2010年7月22日木曜日

中小企業20社のトップと・・/ 「武士道BUSHIDO」

6月と7月にハノイや日本で企業のTOP約20名の方々と話す機会があった。急に増えてきた。当校の学生を何度か採用いただいている企業もあれば、初めての企業も多い。いま、総じて言えることは、ベトナムへの関心、とくに進出と人材の確保に関心が高まっていることだ。2008年の秋のリーマンショック以降、ベトナムへの進出などを計画していた日本企業の大半が、計画の中止や、調査の中止を余儀なくされた。いろんな関係者の話を総合すると数千社はあったようだ。まさにそうだと思うよ。当校や当NPOに相談されつつ、待機していた企業だけでも20社以上はあるモノね。その関心がいま、ようやくかなりの勢いで「再開」へと動きだしたのだ。だから、今月と先月お会いした社長さんらの熱意はかなりパワフルだし、目的がリアルだ。

初めての方も、当校卒業生がいる知人の社長の評価などを聞かれて安心して動き出したようだ。特に地方の企業は地元との狭間の中で、アジア進出は簡単ではなく複雑な要素もある。地元を簡単に置いてきぼりにはできない。じゃあ、まずは人材の確保から、と考えている企業もいくつかあるようだ。不況はまだ明けていないし、政治は相変わらず三流状態。環境が良くなったわけではない。が、中小企業のTOPお一人お一人の「次代」への意志が積極方向に現れている様な気がする。もう、状況を待てないのだ。待つ時間がもったいないのだろう。

■ 以下は、またまた、原稿からのコピーだ。忙しくなってきたからね。どうにも書く時間がね。例のベトナム人青年向けの著作の一部です。
「日本人の倫理感、日本人の武士道」・・・参考になるはずだぜ。ベトナムのサムライ君!

日本人にもいい加減な人も、本当に悪い人も大勢いるさ。他の国と全く変わらないだろう。でも、仕事に関していうと、与えられた仕事を丁寧に責任を持って完遂しようとする人々が他のたいていの国より多いことは間違いなくいえる。僕が主観で言っているのではなく、世界のジャーナリズムや学識経験者がいろいろなところで書いている。にもかかわらず、日本人の多くは宗教者ではない、ほとんど宗教には関心がない人が多いと言っておこう。お寺に行くのは観光で行く場合が多いし、先祖や家族のお墓にお花を手向け、お線香を上げるのはせいぜい年に一回だけだ。毎日曜日に教会のミサに出席するキリスト者はもっと少ない、国民のほんの一部だ。ベトナムは仏教国だ。ラオスもカンボジアもミャンマーもそうだろう。生活全体の指針とか規範は仏教で、それに先祖を敬う民衆の地元の宗教が加味されたものだろう。イスラムの国々はさらにその宗教的な戒律はいまでも厳しいのが一般的だ。アメリカは多勢がプロテスタントであり、イギリスは旧教か英国国教会だし、ヨーロッパの諸国はそれなりにカトリックを国の心の糧にしてきた。

でも、日本人から見るとキリスト者であった旧南ベトナムの支配者がベトナム人に対し非道なことを行っていたり、米軍の慰問(いもん)に神父さんがきて、「今からベトナム人を殺しに行く米軍兵士の無事を祈ったり」まったく理解ができないこともおおいぜ。では、日本はどうか。日本人の生活を律している価値基準は多様な伝統的事象が混在していることは確かだ。仏教、道教、儒教の影響を心の底流で受けており、だから何故か知らなくてもいつの間にか生活のあり方は、それに無意識に左右されている。

1900年に国際連盟事務局次長であり、教育者(東京女子大学創設)でキリスト者であった新渡戸稲造博士が英語で「BUSHIDO」を出版した。流麗な英語で見事に日本人の精神構造を書いたものとして、欧米だけでなく日本語版もあり日本の知識層にも強い影響を与えた。もともとは、西洋のキリスト教が西洋人の生活の規範となっていることと同様の「神」が、日本には居ないのか?宗教がないのに日本人は何を心のよりどころにして、生活の規範やひとりひとりの「良心」を形作っているのかという、インテリの友人たちの質問に全面的に応えるために執筆したのだ。武士道精神は「葉隠」や宮本武蔵の「五輪書」などの文書はあるけれど、経典がある宗教ではないので、明確な形があるわけではないが、日本人の責任感や倫理感、公平感、質実剛健な生活スタイルなどがそこに如実に表されている。特に「礼」、「誠」、「克己」などが、現代の日本の生活にまで脈々と流れていることを西洋の騎士道など似た例題をうまく引用して丁寧に綴ってある。「礼は寛容にして慈愛あり、礼は妬まず、驕(たかぶ)らず、己の利を求めず・・」と、明確に書いている。武士道、いや、日本人の心の持ち方の原点だね。「ただし、誠実と信頼がなければ、礼は茶番であるともいわれている」とも書かれている。むずかしいね。わかるかい?ベトナムのサムライ君。

「BUSHIDO」にはこうもかかれている。「富の道は、誠や名誉の道ではない」と。また「克己」は自分の妥協的ないい加減さや、楽をもとめる気持ちに打ち勝つ心のことだ、とね。このようなことが、この本にわかりやすく記述されている。英語が得意な人は英語版で読むと良いよ。読書家の青年は気づいたかもしれないが、この武士道精神のコアになっているものは孔子の儒教であり、孟子の道教なのだ。わかるかい?さらに、武士道や日本的な考え方と同時に僕ら日本人は、高校や大学でボルテール、モンテスキュー、ルソー、ロックなどを一応少し学んでいて、フランス革命で作られた人権宣言などもアジア人ではあるが、いつの間にか僕らの常識的な思考方法に影響を与えてきた。第二次世界大戦の敗戦後作られた現在の「日本国憲法」もその影響をもろに受けている。したがって、戦後生まれの僕らの「正義感」や思考感覚は、その憲法とアメリカからの生活の価値基準で形作られてきた。つまり「ヒューマンな感覚」という奴さ。とても大切なものだよ。

その上、我々中高年の世代はカント、キルケゴール、ニーチェ、ヘーゲル、マルクス、レーニン、ウエーバーなどを自分らで読みこなすことが常識であったので、西洋の思想的な影響を現代の若者より多大に受けた。しかし、東アジアの辺境にある日本人である自分の内部の底流に流れているものは、目に見えないが思考感覚や日常の所作などの中に、確実に儒教や武士道の精神が流れているのだ。その精神が西洋思想と複合しながらも僕ら日本人の内面の主な規範や基準となっているのだ。最近、課題になっていることだが、僕ら戦後の日本人の感覚は「個人主義」傾向が強くあらわれており、「公共」というもののとらえ方が、おろそかになっていた事は否めない。いま、日本ではまだまだ一部ではあるが、その隙間を埋めるような潮流も現れてきた。ボランティア活動が若者やリタイアした僕らの世代を中心に胎動しつあるのだ。グランドワークとか、プロボノというシステムなども新しい形態の一つだろう。

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