2011年3月30日水曜日

全共闘の100年前は攘夷の嵐 / 記者会見の言葉と心得と〈未完〉

■東日本の震災から始まる復興革命を考えているうちに、自分でもよくわからないのだが、幕末の年表を見たくなり、インターネットにあったこの表が特に良いとは思わないが、載せてみた。唐突で申し訳ない。人によっては高校の日本史の授業以来の人もいるかもね。現在、僕が読んでいる大佛次郎の「天皇の世紀(全12巻)」の第五巻目は、おおよそ文久から元治にかけてまさに激動の季節に生死を賭した若者たちの日々が綴られている。ずうっと読んでいるので、この既存の年表に加筆したい項目はあるのだが、今それを丁寧に埋める気力はない。早く風邪完治しないとね。来週、直ったらね。
■幕末の年表
1853 嘉永6年 〈黒船〉アメリカ東インド艦隊提督・ペリーが
          浦賀に、開国を迫る
1854 安政1年 ペリーが再来航。日米和親条約を結ぶ
         吉田松陰、密航に失敗して投獄される
1856 安政3年 アメリカ駐日総領事ハリスが着任
1858 安政5年 井伊直弼が大老に就任
          日米修好通商条約を結ぶ
          安政の大獄が始まる
          徳川家茂が将軍となる
1859 安政6年 橋本左内・吉田松陰らが死刑
1860 万延1年 安藤信正が老中となる
        勝海舟らが咸臨丸で太平洋横断
          <桜田門外の変>
       大老・井伊直弼が水戸藩浪士らに暗殺される
1861 文久1年 皇女・和宮が将軍・徳川家茂に降嫁
1862 文久2年 <坂下門外の変>
          安藤信正が尊攘派に襲撃され、失脚
          島津久光が文久の改革
          その帰路、生麦事件発生
1863 文久3年 幕府、攘夷決行を朝廷に奏上
         長州藩が下関で外国船を砲撃(下関事件)
         イギリス軍艦7隻と薩摩藩が交戦(薩英戦争)
        <天誅組の変>
        攘夷倒幕論を唱える吉村寅太郎らが公家の中山忠光
        を擁立し、五条代官所を襲撃
        <8月18日の政変(七卿落ち)>
        薩摩藩・会津藩が同盟して朝廷から長州藩と長州派
        の公家を京都から追放
        <生野の変> 平野国臣らが天誅組の蜂起に呼応し
         て代官所を襲撃
1864 元治1年 <天狗党の乱>
         水戸藩の尊攘派藤田小四郎が筑波山で挙兵。
         武田耕雲斎らは尊攘を徳川慶喜に訴えるために上
         京するが、途中で降伏
         <池田屋事件> 新撰組が京都池田屋で長州系の
         浪士らを襲撃
         <禁門の変(蛤御門の変)> 逆賊とされた長州
          藩が上洛するが、
          薩摩・会津・桑名などの藩の妨害で失敗
         <第一次長州征討> 幕府軍が長州藩を攻撃。
          長州藩は降伏
         <四国艦隊下関砲撃事件> 英・仏・米・蘭の連
          合艦隊が長州藩
          の下関砲台を占拠。
1865 慶応1年 幕府、長州再討の勅許を得る
1866 慶応2年 坂本竜馬らの仲介で薩長同盟が成立
         <第二次長州征討> 幕府軍が長州藩を攻撃する
         が苦戦。途中で将軍・家茂が死去したため中止と
         なる
          徳川慶喜が将軍となる
1867 慶応3年 薩・長・芸藩が討幕を約束
          山内豊信(容堂)が幕府に大政奉還を建白
          討幕の密勅が薩長に下る
          徳川慶喜が大政奉還の上表
          坂本竜馬・中岡慎太郎が暗殺される
          王政復古の大号令。小御所会議が開かれ、
          慶喜を新政府から除外することを決定
1868 慶応4年 明治元年 <戊辰戦争> 鳥羽・伏見の戦いで幕府
         軍が新政府軍に敗北。慶喜追討令が出る
         西郷隆盛・勝海舟の会談で江戸城無血開城を決定
         <彰義隊の戦い> 大村益次郎が旧幕臣の彰義隊
         が立てこもる上野寛永寺を破る
         江戸を東京と改称  年号を明治に改元 
         <長岡城の戦い> 長岡藩家老・河井継之助の指
         揮で一時新政府軍を破るが、落城
         <会津の戦い> 新政府軍は東北諸藩を降し、若
         松城を攻略
1869 明治2年 <戊辰戦争 終結> 五稜郭の戦いで、榎本武揚
          ら旧幕府軍が降伏版籍奉還が行われる

* 明治元年は1868年だ。その100年後の1968年、僕たち団塊の世代の多くはベトナム反戦の激烈な戦いをしていた。明治元年のたった100年後だ。いずれも時代と世界性を先取りしようとした青年や学生たちが決然と闘った。叫んだ。
* 東北の復興への構想、更に国家の枠組みと社会の仕組み、エネルギーを含む国民生活の新しい姿をどのように構想するのか。2050年には人口8000万人台(生産人口は5000万人に)のサイズになる日本社会のあり方をどのように計画するのか。今まで資源が無いと言われてきた日本は実は高度知識の世界一の資源国であること。また(メイドinジャパンでなく)「made by Japanese」を命題化して外需・内需を止揚して行くことも必要だ。その上で僕は20代の若者たちに期待したい。
 3月13日の項に少し耕論してみてある。

■いま、完訳「マルコムX自伝」(中公文庫全二巻)を読んでいる。スパイクリー監督の映画「マルコムX」(1992年)の原作だ。紹介するまでもなく、マルコムXは、1960年代のアメリカのブラックモスリム(イスラム教)の中興の祖であり、その戦闘性で世界の表舞台に出てきた伝説的人物である。ムハメド・アリがそのグループの一員であることで知られている。この著作は「自伝」とはなっているが40才足らずで暗殺された天才革命家は、自伝など書く時間など無い中でアラーの神の下に行ってしまったわけだから正確には自伝ではない。実はあのクンタ・キンテというアフリカ少年の名前で世界中で大ヒットした「ルーツ」で有名な作家アレックス・ヘイリーが何度も直接インタビューしながらまとめたワクワクさせる最高のドキュメントなのだ。ドキュメントの名作中の名作は何と知ってもロシア革命のど真ん中で記録したジョン・リードの「世界を震撼させた10日間」だろう。(ウオーレン・ベイテイの映画「レッズ」1981年公開の原作である)それに共通する雰囲気が出だしから醸し出されている。面白そうな予感。進捗したら改めて報告する。

大佛次郎「天皇の世紀 第五巻」(文春文庫全12巻)は、2月23日のブログに50ページと書いてあるのにまだいま、120ページ足らずだ。攘夷から倒幕に移行しつつあり、農民軍、天狗党、天誅党などが入り乱れ面白い節に入っているにも拘わらず、ちと遅いね。まあ、2月後半から、3月上旬までは、新しい業務の企画・計画・準備で忙しかった所為もある。それにドストエフスキーの亀山郁夫翻訳「悪霊1」(光文社文庫)も並行して読み始めているからね。それにやっぱり、11日以降、考えることが多くどうも落ち着いて読めていない3月であった。最近購入した玄侑宗久「荘子と遊ぶ」(筑摩選書)、植村和秀「昭和の思想」(講談社選書メチエ)は、しばらく、放っとくしかないね。

■また、「ハゲタカ」かあ、と言われたくないが、昨日ふと深夜見たら映画の「ハゲタカ」をBSでやっていた。結論的にヒドイいね。テレビの名作(シリーズ6作)の続編というような「縛り」があるし、役者も演出(監督)も同じという良くある間違いをしていた。更に時代はバブル時代から急降下していて「悪」として中国を登場せざるをえないとか、リアルの時代の躓きが、映画のシナリオの躓きにもなってしまって、それがもろに出たのだ。テレビで良かった主演の大森の顔も冴えない。太っただけでなく、顔色に切れがないのさ。その上中国人ハゲタカの玉山鉄二に喰われていたしね。

だいたい、シナリオに無理が多いし、よくわからない混乱を上手く削除できず、不用意にそのまま撮影してしまったようだ。更に言うと、映画の演出セオリーとテレビの演出方法は実は全く違うモノだ。もちろん、大友監督(NHK職員)もそのことは良く知った上で製作にあたったろうが、思ったように上手く出来なかったのだろう。ところで、映画にすると言い出した奴は誰だ。映画にする必然性、ちっとも無かったのに。テレビドラマで終結すべきであったのさ。

★ 記者会見の日本語:
 頑張れ、頑張るぞは、日本人にとって、常套の科白だし、ちょっとしたことにでもやたら使ってしまう。特に他人を元気づけるために「頑張れよ」「がんばってね」は不用意にいってしまいがちなほど、僕らはたびたび使う、使ってしまうと言った方が良いかもしれない。頑張っている人に頑張ってという、不似合い。言った方はちょっと「しまった」と後悔し、言われた方は「まあ、彼は悪気でなく、思わず習慣で言ってしまったのだろう」と一応の理解は示す。実は、日本語は豊かな割に、日常の使用言語はワンパターンに陥ってしまっていて、例えば、食の「美味しい」「旨い」以外ほめる言葉を探すのは意外に苦労する。ことほどさように「豊かに微妙な言葉がたくさんあるはず」とおもいつつ、どうにもがんじがらめで、言葉に変化を付けられず、パターンに陥っているものは少なくない。

心理学者は被災地で「頑張ってください」は言うべきでない、という。そんなことは、子供でも解る。けれども、「不用意に言ってしまう」ものなのだ。ここでは「・・と思う」「・・・かも知れません」「・・・すくなくない」「直ちに・・・ない」などを危機管理の局面での課題として、取り上げてみたい。更に「言い方」「表情」「人選」などの戦術的あり方についても触れる。もともと私はパブリック・コミュニケーション(マーケティング・コミュニケーション)のプロとして、企業のIRのも関わってきた。従って、直接危機管理の直接の訓練は受けていないが、知識としては危機の時の対応の仕方は、PRとIRの立場から一応の心得はある。特に記者会見のあり方については研究し、「演出する」立場にあった。

今回の東日本大震災は、地震と津波と原発事故の三重の災害となった。原爆を投じられた戦災と同レベルの対応が必要だと言うことは言うまでも無い。今回占領軍は居ない分、自立して革命的な戦いが必要だろう。自分らだけで軍国主義・国体主義から、民主主義に強引に回転させなければならない訳だからね。「黒船」が来ない、つまり外部圧力がないままに自立して国家や社会の大切開を経験したことが無い日本にとって、何処まで可能なのか。その意味では、歴史的に初めて外圧に左右されない、自立した革命的な社会の変革をして行かざるを得ない歴史的瞬間を迎えた。本当の試金石だ。国のサイズ、社会のシステム、生活のスタイルを同時に変革していく、実は最大のチャンスといえる。否、この大震災の悲劇を新しい社会作りに止揚することが、亡くなられた3万名以上の方々、100万名の被災の方々へと未来の子供たちへの我々の責務だろうと思う。

中断・・4月13日夜ニュースで東電の清水社長の会見を見た。ほとんど初めてマスコミの前に登場してきた。その彼の姿と言い分を前にして我々日本の国民は今、矮小なそして荒涼とした荒れ地に立たされているのではないかという感を強く持った。日本企業有数なトップ企業の社長の顔を見つめ、彼の顔の内側に潜む何かについて、考えた。いや、考えざるをえないと感じた。僕は今まで企業の記者会見の方法を”演出”してきた「側」として、東電、保安院の情報の出し方、会見の仕方を凝視してきた事を書きたいと思っていますが、そういった立場であった時の反省点もふくめて、すぐに書けない気持ちが膨らんできた。その上、記者会見は続いているので、もう少し時間をかけたうえで、きちんと整理して書くことにした。4月末までには必ず執筆します。この項、5月の初頭の項に継続させることとします。済みません。阿部

2011年3月27日日曜日

★ 彼らの尊い義捐(えん)金 が集まった。/ 復興省はこの際、 孫さんで。復興革命だぁ!

■またすぐにハノイに戻るのだが、2週間ぶりぐらいで、戻った。少し緊張気味に帰国した。ハノイも何故か今年はテトも終わって1ヶ月半も経とうとしているのに、異常に寒かったが、成田に着いて、こっちの寒さはただならない寒さで、本当に珍しく一気に風邪引いたようだ。熱が結構在るようだし、痰が際限なく出てくるし、おまけに肋膜の周りの筋肉が咳のたんびに大いに痛い。だから、当校のスタッフたちから預かった義捐金のこと、帰国して早速その日(25日)に書こうと思っていたがこの風邪の所為か、帰国して日本の被災の深刻さがハノイに居るときと全く桁が違いなので、書くことに往生してのことなのか、判然としないがまったくブログが書けずにいた。でも、日曜の内に書こうとPC開いていたら、NHKのBSで岩崎宏美35周年プラハ公演のドキュメントをやっていたので、35年前のフアンとして彼女の懐かしい声と品の良い話し方を見ていたら少し元気が出てきた。チェコの一流なアンサンブルとの共演でなかなか良い。51才にもなると容色は一定後退するし、透明な音声も変容を強いられているが、そこはフアンの僕だもの、昔の麗しいお顔と声が自然に被さってくるので、完璧に聞こえたよ。

と言うことで、書き始めたが、昨日の「ハゲタカ 六部作」全部を偶然見た話しもせねばなるまい。このブログでは、既にシリーズを2度見た事は書いている。大体テレビドラマで3回も見るなどと言う労苦を甘受できる作品など在るわけ無い。僕も好きで3回見たわけでないのだが、偶然が付きまとって見る羽目になったに過ぎないと言いたい。昨日だって、まったくたまたまBSにチャンネル廻したら、第一作目が始まってところで、すぐテレビの地デジ番組表見たら一気に今から6本だという。一瞬、僕は多分困った様に「うっ」と言ったはずだが、結局作品の力に引っ張られて6時間テレビ前に座して見た。やっぱーいいね。この「ハゲタカ」。名作の部類に入るね。前にも触れたが麿赤児の息子の大森南朋とかいう主役の青年、いいねえ。また松田優作の息子も役者としてなかなかだね。で、音楽も良いね。エンヤのような、でももっと東洋系かなあと聞こえる女性の歌(というより音声と言った方が良いかも)が主役鷲津の屈折した心象に深みを与えている。ただ、これ見ていて、風邪が僕の体内で更に猛威をふるったのも事実さ。

テレビ繋がりで、これも言っておこう。「白洲次郎」のドラマも今日BSでやっていて、これも一挙に全3回分見た。司馬遼ものとか、この白洲ものなど流行物が嫌いな僕は、この番組自体の在ったことは知っていたが、今年は大半がハノイに居たこともあったし、このタイトルを無視していたので忘れていたわけだが、今日たまたま、NHKBSでやっていたので、4時間ほど使って全部みた。原田芳雄の吉田茂がいいねえ。正子役の中谷美紀も悪くない。白洲次郎という人物は予想通り鼻につく貴族趣味野郎で、うんざりだが、戦中から戦後にしかるべく存在した希代な自由人であったことは認めないわけにはいかない。被災に直面すると誰に言われるのであろうか、おそろいで作業ジャンバーを着て記者会見して(現場には行かず)深刻な顔を並べ曝している今時の俗世の代表挌である政府首脳部や東電幹部とは180度違う人種であることは明確だ。

一日テレビばっかり見てるがばれてしまうが、深夜というか、朝まで「実録ドラマ・グリコ森永事件」をまたまたBSで見た。ドラマでここまで現実というか設定をリアルにした日本のドラマは見たことがない。読売と毎日のこの事件の担当記者が実名で、それ以外の警察幹部も実名で出て来たのだ。驚いた。警察の失態も新聞社の特ダネの「抜き」争いの実態も露わに描かれる。通常日本のドラマは新聞社名は「毎朝新聞」とかでわざとフィクション性を表に出し、作品の法的(名誉毀損など)な防衛線を張り、トラブルを避ける傾向が強い。権力に及び腰なのさ、テレビ屋は。ところで、この事件は早稲田の親しい先輩であった週刊誌記者の宮崎学が、その件で「キツネ目の男」としてマスコミの表舞台に登場し、さらに作家として打って出て開花したのが、僕にとっては事件であった。ヤクザなタイトル「突破者」がデビュー作だ。覚えていますか?

★  義捐金(■33の続き)僕の今回の帰国で一番重要な仕事は、実は当校の女性の部長であるゴックさんが呼びかけて、学生からベトナム人職員、日本人教員までの全員の賛同を得て、集めた義捐金を然るべき所に、お届けする事なのである。僕にとっては緊張するほどの大きな使命だ。僕や日本人教員の4名は当たり前としても、やっぱり当校に面接に来た学生始め当校の通学学生11名が厚い志を示してくれたんだからね。これ以上嬉しいことはないです。一生懸命の若者たちの優しい心に感銘を受けました。

更にベトナム人の職員の誠意がすごいので正直驚いている。皆さん、決して豊かではないのに、ある一人は貯金を下ろして家族と共に約1000ドルを出してくれたのだ。また、やはり家族として約220ドルとか約380ドルも提供してくれたスタッフや関係者もいたのだ。本当に頭が下がる。そいう具体的な優しさはベトナム人の心の何処から出てくるのであろうか。ベトナムは工場労働者の月給が100ドルの社会だ。慎ましくなら100ドルで若者が一ヶ月生活出来る社会なのだ。だから100ドルの価値(感覚)は日本と全く違う。つまり、ベトナムではもの凄く大きな金額ということなのさ。結果、今回のゴックさん中心に動いた志の合計は12万7840円となった(合計が変更:為替1$76円)。学生11名と職員15名(ブオンの友人1名のも含む)の日本の復興を信じての総意の合計です。僕が言う立場ではないのも充分承知しているが、うれしいなあ、皆さん、大きな金を本当にありがとう。日本の被災の事を深く考えてくれてありがとう。

僕が仙台出身であること、仙台出身の教員もいることもあり、方向としては仙台か石巻か南三陸町あたりの子供たちに関係するところに寄付することになっています。で、仙台二高の同窓の幹事である庄子友康に相談したら、今すぐなら自治体に相談して提供可能だがグロスとして活用されるだろうし、個別の相手を探すなら、もうしばらく待っても良いんじゃあないかという仙台現地の意見ももらった。お届けしたい食品の物資も少しあるので、僕も体調がなおったら、仙台に行こうと思っている。このことはまた報告する。

★ 《復興革命だ!!》政治にはほとんど幻滅してるので、何も言いたくない。人間として情けないことをテレビやインターネットを通じて毎日知ることも多くて、本当に暗い気持ちだ。
1 福島原発の復旧とはなんだ。復旧はいらないんだぜ。終止、廃止、即「石棺」にするんじゃあないのか?直してまた使うつもりがある「復旧」は、論外だと思う。復旧して、冷却してから石棺なら仕方ないが・・・。本当か?奴らは信じられないからね。
2 週刊朝日によると保安院とかいう産経省の部局の福島の常駐者は7名いるらしいが、事故後避難してしまい、全員1週間は現場に不在であったと言う。本当に情けない。日本を信用してくれている世界の皆さん、済みません。恥ずかしいです。

3 「福島50」とか言われる「突撃隊」や作業の400人は誰なのか、足を被爆した3名は、誰なのか?氏名どころか、殺人者並に「青ビニール遮蔽」だ。長靴も履かない管理はなぜなのか。ここで働いている皆さんは、ほとんど下請けの下請けの作業員つまり、派遣や日雇いの「原子力の知識を必要としない」労働者だと思われる。これも週刊朝日の情報だが、事故後すぐに作業員が当然のように激減したわけだが、日当を3倍つまり5万円にすると言うことで、作業員から突撃隊を募集して、作業を「させている」ということだ。本当に悲しい。そこには東電やメーカーの日立、三菱の本社の正社員は誰一人いないはずだ。

テレビに作業服着て説明している副社長始め広報の幹部らは、この事故を誰も自分の事であると認識していないかのように感じられる。顔とか話し方がそれを表現している。危機管理の対応のマニュアルすら読んだことが無いようだ(読んでいれば、もっとまともに誠実な顔を演出するはず)。日本の企業の組織の悪い側面が如実に表れている。恥ずかしいことだ。日本人の仕事に対する責任感は何処に行ったのだろうか。日雇いの常連の中高年や若い作業員たちに作業を押しつけている(ざるを得ない)システム。いざという時はこういう対処、つまり、知識のない孫請け会社の作業員を主に動員して対応させるという事は初めから決まっていたはずである。たぶん暗黙の決定は前からあったと思う、東電の本社幹部と福島原発の中堅役職者たち同士でのアイコンタクトでね。悲惨です。卑劣です。差別が露骨で無惨です。

強い放射能と放射線物質が猛威をふるう現場で黙々と泊まり込みで指示通りに作業する彼らがあまりにも可哀想です。悲劇を超えている。1億円とか数千万円の退職金を得て、さほど遠くないタイミングを見て退社するだろう社長とかテレビに出ている2名の副社長と違い、実質日雇い雇用の大半の作業員たちは安定雇用や健康の保証すらがままならない契約条件のもとで、数年後に何十人もの作業者は死病を患うだろう。無惨だ。いま何を語ろうか。
このようなシステムには、人間の暮らしや人間の顔が見えない。見えるのは人間の顔を真似た鬼の顔だけである。

4 僕の萎えたこころでは、何も主張したくないのだが、力を振り絞って提案する。復興省を作るなら、ソフトバンクの孫社長に大臣をお願いするしかないと思う。東北には自動車産業関係の大手企業工場だけでも1000社、年間の売り上げでも1兆円のすその産業網が広がっていて、言うまでも無く一大拠点であったのだ。そのネットワークがかなりズタズタにされた。従って、復旧ではなく新しい構想に基づいた復興でなくてはならない。世界基準であるSPEEDI基準では、安全なエリアは30キロの半径ではまったく収まっていない。宮城の南部地域も含む蝶々の羽のように汚染が拡大しているようだ(西部の内陸部は、逆に20キロ半径で十分な様だ)。一言でいえば、政治と東電の原発政策によって、福島の優良な漁場であり、美しい海岸もあった「浜通り」地域一帯をほぼすべてを失った。おそらく、数年から100年ぐらいは使用できないだろう。それだけではない、僕の故郷である宮城県、そして岩手県も海側は壊滅的な状況だ。「風評被害」も広がるだろうし農作物、海産物全体の産業を考えれば東北全体の復興の強くて大きな構想が必要だろう。その構想の大きさと迅速さに耐えられるリーダーは誰だ。誰が出来るか。

僕は若い天才的な実業家孫さんしかいないと思っている。いま、バランスが取れたリーダーは日本に他には居なそうだ。まあまあが得意の日本にふさわしく、まあまあの先鋒や中堅は強いが大将が見あたらない。もう、孫さんしか居ないんじゃあないか。孫氏の兵法を発揮してもらうのが確実で早い気がする。また、韓国籍の彼は多分大臣になるのは法的に無理だと思うが、超法規も含めて対処することで、”ついでに”日韓の距離も一気に縮める方策でも在る。確かにこれは思いつきだが、民主党の内部で人材は無理、問題外だからね。いま(29日)、テレビで津波の被災地でアルバムを見つけて涙している家族を報じていた。もう、思い出は汚れて破損したアルバムにしかないんだ。本当にお気の毒です。こういう事態の細部も理解出来る苦労や貧困も経験している人物でしか解決し得ないように思える。復興省は東京に設置してはいけない。仙台あたりが良いだろう。現場に近いことが必須だ。僕はツイッターもFACEbookも面白半分で会員になっているけれども、よくわからず、使ったことがない。誰か若い人々よ!孫さんを中東革命ならぬ、日本の復興革命のリーダーとしてFACEbookとかで押し上げてくれないかなあ!
被災の皆さんの希望する新しい郷土はやがて出来ていきます。力強くじっくり行きましょう。ベトナムのちいさな個々人でさえ、あなた方に愛を発信しています。そして、世界からも愛がもっともっと届けられましょう。

2011年3月23日水曜日

大震災をベトナム人は語り、動く《4》

ベトナムの理工系名門ハノイ工科大学のキャンパスで熱心に募金を求めているハノイ工科大生の有志グループ。君たちの気持ちは必ず、日本の多くの被災者に届きますよ。
そのボランティア学生たちのそばに出ていた日本への義援金を求める彼らの「応援ニッポン」立て看板。彼らの誰かが、写真を撮る僕に頑張ってください、と言いました。ありがとう。ハノイの若者たち!

■41 会計士のランさん(女性)が、仙台への支援物資ということで、豚の肉を干した「ルオック」を3キロばかり持ってきた。それも最高級品らしい。これは形状は柔らかく細かく刻んである”あたりめ”風のものだ。でもつまみではなく、ベトナムの伝統的なご飯の振りかけなのだ。これがとても旨い。ベトナムのいわばササニシキである「バック・フン 北の香」というお米を炊いたアッチッチのご飯にこのルオックを振りかけて食べると、おかずは全くいらない。かつ十分な栄養素も揃っていると言う。彼女が支援物資としてこれを考えてくれたのは、たぶんこの理由だと思う。僕はこの支援物資を今回帰国時に仙台の被災地に届ける義務がある。どうしたらいいか、仙台二高の19卒幹事の庄子に相談するつもりだ。当校のスタッフが集めている義援金も結構集まりつつ在るという。本当にその志がうれしい。

■42 これはブオンからの伝聞だ。昨日、タクシーに乗った際にドライバーと彼女は日本の津波と震災の話題になって、ドライバー氏曰く「今までは、外人を乗せるとどうせ地理が解らないから、適当に遠回りしたり、メータの数字の読み方をごまかしたりしたけれど、最近のテレビでの被災した日本人たちの態度は立派だ。はっきり言ってベトナム人はああには成れない。本当に日本人の社会の秩序は見事だと思った。だから今後は、お前はJAPANか、と聞いてコリアとか、チャイナなら、今まで通りだが、日本人と解れば正規より安くする」と語ったという。これも有り難い話だ。

■43 本当に驚いた。僕が、帰国のためにハノイのオフィスを出る直前の24日21時ころ、ベトナムで地震が起きたのだ。ハノイの当校の校舎はゆっくりとはっきり解る様に何度も前後に揺れた。世界大地震か?ベトナムもかあ!ベトナムの建築物は煉瓦積みだし、構造の計算など全くしないで、5階建位の建築物を造っているし、歴史的にほとんど地震がないので、まったく建築物の耐震に付いて知識や経験が建築・工事社に無いことを、僕は充分に承知しているので、その分その揺れを感じながら僕の顔から血の気が引いて行くのがはっきり解った。「震度2で、街の大半は倒壊だなあ」というのが、現地に詳しい僕らの半分冗談の認識だった。それが、リアルに来ると、顔もすっかり青くなるよ。今となっては市内で崩壊した建築物がなかったのが不思議な位だと本心で思う。これはミャンマーが震源地で、そこでは数十人が死亡したと伝えられている。

□■□ 出来るだけ、生の声や意見を拾っておきたい。ベトナム人が描く、あるいはイメージする日本人の輪郭が少しでも解ればと思う。が、通訳を使っているため、ドラフトのところが幾分そがれるのと、ベトナムマスコミは符丁合わせの様に一斉に「日本人は凄い。立派。復興早いぞ。」を流しているので、どうしても意見が同方向になりやすい環境にある。多分、去年日本から”買わされた”原発の工事の推進を恙無く進めるためとも読める。が、政府とは全く無関係にベトナムの市民は一人一人、自分の事のように日本の悲しみを感受している。僕はその自然な健全な彼らの感情から発する言葉をなるべく拾いたいと考えて居ます。出来るだけ継続してゆきます。 25日から、東京に来たので、彼らの言葉が拾いにくいので、ちょっと中断(来週に東京でベトナムの若い人に数人にあったとき、また加筆)。

17才の僕らの「風に吹かれて」1966

エビスビールのコマーシャルで、風の国のビールですと役所広司がつぶやいて、旨そうにビールを飲んでいた。風の名称がほんとに2000もあるのかいな、と思いつつ風という浪漫がもつ響きで、ボブ・ディラン「風に吹かれて」を思い起こした。そして45年前の僕たちの姿をもね。

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
Yes, 'n' how many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, 'n' how many times must the cannon balls fly
Before they're forever banned?
The answer, my friend, is blowin' in the wind,
The answer is blowin' in the wind.

どれだけ遠くまで歩けば大人になれるの?
どれだけ金を払えば満足できるの?
どれだけミサイルが飛んだら戦争が終わるの?

その答えは風の中さ 風が知ってるだけさ
・・・・
翻訳は数々あるが、これは忌野清志郎の翻訳である。ディランは、当時の英語詩翻訳の代表格であった片桐ユズル氏の訳詞が気に入っていなかったという風評も強く、未だ定番の訳がない。特にもっとも大切なラスト2行のニュアンスが、微妙だね。
英語の苦手な僕ですが、僕なりの解釈はこうだ。

「(友よ!)答とは(昔から)風の中にあるものさ。答はいつも風の中で舞っている。」

この詩は解説するまでもなく、1960年代の全世界の若者の心象を現していたのであった。当時、ジョンバエズや、PPMとかの厭戦的なフォークは他にいくつもあったが、全世界的なベトナム反戦闘争の時代の若者の思いと声に応えていた歌はこの「風に吹かれて」であった。僕は特別に音楽少年ではなかったが、中学3年でビートルズの衝撃を受けていた僕は、ローリングストーンズも聞き始めていて、「洋楽」一辺倒の音楽ライフに浸っていた。小島正雄の9500万人のポピュラーリクエストくらいしか田舎の高校生に情報はなかったが、ニール・セダカ、ポールとポーラ、カスケーズ、シルビーバルタン、リトル・ペギー・マーチ、ビージーズ、スコット・マッケンジー、フランス・ギャルとかのきら星が限りなく居て、ラジオや買った来たドーナッツ盤を通して僕たちに次々と新鮮な楽曲を提供していた。もちろんザ・タイガース、カーナビーツ、オックスなどのGSも盛り上がっていた。

それを僕たちは魂と肉体にすり込むように毎日聞き入ったよね。また僕らは小学校の時から、「うちのママは世界一」「パパ大好き」「名犬リンチンチン」「名犬ラッシー」「サーフサイド6」「ルート66」「ビーバーちゃん」「陽気なネルソン」「ララミー牧場」「ローハイド」「幌馬車隊」「ハイウェイパトロール」「ライフルマン」などのアメリカ製テレビドラマの洪水の中で育った。だから僕たちのあこがれはアメリカだった。僕たちは価値感とか、正義感もそれで学んで高校生になった。

1966年秋だと思う。仙台二高の小さなサークルである映画愛好会(学校そばの河原で昼間から宴会して酔っぱらい、後日、学校に解散させたれた)の会長であった僕に音楽好きの後輩の小野寺が、頭ぼうぼうで髪が逆立ちしているような風貌だが、顔は憂いがあるようなハンサム男の写真を僕に見せてくれた。これが、噂のボブ・ディランだという。奴は、「彼は、朝起きて髪もとかさず、そのままレコーディングにいったり」「いつも風来坊で、レコード会社も困っているらしい」と、かなり低レベルの評論を校舎三階にある映画愛好会の狭い部室で、ぼくに言ったものだ。「スゲーナー」僕なんかそれだけで、ぱっと未来が見えた気がした。その相貌だけでね。日本の高校生はみんな「バイタリス」を頭に振りかけ櫛を入れていた時代にだ。そのとき僕は、本当に衝撃を受けた。これが、あのボブ・ディランか。そうか、あちらの文化は今そうなっているのか。ハリウッド製アメリカのテレビドラマの幸せな家族は幻想だったのだな。

その写真を見つめ、僕はビートルズやストーンズとも違い、つまり音楽の革命性だけでない俺たちの時代の生き方を一瞬にして、予見できたような気がした。ああそういうことか、僕らには、もう一つの生き方があるんだ、とぼくはそう合点した。たかだか5分ぐらいのたわいない高校三年生の会話の中だったが、人生を変えた一瞬であったのかもしれない。「よし、東京へいって、どうしようもない大人たちに闘いを挑もう」と僕は決意した。
 
音楽は世界を変える、なんていうフレーズはきらいで、「へっ」何言ってんだよ、具体的な闘いだけが状況を突破するのだ、十代は真剣に思考していた。でもやはり、音楽は世界を変えうるパワーを持っている。それはいま、はっきりとしているね。若者が思うほどには世の中は急激に変化しない。そう、答はいつも風の中で舞(ま)っているだけだからね。

3月11日、二高の友人の一人をあの津波が奪った。さらに既にこの45年間に無念にも病死や事故の死、そして自死に至ってしまった僕たち二高の同期生の何人かの面影も今改めて思い起こす。青春という何にも代え難い最も大切な時間を共に歩んだ友人たちに僕はオマージュとしてその時代の一つの心象を捧げたいと思った。じゃあね、もう少し経ったら、僕たちも行くさ。
*去年7月にブログに記載した「僕の風に吹かれて」を加筆再編集した。

2011年3月21日月曜日

大震災VS,仙台二高のネットワーク

■いま、狩野研二郎くんの死亡の情報が寄せられた。実に残念です。彼の17才当時の顔と声が蘇ってくる。彼は石巻の市立病院に勤務医としており、院内かその近隣で巨大な壁のような津波を受けたようだ。途轍もない海水の洪水の中で自らを顧みず懸命に患者さんら多数を救助し遂には命尽きたと聞いた。本当に悲しい。早すぎたよ、狩野。次々に情報が入ってくるが、君が残念ながら僕たち仙台二高(19回卒業者)の一人目の犠牲者となってしまったようだ。君の善意と強い意志はおそらく君の石巻の病院の医師や看護師の復興の志として受け継いでくれるはずだよ。見守っていてください。さようなら。合掌。

現在、仙台二高(19回卒)地震安否情報のメイリングリストに、仙台で地震と津波に遭遇した体験、友人たちの安否情報、また、他県から仙台や多賀城、また塩竃などにいる親や親戚の救助に向かった同窓生たちの行動や目視したことの生なメールがたくさん綴られて来ている。狩野研二郎くんの悲しい知らせもその一つである。この情報のネットワークは同窓会の幹事でもあった庄子友康くんが、19日から自発的に始めたネットワークだ。同窓生は400名位はいたと思う。彼の手元にある120名のメールアドレスを頼りに「あいつは無事だ」「昨日電話通じた。無事だ」「被害は相当だが、家族も生きていると聞いた」と言うようなメール登録のない友人情報が庄子の所にたくさん寄せられている。こういう時、まずは情報だ。その情報に従って人はより合理的で実現性の高い行動が確実に取れる。そういう意味では、いま、僕らの信頼できる最も重要な情報源となっている。僕の弟は20回卒だし、僕のハノイの学校の教員に仙台二高の後輩同窓生(現在46才かな)がいるが、そういったネットワークは無いようだ。

僕たちは1964年四月に市内の上杉山中学や、二中、五橋、付属、木町通りあたりの中学から、宮城県立仙台第二高等学校に入学した。そして、狩野も含む僕たち16才の少年は輝くような希望の息吹を体中から発散させて、三年間を広瀬川ほとりの校舎で過ごした。その僕たちは現在62才となった。そして、大震災と向き合っている。

■この地震安否情報に寄せられた津田裕司くんと、ネットの中心の庄子友康くんの「仙台の被災のリアル」報告をお二人の許諾を得て転載した。
2011年3月16日3時22分
(庄子)津田裕司君から詳細なメールが来ました。
3Dというよりも補習科関本先生にお世話になった津田です。
庄子さん、幹事ご苦労様です。

小職は現在千葉県市川におりますが、母が仙台の南光台に居るので、13日(日曜日)に車で仙台に行きました。本日朝4時30分に市川に戻ってきました。母も小職も無事で問題はありません。南光台での1週間の生活をご参考までに以下に記します。

日曜日の夜、仙台へ車で行きました。4号線を北上して10時間程かかりました。福島県との境の国見峠を越えた途端に真っ暗になりました。全く光のない世界に入った感じです。車の光だけで周りには光はありません。光があるのは、自家発電をしている病院だけのようです。仙台市内まで信号は大きな道路との交差点のみついていました。電源車でも使っているものと思いました。市内中心部には電気はきていましたが、周りは消えているところが多いように感じました。
小職の母の居る南光台も真っ暗でした。水道も出ません。ガスは自宅が古く、都市ガスができる前からのプロパンガスなので大丈夫でした。母は元気ですが、家の中を片付けるまではできませんので、一週間仙台にいることにしました。

この1週間の生活状況を報告します。
1.水
給水所に月曜日に行きました。4時間待ちましたが、あきらめました。夜遅くなったのと600人ほど並んでおり、小職は300人程のところにいたのですが、19時30分になっても給水車が来ないので、帰ることにしました。火曜は朝から並びました。それでも2時間待って一家族10リットルの配給でした。隣の独居老人から頼まれている、という人がいましたが、給水の係員から、確認できない、と言われて再度並ばされたといっていました。新聞報道で南光台は25日には回復する予定とのことですが、場所によってはもう少し早めに出ると思われます。
2.食品
食品を購入するにも行列です。近くの小さな地元スーパーに行きました。運がよく、早めに並ぶことができ、1時間ほどで一人5点の制限分を購入できました。火曜日は生協のスーパー、大型スーパー2軒に行きましたが、開いていたのは大型スーパーだけでした。しかし、行くのが遅かったためか、本日の営業はここまで、と並ぶことさえできませんでした。歩いて帰る途中に100円ローソンが開いていましたので並びました。小職の後5人ほどで本日は終了となりました。約1時間並びましたが、店の中に入るのではなく、入り口に店にある品物を数十種類並べてそれをお客が10個選ぶ形で対面販売をしていました。
16日頃に青果市場が開いた為、野菜も陳列されていました。しかし、値段は2倍から3倍になっていました。おそらく入荷が少ない為と思われました。来週にはもう少し潤沢になると思います。
3.電気
小職の実家は月曜日の朝10時に通電しました。しかし、数十メートル先には火曜日にも電気はきていませんでした。運が良いといえます。19日夜に仙台を出たときには、4号線の沿線は福島県との境まで全て電気がついていました。
4.ガソリン、灯油
売っているお店がほとんどありません。それでもガソリンスタンドの前に車が100台以上並んで待っています。いつタンクローリーが来るか全く判らないまま、待っていると話していました。小職のインサイトは満タンにすると40リットル入るので
東京・仙台間360kmの往復は可能でした。東京で満タンにしてきており、来る時は24.5km/?でした。帰りは万一ガス欠になったらと考え交通渋滞のない夜に仙台を出ることにしました。21時に南光台を出て、市川に4時30分に着きました。7時間30分で着いたことになります。帰りは渋滞がなかったこともあり、26Km/?走りました。往復720Kmですが、あと、100Kmは余裕で走れると思います。
なお、灯油も同様で売っているところはありません。水曜日から仙台は雪が降っておりますので、寒い中暖房なしで過ごす人がほとんどだと思います。
5.ガス
都市ガスからの発表では復旧に1ヶ月以上はかかるとの情報です。食品購入や水をもらうために行列で並んだ時に周りの人達と話したところ、電気で料理をしている人や、庭で木々を燃やしてバーベキューのようにして炊飯をしている、との話でした。
6.お店
95%以上のお店が閉まっています。開いている店には必ず行列になっています。床屋が開いていましたが、『断水のためシャンプーはできません』との張り紙が出ていました。
7.建物
自宅(南光台:仙台の北側の丘陵地)の近所を約1時間ほど歩きましたが、かなり建物がダメージを受けています。
 1)10分も歩けば5~6ヶ所でブロック塀が倒れているのを見つけることができます。倒れているのは鉄筋が入っていないあるいは少ないブロック塀や大谷石の塀がほとんどです。方向での割合は東西方向が5対南北方向2位でした。
 2)瓦屋根で稜線に山のように瓦が数段載っているようなものは殆どがその部分が倒れています。その結果だと思いますが、屋根の瓦も一部剥がれています。スレートや軽量瓦は問題ないようです。
 3)ビルでも地盤が悪いものや、古い建物はヒビが入って立ち入り禁止になっている2~4階建のビルがあります。壁がはがれ落ちているのも何軒か見られました。
8.道路
5cmから10cmずれて盛り上がっている道路があります。道路のヒビ割れは2cm位までならいたる所に見られます。但し、ヒビについては車が通るのに支障はあり ません。
9.液状化
この団地ではほとんどみられませんが、一番低いところでは若干の液状化現象がみられました。但し、泥や砂が少し出てきたという程度で、泥の量も2~3cm厚位で広がりも2mx10m程度でした。  
以上ご参考まで。津田裕司

■庄子友康くん報告  メール  sho-app001@nifty.com
私(庄子友康)自身の状況をお話しします。

東京に住んでいる長女が仙台で痔の手術をするため生後8ヶ月の孫を連れて帰ってきており、3月11日の午後午後1:30から手術というので、終わったら泉区にある肛門科の病院に行こうと思っていました。
そこへ兄から電話があり、老人ホームに入居している92歳の母が肺炎になり、厚生病院に救急車で運ばれるので行ってくれと言われました。2時半頃厚生病院の1階に入ったところで地震に遭いました。
しばらくして母が着きましたが、停電で病室まで運べません。夕方になってやっとエレベーター1基が自家発電の電源で動き、病室に運びしばらく付き添ってから自宅に帰ったのは午後7時頃でした。33年前の宮城県沖地震では信号が消え、道路が車で溢れて身動きが取れなかったことを思い出し、多分今回も同じだろうと思っていたら、幹線道路は信号がついていて意外とスムーズに家に帰れました。
翌日以降は家内か私のどちらかは赤ん坊を見なければいけないので一人しか動けず、代わりばんこで水や食料の行列に並び、合間に二つの病院を回りました。そのうち、娘のいる肛門科の病院から1週間入院の予定だったが、食料がないので退院してくれと言われ、13日に引き取りました、また、厚生病院でも母の状態はほぼ回復したのでベッドを空けてくれと言われ、14日に退院して老人ホームに連れていきました。

市の中心部にあるマンションの事務所では15日から従業員に出てきてもらい、書類や本、パソコン等が散乱した室内の片付けを始めましたが、電気は来ていたもののエレベーターは止まっており、水道もでないし、従業員も自宅の片付けや買出しが必要なので、18日までは午前中だけの勤務にしました。それでもなんとか室内は片付き、エレベーターも復旧し、水道も出るようになり、私はこの連休も仕事をしています。何ヶ月かしたらみんなで集まりましょう。庄子友康
■以上 ハノイ市 阿部

2011年3月19日土曜日

大震災をベトナム人は語る《3》

■36 日本の皆さんは知ってるのか、知らないのか解りませんが、津波の一撃を受けたらしい汚れた白茶犬が衰弱した兄弟か親の犬を見守っている「感動のビデオ」をみた。・・・・・CNNから全世界に配信されたようだ。僕は「VNエクスプレス」紙(電子新聞)でみた。健気な動物の姿は何時も誰しも感動するが、「感動ネタ」をむさぼって物量配信するのがマスコミ。これも、おっとどっこい、要注意かもね。この後この二匹は、救出され病院に行ったという。プリミティブなブオンなど、このYouTube見てまたまた滂沱(ぼうだ)の涙さ。
■37 19日当校で。Aくん「社会の混乱が見受けられないのが凄いと思う。原発の問題もきっと解決するだろう。」、B君「いま、ベトナム社会では、日本への寄付の話で持ちきりです。僕もさっき、VCIの事務の人に少額ですが、寄付金を預けました」、C君「僕は高校生の時から日本で働きたいと考えてきました。だから、このことであきらめたり絶対にしません」、D君「日本にとって、歴史上最大の困難な事態だろう。」、E君「日本人の大変な気持ちは僕も共有出来ますが、日本人の精神性の高さは、驚異的です」、F君「日本人の意志の強さ、我慢強さは、世界が評価しました。それを日本に行って学びたい。」・・・・本日当校の入学試験と面接を受けに来たフンイエン技術教育大学の学生のあるグループにランダムに30秒ぐらいで応えてくださいと、インタビューしたもの。マスコミの論調の影響も幾分推測出来るものの、実に誠実な素朴な彼ら優秀青年の日本に寄せる熱い期待が見えますね。
■38 フン君「いま、臨時で仕事している会社でも、テレビなどの呼びかけに応えて給与の1日分を寄付を始めました。僕も昨日行いました」、ディエップ君「私たちの日本行きのセミナーを行っている11日の同じ時間に震災と津波が起こりました。驚きましたし、不思議な気持ちです。日本に早く行き、何か協力したいです」、フオンさん(女性)「とても悲しいです。でも日本人は世界最高の技術によって予想以上に早く復興させるでしょう。」・・・・・本日当校の入学試験と面接に来たハノイ第一農業大学の中の3人にインタビューしてみました。自分の行きたいあこがれの日本の災害について、非常にしっかりと受け止めている印象でした。
■39 阿部さんの田舎はブオンさんから仙台と聞いています。ご家族は大丈夫でしたか。・・・・石油最大企業ペトロ社の投資部門幹部で、ブオンの親友のヒエンさんは昨日、HCMCから来て、美しい瞳に涙を湛えて、お会いした冒頭で言ってくれた言葉。ありがとう。
■40 ハノイ工科大の学生が、語った。「大変な災害ですが、日本にとって大したことはない」「奨学金をもらって、日本留学している友人の学生寮が破損で使えなくなり、体育館で生活しているらしい」「日本は、技術も高度だけれど、それ以上に精神力が高いと言うことを世界に知らせた」「日本は楽観的な人が多いと思った、意外でした。それが困難を克服できる」「問題は放射能の事です。でも、市民の団結が解決すると思う」・・・・・本日20日日曜に当校の入学試験・面接に来たハノイ工科大5年生(本年6月に卒業)にランダムに聞いた。同類の意見や感想が多いけれども、彼らの我々への素朴な好意や敬意に感謝しよう。
□■□ これは、今後も継続します。ベトナム人の日本に寄せる思いや意見を出来るだけ肉声で拾います。また、ベトナム中心に海外のマスコミの扱いも時々コピーペーストしておきます。■□ 阿部

2011年3月17日木曜日

大震災をベトナム人は語る《2》

■28 Subject: 日本は絶対復興できます
みなさん、こんにちは! 皆さんの状況をお聞きして一安心しました。
日本では4年間も住んでおり、私には第2故郷の存在となっております。
何回も災害、大震災に襲われて、瓦礫から何回も乗り越え切った日本に大変憧れています。いつまでも憧れています。日本で住んでいる留学生、それから日本に来たことがあるすべての人は日本のことが大好きす。私達留学生は日本のいいところ、日本人のいいところを学んで帰りました。絶対いつか恩返しはしたいと思っています。きっと日本は復興します。希望を持ち続けてください。
遠いところから応援しておりまーーーーーす。日本の皆さん、頑張ってください。それからまた近況をお教えください。
世界の人々は日本の安全を日々祈っ ています。アイン・・・・知人アインさんの友人たちへのメッセージ。心強いね。
■29 阿部校長
ご連絡をいただきありがとうございます。
東北地方の地震続報を受けて心を痛めますが、校長のご家族は全員無事でしょうか。・・・・ハノイ貿易大学ツイ教授からの日本語のお気遣いのメール
■30 日本に行くのは怖い感じもないわけじゃあないですが、問題ない。今年の秋頃だし・・。・・・17日10時、当校012クラスのザン君らとの談にて。
■31 本日17日は13時半からハノイ工科大で恒例「日本に行って就職しよう」セミナーを当校が主催した。昨日SAPAで何十年ぶりかの春の雪降りであったぐらい、本日は完全にハノイは冬。寒いし雨だし、学生の参加人数を心配したけれど、のべ300名の出席。また、当校の方から開会冒頭で「日本の大震災」の事を話したせいだろうか、一回もその関連質問が出ず。「日本で就職したいかあ」の阿部の質問にほぼ90%の学生が元気に歓声挙げて挙手。「両親に日本行きを止められている人いますか?」の質問に挙手は3〜4名で、周りから爆笑と嘲笑。・・・・・うれしいですねえ。ベトナムの優秀青年の意志は、きっぱりとしている。期待できるハノイ工科大生たちでした。当校入学希望申請は、約60名でしたが、当校で現在受け入れ可能なハノイ工科大学生は4月クラス、7月クラスあわせても、10名超。ごめんなさいね。本当に残念です。
■32  Độc giả góp trên 680 triệu đồng ủng hộ Nhật Bản
Hưởng ứng đợt "Chia sẻ cùng nước Nhật" của VnExpress, nhiều độc giả trích tiền lương hưu, tiết kiệm ủng hộ Nhật Bản sau thảm họa động đất, sóng thần. Đến 17h chiều 17/3, đã có hơn 860 bạn đọc quyên góp trên 680 triệu đồng. ・・・・17日「VNエックスプレス」紙 ベトナムの市民が思い思いに自分の給与や小遣いから新聞社に日本への寄付をし始めています。数日に拘わらず、当紙には860名から約32600ドルが寄せられました。(各新聞社で受付しているようです)
■33 「VCI校内寄付キャンペーン」の掲示が18日当校の校舎内であちこちに張られた。知らない僕は本当に驚いた。総合管理部のNGOCさんあたりから動き出した自主的行動らしく、心から嬉しいね。VNの職員7名を中心に日本人教員5名、また、当校の学生にも呼びかけ始めたようだ。また、ブオンさんの友人の奥様たち、ビジネスウーマンらにも範囲が広がっていくようだ。・・・・・ありがとう、本当に感動します。身内の人たちの心の優しさのとても大切な現れですから、時々この項は報告します。
この続きは27日の項「彼らの尊い義捐金が集まった」にあります。

■34 お腹をすかした被災地の9才の子供が救援のボランティアから、お菓子セットをもらったが自分で食べずに、家族と仲間と一緒に食べようと持ち帰ったという(この日本人の礼儀正しさと、仲間思いの優しさは鏡ですトーンtone)。・・・・・という記事が18日にVNエックスプレス紙に掲載とか。AFPかどこかの海外通信社からの提携記事。ブオンからの読後の伝聞だが、あんまりの美談はどうなの〜と感じるね。
■35 18日夜の各局テレビでは、ベトナム政府の多くの公務員が「給与の1日分」目処に日本への寄付を始めたことを報道しています。外務省、労働省、教育省、交通運輸省、陸軍などでは、各省の講堂などにドネーションのボックスを設け、公務員が列をなして寄付金が入った自分の封筒をガラス製の大箱に投函している風景が各省別に次々テレビに映り出されていた。日頃は評判の悪い公安の面々も神妙な顔で列を作り、寄付をしていました。・・・・・有り難いことです。

□■□次ページにつづく・・・・日本の大震災について語ったことやメールなど出来るだけ生な声、個人的意見をたくさん周りから集めて掲示していきます。どれだけ意味があるか解らないのですが、ベトナム人が思う(心配する、敬愛する、希望を持つ)日本と日本人とはどういうイメージであるのかが僕らに少しでも解れば、と思う。・・・・・■□■

2011年3月14日月曜日

大震災をベトナム人は語る

■日本から飛行機で約5時間離れたハノイにいる僕。近親ではまだ、仙台の銀行員の弟から返事もないし連絡も入らない。仙台の母が元気であることは既に書いた。いま、このハノイから出来ることは何かだ。僕に少し可能なことは、ベトナム人のこの震災に対する思いとか衝撃とかの感想を聞く事だろうと思って、また、朝からここを書き始めた。BBCのニュースを始め海外メディアの放送ぶりも気づいたことがあれば書こうとおもう。BBCもCNBCニュース、NHK国際放送(何故か英語のみ)なども、繰り返し気仙沼、三陸あたりの津波映像、火事の映像を流している。福島の原発の建物上部破壊の写真も何度もテレビで流れている。だが、東京の画像はほとんど無い。

震災の起きた11日の3時前はハノイの郊外にあるハノイ第一農業大学で初めての当校学生募集のためのセミナーの最中であった。350名以上の学生が「日本の農業関係企業に就職したい」「日本は今後農業に力を入れると聞きました」と熱い思いをもって参加していた。日本の農業の見直しの時代に対応した当校は「農業法人やバイオ、食品加工、獣医関係の就職を目的」とした大学生の募集に今回初めて踏み切った。広い意味の農業技術者の育成である。実は、本日は地方の理工系の有名大学フンイエン技術教育大で、今まで通りの恒例の「日本のメーカーで正社員エンジニアとして就職しよう」のセミナーがある。今日は不安がないと言えば嘘になる。日本は怖い。地震が不安だ・・まだこれは良いとして「放射能が怖い。今後どうなりますか。チェルノブイリの被害を超えそうですか?」「親が日本に行くなと言い始めた」と質問などで言ってくることが予想される。僕のプレゼンも頭から「心配ないよ、日本は今後すぐ立ち直るよ」と言うつもりだけれど、本気で何処まで言えるのだろうか。
・・・・以下、ベトナムの人々の被災によせる感想、メッセージ、励ましなどの肉声です。また、ベトナムなどの海外報道も少し拾っています。12日13日は土日なので、あまり人に会っていないので、拾った声は少ないが14日月曜あたりから増加しました。
■1 可哀想で悲しくて涙が止まらない・・・・・12日ブオンの電話での言葉
■2 津波は仕方ないが、地震による倒壊が少ないようだ。流石に日本の建築技術は凄い・・・「テレビのコメント」だとブオンから
■3 「凄い、大災害なのに、日本人は冷静にお店で行列してる」・・・・・ブオンのコメントと、テレビのコメント
■4 食品などの値上がりがない。価格をつり上げる悪質な商売人がいないようだ・・・・・テレビコメント
■5 あなたの家族大丈夫ですか・・・・・鈴木先生が13日日曜に掛かったベトナム人医者
■6 インドネシアでも凄い津波があったし、何処でも災害や地震はある。だから、日本に行くことに全く問題ない。・・・14日朝当校学生タン君
■7 日本の総ての皆様に心からの哀悼の意を捧げます。・・・・14日13時半 フンイエン技術教育大での当校主催のセミナーにて、開会あいさつの冒頭で副学長が神妙な面持ちで述べた
■8 これからの日本は大丈夫でしょうか。・・・・・フンイエン技術教育大学で約600名が集まった当校募集セミナーにての学生の質問(地震と津波のことは当方から冒頭で明確に現状を話したので、意外にこの関係質問が少なかった。)
■9 日本企業の採用に影響があるか。・・・・会場での質問
■10 地震があって親が日本行きに反対していますか?の当校教員からの質問に、苦笑と照れ笑いを交えながら30〜40%の学生挙手。
■11 日本で働きたいか?の当方からの質問に会場を埋めた約600名の大半が「おおっー」と元気に挙手と歓声。・・・このパワーが嬉しいね。
■12 子供たちがたくさん亡くなりました・・・・・ブオンが14日晩飯後に、しばらく号泣続く。
■13 Dear Abe san,
Nghe tin dong dat tai nhat ban
Ngai co sao khong ?
Muc do anh huong den cac doi tac nhat cua Vci the nao?
Toi xin chan thanh chia buon cung ong den cac doi tac va thanh vien cua Vci tai Nhat
Tran trong

Best regard
Hung LEO
Yahoo Id: hung_lt
Software engineering Dept
Hanoi University of Science and Technology
翻訳「ニュースを見て、日本の地震・津波が大変でした。とてもおろおろしました。阿部さんのご家族をはじめVCIの日本人パートナーは大丈夫でしょうか?無事にお祈りします。」・・・15日 ハノイ工科大学情報技術工学院フン教授からのお見舞いメール
■14 いつもお世話になっております。テレビでニュースによると地震と津波が大変でしょうねぇ。皆様は大丈夫でしたか。皆様及び皆様のご家族のご無事をお祈りいたします。今後もよろしくお願いいたします。
  Pham Thi Hien   Sales & Marketing Executive・・・キンバリー不動産のヒエンさんから日本語でお見舞い
■15 阿部さん  3月11日、仙台を含む東北地方には大変な地震・津波はあり、大きな被害は起こっています。
この大被害にベトナム国民も大きなショックを受けております。阿部さんのご家族、ご親族、お知り合いの方々の状況は大丈夫でしょうか。心配しています。ご連絡をお待ちいたします。THU・・・・・運輸交通省国際局次長ツーさんからの日本語のお気遣いメール
■16 日本の全国民の皆さんにお見舞い申し上げます。・・・15日13時半、ハノイ工科大学機械学部DASIセンター理事長のフン教授の当校との会議での冒頭の挨拶で
■17 AFP、ロイター、BBCのニュースソースのベトナム版各電子新聞記事では「日本の建築技術の高さ」が最大限の言葉で記述されています。また「混乱やパニックを引き起こさない文化の高さ」も記事としてたくさん見受けられます。ベトナム人はそこに凄く感動しているる。・・・・ブオンや、経理のスタッフのフオンさんの言。
■18 これは、ドイツ人からの情報です。たまたまドイツにいた成蹊の先生の「ドイツ人の感想」の報告、15日・・・・
「日本における地震への全般的な対応は、ドイツでは高く評価されている。テレビや新聞では、第一報にすぐ続いて、日本人が日ごろから地震に備えていることが繰り返し報道されている。小学校の防災訓練や特別学習の記録映像、会社にヘルメットや非常用食料が常備されているというエピソードは、こちらの人びとにとっては驚嘆の的だ。世界最先端とされる地震予知や警報のシステムについても、敬意をもって伝えられている。だからこそなおのこと、今回の大震災は、日本人が可能な限りの準備をしていても食い止められなかった、「人間の能力と予測を超えた惨事」とみなされている。そして、そのような惨事に見舞われ、先の見えない不安にさいなまれる中、家族と連絡を取るために公衆電話に列を作る人たち、体育館に避難して時を過ごす人たちの「冷静さ」は、ピンチに直面したときに発揮される日本人の強みと受け止められている。
大きな混乱と悲しみの中におかれている方々にとって、このような表現を用いるのは失礼かもしれない。しかし、少なくとも今のドイツから見る限り、東日本大地震は、日本という国に対する外からの期待にこたえ日本の国際的な評価を高める、千載一遇の機会である」・・・・・ベトナム人の把握の仕方と概ね同傾向のようだ。
■19 ついでだイギリスのマスコミの様子(朝日新聞より一部)も・・・ *報道のトーンとしては、日本に対する敬意がいろいろな箇所ににじみ出ている。「地震がたくさん発生する国日本で、今回これほどの地震と津波が起きた」「地震に対しては準備万端だったろうけど、津波は防げなかった――でも仕方ないだろう」「地震対策はすごいはずだが」「私たち英国人のアドバイスなどは、あまり参考にならないだろうが(日本には相当な知識と技術があるのだから)」――という表現をよく聞いた。「敬意」というのは、もしかしたら、やや「劣等感」あるいは「気後れ感」もあるかもしれない。何せ、ちょっとしたことで電車が止まり、交通状態が麻痺してしまったり、郵便が届かなくなるのが英国だから。2012年のロンドンオリンピックも、まともに交通機関が動くと信じている人は少ない。必ず何か失策が起きそうである。地震発生2日目に犠牲者が数百人規模で出ていることが分かったので、明日以降の新聞はまた別のトーンになると思うが、とりあえず、発生の夜に作った、本日付の各紙は6ページほどの特集がザラだった。フィナンシャル・タイムズは、希望的観測の論考が多い。神戸の地震(1995年)と比較して、当局が着々と救済策に力を入れていることを誉め、「日本はこれをきっと乗り越える」という結末など。例えば社説の見出しは「日本は自然災害を吸収する」である。・・・・好意と敬意がイギリスでも見えているね。有り難いね。
■20 ついでに英国もう一本。・・・・ 
【ロンドン=鶴原徹也】英メディアは連日、東日本巨大地震の被害と福島第一原発の状況を大きく伝えている。共通しているのは、日本国民に対する同情と支援の姿勢であり、悲劇に冷静に対処する日本人の「回復力」への評価だ。
インデペンデント紙(13日付)は1面の全面に大きく「日の丸」のイラストを掲載し、日本語で「がんばれ、日本。がんばれ、東北」と書いた。デイリー・ミラー紙(14日付)は1面の題字下に「日本、みなさんは一人じゃない」とやはり日本語で書き、社説では「日本は復活する」と強調した。
一方、ザ・タイムズ紙(14日付)社説は「日本国民の回復力と政府当局の迅速な対応を称賛する」と表明した。デイリー・ミラー紙(14日付)は宮城県南三陸町の被災地ルポを掲載し、「泣き叫ぶ声もヒステリーも怒りもない。日本人は黙って威厳を持ち、なすべき事をしている」と伝えた・・・・・・・なんだか、世界の評価は本当に嬉しいね。力付くね。日本のプレゼンスが、急上昇して欲しい。それを阻害しているのは放射能だけだ。
■21 これからの日本が心配です。どうなるのでしょうか。・・16日当校スタッフのルエンさん
■22 今すぐでも救援に行きたいです。寄付は何処ですればいいのでしょうか。毎月100ドルぐらいしたい。・・当校の総合管理部長のゴックさん。お気持ちだけで感謝です。
■23 中国の感想・・・ 「(こうしたマナーの良さは)教育の結果。(日中の順位が逆転した)国内総生産(GDP)の規模だけで得られるものではない」との説明が付いた。この「つぶやき」は7万回以上も転載。「中国は50年後でも実現できない」「とても感動的」「われわれも学ぶべきだ」との反響の声があふれた。大震災を1面で報じた12日付の中国紙、環球時報も「日本人の冷静さに世界が感心」との見出しで報じた。(共同)・・・・・中国人からも賞賛だね。
■24 大変なことはニュースでみた。阿部さんの仙台の家族はどうしていますか。学校の日本人先生の家族は、問題ないですか。必要なら、元気をつけるためにしばらく、学校の日本人先生のための美味しいランチを毎日作ろうか?・・・ブオンの母親からの電話(でも義父が病床にあるため、丁重にランチはお断り)
■25 阿部 様 !
大きい地震と津波ができました、阿部様大丈夫ですか、ほんとにJapanに安全を折っております!お元気で!・・・2月末に千葉県の企業に行く予定で、たまたま予定が遅れて、まだハノイにいたカイ君からの心配のskype。
■26 こんばんは、
このたび、東北地方を中心に襲った地震・津波が5日たったが
被害は拡大しつつ、寒い日々が続く中、避難生活を送っている人々は
本当に大変です。心から皆さんの平安と復旧を願っています。
ちなみに、阿部先生のご家族や親友は無事でしょうか?
おかげさまで、僕を含めて日本にいるVCIの皆も大丈夫だそうです。
では、連絡お待ちします。ティン。・・・・16日夜、当校第一期卒業生(2006年4月日本渡航:ハノイ工科大卒)のティン君からの日本語メール。とても嬉しいですね。
■27 日本国民のために皆さんお祈りをいたしましょう。・・・16日22時半のベトナムハイフォン(地域)テレビのニュースでの女性キャスターの呼びかけ
■・・・・次の項《2》につづきます。・・・・
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・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
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2011年3月13日日曜日

★ 「Made by Japanese」の時代認識へ!

「ベトナムから遠く離れて」いる日本の大震災を通信網で感じ取る限界に焦燥しつつ、以下を本日朝に思索した。

《メイドインジャパンから、「Made by JAPANESE」の時代認識へ》
      〜〜人口8000万人時代の日本の地平〜〜

■大分前だが、ユニクロのシャーツをベトナム人にプレゼントしたことがあった。そのとき、その友人はシャーツのタグを見つめてめざとく「中国製」ですね、とのたまわったのだ。ユニクロは中国で大半を縫製し、商品化していることは解っているし、バングラディッシュでも始めていたことぐらいは僕でも知ってるさ。「ユニクロってさあ、日本の会社だぜ。生産は安いから中国で作ってるけれど、企画とか、品質管理とか、商品の責任は日本の本社。だから、”中国製”じゃあないのさ!!」といらだって僅か語気を強めて彼に言ったものだ。このことは大分前から気がついていたし、どうして表記を改善しないのかと思っていた。国際ルールに従って生産地表記は当然だ。でも、その下か脇に「Plan byニッポン」とか「QC by 日本」とか、どうして明示しないのかなあと、思っていたよ。確かにmade in は中国の何処かさ。良いんだよそれはそれで、現実だから。でも、言うまでも無くもの作りというか、商品の生産は企画があり、事業計画があり、設計があり、生産工程があり、品質検査があり、物流があり、マーケティング戦略に基づいて世界販売させる訳だよね。生産はもちろん一番重要なポイントで在るけれども、全体の流れの中の一つに過ぎない。

タグ表記の「made in china」だけでは商品の全容を表現していない。商品の良さは、「企画から」、物によっては鮮度を保つ「物流まで」の全行程で「作られる」。そうであるならば、「made in japan」として誇り高い商品、ぜひそれを明示したい「日本製品」はタグの表記を変える必要があるね(タグだけでなく、梱包の段ボールも納品書など帳票類も総合的に主張を戦略化すべき)。最良は全生産行程を解りやすく短文の一覧で記載することだろう。でも、そんなスペースがある物ばかりとは言えない。その場合は「made in 」の上か下の位置にはっきりと「made by Japanese」と明記すべきだろう。存在感や魅力の低落中の日本にとってこのような主張と誇りは、地味で事務的と思われがちな表記にもはっきり現すことによって、新しい魅力あるイメージを形成して行く必要があろう。「made by Japanese」は、かのベトナム人友人にも「そうか、生産地は中国だが、この商品は信頼のブランドのニッポンが責任を持って製造して世界に届けているんだね」と明確に認識させ、今後は、そう語らせる事になろう。

僕は、当校の優秀なエンジニア志望の学生を送り出すべく、多様な企画を考え実行して、そのために頻繁に地方に行く。どちらかというと東京より、西方が圧倒的に多い。そのセミナーやイベント、また会合で良く質問されたり、主張を聞かされるのは「私たち中小企業がアジアに進出すると、国内に雇用の減少が確実に起こり、産業全体に空洞化がおきるのでは」と言う考え方だ。だから、海外に行かずに地元で踏ん張るという。海外に工場が移転すれば、雇用は現実的に減少する。まったくそうです。僕も全く否定しないさ。でも、後50年もすると我が国は8000万人台の国となる。明治の初めに3500万人の総人口であったことをかんがえれば、それでもまだまだ小さくはないが、6000万人台で、現在の半数に過ぎなかった人口数でも高飛車で威勢を張っていた太平洋戦争突入時のサイズに100年後には近づく。

つまり、100年ぐらい以前の大きさに縮小した国の大きさになって行くのは間違いないのが今の日本なのだ。ITの推進は雇用を減らさないという、ITや高度通信領域サイドからの嘘っぱちキャンペーンが奏功して、あまり問題にはならなかったが、工場はロボット化して、インターネットで物流すらデータの移動の代行される物も相次ぎ、20世紀の終わりから、産業構造が質的な変換を呈した。こんな環境の中で雇用が減らないはずがない。おそらく、20%程度は今までの重要と思われていた仕事も消滅したはずである。しかし人類の英知で新しい雇用を生む分野が次々と起こり、具体的な減退は微少に見える。しかしこの新しい分野の多くは情報技術に関係した分野であって、将来雇用は漸減すると見込まれる。ただし、コンテンツ大国日本はラッキーな事に、農業、観光、サービス、教育、サブカルなどITだけでは処理出来ない優れた技能を伴った物に実力が備わっている。もちろん、職人技も含んだ「もの作り」が、これらの成長領域での筆頭だろう。だから、結果この分野の拡大発展を志向すれば、雇用は人口減に比例して数字は低下するだけで、失業率が増える事にはならないはずだ。
つまり、国のダウンサイジングに合わせていくことになるので、過剰な「雇用問題の心配」は、無用と思う。観念的に深刻に不安を言ってもほとんど意味がない。従って、「海外に活路を求めるべきでない」とする考えは、自社の停滞を表明するのと同意だ。この10年でさえ、もの作り企業は80万社から、60万社に激減している原因を改めて考えて欲しい。

世界の富は公平に世界の人々が享受しなければならない。先進国と言われる「北」に富が集中し、CO2など後始末ばかり途上国に押しつけてはいけない。小学生でも解る常識だ。その後進国であった時代から日本は「資源がない国」と言ってきた。僕らの小学校中学校の教科書にもはっきり記述されていたはずである。反対に価値のある資源に溢れていた中近東アラブ諸国は、今は革命の風神が吹きまくっているようであるが、今まで数十年間に渡って力強い「石油の資源国」であった。でも21世紀の現在、遂には石油の枯渇する日程も露わになりつつあったが、まさに彼らは社会的マハトとして気がついたことがあった。”石油はなくなりつつある。その上不毛の砂漠しか残されていない。でも待てよ。アラーの神様を拝んで天空を仰いだ時、「太陽の威光」というか膨大な太陽エネルギーに気がついたのだ。今や石油資源国でなく、マスダールシティーをコアに太陽光エネルギー大国にアラブ地域は大きく変換しつつあるのだ。

アフリカからインドまでの赤道を中心とした途方もなく広大な「サンベルト」地帯と呼ばれている一帯に注がれる我が太陽のエネルギーはどのくらいか?想像出来ますか。まさかなのだが、そのサンベルトに降り注ぐたった6時間の太陽光のエネルギーは、地球上の人類が今必要としている年間の総エネルギーと同量なのだぜ。途轍もなく凄まじいね。そういう意味では現在のアラブ革命はそのエネルギーのエントロピー的構造変化の第一段階といえるのさ。長くなったが、アラブの賢人たちが青空を仰いで発見したような資源を日本人は明確に発見する必要がある。その資源は日本人の頭の中にある数十億個の脳細胞が形作っている「知的蓄積」に求めるしかないようだ。この歴史的に培い蓄積した資源を活用する「世界一豊富な高度知識労働力を資源とした国」として自分の姿を発見すればいいんだと思う。戯れ言で申し上げているわけではない。世界に日本のプレゼンスを明確に打ち出せる資源は、個々人が持っている人間資源であるということだ。手垢が付いていない言い方をすれば、どういえばいいか。携帯やPCに使用されているレアメタルを「都市鉱山」という言い方に学べば、僕たち日本人の資源は、個々人が持っている歴史的にたい積している「東の辺境の記憶」だと言うことなのかも知れない。

技術や文明は高いところから、低位置にある社会に流れていく。ものの理だろう。ユーラシア大陸の文化と文明が東進して流れ、行き着いた先は東の辺境国の日本だ、ここで行き止まったと言った方が解りやすい。もちろん、一部は止まらず北上しアリューシャン列島から、アラスカに。アラスカでエスキモーを残して、一隊はアメリカ大陸に。ここでもネイティブインディアンを残して、南米アンデスへ。人類と文明は行進を止めることが最後までなかった 。その果てしない旅のエネルギーが日本列島にたまりに貯まったと理解すると、文明史は平明で理解しやすい。移動する人類的エネルギーが、日本列島に息づいていること、最近の言い方で言えばDNAとして体内に宿しているということだ。さらに、日本列島には2000年も3000年もの文化的蓄積が幾層にもたい積しており、僕たちの知のエネルギーとして個々に昇華されているわけだ。日本はそのような東端の集積地ターミネータであるのだ。本当にラッキーな話しだぜ。

日本は時期を見て世界からいただいた文明や文化のお返しをしなければなるまい。プレゼンスが凋落しているけれど成熟国の日本はそういう時期を迎えていると言って良い。言うまでも無く、製銅や製鉄技術から稲作、漢字も仏教も道教も儒教も広大な大陸まで文明の行進を続けてきた多くの諸民族から、著作権も特許権も主張や請求されることなく無償でいただいてきた。文化・文明の遷移さ。江戸時代以降でもオランダなどのヨーロッパ諸国から、明治以降は法制度はドイツ・プロシアから、軍事はフランスや英国から、重商主義的また後半は資本主義的方式に則って手に入れてきた。戦後は戦勝国アメリカから彼らの戦略的施策の散布に手名付けられ、臆面もなく新しい文化や技術を享受してきた。そして戦後「安かろう、悪かろう」の時期を経て20年で敵国アメリカ帝国主義に追いつける位置につけ、その後の20年で、つまり1980年代でほぼ同等の「経済的」位置にこぎ着けたと言って良いだろう。福沢諭吉は福翁自伝の中で「江戸時代にアメリカのペリーが黒船で日本に来てから、たった7年後には、日本人だけで咸臨丸は太平洋をわたった。黒船を見てから航海術を学習し、アメリカに行けるまでたったの7年でやり遂げる日本人の好奇心と探求心そして勇気は特別な物だろう」とね。その土壌がいまも在るはずなのさ、この社会にはね。この土壌の掘り起こしが、日本の新しい資源の発見となる。僕たちは文化のターミネータとしてそれらのたい積していた資源を掘り起こせば、ニッポンは全く新しい資源国になれる。

だから、僕たちの社会の中にあるその文化的土壌を考えると生産拠点である工場は広大な土地がある国に移転して良いのさ。問題ないと言うことだ。生産はお願いしてその現地の従業員の産業的な教育や技術教育、企業人的な教育は日本が受け持てばいいのだよ。そして互恵的に豊かさを創造して行ければ良いのさ。それは中国でもベトナムでもバングラディッシュでもアフリカでもいい。頑張る人民がいるところに行って、相互に幸せを追求できればいいんだ。内需外需の区別は既に溶解しつつある。国内外という物の見方すら曖昧になってきている。特に高度情報社会のいま、途上国と互恵的な協力無しに豊かさを手にする事は双方にとって困難だろう。これって新手の大東和共栄圏じゃあないぜ。新しい帝国でも無いよ。サイズが縮小する日本社会の方向性を試論しているだけさ。日本は安全な食と農の国になろう!日本はもの作りなどの産業技術を教える教育と学校の国になろう。美しい自然を世界の人に楽しんでいただく観光大国目指そう。アニメ・まんが・ゲーム・「かわいい」「COOL」などのサブカル大国であることに目覚めよう。気配りの世界一のプロとしてサービス王国になろう、また「もったいない」概念を世界化した環境提案国を更に深化させようぜ。こう言ったときに必要な考え方が「Made by JAPANESE」なのだろうと思う。東の辺境ニッポンから、文化や技能、技術をお返しのつもりで途上国に遷移させ世界中で活用される時代に、日本は久しぶりにプレゼンスを回復出来る。でも、福島の原発が崩壊しなければ、ということが総ての前提となる。・・・耕論として一気に書いたので論旨が散漫、近日整えたい。

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2011年3月12日土曜日

仙台の老母の大地震

■昨日、僕はハノイの農業大学で350人規模の学生に「日本語を学んで、日本で農業法人に就職しよう」という当校のオリジナルの学生募集セミナーを実施していた(近々ハノイ工科大などでも恒例実施)。成果もまずまずで、学校に戻り簡単な総括済ませた後、日本教師3人と連れだって、近所の何時ものBIAHOIに行った。いつものように地生ビールと「ゆで豚」など頼んだりして、今日の疲れを癒して「ああだ、こうだ」と雑談。良い夕餉であったが、オフィスに8時過ぎ戻ってパソコン開いて緊張が走った。と、同時に教務室に一緒に戻って、事態を知ったらしい仙台出身の先生が僕の部屋に飛び込んできた。仙台と東京が大地震で被災したという。それも6時間も前のようだ。酔いが一気に引いた。

僕のパソコンには東京の娘から、緊急の知らせメールが2,3本来ていた。無事らしい。すぐに、災害のなさそうな宮崎の息子に電話。彼は仙台の母を気遣って、世話している弟の家族に既に電話をいれれおり、母は無事らしいことはとりあえず解った。ありがとう。後は、所沢の僕の家にある亡くなった妻の祭壇と同居の2匹猫のことだ。地震の瞬間、部屋の中はどうだったのだろうか。娘が、西武線などの電車稼働状況見て、今日明日中に行ってくれるとのことで、とりあえずは安心。

こういう時って、人は慌てるよね。仮に若い妻と幼子が、仙台にいるとすれば、ハノイの僕は動転したのだろうと想像出来る。でも、今回多少血相を変えたが僕自身の内心はさして慌てることもなく、さめた状態で母親の安否を息子から聞いた。「ああそうか、良かった」とは言ったものの、僕の安堵感とはこんな程度なのかと思うほどだった。僕を生んで育ててくれたあの優しいそして美しく老いた母親の安否を確認しての喜びというか、安堵感ってものの自分の受け止めの表現が何故この程度なのか。解らない。そういえば、去年3月1日に94才で亡くなった父の時もそうであったが、父親の死を悲しいと思うという自然現象を自分で上手く組み立てが出来なかった気がした。亡くなったという事態は論理的に受け入れ、厳粛に遠いハノイから夜空を仰ぎ、天に祈ったが、慟哭には至らず、幾つかの僕の幼少時の思い出に浸っただけであった。僕はいつの間にそういう感情を枯渇させてきたのか。老齢になるとはこういう事なのか。

たったいま、オフィスにいる僕にちょっと離れたところにある自宅にいるブオンから、スカイプが入った「こちらに来る前にオフィスの神棚にお線香を上げて来てください、日本の被災のためのお祈りです。いま、家でも、同じ事を祈ってお線香をあげました。ニュース画像を見ていて涙がとまらない」という。有り難いなあ。ベトナム人の素直な感情に対して心から敬意を払うよ、ありがとう。事態への自然な理解と衒いのないヒューマンな思いに人間の希望を見る。眼球の深部と脳髄の交差する地点あたりから熱いものがこみあげてくる。

僕の母は1925年、大正14年生まれだ。今回の津波でも大きな被害が出たであろう宮城県志津川町で生まれ幼少をそこで過ごした。彼女は僕が小学校6年生であった1960年のチリ地震の津波の時に仙台の家でとても印象深い話しを僕たち兄弟にした。彼女が小学校2年か3年生のある晩に母親と手をつないで、海岸に散歩に出た。母の実家は呉服屋で海岸まで4,5分の所にあった。実は僕が30才代のとき、妻と母と子供たちと訪れた事があるので、位置関係は覚えている。8才の母と当時30才前後と思われる祖母は、散歩の途中に砂浜の小高いところに佇んで、暗い海と夜空を見たそうだ。多分何気なくね。そこには満天の星々が煌めきさんざめいていたという。

でも、その星々の輝きは美しすぎるほどで放つ光は暗い海を見渡せるほどに強く明るかった。「お母ちゃん、お星様がとっても明るいね」と手を引いている若い母に彼女は不思議さと不安もあって声を掛けたであろう。驚異の思いで見つめたであろうその光景が母の記憶から消えることはなかった。そして次の朝、昭和の三陸沖大地震と巨大な津波がこの町や周辺のリアス式海岸を襲った。1933年、昭和8年の事だ。今度、来月でも母を訪ねたとき、このことを改めて聞いてみようと思う。「さあ、どうだったかしら、忘れたわ。ふふ」と老人ホームの一室でスマイルで応えそうだが。世話している弟によると、母は多分恐怖からだと思うが、精神的に興奮しているとメールに書いてきた。

2011年3月5日土曜日

ハノイ日本アカデミーの卒業生を雇用いただいた主な企業様一覧

■当校のお客様一覧  2011/2月現在
《1》アユミ工業株式会社  兵庫  半導体装置 LED 真空装置
《2》株式会社電業  大阪 創業大正8年 新幹線車両・関連部品製造
《3》興南設計株式会社  岡山  機械設計
《4》株式会社村上開明堂 静岡 創業明治15年 自動車部品 ミラー製品 
《5》ヨコタ工業株式会社 大阪 創業大正8年 エアーツール開発製造
《6》株式会社ニフコ(東証第一部上場)横浜 自動車・家電などの機能部品
《7》株式会社東京マイクロ 長野・ハノイ  精密機械
《8》曙精機工業株式会社 千葉  治具開発・製造 
《9》株式会社スノウチ 千葉  鉄工・セラミックス
《10》株式会社タイショー 埼玉 精密機械製造 木工機械機器
《11》株式会社YCC情報システム 山形 システム開発・ソフト開発
《12》関西セイキ工業株式会社 大阪 創業大正12年 医療機器 半導体装置
《13》藤精機株式会社 山梨  精密板金・金型
《14》株式会社恭和 静岡  自動車部品開発設計
《15》北川工業株式会社 名古屋  電気機器
《16》株式会社ディスコ(東証第一部上場) 東京  半導体装置
《17》日東製網株式会社 広島 創業明治43年 製網・搬送機器製造
《18》タツモ株式会社  岡山  半導体装置ほか
《19》オカノ電機株式会社  東京  電機製造
《20》株式会社高城精機製作所 福岡  プラスチック金型
《21》応用電機株式会社 京都  計測機器・メカトロニクス
《22》株式会社タカトリ 奈良  半導体装置・繊維機器
《23》(株)人財ソリューション 東京  半導体専門人材派遣
        * 派遣先:日立超LSI、レネサス、セーコーNPC
《24》住吉製作所 山梨  鉄工・溶接等
《25》株式会社ウイング 東京  機器開発
《26》トレックスセミコンダクター株式会社 東京 半導体
《27》 コダマコーポレーション株式会社 横浜  CAD/CAMソフト
《28》株式会社静岡制御  静岡  制御機器メーカー
《29》伊藤鋳造鉄工所  茨城   鋳造・鋳型
《30》ギガヘルツテクノロジー株式会社 東京  ソフト開発
《31》田淵電機株式会社 大阪  電器メーカー
《32》JEL株式会社 広島  機械・ロボット
《33》ITI株式会社 ハノイ   金型・鋳造
《34》株式会社ディーエスディー 東京  半導体設計
《35》BIPシステムズ株式会社 東京  システム開発
《36》岸本工業株式会社 静岡  金属加工・金型
以上■2011/新春 阿部正行■
当校卒業性は全員、正社員エンジニアとして採用いただきました。
順不同 一部掲載

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・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
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2011年3月4日金曜日

ハノイ日本アカデミー、農業大学でも学生募集セミナー

【VCIニュース】より
いよいよ、大学での公募セミナー続々
ハノイ発■日本の不景気はほとんど政治の「人災」に近い有様ですが、でも、僅かでも上昇の兆しが出てきたのでしょうか。別の見方をしますと、不景気の延長線上にベトナムの注目が増していると言えるのかも知れません。つまり、中小企業の海外への活路の模索は、待ったなしの状況に在ると言うことでしょう。また、国内と国外の区別、内需と外需の区別が意味のない時代に差し掛かってきた事も影響していると思います。ともかく、問い合わせは、着実に増えつつあります。
さて、3月11日を皮切りに、第一農業大学、フンエン技術大学(主に機械学部、電気学部)、そして恒例のハノイ工科大学(IT学部、機械学部、電気・電子学部、化学学部など)の学生募集セミナーが続きます。特に日本の「農の見直し」「ベトナム農業の有機化のスピード」に焦点をあて、当校では、初めて”農業技術者”の日本語育成を始めます。

11日の第一農業大学の当日は、バイオテクノロジー学部、畜産学部、獣医学部、食品加工学部、農業技術学部など、700名の学生が参加予約したそうです。凄い注目度です。2008年春にハノイ工科大の当校のセミナーに300名が集まり、大学内で話題を集めましたが、それの倍以上。嬉しい限りです。今夏には、日本とハノイで、日本の農業法人を集めての「農業技術者採用戦略会議」を開催予定です。

また、先週から、半年ぶりに「kids」クラスが再開されました。教員不足でやもなく中断していたのですが、3月中旬で日本人教員が5名となり、kidsの目処も立ったと言うことです。先生方の発案で大学生と同じ教科書「みんなの日本語」を使うことにしました。生徒は中学生が中心の6名。高校留学も目標にしている子供も2名いてこれからが楽しみです。
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最近、日本滞在が少ないので、メールでご連絡くださいませ。阿部