2011年9月30日金曜日

なぎさホテルという哀愁



先日、高田馬場の大きな本屋の中を散策していたら、伊集院静の「なぎさホテル」という新しい著作がたくさん平台に積まれていたし、スタンド型POPの手書きのメモが揺れていたので目立った。だけれども手に取ることもなくやり過ごす。なぎさホテルはかなり大昔、妻晃子(てるこ)に誘われて一泊したことがあった。結婚して2,3年後だろうか。まだ子供がいなかったので、お互いが25,26才の頃と思われる。すると1975年とか1976年とか、そんな頃であった。僕は田舎者で、当時逗子のなぎさホテルの名前も価値もあこがれも無かったけれど妻に言われて、ついていっただけだ。たしか、夕方にホテルに着いた記憶で、この写真にあるファサードが赤みを帯びているイメージである。当時写真に入っていないもっと右側に材木のような物が積んであり、そこに黒白の猫がいた。いや白茶色だたっかなあ、猫がいて妻が「あっ、猫」とつぶやいて、駆け寄りなでてあげていた。

お腹がすいていた僕は、好い加減に中にはいろうぜ、みたいなことを言いフロントの思いでは一切無いけれど、中へ入った。その時代、僕は東映で助監督を中断し、リクルートで全く新しい分野で仕事をしていた。妻は駿台予備校の理事長秘書であった頃だろう。その理事長は有名な人でというより、良くないことで名を馳せていた人で「非常識よね、今晩のお肉やコロッケまで、学校の経費につけているのよ」と言っていたし、有名予備校のトップなのに長男が日本の大学の何処にも入学できず「グアム島大学にやっと入れた」と彼女から聞いていた。だから、冷めた目で彼女は仕事していたのだろうし、そのぶん僕と結構あちこち出かける心の余裕もあった。僕が知らないところでは「九段のフェアモントホテルに行こう」と、クリスマスあたりに美味しいものを食べにいったりした。

そんな時代のなぎさホテル。入って驚いたのはお部屋の中にドアがあり、隣の人のいる部屋に通じていた。おそらく今考えると晩夏の良い時期でお客様も多くスイートルームを2家族に分けて使用していたのかも知れない。もちろんドアの前には開かないように大きな調度棚が塞ぐように置いてあった。まあ、お部屋自体は二流の印象で思い出に残こるほどの良さは無かった。でも、翌朝の快晴のもとでの朝食は僕にとってそれ以上の快適さというか心地よさはないような、世界で一番幸せなブレックファストであった。こんな幸せ、こんな安寧でいいのかとさえ、25,26才の僕は感じた。そう言う気がする。ホテルの前庭にはレストランのテーブル席があり、その先はまさに渚だ。朝の陽光がきらきらと小さな波に乱反射していて目映い。

僕たちの座ったガーデンのテーブルの周りには同じ白地に赤格子のギンガムチェックのテーブルクロスで整えられた20卓くらいがあったろうか、でも人影はなく、確かぼくらだけであったような気がする。僕たちがいたお庭のテーブル群と渚の間には道幅5〜6メートルの公道があり、車もめったに通らない時間であったのだろうか、通行は1,2台だけであったような。渚の砂地と水際を散策する人もまばらで、僕らが頬寄せ合いキスをしてもだあれにも気がつかれないようなロマンチックな風景が涼しげな朝の空気のなかに広がっていた。その時間は朝焼けが薄れ、人々が起き出す少し前の時間帯かしら。僕らのテーブルには何があり何を食したのか鮮明ではないけれど、想像もちょっと加えるとスクランブルエッグとトーストと、コーヒーが2セット置いてあって、ナイフとフォークがハの字に礼儀正しく皿の上に乗っていた。僕らは何を語り合ったのだろうか。これからのこと。共に好きであった映画とか誰かが書いた本のこととか。二人で手を握り合い、見つめ合って居た時間の方が多かったかもしれない。僕たちには朝の快適な空気にまさる僕らの未来があるように信じられた。二人の若い肉体と僕らの鮮やかな思考がそれを保証していたように思えた。

先日、山田さんという乃木坂で長らく不動産業を商っている長いお付き合いの方とお会いしているとき、たまたま、湘南や逗子の話となり、僕が1980年代に僕の企画でお世話になったイラストレーターの鈴木英人さんの事になった。僕はそのころ、一人で鈴木英人さんや、空山基(はじめ)さん、河村要助さんの当時最高レベルの作品群にオールディーズや、コクトー・ツインズ、カリブ系音楽を付けたような高級「環境ビデオ」作品を何種類も製作販売していた。鈴木さんはいきなり相談にいった僕を邪険にもせず、企画意図を聞いてくださり、すぐに200枚ぐらいの作品をお貸しいただき製作し、パイオニア社のレーザーディスクとして作品化した。思いつきと感覚のみで勝負していた時期であった。

山田さんとひとしきり、逗子と鈴木さんと、このなぎさホテルの話をしながら、お互いに頬をゆるめ年齢を重ねた過去をそれぞれに振り返った。僕と山田さんは25年前にいっしょにスペインとかギリシャに行った仲だ。山田さんは葉山の日陰茶屋の十代目庄右衛門さんというオーナーと昵懇であったらしく、早世された彼をしきりに悼んでいた。そこから分かれた「喜八」とか、僕なんかはバブルの時代にそれぞれ一回行ったきりであるが、そんな話しも出て、彼が今度何度目かのハノイに来るというので、次回はハノイで、ということで六本木ミッドタウンの彼の馴染みの美味しいお店を辞した。

伊集院静の「なぎさホテル」を読もうと思わない。夏目雅子さんと伊集院さんの思い出もあるのだろうが、僕には僕の晃子との世界があるからね。猫。ファサードから玄関の夕焼けの赤み。古い木質の客間。さわやかな早朝の僕ら二人の朝食とコーヒー。そして、たまに通った古い車の丸っこいエンジン音。穏やかな波のささやき音。子供の声が遠くから、聞こえてきたような。太陽がじりっと上昇し始めて、僕らは部屋に戻った。


《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルと日付け、紹介致します。
ぜひ、ご高覧ください。多いのは一日1400名の閲覧もありました。

・2008年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC /  立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・2011年7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人

これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2011年9月27日火曜日

「失敗の本質」とか・・/ 息子に息子

やっと「天皇の世紀 全十二巻」(文春文庫)第五巻をくぐることができ、第六巻の「長州」編に入った。いわば長州のクーデターの禁裏抱き込みの概要が緻密に展開された「京都」編の継続ということだ。また、以前購入し、一部をちょっとめくっていた「ヌーベルバーグの時代」(紀伊国屋映画叢書)を読み始めた。同時に古典中の古典ルース・ベネディクト「菊と刀」、日本軍の組織論研究「失敗の本質」(中公文庫)、これも重要な論究ですね。同時に助走なのだが読み始めた。もちろん日本の盤石な官僚体制をもっと知りたい体からの要求が強くなってきたのだろうと思う。また前から買おうと思っていた加藤陽子「それでも日本人は戦争を選んだ」(朝日出版社)と保阪正康さんの「田中角栄の昭和」(朝日新書)を購入し、目次やあとがきを眺めて、読者としての心の熟成を待ち、一気呵成に読み出すタイミングを探っている。

以前、20年後まで本が読めて、つまり82才まで本が読めるとして、合計720冊しか、僕の今生の人生で読めない計算であった。でもさ、いまの現実の本の購入の激減と読むスピード、購読意欲などを勘案すると、根拠の数字をもっと削る必要があるんだろうとおもって、実は三回目なのだが、いま、計算を試みてみる。一昨年の計算では82才までに1500冊、去年もう一回根拠数字を減らしたら半減の720冊。今回はもっとぐ〜んとへってしまいだろうなあ。仕事で読む本は含めない計算でね。一ヶ月間にせいぜい4冊だろうなあ。それも73才まで。74才からは仕事の本は減るだろうに、重量ある本は読めないし、iPadになるかもしれないが、僕の好きな本があるアプリもあんまりなさそうだし。まあ、月2冊とるか。嗚呼、激減の予感。

4冊×12ヶ月×10年=480冊 2冊×12ヶ月×9年=216冊 合計696冊。720冊計算から、股減ってしまったなあ。以前は40冊×15年=600冊、で、77才以降、量を減らして・・・24冊×5年=120冊・・でけいさんしたらしい。長編の古典しか食指が動かないね。最近の気分は。「天皇の世紀 全十二巻」の後は、やはり大佛次郎「パリコミューン」、滝沢馬琴「南総里見八犬伝」、中里介山「大菩薩峠」、プルースト「失われた時を求めて」、ヘーゲル・長谷川宏訳「精神現象学」、円地文子訳「源氏物語」、「ゲド戦記」、手塚治虫「火の鳥」再読、手塚治虫「仏陀」、吉川英治「宮本武蔵」、ちばてつや「明日のジョー」再読、とか読んでると、もう70才だろうね、いやはや。くり返すが、今生であと696冊しか「名著」を読めないんだぁ。さびしいというか、むなしいというか。僕に一種の強迫観念のようなモノがあるんだろうなあ。約700冊しか読めないで何なの。読んだら天国に行けるとでも。考えれば、意味のない事なんだけれども。

■さきほど、携帯の留守電に赤ん坊の泣き声が入っていた。奴らしいなぁ、「生まれたよ」とか言わずに「赤ん坊の音声」だけで通知の演出するところは、ちょっとやっぱり僕似だね、息子よ。今日15時に、僕に孫だ。ふ〜〜む。よく理解出来ないがともかく、亡くなった妻晃子(てるこ)にさきほど、線香をあげ報告した。君も今日からお婆さんだよってね。男子2600グラムとか。おめでとう息子。嫁さんの紘子さんおめでとう。その孫という新しい命と今後どのように付き合っていくのかな。僕。

2011年9月23日金曜日

ベトナムの良いも悪いも「いきなり譚」

今日は結構疲れたなあ。今まで出版する予定の会社と友好裡に事が進んできた。今日、契約書にサインして、編集の細部に入るはずであった。ところが、社長から紹介されためがねを掛けた理知的な印象の若い女性編集者が、いきなり「編集者と言うのは読者の味方です。内容の大幅な変更を私は考えています。話し言葉を書き言葉に全部書き換えてください」といきなり宣った。えへっへへ、おいおい、いきなり何ですかあ。先ほど彼女を社長が紹介したさい、「彼女は大学院を出ています」といったことを思い出した。もちろん、すぐさま同行のルエンに「大学院とか関係ないよ」と日本語はルエンしかわからないので、思わず普通の会話で「くさした」ことも小脳あたりにフラッシュバックしてきた。編集者でマスターだろうが、23,24才の風情で、おいおい、大丈夫かと不安よぎったのが、まさに当たってしまった訳だ。マスター女史がいきなり、著作者に対立関係を挑んできたんだどうしよう。弁護士とか医者は庶民の味方でなくちゃあこまるよね。でも「編集者は読者の味方」とか、どこでそういう科白学んだのだよお〜。

僕なんか、マーケティングコミュニケーションの仕事を30年以上やってきて、本の作成や分厚いカタログ、PR雑誌などの仕事も何十回と体験してきた身からするとね、編集者とは「著作者を鼓舞し、マーケ戦略の方向に領導する高度な演出家」と思って居る。色んな見方もあろうが、そう間違っては居ないはずだ。体験でそう思うようになった訳だからね。それがさあ、「読者の味方で、大幅改造」だという。小娘が何を息巻いてるんだ。俺だって、ベトナムにかれこれ18年の半分は人生の塒(ねぐら)にした人間だよ。あなたの母国が好きだし、君の言い分は冷静に聞けるし、タイトルや見出しの変更、項目の前後の改編、社会主義政権にかなり批判的になってしまっている項目(自立的な市民層の生起に関する展開のあたり)など、話しによっては文面の部分修正・改善のテーブルにのるぜって考えてるんだよ。話し言葉での展開はベトナムで新しさを出すための戦略だしさ。僕の顔をまっすぐ見てご覧、お嬢さん。
だがまてよ、大学でひょっとして社会主義的編集メソッドなる教程があって、「革命家は労働者の味方、編集者は読者の味方。」って、正式に教えているのかも知れない。どんな論理なんだろうね。でもそうであればまあ今日は、貴重な体験ってことになるかな、ふふふ。

問題のいきなりの紛糾は相手出版社のベトナム的な進め方が原因。出版社の女性社長は一瞬、話が破談になることを恐れて、新米のマスター女史をなんだかんだ諫めていたが、事が起きてからでは遅いと日本人の僕は感じる。日本的にいえば、準備不足の極みに見えるからね。だが、我がベトナムはそういった緻密な準備は通常しない。担当者の能力に委ねて会議が始まる。だから、日本のように根回しなど全く無いので、紛糾する事が多い。でも、その紛糾は良くあることだから故に紛糾してからの整理と沈静化と笑顔の回復に長じている。ノウハウが確立しているんだ。日本的会議なら、準備していた課長あたりは減給ものだろうが、そこが文化の違いということなのさ。いきなりの変更、いきなりの発表、いきなりの訪問、いきなりの開始。いきなりの告白は・・ないか。

もちろん、こういう会議のやりとりは通常通訳を通すしかない。僕がそれなりにベトナム語会話が出来たと仮にしても、通訳を使うべきレベルの会議だ。だから、当然当社のルエンさんの双肩に会議の正否は懸かるわけだ。ルエンさんは努力家で何時もがんばってくれるのだが、議論になると相手のベトナム人が言っている内容に溶け込みやすいというか、競り合いを嫌い、相手のペースの上で妥協が図られることが多いと、上司の僕は日常的体験からそう認識している。前の僕の担当のゴックさんは、上司である僕の立場に立って最後まで論陣を張ってくれていた。頼もしい相棒であった。来年戻って来ることに期待しているが、かわいいルエンに速いところ闘いの仕方をもっと指導しておかねばならないね。で、僕がハノイに居ないので、10月初旬に僕と出版の社長と書店ネットワークの社長と「ベトナムでたくさん売れるには、どうするか」に付いて会議することとなった。2,3週間分は時間が後退してしまったぜ。僕は12月1日の「クリスマス商戦」開始に間に合わせることにこだわっているのだが、さてさて・・・。ベトナムの「いきなり譚(たん)」の顛末でした。

2011年9月21日水曜日

盲目のモテ爺 (筆授10回目)/ AKB48のじゃんけん大会は最高

今読んでる宮本常一のいわば生活誌の記録「忘れられた日本人」(岩波文庫)は最高だね。宮本さんは戦後すぐ(昭和25年頃)くらいに尋ねた老人たちの話をそのまま採録しているのがこの本で、昔のひとは本当にフツーの人でも凄いのである。明治初期に南太平洋のフィジー島に出稼ぎに行った人とか、ハワイにいくのが流行ってのう、と宣う老人もいれば、「殿様がおりんさったころとちごうて、この頃はみんなはしっこうなった」と愚痴る明治初頭に少年や青年であった人々。我々が教科書で学習したその時代とはまったく様子が違い、豊かな発想の人々が意外なほどコミニュケーション濃厚な暮らしをしていたことが解る。長男、次男が分家して、たいてい末っ子が家督になる地方とか、あっけにとられることも多い。驚かされる。

この本の中に「土佐源氏」というタイトルの盲目の老人の話がある。日本の原風景と僕らの2,3代前の日本人の心の持ちようが見えて来るので、長いけれど思い切って全文採録する。発表当時、研究者や文学者などから圧倒的な支持と評判を得た聞き取りだ。折しも「チャタレー判決」が出た時分で、宮本さんは発禁を避けるために何人か出てくる女性との秘め事の箇所は大分割愛したという。宮本民俗学の白眉です。《岩波さん、勝手に済みませんが土佐源氏を全文写させてください。》
・・・・・・・・
「あんたはどこかな?はぁ長州か、長州かなぁ、長州人はこのあたりへはえっときておった。長州人は昔からよう稼いだもんじゃ。このあたりへは木挽きや大工で働きにきておった。大工は腕利きでみなええ仕事をしておった。
時にあんたはなにが商売じゃ?百姓じゃといいなさるか、百姓じゃあるまい、物いいがちがう。商売人じゃないのう。まあ、百姓でもいいわい。わしの話しをききたいといいなさっても、わしは何も知らんのじゃ。何もなぁ。ばくろうしておったから牛や馬のことなら知っとる。しかし、ほかの事は何にも知らん。

どうして盲目になったといいなさるか。盲目にのう、盲目になって、もうおっつけ三十年が来る。ごくどうをしたむくいじゃよ。まぁ、ずいぶん極道しよったでのう。極道がすぎて、まともなくらしもようせなんだ。
あんたは女房はありなさるか。女房は大事にせにゃぁいけん。盲目になっても女房だけは見捨てはせん」いろりには火がチロチロもえていた。そのそばに八十をかなりこえた小さい老人があぐらをかいてすわってる。いちじく形の頭をして、歯はもう一本もなくて頬はこけている。やぶれた着物の縞もろくに見えないほどよごれている。
ここは土佐の山中、ゆす原村。そしてこの老人のこの住居は全くの乞食小屋である。ありあわせの木を縄でくくりあわせ、その外側をむしろでかこい、天上もむしろで張ってある。そのむしろが煙でまっくろになっている。天上の上は橋。つまり橋の下に小屋掛けしているのである。土間に籾(もみ)がらをまいて、その上にむしろをしいていて生活をしている。入り口もむしろをたれたまま。時々天上の上を人の通っていく足音がきこえる。寒そうないそぎ足である。

「あんたもよっぽど酔狂者じゃ。乞食の話を聞きに来るとはのう・・・。また誰があんたをわしの所へ寄越しなさったか・・・。はぁ、那須のだんなか?那須のだんなか。あの方はええ方じゃ、仏のような方じゃ。わしがここへおちついたのもあの人のおかげじゃ。婆に手をひかれて流れ流れてここまで来たとき、あのだんなが、目が見えいではどこでくらすも同じじゃいうて、人様に迷惑をかけさいせねば、かつえ(飢え)させはせんものじゃいうて、親切にして下さったので、この橋の下におちついいたが、ほんに人のあまりものをもろうて食うて、この橋の下でもう三十年近うになる。しかし、わしはあんたのような物好きにあうのははじめてじゃ、八十にもなってのう、八十じじいの話しをききたいというてやって来る人にあうとは思わだった。

しかしのう、わしは八十年何もしておらん。人をだますこととおなごをかまう事ですぎてしまった。かわいがったおなごの事ぐらいおぼえているだろうといいなさるか?かわいがったおなごか・・・。遠い昔の事じゃのう。わしはててなし子じゃった。母者が夜這いに来る男の種をみごもってできたのがわしで、流してしまおうと思うて川の中へ入って腰をひやしても流れん。木の上からとびおりても出ん。あきらめてしもうていたら、月足らずで生まれた。生まれりゃころすのはかわいそうじゃと爺と婆が隠居へひきとって育ててくれた。母者はそれから嫁にいったが、嫁入り先で夜、蚕に桑をやっていて、ランプかねって、油が身体中へふりかかって、それに火がついて、大やけどをしてむごい死に方をしなさった。じゃから、わしは父御(ててご)の顔も、母者の顔もおぼえておらん。気がついたときには子守といっしょに遊んでおった。わしに子守がついていたんじゃない、よその子守をしているおなごの子のあとをついてあそびあるいていた。

昔は貧乏人の家の子はみんな子守奉公したもんじゃ。それが頭に鉢巻して子供をおうてお宮の森や村はずれの河原へ群れになって出てままごとをしたり、けんかをしたり、歌をうとうたりして遊うでいた。わしら子守のない男の子は、そういう仲間へ何となくはいって遊うだもんじゃ。親がなくとも子は育つちうがほんとうにそうじゃな。ただみんな学校にいくようになってもわしは行かなんだ。子守と遊ぶ方がよかった。子守にも学校へいかんのがえっとおった。わしの子供の頃はまだ学校へいく事をあんまりやかましういわなかったでのう。女の子と遊ぶ方がよかった。それに十になっても学校へいかん男の子は少なかったで、守りたちの仲間と遊んでいると、かわいがってくれたもんじゃ。ほかに学校へいかん男の子があっても貧乏な家の子はみな家の手伝いをしたもんじゃが、わしはまっぽり(私生児)で、爺婆に育てられたから、山へ行け、田へ行けということもなかった。そのころからわるいことをおぼえてのう。雨の日には遊ぶところがない。子守らはどこかの納屋に三、四人ずつ集まってあそびよった。そうして、子供がねむりよると、おろしてむしろの上にねがせて守りは守りであそぶのよ。あそぶといってもこれという事もない。積んである藁の中へもぐったり、時には前をはだけて、股の大きさをくらべあわせたり、×××をくらべあわせたり、そこへ指をいれてキャアキャさわぐ。おまえのも出せちゅうてわしのも出させておもしろがっていろいよる。そのうちにな、年上の子守が、「××するちうのはここへ男のをいれるのよ。おらこないだ、家の裏の茅のかげで姉と若い衆がねているのをみたんじゃ。お前もおらのに入れて見い」いうてな。別にええものとおもわなかったし、子守も「なんともないもんじゃの」いうて・・。姉はえらいうれしがりよったがと、不審がっておった。それでもそれからあそびが一つふえたわけで、子守たちがおらにもいれて、おらにもいれていうて、男の子はわし一人じゃで、みんなにいれてやって遊ぶようになった。たいがい雨の日に限って、納屋の中でそういう事をしてあそんだもんじゃ・・・。
あんまりええとも思わだったが、それでもやっぱり一番おもしろいあそびじゃった。あんたは喜多郡の方から歩いてきたんなら、あのあたりの村の様子はよくわかるじゃろう。家は谷底のひろうなったところに十軒もかたまったところがあろうか。あとは大がい山腹に一軒二軒とポツリポツリある。50戸の在所というてもずいぶん広うにちらばっている。雨がふらねば子供らはおらびあうて(大きな声で呼び合って)お宮や河原へあつまって来るが、雨がふれば、となり近所の四、五軒の子供があつまるのが、せいさい(精一杯)じゃ。女の子と仲良うしたちうても、つい三、四人のことじゃが、仲良うしておった。そのうち年上のの一人が、わしとねているとき、えらい血をだしてのう、たまげたなんの。女はないていによった(かえった)。わしはまたその子がし死ぬるのじゃないかと思うて、おそろしうて、その晩は飯ものどを通らだった。あくる日河原へいってみたら、その子が来てけろっとしている。「どうしたんじゃ」いうてきくと「おらもう大人になったんじゃ、あれは月のさわりちうもんで、大人になったしるしじゃ、じゃから、もうちかいうちに子守りはやめるんじゃ」いうて急にえらそうにいいよる。そしてのう、「もうおまえとは遊ばん」いいよる。」「どうしてじゃ」ちうと「もう大人じゃけん、二三日うちにおばさん(雇われている家の主婦)が赤飯たいて祝ってやるいいよった。赤飯たべたら、若い衆がよばいに来るけえ気をつけんといけんと」わしはそういうもんかと思うた。「わしでいけんのか」ときいたら、「お前は若い衆じゃないもん」いいよる。わしは早う若衆になりたいもんじゃと思うようになった。

わしが十五になった年に爺は中風でポックリ死んだ。伯父が、お前ももう大人になったんじゃ、爺もしんだことじゃし、百姓家へ奉公にいくか、うちの手伝いでもするとええが、爺が遊ばせて何にもできんなまくら者になってしもうたから、ばくろうの家へ奉公にいった。・・・・・・・・続く(文庫の24頁分続く)



■ このAKBのじゃんけん大会を電子版だが朝日とか読売も報じていた。じゃんけんは子供でも大人でも遊びでも何かの順番を決める時でも使う。結構便利な文化で、どうも世界各国にあるらしい。今日も日本全国でじゃんけんは10万人ぐらいの人は、やるだろう。20万かな。それもどうでも良いし、じゃんけんの文化論とじゃんけん史を語るつもりもない、朝で忙しいし、もうちょっとで学生も集まってくる時間だし。
でさあ、秋元康さんは、頭のいい人だが、あの柔和な肉付きの頬に意地悪さも隠し持っている。「じゃんけんが報道されるか」これが彼の元々の彼一流の遊びなわけさ。全国で、じゃんけんしている小学生とか、サラリーマンの所にテレビ局のカメラマンが飛んできた、などというニュースは聞かない。

秋元さんは、「あのさあ、テレビ局バカだからさ、じゃんけんでも報道に来るぜ」と若手の放送作家らに言ったんだと思う。賭けもしたかも。で、その結果、もう2〜3年の定番番組になったようだ。いま彼は「ほらね、バカだろ、フフフ・・」と心で語り、混雑の中を必死に撮影にきた40才代とかの各局報道スタッフや新聞記者たちが、少女たちのじゃんけん大会の取材後、「良い仕事したね」と笑顔でビール飲んだかどうか知らないが、そう言う顛末のなかで、テレビ番組は粛々と澄まして製作されオンエアーされてゆく。で、売れっ子秋元さんは、「要は仕掛けさ」とにんまりしつつ、「でもさあ、おいおい、大丈夫か。じゃんけんなんか報道にきてさあ。もっと本来の仕事あるんじゃあないのか」と実は内心心配顔なのさ。

2011年9月19日月曜日

小泉さんは「政治家」だ。

「原発の依存度を下げていくべきだ」 
小泉純一郎元首相は18日、川崎市のホテルで開かれた川崎青年会議所創立60周年記念講演で、東京電力福島第一原子力発電所の事故で、「(今後は)原発が最もコストが安いとして新設、増設とはいかない。国民は原発が安全だとは信用しなくなった」と述べ、「日本は原発や石油への依存度を下げ、自然エネルギーや再生(可能)エネルギーの技術開発に投資し、環境先進国を目指すべきだ」と強調した。・・・本日読売電子版

国民と一部の市民のハートをぐさっと掴めるのが政治家だと思うが民主党にも自民党にもどこにも不在でそれが長く続いている。野田さんも、管さんも小澤さんも石原幹事長も、目線は何処にある。何処を見て話して居るんだろう。小泉は戦後初めて、堂々と富裕層に軸を置いた政治をそれも大胆に実行した。僕は貧乏層なので、全く不快だし、否定的に彼の政策と実行の仕方を見てきた。でも、都知事の石原慎太郎もかわいいところあるけれど、小泉は政治家として極めて希だがセクシーだよ。動きが様になる。僕のようにある意味で対極に位置している人間でも時にニヤリさせてしまうセンスがあった。

上記の記事は、国民の、そしていわば自立した市民層にも不十分ながら理解が出来る科白だ。よく見ればじつは大したことは言っていない。今回もいままでもね。でも「言って欲しいときに、鮮烈に語る」才を生まれながらに持っているんだろうと思う。必要な時のクリーンヒットさ。記事は常識的なこと、床屋談義と違わないレベルの「脱原発」さ。管も野田も、これすら明確に言えていないから不思議だよ、つまり政治家としての才能無いんだと言うことなんだろう。役人と同じなのさ。面白みも、ハッとさせることも怒らせることもない。政治家の本分は新鮮な言葉で「夢を語る演説」に尽きるんだぜ。レーニンだって、トロツキーだって、ケネディだって、ホーチミンだって、カストロもそうだ、敢えて言えばヒットラーだって、煎じつめると政治家は言葉と夢で国を作ってきた。今度国連で野田さんが、原発のこというらしい。でも小泉以下のことしか、きっと言えないなあ。

思い切って、少なくとも2050年頃までの革命的なエネルギー政策を語ってほしいんだ。その頃日本は人口8000万超。そのサイズで、どんな生き方を日本はするかを全世界に向けてぶってほしいんだ。それが政治家だ。カストロはかつて国連総会で5時間ぶっ続けて、革命の勝利を謳い、帝国主義を批判した演説を行った。そして、帝国主義者も含む各国首脳の万雷の拍手をもらったんだ。それが政治家の仕事だと思う。
《今日、9月24日》でさあ、非道いね、野田さんの国連演説。夢も希望もない。政治家が居ない国。

2011年9月15日木曜日

あのさ〜、朝日新聞よ!(完)

「東電、原発立地自治体に寄付400億円 予算化20年余」 ・・・9月15日電子新聞 朝版

 東京電力が20年以上にわたり年平均で約20億円の予算を組み、東電の原発などがある3県の関係自治体に総額四百数十億円の寄付をしたことが分かった。原発の発電量などに応じて「地元対策資金」を配分する予算システムになっており、自治体側がこれに頼ってきた構図だ。
原子力施設の立地自治体に入る電源三法交付金、核燃料税の金額は公表されているが、東電が原則非公表としている寄付金の全体像が判明したのは初めて。東電幹部は「原発の立地などで自治体の理解を得たいという思惑もあり、癒着と批判されるのを避けたかった」と証言している。・・・・と今朝の朝日電子新聞にかいてあり、原発の協力金で建てたと書いてあるむつ市の市役所の写真が載っている。

ええっ、「東電が原則非公表としている寄付金の全体像が判明したのは初めて。」だって。笑止千万ってこのことだよなあ。以下、朝日だけでなく記者クラブにはいっている大手は大なり小なり、同様だろうと思う。
特に朝日新聞の記者さんよ。上の記事見たかい?あなたたちは、毎年東電の決算書、読んでるでしょう?また、青森始め東北の支社、や支所の記者は各県や市町村の予算書と収支書みてるでしょ??さらに問題がありそうなんだから原発の関係者、地元特に農業や漁業関係者などに会って色々聞き出しているんじゃあなかったのですか?なのに「東電が20年以上にわたって年平均20億円を各自治体に寄付をしていたことがわかった」だと。おいおい、本当にぬけぬけとよく書けるね。臆面もなくさ。20年間何処で何を取材していたんだい?原発がある自治体は何処行っても御殿のような市役所や公民館を造ってることは常識だよ。歓楽街も賑わい、地元のヤクザは皆金持ちになったのも周知の事実。素人の僕だってそのくらいの事は知っていたし、街のみんなも知っていたことだ。つまり、何故書かないか。なぜ、書いてこなかったのか、だ。あまりにも情けなくて、疲れる・・。

自由報道協会のライターの上杉さんが、先日テレビで言ってた「3月14日に原発が爆発し、15日には記者たちはみんなメルトダウンの事実を知っていた」にも拘わらず、正式発表があるまで2〜3ヶ月書かないできた、という。問題は「原発村」というタブーに若い記者たちも当たり前のようにそれに従い、疑問もなく取材活動をしているということだ。ジャーナリズム何処へいったと激憤するまえに聞いてみたいな。普通の人が持つ良心とか正義感とか、何処に置いてきたの?って。本当に不思議です。戦争を賛美していた大政翼賛会のマスコミと何処がちがうの。原発タブーのマスコミ業界内トレンドの中で縮こまっているのか、なあ〜〜んにも疑問がないのかわからないけれど、所詮同類。

僕は熱心にも朝日新聞を50年以上読んできた、というより、採ってきた。僕の田舎は仙台なのでたいていの家は河北新聞さ。それが当たり前の街さ。東北大、七十七銀行、東北電力、東北大医科病院、そして、NHK仙台と河北が、仙台の巨大なイメージのものだった。その河北新聞を僕の家でも当然な世論の構造を担って昔から配達されていたのだけれども、僕が小学校たぶん五年の時に朝日新聞に変えてくれと親にいい、すぐに都会の薫りがする朝日に変わった。小学の3,4年頃から親より先に朝刊にかじりつき1面から読んでいたので、親からは期待半分の笑顔で「ほんとに、新聞すきねえ」と言われて、内心得意げな快感を得ていた。高校ではその朝日の地方版ページだと思うが「現代教育批判」なる大仰な僕の長文の論が写真入りで掲載され、仙台二高の教員たちに話題を撒いたことがあった。僕の高校の優良だけれど保守的でうんざりする体質を露骨に(やんわり描く方法知らない)批判して書いたからだった。が、作家辺見庸さんのお兄さんであられた国語の辺見裕先生は僕を見てニヤリとされ「いいじゃん」みたいなことを言われた。

そのずうっと愛読の朝日がさあ〜、もちろん、1960年代後半の学生運動していた頃から、朝日の戦前の戦争協力や戦後でも都会インテリの軽薄さやいい加減さはもちろん知っていたが、最近とみに「変」だよ。一回倒産した毎日の方が資金力無いがよい記事も多い。とくに原発に付いては読売とほとんど同じだね。また、がんばってる様子の東京新聞の爪の垢でも煎じて・・だよね。朝日では20才代で黒塗りの社有車で朝日の社旗翻して現場に行くらしい。現場の弁当も重役弁当らしく、我々は「ホカ弁」だとかつて毎日の人が言っていた。そんなガキが政治家にぶら下がって、何が聞き出せるのか。なめられるだけだろう。40才代で現場離れてシステムに乗ってキャリアアップしていく現状は誰でも愚痴るが、誰も何処の社も直さない。ラインに乗らず現役のジャーナリストを継続するシステムなど、難しい事はない。アメリカさえやれているんだ。アメリカ大統領の記者会見で筆頭質問者は、例の80代のおばあさんだ。良くやるね。亡くなったかな??

実はもう、紙の新聞は3年も取っていない。ベトナムから、2週間ぶり、3週間ぶりで帰ってまた一週間滞在でベトナムへの生活では、山積みの新聞は処理不可能となったことが理由だが、新聞が面白くない事がたぶん一番の理由かも知れない。キー局のテレビと同じで、同じ事件を同じ角度から、いつも平板なとらえ方しかしないマスコミ人と評論家が異口同音に澄まして語るのと同列の各新聞。インターネットに喰われるのは、仕組みの事じゃあないんですよ。機能の必然的交代じゃあないんですよ。コンテンツがおもろくないのです。工夫がある新鮮さが無いって事。

インターネットやメールのお陰で、若者の活字離れが止まったわけで、その反動を利用して、あの大きな新聞のサイズの良さの活用を考えれば、新聞は生き延びられる。両腕を太陽に向けて全面的にニュースペーパーを大きく広げる快感はiPadではえられない、紙の新聞以外には感じ取れない良さがある。紙新聞の命は、日頃関心のない事象を発見できることが第一だろう。つまり知識に広がりがでる仕組みがあの大判の昔からの紙には隠されているのさ。秘密のようにね。片やインターネット・電子新聞は関心あるものしか目に入らない。そういうマーケティングで成立しているメディアなのだから、生まれたときから、そう言う宿命の中にあるのさ。だから、これからの問題は、インターネットマーケティングで、モノはじゃんじゃん買わされるし、自分の今の興味と快感から離れられない志向性を若者の脳髄の最深部に染みこませてしまうことだろう。紙新聞がんばれ。拡散系メディアよ、考えろ、方法はいくつもある。・・やっぱー、新聞僕好きなのか。

そんなことで甘く考えたくないね。ともかく大マスコミのていたらくは目に余る。良心的ジャーナリストは亡くなるか、病。若いジャーナリストを育成できる制度が無いんだね。前から提案しているけれど、「研究所と青年行動隊」をミックスして大学が必要なんだ。2000年代初頭に早稲田の大学院拠点化であったか、国際化重点とかの文科省の構想募集に僕が書いた物を所轄の担当管理者が文科省に提出したはずだ。予算取りでね。友人の池田さんに聞けば思い出すかも。その中身は今の京大の次世代地球のリーダー育成大学の構想ににてるね。戦地は武器の携帯の課題が出るので、主にインド、メキシコなどの大都市の貧困地に数十人単位の早稲田の学生が、2年交代ぐらいで(4年であったかも)居住して、現地のリーダーとなって、貧困に立ち向かう、これが早稲田の大学院だというものさ。だから、これをマスコミに援用すれば、若くて信頼できる連中が育つはずさ。費用はもちろん世界に貢献せざるをえない、日本の世界企業たちだ。以前、ブログに書いたハノイ郊外の「世界平和研究所」(所長カーターかクリントン)の僕の構想(ハノイ市へ提出)に似ていると言えば似てる。同じ頃に書いたからね。

ともかく、現場で学ぶ若者たちに会いたいよ。地球の困難を背中に背負い込んだ青年たちにね。もちろん、見えないけれど、何処かの現場というか、前線でいま、胎動しているのだろう・・。

2011年9月9日金曜日

★ 「言葉狩り」の傾向、タブーの増長

鉢呂とかいう頭が良いとはいえなそうな新大臣が福島の視察中に放射能の飛散で誰もいない町を見て「死の町」と言ったらしく、それがマスコミによって餌食にされ引き回され、「撤回させられ」、謝罪する羽目になったとか。その彼は、視察の終わりに記者に自分のジャンパーをこすりつけ「放射能を分けてやる」とはしゃいでいたとかいうからかなりとんちんかんな人物のようだ。民主党の人材の無さには呆れるね。こんな大事なときに経産大臣に社会党上がりの農協ボンヤリ親爺を宛がわなければならない現状。本当に民主党の人材難の方がゴーストタウンだぜ。死の町だ、誰あれも居ない。

だけれど、問題は「死の町」と「率直に」表してしまったことをマスコミがてめえの手足を食らうタコの様に言葉尻を捉えて非難し煽る。本質には興味なく政治家のミスの暴きのことにしか興味のなさそうな態度が何年と継続されてきたのはご承知の通りさ。僕はハノイにいる、だからテレビのニュースや紙の新聞は一切見ていない。見ていないが電子新聞の2,3紙を見ているだけで「問題になりそうだ」「批判が出そうだ」と大新聞が言葉狩りよろしくはしゃいでコメントし、煽りだしていることはハノイに居る僕でさえも見える。「問題にしたくてしょうがない」マスコミの難癖精神が丸出しになっていたことは、すぐに見えた。

あのね良いですか、「死の町と言えば現地の人たちの心が傷つく・・辞任に値する・・」とかいう東京からのおもんぱかりは、捨てろよ。現地の虐げられた怒りの感覚は、東京の君らと全く乖離しているんだぜ。わかんないの?危険地域で避難を余儀なくされた住民の皆さんは自分の町が「死の町」になってしまったと思ってるよ。むしろ、死の町にしたのは誰なんだ、東電よ、町を返せ!と怒りをたぎらせているんだぜ。マスコミの冴えない若造と東京にいてことの深刻さを理解していない中年のデスクよ。君らの暴くテーマは、何処にあるの?田舎のおっさん大臣の失言を追及する前に仕事があるだろう。ジャーナリズムという大事な仕事だよ。

大マスコミ各社の労使協定にある「危険なところには社員:組合員を行かせない」ルールに乗っかっていて、福島の原発近隣の住民の被害の実態、行方不明者の捜索の遅れだって、新聞社やテレビの東京キー局各社は、何処まで食い入ってるのか。NHKの30キロ遠方からとか言う超望遠映像のむなしさ。労使協定を踏んづけ、出来るだけ現場に近づこうとするNHK撮影部社員はいないのか。原発の現場同様に、マスコミも正社員は動かず、いわゆる「記者クラブ」に入れない下請けやフリーの個人的良心に下駄を預けている悲しい現状。

科学や技術にたいしての盲目的過信からくる怠慢。根拠のない無謬神話。自然を甘く見た政府と東京電力の傲慢さが、一番の問題であった。重ねてマスコミの甘さも看過できない。特に正力松太郎が原発ビジネス開始の当事者であったことは、読売新聞も不幸で在るけれども御用学者の安全神話を「実態を知っていながらも」垂れ流してきた国民へのジャーナリストとしての裏切り行為をこの際、明確にしなければなるまい。もちろん、途中で原発容認に寝返った朝日も同罪だ。このマスコミのなれ合いで金権的環境が原発村といわれる巨大なタブーを増長させてきた。

いま、電子新聞見ていたらまた、また、言葉狩り風な読売の記事があった。「 石原氏の発言は、米同時テロから10年が経過し、当時の心境を振り返る中で出たものだが、日本人を含め、多数の死傷者を出したテロを「歴史の必然」と表現したことには批判が出そうだ。石原氏は講演後、記者団に「歴史の解釈の持論を述べただけで、テロ行為を肯定したものではない」と釈明した。
(2011年9月10日21時31分 読売新聞)

朝日新聞も「石原氏は講演終了後、「歴史の解釈に対する持論を述べただけ。決してテロ行為を認めたわけではない」とのコメントを出したが、テロを「歴史の必然」として容認したように受け止められかねない発言で、批判を呼ぶ可能性もある。」と。
・・ここにある「批判が出そうだ」「批判を呼ぶ可能性もある」が、言葉狩りの煽りの第一歩なのさ。倫理観を主観的に持ち出して非難し、世論を煽るいつもの奴。言ってる内容は何とも言えない歴史的複雑怪奇な事件だけれどもまあ、基本的には石原は間違っていないだろう。ただ、僕はブッシュが無意識に絡んだ謀略、つまり、アメリカがやった事件(もっと正確に言うとCIAが初心なイスラム原理主義的青年グループにやらせた事件)の可能性を捨てきれない。この若者らのお陰で、CIAは久しぶりで莫大増加の予算を得られ、また、産軍共同体はイラク、アフガニスタン戦争という久しぶりの特需を堪能した。

言うまでも無く、ジャーナリズム精神に裏打ちされた立場で、権力者に対抗し、且つ批判するのが彼らの仕事だ。しかし、記者クラブの面々は失言や政治資金の相当細かい「あら探し」のみにしか力点が無いようにさえ、最近は思える。外国人からの少額の献金で毎回大臣が辞任する事態も多い。いまのニュースによると鉢呂氏は辞任したようだ、まあ、TPPのこともあるので、切ったのだろう。政治家は全く新規なそして鮮烈な発言や提言がこの環境では出来ない。経済人も学者もそうだ。実はブログの炎上と同等にマスコミによる言論弾圧がまかり通っているのさ。ちょっと何かあるとつぶす。一種の集団ヒステリー状態に今のマスコミは存在する。大マスコミの諸君、昨日の前原政調会長の「武器輸出の原則」の緩和の推進の表明だとか、「失言でなく信念に基づいた発言」にこそ、「反権力的ジャーナリズム精神」を発揮してに追求や「検証」すべきなのじゃあないの。前原に比べるとかつての森首相の「神の国」発言とか、麻生首相の「みぞゆう」発言が今になると、なつかしく、かわいらしい。
永田町と霞ヶ関と大マスコミ社による「失言や呆言との小賢しいバトルが日本の世界やアジアに於けるプレゼンスを如何に降下させてきたか。
仮に第三のタブーであった「原発村」に勢いがなくなり、自然再生エネルギーの時代がくれば、今度は今までと桁違いの防衛産業による第四のタブー「防衛村」さ。前原あたりを首相として、憲法を改正し巨大利権のタブー村は受け継がれる。大手マスコミ各社の編集委員、論説委員を巻き込んで。

「幻景の明治」

大分前から、ちょこちょこ気分転換というか、読書気分に変化をあたえるためのに読んでいた前田愛「幻景の明治」(岩波現代文庫)とか、初夏からなんだか滞りぎみで「まいったな〜」の大佛次郎「天皇の世紀 第五巻」(全十二巻)もだし、更に古本屋で見つけた村上光彦「大佛次郎 その精神の冒険」(朝日選書)と、先月くらいから、ときどき楽しませてもらってる玄侑宗久「荘子と遊ぶ」(筑摩選書)、前回ちょっと触れた宮本常一「民俗誌 忘れられた日本人」(岩波文庫)をハノイの自室に持ってきて、ベッドに横たわって、寝るまで読んでいる。だから、仰向けになって両腕を天に突いてページめくってるのだから、本が顔に落ちて気がつくか、起きたら大抵本がシーツの上に落っこちていて、何処まで読んだかわかんない状態になっていること多し。なお、亀山翻訳版ドストエフスキーの「悪霊 全三巻」(光文社古典文庫)の三巻目がなかなか出来て来ない。マーケ戦略的に「焦らせ」で販売を遅らせているのかも知れないなぁ。全く読者無視だぜ。本当は買ってこっちに持ってきたかったのに。

今回はハノイ三週間以上なので、上記のように持ってきた本はいつもよりおおいが、大学での僕の講義用の「入社一年目の教科書」(ダイアモンド社)とかマーケティングの本とか、持参の本はいつもの何倍もだ。上記の大佛次郎の作品群の論評を書いた村上光彦さんって初めての人でよく知らないが大佛さんの大フアンが、嵩じて一冊書いたような言葉の配列をしていて、つまり、書く前に既に構想も展開も記述もほとんどまとまっていた様子が感じられたんだ。そして情熱的でいて、しかも清冽だし、作家に対する愛おしさが嬉しくなる。成蹊の教授だそうで、知られていないけれどかなりの良本だね。この本1972年の出版の古本だから、早稲田を中退して僕が東映の撮影所にいた頃に出版された本ということになる。当時ベトナム反戦闘争はまだ継続していたが、連合赤軍の痛ましい自壊があった年であって、僕が愛する晃子(てるこ)と3月5日結婚した年でもあった。僕22才、仕事はテレビ映画の助監督という時代さ。彼女も僕と同じで早稲田の第一法学部を出て23才、赤瀬川源平さんや中村宏さんらが教員で居た現代思潮社経営の「美学校」で彫塑を学びつつ、駿台予備校の理事長の秘書をしていた。晃子は美しく聡明であった。彼女のスマイルが今目蓋に鮮やかに生起して声や息づかいまで蘇る。

昨日、ベトナムの最大全国紙「人民 ニャンザン」と「労働新聞 ラオドン」に取材された。

2011年9月8日木曜日

辺見庸氏が3・11とその以後に在る本質を語った。

お体が不自由になられた辺見さんであるが、3月11日の震災・津波・原発事故に横たわる本源的な事象を語気強く語っています。僕にとって信頼できるジャーナリストの最後の牙城的な方です。できるだけ多くの方に読んで頂きたい内容なので、無断ではありますが、ここに全文を盗用・採録させていただきました。総ての責任は阿部正行にあります。
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特集ワイド:巨大地震の衝撃・日本よ! 作家・辺見庸さん

<この国はどこへ行こうとしているのか>
◇「国難」の言葉に危うさ−−辺見庸さん

わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
(「死者にことばをあてがえ」より)

東日本大震災発生後、辺見庸さんが「文学界」に発表した詩編「眼の海−−わたしの死者たちに」。被災地の宮城県石巻市に生を受けた作家がつむいだ言葉は、批評を拒むほどの緊張感に満ち、海を、がれきの街をはい回る。
だが−−作家は明らかにいら立っていた。

「僕は記者として、海外の戦場に立ったし、阪神大震災も取材しました。でもね、こうして馬齢を重ねて、今の日本の空気が一番不快だな。テレビ、新聞、そして、それらに影響された社会。飛び交う言葉が、ほとんどリアリティー(現実味)を失ってしまっている。違いますか」
こちらも身構え、先を促す。

「復興に向けて、被災地は一丸になっている、被災者は前向きに頑張っている……そんな美談まがいの情報が、あまりに多い。古里に電話をして聞くと、全然違う。この夏、クーラーもないまま過ごした避難所もあった。現実はメディアが描くより、はるかに悲惨だし、一般の人たちの方が絶望している」

先進諸国の独善的な戦争に異議を申し立て、深い思索に裏打ちされた文章を世に問うてきた。7年前、脳出血で倒れたが、左手だけでキーをたたき、執筆を続けている。
「国難って言葉、好きですか?」。唐突に問われた。言葉を探しあぐねていると、「僕は大嫌いだな」とたたみかけてきた。
「国難に対処することが最優先となり、個人の行動や内心の自由が、どんどん束縛されていないか。『手に手を取り合って頑張ろう』という空気は、それ自体は善意だとしても、社会全体を変な方へと向かわせないか」
例えば米軍。「トモダチ作戦」によって被災地の復旧が進んだことは間違いない。だが、「日米同盟の意義」が声高に叫ばれる一方で、沖縄の普天間飛行場移設問題がかすむことはなかったか。
「言葉の死」は薄っぺらなスローガンから始まる。言葉が死ねば、自由も個人の尊厳もないがしろにされる。辺見さんのいら立ちは募るばかりだ。
「誰もが『3・11』を分かったように思っているが、世界史における位置づけや『3・11』が暴いたものの深さ、大きさは、とらえきれていないのではないか」
そんなもどかしさが震災後はつきまとったという。もっとカメラを後ろに引いて、歴史的、文明論的な視点に立って、この大災害を分析する必要があるのではないか。辺見さんは思考を組み立てては壊し、一つの仮説にたどりついた。

「技術革新を信じる進歩の概念、人権、経済合理主義……近現代の骨格をなしてきた思想は終わったのではないか。『3・11』は、そのメルクマール(指標)になりうる」

辺見さんが続ける。
「近代科学の頂点をなすのが核技術ですが、これは核兵器と原子力潜水艦の動力に源流がある。しかし、その後は新聞も含めて『平和利用もあり得る』という論調になってしまった。ところが今回の福島第1原発事故で、軍事利用と平和利用という二元論で考え得る代物なのか、危うくなってしまったのです」
そういえば、この国は既に「核」についての確固たる方針を持っていたはずだ。
「もし核兵器と原発という二つの分野の次元が違わないのならば、非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)の対象に原発を加えてもいいんじゃないか。もちろん、これも仮説に過ぎない。でも、今はそこまで考えなきゃいけない時期だと僕は思っているんです」

<科学、これこそ新興の貴族だ! 進歩だ。世界は前進する! どうして後戻りしないんだ?>
死後120年を迎えたフランスの詩人、アルチュール・ランボーの「地獄の季節」(鈴村和成訳)の一節である。

「前進に前進を続け、その果ての今、僕らは崖っぷちに立っている。がれきの光景を思い浮かべながら読むと、近現代の終わりを強く感じます」と辺見さんは注目する。
「崖っぷち」にたたずめば、何が見えるのか。
「欧州では70年代、人間社会の『適正な発展段階』は、どの程度かということが議論された。当時、よく読まれたのがオーストリア出身の経済学者、レオポルド・コールの著書です。コールは『物事が巨大化すれば、必ず事故が起こる』と予言していた。少なくとも先進国においては、コールの言う『過剰発展社会』を作ってしまったと言えるのではないでしょうか」
「過剰発展社会」−−その最たるものが原発だったというのか。
断崖絶壁に立っているなら戻らざるを得ない。果たして間に合うのだろうか。

「近現代の流れには、ある種の『慣性の法則』が働いているので、恐らくもう飛び降りつつあるのでしょう。原発や核兵器にも近い将来、変化があるとは思えない。9・11(米同時多発テロ)、3・11、最近ではノルウェー連続テロ事件……過去にはあり得ないと考えられた事件が続いていますが、今後も『過剰発展社会』を維持したまま、規模にせよ発想にせよ、またもインポシブル(あり得ない)な事件が起こるのでしょう」

作家は、こうも語った。
「我々自身の内面が決壊しつつある。生きて行く足場を失ったという思いは3・11の前からありました。私は物書きだから、内面をどう再構築すればいいか、どのような内面をよりどころに生きればいいか。そのことを考えなければならないし、それを書こうと思います……」
「ならば、私たち一人一人が内面を再構築するすべは……」と尋ねかけると、鋭い目で記者を制した。
「そんなご大層なことを言わなくたって、もうやっている人はやっている」。突き放すような言い方だった。人間は皆、違う。それをひとくくりにする発想こそが愚劣であって、まず、それぞれが考え抜くしかないのだ−−。
辺見さんの希望のありかを垣間見たように思った。【宮田哲】

■人物略歴
◇へんみ・よう
1944年生まれ。作家。早大卒。共同通信記者時代に日本新聞協会賞、芥川賞。11年、詩文集「生首」で中原中也賞。近著に「水の透視画法」。
*僕、阿部正行が1960年代中半、通学していた宮城県立仙台第二高等学校の1年生と3年生のクラス担当教員が、辺見さんの兄である辺見裕氏であった。丸二年間国語を教えていただいた。既に亡くなられて久しい。
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辺見庸さん、毎日新聞社さん、ありがとうございました。深く感謝申し上げます。阿部正行


《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルと日付け、紹介致します。
ぜひ、ご高覧ください。多いのは一日1400名の閲覧もありました。

・2008年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC /  立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・2011年7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人

これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2011年9月7日水曜日

加齢臭がベトナムに消えた!?

この項は、あんまり僕の知人は読まない方が良いね。だって、汗の臭いとか、汗腺からでる脂身の腐った臭いというか加齢によって染み出してくるスメルの話だもの、とくに女性の友人、知人だけでなく、愛する女性たち(一応2,3名と書いておこう)は絶対読まないで〜ね。きもちわるいと思うよ。63才のお爺さんの臭いについてだからね。僕はこの20年、妻が居たときも僕の食生活は和食系であった。豆腐、納豆、ひじき、おから、わかめ、鯖、鮭、秋刀魚、キュウリ、トマト、レタス、キャベツ、生姜、ゴマ、そば、玄米含んだコシヒカリ(無洗米は使わない)、最近はベトナム米の最高味:バックフン(北の薫り)が中心で、たまに卵やお肉を食してきた。もちろん、食事時はビールか赤ワインか焼酎もイントロで頂いてきた。ここに書いたのは、主には僕が一人で作ってきたこの8年間のモノが多いが「有機農法・無農薬」にこだわってきた妻晃子の居たときはもっともっとバリエーションが多彩であったし、肉食系や油モノ、刺激物は概して少なかった。健康的であった。

並べてみると常識的には体に自然に馴染むモノが多く、汗も臭くなさそうだし、加齢臭なるものが僕に発生していたとしてもそう臭くなさそうな食物群だよね。そうでしょう?中華系やギトギトラーメン、ビフテキ、ハンバーグ系に無縁だからね。でも、男子60も過ぎると汗の臭いはある。酸っぱいようなしょっぱいような、くすんだスメルだ。インターネットで解説を見たけれど、汗の臭いと加齢臭の区別は付きにくいようなので、とりあえずまとめて言っておこう。僕はいま小太り体系だから多めに汗をかく。やせ形の人より幾分多いのだろうと思う。その分汗臭さは相対的に周囲に広がりやすく、当人の鼻の感覚へも其の臭いは風向きによって間欠的に届く。でもその程度じゃあ、分析できないので僕は実は毎日、アンダーシャーツの主に胸の所の臭いを嗅ぐ。主に着たままで前方を引き上げて、鼻を中心に首穴に入れる状態にして嗅ぐ。この方法はシャツの中に顔を入れて嗅ぐので、分析対象のスメルが逃げない状態でじっくり嗅げる。更に、臭いが逃げないように囲うシャツは汗まみれだから分析研究上、とても良い環境で時間かけて何度も吸っては脳裏であれこれ篩(ふる)いにかけて、臭いを分離し解析を試みれる。

その結果、汗っかきの僕は汗の酸っぱい臭いが、全体を覆っているので、加齢臭なる下手人をはっきりとは掴んで居ないが、酸っぱさの陰に身を隠している「米ぬか」的風采のやつだろうと思う。でも、周りの人からすれば、阿部さんの汗の臭いだろうと加齢臭だろうとその区別はどうでも良いのだろうけれど。で、見出しにあるのはこの加齢臭を含んだ発汗時の臭いが、東京では、自分で毎日密かに楽しんでるほど結構刺激臭なのだが、何とベトナムに来るとそれが消失するのだから、大不思議なのだ。以前からうすうす気づいていた。ベトナムに来ると実は食生活の事情が変わって、毎日ブオンの手料理や近所での外食となるので、一気に鳥、豚、牛、卵が増える。なのに、汗の臭いが大幅に減退するのだ。一般論で言えば科学的では説明つかない印象。論理が合わない。何故だろう。第一に考えつくことは、僕の臭覚の基準がベトナムに移動したときに何らかの原因で性能が落ちるというか、高度なセンサーが稼働しなくなるということだ。でも、そう言う事ってあるのかしら。

韓国に行って飛行場に降り立ったときにもうキムチ臭いと、国土がキムチに浸ってる様に言う日本人が結構いる。ベトナムも魚醤のニュックナムの臭いが国土に充満しているのかしらん。僕はまったく感じて居ないし、聞いたこともないけれどね。で、その臭いで臭覚が鈍くなり、自分の汗の臭いが減少するように感じることってあるのか〜。そうも思えない。第二は湿度だ。でも、これも誰でも知ってるように東京も高いしベトナムも夏は同様に「ジトジト」環境だ。その差はほとんど無いとすると、これも要因とは思えない。すると何だろう。食べ物だって、ベトナムの方が僕、お肉関係が増えているんだよ、油は増えないけれど。今のところ、正直答が出ていない。

明確に改めて言っておく。タイトルは「加齢臭が消える」とやや偏ったが、汗の臭い含む加齢臭など体臭がベトナムだと消える、あるいは大いに減退するのである。現象としてこれは確かなのだ。僕は自分の体臭や汗の臭いを嗅ぐのが嫌いじゃあないので、分析は継続します。結果をお楽しみに。
 ■実証9月30日 やはり、日本に戻ってシャーツの前部分を引っ張り上げて顔と鼻を突っ込んで臭いを何度も嗅いだ。日本では酸っぱさも混じったそれなりの強い臭いがある。果たして、なぜなのか。なぜ、ハノイではほとんど臭わないのか。

2011年9月5日月曜日

ベトナム人の瞬発力

今から、ベトナム人の行動力とか仕上げ力とか褒め称えるつもりで書き始めているのです。でも、そう言う褒められるような人物がベトナム人の大半ではないだろうし、傾向とも言い切れないけれど、でも、こういう満足経験は別なプロジェクトでも何度も経験しているのだから、遠慮無く「ベトナム人は凄い」と言い切っても良さそうだけれど、無責任に賞賛できない連中もまわりに居ることはいるので、断定はできそうにもなく、つまりは日本と大差なく「考えて成果を求めたり、モノを作り上げることに関心が強い」人は労働人口の半分は居ると見て良いんじゃあないかな。深く考える習性をたまたま得ていない人、視力は健全なのに目の前の視界に薄い膜が張られっぱなしの人って、日本の青年や壮年に結構いるよね。まあ40〜50%は優に居るんじゃあないの。もっと細かくセグメントすると差別に繋がるし、僕当人も「下層」にはめられそうになるとバカをみるから、だからここいらでこれは中断。

さて、僕の仕事で「凄いなあ」と僕を唸らせた人は主に女性2名なのですが、きちんと考え、さっさと実行する良質の50%組のその上位部分の人と言うことなんだろうとおもうが、実にゲリラなんだ。具体的にいうとベトナムのある有名雑誌の編集者であり、ちょっとまえまで、ケンブリッジという英語学校の経営者でもあり、身寄りのない身体不自由児を養子にしているアインさんと、かつては伊藤忠やホンダに勤務し、ファッションブランドを立ち上げ繁華街にブティックも持ち、人材供給会社の社長、アメリカとの合弁企業の役員などを経てきたブオンさんの二人だ。シンガポールの大学を出、その身寄りのない子供の手術では、イタリアとかアメリカまで行ってその子供のために献身しているANHさんは、どちらかといえば、国内外のメディアを通じたPRの展開に長じており、国内の人脈の動員や日本語もできるので日本語関係や税理士でもあるので、会計税務も担当してるのがブオンさんで、この二人がタッグを組んで我がハノイ日本アカデミーとNPOのVCI人材戦略研究所をベトナムに於ける確固とした位置の学校とリクルート機関にすべく動き出したのである。何とも頼もしい限りである。

で、僕は「ばかにするな、PRやマーケティングコミニュケーションは、僕の分野で在り、30年もやってきたプロなんだから」と拒絶し、金もないのに冗談辞めてくれ、とご両人に言い張った。経営の不振の実態は僕がよく知っているのであり、僕の営業努力の不足も原因の一つだが大きくは「リーマンショックからの流れのデフレであり、やや立ち直りかけていた際におこった今春の大震災が不透明な状況を引き起こしている」ことが、経営の不振の主な要因であろう、とお決まりの文句というか外部要因を並べ立てた。それは、一回の会議でなくメールのやりとりとskypeが多かったが何度も話した。でも、お茶代ぐらいしか金をかけないという。カメラマンも、大新聞も友人だし、雑誌も頼めるひとばっかり。で、阿部さんの「ネタ」は面白いので、言えば当然食いついてくる。だから、別に余計な費用は全くかからないと言う。ひゃ〜〜。何ともたのもしい。

で、面白いのは、老人阿部は、いま広報する金がない、PRの戦略は俺がプロだから、やるなら俺がやる、経営に明るい日差しが失せて丸二年経過したが、其の要因は不況が主だ、と今考えると恥ずかしい位の老人症風な論旨で彼女らの動きをつぶしにかかった。暖簾に腕押しってこのことなんだろう、僕の話を「ふむふむ」と聞きつつ捨て置き、「あらたな企画やPR材料の作成プラン」などが続々上がってきた。戦略内容はここでは明かせない。ベトナム関係者がこのブログをかなり読んでるのでね。

・・・一休みして音楽でも聴こうとYOUTUBEみたらエンニオ・モリコーネのいろいろがでていて、荒野の用心棒とか聞いているうちに、西部劇のエリアにはいりこんだら、「シェーン」聞いて涙がでそうになって、「遙かなる山の呼び声」いいねえ、そのうち「青い山脈」聞いて、ちゃんちゃんちゃん、チャンチャンチャン。戦後の雰囲気が何とも形容しがたい。原節子、杉葉子、池部良。ということで時間なくなった・・・・つづく 

で、今朝も大手雑誌社のカメラマンが来て、授業や僕のインタビュー写真などをバシャバシャシャッターを切っていた。前に言ったとおり、僕は取材する側であり、記者会見の段取りをする方であったので、戸惑いはないけれど、心持ちは微妙だ。

明日は、誰でもしっている全国紙3紙との共同記者会見がこのおばさま2名によって準備されており、一流ホテルに午前中に向かわなければならないことになっている。おいおい、背広持ってきてないぜ。日本で活躍している140名の当校卒業生の活躍の写真だとか、日本を楽しんでいる写真も数十枚このプロジェクトに渡しているので、有効に使ってくれるのであろう。
僕はここで、PRの最中だから、このブログでも広報しようと思って書いているのではないよ。彼女らの「発想」と「進行」について論評したいわけさ。なぜなら、ベトナム人社員を使っている企業のトップの方で、これを見ている人は多いらしいので、そういう方たちや、今後採用する予定の方たちの参考になればと思ってベトナム人の「生態」の一部をかいつまんでいるわけです。

ブオンは否定しているが、ベトナム人は概して計画を立案することが好きではない。頭の中でのプランは当然あるんだろうけれど、紙に出力して掲示するような計画には関心が無いように感じてきた。だから、僕の著作でも「計画きらいなベトナム人」と論断していた。でも、大きなプロモーションの計画だし、仕事もプロフェッショナルで鳴らしてきたお二人だから、日程は何時も唐突でいつものようにまごつかせられたが、PRのプランは媒体計画といい、サーキュレーションといい、演出的な全体の計画などは天晴れなモノでした。ただし、いっとくけれど、日本人の様に計画書作成自体が目的のような計画はまったく、考えていない。柔軟でいつでも変更可なしなやかなイメージだけを考えている。彼らは「日々動いているはずの事態と要因」が固定してしまう「計画書」に意味を感じない発想なのだ、煎じつめると「生きたライブな計画」は持っていると言うことだろう。紙に印刷しているかどうかは別ですがね。

つまり、ベトナム人も当たり前と言えば当たり前なのですが、ビジネスの最前線に身を置いてきた人は、全く日本人と同じに、様式はアメリカ式であったり、フランス式で合ったりするものの、ビジネスの戦闘に勝ち抜くセオリーと技術力は持って居ると言うことです。むしろ、始まったら徹底的です。遠慮なく、かつ大げさに言えば無慈悲でもやり抜く決意を胸に秘めて決起している。日本人はそのあたりの事情をよく知らず、自分より下に見ている気配(非能率的だなあ、とか)がまだまだある。でも、ちょっとそこがちがうんだなあ。

例えば、報連相は日本人が編み出したものだ。だからベトナム人だけでなく、アメリカ人もロシア人もインド人もタイ人も得意とはしていないと思う。報連相をインド人やロシア人が大好きだとは聞いたこともない。NYのビジネスマンだってそうだろう?報連相にある思想は根回しであり、情報の共有であり、決済の積み上げだ。僕らにとっては生活の一部にもなっているので、疑問も抱くことはないが、これは正規軍戦用の技術であって、ゲリラ戦用ではない。ゲリラは身内すら欺くほど唐突でなくてはならない。僕は生態を理解しているのはベトナム人しか居ないので、ここではベトナム人の事だけいうが、「順調に進めているのだから報告する必要は無いだろう」と彼らは思う。「連」の連絡は世界の誰もが必要な範囲で行っているので、当たり前のこと。「相」・・・年齢に関係なく競争に曝されている世界のビジネス界で、上司にあたる人物に「相談するか」どうか。ここが日本と大いに違う。半年以内に退社し、競合社にコンバートするかも知れない上司。1年以内に自分が彼の上司になるかもしれない社内競争関係。

日本はともかく穏やかで上品な文化が人間関係を覆っている。親や兄のような上司たち。人生、あくまでこの会社でやっていきたいと思わせる親爺社長。こういう環境では相談はとても有効だ。秩序が整然としていて、上意下達が明解だ。もちろん、現在の日本の企業社会で、このような「昭和な」世界は大分縮んでいるだろう。だいぶ、変化した面も多いだろう。でも、事業部制にしても年俸制にしても80年代からのバブリーな雰囲気の中で盛り上がった「改革」は大抵失敗に終わっている。前にもブログに書いたが、アメリカのエクセレントな良質企業は、日本の終身雇用の制度を改革したような「安心」「忠誠」を柱にした雇用体制に変えつつある。こういう企業では「報」も「相」も有効だし、実行される素地が大いにあるだろう。

ベトナムの二人のベテランビジネスウーマンを例にとって論旨をまとめたいと思ったが、どうも左右に揺れて、まとまりきれない。結語として、言っておきたいのは彼らには、身内の僕らもサプライズさせる行動とアイディアがあり、瞬発的に勝利できるパワーを秘めているということだ。「立ってる者は親でも使え」のような総動員で目的に向かう決意。そして、バブリーな雰囲気があるベトナムだけれど、まだまだ「お金だけでない、意義とか面白さ」を楽しむ面々が居るということだね。面白ければ友人誘ってパッと行動。昔の全共闘っぽい感じかな。そう言う人たちがベトナムの今日、明日の主導権をとったとき、ベトナムは国として、社会として更に大きなうねりがはじまのだろう。でも、彼女らは、自力でもう社会の中心の一歩手前まで来ている。期待のアラフォーである。そう言えば、彼女ら、子供はいるが独身だ。

2011年9月3日土曜日

相田みつをの何処が良い? / 僕のベトナム著作の概要

意外になかなか演説の上手かった野田さんが首相になって、別にだれでも良いんだが、世間は実はホッとしたのだろうと思う。何度か批判している友人海江田が首相じゃあ、日本国としてあんまりだもの(ごめんね海江田さん)。海外で日本語の拡大とか、日本のプレゼンスの上昇を願いつつ、踏ん張っている僕たちからすると、海江田で無くて本当に良かったし、彼自身も実は断れない善良さでここまで来ているので、いつの間にか「やばいぞ。このままでは、総理大臣だ」と芯から焦っていたはずだ。女性・家族問題も一気に出てくるし、世界のメディアは「大泣き」画面を連打するはずだしね、宇野首相と世紀の短期間総理を競いかねない事態に陥るからだ。
おめでとう海江田さん、成れなくて本当に良かったね。勝負あったあとの記者のインタビューにあなたは、実に晴れ晴れと「野田体制への協力」を語っていた。

で、最近その野田さんのお陰で話題のへたっぴ相田みつをだ。今から20年前、日本のサブカル世界では「ヘタウマ」なる際どい「良さ」、微妙でマイナーだけれども若者の心を掴む作品群がおもに漫画界であふれ出たことがあった。元祖は「砂川ひさしげ」先生と思うが、吉田戦車、渡辺和博、湯村輝彦、蛭子能収などがコミック誌「ガロ」などを中心に開花した。「ヘタウマ」は、一見下手に見えるけれども、読者の心の襞(ひだ)に染み入る実力がある作品群をいう、あるいは作家たちのことを指す。相田みつを氏のいる領域を辿ってみよう。まず、子供の心や子供の言葉を深く引き出して、子供の持つ世界から大人の世界に橋渡しをしている作家は多い。有名な詩人だけでも北原白秋、堀口大学、三好達治、草野心平、まどみちおなどがいるし、阿久悠もかなり書いていたようだ。多くの童話作家も、童謡の作詞家も含まれるだろう。僕たちが自分の幼児期の世界に追体験させてくれる優良な詩歌たちを彼らは、プリミティブな言葉を通じてひじり出してくれている。

一方、書の世界ではさすが子供の言葉を使った作家は少ないのだと思うけれど、「人生訓」や「志」を詠った書でなじみがあるのはやっぱり武者小路実篤の一連の書画だろう。お土産物にまでなってしまったのは笑止だが、初期は燦然と理想が輝いていた。立場はまったく違うが中村天風の「訓令」ことばと書もあるだろう。今は思い出せないけれどそういう書画もいくつもあるだろうと思う。先日、NHKBSで能書家でもある空海の「飛白体」の書を見る機会があった。まさに一文字というか一つひとつの「かすれ」に宇宙の森羅万象が収斂されている感じさえした。つまらない言い方かも知れないが、空海の書の一文字がピカソが代表する現代アートを悠々超えていたと感じさせた。僕の魂を奪ったんだ。書は1000年の時空を超えるものなのだろうと改めて思った。

へたっぴ相田みつをは本当に下手だ。筆の線と流れを見れば、誰にも二流か三流とわかるね。「ヘタウマ」をねらった詩文としても、本当に稚拙そのもので、ヘタに隠れた普遍性が本当に見あたらない。ダブルでそうなのに商業主義であるというのがまたまた悲しい。さらに、それを銀座を拠点に全国販売しているんだから、手に負えないよまったく。確かに「プリミティブ」なアフリカ作品とかもそうだが芸術の評価は簡単ではないことはたしかだ。昔、僕と亡くなった妻は二人の子供たちの絵本として「障害者の子供たち」の作品集の絵本(絵画と文字)を「ノンタン」シリーズとか、加古里子の「だるまちゃん」や「とこちゃんシリーズ」なとと一緒に与えて、読んで聞かせていた。障害者の子供たちのまさに素朴な絵と心から何の迷いもなく紡がれた言葉は素晴らしい作品も多かった。

それに比べてだよ「金魚がドジョウのまねすることねんだよな」でバランスおじさん野田首相が、労組あがりの輿石を抱き込むために輿石が愛好していた相田みつをを使ったという。あははだね。日教組の専従から成り上がってきた輿石の書や詩歌の芸術的価値観など知るよしもないが相田みつをにしびれているのは大いにあり得るし、まあそんなもんさ。相田の典型的なフアンの一人かも知れない。僕が相田みつをを毛嫌いするのはジャンボ尾崎とママでも金の柔チャンが嫌いなのとたぶん同列で、それはさあ、「臭い」のさ、誠実な人間性が感じられないというか。まじめじゃあない印象を全体から感じ取れるからなのだ。つまり偽物と思えるからだ。

価値のある芸術とはプリミティブの分野で在っても素朴な心や言葉からであっても、普遍的に昇華する能力があるということだ。仮に障害者の作品でも小学生の夏休みの宿題の絵画でもビビッと僕らの魂をふるわせる作品はいくつもある。銀座の相田みつを美術館で一儲けを企むことは、芸術に対する冒涜としか思えないね。価値のないものを売りつけるのは本当にどうかと思う。マスコミなんかも、本当は作品の質に疑問を持っている人も少なくないと思う。空気を読んで言い出せないのだろう。やれやれ・・。

■ 予想はしていたが、ベトナムでオリジナル著作を出すのは本当に大変であった。まず、日本なら本の製作の過程は充分に知っているし、経験もして来たわけだが、全く文化が違うところで、翻訳に頼った作成なので翻訳の質とかどの程度の意訳も加えるか、例え話でさえ通じないモノもあるので、翻訳の先生には大変お時間を煩わせ、ご迷惑をおかけしてしまった。特にこの本は日本とはどういう国かの総合的な情報と知識を網羅することが目的のひとつであるので、書いた分野は幅が広い。さらに現象には本質があるわけで、僕なりに「耕論」した試論も多く、翻訳者は大変戸惑ったことも多かっただろう。さらに、日本人のちょっとした高校生ならば、大抵名前ぐらいしっているドストエフスキーやカミユなどは、文学の専門家以外はほとんど誰も知らないし、僕の情報多種多様な展開スタイルの中では相当規制せざるを得ない側面も多かった。だからといって、彼らベトナムの青年たちは能力が無いと言うことでは全く無く、逆に日本人がAKB48の高橋だ前田だ小島だのアイドルたちの名前まで知っていてどうするのかと思うようなゴミみたいな情報に朝から晩まで押しつけられている惨状が浮かび上がってくるだけだ。どれだけ歴史的に異常な情報過剰社会に我々は立ち尽くしているのか。ベトナム人の若者向けの想定を考えるだけでも、僕自身は学ぶ事も多かった。

また、社会主義国であるベトナムでの言論規制は当然あるだろうが、別にとやかく介在してくることは無かった。言うまでも無く新聞、テレビ、出版:印刷は、国営か、それに準じた企業で運営されていて、まだまだ揺るぎない。
以下、どのような内容かを知っていただくために「目次」を示した。が、最終ではありません。なお、この本は2012年7月に大手のアルファー出版社からハノイ、ホーチミンを中心に大手書店50店舗のネットワークで販売が決まっています。350ページ前後。


『めざせ、ニッポン!!』 2012年 版
〜いま、チャンスの日本留学と就職のための教科書〜 
君もサムライにならないか?

はじめに
〜この本の読み方〜

■第一章「日本語は、君の生き方を大きく変える」

1 新幹線もオートバイも環境技術も日本の得意な技術です。ソニ
ーもトヨタもホンダもキャノンもパナソニック、ユニクロもみん
な日本の企業です。
2 日本には世界一の技術やコンテンツと、深い企業文化があふれ
ている。
3 世界一長寿の企業も日本にある。何故だろうか?
4 日本は、ベトナム人の「日本語サムライ」を待っている。君は
何をしたいのか。さあ、君の「適職」を探そう。
5 さあ、リアルに君の今後をシミュレーションしてみよう。ここ
では、ある二人のサンプルを創作してみた。就職活動の参考にし
てくれ。
6 日本語ができるベトナム人が少なすぎる。少ない今だから、君
に大きなチャンス有り。英語より有利だ。
7 知ってるか?日本は若者が減っている。だから若いパワーが欲しい。
8 日本には、既に中国人や韓国人などの若者が100万人以上も
来て、頑張って仕事をしているよ!ベトナム人は4万人未満だ。
9 何故か、日本人はベトナムが大好きなのだ。
10 日本政府の「30万人留学生計画」とは何だ?簡単に説明しよう。
11 日本留学は子供への“輝かしい未来“というプレゼントです。
言い換えると、愛の投資ということだ。

■ 第二章「そもそも、日本はどういう国なのか?美しくてまじめで  
不思議なサムライの国なのだ」

1 第二次世界大戦後の復興と技術の蓄積の歴史をみてみよう。
2 現代のニッポンを変えた4つの要素
3 日本人の伝統的環境を守る心と3月11日の大震災        
4 勤勉さ、倫理感、生き方についての日本人の心・・参考になる
はずだぜ。
5 学力と教育システム。日本は「フツーの人」がすごいのだ。 
6 日本の大学生の就職活動って、凄まじいぜ。
〜リクルート社の勃興〜
7 情報社会の中のメディア。特にテレビと新聞を検証してみた。
8 サブカル大国。世界一のマンガ、アニメ、ゲーム。
9 不思議なメンタリティー・・「公平と正義」日本はかなり社会主 
義的?!
10 企業市民とか、企業の社会貢献とか。サムライは深く認識し
てほしい。 
11 東京オリンピックと大阪万博。そして団塊の世代と高度成
長は、戦後日本の象徴である。
12 海外PRがへたな日本。ODAが有効に活かされていない。
日本の努力をぜひ、君らに知って欲しいのだ。

■ 第三章「日本語をどう学ぶか。上手な方法はこれだ!」
1「演劇的・大声・暗記」
2「書き写し」と「google、yahoo、ウィキペディア」
2−1 「書き写し」
2−2 「Google、YAHOO! WIKIPEDIAの日本版の活用」
3 VCIの日本語上達法のエッセンス
4 計画と持続性
4−1 計画を立てる以前の一番大切なこと
4−2 「計画はきらいですか」
4−3 「目標」をたてることから
4−4 「持続性」
5 VCI先輩たちからのアドバイス  
6 恋人から学ぶ

■ 第四章 就職したい日本の企業に君が選ばれるためのノウハウと
「日本企業の世界一の特徴」を君に教える
1 採用されるポイントは、はっきりしている。
2 面接時の主な質問
3 必読!「日本企業の品質についての考え方」
4 徹底した社員教育がある。日本企業の特徴の一つだ。
5「公平、協調、チーム」。ベトナムの文化と違うので深く認識して
欲しい!!
6 長期雇用、厳しさと優しさ。未原稿
7 さあ、自分の未来を描けるか?イメージできるか?

第五章 さあ、アクセスしてくれ!計画を作ってみてほしい。
http://www.********

第六章 あなたのソリューション
1息子や娘の日本留学を考えて居るお父さんお母さん  
2自身が日本の大学や技能専門学校に留学したいひと 
3ベトナム国内の日本企業に就職したい人
4日本の国内の日本企業に就職したい人
5日本企業と取引を増やしていきたい企業幹部の人
6日本人と結婚したい人
第七章「日本語で成功したサムライたち」インタビュー 5名
「留学生座談会」 4名
第八章 FAQ   
謝辞 
奥付  ・・・・   350ページ前後の本を予定

下記に、僕の「謝辞」だけ、のせておきましょう。僕はこのような気持ちで書いたわけさ。

あとがきと 謝辞 (一部)

■ この本を書くことにした大きな動機は、アジアの中で日本のプレゼンスというか日本の全体的魅力の低下傾向が明確になり、日本が好きな人の多いベトナムでさえ韓国人気に完全に押され始めている現実に日々曝されているからである。中国人気や中国語学習者は前からおおきなトレンドであるけれど、このままでは更に圧倒に差を付けられよう。HCMCのある有力日本語学校では5年前には、年間5000名の生徒を扱ってきたが、今は何と年間2000名だそうだ。現状はここまで来ている。だから、僕だけでもまずは、動き出そうとこれを書いたというのが正直なところだ。そして、それだけではなく、それをさらに具体的にするために、僕のもっているリクルート関係の知識とノウハウを総動員することによって、やる気のあるベトナム青年にどんどん日本企業に就職できる様にするために、また有力大学や、多様な技能と学科がある日本の専門学校などに留学してもらうための検討をすぐにしてもらうための「就職&留学技術本」として、書いた。いわば「日本の歩き方」さ。続編も計画している。学生や卒業生は一定程度日本語も読めるし、せっかく書いた日本の社会の僕の把握の仕方も日本のお客様始め友人や関係者にも読んで頂きたいので、日本語のオリジナル原稿も部分的に同時掲載してみた。

この本の課題点は現況の日本社会が抱えている問題点や「社会的病理」などにはほとんど触れていないことだ。書きながら苦悶したところも何カ所もある。でもまあ、この本の出版の目的と位置づけ上、何とかご理解いただきたい。その点はベトナム人の青年たちが日本に来て現実と向き合ってリアルに「先進国ニッポン」を体得してくれればいいのだろうと思っている。

■ ご存じのように石巻市大川小学校は全校生徒108名という小さな小学校であったが、海岸に近くにあったため津波で74名(不明者含む)が亡くなってしまった。日本人が忘れられない悲劇のひとつだろう。我が子を失ってしまったお父さんお母さんの悲しみはどれくらい深いモノであったろうか。悲しみの中であるお母さんが、明るい娘を思い出したい、ひまわりのような娘にまた会いたいと考えて、学校のそばの空き地にひまわりを植えました。その心に賛同してやはり子供を亡くしたお母さんたちもいっしょにひまわりをたくさん植えました。途中で台風が来たり、海水がかぶってしまった土地ですからひまわりの育成に困難もありましたが、お母さんたちの努力で8月にたくさんのひまわりが見事に咲きました。お母さんたちはみんなで手を取り合って喜びました。そして、たくさんの種子を収穫しました。来年にはもっとたくさん咲いて欲しいからです。僕はこのお話をテレビで知り、感動しました。そして、日本人らしい心をとっても表していると思いました。このお話は、何時か「童話」となり「昔話」となり、幾代にもわたって日本中に伝わってほしいと心から強く祈念しています。
■ 以降、翻訳者とか、協力者名とか阿部の経歴とかが続く。  以上・・