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2008年12月27日土曜日

バブル時代の2,3の事柄 / ベトナム人の軽やか発想

このごろ、書く気が起きてこない。なぜだかはっきりとはしないが、学校の代表者、NPOの代表者として、この世界同時不況に打ち勝つための戦略を求めて苦悶しているからだろうか。でも、朝から晩までそういったことで思考しているわけで無し、通常のハノイとのやりとりの仕事、東京での、主に企業とのやりとりの仕事にいつものように忙殺されており、暗い雰囲気でふさぎ込んだように考え込んだりしている訳ではない。飯島愛が何故死んだか考えたり、若手お笑いのノンスタイルの二人がM−1グランプリ取った瞬間も見ていたし、「加山雄三までがパチンコのコマーシャルかよ〜」と彼の懐を考えたり、渡辺ミッチーの息子の小さな叛乱にちょっとニヤリとしたり、昼頃九州にいる息子が半年ぶりに来たので「よお〜」といったり、映画「k-20 怪人二十面相」は絶対見たいなどと考えたりしていたわけだが、「カラマーゾフの兄弟 第二巻」がまだ400ページで止まっているし、なんだか書いたり読んだりしたくない日々が続いているのである。

今日27日、オフィスでひとりで大掃除の続き(昨日スタッフが大半やっている)をしていたら、「道教と日本文化」という人文書院の本が机の周りに落ちていたを拾い上げ、懐かしく読み始めた。東大と京大で教授をしていた福永光司さんが書いた本で、これを読んだ1980年後半、正にバブルの真っ盛りの時代であったが、大分の中津市にお住まいの福永先生に会いに行ったことがある。会う前に知人である松岡正剛氏とNHKで道教:TAOについての対談をしていたのをみていたこともあるが、Kという金持ちを同行して、面会に行ったのだ。Kは、バブリー紳士の典型でゴルフ場の開発が一応仕事だ。が、盆栽が趣味で、あれは徳川家康の盆栽だとか、訳解らないお盆が5000万円だとか、2億円だとか言ってバリバリ収集していた。

盆栽フリークでは明光商会の会長が当時有名であったが、彼をしのぎたいのがKの願望で、連日全国から不思議なおじさんたちが、3千万円だ、1億円だとかの盆栽を各種持参し、Kに売りつけていた。元中央公論だったかの編集長とかいう、おべんちゃらインテリが毎日そばに控えていて「うむむ・・、この枝には神が降臨している」とかのたまふって、毎月小遣い稼いでいた。企画会社のサラリーマンであったぼくもバブルの末席にちゃっかり便乗して「盆栽は道教だ。だから、道教の碩学に会おう」とか提案して、大分県までバブル紳士を連れ出したわけである。

道教はよく老荘思想と同意で語られるが、厳密に言うと老荘は、道教の大河の中の上澄み的上層部分の哲学部門である。僕の老境計画の中では、65才以降、引退したら「道教:TAO」を極めたい。また「太平天国の乱」の書物を片っ端から読みたいと決めているので、20年ぶりに開いたこの本にはもの凄い磁力があり、書きたくない、読みたくない気分を一掃し、久しぶりに一時間ほど、かつて読み飛ばして居た部分などを集中して頁をめくれた。
Kはかつての興銀から、当時100億ぐらいだったか融資を受けていて、ゴルフ場の開発に投資していた。でもそのかなりの部分をシュレッダーの明光商会に勝ちたくて、盆栽の収集に使い込んでいたのだと思う。

奇妙な時代であった。所詮、田舎者の銀行員や証券会社の若手や中堅が慣れない六本木や赤坂あたりで、「1億円借りてくれ!借りる人居ないかあ」と毎日絶叫状態で走りまくり、あちこちに押しつけて金を貸し、プロ野球の優勝チームのビールかけ状態で遊びまくっていたのである。金融と不動産とリゾートが東京音頭を踊っていたのである。日本の都市が総ジュリアナしていたと言っていい。Kはそのあと、詐欺か横領でお縄をかけられたが、彼が気前よくばらまいた金品を哄笑しながらごっつあんした連中は祝祭の後、だらしなくゆるめていたネクタイをきゅきゅっと締め直して、こぞってオフィスビルにまいもどり、93年あの祭りは終わったのだった。

そしてKは気の毒にも”後の祭り”状態で、ひとり桜田門前に佇んでいたというわけだ。僕は、盆栽会館設立委員会なるボードの設置が担当で、一通り有名人をボードに据えて仕事を終え、僕はそこを去った。バブルと真反対の社会貢献(当時フィランソロピーといった)を企業に提案するベンチャーを設立するためである。92年夏、その小さな会社は志だけは大きく、青山の一角でひっそりと出発した。なんだか、回顧メモ風なことがこのブログに多くて恐縮ですが、道教は、ベトナムで仏教が広まる以前から、生活や宗教の営みの底流にしっかり流れている。それを言いたくて、バブルの時代も触れたが、それは、本日の前菜であって、実はクリスマスの日に、ベトナムの軽やかな思考を最近もろに体験したので、備忘したいのである。


で、やっと「ベトナム人の軽やか発想」である。
現在、世界の強欲資本主義が瓦解し、同時不況の最中である。僕を始め当校VCIは日本企業の採用ニーズの減退を避け、採用人数を減らさないための色々な手を打っている。対企業にも、また校内のシステムも、さらに財務的にもである。学生たちもインターネットの時代です。震源地アメリカの状況、余波を大きく受けつつある我が日本の状況もかなり詳細に情報を入手している。したがって、日本語学習や日本システムの学習は、果たしてこのままで良いのか、と学生なりの懊悩の表情を見せている。

当校のシステムの概要は1:13ヶ月間1600時間の学習、2:他では考えられない8名の日本人教員(通常日本人は1,2名)、3:日本語だけでなく「技術者教育」と「企業人研修」など日本の社会システムやメーカーのシステム、もの作りに関しても長時間学ぶ、他校にはないオリジナルなカリキュラムを有している、4:ハノイ工科大学とプログラムと就職支援で協定を締結している、5:卒業生は正社員エンジニアとして既に100名を越えている実績がある。 ・・・ふふふどうだ!といいたいですね。

というように宣伝臭いこと書いていたら、ちょっと飽きが来たので早稲田の本屋で奥田英朗の「オリンピックの身代金」と、内田樹の「昭和のエートス」、「カラマーゾフの兄弟3」を購入してきて、前2冊を読み始めた。「オリンピック・・」は話題の本で、2週間前から買いたい衝動に付きまとわれたしろもの。内田さんは初めて買った。タイトルも魅惑的だが手に取ったら、作家であり編み物クリエーターの橋本治さんとの共著もあることが解り、買うことにした。偶然にもこの二冊にはそれこそ敗戦後の時代のエートスに溢れた作品であるという共通性がある。

日本人は計画を立て、それに向かって粛々と途中で何があろうとも、完遂するまで直向きに努力する。ここで言いたいのは、僕の日本人的の形式主義、始まったら変えられない主義がもろくも露呈し、反対にベトナム人が彼らのしなやかな身のこなしを、僕に見せつけたのであった。半 藤一利さん、保阪正康さんお一連の昭和史ものに詳しいが、例えば太平洋戦争が誰が始めたか曖昧で、始まると誤謬が見えても誰も止められず、事もあろう に終結した後、責任者が何処にも居ないのが、日本の特徴的な体質だ。50年前に建設を決めたダムや誰も使わなくなった道路建設などもよくやり玉に挙が る。我々はそれをテレビで見て、「バカじゃあねーの」と冷笑する。また、日本の官僚体質は変わらん、と唾棄することが多い。が、実は俺も同様の資質あったということさ。

ベトナム人は計画を立てない。立てないと言い切ると相当語弊があるが、少なくとも当校のスタッフ、また、関連の企業の優秀な連中を見ていて、少なくとも計画を書面化して「さあ、この通り、行こうぜ」とは、誰も言わない。誤解を恐れずに言うと彼らは、計画とは現実と合致しなくなるのが通常だから故に(机上の空論を時間かけて紙に書いても意味が無く)現実と対応しながら日々戦線を立て直し(練り直し)、俊敏に調整をしながら未来を勝ち取ろう、と考えているのだとおもう。つまり、ゲリラ戦の陣形なのだ。 言うまでも無く、ゲリラ戦にはベトナム人の面目躍如たるものがある。

この世界同時不況の最中、日本人阿部は、新しい事や時代に対応する計画・企画をあああでもないこうでもない、としたためている訳だが、かれらのしなやかな運動神経の前で、自分の足腰の重さと老朽化を嘆くことになったのだ。ベトナム人総務スタッフらが、クリスマスの日にいきなり、日本の不況の現実を考えると今から夜間クラス作りましょう。昼でも可能な学生と夜間に入ってアルバイトしながら学習する学生に腑分けし、現状に合わせて再編成をしましょう。夜間は夜の授業時間が少なくなるため卒業が7ヶ月遅くなるが今不景気だから、遅くなるのは丁度良い、と根回しなしに如何にも軽やかに言ってきた。
彼らは何時も唐突なので「ええっ、いきなり、そんなの無理だよお。教室の空き加減とか先生のローテーションは難しいよ。その前にまず第一、そんなこと言われて彼らの計画が崩れてしまい学生が非道く戸惑うんじゃあないか?」とおたおた僕は反論する。しかし、彼らは持って生まれたセンスでニーズを一瞬のうちに細かくセグメント化して、即応しようとする。マーケティングを30年やってきたと標榜してる僕のメンツ丸つぶれのVUONGさんとNGOCさんの提案であった。僕は不機嫌になったが、悔しいがそれって、正しいナと内心、納得した。 奴ら、ゲリラだ・・・

また、こういう例もある。「今度の新しいクラスの募集の前に、学生が2名来てしまった。」僕は「クラスが正式に出来るまで、2週間ほど待ってもらいましょうよ」彼らは「いや、今あるBクラスか、Cクラスに2週間ほど出てもらい、新クラスができたら、そこに移動すればいいです。」と平気で言う。僕「中途半端にあちこち移動させるなんて・・・まずいよ。学生は言わばお客さんだよ」と反論するが、この二人は勉強を速く始めたいのだから、全く問題ないとまたまた僕を一蹴した。

《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上のいわば”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
多いのは一日1400名閲覧ありました。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行 

2008年12月11日木曜日

映画「おくりびと」考

劇場で映画を見なくなって、まあ20年は経つなあ。と言っても、劇場で見る習慣を無くして20年という意味であって、全く劇場に足を運ばなくなったわけではない。この数年でも、年に1〜2回ぐらいは見ていようか。それじゃあ見ないに等しいわけだが、劇場の雰囲気、それも始まる際の胸騒ぎは何時になってもたまらない。実は僕は何を隠そう、東映で助監督であったのだ。1970年から3年ほどだ。大学に行かず、日活の照明部に潜り込んだのが確か1970年春であった。渡哲也さん主演のホームドラマの照明を見よう見まねで、お二階で(スターたちへのライトを天井部分、つまり上から当てる役目)本格的労働者として、汗水垂らした。何しろ時代が時代だから、2階には直径1メートルや2メートル、厚み1メートルほどの巨大なライトがうなりを挙げて、煌々と下を照らしている。僕らの2階部分は40度以上の熱風地帯。汗を上から垂らせば、怒鳴られるし、物音立てては、しこたまどやされる毎日であった。

重量30キロ、40キロもあるそれらの灼熱ライトを照明技師のかけ声一つで、あっちへ移動、こっちへ移動と2階の渡り廊下(仮設仮設した、ロープでつり下げられただけの代物)を火傷しながら、スターたちにほどよい光量のライトを当てる仕事であった。ライトが直接お顔に当たると、お顔の陰影がシャープに出やすいので「パラピン」とか言われる半透明の紙をライトにあてがい、スターのお顔に柔らかい照明を施すのだ。階下は、理想的な家庭を仮装の美男美女が演じ、お二階では、熱地獄のような暗闇で元気よく僕の青春は爆発していたのだ。お二階には通常、2,3名の先輩が居て、僕の頼りない仕事を色々カバーしてくれていた。仕事も年齢も大抵不詳のようなお兄さんたちで、「お前全学連なんだって・・バカ田大学だな」とか揶揄しながらも、時々日活撮影所のそばの布田駅あたりの赤提灯で奢ってくれたりしていた。

で、日活は照明課長と折り合いが悪く、2ヶ月で辞め、上記先輩の一人の紹介で練馬大泉の東映東京撮影所へ。一年ばかり、照明部をやっていたが、お二階から撮影の現場を客観的に見ていたお陰で、ドラマの撮影なんか俺でも撮れると傲慢に、年齢も似たようなセカンド助監督数人とああだ、こうだ、フェリーニがなあ、ゴダールの黒画面は革命のなあ・・とか言っている内に早稲田の先輩がぞろぞろ居る演出部に入れと言うことになり、照明部からは「裏切り者」とやじられたが、71年初春に、東京12ch「プレーガール」、TBS「キーハンター」のセカンド助監督になった。ついでにここで早稲田も辞めた。初めての衣装合わせで、主演の桑原幸子やお姉(沢たまき)あたりに「今日、何故ここに居るの(衣装合わせに照明部の若手は参加しないのだ)?阿部ちゃん・・」と聞かれて「うん、今日から助監督さ」といなして、演出助手の第一歩が始まったのだった。

映画「おくりびと」はハノイ行きの機上で見た。評価が高かったので見たが、まあ、どうなんだろう、佳作とか小品とか言われる範疇の作品以上でも以下でもないと言ったところでしょうか。思い出すのは伊丹十三の「お葬式」だ。共通するのは怪優山崎努がほぼ主演で画面を支配していることだ。NTTドコモの最近の一連の自分探し風コマーシャルの不思議な館にいる山崎も同じ流れのようだ。単純に比較はできないが、お葬式には破壊力が充ち満ちていた。彼の意図は笑いで建前とか形式を吹き飛ばすって寸法だ。死を送り出すにはカオスが一番、と言い切った傑作である。

一方、同じ死の送り出しだが、死には、やっぱり静寂がいいよねと、演出トーンを抑えに押さえて好感持てるのだが、これからの若い夫婦の絆と、プラトニック的であったらしい初老の恋人笹野の「おくりびと」の絆の現れ方もまた「小品」で、総じて悪くないが小粒の感が否めない。この作品をモノクロで撮り、より不器用な生き方を選択し、主演本木を別れを享受できる男に仕立てれたら、やや「骨太」の作品になったような気がする。テレビ出身小山薫堂脚本の纏まりの良さの弊害なのかも知れない。アニエス・バルダの「幸福」(1966年フランス)を「おくりびと」の後、ご覧になるといい。葬送の「 本物の美しい映画」が見られるはずだ。