2011年10月31日月曜日

ヤマダ電機の中国人、ソフトバンクの中国人

現在日本には約80万人の中国人が在留していると言われている。もちろん、研修・実習で来ている高卒の労働者も多いと思われるが、大卒のエンジニアや営業や販売職の元々文系出身者も多いだろうと想像出来る。これは、調べないといけないけれど、半分以上は大卒の若者、専門学校で特殊技能(ゲーム、アニメ、マンガ、料理、IT技術など)をみがいている若者と思って良いだろう。もの凄い量だね。前にも書いたが江戸川区の大手アート系専門学校のマンガ専修クラスにいったら、何人もの学生が韓国人であったり中国人であった。日本でマンガの基礎を学んで、母国でデビューしたいと言っていた。
     * この項で大卒とか高卒とかをくどく書いているのは日本人からすると何となく違和感もあるでしょうが、日本国入管局での扱いが峻別されていること、アジア各国の社会において、区別がはっきりしているので、ここでは敢えて明確してに書いた。他意はない。

それに比べて在留のベトナム人は現在全部で38000人ぐらいだけだ。まだまだ少ないね、EPA締結したんだから、どんどん交流というか、来てもらいたいものだ。ベトナム人の留学生は3000人ぐらいだし、大卒エンジニアやビジネスマン(ウーマン)が5000名ぐらいだから、残りの3万人は研修・実習の労働者ということになる。中国人とは桁が違う少なさだ。若い韓国人も昔からの在日者(大分減少して40万人ぐらいらしい)とは別に20万人はいる様だ。これも大卒の優秀者が多くを占めているように思う。もちろん、中国と韓国の在留者は、大震災の原発事故以来、一割程度全体が減少したので、上記の数字は幾分もっと低めに見た方が良いかもしれない。

2,3日前買い物があり、久しぶりに新宿の新しいヤマダ電機にいった。携帯売り場で、あれこれ商品見たりしているときに僕の前に現れた美女は、とても親切で、僕の現況の契約形態ダブルホワイトから、単なるホワイトに変更した方がいいとか、機種のガイダンスとか、とても良い感じ。ぼくはもちろんすべからくすでに彼女の名札を見ていたので、中国人であることは認識していたが、流ちょうな日本語を褒める前に驚いたのは日本語による商品知識の豊かさだった。ソフトバンクの携帯のセールスというか、販売員として、ほぼ完璧に仕上がっていた。日本語もかなり上手い。たいていの人は、名札が目に入らなければ、全く外国人と気づかなかったであろう。聞いたら、日本に在留6年目で、4年前に日本語能力試験の1級を取得したといった。内陸地の何とかという田舎出身で、大学も「たいしたことない」地方大学卒と言った。

で、彼女では解決出来ない僕からの課題があり、彼女が連れてきた上司の女性も中国人であった。更にハイレベルな彼女ももちろん大卒で1級の取得も大分前だと笑った。この二人は、ヤマダ電機の店内だが、ソフトバンクの社員であり、「よくわからないが、あちこちの大型店舗に中国人は結構います」と、どっちだったかの彼女は教えてくれた。重要な事は、彼女たちは中国人の買い物ツアーの担当スタッフと言うだけではなく、僕のような日本人一般相手の通常の店員であることだ。

その後、僕は階を変え、HP社のプリンターのインクを買いに行った。そこでも僕の担当は中国人で、彼女はヤマダ電機の社員であると言った。彼女も1級は数年前に日本で取得したようだし、大学院で経済を学んだと言った。凄いね、ビジネスの最前線は完全に国際化されているということだ。くり返すが、中国の富裕層の買い物ツアーの担当店員としての始まった中国人の大卒者の採用は既にその域をこえ、日本人相手にしても耐えられる「家電に詳しい」一般店員になっている時代がはじまっているということだ。

今日、民放のニュース番組で中国のエリート重点高校の猛烈ぶりをレポートしていた。朝8時から、夜10時まで毎日授業がある。そして、大事なことは日本の伝統とも相通ずる暗記徹底授業を行っていた。現在の中途半端な「自主創造」授業になれている日本からすると、違和感があるけれど、僕も暗記学習を取り入れで、カリキュラムを見直すべきだとかねてからおもっていたし、当校でも試験的に始めている。そして、もっと凄いのは北京大学附属高校だ。アメリカ様式を大胆に取り入れていた。日本語のレベルもほとんどネイティブレベルで、戦国時代の武将について調べていて「上杉謙信」が好きだといった女子高生もいた。日本の小説をそのまま日本語で読み通している生徒も多かったことのは驚かせられた。また、高校二年で東大の入試の数学問題を日本のテレビ局のレポーターが試してみたわけだが、かれらの多くは軽々と正解していた。

この高校の日本語の担当教員(中国人)が言っていた。去年の日本の大学入学者に東大4名、京大2名・・早稲田も4名と表も見せてくれた。ナレーターは中国を世界最大の留学生輸出国と語っていた。いつの間にか、ハーバード入学者数も日本の数倍だし、反対に日本は2000年頃のアメリカ留学者が5万人はいたけれど、去年までに半減している。米国クリントン国務長官でさえ心配して、増加の方策を日本政府に訴えていたね、今月初めに。ハノイの当校の学生も、僕の貿易大学の学生たちもそういった徹底した学習環境の中にいる中国人と、日本国内で伍することになる。競争するのだ。がんばって欲しい。負けないでほしい。僕たち教員や学校運営者の工夫と努力も更に必要であることは言うまでも無い。

2011年10月26日水曜日

石巻の大川小学校に行った。

ひまわりのグループの福田さんご夫妻と、夏にひまわりがたくさん咲いていた大川小近くの「三角地帯」で。

大川小のファサード。モダンな印象。

遠くに校舎、右手に山、手前は校庭に集めたれた土砂。左手はすぐ北上川の滔々とした流れがある。



3月11日の大地震による津波によって、全校生108名の小さな大川小学校は波に飲まれてしまい行方不明の児童も含む74名の児童の尊い命を失ってしまった。何と言うことだろう。本当に痛ましい。言葉を失います。合掌。

地震後、津波の襲来まで30分以上の時間があった。何ということだろう。この大川小学校の近隣の学校でも、校庭に全校生が集められ、学校の幹部は30分間ただただ教育委員会の指示を待っていた。でもこの学校が結果的に全員助かったのは、小中学校の子供たちが誰も山の手の方に避難しない状況に不審を抱いた市役所の一人が、車で校庭に突入して、「何してるんだ、津波が来る。逃げろ、すぐ逃げろ」と絶叫し誘導したお陰であった。彼は学校のルールの禁を犯し、緊急の避難を呼びかけたのである。彼はそのもう一つ先の学校の状況にも不安で、非常事態を伝えに行く途中、車ごと津波に襲われ亡くなった。

22日土曜に僕は大川小学校に行った。今回弟が同行し車でこの大川小学校まで乗せてくれた訳だが彼の娘は、間一髪で助かったその学校にたまたまその日、栄養士の仕事で行っていたのだ。だから、事態の推移に弟は詳しい。大川小学校の当時の状況はよくわからないが、《写真》にあるように学校の脇は小高いコンモリとした里山であり、身の軽い小学生なら、5分もあれば十数メートルいじょうある山に確実に逃れたように思うのは、たぶん僕だけではないだろう。本当に悔しい。天災だけでない要因が大きく存在している事が誰の目にも明らかだからだ。しかし、津波はその人災の関係者やその家族までも深く飲み込み海に沈めた。だから、残された人々は外部の人間には全く想像出来ない複雑な悲劇を強いられる事となった。

震災後、僕はテレビで学校のそばにひまわりを植えた遺族の一部のお母さんたちのことを知った。これは、日本の説話として歴史に残るお話だと感動した。以下、僕の著作の謝辞のページにかいた。

「■ ご存じのように石巻市大川小学校は全校生徒108名という小さな小学校であったが、海岸に近くにあったため津波で74名(不明者含む)が犠牲になってしまった。日本人が忘れられない悲劇のひとつだろう。我が子を失ってしまったお父さんお母さんの悲しみはどれくらい深いものであったろうか。悲しみの中で、あるお母さんが、明るい娘を思い出したい、ひまわりのような娘にまた会いたいと考えて、学校のそばの空き地にひまわりを植えました。その心に賛同してやはり子供を亡くしたお母さんたちもいっしょにひまわりをたくさん植えました。途中で台風が来たり、海水がかぶってしまった土地ですからひまわりの育成に困難もありましたが、お母さんたちの努力で8月にたくさんのひまわりが見事に咲きました。お母さんたちはみんなで手を取り合って喜びました。そして、たくさんの種子を収穫しました。来年にはもっとたくさん咲いて欲しいからです。僕はこのお話をテレビで知り、感動しました。そして、日本人らしい心をとっても表していると思いました。このお話は、何時か「童話」となり「昔話」となり、幾代にもわたって日本中に伝わってほしいと心から強く祈念しています。」

お母様たちの「ひまわりを咲かせる」という愛情の表現はひまわりを謳った短歌であり、ひまわりを描いた魂の絵画と同一なのだと僕は思わずにはいられなかった。だから、当時当校の総合管理部の部長であったNGOCさんが中心にして集めた義捐金をこのひまわりを咲かせたお母さんたちに届けようということにさせてもらい、今回大分遅れてしまったが、やっと、大川小学校の遺族会の一員であり、ひまわりを咲かせたグループの方々に手渡すことが出来た。当日ひまわりのグループから福田さんご夫妻が代表で来られ、僕は「来年もたくさんのひまわりを咲かせてください」という当校のベトナム人スタッフと学生の主旨をお話しさせて頂き、当校のベトナム人の一生懸命の義捐金の合計金額13万円をお渡しした。そして福田さんから、大切なひまわりの種をいただきました。福田さんの奥様はグループの中心のメンバーのお一人で、前日にお電話で僕たちのことをお話ししたら、「その様な遠いお国の皆様までが・・・」と絶句され、電話の向こうで涙されていたご様子で、僕も何処に向かう感傷なのか不明なのだが思い切り滂沱の涙が机上にこぼれ落ちた。(福田さんはお子さんを同時にお二人亡くされています)

当日13時、にお会いする約束であったが、念のために12時頃には到着していて、学校の前まで行って、ご焼香した。学校の位置は北上川の雄大な流れから、200メートルぐらいだろうか。はっきり言ってもの凄く近接していて驚いた。滔々と流れる川の水が当時と変わらないだろう不安と悲劇の色に満ちていた。小さな学校は意外にもモダンなデザインで建築されており、ファサードは、普通の昔の小学校のイメージからほど遠い煉瓦とコンクリートの打ちっ放しの構造で、建築に詳しい人なら、毛綱毅曠(もづなきこう)さんの建築風というだろう代物で、驚いたのは、北上川の水面よりも低位置にありそうな学校の位置にもかかわらず、2階建てでしかなく、屋上もない構造であったことだ。どういう事なんだろう、川の氾濫でも、海側(ここからは海は見えない)からの津波でも、避難の時間的余裕を計算しての建築なのだろうか。あるいは、川と反対側にある安全地帯と思われる小高い山があるからなのだろうか。防災が昔から言われている土地柄にしては、まったく不用意な建築であり、一目してすぐに違和感を感じた。

福田さんご夫妻とは、かのひまわりの植えた「三角地帯」で僕と弟はお会いできた。ご夫妻はお子さんをこの学校で二人失った。子供が二人も一度に亡くなられた親の心境は地獄そのものだとしか言えない。本当にお気の毒です。何をお話しして良いのかさえ解りません。でも、お二人は背筋をキチンとされた態度でゆっくりと当時のこと、最近の事、そしてベトナム人への感謝の念を語った。凜とした姿とは、こういう事なのだろうと思う。「ひまわり」のお母様方、元気に生きてゆきましょう。生きて、亡くなられたお子さんたちとお話ししてゆきましょう。来年も見事なひまわりを咲かせてください。そのころ、また来ます。必ず、寄らせてください、ひまわりの皆様!


《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルと日付け、紹介致します。
ぜひ、ご高覧ください。多いのは一日1400名の閲覧もありました。

・2008年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC /  立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・2011年7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人

これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2011年10月19日水曜日

VCIの写真小史。ハノイ工科大生など優秀者の活躍。

2,3日前に僕の新しいプロジェクトのハノイ貿易大学の紹介をブログでしたわけですが、当校のハノイ工科大の学生諸君から、女子学生だけでなく、元から居る僕らも校長のブログに出してくださいよ(笑い)、ということで、ここ1年の写真中心に構成してみた。手元にある分の写真だけですので、整理していない写真が多くて、一部でしかないけれど、ランダムにならべてみた。昨日も日本の有名企業に1名採用され、勢いもついている。今秋で採用され、日本渡航した当校卒業生は150名を超えました。僕等の誇りです。さあ、がんばろう。写真で登場いただいた各社の皆さん、学生諸君、さらにがんばりましょう。
当校入り口です。如何にもベトナムの建物の雰囲気です。

各社の面接。厳しい質問が続きます。





広島、岡山、兵庫に居るサムライたちの颯爽としたそろい踏み。


新幹線で、大阪から東京へ。電業のおふたり。
興南設計の食事会のルアット、ツック、ロンの3人。現在はフンも入って4名に。

各社の面接模様。新しい人生へ・・。






HCMCのタツモの小合社長

大阪の電業の濱谷社長と当校研修の一行。

ヨコタ工業の横田社長と。

ハノイ医学大学大学院学長と交流。

パナソニック、東芝、NECなど電気大手加盟の電経連の当校見学と学生交流。

静岡の商工会議所の阿部の講演会にて。

東京のVCIセミナー。

ハノイ銀行大学との交流。

フンイエン工業師範大学での当校セミナー。

ハノイ工科大での当校のセミナー。大震災直後。

実力者スタッフのスマイル。

皇居二重橋前の当校幹部のお二人。

先輩たちの帰郷時の授業にて。

興南設計ルアット君の授業。

阿部の「日本企業論」授業。

タオ先生の技術系授業。

授業の一コマ。フエさんがいますね。

楽しい授業。日本に行ったみんなが写っているね。

ハノイ工科大校舎での授業。

ハノイ工科大学内での当校学生募集イベント。

募集イベントは、当校学生もたくさん協力。

姫路のアユミ工業の阿部会長と。

倉敷の興南設計の森社長と。

NPOの東京での食事会。

2011年2月のテト直前の当校忘年会。

静岡恭和の太田社長と。

埼玉のタイショーの橋本社長と。

大阪の関西セイキの小菅会長と。

技術系授業のホワイトボード。

企業プレゼン。難しい言葉も多い。

プレゼンテーションは、聞き漏らせない。

京大生との交流。

大阪税理士団体をハノイ税理士協会にご紹介。

東大阪ロータリークラブのベトナムへの寄付活動に当校も社会貢献の一つとして、毎年ご協力。

VCIの事がベトナム航空機内誌「ヘリテージ」誌に大きく掲載された。

当校入り口頭上の看板。
お写真で登場されているお客様、ありがとうございました。宜しくご理解ください。阿部