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2012年1月30日月曜日

リハビリ三昧 / 4年以内に首都大地震、困ったね。

僕は29才から喘息となった。年子の弟は小児喘息であったが、大学を京都にして、環境をかえたら、直ったようだ。であるので、まさかぼくが、いい年してなるとはおもわなかった。今から30数年前の2月の寒い夜に、猫の散歩を兼ねてサッカーボールを転がしながら、近くの運動場まで行き、野球のバックネットに何度も力強いシュートを放ったりして、冬の体のなまっている感じを吹っ飛ばすつもりで、一汗かいた。その時たぶん、冷たい空気を大量に吸って、呼吸が不調になり、その夜であったか、次の朝であったか、晃子(てるこ)と一緒に行き、そのまま国立埼玉西病院に入院した。当時は今と違って、喘息のレギュラーな安定薬がなく、その後も季節の変わり目に大抵発作が起き苦闘がつづいて、妻に迷惑を随分かけてしまった。

当時から西洋医学でなく、自然療法とか東洋医学に目覚めていた(今考えると本当に先進的であった)妻晃子(てるこ)は、僕に東洋的体操を薦めてくれた。一つは呼吸法。腹式呼吸であった。もう一つは日本古来からの簡単な体操であった。名称が思い出せないが有名な「自彊(じじょう)流」ではなかったようだ。思い出したら、書きます。あぐら組んで後ろに倒れるとか、面倒な体操ではなかった。でもでも、妻の真剣で本気に僕に薦めて、時には「一緒にやろう」と言って夫婦で行った呼吸法とか体操を当人の僕が本気になれず、何時もサボり(僕はバカ者です)、妻をがっかりさせてきた。でも、いま椎間板ヘルニアのリハビリで、一等最初に行っているのが腹式呼吸なのだ。今となって真剣にやっている。遅いよねえ今頃。本当に済まない、天上にいるテルコ。

医者のアドバイス、インターネットの医者のリハビリのメニューなどを参考に僕なりに編み出したのがこれだ。1 腹式呼吸10回×2を3(一日)、2 しゃがんでは立ち上がるスクワット10回×2×3(一日)、3 十五分ほどの散歩2回、4 ベッドにて仰向けに膝とじ10回×2×3(一日)、5 ベッドの上で、膝を抱えて、片足ずつ延ばすストレッチ(回数は同上)、6 ベッド状で片足ずつ、上下運動(回数は同上)、 7 ベッド上で、股を片足ずつひらく運動(回数は同上)・・ということで、オリジナルな自己流の体操に専念している。正直言って、痛みは軽減してきたと思う。さあ、2月上旬には、ハノイ。がんばろう。

■ 東大の地震研の平田教授という方が、「4年以内にマグニチュード7程度の首都直下(南関東)大地震が来る確率が70%」と発表した。今までは都庁などが、同じ内容で30年以内と言ってきた。30年以内だから、来週起きても誰も文句は言えないわけではあるけれど、まあ、普通当面来ない、20年は来ないだろうと、高を括ってこれたね。それを4年以内とした。政府、都庁、都民も大概の感覚では「必ず、東京大地震はくる、来るけれども、今すぐではない。さらに、自身も家族も運良く、死ぬことはない」とリアリティーを持っていない。本気になって心配する人がもし居たばあい、「ちょっと変な人」ってまだまだ言われそうな空気だろう。東北ではあんなに凄くて、むごい地震と津波を受け、その画像を何十回と見たにも関わらず、自分にはふりかからない、と思い続けている暢気な僕等の認識。もちろん、僕なんかも何の根拠もないのに、ベトナムに行っている事が多いので、僕は大丈夫と決めつけている。

他人事。対岸の火事・・・僕等の日本語には、時代の風雪に耐え、生き残っている平易な言葉を持っている。みんなそうやって、問題から逃亡もしくは回避して来たわけだ。何回大きな地震が来ても「学習」したとも思えない。温故知新の観点からすると、「地震、雷、火事、(親爺)」の四大”恐怖の自然現象”については、あまりにも頻発している災害なので、つまり日常化しているので、いちいち本気に心配し、備えを何時も考えるのを忌避してきたきらいはないのか。津波も含めて、受け入れざるを得ない自然現象として、諦念して来たのではないだろうか。他人事も、対岸の火事も、「主体性が無い倫理的に良くない言葉」と思ってきたけれど、最近「待てよ、歴史が作ってきた方便かも」と考えてもみるようになった。もともと、「主体的」な考え方は近代西洋合理主義の中から生まれてきたものだものね。梅原猛先生は「文明災」の論(当ブログ2011年5月に掲載)で以下の様に語っている。

「たとえば、思うようにならない天災を、「仕方がない」と受け入れ、逆に前向きに生きていこうとする。こうした姿勢は、大乗仏教の忍辱(にんにく)、つまり、精神的な屈辱や苦難に耐え、自分の道を貫くという考えからきている。日本のようなモンスーン地域では、しょっちゅう天災がある。このような地域で、自然とともに生きていくための知恵だ。一種のあきらめの精神ではあるが、日本の優れた文化でもある。」

これは正式には六波羅蜜の一つで忍辱(にんにく)波羅蜜というようだ。災害も含む困難に耐え忍ぶ修行を行い悟りにいたることだという。僕は、石巻の大川小学校の「ひまわりを咲かせたお母さん」たちのお二人とお会いしたり、お手紙やメールを交換している。彼女らは自分の命以上大切な子供を或日、同時に二人とか亡くしてしまったのです。それも学校組織の不手際で北上川を逆流してきた津波に学校の大半の子供たちが奪われた。お母さんたちは、この苦しさと悲しみをこの世のモノとは思えないまま、堪え忍んでいるのかもしれない。否、現実であることも深く認識していよう。忍辱波羅密と言う言葉は、彼女たちの事かも知れないね。でも、やっぱり「怒り」はどうしたらいいのか。自然災害だけではないからね。詳しくお話し合いしていないけれど、まだ、怒りがわき上がる以前なのかも知れない。全身全霊で堪え忍んでいる日々に心を掻き乱すものは、入り込む余地はないのかも知れない。

梅原先生はあきらめを知恵であり日本の優れた文化のひとつだとおっしゃっている。たぶん、そうなのだろうなあ。西洋文化の優れて功罪の一つは「個の発見」だろう。戦後、主にテレビと共にアメリカ流の個の導入が学校教育はじめ多様な文化の主流を占めるばかりになった。僕が十代後半から、二十代後半まで全身で堅持し、他者に伝えようとしていた左翼急進主義の土台はまさに個から発する最も文化史的に重要なメンタリティーだと思ってきた。でもこの年になってくると日本も含むアジアには実はその西洋史的「個」を超越する何かがあるように考えるようになってきた。フォイエルバッハやマルクスのいう「類的存在」とも違うモノなんだろう。初期マルクスの「経哲草稿」のその類的存在と双璧をなす疎外概念がアジアに何故生起しにくいのか。それも同じような事だ。上記にある「忍辱波羅密」ふくむ六波羅密の前で天才カール・マルクスは、言葉を失うようなイメージすら一瞬浮かぶ。敢えて言えば、二元対立の止揚後のジンテーゼ的なものの状態が僕等のアジア史、特に多様な文化の堆積した東の辺境国ニッポンの歴史に既にあって、連綿と繋がってきたような・・。

2012年1月25日水曜日

★ビルゲイツとウオーレン・バフェット・・大金持ちの革命的本懐?!

噂では聞いていたのだけれど、本当であった。昨日、BSかディスカバリーチャンネルだったか思い出せないけれど、世界で一番資産(約7兆円)を持っている投資家ウオーレン・バフェットの母校であるネブラスカ大学での彼と、若い友人であるビルゲイツの講演というか、学生たちとの対話のドキュメントを見た。その中で、バフェットは「アメリカは年々格差がつき、非道い社会になっている。もっと、我々の様な金持ちの累進課税を高め、もっともっと税金をとり、貧しい人々への課税を低減すべきだ」と明確に言ってのけ、ビルゲイツも同意していた。

あははは、大金持ちにこういわれると、身も蓋もないとういか、闘わない労働者階級が腰抜けであり、普通の富裕層は鈍感な連中であって、超金持ちは「仏様」に見えて来るから、面白いね。また超有名、世界一のヘッジファンドの投機家で移民から裸一貫から立ち上がったジョージ・ソロスはより剛直な左翼であり、アナーキズムに近い社会主義的な公平な社会の実現を提示している。父親が下院議員でもあった比較的富裕な階層出身のバフェットとやはり富裕階級出身のゲイツは社会民主主義的な穏健派(ビルゲイツはニュアンスちょっと違って、CSRの発展型のようなイメージかも)であるけれど、この三名に共通することは平等な社会の創設を具体的に提示し、信じられない金額の寄付やその方向に沿った行動に携わっていることである。特にソロスは世界中でCIAとは反対のグループに例えばかつてはポーランドの「連帯」に、またジョージ・ブッシュを大統領から引きずりおろす工作に巨万の寄付と支援を行ったりしていたらしい。

バフェットは、若い時分に購入したネブラスカの小さな木造の家に今でも住んでいる。更に子供たちには一切財産を相続しない事を決めて居て、子供たちも普通の公立でて、自分で自分の道を歩んでいる。もっと凄いのは、金融業界には一切顔をださず、つまりウオールストリートとは(一時を除いて)一線を画していて、まったく別な世界というか、ネブラスカの片田舎で、情報機器を一切使用せず、長期的な(まっとうな)投資と買収を行ってきたことである。ドキュメントの中で、彼のヒューマンな思考と慎ましい生活は人を魅了する。ドキュメントで見る限り「信者」に近いファンがこの賢人の言葉を聞きたくて、セミナーなどには全世界から数万人が集う。彼の主張の中の主な言葉は「社会貢献」であり「公共」であり「金に使われない人生」である。まあ、正直言って見事です。だから、対話する学生たちも彼の主なる志向を知っているので「お金持ちになるにはどうしたらいいですか」みたいな日本の学生なら言いそうな無邪気な質問は出来ない。社会のためにどのように生きてゆくか、学生たちの質問は優等生的なものが多かったけれど、誠実な雰囲気であった。

ウオーレン・バフェットは息子の様に思っているビルゲイツの寄付財団を中心に5団体に約400億ドルを寄付した。3兆円超だね。もちろん世界一の寄付金額だ。

《参考資料》


《ニュース全文翻訳》
マイクロソフトの創業者・ビル・ゲイツ氏と、投資家・ウォーレン・バフェット氏(二人合わせて資産額約900億ドル=7兆7000億円)らは、彼らの仲間たち38人に、ある「申し込み」をするよう説得しました。
彼らの友人たちは、前月、早速、
The Giving Pledge(「他 者へ分け与える誓い」とでも訳しましょうか)を開始しました。目的は、そうした富豪たちが一代限りの資産であったり、彼らが死亡した後に、その巨額の資産 をどうするか、といったときに、そのお金をチャリティに寄付する、という誓約をするよう説得に当たることなのです。
ウォーレン・バフェット氏は、「私たちは、まだスタートしたばかりですが、すでに予想外に多くの反応をいただいております」と語った。
「the Giving Pledgeの中心的な考え方は、巨額な資産を持つ富裕なファミリーに、その資産をどうすべきか、そして、それをどう使うべきなのか、話し合って欲しい、というものなのです」とも。
バフェット氏は、こうも言います。

「本当にたくさんの(富裕な)人々が、この(慈善に寄付しようという)誓い決心しただけでなく、彼ら富裕層の持てる資産の平均50%よりはるかに多い額の寄付を行うつもりである、と公約していることを、とても嬉しく思っています」と。

そうした「誓い」を立てる人々は、彼らが、どのように(寄付をする)決心したのかを説明する書簡を公に発表するように、求められています。
最近、寄付をすると誓った人の中には、ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグ氏(資産額180億ドル=約1兆5000億円)がいます。
この「誓い」の書簡の中で、ブルームバーグ氏は、次のように書いています。
「今までの人生で、違ったことをすること、そして、その結果を自分の目で確かめることは、おそらく、今までの人生で味わったことのない満足のいくことに違いありません。もし、みなさんが、本当に人生を楽しみたいのであれば、与えることです」。
「もし、みなさんが、自分たちの子供のために何かをしたいと考えているのであれば、また、自分たちが子供たちを、いかに愛しているかを示したいなら、次の世代=子供達のために、よりよい世界を創造するための組織・機構をサポートすべきです」。

彼(ブルームバーグ氏)に加わる人に、あの映画「スター・ウォーズ」のディレクターであるジョージ・ルーカスがいます。
ルーカス氏は次のように(寄付をする誓いの書簡に)書いています。
「私自身に自由に使える資産がある限り、未来を担うすべての年代の学生たちの水準を上げることを求めていくでしょう」。

ゲ イツ氏、バフェット氏以外の38人のリストの中には、エンターティンメント産業幹部のバリー・ディラー(資産12億=約1000億円)、オラクルの共同設 立者であるラリー・エリソン(資産280億ドル=約2兆4000億円)、実業界の大物、ブーン・ピケンズ(資産11億ドル=約940億円)、メディア王 テッド・ターナー(資産48億ドル=約4000億円)、銀行家のデヴィッド・ロックフェラー(資産22億ドル=約1900億円)、および投資家ロナルド・ ペレルマン(資産110億ドル=9300億円)らが名を連ねています。

彼らは、また、大資産家のイーライ・ブロード、ベンチャー・キャピタリストのジョン・ドエル、メディア企業のアントレプレナーであるゲリー・レンフェスト、そして元シスコシステムズの委員長、ジョン。モーグリッジを加えました。

全米には403人の億万長者がいます。かれらの資産を合計すると、およそ1兆3000億ドル(約110兆円)にもなります。
ウォーレン・バフェットは、2006年に、正当な理由付けの下に、全財産の99%を寄付することを誓いました。
ビル・ゲイツと、ウォーレン・バフェットは、これらの先例に続くように、他の億万長者たちにワインを振る舞い、ディナーをご馳走して、寄付するように説得に当たるはずです。

2012年1月24日火曜日

雪だぜ、ヤッホー!

雪だ、雪だ。うれしいなあ。雪合戦やりたいなあ。♪犬は喜び庭かけまわる〜♪だよ。それだっていうのにさあ、テレビは、雪の悪口ばっかり言っている。雪の何が悪いんだい。足下が悪くて、歩きにくい。電車が遅れる。どっかが通行止めだ。それがなんなんだ。いいじゃあん。年に一回や二回、東京で雪降ってるのに、文句ばっかろいうなよ。雪は美しい。この美しい世界と夜明けに対面したときの感動は上手く言い表せないよ。静謐の中に広がる白い世界。何時もの喧噪の世間を消し去ったアートの世界。その美しさをテレビやマスコミは、「経済優先」「日常生活の維持」の発想でしか言えない様だ。僕なんか腰が痛いので、一番歩行に困るくちだけれど、心が躍ってくるんだから仕方ない。

嗚呼、マスコミの諸氏よ、思い起こしてくれよ、小学校の頃の雪降った朝のあの新鮮な感覚を。僕は田舎が仙台であった。雪の朝は決まって町が静かなんだ。朝起きると障子の外が真っ白で明るくシーンとしているので雪景色が広がっている居るのがすぐ想像出来る。雪だ。雪見障子を開ける間もなくがらっと障子を大きく開けると、庭一面白い世界、冷気がさあっと入ってくる。気持ちいい。この感動は忘れるものか。こういう感動の刷り込みが子供には必要だね。にもかかわらず、ジャーナリストが、利便性とか効率ばっか、言っていて、いいのか。寂しい限りだなあ。

雪が降れば、足下が不安定になり、老人や体の不自由な人、ヘルニアのぼくなんか、真っ先に困るさ。経済の1〜2日間程度のちょっとした停滞もあるだろう。ニュース見ていると都市も脆弱、歩く人々も脆弱、雪が2〜3センチ降っただけで大慌てだものね。車もスリップ。高額スノータイヤ着装してるのにさ。
ところで、今から4年以内に首都直下型の大地震がくるらしい、マグニチュード7位の大きな地震が70%の確立で来るらしい。本当に大丈夫かい。その都市に住んでいる僕等って、いつから弱くなったのだろうかね。「小雪」でびびってる諸君、サバイバルというか、生き残ろうとする生命力が確実に減退していることが、はっきりしているので、何とかしないとね。小雪で転んで、大変ダーとか、言ってられないよ。4年以内に70%。つまり、明日とか来週にきても、誰も文句言えない緊迫度だぜ。僕は殆ど来るだろうと思って居る。まさに、来るよ。大東京に。家族との連絡や対応策などを話し合うだけでも急ごうと思う。

雪だ、もっと降れ。雪合戦やろうぜ、ヤッホー。まあ、企業の知人の社長さんらから、「バカな冗談やめてよ、阿部さん」と苦情が2,3も来そうだね(笑い)。


《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルと日付け、紹介致します。
ぜひ、ご高覧ください。多いのは一日1400名の閲覧もありました。

・2008年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC /  立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・2011年7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人

これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行


2012年1月19日木曜日

凄いな「マネーグラム」 / 赤塚不二夫先生と談志師匠

僕はハノイ日本アカデミーを2005年6月に創設以降、初期投資は500万円以上かかったけれど、人件費、家賃、諸経費として毎月ウン十万円をハノイに送金し続けてきた。東京の経費や僕の行ったり来たりの飛行機代はまた別途ではあるが、高給サラリーマンでも個人経営できそうな全く小規模な金額である。海外送金は今までは、別に理由はないけれど、都銀を使って送って来た。手数料は決まって8000円、本当に高すぎだよ。で、ハノイの学校の口座に届くのに三日間は優にかかった。現金を空輸して物流するわけでもないのに、時間のかかりすぎだと常々思って居た。

今回、僕もうっかりしていたけれど、23日がテトの元旦で、20日から、ベトナムの銀行が一斉にコンピュータ遮断して休みに入るのだという。いやはや、困った。全く間に合わない事態だ。考えを巡らせた結果「ブラジル銀行がはやい」という噂を思い出して、早速電話したところ、電話に出た原田さんという方は、都銀より速いが、今回は間に合うか保証出来ないという。他銀行のことで詳しくは解らないけれどと、へりくだりながら「マネーグラム」という送金システムがあって、電話番号は****と、更に住所までお教えいただいた。これなら「10分」でベトナムに送金出来るとおっしゃる。本当ですか、原田さん。有り難い。他社のことなのにお会いしたこともない僕にご親切に。感謝です。この有り難い情報で、一気に間に合う展望が開けた。なんせ「10分」ですからね。驚きです。

お聞きした番号に電話した。「マネーグラムの事をお聞きしたいのですが」「担当者がいま、居ません、後で電話させます」という外国人らしい声。で30分後「阿部さんですか」、とアジア系と思われる外国人から電話あり。WEBや基本的な要領について教えてくれた。彼はインドネシア人だという。「ふう〜〜ん」有り難いけれど、ちと怪しいアトモスフェア。で、昨日の朝、そこに行った。新大久保のビルの一角にあった。それだけで小心の僕には疑念が湧いてくる。朝、1番で入ったが日本人が考える銀行の様子ではない。窓口のカウンターに3名の係員が居て、フィリピーナとおぼしき女性、インドかパキスタン風な男性と、僕の担当者の3人がいて、僕の担当者はネパール人だという。日本語は上手い。振り向くとお客さんのイスには既にインドアーリア系の女性、とやはりその系の男性、「フランスからのお金を受け取りに来た」という僕と全く同じような初体験の日本人の老人がいた。

僕の所定の手続きが済んだ。ひと息ついてオフィスを見渡すと奥から、パキスタンかイラクかといった黒いタートルネックの男が奥から出てきて外出へ。見たところ詐欺師かゲリラ戦士の風情だ。他にもそういう服装で顔の線が濃い男たちが出入りしている。心配だなあ。「つまり、地下銀行が表にでた企業なのかな。」所員とお客の判別が付かないが、ともかく怪しさというか、初体験だからの緊張感で一杯。手続き終わっていて、担当者の入力作業待ちであったので、ラックにあったパンフを手にとって見た。パキスタン、バングラディッシュ、スリランカ、インドネシア、ベトナム、フィリピン、マレーシア人に向けた送金便利帳もあった。日本人らしいの中年男も奥のドアから出てきたが彼も黒ずくめ、警察官ににらまれやすいタイプだな。

担当のネパール人に聞いた。「KYODAIは、兄弟。アジアはみんな兄弟みたいな物で、協力しあうということで、命名した送金会社です」と丁寧に話してくれた。ここは「兄弟送金会社という関東財務局に登録済みの金融企業で、マネーグラムシステムと、IMEシステムをつかってサービスしている」と言うことが解った。で、その時ブオンから、早速「お金の入金在った」と明るい声の国際電話が僕の携帯に入ってきた。すごいねえ。僕がこのオフィスに入ってきてから、30分後だよ。今日は会員手続きとかあるので、時間がちょっとかかったが、次回からは登録済みだから、10分もあれば、とネパール氏がスマイル。

何と、送金料も都銀の半額の4000円、ひえ〜〜。本当に凄いシステムがあるもんだね。
おどろくね、うれしいね。アジア各国の経済と日本がここ新大久保のビルの中でしっかりと通底している現実。それも今まで貧しいと言われていた途上国の経済力と金融力がこの小さなビル、小さなカウンターとしっかり結ばれている現実を思い知らされた。IT革命や「カテゴリーキラー」の怒濤の進撃がこういう分野まできているんだね。不景気とか言ってモタモタしていられないですよ〜。日本人には感じにくいのかもしれないけれど、時代の裏舞台では地下水脈を伝わって沸騰間際のマグマが煮えたぎっている。

■一昨日と昨夜と、BSのアーカイブという番組で、2時間もののドキュメントを連続して放映していた。天才赤塚先生と、天才談志さんの2008年頃に作成したモノのようだ。天才のドキュメント(正確に言うと、記録だけでなく、雑誌的構成になっていた)を深夜1時頃から、2時間、連続二日。結構重いね。亡くなって間もないお二人だしね。腰が痛くて、確かにベッドで体をまっすぐにして寝れない僕には朝までの時間稼ぎにはもってこいの番組ではあった。天才たちの息吹に触れるだけで、嬉しいからね。

この二人の共通点は「笑わせるために生身を臆せず削ってきた」ことだろう。談志さんは直接お会いしたことがないので、テレビを通して入ってくる情報しかないが、赤塚先生とは、80年代僕の企画製作した、ビデオプログラムで2年ほどご一緒させていただいたので、プロデューサーと赤塚監督という関係でね、少しは語れるし、語っても良いのだろうと思う。
* 当ブログ 2008年11月の項に詳しくかいてある。

赤塚先生と仕事でお付き合いした時期は、80年代後半で、頂点を行き過ぎて、何をしていいのか、天才の先生でも迷いがあった時期ではなかろうか。朝から、焼酎のお湯割りとか、ウイスキーのウーロン割のようなモノをがぶ飲みに近く召し上がっていた。お昼には近所の焼き肉にいき、また飲む。手に震えもあると語って居られた。だから、ぼくなどは、「先生、気分転換に映画の監督でもしてください」というような考えで、映画狂で有名なこの巨匠とビデオプログラム作り始めた訳だった。そういう意味では、良好で才能が花開いているような明るい時期ではないので、出入りの編集者や「業界人」たちがあまり周辺にいない、ちょっと先生も寂しさを味わっていた時期ではなかったろうか。だから、僕でもお付き合いいただけたのだろう。

この項、「つづく」にして、本日1月28日で、大分経ってしまって、何を書きたいのか、怪しくなって、戸惑い手つかずにして来たが、書きたい動機は、赤塚先生を見ていて、「笑ってくれるなら(喜んでくれるなら)死んでも良いと何時も(真面目に)考えていたんだ」と言うことを僕は皆さんに言いたかったんです。おそらく、異端児とか天才とやはり言われてきた談志師匠も同じように本気で肉体を痛め、削り、肉体が亡くなっても古典落語で笑わせたい一心で人生を歩んで、いや自分の人生というか今生(こんじょう)の肉体を食べてきたと言った方が良いかなあ、まあ、そういう人生観をおふたりは、まさに同じようにお持ちになってきたんだろうと思う。特に赤塚先生は「バカなことを真面目にやってきた」、生来の性格が生真面目な人で在った。でも、幸運にもお二人は、早世せず、なんとか持ちこたえて70才代まで生き続けて来られた。ご当人にとっても良かったと思うが、僕たち作品とか偉人の足跡から、何かを学ぼうとする愚輩やファンの側からすると、本当に長く生きて頂きラッキーであったと、テレビを見ながら、改めて感じた。赤塚先生、談志師匠に合掌。

2012年1月17日火曜日

★ 日本企業トップとの交流記(完)

僕は自分の経験としては、日本企業との交流会とか、面接会は百数十回は行ってきた。面接いただくのは何時も活きの良い理工系学生たちで、やや日本語にまだ難があっても、人間味と基礎知識の高さで採用をされてきた。2005年の当校の創設から日本企業に採用され、日本渡航した当校卒業生はとうとう150名を去年年末に超えた。有り難いことだ。就職先は全て日本の優良中小企業であり、身分も正社員。同期日本人大卒者と同一な扱いです。そのぐらい、日本企業の中堅は優良な青年技術者が欲しいと言うことと、もっと大事なポイントは、そういう企業のトップは5年後、10年後を見透して、「アジアの青年を育成し、一緒に長期に渡って仕事をしていこう」いう高所な位置からのお考えとやる気の息吹を持っている事です。

僕は今まで中小企業の社長といろいろなお話や意見交換をして来た。お会いした人数は正確じゃあないが、400人は優に超えていよう。もちろん、何度もお会いして議論や協議をして来た社長と、各種団体のベトナムツアーでハノイに来られて、人材について軽く意見交換しただけの社長もいるので、交流した密度は様々だ。創業者は創業者らしい未来先取り型の方も多いし、二代目三代目も多く、高学歴でジェントルマンも多い。かつて僕は左翼急進主義で労働者や人民の側に立つことを理としていた。そう思い込んでいた。でもさあ、現在の組織された労働者のふがいなさと裏切りは、目を覆いたくなる惨状だぜ。むしろ、中小企業のトップのおじさんたちの社会を変えていこうとする責任感と大志には目を見張らせられる。信頼できる誠実さと高い見識で、次の時代を構想しようとしている人が多く、話して居て嬉しくなることが何時もなのだ。反面、お話をお聞きする度に僕の浅薄な知識や思想が色あせていくような気がするね。

中小企業の社長さんたちは、世界や社会を自然な保守主義者の目で分析している人が多いけれど、頑迷な保守の人物は殆どいない。年配者もしなやかな発想の人が結構多い。また、学生時代激烈な全共闘運動をして幾つかの挫折を通過したうえで、起業した人も少なくない。本当に多士済々で、魅力的な人物たちだ。当NPOを具体的にご助力していただいているトップの何人かいらっしゃいます。その方たちは「こういう優秀ベトナム人の青年たちを育成し、日本の中小企業に送り出してくれる機関」は、必要であるとご認識いただいているからだろう。実は、他にも在るようで実は無いからね。日本語出来る大学生を集めたり、日本にいる留学生を集めて、登録していて、企業からのオファーが在れば、面接して送り出すブローカー・斡旋企業は日越両方に無数にある。

でも、学校がつまり、1年間ほど手塩にかけて育成して、各個人の特性を把握した上で、マッチング出来る企業に送り出している学校(センター)は、残念ながら、リーマンショック時に消滅して現在は当校以外皆無(の様)なのである。一番古手で大手のA社さんでも、大半はCADの派遣事業の様だ。仲介のブローカーの大半は短時間インタビューしてデータを作成し、面接:試験に参加させ企業からの成功報酬と、学生からも成功報酬をダブルに売り上げている。また、昔からある高卒者の「研修:実習」渡航システムはいまも続いている。と言うことで、大学卒エンジニア候補生を正社員として送り出しているのは、たぶん、当校だけのようです(完全に調査したわけでは無い)。しかも、去年末に150名の採用を突破した量的な実績は、他には間違いなくない。

当校で採用活動をされている製造業のお客様の規模は従業員30人〜1万人規模。多くは
100〜1000名の規模だ。つまり、日本の製造業60万社の中のまさに裾野の中核を占める企業群と言える。
僕の幸せは、この企業の社長さん、会長さん、専務さん、技術本部長さん、営業部長さん、人事部長さんと、常にお会いできそして、意見交換というより、中小企業の実相を幅広くお教えいただいて居ることに尽きる。今年もたぶん、既に採用をいただいており何度もお話をしてきた「親しくさせていただいている社長さん」10名ぐらいの方々と、また新規な採用に来られたトップとか、ツアーで当校に見学や学生交流で来られる30名ぐらいの方々と、お会いするでしょう。たぶん。本当に有り難いことです。そして、楽しみです。

2012年1月16日月曜日

★ 成田空港の不幸な出自と幸せ伝える人

体が不自由になってしまった僕が無理矢理日本に。さあ、成田に到着だ。狭いイスから立ち上がると、やっぱり左足が猛烈に痛い。無理して立ち上がったが、はてさて、この広い成田空港をイミグレーションまで到達し、無事出て、バスか電車に乗れるのか。その瞬間、僕でも車イスを要請できるのかなあと考えた。先日のハノイ貿易大学の採用でいらしたお客様には、「大丈夫です、車イスは、時間かかりますので」と恐縮ながらお別れして、グランドスタッフの女性がその辺にいないか探した。

案の定、飛行機から出て、200mぐらいの所に二人の女性スタッフが「お早うございます」とか降りてきた乗客らに言っていた。ちょっとキリッとしたお顔で優しそうな女性の方に「悪いんだけれど、ベトナムでヘルニアが発症して、歩けない。車イスある?」と声を掛けたところ、彼女は「ハイ」と明るい声を出し何処かにいき、3分もしないうちにあこがれの車イスを持ってきた。ハノイフランス病院の古くて重たそうなイスと全く違い軽快な動きが出来そうな車イス。で、彼女は僕を座らせ、僕の足をとって、足のせを素手で出し体制を整え、「では、よろしいですか」と快活そして、なぜか色っぽい声で言ってくれた。最高だぜ、空港のグランドスタッフ。

成田空港は言うまでも無く、政治の都合で強引に設置したのもであった。当時18才の僕には飛行場の羽田につぐ設置が日本経済の構造の中で特に必要であったと思わなかったし、千葉で在る必要もないと思って居たので、学生と農民の連帯という観点で、何度も成田の闘争現場に行った。特に1968年の3月の数度にわたる「成田空港公団」「市民グランド」での闘いは5〜6000規模の学生部隊、青年労働者が結集して、全国民の関心の中で壮絶に闘われた。中核派は単純ゲバルト(暴力)グループらしく、2千人ぐらいが一気にどこかに隠してあったゲバ棒を取り出し、公団に突入しようと意思統一を図って決起していた。僕は当時早稲田の反帝学生評議会という青ヘルメットグループにいた。大先輩の大口昭彦さんが「市民と農民との連帯はゲバ棒による武装闘争では生まれるものではない。我々は何も持たず、固いスクラム組んで、デモ隊列だけで、機動隊や公団の鉄条網のバリケードを突破してゆくぞう!」とあの誠実で骨太の面構えでアジッた。

「ええっ、素手で突破するのかよ〜」と一瞬思ったが、あの大口さんの信頼できるアジテーションにはかなわない。我々青いヘルメット1000名は何も持たず、スクラムだけで機動隊に突撃していった。鉄条網はみんなでスパナで切って公団のバリケードの中に入り込んだが、僕の前で何人も転んで立ち上がれない学生がいるし、僕もそこに押されてのってしまい、身動きできず息も出来ないほど苦しい。全身に力を入れて後ろを見ると僕に5〜6人は乗っかって彼らももがいている。「オレ、ここで窒息死か」と覚悟したね。ホント。 *大口さんは現在弁護士として市民運動や庶民の立場で現在も活躍されています。

で、そんな闘いは続き農家の家に泊まらせて頂き美味しい食事を頂いた事もあった。1978年の「管制塔占拠闘争」時点はリクルート社で仕事をしていた時代になっていたが、100万人集会に参加するために岩波映画労組の陣内さんらと現地に。集会現場や道道では既にビジネスマンになっている友人たちにと同窓会のようにたくさん会った。フジサンケイグループの印刷会社に居る川上にも「おお、きてたか」とかいって、二人で笑い合ったことを覚えている。僕は30才近くであったし、娘も生まれていたころだ。そして、その3才の娘と妻と3人で成田空港を使って80年頃の夏、グアム島旅行に行った。作家の野坂昭如さんは、いま、寝たきり状態だが、当時「生涯成田空港は使わない。」って宣言していたっけ。闘った場が、完成してから、どう対処したらいいのか、当時どう考えたのだろうか。僕はその頃、何の矛盾もなく、何のためらいや思いもなく、成田を使用して観光ツアーに行けたのか。ほとんど思い出せない。ただ、離脱していたことは事実だ。

闘いって、どんなに激烈でも闘う当事者の立場と意志が関係している。僕等は観念的に学生と農民と労働者が一体となるチャンスのような幻想を抱いていた。自分の土地を守りつつ、反権力の立場を提示してきた反対派の農民の方々は偉大だし、歴史に残るであろう「農に生きる」人民の戦列を構築した。百姓一揆として大切な魂を全国民に知らしめた。でも、一部の住み着いた学生や、そのことで出会って結婚して、闘いを生活にした学生はいるものの、僕等のように外部から時々援農したり、時々ゲリラ戦や集会に参加していた大半の、数十万の学生にとって、成田闘争は何であったろうか、と改めて思う。闘争を拡大するために支援・協力をすることは重要だ。重要であるが、「層」としての学生は4年もすれば、人が入れ替わる。拠点がない浮遊した存在であったことは、以前から言われていたことだ。

たくさんの学生運動の総括書、運動史の本を紐解いてきたが、結局五木寛之さんの「デラシネの旗」じゃあないけれど、根無し草の自分をどのように自立・自律させて、生きて行くのか。僕なんか、そんな時代から40年間、63才の今も問われるし、ある意味今も問い続けている。ベトナムで学校を経営したり、ベトナム人の学生を日本の優良中堅企業に正社員で送り出している仕事が、僕にとっての「三里塚・成田闘争」を含めたベトナム反戦闘争・全共闘闘争の総括的な事なのであろうか。自律を追求し、これとは別な道はなかったのだろうか。これが終着点?なかなかむずかしいね。80才ぐらいまで生き延びることになれば、後20年何するかも含めて自立・自律した人生の構想と総括を考えねばならないだろうなあ。

当時の僕の心中の深いところにあるメンタリティーは、「反権力」以上でも以下でもなかった様な気がする。社会主義革命や階級闘争を自らの思想に高めていくという風ではなかったと思う。貧しい人たちを助けたい。弱い人々に協力したい。大人社会の汚さ、ばからしさに染まらない。権力と権威を振りかざす腐った連中をぶっ飛ばす。おそらく、僕だけでなく60年代から70年代の初期に学生運動に関係した数百万の学生の大半は、こんな心情であったはずだ。高倉健さんらの東映の「唐獅子牡丹」「網走番外地」などの映画や小林旭らの日活の不良青年映画の持つ「反権力の正義」とは、僕等の心情とシンクロしていた。「♪やがて、夜明けの来るそれまでは、意地でささえる夢ひとつ、背中で呼んでる唐獅子牡丹〜♪」僕たちは「弱者への」義理と人情で運動をしていたと言っても誰も否定出来ない。もっと言えば、鞍馬天狗も月光仮面もゴジラも僕たちのヒーローであったし、その環境の中で僕たちは、「正義」感の強い大学生になった。そしてその後、超速で突き詰めてしまい、運動として「自己否定」に行き着いたとき、僕等は自壊してゆく。ここで当時の僕等の命を賭けた闘争を落とし込めるつもりはまったくない。本格耕論は別に譲る。

成田空港のバリアフリーの良さについて語りはじめて、大分道草した。彼女はすいすいと僕の車いすを押す。すすむ路面は絨毯が多いので、弾力性もあり進行は快適そのものだ。過日、フランス病院にて、車イスの楽しかった様を書いたが、車イスの性能も格段と違うし、通路は良質の絨毯だから、「車イス」ファンには答えられない充実感。僕が今までたぶん何百回と上下していたこの空港の階段やエスカレーターの裏側にはキチンと必ずエレベーターがあって、今回初めて、何カ所もエレベーターに車イスごと乗せていただいた。彼女はそういった度毎に、宜しいですか?乗りますよう、とか気持ちの良い言葉で僕を励まし、そして車を押してくれていた。こんな贅沢許されるんだろうか。貧乏性の僕らしく、申し訳ないという気持ちがまずは先に出る。何度も上下して、イミグレーションに。これも驚いた。車イス専用の窓口が別にあった。日本人や外人が長蛇の列つくって、モタモタしている間に、僕は誰も並んで居ない専用窓口でスムーズに通過。荷物の取り出しコンベアーでは、運良く僕の車いすが到着したとたんに、僕の荷物が目の前に。彼女がすかさず、僕を制してカバンをゲット。ありゃ、ホントに良い日だぜ。で、最終の荷物検査通過して、リムジンバスのチケット購入。バスの乗降口まで連れて行ってくれるという。嬉しいねえ。嫁さんにしたい娘だと恋愛の折れ線グラフが右片急上昇。彼女の手でも握りたい心境さ。で、彼女にお礼を言いつつ、グランドスタッフという仕事について聞いた。彼女は学生でアルバイトだという。へーっ、こんなにプロフェッショナルに仕事をこなしてきたのに凄い。ぼくは、今朝、ベトナムからもどったこと、ハノイで学校をしていることを簡単に言った。

「私はインドから来ました」という。「君、インドでうまれたの?珍しいね」と聞き返してから、「えっ」とおもい、振り返って僕の後ろにいる彼女を見た。「インド人です。ラードルと言います」、と言ったので、本当に驚いた。まじまじと見ると美しいインド人に見える。色の白い美人が優しい笑顔で僕の背後に立っている。目鼻立ちは確かに深いし言われれば、インド系だと言うことは確かだ。でもさ〜、道々僕と話してきた日本語はなんなんだよ〜。不覚にも全く日本人だと思っていた、だって、言葉の発音もイントネーションも完璧に日本人でした。インドの北部の町の出身で珍しく仏教徒だという。地元の高校を出て、全く日本語が出来ない状態で来日、でもがんばって日本の短大をでて、今は空港関連の専門学校で、空港職員の仕事を学びつつ、実習でこの現場にでているんだという。すごいなあ。えらいなあ。16才で来て、7年目。23才だという美しい人。惚れたね〜。でもハグも出来ない不自由さ。恋人のことや結婚の事も聞いた。インドは宗教対立が今でもあるので、彼女は仏教徒だから、ヒンズーやイスラムの人とは絶対に結婚はあり得ない。お付き合いする前にお互いに調べるのだそうだ。後で困るからね。また、カースト制もまだ生きていて、仏教の中にさえその制度はあるので、カーストの違う友人と食事したりは出来ないという。下の階層の友人とランチなどでもするものなら、親が「その階級の人と思われるから、辞めなさい」と言うそうだ。信じられないけれど、世界史の途轍もない法則の現実を若い彼女から、しっかりとした日本語で教えられた。

で、時間が来たので、リムジンバスの乗り場に。ありがとう、ラードルさん。あなたのようながんばるアジアの女性に乾杯。がんばって。僕は別れるときに目頭が熱くなった。あなたのような女性が、これからの社会を作っていくんだね、平和なアジア、インドをね。がんばれ、ラードルさん。「どうもありがとう。本当に助かった。感謝します」「お体を大切にしてください」とお互いに言って別れて、乗車して窓から手を振った。彼女も心持ち強く僕に手を振っているように見える。バスが発車して動き出した後まで、ラードルさんは、さよならの手を振ってくれた(感極まる)。

空港のバリアフリーというか正確にはアクセシビリティー(accessibility)と言うんだそうだが、とっても配慮が行き届いているとうに感じた。だけど、やっぱり、人だね。事をなす人の思いやりが在ってこその施設だね。空港が開港して30年強。人を大事にした政策を空港公団が港内でして来たかどうか僕は知らない。でも「名もない」アジアの若い女性ががんばっていることで、施設は支えられている。小さいが確実な仕事が人に感動を伝えるということが、当たり前であるけれどとっても大事な、これ以上大事なことがないくらい大切なことだとあのインドから来た娘さんに改めて教えてもらった。リムジンバスに揺られながら、ベトナムの学校のこと、ベトナム反戦闘争のこと、そして親切や思いやりとか・・・・、色々と考えながら睡魔に身を任せた。


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・2008年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC /  立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・2011年7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人

これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行


2012年1月11日水曜日

今日は02クラスの卒業式だぁ!おめでとう。

■写真 急な椎間板ヘルニアで、顔をしかめている僕を囲んだ元気なサムライたち。

僕はオートバイや車の往来激しい四つ角の一角で「卒業証書〜!、ズン殿〜っ!、貴殿は、当ハノイ日本アカデミーにて優秀な成績を収め・・・」とヘルニアで腰痛かったが立ち上がって、大声で読み上げ衆目があつまる中でズンくんに卒業賞状をで授与した。「優秀な成績」のところであははと笑う周りに陣取った8名の02クラスの仲間たち(去年2月にスタートしたほぼ日本語ゼロ状態であった学生たちのクラス)。でも、緊張したのか真面目な表情で受け取ってくれたズン。最近、授業に来ず卒業式には「出ずらかった」ので、ランチ宴会になってからやっときたズンくん。まあいいさ、責任者の僕が渡したんだ、責任は僕に在るさ。ズンには至急に再上昇していく個人的学習体制を取ってもらわなくてはいけない。4,5月には良い会社にいけるよ。心配しなくともいいさ。
それにしても級友のティエンが、わざわざこの四つ角のBIAHOI(黄色いイスの)まで、卒業証書を持ってきていて、奴が現れる時に「阿部先生、よろしくお願いします。ズンのです」と有無を言わさず、僕に押しつけた。ちゃめっけと言うか友情というかいいね。で、僕はうへ、と思ったが、ズンが近づいてきたので「よっしゃー」と即決して、痛い腰を上げ「証書」両手でもって、彼の神妙な顔に向け、満員のお客さんや店員が見つめる中で騒音にまけないように声を張って読みはじめた。


宴会たけなわの中程で、日本語中位の良い方のカインが僕の隣に来てこういった。「先生、ありがとうございます。僕は学習について行けず、去年の5月頃はやめようかなあ、と思ったりしていました。でもそのころの阿部先生の企業論授業で、自分の人生のドアーは、自分で開けるんだ。自分で開けるしかない。とおっしゃって、とても感動したんです」という。嬉しい話だが、具体的には覚えていない。そして「その後、がんばりました。まだ就職決まっていませんが、暗い気持ちにならず、日本語維持してなんとか春には入ります」と堂々たる日本語で、僕に言った。僕は思わず「うるっ」ときた。教員の喜びってこういう事なんだなあ、と改めて感じた。同時に教員のひとことひとことは、気が抜けない。慎重に言わねばならない、と言うことも改めて確認して胸に納めた。彼は例年であれば、ほとんど就職採用okのラインを超えている、確実ね。カインくん、がんばろう。もう一踏ん張りだよ。君はキャラもマスクもいいし、まあ、じっくり良い企業をねらおうね。


本日10日は、前からの予定で02クラスの卒業式だ。大げさなことはして上げられないけれど、4階教室で、僕とブオン社長と石岡教務部長と、それぞれの挨拶あって、卒業証書の授与。ズンが来ていないと、司会者。通常の日本語学校なら、この8名クラスで下位の2名ぐらいは卒業させないのかも知れない。日本語の成績だけを見ればそうさ。でも、日本語学校で無く、ベトナム唯一の「就職支援校」としての経験では、日本本土の会社に採用される人物のポイントは、日本語だけでは無いことは明白だ。正社員として10年もがんばる人物の評定に於いて日本語は必要だが絶対条件ではない。最近の傾向ははっきりしている。数学、物理などの基礎学問がしっかりしているかどうか。

また、外国である日本で能力を発揮できるのか。組織の中の協調性は?リーダーシップは?・・つまり、日本人の大卒新卒を採用するポイントと大きくは違わないんだ。煎じつめれば人物中心の判断と言うことだ(もちろん企業によって、そのポイントは大分ちがう)。人物におもだった優劣はない。日本語低位でも、積極性やクラスを和ます主役を演じれる人物は、面接企業のタイミング良ければ、即採用の可能性高いね。日本語の上下でだけで成績を云々出来ないのが当校のむずかしさであり、面白い所なんです。当校は聴解と会話・ディスカッションに力点置いているので、日本語総合成績下位のズンであっても、良くしゃべれる。上手いんです。

ハノイ工科大の大学院出て日本語ダントツのタン君のギターで、「青年よ、がんばろう」風な応援歌をみんなで歌って、さあ、BIAHOI(大衆飲み屋)でランチだ、行こう。まだ11時だけれど、行こう。と言うことで、僕等も教室を出て、BIAHOIに向かった。見上げると空は、珍しく一部だが大きく青空を見せていた。

2012年1月10日火曜日

椎間板ヘルニア男とベトナムMRI

腰を曲げて低い姿勢でとぼとぼ歩く僕。いやはや、老人の体型に急激になってきたってことだろうなあ。でも、現代の東京で、腰曲がったばあさんやじいさんはめっきり見ないぜ。その希少の価値の高い腰曲がり爺に自分がなるとはなあ・・。本当に参ったぜ。僕の喘息の先生の花小金井の松岡先生にメールでハノイから、図々しくも気管支系の先生におききしたのにもかかわらず、丁寧に「たぶんその症状なら椎間板ヘルニアでしょう」とアドバイスくださった。で、病名ははっきりしたので、きりっと屹立出来る日もあろう、と拳に力を入れたところさ。ダイエットの機会を頂いたと思えば、まったくへいちゃら。

実をいうと去年の春あたりから違和感があった。電車でシートに座っていて、降車しようと立ち上がるときに、尾てい骨あたりに痛みに似た重いしびれが時々瞬間走っていた。でも、暖かいベトナムに居ることが多いので、こっちでは忘れることがおおかった、まあそういう程度の痛痒でしかなかったということだ。でも、いつも、ノートのMACをリュックにいれて携えていた。これが重くていけなかったかなあ。そして決定的なことは、年末に余計な荷物を倉庫に移転した際、やらなくても良いのに労働好きの僕は、運んでしまうんだなあ、どうしても。それも数千冊の本もその移動する分に入っているので、トラック屋の兄ちゃんに率先垂範してしまったというわけさ。

老人はみんなそう思っているとおもうが、40才代ぐらいの肉体の強さを維持していると思い込んでいるからね。階段上がればゼイゼイし、テニスすれば、何故か両足が絡まって転んだりさ、バイアグラもこっそり使っているくせにさ、「まだ、40才代さ」の呪縛から逃れられず、リアルを受けられないんだ、絶対認めない。東電と御用学者が「事故はない」と目をつぶって無視してきたも幼稚な心境と同じメンタリティーだと思うね。確かに目をつぶれば、見ないで済むからね。でもさ、「運良く」大病を患った人とかは自分の肉体の今をキチンと受け入れて、丁寧に五体を使おうとしていくよね。

1月2日にハノイに来て、だんだん痛みが増大。今日遂にフンマイ通りにある大好きフランス病院に行った。全身に過剰に汗疹(あせも)風なものが出来たとき、酒飲みたくてブオンの古い酒飲んで倒れたときについで3回目かな。次回に続いて日本語通訳は広瀬さんだ。5年前に旅行でハノイに来て、居着いてしまいベトナムの旦那をもつ子供二人のボーイッシュなお母さんだ。医療用語をベトナム語で操るわけだから凄い。地元の富山とハノイは気候が近いと彼女はいう。子供はそろそろ富山で生活させようかな、とも言っていた。旦那と別居してね。しなやかな印象の女性だ。

汗疹事件の時は中高年の軟派そうなフランス医者で、「メルシーボクー」とか僕がいったら、喜んでいたが、奴が言うには「この汗疹は珍しい。本国の研究所に送る」とかいって、ボクの入れ墨もんもん状態の赤く腫れた全身写真をバシャバシャとっていたが、あれどうなったのかなあ。よく日本の病院では「悪い症例の一覧写真」が大正製薬とか、中外製薬の協賛企業ロゴ付きで、廊下や診察室に貼ってあるよね。あんな風に使用されているのかなあ。恥ずかしいぜ、オレの顔はトリミングして枠外にしたんだろうなぁ。フランスにいる知人から「病院で阿部さんの写真見たよ」なんて言われたら最悪だなあ。

で、車いすだ。今から乗れるようだ。思わず嬉しくなって、微笑んでしまうというか、浮き浮きしちゃうね。シクロは自転車漕ぐ汗だらけのおっさんに申し訳無い気持ちが付きまとう。ストレッチャーも嬉しい。何度か日本でも乗せられたが、廊下をスピード出して疾走するベッドで、うきうきで何食わぬ顔で天上とか左右を盗み見のボク。喜んじゃあいけない。けれど内面は隠せないよね。でも、ストレッチャーは、処置室とか、手術室に向かうので、ドアーの中にはいった時、心は「さあ、覚悟しなくっちゃあ」とつぶやく。だから、車いすが一番良いね。子供の時の自転車ごっこみたいだし、何より子供目線で、縦横に動けるのが嬉しい。(押してくれている通訳の広瀬さんゴメン)

他人様のスキャン写真をライブで見るのは初めてかな。僕の前の順番のお爺さんの老いた脳を10分ぐらいキャメラがあちこち撮るのを、じっくり見た。操作室はなんだか出入り自由なのもベトナムっぽい。ドアも開きっぱなしなんだ。って事は、僕の「局部」ふくんだ腰エリアの動画と写真をみんなで見ることになるんだね。「なんだ日本人も、変わり映えしね」とか言われたりして。それにしても、ズボン脱いで、っていわれて、おいおい、ハノイ寒くて股引はいてんだよ。最悪。ガラス窓の外つまり、操作室には医者と思えない一般市民もいて、股引みせるんかあ。広瀬さんなんか、僕のズボン引っ張って脱がしてくれたくちだから、僕の恥ずかしい股引を一等最初に見せる羽目になった。済みません。

で、MRIのベッドに痛さをこらえて、仰向けに横たわる。何処のメーカーの機械なのだろうか。僕の何時もの癖。デザインを見て、日本製ではないことはすぐ解る。ロシアの宇宙飛行士のアメリカのヘルメットとは全く違うあの地味なデザイン。デザインと言うより必要な要素を押し込めたらこうなったと言うようなあのかなりダサな旧ソ連の形状を思い起こさせる。更に僕に覆い被さってきた宇宙船のような、巨大なフリスビー状の白いもの。これはソ連の名匠タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」の宇宙船かもしくは何かのメカニズムを彷彿とさせた。音がぼんぼんとちょっとあります、とスイッチオンの前に聞かせられたが、もう気分はソラリス。音響がかなり良い。「ズズドド」でディスコ風低音も快調で、まさに空中へ機上した感。宇宙空間に飛び上がりつつ、カメラ技師は僕の萎縮した局部と背骨のクローズアップに精をだしているんだろうか。

このメカが、ロシア製かどうか聞いていないので確信はありませんよ。フランス病院ならフランス製に決まってるよね。でもさ、ちょっと解説しておくと、実はフランス病院にはMRIがないらしいのだ。フランス国家の「ODA」で設立し維持している優良病院にMRIがない。広瀬さんはいつものような風情で隣にある「ハノイ市老人・更年期病院(たぶん)」に車いすで、連れて行ってくれた。そこには知り合いの看護婦や医師が結構いて軽口交わしていた所を見るとしょっちゅう来てるんだね。ということで偶然にこの不思議な宇宙船に隣の老人市民病院にて出会えたのです。ベトナムはベトナム戦争当時ソ連派だ。決して中国とは仲良くなかった。だから、いま、ベトナム政府の幹部は当時若者で、多くはあのモスクワ大学に留学していた人も多いらしく、モスクワ大卒の同窓会が相当の学閥パワーを持っていると聞く。ハノイには、フランス風の建築もまだのこって居るけれど、ソ連というかロシア文化の反映した重厚な大型建築も多い。ということで、あの「ソラリス」風MRIもロシア製である可能性たかいね。

そういうことで、公道をまたまた押してもらってフランス病院にもどり、1時間ほど点滴され大量の薬剤をもらった。今、渡辺京二さんの「逝きし世の面影」平凡社刊が、最高に面白く、長い待ち時間も、点滴の時間も快適であった。江戸後期から、明治中半までに日本に滞在していた西洋人の役人、学者、軍人、商人やその妻たちの出版した大量の日本体験を凄まじいほどに集めたもの。この件は後日キチンと書きます。
ということで、その夜には、痛みは少々薄れてきた・・。階段はまだきついんですがね。
僕の椎間板ヘルニアですが、痛みは激減して、喝采ものですが、痛みって移動するんだね。タイの洪水の様に流れているようで、実はベトナム人医者が「左が良くない」言ったとおりに左足が麻痺状態でしびれと痛さで左膝が割れんばかりの重傷さ。

今日から、復帰してくれた絶対安心・絶対信頼のNGOCさんとか、貿易大の僕のクラスのリーさんに腕をささえられてニコニコの僕、ハノイ貿易大の中を移動し、会議とか、使用教室のチェックとか12日準備に取りかかった。ともかく、歩行困難状態なので、今日2回目の点滴、明日も予定されている。ブオンは、ヘルニアの点滴は5回打つとなおるとか、根拠のないこといってらあ。ただし、ここは中国同様東洋医学の大国でもあるので、日本で直さず、ハノイで直そうかと思って居る。フランス病院出てもいい。腰痛・ヘルニアの専門病院もあるらしい。この際、ハノイで完治めざそうか。


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2012年1月7日土曜日

お正月は竹内まりや「人生の扉」だね





明けましておめでとうございます。今年はどのような一年になるのでしょうか。でもこの歌にあるように一体このさき何度この春を見つめることができるのでしょうか。「人生の扉」は僕にとって本気に名曲と言える作品のひとつです。この作品の魅力はどうも歌詞の平易さの中にある未完成感というか、意図的な未成熟さがあるような気が最近して来ました。なんて言ったら良いのだろう、完璧になっていない「余白」分なのかしら、その空いたスペースに安心感とか歌詞のもつ強さを回避した自由感が、僕等に慰める雰囲気を醸し出しているように思えてきたのです。では、聞いて下さい♪ 下記URLは5分の全曲。

http://japanesepop.blog102.fc2.com/blog-entry-2684.html

* 上記URLは、2014年5月にチェックしたら、削除になっていました。すみません。ただし、youtubeには、「人生の扉」でさがすと、幾つか、ありますが、彼女のオリジナル動画は無いかも。

蛇足になるけれど、これと並ぶ僕にとっての名曲は中島みゆきの「最後の女神」です。晃子の葬送時に使おうと考えたことがあった。