2010年7月3日土曜日

★ 福翁自伝の痛快さ / 戦後の僕らのバイタリティー

いま、福沢先生の「福翁自伝」を読んでいる。まもなく終わる。思い起こすと、この本は息子が塾高に入学したころ、女房が読んでいて勧められ、ちょっと読んだが、なぜかすぐやめていた。何故なのか思い出せない。こんなに痛快で人を爽快にさせる本はそう滅多にないのに、当時なぜ気付かず、たぶん10ページ程度で中断したのか。まあ、いいや。福沢諭吉という人物が日本の教育や社会を形作る規範などに与えた影響は本当に強烈だ。まさに2010年の僕が読んで、このラジカリストの深さに呆れるよ。現代人の僕を卒倒させるほどの本質を堂々と謳っているのだぜ、江戸末期から明治中期に。今更ながら、僕が言うのも恥ずかしいが、慶応の人は幸せだよ。この「福翁自伝」とか「学問のすすめ」などをたぶん中学高校で読むのだろうと思う。慶応出て、バカなやつも結構知ってるが、健全でまっとうな人物がすぐれて多い。早稲田出て良い人物は呆れるほど少ないぜ。だから早稲田にいた妻晃子が、息子を塾高に入れた理由もわかるよ。
慶応にはこの啓蒙家で冒険家で教育者で語学者の福沢の意志が今でも脈々と引き継がれているからだろう。日本における自立した「市民」第一号と言っていいと思う。総理大臣やって「在野」を語る大隈さんとは、いっちゃあ悪いが、比較できない才覚が福沢先生にはある。
と、いいながら、

■ また、ブログ書いていないので、またまた、原稿の一部からコピーしてきた。ベトナムで発行予定の青年向け著作さ。今秋ベトナム全国の本屋に並ぶ予定だ。
・・・
戦後の僕らのバイタリティー
日本は明治時代、西洋に追いつけ追い越せで富国強兵を歩み、1894年の日清戦争と1905年の日露戦争という大国との戦争に勝利した。その自信で比較的のんびりしていた大正時代をすぎ、昭和に入ると、国力にますます傲慢(ごうまん)さが現れてきていた。「神の国」は負けるはずがないと気負ったのだった。軍部の台頭と天皇の神格化がだんだん日本を覆うようになり、中国や朝鮮への出兵は、庶民レベルでさえも当然視されてきた。そして現在の北朝鮮と似たような国家になってしまったわけだが、北朝鮮より悪いのは、“やらされているのではなく、自らそう信じて協力していた国民が多い”ことだった。実はここが、国民性であり、日本人の問題点でもあるのだ。戦後、うまく転がると復興の国民的なパワーとなるのだから、国民性とは、実にやっかいなものなのである。

アメリカは、負けそうな日本に追い打ちをかけるように、1945年8月に広島と長崎に原爆を試験投下した。その前の3月には東京に猛爆を加えて、10万人を殺した。戦争にも国際法があり、関係ない市民を殺害した場合、罰せられる。それにもかかわらず、「民主主義の国アメリカ」は、ジェノサイド(皆殺し)を日本ですでに実行し、その成果をまた、1960年代に君たちの国ベトナムで再現した。歴史的にこのような市民を巻き込んで皆殺しにする犯罪的な戦争を繰り返し、罰せられない国はほかにないぜ。まあ、この話は別な機会にゆずり、日本の戦後のバイタリティーにテーマを戻す。

僕は1948年生まれである。1945年8月に敗戦なので、3年後に生まれたわけだ。日本では1947〜1949年生まれを団塊の世代(ベビーブーマー)という。戦争がおわり、軍国主義が壊滅し、明るい青空の下、結婚がブームとなり若い夫婦が子供を次々に産んだのであった。一気にそのころ急激に200万人の大量の赤ん坊が数年間続けて生まれた。日本ではこの世代を団塊(だんかい)の世代という。貧しくて、何もないが愛と将来への希望にあふれていたと、親の世代はよく言っていた。
そんな中で日本の経済や産業は立ち上がっていったのだ。東京無線工業(ソニー)やホンダ、京都セラミックなどを筆頭に無名だが、バイタリティーあふれる企業が胎動していった。流通ではスーパーのダイエーなどが、勃興(ぼっこう)していた。その頃の国民的な娯楽は映画とラジオであった。家族そろって時々行く映画とか、夕方に、工場から帰ってきたお父さんと一緒にラジオをきくという「団らん」は、戦争のない、平和な小さな幸せであった。ベトナムの若者は覚えていないかもしれないが1990年代に日本の有名なテレビドラマ「おしん」が放映され、ベトナムだけでなく、アジア一帯、ロシア、ヨーロッパまで大反響を巻き起こしたのだ。あの苦しい生活をしながらも明るく、がんばって幸せをつかもうとする少女の姿は、世界に感動を与えたのだ。じつは、まさに、「おしん」同様の生活環境の中で日本人はこぞって、幸せを模索したのさ。みんなで協力し合ってね。

で、当時の明るさの象徴は、1949年の湯川秀樹博士のノーベル物理学賞の受賞だった。自信が無くなっていた国民にとって、「やっぱり、僕らはすごいんだあ」と思ったものだ。この自信は大きかった。
このころ、1950年代、我が日本の中小産業はいかに安く作るかで健闘していた。大学との連携した研究開発はまだまだ行われて居らず自前で思い切って優秀学生を集めて研究部門を拡大していった。オートバイを、トランジスターを、セラミックを、自動車をいかに安く合理的に、早く作るかに腐心(ふしん)した。何を作るかではなく、“いかにつくるか”の競争であった。だから、いまでは、中国が世界の技術の真似をしてひんしゅくを買っているが、当時の日本製品は真似で成り立っていたし、すぐ壊れるで、有名であったのだ。まさに同じ事が起きている。でも現在の中国の技術の剽窃(ひょうせつ)は、乱暴で、その上ずるい手段で技術を盗むことを国が後押ししていると聞く。日本は「基本構造」はまねたりしたが、それを自分流にアレンジして内容を進化させてきたんだ。身勝手中国企業とは違うところだ。
日本は、真似をいち早く脱して、物作りといわれる「最新技術と職人芸」の合わせ技のような独特のシステムを各企業それぞれが編み出していった。

大変有名な教育者であり政治家で慶応大学の創設者の福沢諭吉の「福翁自伝」にこんな事が書いてある。「江戸時代にアメリカのペリーが黒船で日本に来てから、たった7年後には、日本人だけで咸臨丸は太平洋をわたった。黒船を見てから航海術を学習し、アメリカに行けるまでたったの7年でやり遂げる日本人の好奇心と探求心そして勇気は特別な物だろう」と。そういう探求心や好奇心が日本人のエンジニアリングの基礎となっている。1000分の1ミリの違いを見抜く職人の指先、コンピュータでは、表せない「ゆるみやあそび」を確保する微妙な感覚、音だけで聞き分けられる旋盤の作業、水を口に含んだだけで、全国各地の水源を見分ける水道技師など現場の匠(たくみ)たちは、いまでも元気だ。だが、現場での後継者の育成がうまく追いつかず、「ものづくり大学」のような教育システムに環境は移行しているが、器用でがんばるベトナム人に技術をじっくり教えて、育成したいと考えている企業や中高年のエンジニアたちは少なくない。

1950年代後半から、高度成長期に入った。テレビや冷蔵庫はすでに行き渡っていたが、象徴的なものは家庭の3Cだ。「カー」であり、「カラーテレビ」「クーラー」であった。日本の産業はまさにアメリカを追い越そう、追い越せると自覚し、結果、日本のオリジナルな製品が世界を覆(おお)った。ニコンやアサヒペンタックスのカメラであり、セイコーの時計であり、蛇の目やJUKIのミシンであり、ソニーのテープレコーダーなどであった。それを後押ししたのが、何を隠そう1964年の東京オリンピックであったのだ。
郊外には団地といわれる巨大なアパート群が建築され、新幹線が完成し、都市には未来型の高速道路が、あふれた。
1ドルがまだ360円の固定相場であり、欧米世界も東洋の小さな国の産業を競争相手とはせず、妨害も無かった中でのラッキーな日本の世界デビューであったのだ。いわばキャッチアップ(CatchUp)ビジネスモデルの最初で最後のモデルかもしれない。

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