを焼いたり、煮たり、蒸したり、炒めたり、あるいは香辛料のきつさのバリエーションとか、また、熱いベトナムでは夏でも鍋もあり、真夏でもそれをアチチあちちと汗かきながら宴会で囲むグループもけっこう多い。で安いのだ、どんなに食べて飲んでも、一人500円だろうな。まあ言わば、ベトナムの男にとってアフター5には欠かせない居場所ということだ。ここには日本のビアホールなどと同様にビール会社の系列があるようだ。料理の味もインテリアもスタッフの制服も統一性などほとんど無視で、ビール会社の看板だけがその系列を表している。

今日、日本の有力企業グループの一社が来て、学生と交流会。いわば面接に至る前のイントロといえるものだ。それが終わり、ビールを軽く飲みに行きたいのに、本日は金曜日と言うことで当校教職員も冷たいもので、誰も付き合ってくれないし、ハノイの妻も娘が受験で忙しいし、私はあなたの妻でなくほんとの友人だ。でも、娘はあなたも娘と言っていい、とか疲れにまかせて、いきなり分けわかんない日本語を連発して、21時にバイクを駆って、オフィスから出て行った。ふむふむ。と言うわけで、ビアホイである。今日は日頃のビアホイでなく、ちょっと新規を探そうとサッカー場の反対に10分ぐらいいったら、真っ黄色のイスが並んでいるビアホイがあった。

豚のスープ、空芯菜の炒め物、蒸し鳥とビールを発注して、軽いアルコール度の生ビールの杯をぐい〜と進めた。満員ではない環境で、周りの見渡しもきき、4列向こうに外人が2名この汚い店に不似合いだがちょっと慣れた佇まいでビールの杯を空けていた。オーストラリア人かな。アメリカ人だろうかよくわからんね。そう思って見ていると片方の悠然と構えて飲んでいる中年の風情は元エリザベス・テーラーの夫(2回夫になったはず)のリチャード・バートンの弟風な人物だ。そう、ラッセル・クロウに似ている。と言うよりまさしく彼だと断言したいぐらいに同一人物なのだ。背格好もね。でも、ラッセル・クロウがまさかベトナムに、さらにこんなションベン臭いBIAHOIに居るわけないし、撮影のベトナムロケという話も伝わっていないしなああ。もう一人は細身で背が高いウディ・アレンばり。ラッセル・クロウのマネージャーかな?デルのノートPC使ってのふたりの議論ははてしない感じ。僕はいつもの癖で持参の文庫本のページをめくって彼らから視線を活字に移した。

活字はこういっていた。「ミーシャは考え込んだ。きっと今日も見張って居なくてはならない。ここか、サムソーノフ家の門のところか。」カラマーゾフの兄弟3巻の161ページ目だ。そうか見張って居なくては・・か、と外人二人に見張り風視線を戻しつつ鳥を「塩レモン」にさっと付け口へ。続けて空芯菜をニュックマムにちょと端だけ付けて、またほうばる。で、また外人を見やったら、彼らがなんと僕目指して(目指しているとしか思えない近付き方)歩いてきた。ものの15秒ぐらいだろう。何せ狭い舗道上の店舗内だ。座っている僕。180はあるだろうクロウ氏とユーモラスさが本家より不足気味のウディー・アレン氏が僕の眼前に屹立。デカイ。彼らは僕に抗議に来たんだと咄嗟に思った。思えば、文庫本に目を落とす前に僕は失礼にもジロジロ彼らを見ていたからだ。なにしろこの環境が不釣り合いな二人だからね。逆に僕はというと、彼らからすれば、想像するにどうもベトナム人じゃあないし、コリアかジャパンか中国か、不快な中年アジアン野郎がジロジロ見ていやがる、とでもいいたそうな面構えで、いきなり、このお二人は大きなお尻を僕のテーブルの塩化ビニールのへなちょこイエローイスにどかっと納め僕に向き合った。

お前は”何人か”というので、堂々、「日本人です」と応戦。更に君はここで何してる、とか畳みかかるので、読書しながら、夕餉をたのしんでいるのでございます、と悠揚迫らぬ態度で、スターに申し出た。「ジロジロ見るな」とか野暮を言わないのが世界的スター。その上、僕の読書傾向に切って入ってきた。多分、何を読んでいるのかと僕には聞こえた。ドストエフスキーの文学ですと、僕はすぐさま言った。カラマーゾフのなんとかなど、英語でいえるはずのなく、ともかく世界一の天才作家の名前を丁寧にスターに奉じた。しかし、クロウ氏は、ええっ・・という感じで、彼にとっては三半規管に音声が到達する前に既にまったく理解できないという渋みの表情を美顔にうっすら漂わせた。この作家の名前はカタカナ英語的発音ではまったく通用しないようだ。

幸運にも、光文社亀山郁夫訳文庫本には、ロシア語でドストエフスキーという記載があった。この初老美男子はたしか「アアウワ」といかいって、破顔一笑し「ふ〜む」と思考する表情を見せた。で、恐れ多くもまた僕に「YOUは何者ですか」と言った。間違いなく僕の素性を聞いたようだった。大スターが僕風情の素性を聞いてどうするの、と60になった老練な僕は、僕なりにそう単純じゃあないぜ外人さん、と言わんばかりに「あなたの笑顔は、世界を魅惑するスターだけが保ちうるものですね」といったものだ。そんな英語俺って言えるのかしら。彼らが持参した分厚いガラスのビアグラスと僕のグラスで、3方からがっちり乾杯したまでは、僕としても覚えているのです。これって、ビアホイ幻想?あるいは幻影のハノイかもね。

2009年2月8日日曜日

久しぶりに芝居見たのだ

ベトナム私信と銘打ってるのにまたまた、少なくとも書き出しは、ベトナムに関係ない芝居のことになった。いま、深夜2時ごろ、NHK画面ではノルウエーの寒い分だけクリアな美しい風景ドキュメントが、静かに流れている。矢崎滋のナレーションが煩い。ところで、劇場で芝居を見たのは何年振りであろうか。というか、最後に見たのはなんだったのかなあ・・・。

妻晃子(てるこ)が好きだったこともあって、大学の3年生から中退し結婚したころ(1972年)までの3~4年間に二人でたくさんの劇場やテント小屋に足をはこんだものだ。彼女に誘われたほうが多いかな。赤テントの状況劇場の唐十郎、黒テントの自由劇場の鈴木忠志、菅孝行、早稲田小劇場の別役実、白石加代子また、暗黒舞踏の土方巽や麿赤児、小林嵯峨、天象儀館、流山児祥、そして、歌人寺山修二の天井桟敷と、綺羅星のような小劇場の革命児や俊英たちの天空を駆けるような芝居を、熱にうなされた若者で満員の狭い漆黒の桟敷の片隅から、僕と恋人であった晃子は毎回、食い入るように見つめ、手を握りあい、顔を見合わせ、ほかの客と一緒に爆笑し、檄を飛ばし、感動の拍手を送っていたのであった。まさに伝説的小劇場開花の群像たちと同時代人として合間見えていたわけだ。そのころ、ゴダール、トリュフォー、フェリーニ、アントニオーニ、アーサー・ペン、黒澤、深作、今村などを仲間と語り合い、そして芝居見て激情し、「明日のジョー」を毎週むさぼり読んでいた。

そんなこと書いているうちに、思い出すかなあと、おもっていたが、まだ、最後に見た芝居を思いださいが、多分、有楽町帝国劇場に来たブロードウエイミュージカル「レ・ミゼラブル」かもしれない。1990年頃かしらん。それ以前にニューヨークで家族で見ていたので、改めて日本語で確かめたくて見た記憶がある。そうだとすると20年ぶりぐらいになるのだろう。そのぐらい久しぶりに30人足らずの入場者で一杯の「新宿ゴールデン街劇場」で今日、一人芝居(実際は3人芝居であった)を見たのである。鈴木勝という役者で、僕もよくは知らない。今時の芝居の感覚がテレビのお笑い芸人化している予想もできるほど、彼の芝居も”コミックの線”を行っていたので、演技上の表現の中々のうまさもどこか予定調和的で破壊力に欠けた印象も無いではない。しかし、演者の鈴木や仲間の2名の派遣労働やアルバイト労働の苦痛と焦心に塗りこめられている現実生活がまるで、そのまま汗まみれに演じられているようで、抽象空間に不思議なリアリティーを与えていた。1月末に僕の自宅の引っ越し作業があった。その時、インターネットで依頼してたまたま偶然に来た運搬・便利屋がその鈴木勝さんと彼の奥さんであった。