2010年3月31日水曜日

いきなり有名、生方さん

俺がこんなに強いのも当たり前だのクラッカー。僕らが中学の頃、一世風靡した藤田まことさんのコマーシャルフレーズだ。多勢に無勢でも、立ち上がるときにやらねば、何時やるの。民主党の生方(うぶかた)は、元早稲田の全共闘(で、多分解放派系)だよ。あれぐらいの反旗は当たり前だのクラッカーだよナー。それぐらいはやらないと、全共闘あがりの政治家として、恥だよね。当時の記憶ではかなり童顔の人であった印象であったが、最近のテレビでは”内蔵助”が相応しいくらいのサムライ顔になっているね。結構凛々しく画面に映っている。ところで高嶋とかいう「筆頭副幹事長」の面(つら)があまりにも貧相であったので調べてしまった。
時間が無駄なのにね。やっぱー労組(ろうくみ)あがりのようだ。まさしく馬鹿面だものね。小沢が凄いのは、党内で人数の少ない小沢の自由党系(かつての新進党など)を膨らませるには、頭の悪いかつての労組あがりの日本社会党系を騙せば、かなりの党内磁力を発揮できると踏んだことであろう。赤松とか、輿石とか、社会党を「右旋回」して裏切って来た連中の脆弱心理を鷲づかみさ。赤子を捻る何とかのレベルでの党内権力掌握。流石は天下の田中派さ。まあいい、生方さんの次の一手に注目したい。テレビに引っ張りだこに一時的になっても、ながもちはしない。バカ殿鳩山をけしかけて、腰抜かす「普天間案」とか、ぶっ飛ぶほどの成長戦略構想、またアジア共生ニューディール施策などを打ち出さなければ、一時のスポットおっさんで終わるぜよ。やや頼りない海江田も慶応のフロントあがり。仙石さんは東大のブント系らしい動きが最近垣間見れる。民主党、変わらなくっちゃあ。このままなら、自民の河野太郎らのグループの方がまだマシだぜ。

3月中旬機上でリチャードギアの「ハチ公物語」のリメイクを見た。こういった思わせぶりな涙作品は昔から嫌いだ。安直の権化だぜ、と言いながら、途中だが見始めた。それもレシーバーをもらって居ない環境で。つまり音無で、途中から見始めたという訳さ。サイレント映画と同一条件での観客と相成った。今までの機上のビデオ映画の鑑賞で隣席の人の目も気にせず大泣きしたのは2年ほど前に見たジョニーデップの「ネバーランド」だが、この「ハチ公」も正面から正攻法で涙腺を刺す。これでもか、という「フジテレビドラマ」風な厭らしさがまったく無かったので、涙が止めどなくこぼれた。映画の品質が良いと言うより、直(ひた)向きに待つハチ公という犬の無垢な気持ちが、心を打つ。敢えて言えば、ハチ公という伝説のそして、映画の役としてのハチ公でなく、演じている白い秋田犬その「本人」の持っている無垢さ、純真さが、リチャードギアほか人間の演者の演技を遠慮無く超越出来ていた。信じる事の尊さ、ひたすらに待つという静かな熱情。僕たちがとっくの昔に忘れ去り、何処かに置き去りにしてきた大事なことを犬の瞳が思い起こしてくれる。説得力ある映像はやはり、サイレントにも耐えられるんだね。音が普通に聞こえていたと、途中から錯覚してしまって居たくらいだった。

先日、久しぶりにホーチミン市に商用で行った。ホーチミンは元々大統領の名前だから、通常「市」を付けて区別し、ハノイは、通常HNと書きCITYは添えない場合が多い。だからホーチミンはHCMCと略す。最後のCは、CITYである。午前中に重要な会議があり、それはともかく上手く進展し、午後の次の企業に訪問となった。会議の場所からこの企業の工場は結構離れていた。11区から7区への移動であったが、大分遠回りをしないと行けない様で300000ドンぐらいタクシー料金がかかった。1500円超だから、結構な距離となった。が、目的地が工業団地の中で、帰りの車も探すのもやっかいと思ったので、待たせてまた乗った方が楽だな、と判断し丁度ランチタイムであったので、タクシー運転手にも、ランチご馳走し一緒に食べた。終わってもまだ相手さんの約束時間まで30分ぐらいある。そうしたら、運転手がお礼にコーヒーを飲みに行かないか、それは俺が払うと言ってきた。それは嬉しいし、じゃあ行こうと言うことで、工業団地の入り口のイタリア人らしい男が経営しているカフェーに入った。レジに居たちょい悪風イタ公オヤジがぼくにチャオと言った。ベトナムのCHAOなのか、イタリアのCIAOなのか、分からないが。

運転手の青年は注文してくれたり、運んでくれたりといそいそと動いてくれる。なかなか良い奴じゃん。お互いの意志の疎通は、双方の片言な英語だ。だから、話すのが面倒で沈黙が二人を支配して、ただ黙々コーヒーを嗜む時間が多かった。でも、どうも大学はかつて行ったらしく、今は仮の姿のようで、何か次のやりたいことに向かって準備中の様である。なるほど、良い奴じゃん。で、ぼくはオシッコに行こうと腰を上げようとしたとき、ふと次の動きをどうしようか迷いだした。PCや財布などが入っているショルダーバックを肩にして、立ち上がりトイレに行こうか。いやあ、それは、コーヒーを奢ってくれた人の良さそうな青年にあまりにも失礼じゃあないか。もうかれこれ1時間半ぐらい一緒だし、安いランチに対して、ほぼ同額のコーヒーを勧めた青年だぜ。それじゃあいくら何でも、カバンがとても心配で、持ってトイレに行きますと、あからさまに言うも同然じゃあないか。ちょっと、それはないぞ。でも、でもだよ、万が一トイレの留守中にこの青年にカバンごと盗まれたら、これは、最悪だよ。お金はまだ良いが、あらゆる資料データが入った我がMACが無くなったら、俺の人生どうなるんだべ。心配の神がぼくを覗いて強く言った。でも、タクシーで犯罪はしにくいだろう。ぼくは客として後の席からメーター近くにあるタクシー会社の名前入り掲示を見ている訳だし、この青年、それを無視するほどの馬鹿者には見えないし、人は信じるべきさ、とヒューマン神も強く反発している。どっちにも一理はあるが、やっぱー青年の心を傷つけたくないな〜。で、その時、僕の常連のアイディアの神がいきなり舞い降りてきて、オシッコを我慢することにしたさ。既に苦しいほどにぼくの膀胱は悲鳴を挙げ始めていたが、アイディア神の「お告げ」なので仕方なくこのままお客さんであるTAZMOさんへ彼のタクシーで向かった。

2010年3月30日火曜日

★ 僕流アミニズム / 僕の岡本太郎体験 / テレ朝「サンデープロジェクト」の打ち切り

■ 先日、3月中旬に鎌倉の鶴岡八幡宮の大きな銀杏が倒壊した。神社仏閣に不案内なぼくはニュースで知っただけで、とりわけての感情も湧いてこないが、ご近隣の主婦がかわいそうにポロポロ涙をこぼしながら自分の人生と照らし合わせてカメラに向かって語っていた。おそらく「ともかく取材してこい」と言われるままに来たとみられる無能そうな青年のインタビューに答えていた。最近の情報だと、「今まであったそばに移植し若い芽の成長を見守る」ことになったようで、産経新聞などは「今後1000年間参拝者は、同時進行でその生育を目撃出来よう」とか、かなり大時代的表現で伝えている。また、そのちょっと後、昨今のLEDの時代に押されて「マツダランプ」でお馴染みの電球の製造が老舗東芝で終了したこともニュースになった。中小の他社では、しばらく継続されるようだが、あのエジソンが創った暖かそうな色合いのフィラメント付き電球とも僕らはいずれおさらばする事になるらしい。ニュースでは、数十年にわたってこの白球電灯を地味に製造してきた「機械」様に東芝の現場の社員たちが神妙に手を合わせ、涙していた。樹木に祈る。機械にさえ涙する感性。解る、分かる、その気持ち重々に分かります。神社や仏閣が継承してきたいにしえからのご神託の神木とか御石とかは、天の邪鬼のぼくにはもう一つ心の乗りは悪いが、故郷の森や山河また、長らく愛玩してきた物に畏敬や生命を感じて祈る姿は、とっても分かります。

何を隠そう、ぼくはかなりのアニミズム派なのです。ぼく流の解釈でそれは、あらゆる事物に生命が宿っていると考えることであり、モノによっては神すら宿っているという伝統生活に根ざした文化の事だ。山や岩、巨木は言うに及ばず、いま目の前にあるコップ、薬瓶、カメラ、時計、鉛筆とかボールペンにも何らかの生命というか「人格」が、有るだろうとぼくは思う。いや、在るだろうと考える性癖、否もっと正確に分析すると、そういう感覚がぼくの生活と思想の起点を為している様なのである。これは、子供の時から随分と長い間続いているぼくの生の感性なのだ。これに関しては親爺とか、誰かの影響を受けたわけではないし、幼少期にそのような影響を与えるような本を読んだわけもない。いわば、性癖に近い感覚なのだと思う。

先日テレビで「熊野参詣」についてのドキュメントを見た。所謂、神社神道に収斂されないもっと原初的なアニミズムの世界であった事についても解説もしていた。僕ら人間は、何故に自然や事物に命とか神の降臨をみとめるのか、そして何故祈るのか。人は自然界に神の存在を認め、何故対自化するのか。そして祈ることで何を解決しようとするのか。日本人は何処の森から来て、何処へ去ろうとしているのか。その森に生命が在ったのではなかったか。さらにそこは密度の高い祈りの場ではなかったか。ぼくのなぞは深まるだけで、むしろ言葉で綴る答えも必要としていない感もあるような・・。日本原住民、縄文人、大陸から来た文明的弥生人たちが、何万年と培ってきた生活のなかの様式の一つの祈り。その祈りや生命への畏敬は森や山岳、海原の中から現出してきたものなのだろうと思う。世界のあらゆる生活の場に祈りはほとんど同じ意味合いで発生し、現代に連なっている。その祈りは、時代が変遷し、さらに異文化の流入も相次ぎ、さらには地球上のエントロピーの増大が急激化し、あらゆる事象が猛スピードで変化していく時代になっても、祈りは、綿々と静かに伝承し、継続されてきた。そして現代はその環境の中で、民衆はむしろ祈りに対する関心というか、内的な誘導を強めていると思えることが多い。

ぼくが中学校の時、高校の受験を目指して、毎日学習に励んだ一時期があった。その時、ぼくはぼくに付き合ってくれた辞書とか、鉛筆、あるいはノート、教科書、消しゴム、デスク、イスに至まで、ぼくは感謝の祈りを捧げていた。ぼくの祈りはお寺さんや神社での手を合わせた祈祷とは違い、黙礼のようであったと記憶している。ぼくはいつも机上の本とか、ノート、鉛筆まで全ての物は、毎日勉強終了時に整頓し、一カ所に集め、本とノートが机上で離ればなれにならずみんな一緒に手を繋ぎ、イスまでもデスクから離さずデスクに触れた状態にし、寒さ対策で着ていたちゃんちゃんこも丁寧にイスの背もたれに掛け、離れたところに在った消しゴムも、キチンと辞書さんとかノートさんと触れるところに置いてあげるのであった。お世話になった人々に感謝すると同時に消灯後真っ暗な子供部屋で、大切な文具さんたちに不利益がないように、孤立して寂しいことも無いように、配慮しそして就寝していたのである。
永い人生の歩みで幾分老獪になった今は、その所作はほとんど無いが、僕の体内に流れている感覚は、そう薄まっているわけではない。

今年になって、無垢とか無為について少し書いた。そのことと同じ軌道にこの「祈り」と何にでも命が宿っていると思う感覚が現在のぼくの内部に静謐に漂っているようである。

■ 大阪万博の40周年だそうだ。♪♪「こんにちは、今日は、世界の国から〜〜」の三波春夫の万博音頭も耳奥に甦るね。確かぼくが短期にいた日活撮影所から、練馬大泉の東映に来て間もないころであったはずだ。ぼくが早稲田を中退し仕事を始めたまさに1970年の3月だ。ぼくより年長のスタッフが、「万博行きたいね。面白そうだ」とかほざいたので、当時のぼくには”こういうバカな祭典は、日本帝国主義の子供だまし”程度にしか理解していなかった青っぽいというか、狭量な左翼急進派のガキとしては、瞬間湯沸かし器のごとくに沸騰し「インチキ祭りで、ほいほい浮かれるんじゃあないぜ」みたいなことをその先輩の特機(撮影のためにカメラをカメラマンごと乗せて、移動するトロッコ状の特殊な車を扱う人)の兄ちゃんに言い放ち喧嘩になったことを思い出す。まあ仮にそう思ったら、そう思ったでキチンと丁寧に説明すればいいものを、そう言う過程も七面倒くさいフテた苛立ちと、その幼稚な対処の仕方を恥じるね、40年前でもね。

万博と言えば、太陽の塔だ。岡本太郎さんだ。青山のこどもの城に在る作品も、世界のいくつかに設置されている一連の作品も、全部似ている。同じといっても良い。頑固なのだろう。言わば絶対進化なぞしないぞという頑固さ。そう簡単に世情に連動して変えてなるものか、俺はこれだけで行く、というこういう孤高の個性が、言葉を換えれば、芸術って奴さ。この一貫したアホさがなけれ世界の芸術界の頂点には立てない。ダリもピカソも顔を見ただけで、その常人でない何かは分かるよね。その常人でない同族の士、世界の「TARO OKAMOTO」と南青山のアトリエで1対1で面談したことがある。1980年代中半であったと思う。

正確に言うと3人での打ち合わせであった。事実上の奥さまで、長年秘書をされている美しく気丈夫な佇まいのその筋では超有名な敏子さんも仕事だから当然同席された。ぼくは当時ある企業の大型のイベントのプロデューサとディレクターを兼務で仕事をしており、縄文文化をいわば、大爆発させる構想で企画を推進していた。縄文なら、縄文大好きな岡本先生にも一部加わっていただこうと、生意気にもアトリエにお邪魔したと言う訳なのである。先生から「縄文車」を創って、都内を駆け回ろうというアイディアも出た。乗用車に「縄文的な設えのデコレーション」を施して、縄文車を作る訳だが、警察の許可が全く取れず往生した。また、ホテルの中に縄文的なイニシエーション空間を作り出し、お客さんを集めた衆目の中で美しく幻想的な儀式を執り行うなど、企画は先生とお会いして一挙に進捗したことが思い出される。

当時の南青山のご自宅兼アトリエは、現在のようにカフェーなどが併設されておらず、静かで広い庭のお屋敷の様相であった。ファサードを進み玄関に入ると岡本太郎先生が出迎えてくれる。あははは、勿論ご本人ではない。精密なレプリカだ。確か赤い服をお召しの人形であったような記憶だ。やや暗がりの玄関口ではあったが、一瞬どきりとさせるリアリティがある。先生らしい遊びなのだろう。それはどなたか有名な方からのプレゼントだとも先生は言っていた。庭には、芝生の上に色々な動物の造形の作品と太陽の塔の小型のような作品も数多く、かなり無造作な印象で展示というか、設置されていた。先生の年表を今紐解くと、ぼくがお会いしたときは74,75才で在ったようだ。が、「芸術は爆発だ」の叔父さんは、全く衰えを知らず、若造のぼくにアイディアを惜しげも無く、息継ぎも忘れたようにまくし立ててくれたのであった。紛れもない不世出の天才とは、こういう御仁を言うのであろう。

岡本先生と敏子さんとは、その1,2年後に飛行船研究会という空にロマンを求める人たちのグループの忘年会(か、新年会)で、再会した。当時ぼくは日本で本格的飛行船を製造・運行しようとされている方に賛同して、いろいろ協力していたので、その関係で、またお会いできたのだ。長女が3,4才の頃、小平の広々とした霊園公園で遊んでいたとき、頭上から「ルルルルル〜」と軽快な機械音が聞こえてきた。ふと見上げると巨大な飛行船が、あのヒンデンブルグを想起させる飛行船が悠然と、さらに威風堂々と東に航路をとり進んでいた。その偉容は名状できない何かのイメージをぼくに植え付けた。「飛行船だよ。飛行船だ、これが飛行船なのか」と娘に語るように自分の感嘆詞をつぶやいた。それが研究会入会に直結した。

■ 3月28日の日曜日自宅でいつものようにTBSの「爆笑問題のサンデージャポン」と「田原さんのサンデープロジェクト」のどっちを見ようかなと思ってザッピングしていたら、「サンプロ」が最終日であることが分かった。民主党の管と亀井の言った言わないのアホな水掛論をやった日だ。田原総一朗さんには、昔とてもお世話になった。このブログの2008年11月23日にも少し触れたが、彼が岩波映画製作所から、東京12チャンネルに移動して、「青春の映像」などそれまでのテレビではあり得ない、逆に今は絶対にあり得ない「青春の戦いを恐れず突き進む群像たち」の応援歌的なドキュメンタリー番組であった。同番組の仲間の作家たちも異端で凄烈な戦士たちが集まり一つの闘うドキュメンタリストの徒党が現出したのであった。その後1970年になり、田原さんはテレビ東京で干された状況となり、ぼくがお会いした時には退社され、テレ朝の当時の大人番組「トウナイト」の政治コーナーなどを仕切り始めていた時分であったと思う。

関係者に聞いたら、ぼくは全く知らなかったが、去年の年末には「サンプロ」終了がきまっていたらしい。テレ朝の新社長である早河氏は、サンプロより永い長寿番組「朝まで生テレビ」という深夜から朝にかけての時間帯に政治や社会をとことん論じようと出来たテレビ史に刻まれる番組のプロデューサーであった人だ。ニュースステーションを創った人でもある。いわば、田原さんの同志的パートナーだ。その彼を社長に押し上げたのは会長の君和田氏だ。有名なドンであり、田原嫌いは周知だ。去年田原さんは、全く正直に「北朝鮮に拉致された何とかさんは、外務省も実はその死亡事実を知っている」と発言したことで、拉致家族会とかいう団体から圧力が君和田社長(当時)にかかり、これに乗じて喜々として君和田は田原排除に動いたらしい。田原さんの盟友だが、サラリーマン社長早河はそれを止め得ず、番組が打ち切りとなったということである。

田原さんは、番組中相当ぶれた発言もするし、一見天狗になってしまったような素振りさえ感じることもある。日本を代表するジャーナリストの「現存の」代表者の一人には違いないが、自民党や民主党など、また官界や経済界とも、危なっかしいと思われる付き合いも多い。見ていて「なんなんだよう〜」とうんざりさせられることも実は多かった。ジャーナリストの概念とおさらばしつつ、今は亡き竹中労のトップ屋的な面と政治評論家的な側面も併せ持っている田原さんは、昔から言う清濁併せのむ”立ち位置”を自然に確立してきたのであろう。理屈はもう良い、彼を支えているのはストレートな怒りと言い切って間違いない。
BS朝日で新番組が始まるようだが、朝日のBSなど誰も見ていない。でもだけも見ていないチェック不能な時間帯の番組の良さで、ラジカルに何でも可能だろう。ご自愛しつつも更に過激に、そしてストレートに怒りを噴出させて欲しい。ジャーナリズムは乱暴で無遠慮で、品格などない方が良い。真実は多様な価値の衝突現場から、目視不能な現場から、意外な場所からビームを発する。

出版の予定があり、調査でハノイ市内の大手書店を見に行った。前より単行本のデザインが明るくなり種類も多種多様になってきた事がハッキリ分かる。日本語関係の棚に寄ってみた。大分辞書なども充実してきている。5メートルほどの長さの棚は、それなりに配慮された配置にもなっている。その向かい側に韓国語関係コーナーがあり、日本語コーナーと棚の面積と扱う数量は同等かな。だが、だが、中国語コーナーは、何とざっと3倍はあろうか。日本語の棚の3倍以上の面積を中国関係の書棚が占めているのだった。中国語熱というか、その勢いは知っていたが、書棚の大きさでその差が歴然としていることを思い知らされた。スタッフのNGOCさんにかつて居た外国語大学のその時代の各国学習者の比率を聞いた。勿論英語は必須なので、欄外だが、彼女が言うには当時「中国語学習者人数を仮に10とすると日本語学習者は2か3。コリアは1だ」そうだ。彼女は今28才。したがって、このデータは、6年前の事になる。中国語熱はもちろん、この間に冷めている訳はないので増加は想像に難くない。かなりの脅威ということになるね。彼女はこうもいった「漢字は大変だが、文法が簡単で、覚えやすいようです」と。ムムムムムだね。

2010年3月5日金曜日

親爺の94年



ぼくの親爺が死んだ。3月1日朝方、仙台の実家の近くの病院で逝った。大正4年生まれ(1915年)の94才であった。この10年以上同居の弟夫婦が84才の母も含めて面倒をすべて見てきて貰い、僕はたまに訪れるだけなので、実は父の死に実感があまり無い。言いにくいのであるが、まだリアル感が起きてこないのである。今もハノイにいる僕は、彼の死を見取る事も、葬式にすら出席していない(3月6日土曜日)。現在観光シーズンでチケットがキャンセル待ちすら入手できない事情でそうなってしまったが、そんなことは理由にならない。しかし、恐ろしいほど僕は冷静で、弟夫婦に喪主をお願いし、娘はるひ(33才)と息子の一行(29才)に家督である僕の名代を頼み、ハノイの自室の祭壇にベトナム独特の太い線香を毎日手向け、親爺の在りし日の表情や動作を思い起こし、亡くなった妻晃子と代わるがわるに過去のイメージを引っ張り戻しその脳裏の中に鮮明化された五十歳代ぐらいの親爺の相貌に「お父ちゃん」と声を出して祈ることで、自分なりに良しとした。ここに評伝(らしいもの)を書くことで、僕と親爺との愛情と相克を思い起こしたいと願う。           
* 写真は1955年(昭和30年)秋と思われる。私(中央)が小学校1年で7才、父が40才、母が31才。右が年子の弟で、赤ん坊は生まれてまだ半年の三男。

【評伝 阿部六郎】
あべろくろうは、大正4年宮城県仙台市で12人兄弟の六男として生まれた(11人説もある)。父親は阿部太助という宮城県の県議会の議長で、有力な政治家であったようだ。仙台で一番の繁華街は「東一番町」という。その一番町の中央部に実家を持ち、東一番町一帯の多くを所有していた。が、僕の母によると、12人兄弟の家督で市議会議員や不動産業を営んでいた来太郎が、仙台ではちょっとした有名人なので毎日芸者をあげて遊びに遊び呆けた結果、多くを取り巻きの連中に騙されたりして手放してしまったようで、やや口惜しい様にそれを大昔に言っていたことがあった。しかし僕の子供の頃でさえも松竹文化ビル(松竹系と洋画ロードショーの高級映画館があった)と横町挟んで新東宝系の中央劇場(現在は中央ビル)とその周辺の横町(小路)の商店街など主要な一角は所有していた。

僕たち六郎一家はその中央劇場のスクリーン裏の長屋に当時住んでおり、僕は3才から5才の小学に上がる前、ここの良好な映画環境の中で過ごした。それを解りやすく言うと、我が家の廊下にあるいくつかの穴から中を覗くとスクリーンの反対側ではあるが、暗がりの中に映画の世界が広がっていたんだ。今は無き「新東宝」系だからいつも鞍馬天狗とか、東千代介ものとか宇津井健の「スーパージャイアンツ」とかが架かっていた。来太郎叔父は確か立教大学の野球部あがりである。長嶋や本屋敷、杉浦ら後輩の活躍する東京六大学のエピソードを僕が幼少時、テレビを囲んだ本家の、ロータリークラブの額入り標語が欄間に架かっていた大きな茶の間での団欒(だんらん)でいつも嬉しそうに何度も話していたような気がする。親爺はいつも「六ちゃん」と、ぼくは「正坊」と叔父に呼ばれていた。その大家族の団欒には、何故かいつも見知らぬ客人がいたものであった。
彼はハンサムで豪放磊落な人物であった様に僕には見えた。その来太郎叔父の奥さん、つまり僕にとっては本家の叔母様である操(みさお)叔母さんはとても艶やかで美しい人であった。東北には珍しい江戸っ子風情の女性で、気っ風も良く僕ら分家のガキどもにはお小遣いの有力なルートの一つであった。母によると、叔母さんは東京の弁護士さんのお嬢様とかで、田舎町仙台の豪族に嫁入りしたので、出の良いお嬢様にとっては精神的に苦労したとかでかつて同情的に言っていたことがあった。
本家の子供は四男一女の五人いたが大概なぜか高校から慶応と慶応女子に行った。僕らと仲の良かった同世代の四男の和夫さんは、父親似で大変美男子な人で慶応からフジテレビに行った。現在、岩手辺りのフジテレビ系放送局の社長をしていると聞いた。

さて、親爺の「評伝」なので話を父に引き戻す。東二番町小学校時代、おそらく大正末ごろだろうか、クラス担任の教員から、あらゆる事で意地悪を露骨にされたらしい。金持ちに対する僻み(ひがみ)のような事だろうか。徹底していた様だが、気丈夫な女中が毎日付き添いで登校してくれ、休むことはなく対抗して通学していたという。中学校は当時中学校であった仙台育英に。その後東京の旧九段高校の予科というクラスに入り、青山学院に行ったようだ。学究的な父六郎は家督来太郎が継いでいた実家に馴染まずに反抗することが多く、早くから仙台を離れたかったらしい。その後、日本医科歯科大学、九州大学、広島大学など早稲田に行き着くまでに五つほど大学に短期的に入り腰掛け的に浮遊していたようである。

大学は七校に行ったと語った父の話はかなり鮮明に覚えている(ちょっと普通の話じゃあ無いからね)。各大学の授業料とか生活はどうしていたのか、つまびらかにはならないが、かなりの余裕が在ったのであろう。実家には寄りつかなかったが、それにしても、普通じゃあない身分であったのだと想像できる。で、最後に早稲田大学文学部心理学科に入学し、博士課程にも進学した。しかし、先輩か、教授と反りが合わず、やや孤立気味になり中途で辞めたのではなかったか、僕の記憶は曖昧だ。マスコミにも良く出ておられた本明寛さんが同輩か後輩に居たようだ。阿部六郎が学業を終え、郷里で教員になったのは1946年(昭和21年)32才である。つまり、普通の大学生より早稲田の大学院を含め約10年間自由に学んでいたわけだ。

仙台を出て、あちこちの大学で流浪していた風来坊的な彼が何故この時期に仙台に定住することになったのかは良く分からない。が、宮城県北部の漁村志津川村出身で仙台中央部にある花京院通りで、日本専売公社とか森永製菓の代理店をしていた旧制仙台一中出の数学マニア阿部憲助の長女で仙台二女とその後常磐木学園に行った目鼻立ちがハッキリとした可憐な娘愛子とお見合いしたことが、間違いなく大きかったのであろうと思う。早稲田の心理学の大学院から見合いのため戻ってきたのが終戦直後の昭和21年ですぐに愛子と結婚。僕正行(昭和23年8月生まれ)文明(昭和24年)、高也(昭和30年)の男子3名が生誕した。帰郷と結婚と同時に六郎は、最初東北学院の英語教員として就職した。
この終戦後の2年間は帰郷、就職、結婚とめまぐるしいほど忙しかったと思う。だけれども平和ニッポンの全国的な明るい活気と相まって、充分過ぎるほどの幸福感が阿部六郎と妻愛子に天与されていたのではなかったろうか。父と母と僕ら3人の兄弟の昭和20年後半から30年中葉までの白黒写真にはその幸せを享受していた市井の若い教員の小さな幸福が素直な表情の中に現出している。おそらくは、僕ら団塊の世代が持っている無数の古いアルバムにも同様な家庭写真が輝きに充ち満ちて各頁に貼付されているに違いない。

東北学院はキリスト系の高校であったので、当時の教員の集合記念写真には、米国人も散在しており、バックに映っている校舎に刻印されている標語は「LIFE LIGHT LOVE」とある。
六郎は学院に数年間在籍した後、宮城野地域にある仙台工業高校で同じく英語教員となる。僕が松尾神社幼稚園に通っていて物心付いていたときは既にその市工高の教員で、1953年頃に福沢町に新婚に相応しい自宅を新築した。白とくすんだ赤を基調にしたツートンカラーの洋風のガラスのテラスもあるハイカラな家であった。屏(へい)は木製の白い柵で、そんな家はここら一体に全くなく、近隣のしもた屋の家の佇まいに比べかなりあか抜けていた。僕ら兄弟は、そのような西洋風なデザインを選択した父の指向性を良しとするセンスを自然と受け入れていたと思う。周囲には田んぼと森しかない新居から、出勤してあぜ道を歩いて行く父に「いってらっしゃあ〜〜い」と4,5才の僕と年子の弟が大声を架けると、まさしく点景となりつつある遠くの父が大きな仕草で手を振って応えてくれた記憶が鮮明に甦る。当時、労働組合の活動など戦後民主主義の謳歌の環境の中で父は高教組に入っていた。活動家でもリーダーでも管理者でも全くなかった研究肌の父であったが、明るい未来に希望と夢を託している若い英語の教員の姿には、愛子や僕らから見て、おそらく目映(まばゆ)いものがあったはずだ。

少年である僕を彼は一貫して「正行君」と呼んでいた。子供でも人格が有るという考えなのであったろう。でも、僕の友人が僕にこっそり「お前の親爺は息子にクンを付けて、他人行儀だべ〜」と言ったことがあり、僕は悔しくて父に激しく抗議したことがあった。父は仙台工業高校から、仙台商業高校に転勤したのは、僕が上杉山中学の頃だろうか。その後、僕や弟の文明が仙台第二高等学校に入ったので、父の通勤と僕らの通学が学校同志が隣接していたこともあって、時々一緒に家を出たりしたものであった。当時は全く思念が及ばなかったが、たまにではあれ、青年になりつつある息子たちと肩触れ合い連れだって、また満員の市バスに一緒に乗車して職場に向かう父の胸中には、家庭を持つことの尊さや特に語ってはくれなかったが、息子たちとの大切な思い出として、永く脳裏に納められて居たのでは無かろうか。
仙台商業高では、英語だけでなく、倫理社会とカウンセリングルームを預かっていたと思う。

ところが、1970年前後に自殺を予告して自殺をしてしまった教え子が出現し、父に大きな精神的なダメージを与えたことがあった。僕は東京に行った後で、大分経ってから母や弟から聞いた。アメリカの臨床心理学者カール・ロジャーズなどの本格的なカウンセリングを研究し、”共感”というテーマを実際に臨床現場で苦闘し、実践していた父にとっては苦しくて悲しい未曾有な初めての困難になったのではなかろうか。とりわけて、挫折感との戦いの経験が少ない六郎にとっては、自分の精神史に残った大きなエポックとなったに違いない。僕が東京で生活を始め、弟が京都立命館に行った後の父50才代前半の事であった。
父が、仙台高等工業専門学校(名取高専)に転勤したのはその後だと思う。高専では仙台のような地方の教育界にはほとんどいない本格的な心理カウンセリングの専門家として、カウンセリング専門教員になった。自分の本当にやりたい研究と臨床だけとなり、仕事の実践ということで言えばおそらく一番充実していた時期ではないだろうか。    《中断》どうも評伝にはならず、思い出のアラカルトだけになりそうで、熟考。書けない状態が続き、本日3月25日。続きは、4月初旬にハノイで記述予定。