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2009年11月20日金曜日

たまには儀式も良いものだ

数日前、ハノイでうら若きホテルの営業ウーマンとお話した。彼女は、2年ほどハノイで多様の日本企業の方と毎日商談している強者だから、かなりハノイの企業情報に明るい。そのdep(ベトナム語で麗しい)な彼女から最新の韓国企業情報を聞いた。もともと韓国のベトナム進出は今までもの凄いものがあった。この数年間、ベトナムへの投資件数などは、日本を上回っているほどだ。事前調査も、本格参入もスピードは、まさに風のようだった。そう言うとかっこよすぎるので、突風と言っておこう。韓国だけではないが東アジア系の企業進出の先兵は若い社員がおおい。大抵はせいぜい課長か係長クラスだ。彼らが手付け金などの現金をたんまりもって、即刻買収。即時進出だ。つまり全権をもって来ているのだろう。日本企業の様に「では、会社に帰りまして検討し、次回社長に来てもらうつもりです」となんか言ってるぼんやりした企業はないのさ。ベトナム人ビジネスマンは日本人が好きで、日本人と仕事をしたがっている人は多い。でも、「JAPANは遅くて遅くて」どうにもならないと嘆く。

韓国人は、言うまでもなくリアルなのだ。経済とか仕事のセオリーとかが「現金」なのだろう。去年の秋の世界同時不況のあおりで、韓国経済は相当の打撃を受けた、その現れはベトナムにある韓国企業の動静ではっきり見える。この一年「インターナショナルスクールにあんなに居たコリアの子供たちが、ほとんど消えた」と言われるほど、韓国企業の素早い撤収は”呆れた感”交えてよく日本人に語られたものだ。「あいつら、早いね、凄いほどだ」と揶揄してね。でもさあ、それってどうなの。ビジネスの世界じゃあ、当たり前じゃあ無いの「電光石火」。ベトナムのそのへんは、全く同様だ。僕ら日本の方がとろいと言うか、「慎重に」という言葉で御茶を濁している。

で、そしてその話、「ベトナムには誰もいなくなった韓国勢」と、僕らは思っていた。が、しかし。もう韓国勢は生き返ったのだ。さっきのホテル嬢の情報では9月ぐらいから、いっきに復活だと・・。僕の目勘定でも10月ぐらいから、急に韓国のツアー客が、ノイバイ空港に一年振りあふれ出した印象を持つ。韓国人は生命力があると言ったらいいのだろうか。敗れたら時を置かず去り、機が見えたら敏で、すぐ捲土重来する印象ですね。日本人は文化も含めた社会そのものが成熟しすぎ、体内にある遺伝子とかDNAとか、生命の持続への執着力が薄くなってきているとしか言えないね。60数年前、戦争で敗北し、国土が焦土になっても死に物狂いのエネルギーで復興した日本人の生命力の強さに世界は目を見張ったものだったが。

さて、4,5日前に、当校の5階のベランダで、宗教儀式を胆嚢した。いま、東京で思い出しながら書いている。僕が帰国する日だから、その日は11月16日。で、実はその前の日にフンマイ町にあるブオンの実家に二人でお土産もって寄った時に、田舎の親戚という婆様が二人いた。その一人が僕のことマサユキアベと言って、「私は記憶力が良いんだから・・」見たいな仕草と表情を見せて、お祈りを二人揃って始めた。ああそうだ、二年前の12月に親戚を30人ぐらい集めて僕らの結婚宴席をこの実家で先行して行ったときにも、このペアの婆様は居てやはり”宗教部門”を受け持っているようで、当時もなにやら仏教のようでもあり、先祖との対話もできる霊媒師のようでもあり、僕にとって新鮮で愉快だった儀式を思い出した。

この義理の母系の婆ふたりとブオンと義理の母が良くわかんないけれど、親戚の噂や何かの風 評とかなのだろうか、笑いを交えて話していた。僕は専ら「ふむふむ・・」とかいって、無為に軽いうなずきをして、フルーツを食ったり、別なことを考えてい たりしていた。耳が遠くなり、歩行もちょっと大変な義父は、隣室で専らテレビ。おしゃべりの義母とブオンが婆二人の相手だ。因みに義母は僕と同じ年なので ある。で、帰りに聞いたのだが、僕の事業が今不景気で大変だから、明日帰国前にオフィスで祈祷すると言うことに、どうもなったらしい。ふふふ有り難いことだ。

で、その日夕方に、当校に視察に来ていた建設機械関係のお客様を政府担当幹部に紹介して18時頃オフィスに戻ったら、僕の仕事部屋がある5階が騒がし い。ブオンは不在だが、経理課のタオとか、当校男子学生とか、プロモーション課のフエンとかが、あわただしく部屋の神棚をキレイにした上、沢 山のフルーツをお供えしたりしていた。神棚だけでなく六畳程度あるベランダもあわただしい準備。例の婆二人がベランダにあったリゾート風ガラステーブルに たんまり果物などを盛り付してる。日本人から見ると十五夜のお供え風だな。ベトナム風大型のお線香などコップに入れたお米に差しシンメトリーにレイアウトされてい る。使い方はちょっと違っても、やはりお米の国だ。何か感覚が通底するものがある。塩がお供えに無いのは、ハノイが内陸部だからかも。

香港のタイガー バームガーデンを訪れた方も多かろう。全体的に安っぽく、色はケバく、ペイントの塗りが幼稚なスタイルね。あれは、東アジアから東南アジア全体の色のセンスだと思う。だから、ベトナムの寺院も神社も古いものは、朽ちて「渋めの色」になっているが、改修したモノは大抵ケバく、チープな意匠だ。日本もそうだね、奈良、平安 など比較的古いものの改修したものは、色合いは激しい、言わば中国的だ。鎌倉や江戸などの新しい建築物や彫塑などには、”侘び寂び”の渋みがあるが、古代ア ジアの繁栄時は安っぽいほど色合いが原色でいわばケバい訳です、我が日本もね。さてさて、我がベランダには既に3体の人形が鎮座。というほどでなく壁に立 てかけてあった。これが紙人形というか、小学校の時に作った学芸会用のお人形の佇まい。背丈は50センチぐらい。装飾は色紙の切り貼りだ。神なのか、 後で焼いたりする生け贄風な存在か。ともかく、いっちゃあ悪いが、安っぽい。燃やすからなのかな。

神事で焼くものでの代表格は何と言ってもアメリカのドル札だろう。あはは、ドル札だぜ。お寺さんや神社にいけば、お年寄りも中年も若者も古いベトナム紙幣の偽物印刷とおもちゃ紙幣レベルの ニセ100ドル札が、果物などのお供え物に数百ドルぐらい挟んだり、豪勢に一万ドルが紙テープ束のまま積んだりされていて、供養が終了するとドンドン燃やされる。か つての敵アメリカのドル札が何時から神事に登場したのか、誰にも聞いていないが、ベトナム戦争(彼らは「対アメリカ戦争」と言う)後だろうなあ。だとするとこの風習は30数年の比較的新しいものだね。まあともかく、天国でも現世同様にドルが無いと仏さんも困るだろうと、ベトナムではドル札で供 養するようになったのだろう。この現世利益的な宗教観がベトナムらしくって微笑ましい、と言っておこう。これが自国ニッポンだと、微笑ましいではおさまらず、その宗教的ていたらくに嘆かわしいとか一言いいたくなるだろうけれど、僕。

この婆のお経が結構良い、お坊さんの読経の様でもある。写本、実は正にノートに書き写したもので、もうぼろぼろになっているノートのお経を忠実に歌い上げている感じが伝わる。左手でページを手繰り、右手は木魚ならぬ板を小刻みにたたきリズムを演出している。時にリンを「か〜ん」と鳴らす。形式は仏教のようで、延々続く。今ハノイはちょっと異常気象で、夜は10度以下で、冷える。僕は半袖にトレーナーだけで、寒い。冷たいタイルに直に正座させられているので、冷たいし、びりびりしびれている。タオあたりが、時々顔だして、僕を見てクスクス。「社長、大丈夫ですか?よく付き合ってますね〜」見たいな含み笑いの表情。

何回か婆の一人が、この人はどちらかというと年長に見えるが助手にも見える人だが、僕の名前を覚えていた方、この人が僕に時々指示するが、全く意味不明。僕はニコニコして、手を合わせて合掌を継続するしかない。ブオンは相変わらず居ないし、電話にもでないし、タオにこっそり聞くと、お客さんと会ってると言うし、「まだしばらく、儀式は続きそうです」と言う。まいったな、後1時間後には、ノイバイ空港にタクシーを飛ばさなくてはならないし、腹も減ったし。そのとき、いきなり赤い布を頭からすっぽり、被せられた。婆が双方とも僕に何か言っている。頭上にお皿が乗せられた感触。なんだあ、これ。果物の皿か、100ドルの束満載の皿か。重さから、果物ではない。札束の皿らしい。するてえと、燃やすのか、俺の頭上で。まいったなあ。何か臭うな。燃える臭いだぜ。おいおい、ホントかとおもったら、その皿は下げられ、紙人形3体にかわり、頭上に置かれ、両手で持てと指示あり。紙製とはいえご神体が3体も己の頭の上にあり、魔女めいたばばあが二人で、読経していると、赤い布を通してわずかに周りの儀式の景色も見えてきて、目は開けているが、赤い布のなかで、瞑想に入りたくなる気分の僕。

カトリックの教会の懺悔の箱に入った感覚をデジャブーした感じで、もちろん入った経験はないんですが、F・フェリーニの「8か二分の一」教会シーンを思い出したり、頭上のドル札に火が付けられる恐怖以外、赤い布の中も悪くはなかった。この婆さんペアの呪いと占いは小皿にちゃりんちゃりんと落とした古銭で何かを見通す方式のようなのだが、今日は本格作業とみえ、大きな皿に古銭を30個ぐらい大量にちゃりちゃりしたり、お米を古銭にまぶしたり、火であぶったり、していた。あげく、僕に左手に小刀を持たせ、右手で全部の古銭を一個一個皿に落下させて、落下した瞬間に小刀で落ちた古銭の上の空を切れという。このときは赤布ははずしていたので、ハイ、ちゃりん、小刀をス〜で、30回ほどなんなく、終わらせた。そろそろ解放してくれないかなあ。両足にもう感覚が無い。びりびり感すらないぜ。それはともかく、大ベテランの祈祷師の婆二人で、一心不乱に拝んでくれたんだ。うむ、気分は良い感じになってきだぜ。来年、経営環境も、回復だあ〜。

終わったらしく、ばあさんが、なんだかんだ僕にいうので、「シン カムン」とかいって、謝意を表し、お供えしていた赤い餅米ご飯をみんなでちょっとずつ食べた。東京に持って行けとか言ってるらしいので、果物何個かと一緒にご飯もスーツケースにパッキング。ブオンから電話があって、「あははは、どうだった?」と聞くので「かなり、面白かったよ〜」と答えた。「今日は、そう言うことで、日本に行くのに一緒に夕食できずにゴメン」とブオン。「気にしない、今から近所でフォーボウでも食うさ」と言って、タオたちや、婆さん方と別れてフォー屋に僕は向かった。悪霊が消えたのかなア(笑い)、僕は爽快、軽い足取りであった。

三日前から、思い出して講談社の思想誌「RATIO 2号」を読み出した。チョムスキーの「テロと正義」が掲載されている。極めて重要な論文だ。二年前に一部つまんで読んでいたモノだが、例によって身体がほしがる感で、改めて紐解いた。これほど深く透徹した視座で地球上の事象を読み解ける人は現在、チョムスキーを置いていないだろう。ソシュールやチョムスキーに我々世代は、学生から20代の頃とても憧れたものだ。レビーストロース、メルロポンティ、アルチュセール、、フーコー。ほとんど実に成りはしなかったが、なぜか強烈に僕らのハートを引きつけたものだった。意味もわからず「シニフィエ」などの新しい概念を広告の企画書などに使った軽薄も、随分やったなあ〜。

2009年11月14日土曜日

ベトナムの洪水のごときオートバイの群れ

先日、講談社の「月刊現代」後継誌の「g2」の事に少し触れた。ともかく創刊号だからの理由だけれど、内容が充実していたわけですが、凄いと言えるのがふたつ。まず芥川賞作家柳美里の自分の子供に対する虐待の告白とカウンセラーとの対話が凄まじい。カウンセラーに「あなたは、あなたの子供さん(小六)を殺さないとは言えない」と作家柳美里が言われる。凄いよ。このドキュメント。彼女は自分の心の暗渠を今後も書き続けるとここで宣言している。もう一つは沢木耕太郎の翻訳ノベル「神と一緒に」だ。英国の作家トニー・パーカーと言う人の「殺人者の午後」飛鳥新社刊の中の一遍である。人間の心のもの凄く深いところまでおりていった表現者T・パーカーのドキュメントに近い小説なのです。沢木はこの翻訳作業に10年以上を結果要したようだ。さらに、「講談社ノンフィクション賞」の選考会の公開ドキュメントなど、全体に新しいモノへの「試み」の意気が感じられる。「g2」の2号目以降、どうなるのか気になるが、ノンフィクションのラジカルな成果の場として期待したい。

さて、久しぶりにベトナムについて書いてみるか。まあ「ベトナム私信」だから、ベトナムから書いて送ればいいわけで、別にベトナムの関連事項にこだわることも無いが、ハノイに年間100日以上は居る人間として、何か書かないとね。日本のテレビとか、CM関連だけじゃ・・ね〜。昔取った杵柄というか、そう言うことばっかりの50才までの仕事や生活だったから、どうしても気になることがメディア関係に多くなるんだ。
さあ、さて、オートバイのことでも行こう。
今から書くことのデータは、ベトナム政府に問い合わせたわけでもないし、日本工業会からデータを取り寄せた訳じゃあないので、僕の「目換算」と現地の「評判とか噂」が基本だから、まちがいがあったら、ごめんなさい。

まず、「HONDA」のおおさが凄い。言うまでもないね。僕の目換算だと少なくともハノイの市内を怒濤のように走ってる65%はホンダだね。なぜ、ホンダが多いかというと「伝聞」では、数年間使用後の下取りシステムが整備されており、例えば1000ドルのバイクが、2年乗って、800ドルで、中古に出せるということのようだ。ヤマハやスズキは中古システムがそうなっていないらしい。とくにヤマハは、デザインが格好いいので、若者に人気がたかいのだが、下取りの時点で、急激に価格が下がるので、そこいらへんが販売力のもう一つの高まりに繋がらないらしい。韓国のSYMとかいうブランドが、伸びている。耐久性はどうだか知らないが、極めて安価なので、台数の増加は勢いづいている。ついでに言うと、既に日本よりも携帯電話の所持率が上回ったベトナムの携帯のメーカの大半はノキアだ。これも目換算で80%ぐらいだろうと思う。ソニーエリクソンとか誰も持っていないもの・・。ホンダより、寡占率は大分上ですね。近々ドコモがベトナムにくるようですが、どのような魂胆か良く分かりませんね。いままで、まさにドメスティック企業として日本政府を通じて「拝外的」な動きしかしてこなかったのに。お陰で通信分野は、「日本は、ガラパゴス」と揶揄されていましたよね。

さて、かつて中国にホンダの偽物工場が幾多もあった。その中の最有力偽物工場は品質も高く、ホンダの技術者もその技術のレベルとホンダへのこだわりに舌を巻いていたとか。で、心の狭い日本の普通の企業なら、裁判に訴えるところを、さすが世界のホンダですね。創業者の技術者魂がいまだ、健在なのでしょう、「そんなにホンダが好きで、ここまでの技術があるんだったら、仲間になろうよ」というわけで、訴えるどころか、買収し傘下に治めた訳なのです。したがって、この会社からの偽物ホンダで溢れていた我がベトナムは、次の日からめでたく本物のホンダとなったので、ござい〜〜。というわけで、ベトナムのホンダは、もちろんホンダの工場もベトナム国内にできたこととあいまって、全部本物となり、ベトナム国民の数千万人が、毎朝安心して快適なホンダでご出勤ということになったのです。本当の話です。

洪水のようにドドドドッと走っているオートバイもよく見ると、いわゆるオートバイ系(120CC前後のものが多い)とスクーター系のふたつに分かれる。タイヤが大きいのがバイクで小さいのがスクーターと僕は見分けている。でいま、このスクーター系がかなり増殖。例によってぼくの目換算ですが、30%ぐらいにはなっているように思える。めざましいのがイタリアの名車VESPAだ。70万80万円するのに、凄い勢いで増えていますね。ホンダやヤマハも負けじとスクータータイプを出している。乗っている人の多くが若い女性です。オフィスウーマンが増えていることとパラレルなのでしょう。スカートを身につけたら、やっぱし、またがるオートバイじゃあないでしょうからね。ちょこっと座れるようなスクーターが断然機能的です。ベトナムの女性の騎乗スタイルは極めて姿勢がいい。背骨垂直で、両腕は地面とまったく平行に。乗り慣れないひとが、慎重に慎重に騎乗している風だが、そのキチンとした姿は、他の仕草同様にベトナム人の女性たちの几帳面さを現しているようで、見ていても微笑ましいものが在るんですよ。

昨日、ブオンと娘のリンと、ブオンの友人のファッションデザイナーのフックさんと四人でアヒル料理を食べに行くことになった。いつものことだ。ブオンのVESPAが今日使えないので僕とブオンは自転車で、リンはフックさんのバイクに乗せられて、出発。距離は高田馬場から、新宿ぐらいの距離で、自転車では、結構距離がある。その道程を思い切って自転車で走ってみたわけです。時間は18時。ラッシュ時だ。オートバイと自動車の津波というか、大洪水と言えばいいのか、その流れにはいると凄まじいぜ、ホントに。外から見るのとか車中にいるのとは、まるで違った。まず、トヨタランクルなどアウトドア風の4WDの曲線ボディー車が何台も何台もぶっ飛ばしながらグイグイ車線を変えてくる。この種の四駆がいま、わんさか花盛りなのである。

それに負けじとばかりに、2,3人が乗った若造のバイクが、また時には5人ぐらい乗ったガキのやんちゃ組が、ブイブイ飛ばしてくる。親父やおばちゃんのバイクも結構に軽業で、僕の中古自転車の脇をすり抜ける。それだけじゃあなく、僕を追い越し、僕の前でハンドルを切る。だから、僕の自転車の前輪が彼らの後輪に何度も触れそうになった。ホントに・・。生きた心地がしなかったぜ。一度、信号が赤になって、僕が先頭でストップしたことが在った。やおら後を振り替えると、闇夜に数千の色とりどりのヘルメットが鈍く光っている。多分、その後も同様にヘルメット軍団が隊列を組んでいるわけだから、気の遠くなる数のオートバイの群れが、アイドリングして、信号青を待つ。青になる前から、ブイ〜〜ンと数台が走り始める。つづいて、どっと全部が唸り出す。真っ青な僕も仕方ないので死ぬ覚悟でペダルに力を込めて発車した。

ブオンは時々僕の自転車に接近してきたり、追い抜いていたり、バイク騎乗と同様に姿勢良く背骨垂直にして、すいすい洪水の波間を泳いでいるように進んで行く。場所が場所だけに、緊張して一生懸命ペダルを漕ぐ僕を見ての「さあ、行くわよ〜」みたいなスマイルは、とっても凛々しく惚れちゃうなあ。で、アヒルづくし料理をたらふく食べて、例によってフックさんのお店にいって、リンとブオンがあれ着たり、これ着たりのファッションショー繰り広げた。時間は8時ぐらいなのだろうか、近所のおばさんや若奥さんも、パジャマ姿でお店に出入りして、とっかえひっかえして、2,3点買っていく人もいた。先日、上海では「パジャマで町に出ないように」とお触れが出たそうですが、ハノイでは堂々、毎日近所の買い物はパジャマ姿です。昨今はハノイは寒いし、イタリアン式のPコート(立て襟)が、売れ筋のようで、フックさんのデザインも、かなり冴えていて格好いいモノが多かった。

僕は東京でロードサイクルのような自転車で毎日走っているので、そんなに疲れはしなかったが、かなりの冒険譚であったのでした。ブオンは「あんな混んだ道に自転車で出たのははじめてだけれど、楽しかった」とか、ダックを頬張りながらお店で屈託もなく言っていたが、今日になって、流石疲れた様子であった。でも、優しさに溢れたスマイルは、今日も変わらない。嬉しいね。

2009年11月11日水曜日

僕は保守なのであった / 検挙率の激減の現象は一連の低迷とパラレル

■最近「34才の女」とか「35才の女」とか、アラフォー(にやや近い)詐欺女子の活躍がめざましい。草食系男子の増加とか、冗談言っているうちに肉食系を突き抜け「破滅系」女子がいつのまにか華やかな町の裏道で、静かに増殖していたと言うことだろう。共通点は、何のためらいもなく大の大人の男性を殺していることだ。いままでは、詐欺は詐欺、借入金の踏み倒しは踏み倒しで、独立していた犯罪であったが、今回はわりに自然な形で殺人も混在させている。もの凄く乱暴に相手にリセットを架けている。計画的なばれない詐欺とか、逃避行とセットにした詐欺や踏み倒しは、よく在ることは知っている。こういうのが自然だ。おそらくニュースにならないレベルや提訴さえされていない事件はおそらく数十万件いな数百万件も在るんじゃあないかな。

今回は、ばれる程度の詐欺だからリセットしている。つまり、ばれないように計画的に芝居を徹底させる詐欺行為がめんどうだからの殺人なのだろうか。踏み倒しも、「返してくれ」と借金取りが来たら、いとも簡単に殺している。どうも、彼女ふたりは、「詐欺や踏み倒しは、ばれやすいが、むしろ殺人はばれない」と確信を持っていたかのようである。
警察もなめられたものである。警察の委託の司法解剖の医者が少なくて問題になっているのは解るが、「暴行の跡が明確だけど、事故死」とか「遺書らしきものが在ったので自殺」とか「足跡が本人のモノしか発見できなかったので自殺」とか、多くの警察署が予算がかかるもの、面倒そうなものは蓋をしてともかく「事件性はない」と目を塞いできたことがもろに露呈している。さらに、捜査力の衰え、プロの不在は明白だ。破滅系が更に増殖すれば、発想の及ばない警察の混乱は火を見るより明らかだ。

今から何十年か前、弟とテレビを見ていたら「日本の殺人の検挙率は99%ぐらい。それに引き替え殺人の多いブラジルでは、20%程度」とアナウンサーが言っていた。僕と弟はおおいに笑い遅れた国ブラジルをなじったものだ。そのJAPANは、いまどうだ?自然死、自殺、事故と処理されてきたものが、実は殺人であった事件が山のようにあるのではないか。真剣に捜査しているのだろうか。捜査技術も、他の業界と同様に格段と低下しているんじゃあないだろうか。彼女たちも元は「普通の少女」だ。第一回目の殺人の時はおそらく慎重に計画的に何か小説などを参考にして、「丁寧」に行ったに違いない。まさに、それが”運悪く”、ぼんやり警察は、執ような捜査もせず、すぐに遠くにいってしまい、いつの間にか「事故死で処理」とかの情報が当人たちに風聞として、もたらされたに違いない。
「殺人は意外に簡単だ」とそのとき、次の計画のイメージと共に彼女たちは、その甘味な祝祭を体験したのだろう。彼女らはおそらく、5〜6人の殺人を犯している。そう言う意味では死刑は抑止力になっていない時代にほぼなりつつあるようだ。それにしても、詐欺罪などで逮捕されている二人の写真や容疑者としての実名を新聞とテレビが隠している理由がわからない。実名を出している週刊誌の販売促進に寄与しているだけとしか思えないな。

■ ところで、講談社が「月刊現代」の後継雑誌として9月に創刊したのが「g2」だ。嵐山光三郎が週刊朝日で絶賛していたので、日本にいる娘に購入を頼んでいた。数日前彼女からもらって、確かにふむふむ。創刊号の宿命だろう、熱気溢れて「閑話休題」風な階段の踊り場的休憩所もない一気呵成のものであった。表紙も漆黒。時代離れしたエネルギー感覚をまともにぶちかまそうとしているようだ。いま、ハノイで、読んでいる。僕は創刊号をかつて集めていた時期がある。「ダカーポ」「フォーカス」、変わったところでは河出新社の「終末から」とか、30冊ぐらいはもっているんだぜい。さて、2号目はどの程度、落ちるか。

■ 先日NHKで「新日本紀行ふたたび」をやっていた。その日は木場・深川がテーマのようだ。ご存じの方も多いと思いますが、昭和30年代、40年代の最優良テレビシリーズ「新日本紀行」は、富田勲の音楽と共に我々の世代には、お馴染みですね。で、この「ふたたび・・」はその30〜40年後の変化を検証し、日本の社会の移ろいを描写するモノ。たまにしか見れないが本当に意義深く優良な作品が多い。

「Google」で「新日本紀行ふたたび」を検索すると、音楽を聴けるボタンも付いていますよ。今度は歌詞つきだ。何とかという琵琶奏者が演奏とボーカルをやっている。これがちょっとおどろおどろしさも加わり、あの富田サウンドが正に過去を振り返るのに相応しい音階を奏でている。とても良い。さて、その木場は大いに変化した。何十とあった材木屋はほとんどが大型高層マンションに変わって、風景は激変している。人も世代が変わり、72年に撮影した当時若者の一人であった職人はいま、「ふたたび」では、初老の棟梁に。時代の変遷が明瞭に描写される。しかし、変わらないモノは伝統をしっかり受け継ごうとする庶民のしっかりとした意志だ。

木場には昔、流れる水路の材木に乗り製材所に材木を寄せる職人を川並さんと言う職人衆がいた。その行き交う風情は江戸の庶民文化の一つだった。川並さんは角材にのり、粋と腕前を競ったものだ。この川並衆のはっぴ姿。鳶のスタイル。火消し衆も含めた江戸のいなせや粋の極みと言って良いでしょう。さらに、木遣り(きやり)歌は泣かせる。江戸の労働歌であったものが、各地の風土と交わって伝播していったもののようだ。2009年の現在のシーン、角乗り(角材に乗る)を学んでいる若い衆の結婚式で歌う数十人のいなせな男衆。労働と伝統を歌い上げる凛とした男衆の木遣り。この美しさと人々の伝統を守る意志から畏敬すら感じた。テレビの画面に引き込まれ自然と熱いものがこみ上げ、大粒の涙となって僕の頬を伝って零れた。江戸のデザインの斬新さ、江戸の文化の格好良さ。雅とはちがう庶民の洗練。

女房自慢になっちゃうが、これらの江戸前の美しさを僕に気がつかせてくれたのも、亡くなった晃子だ。西洋ヒューマニズムに基づいた単なる左翼急進派であった僕に、70年代初期から無農薬・有機農業の大切さを教えてくれたのも彼女だし、歌舞伎や江戸文化さらには日本の絵師、彫刻師たちの事、さらに山登り(登山というほどじゃあないが)、自然を愛でたりと、多様な価値や視点を学んだり、関心を持つ切っ掛けは全て彼女に負ったものなのである。
片や、言わなければならないのが僕の親父の事だ。彼は青学や早稲田、日本医科歯科など7つの大学に籍を置いたことがある強者であり、最終的には、早稲田の文学部心理学科のマスターを出て、故郷仙台の高校教員になった人物である。

心理学科では一年後輩に本明寛さんがいたらしい。親父はこういう環境で学んだインテリゲンチャーなので、いわずながな西洋的金縛りから抜け出せないのだ。どんなに知識欲があり、学習に励んでも日本やアジアの歴史の面白さとか価値に気づかない。気づかないだけならまだ良いが、「遅れた」ものとして、自分のテリトリーから無視し排除する傾向が強い。だから、僕が育った環境はわかりやすくいうと「クラシック音楽は良い。民謡や歌謡曲は程度の低いもの」という、絵に描いたような戦後(アメリカ)民主主義の楽天的なインテリの家庭環境であったのだ。親父は、熱心じゃあないがキリスト者だし本当に善良な人物。93,か94才あたりで、まだ”ご存命中”だ(笑い)。今頃彼のことをとやかくいうつもりもないが、日本に生まれ育った僕が日本の良さに触れ始めたのは22,23才、晃子と付き合い始めてからだ。だからやはり、慚愧な気持ちが幾分残る。僕の日本(亜細亜)回帰的保守的感覚は影響の大きかったこういう父への反発の中で次第に育ってきたものだ。

小沢さんが、昨日あたり、「キリスト教は排外的・・」とか言って物議を醸しているらしいが、彼のそれはめずらしく、正しいね。好戦的お節介屋キリスト教と、ホワイト中心の民主主義、そして貧乏になる自由だけが横溢している世界資本主義が三位一体でこの数百年地球を覆って来た。本当に不幸なことだ。この呪縛から抜け出さないことには、暴力と差別と戦争と資本抗争にみまわれているこの美しい星に未来は決して来ない。

2009年11月6日金曜日

君との出会いは、奇蹟だった

ヤンキース松井がメジャーで遂に日本人として初めてMVPを取った。素直におめでとうと言いたい。今時、彼ほど謙虚さが身に付いている青年(35才は青年でないかもしれないが)は、他にいないだろうね。彼ほどの人物になると、強運もあろう。たしか、7年前の春のデビューの試合でいきなりホームランをかっとばしたよね。戦後日本の復興のシンボル「ゴジラ」の名前を戴く人物に本当にふさわしいスタートであった。ただ、もっと凄いのはその後だ。その後の怪我や不調は、どのように彼を苦しめたのであろうか。おそらく挫折体験がないはずの松井がめげずに努力の鬼として、復活を遂げたと言うこと、これが一番賞賛されて良いことであろう。松井の努力には、素直に評価したくなる。そう言う魅力を寡黙ななかに持っている。尊敬する野茂さんにつながる人物の譜系だろう。

イチローは、凄い。いわゆる天才なのだろう。更に日興コーディアル証券のCMにも取り上げられているが、この天才は松井同様努力の人なのだ。CMで「毎日の繰り返しが、イチローの場合、何故未来に繋がるのだろうか」とかCMのナレーションが語っている。毎日の規則正しい訓練の繰り返しを継続できてこそ、輝かしい未来が近づく、基本中の基本をイチローは毎日たゆまず継続しているのだ。でも、何故かイチローはちょっと俗っぽい。軽薄で鼻につくものの言い方をする。野球の面白さは、ホームランだけのアメリカベースボールより、スピードとRUNと、レーザービームのイチロー流の方が好きだけれど、彼は話すとどうもいけない。女子アナ出の女房の影響が悪くでているのかしらん。いつも「今日は特別の日です・・・」とか大抵嫌みな話し方で、僕は常に鼻白む。

先日、NHK見ていたら、小田和正と財津和夫のお互いの心の交流というか、音楽の交流と言った方が良いかもしれない、アマチュア時代からの付き合いのドキュメントを放送していた。二人とも僕と同世代だし、特に小田さんは、僕の故郷仙台の東北大で建築を学んでいたので、なんとなく昔から興味は引かれていた。軽妙洒脱な彼独特のトークは昔から有名だが、年輪を重ねた50歳代以降のは本当にただ者じゃあない。確かNHKBSで2001年か2002年頃に放送していた3〜4時間のライブは、見応えがあったし、晃子と二人でとても楽しめた記憶がある。

このドキュメントは語っていた。今回、財津から初めて小田に曲を依頼したらしい。
小田は詩も書いた。ドキュメントの後半にこの作られた曲が流れた。財津が歌い演奏して作成した試作CDを小田がじっくりと聞き始める。その時初めて、曲全体を通して聞くことができた。その中に「君との出会いは奇蹟だった」とある。仮のタイトルもそうだったかもしれない。それって、インパクトがある言葉でもないし、気が利いた高校生ならそのぐらい書けそうなフレーズだ。この言葉をきいてしばらくして、ぼくは何か、そうだよね、そうなんだよね、とだんだん引き込まれていった。とりとめない普通の様に見える言葉に深みがある上手さ。小田さん、流石だね。こころが解放されたような気分で、この「君との出会いは奇蹟だった」をゆっくりリフレインしたんだ。そうだよ、やっぱり晃子との出会いは奇蹟であったのだ。はるひや一行との出会いも奇蹟であったのだ。親父とお袋との出会いも、たくさんの友人たちとも、手塚治虫先生と同じ空気を吸って生きて来れたのも、”チェ”という異国の革命家と1950年代60年代同じ地球上に存在していたことも、僕が58才の時ベトナムという国でVUONGという愛すべき美しい女性と出会えたのも奇蹟なんだ、そうなんだね。かけがえのない人々との出会い。神の作意でも、赤い糸に引かれたのでもなく、偶然という必然に形作られた奇蹟が僕の頭上に無尽に降り注いでくれたんだね。光のように。
ありがとう、宇宙の森羅万象。

もうひと月ぐらいは経つだろうか、音楽家加藤和彦さんが自死した。「音楽に於いて、もうやることがない」と語っていたようだ。あの「帰ってきたヨッパライ」で鮮烈にデビューしたのは、確か僕が大学一年の冬に仙台に帰省していた時であった。1967年末〜1968年1月頃、仙台の町でもこの曲は町のあちこちから聞こえていた。テレビの音楽番組では、加工した音楽だからライブができず、画面を色とりどりにしたり、サイケな面白い演出でテレビにクルセダーの3人は出ていた。でも、すぐに「イムジン河」とか、辛くて悲しいような楽曲などの方向に変わっていった記憶があるね。作詩の北山修は、精神医になって離れるし、元々友人でなかったはしだのりひこは路線の違いとかで別れていくこととあいまって、加藤はもっと先鋭的に歩をすすめ、サディスティックミカバンドへと昇華してゆく。

ぼくは、別に加藤さんのフアンではなかったが、加藤やミカバンドに理解を示す妻晃子の影響もあって、注目していた。と言うより、感心は失わないでいた。今後、加藤さんは世界に初めて日本のロックを輸出し始めたアーチストとして、かつプロデューサーとして、日本ロック史に大きく刻まれよう。当時このクルセダーの周りには平凡パンチの有名編集者になった松山猛さんも作詞で参加していたと言うから、この一群は音楽における革命を目指していたのかもしれない。もし、そうであるなら「前衛」加藤和彦の死は、ろくな音楽が生成してこない今、無念の死と捉えるより仕方ない。それであっても、彼もまあ若者じゃあないから、心の中はあくまで静謐であったろう。まさに音や言葉のない世界にゆっくり旅立ったのだと思う。

そう言えば、1976〜7年頃、つまり33年も昔のことだ。そのころ、東映の一員でもいたが、アルバイトで、チューリップのPRドキュメンタリー作品の助監督をしたことがあり、財津和夫さんらと、3〜4ヶ月行動を共にしていた。僕も財津さんも、お互いに27,28才ぐらいであったと思う。そのころ大ヒットしていた「心の旅路」。その美しいメロディーが何処からか聴えるたびに今でも当時の撮影の現場とか、会話などが思い浮かぶ。これも僕の出会いの奇蹟の一つだね。

2009年11月3日火曜日

「救うのは太陽だと思う」

” 救うのは太陽だと思う ” 鮮烈だね。CMとして極めて秀逸だ。カンツォーネ「オーソレミヨ」がバックで流れる中を吉永小百合さんが、意志を込めた口調でスクウノハタイヨウダトオモウと語る。今春から流れ始めたような記憶ですが、何度耳にしても「良いねえ」と感激してしまう。この一言だけで、これからの時代の社会システムの構想の全てを語っているかのようだ。企業としてのシャープが何処まで、太陽光発電を含むグリーンニューディール産業を構想し、強い意志を固めたかは、不明だが言葉が持つ強烈なイメージを毎日1億人の市民にテレビを通して提案し続けている責任は果たしてもらいたいと思う。インパクトが強いといわれる映像メディアをすら超越して僕らの心に響くラジカルな言葉、現代的なフレーズだろう。CM史に残る名作といえる。

ついでに、気がついたCMを。けっこういけてるのは、今夏まで放映していた資生堂の「かわいいは、つくれる」かな。まさに身も蓋もなくて、最高だね。かわいいも、キレイも作っちゃえるってわけだから、あけすけで凄いです。化粧品会社の本音だし、実は女性たちの本音でもあるので、「もともとそんなこと知ってる」男としての僕は見ていてクスッとなる。これで”ブス”で有名だった南海キャンディズの静ちゃんがいっきにメジャーになったし、何でもかでもオープンな時代にふさわしく、みんなあけすけで、てれずに、いや、恥ずかしさも棚上げにして、ハッピーとなっている。電車の中で化粧に勤しむ女性が結構いる現象と同列な位相だろう。だって、とりあえず、うわべだけでOK、とみんなで認め合っているんだもの。

同じく資生堂の最近フジテレビを退社した滝川クリステルも加わった「椿 TUBAKI」のセクシーでリズミカルに揺れる豊かな黒髪と後ろ姿。ウーマンたちの眼差しやボディーラインが僕の目をいつも奪う。SMAPの楽曲もなかなかだね。僕の好きな鈴木京香(仙台出身)とか、蒼井優、仲間由紀恵もいるし・・・。髪は女の命というのは、多分世界共通だろうね。ベトナムも、文化として女性はロングヘアーに常にこだわりを持っている。長い黒髪とアオザイ。CM的最高の絵柄だなあ。「椿」のベトナム版の作成を期待したいものだ。

で、読書の秋で、例のドストエフスキー亀山郁夫訳「罪と罰」はいま、2巻目の丁度200P。加藤周一さんが亡くなって、そろそろ一年だなあ、と思って「日本文学史序説 上巻」買って、20ページほどよんでいたが、引っ越しの騒乱とぶつかって、なぜだかこれだけ見つからず、ストップ状態。書籍を入れたままの段ボールの山に紛れたのかも。もし、紛れたのなら来年夏移転までは、封印状態だな。先日、馴染みの病院にいったときに、なぜかうかつにも、カバンに本が一冊も入っていないことがあり、1時間も待合室でぼんやりできないから、慌ててこの病院のそばの本屋へ。花小金井駅のそばだから、本らしき本が売っていない。受賞ものとか、勝間和代とかのはやりものしかないのには困った。

が、文庫コーナーが在ったのでちょっと思い出して中勘助の「銀の匙」を探したが無いので、どうするべえと考え、じゃあ読んだこと無い作家にしようと思い山本周五郎の短編集「日々平安」に。9月ぐらいにNHKでやっていたドキュメントに灘校の国語の元教師がでており、驚いたことに灘校の三年生の国語の授業は一年間この中勘助「銀の匙」に取り組むだけなのだという。この先生は30年間ほど、毎年それ一本槍で、受験教育いっさい無しでやってきたのだという。受験学習をそれなりにやらなくてはいけないという世間的誘惑や教員組織の圧力に負けず、生徒も生徒だし、親も凄いが、この老教員の一徹さは教師の鏡だぜ。定年で引退して、20年近く経ったようで、50歳代の企業幹部や官僚の幹部、学者になった人たちがこの老先生の一年間の国語の授業の豊かさと、「本物の授業」の偉大さをそれぞれに語っていた。教え子の中の一人は灘校の国語の教員になっており40歳代の彼は「源氏物語」を1年間一本槍でやっている。老教員の本質を学ぶ伝統を継承しているらしい。「流石、灘校」と脱帽だね。

僕が仙台二高の時、国語の担当は担任でもある辺見裕先生で、あの尊敬する作家辺見庸さんの兄貴であった人だが、僕が2年生か3年生の時分に「日比谷高校や灘高では、教員がカリキュラムに沿って教えたりしない。できる生徒が教壇にたって、授業を展開している」と言ったことがあった。「都会にはスゲー高校があり、スゲー連中がわんさかいるもんだ」と僕らは一斉に驚嘆しざわついたものだ。あるとき彼は国語の教材に関係なく天才寺山修司の(残念ながら詳細は思い出せないのだが)「少女」と「半島」に関するものの短歌を取り上げ、大分時間を使って、魚群相手の夜の漁船のランプのように煌々と、僕たち16才に現在からの出口の在処を暗示させていた。懐かしさと同時に良質な教員たちの知性とか努力とかが僕の脳裏に甦ってくる。「今後思想家トロッキーが見直される」と授業でぼそっと語った世界史の佐藤英樹先生もいた。お二方とも、既に亡くなられている。
■《ブログご高覧感謝》
ついでに僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
多いのは一日1400名閲覧もあります。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

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