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2009年3月23日月曜日

究極の遊び

お寺巡りは究極の遊びか。
22日日曜日、妻VUONGの父の家で昼食を取った後、そこに顔を出した彼女の友人である服飾デザイナーのHUCさんと、「お寺に遊びに行こう」という。フムフム、お寺に遊びにか・・、良いね、と言うわけで、前に娘と3人で行ったことが有名なお寺さんにオートバイ2台(僕はフックさんに乗せられて。娘は受験の塾で、不在)で、行ってみた。参詣の若い女性や年寄りが線香や果物をもって、ゆったりとした午後を楽しんでいた。広い境内は人がまばらで、静寂であった。VUONGと付き合いだして2年、今までもあちこちの寺院仏閣、神社に散歩してきた。

二人はベトナム人の女性だから、何のことやらほとんど解らないが笑いを交えベンチで長いこと談笑だ。で、1時間半もするとどうにも飽きたので、フックさんの製作アトリエ兼店舗に移動、休日なので二人でJUKIミシンの並ぶスペースでファッションショウを始め、3時間飽きずにやっていたが、夕食時間がせまり、ワンピースなど4点ほど、買ったようだ。僕も見たがかなり良い物だと思う。ただし1点30ドル。流石ベトナムだ。通常は20ドルらしいのだが「フックさんは、来週新規店舗を出店させるので、ご祝儀で高くはらった」ということだ。日本なら10倍近いだろうと思う。5,6年前、ブオンがオーナーで、フックさんが専任デザイナーで「ニュースタイルのアオザイ中心のファッション店舗」を展開していたとき、ハノイ市のファッションコンテストで優勝した実績があるという。なるほど、シックで上品なデザインは素人目にも納得がいくエレガンスがある。

で、近くのちょっと知られたダック(あひる)専門店に行った。路上と店舗に境目がないベトナム特有のビアホイ風な佇まい。蒸し、揚げ、焼きのアヒルがそれぞれ最高の味をだしていた。日本では鳥の唐揚げが嫌いで一切食しないが、ハーブとネギをまぶして揚げた空揚げは、ほんとに美味。大半、僕一人で平らげた。
で、さてさて、彼女たちがベトナム語で話している間、手づかみでアヒルの骨と肉と格闘しながら、遊びの究極を考えた。
遊びには金が要る。いきなり何十億円も入ったら、どんな遊びをかんがえるのだろうか。やっぱー、男は海だろうなあ。クイーンエリザベスとかで世界一周かあ・・。大型クルーザーで、地中海を漫遊もいいなあ。日本人の男の95%(根拠ないが)は、海だろうよ。巨万の富が入ったのに「足の小指に凍傷の一つもしながらエベレスト登山」を目標にする人もゼロじゃあないが、大半は海原で深呼吸し、アルチュール・ランボーの『地獄の季節』さながらに太陽の日差しを素肌にじりじり受けながら、「巨万の富によって仕事や時間から解放された永遠の安堵感に浸る」のだろう。しかし、隣にはビキニのグラマラスないい女(スペイン系)が寝そべっていなければ、やっぱー話にならない。女だ女だ、やっぱー男はこうでなくちゃ。フムフム・・。

もっと究極の遊びないのか。僕ならどうするか。ハノイに土地買って(使用権)、立派なVCIの校舎建てよう。日本国内でも広告を打って、日本企業のネットワークを一気に拡大して・・・、1億はベトナムの何処かにCSR・・いけねえ、これは、遊びじゃあないね、一種の至福感とか、充実感かな。どっちにしても、どうも現実の忙しさから抜け出られないなあ。自分の発想の貧しさに愕然とするね。・・・・近々続編・・。(4月8日へ)

2009年3月18日水曜日

ベトナムの小説「戦争の悲しみ」が凄い

息子もいつの間にか28才だそうで、先日嫁さんになる女性を連れてきた。正月に僕と長女の前で「今年結婚する」といい、その第一歩の段取りとして彼女とのご対面となったわけだ。新宿のベトナム料理屋で「333」ビールを飲みながら、3人でお話しした。息子は僕の仕事について、「ベトナムあたりでウロウロしてる」としか言っていないという。ふふ、それでも間違いはないが、準備の良い僕としては当校のパンフなど取り出して、営業まがいに熱弁。珍しく、僕は「上気」していたようだ。彼女は自分の彼氏とその親父は大分違うと感じただろうな。

息子はどちらかというと余計なことはしゃべらず必要なことや大事な件しか話さないタイプと思う。塾校では、一貫してブラスバンド。黙々と重いチューバを吹いていた。大学では東大と早稲田との三大学連合の山岳系サークルで、これまたあちこちの山岳を黙々と登攀(とうはん)していた。今でも、年末あたりは当時の仲間と山へ行っている。彼は僕と大分違い正に”黙々と一貫して歩む”人物だ。現在、化学・素材系の大手メーカーの研究員として仕事をしている。これから、彼のその骨太な精神力が大海の未来にて活かされれば有り難いと思っている。嫁さんになる女性を連れてきたことで、息子の人生と人格を客体化して見えた気がした。天上の妻の笑顔も瞼に見えた。

先週の土日に、ロバート・エバンスのドキュメンタリー「くたばれハリウッド」、デ・パルマ監督の「ブラックダリア」、ソフィー・マルソーの「スチューデント」、ユーゴのエミール・クストリツア監督「黒猫白猫」、石井輝男監督「網走番外地望郷編」、「ゴダールの訣別」、「ゴダールのカルメンという名の女」、「ゴダールの10ミニッツオールダーグリーン」、J・ジャームッシュ監督の「ナイトオンザプラネット」、中国チャン・イーモウ監督の「至福の時」を見た。「くたばれ・・」は、ローズマリーの赤ちゃんなどで、成り上がったプロデューサ エバンスの悲喜こもごもの一代記。面白い。デ・パルマのこれは、どう見ても不調でしょう。「ソフィー」はソフィーマルソーが若々しく、かわいい。「黒猫白猫」は傑作です。以前テレビで見て、じっくり見たいと考えていた作品の一つ。名前は無名だが、ユーゴ、バルカンあたりのジプシーや達者な役者をそろえて、画面の中はいつもカーニバル。敢えて強引に言おう。「フェリーニ、ルイ・マル、ブルース・ブラザーズをまぜこぜにして、ラテンの油で揚げた」ような可笑しい映画的狂想曲なのだ。「網走」、本当は「三代目襲名」「総長賭博」を探して無いので、代わりに懐かしく見た。40年前には”面白がって”見たが、時代の風雪に耐えられず、随分とチャチイ印象。

「訣別」と「カルメン」は快調。ゴダールの映画言語がバンバン。意味不明な分だけ、嬉しくなるぐらい。天才は流石です。このゴダール調がたまりません。「10ミニッツ」は若手やマイナー監督のオムニバス。ゴダールの企画なのだろう。玉石混合。「ナイト」は地球各地の様々な夜の出来事の短編6作。ジャームッシュのロードムービー風情が味わえる。「至福の時」は良いね。イーモウ監督の「初恋の来た道」「あの子を探して」と、これは彼の初期の「少女シリーズ」三部作。盲目の少女を騙しながら、親心を発揮する貧乏なおじさんたち。チャップリンの「街の灯」を想起させる。秀作である。ただし、手足(てだ)れていない分、前2作「初恋」「あの子」の方が初々しく印象深い。

ちょっと困っている。ベトナムでの空前絶後のヒット小説であるバオ・ニン(BAO NINH)の「戦争の悲しみ」がものすごく良いのである。ロブグリエ、レ・クレジオ、ビュトールなどを思い起こさせるヌーボーロマン技法。また、アラン・レネ監督の「戦争は終わった」を想起させる映画的なシノプシス。戦闘や空襲はハリウッドのアクション映画。全体を貫く戦争の狂気と殺戮の連鎖。偶然に「カラマーゾフ」と並行して読んでいたわけだが、それにまったく劣らずの人間の本性の描写。感服した。もの凄い作品であったことを、購入10年目にして紐解いて今回やっと知った訳なのである。これは、近々本気になって、書評書かねば、と僕の心に何かが強いてくる。難題だがねえ。

2009年3月11日水曜日

書くもの無いね。

今、日本時間深夜3時半。ハノイの当校の尾崎先生と新しい授業の内容についてskypeしたのは、1時だから、大分時間もたっている。結構寒い。「戦争の悲しみ」を読んでいる。が、時間取れなく、あんまり捗らない。なのに「高校生のための文章読本」も読み始めた。この「読本」丁度30年前、かなり、話題を読書欄で提供した本だ。無名の高校教員が書いた文字通り高校生向けの文章を書くための技術本である。極めて優しく、かつ合理的で、さらにいい例文に溢れた良書なのだ。かつて三島や谷崎の「文章読本」も読んだ記憶があるが、やはり、これは良いと膝をたたいた記憶があるのは「本多勝一の作文技術 上下巻」だ。

朝日新聞の有名な記者であった彼のこの本は一流のジャーナリストの文章の書き方を具体的に且つ全体的網羅してに教えてくれる最良の本だ。この「高校生の・・」は基本中の基本だけだが、エキスだけ、わかりやすく提示しているので、本多本に比べてもボリュームが少ないが、まったく見劣りしないマニュアルといえる。マニュアル嫌いの僕でもうれしいまさに推奨本である。表3に僕の購入日が書いてあった。1978年9月19日となっている。30歳で読んだということだなあ。それはそうと、問題は、この良書2冊ともに書いていないことがある。それは、 読んだからといって上手になるわけではない、と。

この土日、ペネロペ・クルスの「トリコロールに燃えて」(最悪)、チャンツイの「ジャスミンの花開く」(最低)、小津さん「秋刀魚の味」、チェ・ゲバラの「モーターサイクル ダイアリーズ」、「フェリーニのローマ」、今村昌平監督の「復讐するは、我にあり」、溝口健二監督の「雨月物語」、「小さな中国のお針子」をDVDで見た。32歳の娘を持つ僕には身につまされること多い「秋刀魚の味」は、6,7回みたが、良いものはいいねえ。流石です。「モーターサイクル・・」は楽しみにして、見たのだが、DVD表面に傷でもあるらしく、40分でアウト。どうやっても、画面が中止に。出だしが良かった分、不満だけ残った。残念だ。「雨月物語」は「楊貴妃」とともに言わずと知れた”溝口芸術”の代表作品。やっぱり初期の黒澤に影響与えてるねえ。森雅之を三船敏郎に代えれば、「羅生門」に成りそうな気配だもの。世界をリードしていた日本映画の隆盛期の映画の質に改めて魅せられた。 フェリーニは映画的世界の本当の天才だ。僕にとって、フェリーニとゴダールを超える人はいない。

「復讐するは・・」は実は始めてみた。今村さんは尊敬する監督の一人だ。最高な傑作です。こういう人間のサガをひじり出す映画らしい骨太映画が今無さ過ぎる。「小さな中国のお針子」はかなり良いね。フランス映画であったのには驚いた。タイトルは記憶にあったが、地味だからね、見ないでいたんだ。下方時代の自分の体験をまとめたダイ・シージエ監督の自伝的小説の自分での映画化だから、それもすごいね。文化大革命の時代に下方で労働を強いられた大学生二人が時代の変容に伴走し20年後医者やアーチストになり、下方時代に居た思い出の農村が長江の巨大な三峡ダムによって、川底に沈んでゆく現実を見つめさせられるまでのまさに大河の映画である。時代に翻弄された可愛いお針子は自立し何処へ。バルザックを超えたか。

2009年3月3日火曜日

「青いパパイヤの香り」と「戦争の悲しみ」

堰を切ったようにとは、多分こういうことなんだろう。この2,3日、ロシア映画で10年ほど前に話題になった「父帰る」、ペネロペ・クルスの「帰郷」、T・A・ユン監督の「青いパパイヤの香り」、キュブリックの「アイズ ワイド シャット」、J・クルーニーとキャサリーン・ゼダ・ジョーンズ主演のコーエン兄弟のコメディ「ティーボーズ・ショー」、小津安二郎の「晩春」、「麦秋」、誰監督か解らない「ブエノスアイレスの夜」、テレビでは大半かつて見ていた「セックスアンドザ シティ」を夜を徹して見た。本当は、「パパは出張中」作った確かユーゴの監督の「黒い猫白い猫」いきなりまた見たくなって、レンタル屋で探して見つからず、仕方なく前に見た作品を色々軽い酔いに任せて借りてしまったんだ。なんだか、目とか頭を疲れさせたいというか、脳みそとかを虐めたい気分がわき起こってるみたいな気がする。

で、これ以上、いま書く気になれないなあ。例のカラマーゾフの兄弟3巻もやっと351ページ。読むと一気に進むが、気分次第で、この一週間、止まってる。上記ユン監督が2月から「ノルエーの森」をクランクインさせたようだ。今日はここまでだな。今までで最短の私信となったかな。ただし、近々「青いパパイヤの香り」と僕の小津さん評と、僕の東映大泉撮影所のことは、書くつもりです。ユン監督の「夏至」は見たような気がするがどうだったかな。まあ、今夜は石川淳「新釈雨月物語」の一ページを開こうと思う。

・・続き・・今日は6日金曜。それも4時。オフィス。僕の本6000冊ぐらいが部屋に積まれた段ボールに入っている。2年まえ、自宅にも入りきれなくなったので、4000冊ほど早稲田の古本屋に売って残った分だ。で、その一部であるが、読み残したり、あるいは気になる本だけ本棚に別においてあり、時間ある時、少しずつ読了して”潰して”いる。で、今日はいま、オフィスに誰もいないので、仕事をサボる訳じゃあないが、何気なくその棚から「戦争の悲しみ」を抜き出した。ベトナムのほとんど唯一ヨーロッパ数カ国で翻訳されヒットしたベトナムの有名な小説である。僕にとっては、曰わく付き本の一冊と言えよう。奥付を見ると発行は1997年だ。僕が買ったのはたぶん、話題になって直ぐだから、約10年前と言うことだろう。ただし勇んで読もうにも、何せテーマが「戦争」と「悲しみ」である。読むにも覚悟というか、意を決した突撃が必要だろうが、当時軟弱になりかけていた自分としては、うむむ・・という精神環境で、いわゆる”つんどく”本の一冊になりさがり、手付かずでいた。

毎月買ってしまう本はドンドン増えるし、「あ、きれいないい女だ」と街で麗しい女性とすれ違うぐらいに自分の本棚での出会いが運命的でないと、読み残した気がかり本を読む気にはなれない。換言すると本棚とか、段ボール巡っっていて「今日は焼き肉食いて〜」って、全身が求める病理学的な身体のざわめきと、本の出会いは同一だから、それが無いと本を自分の眼前に引き寄せたりしないのである。そして、天使の瞬きの瞬間にたまたま、我が輩の白羽の矢に射止められし幸運な読み残し本のみ、私めにに文学的良い言葉を大量に供出する運命になるのさ。で、この本は一度、5,6年前に「買ったから、一応読まなくっちゃ」貧乏精神で、ページめくったが、20p程度で、その不埒な精神を真っ向から蹴散らされたようだ。まったく覚えていないが・・。21頁に中断の折り目が付いているものね。作者に対して生半可な気持ちで本を手に取った恥さらしな軌跡が、21頁の上の隅の斜めの折り筋に表示されている。うむ、本は読むだけでも決意がいるんだなあ、なんて、改めてこのBao Ninhの「戦争の悲しみ」の美しい装丁を見つめて思った。
尊敬する辺見庸さんが腰巻きに激賞文を書いているし、ニューヨーカー、タイム、エコノミスト、インデペンデント紙などが、絶賛したこの本の重みが改めて、太り気味の僕の生活態度に「真剣」を刺してくる。ということで数日間、”人間の悲しみ”を本気で読み解くことになりそうだ。

映画「青いパパイヤの香り」は今回で2回目、劇場では見ていない。ユン監督(僕らハノイにいる人間からするとhungさん、つまり、フンさんである)の映像の最大特徴である静寂さはほとんど接写に近いクローズアップの多用からくると思われる。人物の接写は人間を物質化してしまう。彼の映し方は人間をそのままで捉えず、人間は皮膚で覆われた生命であると暴き、更に皮膚は美しい元素から成り立っている事を暗示させる。彼の物質化は、俗としての人間を超克し、人間を構成する生命の神秘の物質を愛おしくさせる効果を持っている。そのいわばナノの映像世界に世俗の音声が入ってくる隙はない、深閑とした世界が画面に広がる。彼の静寂さの第二は、庭と家屋を自在に移動するカメラにある。移動車と小型クレーンを使用したものだろう。CGのデジタル的な画面変化でなく、カメラとレンズの移動という現場で創作される画面の艶やかさは、映画の古典的な技法だが、光と影がレンズを通過してフィルムの銀箔に定着されたものである。ここでも不逞な雑音の侵入を拒絶している。・・続きは、この土日に書きますね。
さてさて、今勤務時間中。ハノイの学生管理課主任のNGOCさんから、SKYPE入った。仕事の振りして、さあ、「なんだね、NGOCさん・・ご苦労様」とチャット始め・・た。普通は、こうじゃあないぜ、一心不乱に仕事してるんだよ、スタッフ諸君。運命の本を手にとってしまって、30分ばかり魔が差してブログをしたためただけさ。許せ。