2010年7月31日土曜日

「天皇の世紀」ハノイで読む

日付は、7月31日となっているが、実は今日8月4日である。
■世の中にはいやな奴がいるよね。いけ好かないという奴だ。古くはジャンボ尾崎。その後は柔チャン。田村で金、谷で金、ママで金の御人だ。今度は参議院議員で金を狙っているようで、いちいち鼻につく。こういう毛嫌いはよくないと自覚しているが、生理的に如何ともしがたいものがあり、「これぐらいはいいだろう」と自分の老人わがまま症を許してる。で、最近のいやな奴ナンバーワンは、なんと言っても「ワタミ」の渡邊美樹だろう。次は介護だ、学校経営だ、さらに政府の委員だと、へらへらしゃべってる。奴が「居酒屋つぼ八」でのし上がったドキュメントをだいぶ昔「東洋経済「で読んだことがあった。当時はまともな青年という印象であったが・・。だいたい、テレビの番組で何か意見をいっても、音声の出し方からして軽々しいし、内容はというとこれまた平凡、床屋談義レベルの意見だし、どこが良くてNHKあたりもコメンテーターとして招聘するのだろうか。「夢に色つけろ」だとさ。「夢に日付つけろ」だとさ。よしてくれよ。NHKもしっかりしてほしい。

■海江田万里。僕の数少ない政治家の知人の一人だ。彼は慶応でフロント派で学生運動をしていた男で、同じく慶応で中核派で活動していたかつての僕の上司であったA・M社オーナー河村氏から、30年前に紹介されてからの知り合いだ。その後、縁あって時々は彼のための協力もしてきた。今から10数年前、ベトナム航空機がカンボジアで墜落して、ホーチミンで南蛮亭を営んでいた僕のベトナムでの盟友高野くんも巻き込まれてしまった時、葬儀にて格調高い弔辞を念じたのも海江田だ。その彼が管さんに対抗して、9月の民主党大会で出馬して党首・首相を狙うという。何を考えているのだろう。全く、世間や世界の中の日本について熟考していないというか、冗談としか思えないぜ。確かに参議院選挙以降、管氏は最悪だ。こんなに彼は政治的センスが悪かったかしら・・とため息が出るほど、非道い歩み方だ。特に「国家戦略局」を事実上廃止するなんて、僕のように海外の仕事に専念していて、”日本のアジアのなかのプレゼンスが急落下している現実”に対峙している人間からすると、本当に裏切りだぜ。東京工業大学で、中核派の邪魔をもろともせず、独自のベトナム反戦の市民運動を行っていた御仁の構想力は何処へいたのか。だいたい、荒井なんとかという、どうしようもない面(つら)の男を戦略局担当大臣に据えたときから、心配していたがね。

まあいいや。そういう管の現状だから、海江田の気持ちは理解しないわけではないが、田中派の残滓の小沢を活用しての党首奪取は、方法論に誤りがある。もちろん、ご当人としては、敗北前提で拮抗し民主党の新しい首脳(都市部ネットワーク)に躍り出たいのだろうが、田中派と元社会党労組出身者の連合である小沢派を利用するのは、鮮烈な政治目的を堅持できていないからにすぎない、と断じざるを得ないぜ。海江田君、はっきり言って、都知事へのステップと考えているなら、今もっと世界に通用するメッセージを発してくれ。都知事とか、世界銀行総裁の道は、決して遠くないのだよ。今、松木だの、高島だの貧相バカ面の労組(ろうくみ)あがり連中と組むのだけはよしてくれ。国民が全く無関心の民主党政局に惑わされないで欲しい。たのむよ、海江田さん。

■ところで、NHKの企業買収の争闘を描く「ハゲタカ」は、傑作の連続ドラマだね。昨日の深夜の放映は再放送だ。以前、2年前にも見た。テレビドラマで同じモノを2度も見ているなんて初めてだね。スピード感といい、緊張感といい、心地よいね。銀行の非情で実は稚拙な体質。ハゲタカと言われる”前衛”の群れ。このハゲタカにしか資本主義の構造の冷酷さが理解できないのか。金の亡者と世捨て人の表裏。大森南朋がいいねえ。演技力は凄まじいと言っていいだろう。彼の親父の演技と舞踏は、数十年前に何度もテントの薄暗い演劇空間で見せていただいていたものだ。あの麿赤児だ。「ハゲタカ」は配役もほぼ同様で、劇場映画もあったようだが、今度NHKで放映するらしい。7日夜。残念ながら僕は在ハノイだ。

■書籍を本屋で購入するとき、僕はたいていワクワク感を味わう。大著の場合はなおさらだ。大佛次郎の幕末から戊辰戦争を描いた、そして彼の絶筆となった「天皇の世紀」を手にとって、その場で決めたので、出会いというか、選択のそのひらめきの確信のうれしさもあり、ひとしおの感がある。新しく刊行が始まった文春の文庫だが、約500ページもので12巻の大ボリュームだ。去年苦心しながらも充実した読書時間を僕に与えてくれたドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」(光文社:亀山郁夫訳)でさえ、各巻400〜500ページで5巻もの。あれに比しても、「天皇の世紀」は、大分なモノである。はじめ、荻原延寿の「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」が有れば買おうとしていたが無い。所沢じゃあ、しゃーねーか、ということで、仕方なく長編大作が読みたいというだけで、本屋であさり始めた。山岡荘八の「徳川家康」に浸るほどまだ老人じゃあないし、円地文子、瀬戸内寂聴や橋本治の「源氏物語」は、まだ、どれを選ぶか整理がついていないし、やっぱー吉川英治の「宮本武蔵」にしようかな、とも思った。最近、新渡戸稲造の「BUSHIDO」と武蔵の「五輪書」も読んでいたからね。でも、何か吹っ切れないモノがあって、踏み切れない。よくその正体がつかめないのだが、どうも「極めた人」「達人」の心境に入り込むのが、僕の体質じゃあないんじゃあないか、僕の強い関心はどうも違うらしい。

僕が高校三年生の春にビートルズが来日した。法被着てタラップを降りてくる写真で有名な来日だ。若い人には信じられないだろうが、武道館公演に高校生を行かせまいと、特に東京の教育委員会は必死に防波堤を張ったのだった。田舎の僕らの仙台はどんなであったかは、よく覚えていない。でも、東京の厳戒態勢は、ロックは社会の害毒だと権力側が信じ込んでいたということをはっきり物語っていた。マスコミも文化人もあまり物言わぬ中、大佛次郎氏だけは敢然と「ビートルズ公演に行った。会場は騒がしかったが、イエスタディーは美しい。名曲だ」と朝日新聞の夕刊の文化欄に大佛さんの顔写真入りで、ビートルズを養護した。僕などは目頭に涙が滲んで来るほど嬉しかったぜ。僕は何回かその記事を読み返したモノだ。大人にもまともな人物がいると、この記事で初めて知ったわけだ。だから、17才の時から大佛次郎さんには、漠然とだが強い信頼を寄せてきた。信じられる希有な大人として。

僕の親父の家族が経営していた「仙台中央劇場」は新東宝ほぼ専門館であったので、鞍馬天狗はそこで大分見た。言うまでもない大佛次郎の作家としてのデビューはこの天下無敵の鞍馬天狗だ。勝海舟と鞍馬天狗がお堀に浮かぶ小舟に乗って、「江戸城の明け渡し」について会談をするシーンを今でも鮮明に覚えている。僕らは、母親から風呂敷をかり、頭巾をかむり何度鞍馬天狗を演じ、チャンバラを繰り広げたのだろうか。言うまでもない。役者嵐寛寿郎がいたから、鞍馬天狗も大衆化したと言っていいだろう。なにせ、通称アラカンは、東千代の助、中村錦之助、や裕次郎や、長島と王が、出てくる前の大スターであったからね。マンガのヒーローには赤胴鈴之がいたっけ。アラカンのエピソードが凄いよ。アラカンの付き人の嵐寿之助は、「ある時ドロボーに入られたが、“警察に届けたらあかんで〜、折角ゼニつかんで喜んでるのに、気の毒やさかい”という人ですからね・・・“他人のためには金は惜しまん、おのれは最低必要なものがあればよい”という精神、これ昔からなんですわ。神様みたいな人です。」と証言している、とものの本に書いてあった。大佛さんはこういう本物のスターも誕生させたということだろう。

さて、僕が67年4月に早稲田に入って学生運動というか、いきなりベトナム反戦闘争に関与し雰囲気とか体で覚え始めていて、しばらくしたら、まさにこの「天皇の世紀」は、朝日新聞に連載が始まった。僕は板橋や下落合、江古田あたりの3畳一間の下宿やら、友人の家々を放浪していたので、新聞を毎月自分でとっていたのは、限られた短期間に過ぎなかっただろうと思う。だから、タイトルを目にし、連載の存在は知っていたが読むことは皆無であった。それは当時の僕らにとって、やはりタイトルが理解しにくかった。左翼急進主義の観念に支配されていた僕らは肉体から轟音炸裂ような熱気振りまいてキャンパスや街頭の戦闘現場を闊歩していた風だ。だからそんな僕に「天皇」という文字の奥にあるものなど全く読解不能であって、拒絶的対応をしていたのだろう。だから、当時は「大佛さん、どうなってんの?」というような気分で、それもテーマが明治維新ではなく”昭和裕仁天皇の一代記”と思い込んでいたと思う。この無教養でバカさ加減も最悪だが、18、19才ぐらいで、日本帝国主義に打ち勝とうと傲慢に夢想していた頭と肉体だから、そのあたりが限度であったようだ。

30才のころ何故か続けて、山田風太郎「戦中派不戦日記」と大佛次郎の「敗戦日記」を同じ頃読んだ記憶がある。続けた意味は特にないのだとおもうが、二つの作品共に意識して8月15日のページをまず、一旦覗き、それから巻頭に戻ったと記憶するから、ぼくは、明治革命にしても、アジア太平洋戦争の敗北にしても、実は人と人の日常は変わらないのだということを、15日があれば次の日に普通の16日が作家やその家族たちにやって来ていたということを確認できて、ホッとしたことをはっきりと覚えている。
「天皇の世紀」第一巻を開くと、明治天皇の生誕と取り巻く古式な環境、続いて渡辺崋山と高野長英の誠実に時代と奮闘するがまだ時局に恵まれない不運な人生が資料豊富に描かれる。
■《ブログご高覧感謝》
僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
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・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2010年7月25日日曜日

僕の「風に吹かれて」

最近、エビスビールのコマーシャルで、風の国のビールですと役所広司がつぶやいて、旨そうにビールを飲んでいた。風の名称がほんとに2000もあるのかいな、と思いつつ、風という浪漫がもつ響きで、ボブ・ディランを思い起こした。

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
Yes, 'n' how many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, 'n' how many times must the cannon balls fly
Before they're forever banned?
The answer, my friend, is blowin' in the wind,
The answer is blowin' in the wind.

どれだけ遠くまで歩けば大人になれるの?
どれだけ金を払えば満足できるの?
どれだけミサイルが飛んだら戦争が終わるの?

その答えは風の中さ 風が知ってるだけさ
・・・・
翻訳は数々あるが、これは忌野清志郎の翻訳である。ディランは、当時の英語詩翻訳の代表格であった片桐ユズル氏の訳詞が気に入っていなかったという風評も強く、未だ定番の訳がない。特にもっとも大切なラスト2行のニュアンスが、微妙だね。
英語の苦手な僕ですが、僕なりの解釈はこうだ。

「(友よ!)答とは(昔から)風の中にあるものさ。答はいつも風の中で舞っている。」

この詩は解説するまでもなく、1960年代の全世界の若者の心象を現していたのであった。当時、ジョンバエズや、PPMとかの厭戦的なフォークはいくらもあったが、全世界的なベトナム反戦闘争の時代の若者の思いと声に応えていた歌はこの「風に吹かれて」であった。僕は特別に音楽少年ではなかったが、中学3年でビートルズの衝撃を受けていた僕は、ローリングストーンズも聞き始めていて、「洋楽」一辺倒の音楽ライフに浸っていた。小島正雄の9500万人のポピュラーリクエストくらいしか田舎の高校生に情報はなかったが、ニール・セダカ、ポールとポーラ、カスケーズ、シルビーバルタン、リトル・ぺぎー・マーチ(I WILL FOLLOW HIMで大ヒットした彼女をいま、調べたら1948年生まれ。僕と同年齢であった。かなり大人に見えたのに)、ビージーズ、スコット・マッケンジー、フランス・ギャルとか、きら星が限りなく居て、ラジオからや買った来たドーナッツ盤から僕らのミュージックを解き放っていた。僕らは小学校の時から、「うちのママは世界一」「パパ大好き」「名犬リンチンチン」「名犬ラッシー」「サーフサイド6」「ルート66」「ビーバーちゃん」などのアメリカ製テレビドラマの洪水の中で育ったので、僕らのあこがれはアメリカだし、価値基準もそのなかに取り込まれていたので、日本の「流行歌」や演歌などに当時は僕ら聞く耳を全く持っていなかった。もちろん舟木一夫や橋幸夫とか、今となっては懐かしいけれどね・・。

1966年秋だと思う。仙台二高の映画愛好会(学校そばの河原で昼間から宴会して酔っぱらい、後日、学校に解散させたれた)の会長であった僕に、音楽好きの後輩の小野寺が、頭ぼうぼうで髪が逆立ちしているような風貌だが、顔は憂いがあるようなハンサム男の写真を僕に見せてくれた。これが、噂のボブ・ディランだという。奴が「彼は、朝起きて髪もとかさず、そのままレコーディングにいったり」「いつも風来坊で、レコード会社も困っているらしい」と、かなり低レベルの評論を映画愛好会の狭い部室で、ぼくに言ったものだ。「スゲーナー」僕なんかそれだけで、ぱっと未来が見えた気がしたもんだ。日本の高校生はみんな「バイタリス」を頭に振りかけ櫛を入れていた時代にだ。そのとき僕は、本当に衝撃を受けた。これが、あのボブ・ディランか。そうか、あちらの文化は今そうなっているのか。ハリウッド製アメリカのテレビドラマは幻想なのだった。その写真を見つめ、僕はビートルズやストーンズとも違い、つまり音楽の革命性だけでない俺たちの時代の生き方を一瞬にして、予見できたような気がした。僕らのまだ見ぬ未来をね。ああそういうことか、僕らには、もう一つの生き方があるんだ、とぼくはそう合点した。たかだか5分ぐらいのたわいない高校生の会話の中だったが、人生を変えた一瞬であったのかもしれない。「よし、東京へいって、どうしようもない大人たちに闘いを挑もう」と僕は決意した。

ボブ・ディランの「風に吹かれて」とか「Like a Rolling Stone」を聞くと、当時の友人たちの顔や心情、そして妻との出会いを思い出してしまう。いつの間にか、僕も老人になってきたと言うことなのだろうナ。
you tube で「Bob Dylan Blowin' In the Wind」とか「like a rolling stone youtube」で検索して開くとボブディランだけでなく、世界のアーチストたちによるカバーがたくさん載っている。

音楽は世界を変える、なんていうフレーズはきらいで、「へっ」何言ってんだよ、具体的な闘いだけが状況を突破するのだ、と二十歳前後は真剣に思考していた。でもやはり、音楽は世界を変えうるパワーを持っている。それはいま、はっきりとしているね。若者が思うほど世の中は急激には変化しない。そう、答はいつも風の中で舞(ま)っているのさ。

2010年7月22日木曜日

中小企業20社のトップと・・/ 「武士道BUSHIDO」

6月と7月にハノイや日本で企業のTOP約20名の方々と話す機会があった。急に増えてきた。当校の学生を何度か採用いただいている企業もあれば、初めての企業も多い。いま、総じて言えることは、ベトナムへの関心、とくに進出と人材の確保に関心が高まっていることだ。2008年の秋のリーマンショック以降、ベトナムへの進出などを計画していた日本企業の大半が、計画の中止や、調査の中止を余儀なくされた。いろんな関係者の話を総合すると数千社はあったようだ。まさにそうだと思うよ。当校や当NPOに相談されつつ、待機していた企業だけでも20社以上はあるモノね。その関心がいま、ようやくかなりの勢いで「再開」へと動きだしたのだ。だから、今月と先月お会いした社長さんらの熱意はかなりパワフルだし、目的がリアルだ。

初めての方も、当校卒業生がいる知人の社長の評価などを聞かれて安心して動き出したようだ。特に地方の企業は地元との狭間の中で、アジア進出は簡単ではなく複雑な要素もある。地元を簡単に置いてきぼりにはできない。じゃあ、まずは人材の確保から、と考えている企業もいくつかあるようだ。不況はまだ明けていないし、政治は相変わらず三流状態。環境が良くなったわけではない。が、中小企業のTOPお一人お一人の「次代」への意志が積極方向に現れている様な気がする。もう、状況を待てないのだ。待つ時間がもったいないのだろう。

■ 以下は、またまた、原稿からのコピーだ。忙しくなってきたからね。どうにも書く時間がね。例のベトナム人青年向けの著作の一部です。
「日本人の倫理感、日本人の武士道」・・・参考になるはずだぜ。ベトナムのサムライ君!

日本人にもいい加減な人も、本当に悪い人も大勢いるさ。他の国と全く変わらないだろう。でも、仕事に関していうと、与えられた仕事を丁寧に責任を持って完遂しようとする人々が他のたいていの国より多いことは間違いなくいえる。僕が主観で言っているのではなく、世界のジャーナリズムや学識経験者がいろいろなところで書いている。にもかかわらず、日本人の多くは宗教者ではない、ほとんど宗教には関心がない人が多いと言っておこう。お寺に行くのは観光で行く場合が多いし、先祖や家族のお墓にお花を手向け、お線香を上げるのはせいぜい年に一回だけだ。毎日曜日に教会のミサに出席するキリスト者はもっと少ない、国民のほんの一部だ。ベトナムは仏教国だ。ラオスもカンボジアもミャンマーもそうだろう。生活全体の指針とか規範は仏教で、それに先祖を敬う民衆の地元の宗教が加味されたものだろう。イスラムの国々はさらにその宗教的な戒律はいまでも厳しいのが一般的だ。アメリカは多勢がプロテスタントであり、イギリスは旧教か英国国教会だし、ヨーロッパの諸国はそれなりにカトリックを国の心の糧にしてきた。

でも、日本人から見るとキリスト者であった旧南ベトナムの支配者がベトナム人に対し非道なことを行っていたり、米軍の慰問(いもん)に神父さんがきて、「今からベトナム人を殺しに行く米軍兵士の無事を祈ったり」まったく理解ができないこともおおいぜ。では、日本はどうか。日本人の生活を律している価値基準は多様な伝統的事象が混在していることは確かだ。仏教、道教、儒教の影響を心の底流で受けており、だから何故か知らなくてもいつの間にか生活のあり方は、それに無意識に左右されている。

1900年に国際連盟事務局次長であり、教育者(東京女子大学創設)でキリスト者であった新渡戸稲造博士が英語で「BUSHIDO」を出版した。流麗な英語で見事に日本人の精神構造を書いたものとして、欧米だけでなく日本語版もあり日本の知識層にも強い影響を与えた。もともとは、西洋のキリスト教が西洋人の生活の規範となっていることと同様の「神」が、日本には居ないのか?宗教がないのに日本人は何を心のよりどころにして、生活の規範やひとりひとりの「良心」を形作っているのかという、インテリの友人たちの質問に全面的に応えるために執筆したのだ。武士道精神は「葉隠」や宮本武蔵の「五輪書」などの文書はあるけれど、経典がある宗教ではないので、明確な形があるわけではないが、日本人の責任感や倫理感、公平感、質実剛健な生活スタイルなどがそこに如実に表されている。特に「礼」、「誠」、「克己」などが、現代の日本の生活にまで脈々と流れていることを西洋の騎士道など似た例題をうまく引用して丁寧に綴ってある。「礼は寛容にして慈愛あり、礼は妬まず、驕(たかぶ)らず、己の利を求めず・・」と、明確に書いている。武士道、いや、日本人の心の持ち方の原点だね。「ただし、誠実と信頼がなければ、礼は茶番であるともいわれている」とも書かれている。むずかしいね。わかるかい?ベトナムのサムライ君。

「BUSHIDO」にはこうもかかれている。「富の道は、誠や名誉の道ではない」と。また「克己」は自分の妥協的ないい加減さや、楽をもとめる気持ちに打ち勝つ心のことだ、とね。このようなことが、この本にわかりやすく記述されている。英語が得意な人は英語版で読むと良いよ。読書家の青年は気づいたかもしれないが、この武士道精神のコアになっているものは孔子の儒教であり、孟子の道教なのだ。わかるかい?さらに、武士道や日本的な考え方と同時に僕ら日本人は、高校や大学でボルテール、モンテスキュー、ルソー、ロックなどを一応少し学んでいて、フランス革命で作られた人権宣言などもアジア人ではあるが、いつの間にか僕らの常識的な思考方法に影響を与えてきた。第二次世界大戦の敗戦後作られた現在の「日本国憲法」もその影響をもろに受けている。したがって、戦後生まれの僕らの「正義感」や思考感覚は、その憲法とアメリカからの生活の価値基準で形作られてきた。つまり「ヒューマンな感覚」という奴さ。とても大切なものだよ。

その上、我々中高年の世代はカント、キルケゴール、ニーチェ、ヘーゲル、マルクス、レーニン、ウエーバーなどを自分らで読みこなすことが常識であったので、西洋の思想的な影響を現代の若者より多大に受けた。しかし、東アジアの辺境にある日本人である自分の内部の底流に流れているものは、目に見えないが思考感覚や日常の所作などの中に、確実に儒教や武士道の精神が流れているのだ。その精神が西洋思想と複合しながらも僕ら日本人の内面の主な規範や基準となっているのだ。最近、課題になっていることだが、僕ら戦後の日本人の感覚は「個人主義」傾向が強くあらわれており、「公共」というもののとらえ方が、おろそかになっていた事は否めない。いま、日本ではまだまだ一部ではあるが、その隙間を埋めるような潮流も現れてきた。ボランティア活動が若者やリタイアした僕らの世代を中心に胎動しつあるのだ。グランドワークとか、プロボノというシステムなども新しい形態の一つだろう。

2010年7月14日水曜日

ユニクロとグラミン銀行

まあ、最近僕が購入する衣料品の大半はユニクロだ。お金もないし、行けばほどほどおしゃれというか、「すっきり系」の衣料品が買えるからだ。言ってしまえば、ありがたいということだね。下着から、シャーツ、ベルト、靴下までいやはや、ほとんどだね。そのユニクロがバングラディッシュのグラミン銀行(貧民銀行)と共同で事業を始めるらしい。うれしいね、すごいね、柳井さん。やっとこういう企業が現れてきたんだね、ニッポンにも。僕が1990年代初め、フィランソロピーの企画会社シグフロントをたちあげて、日本企業の大手を中心に「企業の社会貢献」の提案活動をしていた頃は、本気ではない企業もおおく閉口したし、疲れたことが多かった。「納税で十分。それが社会貢献というものさ」とか「アフリカあたりに、寄付しておかないと、批判出そうだしね」とか「おつきあいさ」みたいなことを平気で言っている担当もおおく、一部の積極派企業以外は、ビジネスで”使い物にならないおじさん”のあてがいぶち人事で、やらせられている人が多かったんだ。だから、ひねた人物もおおかった。特に大手商社の「**環境企画室」「企業市民***」「21世紀企画**」とか、たいそうな名称の割には実態はお寒かった。当時の明治生命や日産などは、担当者の方も熱心で教養の豊かな人で、ずいぶんお教えいただいたものだ。当時まだCSRなどという言葉はなく、コーポレートシチズンシップか、フィランソロピーといわれ、マスコミでも取り上げられつつあった。僕もテレビの仕事や広告の表層的おべんちゃら仕事にうんざりしていて、40代はまじめにやろうと言うことで、学生時代の正義感の勘を取り戻して、取り組み始めたのであった。

アメリカでは当時「BSR ビジネス フォー ソーシャル リスポンシビリティー」という団体が産声をあげていて、朝日新聞の編集委員であった下村満子さんと一緒にそのBSRのボストン大会に参加した。当時の僕の会社シグフロントは、日本企業の加入第一号となった。確か次年度も行ったね。サンフランシスコだった。そこで、学んだことは経営者の徹底した企業市民意識であった。彼らは経常利益の10%程度を貧しい子供たちの奉仕団体や医療団体に寄付し、また、アフリカ系住民の雇用拡大など協力活動を細やかにしていた。つまり、アメリカの貧しさと正面から対峙しようとしていた。もちろん日本と歴史も事情も大いに違うので、並列には語れない。語れないが、その本気さが違うのだった。
アップル、リーバイス、そのころ新進のシスコシステムズ、コカコーラ、アベーダ(エスティーローダに買収されたが)などが、幹事役でがんばっていた。まだ、確か当時200社ぐらいの小さな萌芽であったが、大統領夫人ヒラリーさんが参加したり、「スゲー」と僕に言わしめた。

経団連の1%クラブと提携させていただき、協力や後援をもらい、2度青山の国連大学の大ホールで僕の会社が主催で「フィランソロピーの国際大会」を挙行した。アップルの協賛などいただいてね(いまマクドナルドの社長である原田さんが当時アップルの担当の部長であった)。引退された経団連の房野専務理事も僕らの活動の面倒をずいぶんと見てくれた。房野専務の下にいらした上田さんにもいろいろ協力いただいた。上田さんはP・ドラッカーの一連の翻訳者で有名な方だ。
話をもどそう。ともかく、行動がいつも叫ばれていたのに、いつも日本的に「寄付金」で自己満足してきた。そうでない活動もありますよ、もちろん。大企業の方々が呼びかけ合って、富士山の掃除をする、良いことです。NYハーレムで、日本の証券会社の社員がおそろいのTシャツ着て日曜日に大掃除をする。社員の寄付金に倍上乗せして、地震の被災地に寄付する、あるいは物資を送る。もちろん、すばらしいし、それに誰も文句はいえないさ。そういうあり方もあっていいのさ。だけれど、どこか、それだけではない、もっと違う方向があるのではないかと、考えることも実は多かった。
その答えが、やっぱり、ユニクロなどのありかただろうね。そう、これが初めてではない。雇用促進をテーマに国内外で展開しているチームやNPOもたくさんある。グランドワークという考え方もその一つだし、最近増え始めたプロボノシステムもそうだろう。専門性を活かして、共同・協働を模索する試みさ。でも、ユニクロは世界企業として、取り組む訳だから、規模がちがう。すごいよ。
グラミン銀行のムハマド・ユヌス総裁が、語っている。「ユニクロの持つ優れた技術は、ビジネスのためだけではなく、世界の問題解決のために使うべきだ。(合弁は)寒さに苦しんでいる多くの人のためになる」と。ユヌスさんは2006年、ノーベル平和賞を受賞している。

2010年7月10日土曜日

ベトナム航空が不安だ

今読んでいる勝海舟の「氷川清話 ・江藤淳編」を不覚にもハノイの当校の門の鍵を開けようとした際、左腕脇に挟んで解錠しようとして、思わず本が左脇から落下、水たまりにチャポンさ。それも、いかにもキレイでない感じの水たまり。慌てて、洗ってベランダのテーブル上で干してみたが、やっぱーよれよれ文庫本に成りはてた。若いとき本をコーヒーかお茶でぬらして天日に曝したこともそういえばあった。20代の妻と一緒だった、懐かしくて胸キュンだぜ。ネクタイやYシャーツのよれない干し方は知らないでないが、本はどうしたらいいのか。いきなりどうして、あそこまで皺くしゃにかつ大胆に変形しちまうのだろう。製本というものが、かなり紙に無理を強いて整えた振りをしているとしか言えないほど、勝海舟の本は踊り狂った有様となった。本日、ハノイは快晴の土曜日だ。上半身裸で、さてさて、ベトナム航空の事、書いてやれ。

■ 僕はベトナム航空に毎年12〜13回、今年もすでに7回ベトナム航空のみを使って日本とハノイを往復している。つごう150回以上利用してきたはずだ。以前は日航とのコードシェア便も多く、ベトナム航空のチケットでも日航の機体で、かつ日航のキャビンアテンダントの場合も少なくなかった。その際は実は「おっ、今日は日航か」と安心したものだ。正確に言うと日航なら、映画を確実に見ることができるのでのホッとなのだがね。日航はあのていたらくだから、ベトナム航空との提携の度合いが減ったようで、関空からの便など、日航は確か撤退したとおもう。そういう意味ではベトナム航空は自立して営業から、整備までやらなくてはいけない環境にあるはずだと思う。ところが、最近のベトナム航空の機内の中の破損状況はひどい。一昨日、ハノイに来たときの事を話そう。機内の中央には、天井の中にしまわれて良いはずの大きなモニターが故障で、出しっぱなし、画面ではなにやら映像が放映されているのだが、雑誌を破いたような紙を画面に「すみません、これ故障です」とわびた風情で、貼り付けてあるひどさ。さて、僕の前の背もたれにある小型モニターは、点く点かない以前に手元の操作機器がのコードがちぎれていて、点くはずもない状況。男性のアテンダントに告げたら、「まいったなあ」とひとこといって、隣の席の雑誌ポケットにねじ込んだ。一件落着と言うことだろう。

次回の機内掃除の時、掃除の人が、それを見つけてもメンテの担当でないだろうから、例の肘掛けにある「操作機器収納」にただはめて、事は終了し、また、次の客が文句をいい、未解決のままことは推移するのだろう。推して知るべし。こんな調子だから、僕の周りのひとの20名ぐらいのお客さんは、みんなモニター故障らしいし、読書用のランプさえもつかないんだぜ。これが、初めて?というと、そうじゃあないぜ。最近とみに増えている。日航の機体がなつかしい。で、トイレにいっても、手を洗う水が出ないんだぜ。ちょっと非道い・・。でも、2回目に行ったときは、ミネラルウオーターの大瓶が無造作においてあった。たぶん、これ使ってね、ということだろう。書いているとあれこれ、以前のことも思い出して、疲れるので、ここで「事実の開陳」は終了しておく。問題は、じつは、こういう現象だけでないのだよ。これはベトナム空港の幹部から一般の社員、アテンダントまで仕事に対する関心についての重大な要素を指摘しておきたいのだ。

本年初めて、ハノイの市バスに2回乗った。ブオンと娘のりん、ブオンの母親と4人でね。ハノイのバスはヒュンダイ製、ベンツ製などがある。元々新車だと思う。バスの運行はまだ、5,6年しか経っていないのに、僕が乗った二回共に20〜30年ぐらい使いくたびれた、車体と車内に見えたのであった。たぶん、購入して一回もしっかり拭き掃除などしたことがない、錆が出そうなところには油で拭いたり、まったくしていそうもないバスの車内なのだ。運転手は陽気で、母親とはなしたり、他の数人のお客と冗談を言っていたので、雰囲気は明るく悪くはない。だけれど、僕は公共への関心や仕事への責任についてを考えながら、バスに揺られていた。このことは決してバスの車内だけのことではないのさ。飛行機の機内、ビルの構内、道路も同じ事なんだ。市民としての責任、公共意識、仕事に対する責任感、すべて共通していることなんだ。僕が言いたいのはベトナムだけじゃあないよ、多くの世界の国に共通した課題なんだ。このあたりはこのブログの2月27日「ベトナムのテト スローな元旦」に詳しく書いておいた。

日本のメンテナンスを理想として語るつもりは全くないが、美しさや、清潔さを保とうという意志は日本に昔からあった。あるとき、東南アジアの有名な政治家が、東京の地下鉄のエスカレーターの回る手すりを拭いている清掃員の老人を見て感嘆の声をあげたそうだ。「そこまで掃除しているのか」と。だいぶ前に雑誌に載っていた。お客様に責任を果たす。お客様に不快感を感じさせない仕事。日本人は元来から、自分を中心にした思考や感覚を紡いでこなかった、良いも悪いも、周囲のと関係で思考と感覚を設定してきた。他人が先なのだ。他人の感情や他人の主張がまず、先に気になることであり、自分は後回し。「空気を読む」とは、まさに言い得て妙だ。日本人の思考を少しおとしめて書いたが、この感覚は使い方によってずいぶん威力をはっきできる感覚なのだと思う。それをうまく使うと、他人に気を遣い、自分を律して責任有る仕事ぶりを発揮できる。日本人はこの「気遣い」分野では、世界に冠たるメンテナンスやホスピタリティーを発揮してきた。その技術の教育も膨大な蓄積がある。

ベトナム航空に不安を持つのは、自分の仕事に関心が薄いとしか思われないスタッフが多いと言うことだ。例えば、全部とは言わないが、機内でスマイルで仕事しているアテンダントはほぼ皆無だ。とくに女性アテンダントは無表情はまだ良い方で、苦痛の表情の者すら多いぜ。その上機内作業も、事務的で無造作だ。ホスピタリティーの「ホ」の字もない。だったらやめろ、と言いたくなるほど非道い。5年ほど前、麗しいアテンダントとしばらくつきあって居たので、彼女たちに言いたくないし、この会社には知り合いもいないわけじゃあない。でも、年間30往復もしている「顧客」の僕だから、あえて言ってるのだ。自分の与えられた仕事に関心が薄い社員の多い企業は末路が見えてくる。ただの普通の企業なら自業自得で、じゃあ、さらばでことは済むが、この企業は事故に直結する。機内のクルーは、機内のホスピタリティつまり、快適環境に常に責任を持たねばならない、僕が言うまでもないさ。機内がこの調子なのに、機体の修理メンテ工場のスタッフは、自分の仕事に極めて関心が高いのだろうか。僕はそうは思えない。企業の中の気分が全社的に連動してしまうのは、世の常さ。ブラックボックスの中だから、僕らはまったく、知らないで毎日利用している。

少なくとも、機内のビデオ機械、ランプなどの装置機械、水道の装置のメンテもほとんど関心をもたない機内クルーと、修理工場のスタッフは、どこがちがうか、誰か証明できるのか。機内のクルー・アテンダントは、ベトナムの労働者の中できわめて高い待遇だ。だけれどもメンテスタッフも最高級の待遇で、優秀正社員エンジニアでメンテナンスの牙城を築いているのだろうか。機内の電気系、電子系のメンテの担当が誰だか解らないが、このいい加減さは、機体の整備の細心の注意と技術がきちんと発揮できる環境にあるのかが疑わしく思えてしまう。かつては成田では日航がメンテを担当していたと聞く。さて、今はどうなのだろうか。ノイバイ空港では誰が、メンテをしているのか。僕がベトナムに来始めた1993年当時はキャセイが担当していたと聞いていたが・・。

最悪の事態とかの不安を煽る気などさらさらない。が、ベトナム常連の日本企業の人たちは、ベトナム航空に乗らない人が多い現実。乗らない理由はいろいろあるので、これ以外にも。ここではあえて書かないが、料金が高くともみんな日航か、ANAさ。ベトナム航空の幹部はいま、どう考えているのだろうか。現場の実態をどこまで把握しているのだろうか。ぼくは、たぶん今後もベトナム航空にのるだろう。だから、言いたいのさ。このブログは、結構読んでいる人も居るようだし、ベトナム関係者も多いらしい。いつか、ベトナム航空関係者も読むことになるだろう。むしろ、そうあって欲しい。少なくとも日本人スタッフからでも、改善の本気の声をあげてほしい。それも至急にね。

2010年7月3日土曜日

★ 福翁自伝の痛快さ / 戦後の僕らのバイタリティー

いま、福沢先生の「福翁自伝」を読んでいる。まもなく終わる。思い起こすと、この本は息子が塾高に入学したころ、女房が読んでいて勧められ、ちょっと読んだが、なぜかすぐやめていた。何故なのか思い出せない。こんなに痛快で人を爽快にさせる本はそう滅多にないのに、当時なぜ気付かず、たぶん10ページ程度で中断したのか。まあ、いいや。福沢諭吉という人物が日本の教育や社会を形作る規範などに与えた影響は本当に強烈だ。まさに2010年の僕が読んで、このラジカリストの深さに呆れるよ。現代人の僕を卒倒させるほどの本質を堂々と謳っているのだぜ、江戸末期から明治中期に。今更ながら、僕が言うのも恥ずかしいが、慶応の人は幸せだよ。この「福翁自伝」とか「学問のすすめ」などをたぶん中学高校で読むのだろうと思う。慶応出て、バカなやつも結構知ってるが、健全でまっとうな人物がすぐれて多い。早稲田出て良い人物は呆れるほど少ないぜ。だから早稲田にいた妻晃子が、息子を塾高に入れた理由もわかるよ。
慶応にはこの啓蒙家で冒険家で教育者で語学者の福沢の意志が今でも脈々と引き継がれているからだろう。日本における自立した「市民」第一号と言っていいと思う。総理大臣やって「在野」を語る大隈さんとは、いっちゃあ悪いが、比較できない才覚が福沢先生にはある。
と、いいながら、

■ また、ブログ書いていないので、またまた、原稿の一部からコピーしてきた。ベトナムで発行予定の青年向け著作さ。今秋ベトナム全国の本屋に並ぶ予定だ。
・・・
戦後の僕らのバイタリティー
日本は明治時代、西洋に追いつけ追い越せで富国強兵を歩み、1894年の日清戦争と1905年の日露戦争という大国との戦争に勝利した。その自信で比較的のんびりしていた大正時代をすぎ、昭和に入ると、国力にますます傲慢(ごうまん)さが現れてきていた。「神の国」は負けるはずがないと気負ったのだった。軍部の台頭と天皇の神格化がだんだん日本を覆うようになり、中国や朝鮮への出兵は、庶民レベルでさえも当然視されてきた。そして現在の北朝鮮と似たような国家になってしまったわけだが、北朝鮮より悪いのは、“やらされているのではなく、自らそう信じて協力していた国民が多い”ことだった。実はここが、国民性であり、日本人の問題点でもあるのだ。戦後、うまく転がると復興の国民的なパワーとなるのだから、国民性とは、実にやっかいなものなのである。

アメリカは、負けそうな日本に追い打ちをかけるように、1945年8月に広島と長崎に原爆を試験投下した。その前の3月には東京に猛爆を加えて、10万人を殺した。戦争にも国際法があり、関係ない市民を殺害した場合、罰せられる。それにもかかわらず、「民主主義の国アメリカ」は、ジェノサイド(皆殺し)を日本ですでに実行し、その成果をまた、1960年代に君たちの国ベトナムで再現した。歴史的にこのような市民を巻き込んで皆殺しにする犯罪的な戦争を繰り返し、罰せられない国はほかにないぜ。まあ、この話は別な機会にゆずり、日本の戦後のバイタリティーにテーマを戻す。

僕は1948年生まれである。1945年8月に敗戦なので、3年後に生まれたわけだ。日本では1947〜1949年生まれを団塊の世代(ベビーブーマー)という。戦争がおわり、軍国主義が壊滅し、明るい青空の下、結婚がブームとなり若い夫婦が子供を次々に産んだのであった。一気にそのころ急激に200万人の大量の赤ん坊が数年間続けて生まれた。日本ではこの世代を団塊(だんかい)の世代という。貧しくて、何もないが愛と将来への希望にあふれていたと、親の世代はよく言っていた。
そんな中で日本の経済や産業は立ち上がっていったのだ。東京無線工業(ソニー)やホンダ、京都セラミックなどを筆頭に無名だが、バイタリティーあふれる企業が胎動していった。流通ではスーパーのダイエーなどが、勃興(ぼっこう)していた。その頃の国民的な娯楽は映画とラジオであった。家族そろって時々行く映画とか、夕方に、工場から帰ってきたお父さんと一緒にラジオをきくという「団らん」は、戦争のない、平和な小さな幸せであった。ベトナムの若者は覚えていないかもしれないが1990年代に日本の有名なテレビドラマ「おしん」が放映され、ベトナムだけでなく、アジア一帯、ロシア、ヨーロッパまで大反響を巻き起こしたのだ。あの苦しい生活をしながらも明るく、がんばって幸せをつかもうとする少女の姿は、世界に感動を与えたのだ。じつは、まさに、「おしん」同様の生活環境の中で日本人はこぞって、幸せを模索したのさ。みんなで協力し合ってね。

で、当時の明るさの象徴は、1949年の湯川秀樹博士のノーベル物理学賞の受賞だった。自信が無くなっていた国民にとって、「やっぱり、僕らはすごいんだあ」と思ったものだ。この自信は大きかった。
このころ、1950年代、我が日本の中小産業はいかに安く作るかで健闘していた。大学との連携した研究開発はまだまだ行われて居らず自前で思い切って優秀学生を集めて研究部門を拡大していった。オートバイを、トランジスターを、セラミックを、自動車をいかに安く合理的に、早く作るかに腐心(ふしん)した。何を作るかではなく、“いかにつくるか”の競争であった。だから、いまでは、中国が世界の技術の真似をしてひんしゅくを買っているが、当時の日本製品は真似で成り立っていたし、すぐ壊れるで、有名であったのだ。まさに同じ事が起きている。でも現在の中国の技術の剽窃(ひょうせつ)は、乱暴で、その上ずるい手段で技術を盗むことを国が後押ししていると聞く。日本は「基本構造」はまねたりしたが、それを自分流にアレンジして内容を進化させてきたんだ。身勝手中国企業とは違うところだ。
日本は、真似をいち早く脱して、物作りといわれる「最新技術と職人芸」の合わせ技のような独特のシステムを各企業それぞれが編み出していった。

大変有名な教育者であり政治家で慶応大学の創設者の福沢諭吉の「福翁自伝」にこんな事が書いてある。「江戸時代にアメリカのペリーが黒船で日本に来てから、たった7年後には、日本人だけで咸臨丸は太平洋をわたった。黒船を見てから航海術を学習し、アメリカに行けるまでたったの7年でやり遂げる日本人の好奇心と探求心そして勇気は特別な物だろう」と。そういう探求心や好奇心が日本人のエンジニアリングの基礎となっている。1000分の1ミリの違いを見抜く職人の指先、コンピュータでは、表せない「ゆるみやあそび」を確保する微妙な感覚、音だけで聞き分けられる旋盤の作業、水を口に含んだだけで、全国各地の水源を見分ける水道技師など現場の匠(たくみ)たちは、いまでも元気だ。だが、現場での後継者の育成がうまく追いつかず、「ものづくり大学」のような教育システムに環境は移行しているが、器用でがんばるベトナム人に技術をじっくり教えて、育成したいと考えている企業や中高年のエンジニアたちは少なくない。

1950年代後半から、高度成長期に入った。テレビや冷蔵庫はすでに行き渡っていたが、象徴的なものは家庭の3Cだ。「カー」であり、「カラーテレビ」「クーラー」であった。日本の産業はまさにアメリカを追い越そう、追い越せると自覚し、結果、日本のオリジナルな製品が世界を覆(おお)った。ニコンやアサヒペンタックスのカメラであり、セイコーの時計であり、蛇の目やJUKIのミシンであり、ソニーのテープレコーダーなどであった。それを後押ししたのが、何を隠そう1964年の東京オリンピックであったのだ。
郊外には団地といわれる巨大なアパート群が建築され、新幹線が完成し、都市には未来型の高速道路が、あふれた。
1ドルがまだ360円の固定相場であり、欧米世界も東洋の小さな国の産業を競争相手とはせず、妨害も無かった中でのラッキーな日本の世界デビューであったのだ。いわばキャッチアップ(CatchUp)ビジネスモデルの最初で最後のモデルかもしれない。