2012年3月31日土曜日

何だか家族に会いたくなった。【ミニ写真集】

今日は31日土曜。ベトナムは振替休日もあり、4月2日月曜も休みで三連休だ。日本が仕事でベトナムが休日とは全く珍しい。反対はしょっちゅうですがね。で、色々と考え事していたら、亡くなった妻や、娘と息子に無性に会いたくなった。思い出が思ったより甘味で、その幸せ感にしばらく浸りたい。そんなこと考えていて、僕のブログだもの誰にも文句言わせず、手持ちの十数枚の写真をみていて、スキャンして、保存しようかと思い始めて、ちょっと暇なものだから、すぐ作業にかかったが、写真の選択と配列的演出に時間がかかりそう。
娘のはるひが小学校三年生だとすると26,27年前。妻晃子が39才位ですね。場所は狭山の森というか、トトロの森じゃあないかなあ。

小平の昔の僕の家の玄関先で。お向かいの龍ヶ江さんのおばさんが撮ってくれた。時期はたぶん、晃子が2003年12月20日に亡くなって2年弱後の秋だと思う。
だとすると2005年10月だろう。娘の笑顔だけれど優美に見える、嬉しいね。


娘や息子の可愛い時代。

エッフェル塔と並んで。もうちょっと微笑にすればいいのにね。

左は90年8月と読める、右の石像前は、88年5月とクレジットされている。2年の子供の成長はすごいね。右の石像は諏訪町にあり、10年ほど前に首が毎年伸びているとかで、ローカルな一騒動があったね。左はどこだろう。磐梯山周辺かなあ、日光の戦場ヶ原近くかもしれないね・・。晃子は、古河工業の父の仕事の関係で日光に子供の頃夏休みなど何度も行って馴染んでいたからね。僕等もあの金谷ホテルに2度ほど泊まったなあ。

僕が主催で池袋文藝座でベトナム反戦映画「怒りをうたえ」の上映会を行った際の記念イベント討論会の面々がすごい。司会の僕の隣は評論家の田原総一朗さん、顔が見えないが大きな人物は夭逝した作家中上健次さん、その次のご老人が日本の撮影監督の第一人者で、宮川一夫と双璧をなした本作品の監督宮沢義勇さん、隣が元日大全共闘の田村さん、サングラスで居心地悪そうなのは反逆の寡作監督長谷川ゴジ。
1980年の10月21日だと思う。超満員で入りきれないお客さんも多数出て路上に溢れ、地下の小劇場も開場させた伝説的上映会となった。この上映会と「怒りをうたえ」のビデオ発売は、赤塚不二夫先生、天才カメラマンのアラーキーさん、コピーライターの糸井重里さん、作家の村上龍さんらも応援してくれた。

アンドリュース社時代の静岡の相良海岸でのイベント。日テレ系静岡第一テレビと組んだ大きなイベントとなった。社長の河村がプロデュースで、僕がディレクターで、一夏を乗り切った。1982〜3年頃かな。大成功して終わった風景、でも何故か頭をかいていますね。

はるひの小平七小の運動会。1〜2年生かしら。
アンドリュース社の軽井沢の別荘にて。たしか、はるひが中学校受験を控えていたので、六年生の夏だね。
2007年頃のお正月。僕が作ったり(ホントだよ)買ってきたおせち料理を黙々と食す二人。早稲田の家で。

小平の家で。サンタマリア幼稚園に居るころの一行。結構筋の良い文字ですね。

NYの超巨大NYステーキに挑む。JAZZの老舗「ビレッジバンガード」の東京出店の交渉で何度もNYに行った頃。1980年代のバブリーな時代の入り口期。
2004年頃?彼は京大卒のツーさん。現在、VNマリン財団の副総裁。僕の著作にも協力してくれている。10数年来の友人の一人だ。

何かの講演の様子。お隣にいらっしゃる経営コンサルタントの友人塩見先生が呼んでくれた催しのようだ。

たぶん2007か2008年のお正月。早稲田の穴八幡神社にて。

僕は東京に一人で居るときは毎日、質素だけれどキチンとした朝食を自分で作ってきた。
これは、秋刀魚の開きと大根の煮付けだね。

2011年9月に生まれた。晃子にだっこさせたかったなあ。一行の長男で、いわゆる僕の初孫の晴生(はるき)君です。
何処だろう。天国にある湖かもね。美しすぎる佇まいだもの。ね、晃子(てるこ)。

岩に男体山一合目と彫られている。はるひが共立女子中1年ぐらいの時かな。
もう永遠に見られないこういう家族揃ってのポーズ。

*写真マニアであった僕だから実は数万枚の写真があります。が大半は倉庫に眠っていて、これは時々見たりしたいために持っていた40枚ほどの写真の中で選択して構成しただけのものです。



《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルを紹介致します。
ぜひ、ご高覧ください。多いのは一日1400名の閲覧もありました。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC /  立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年4月 リクルートの罪 /  金のTSUBAKIの女優たち
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 ★メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
・     3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 ★復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・     5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 ★消滅している東北弁
・2011年7月 ★なぎさホテルという哀愁
・     7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港の不幸な出自と幸せ伝える人
・     1月 お正月は竹内まりや「人生の扉」だね
・2012年3月 関西セイキ工業さんに今朝、到着
3月 日刊工業新聞で当校の大きな記事2本掲載
・     3月 ベトナムの床屋さんの良い感じ
・     3月 ★ 文系のベトナム青年に進んでほしい「経済」以外の分野
・     3月 なんだか家族に会いたくなった 写真集
・2012年4月 石巻・大川小学校のひまわりがベトナムで咲く!
・     4月 VCIの概要と実績をまとめた
・     4月 原宿の幼稚園でも大川小学校のひまわりが芽吹いた
・2012年5月 TBS「たけし・安住のニュースキャスター」にVCI登場

これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行










山梨・藤精機のタイ君元気そう!


タイ君、1年ぶり?と言うかもっと経ってるよね、君の笑顔は相変わらず、素敵です。良い感じ。日本の企業は授業でも細かく言っているようにどんなエリートも現場で磨かれる必要があるね。油まみれ、汗まみれで現場の職人の叔父さんたちに鍛え上げられることは、事の他重要だね。開発者や設計者は、その様な経験無しには良い物が作り出せない。これが日本の現場教育の神髄さ。会社のキャリアアップのシステムによって違うけれど、2年は苦労に耐えた方が良いんだよ。 
藤精機さんURL http://www.fuji-seiki.com/
上の4人の写真の向かって左端が新藤社長。NPOにもご協力いただいて居ます。右端はTBSの取材クルーの西村さん。彼らは、僕の取材を続け、3月後半1週間ほどハノイにも来た。「たけしと安住のニュースキャスター:土曜日放送22時〜」で4月中旬に放映予定。
以上は、3月14日、長野や山梨の企業4社を訪問させていただいたときの写真です。

2012年3月30日金曜日

乙だね、ベトナムの花盆栽「PHONG LAN」

本日は当校と早稲田コンサルの移転。それで一部の私物を自宅に運ぶ際、頼むのもセオム、つまりバイクタクシーさ。
リヤカーという「文化」がほとんど見あたらないベトナムで、荷物はバイクに満載。今回は近いと言うこともあって、バイクタクシーの40代の男は跨がわずサドルにも段ボールのっけて、僕と一緒に歩いた。僕の新居は一階に庭があって、というより昔で言う土間というか、三和土があると言ったほうが、解りやすいかもね。鉢物も多く置かれていて、その方面が暗い僕には名称が書けないけれど、可憐な花(Hoa)が鈴なりにさいているもの、新緑の明るい綠がまぶしいほどで、葉のみで鑑賞に堪えるうモノなどなど、考えれば、すごく上品な鉢のある土間風なパティオなのである。良いところさ。ラッキーだね。学校の移転は近所だから、造作がない。

さて、バイクタクシーの如何にも生活者的なワイシャツと色黒い顔の彼が、僕の私物の次の荷物を取りに行っている間、大家がオートバイで売りに来た植物満載の若いキリッとした印象の田舎の娘と交渉をしているのを見物した。どうも、50万ドンで値が決まったようで、つまり2000円だね。程よい大きさのものだ。良い感じ、この婆さん庭の趣味もそうだが、この観賞用ぶらさがり植物の選択も目が高い。僕は毎日「め、お〜い:ねえ、お母さん」と言ってるこの婆さん何者か、とも考える。以前、この家を借りることにしたとき「ご主人は何してるの」ときいたら、HCMCにいるとだけ応えて、ちょっと不可思議なのだが、息子はスロバキア大学の教授で、テトの時一度会ったし、40代の娘がロシアから出戻り風に居候している家族で、まあ、普通の家じゃあないなあと思っている。さて、自分の花がきまったら、嬉しいのか、近所のじいさんたちにのこ娘を紹介し、隣の矍鑠(かくしゃく)とした老人、また、斜め向かいの家の僕と同年代かと思われるおじさんが財布持って出てきた。

矍鑠人が、物珍しそうにバイクにくくりつけられた植物群を見ている日本人の僕をみて、スラスラ英語で、言ってきた「あなたは、日本人か、この婆さんの家にいる人か」ときいてきて、「英語上手か」とも言ってきたので、「very little」といつものように答え、親指と人差し指で「ちっちゃい:少し」という日本人の指仕草した。もう一人は、いきなり僕に深く頭を下げ「ありがとうございます」とおどけた。4ヶ月間、かつて仕事で東京に居たことがあるらしい。彼の正体は分からないが婆さんの話だと、矍鑠おじさんは昔ハノイ工科大の教授だそうだ。

想像するに、彼らが40才代に時はベトナム戦争が一番激しいときであり、何処で流暢な英語を学んだかは知らないが、その時代のインテリの留学先は大抵、モスクワ大学か、キューバのハバナ国立大か、はたまた北朝鮮の金日正総合大学なので、逆に言うとそういう大学では英語をかなりマスター出来る環境になっていたのだろうと想像する。喫緊にまた会えるだろうし、その時に何処の大学に留学していたかなど聞いてみようかな。ベトナムの政府や共産党の幹部の大学時代の同窓会で大きいのはモスクワ大学卒と聞いているので、そこかもね。

さてさて、僕はそこで、二人に「この花盆栽を逆さまに吊したような鑑賞植物はなんて言うものなのか」聞いたら、PHONG LANだという。

大家さんがさっき買ったPHONG LANを嬉しいことに2階にある僕のベランダで鑑賞できる様に3階から、吊して見やすい位置にぶら下げてくれた。ちょっと解りにくい写真ですが、腐った木(真ん中の茶色い太いもの)に草花を接ぎ木のように一体化させて寄生させるようにして「吊し」ている「花盆栽」。これは逆さにはなっていないが、これを逆さまに吊した物が、販売の娘のバイクには多かった。
そうこうしていると、また、僕の荷物を運んでくれているバイクのドライバーが、二度目の荷物を抱きかかえつつ、後ろの荷物台にも段ボール乗せて汗だくでやってきた。PHONG LANのバイクを中心に談笑している僕等近所の人々とは別に、黙して重い荷物を下ろし始めたセオムの運転手。彼は、僕に視線もくれず、ひとつ目の段ボール箱をよいしょと担ぎ上げた。


下の写真:僕の家のベランダ。テトの時の金柑がまだ沢山実をつけたままに置いてある。三畳間ぐらいの狭いものだが、朝起きてコーヒー飲んだり、夕日を浴びてビール飲んだりには、最高の場所なのだ。価格の割に(言っちゃあだめだよ、女中さん付いて家賃250$だよ)最高のアパートと言って良いだろうね。PHONG LANも乙だけれど、このベランダ空間もさらに乙(甲ではなく)なのさ。

★ベトナムの青年に進んで欲しい「経済」以外の分野


NHKのBSの番組で、ピーター・バラカンの司会というか進行係のとても良い番組がある。P・バラカンはいわじとしれた音楽評論家だ。昔は主に欧米の新しいロックやポップスの論評などしていたと記憶するが、確か坂本龍一と知り合って、日本で飛躍的な活躍の場を得たんだと思う。彼はいま、放送のキャスターとして、多方面で仕事を掘り起こしている。その中で出色なのはこの彼が日本で活躍する「外人」をレポートする番組だろう。

先ほど見たのはアメリカ人の「杜氏」の物語だ。数人の若い職人を従え、お酒のプロ中のプロとして、「機械で作る物とは、やはり大違いだね。相手は生き物だからね」と丁寧な日本語でカメラに語る氏にP・バラカンが、その先にある彼の思いを聞き出す。いつもながら、いつもながらといっても、3,4回しか見ていないけれど、番組のコンテンツが明晰にあらわれて居るので、見ていない分も大体想像出来る。

2,3ヶ月前には結構有名になっているらしい西洋人「琳派」の絵師を紹介していた。記憶がちょっとあいまいですが、その40才代と思われるその絵師は、確か根津か千駄木あたりに居とアトリエを構えていて、特に大型の仕事、壁板とかお寺さんのふすま絵などの仕事に熱中していた。大型の仕事では、床に置いた制作途中の板に左右に渡り板をまたがせ、その上からほとんど寝そべった状態で、脂汗にまみれたその集中度をカメラは本物の職人絵師の仕事の様として写していた。日本の職人以上の職人風情。棟方志功のようには版画じゃあないので体を揺することないけれど、形相の凄みは共通している。

東京、京都などを中心に主に西洋人の日本文化好き、日本文化の職人が何人ぐらい日本に居住しているのかしら。最近、日本国民となったドナルド・キーン先生を筆頭として、また、良くテレビのバラエティーに出てくるデーブ・スペクターら日本大好き・日本碩学「外人」もふくめて、日本にどっぷりつかった在留の人々って、どのくらいいるんだろうね。間違いを恐れずにいえば、プロ並みという線を引くと1万人位なのだろうか。大げさに言うと、日本の古典のアートや芸能は、異常なほどの日本好きな主に西洋人によって、支えたれていると言って良いんじゃないかと思うほどだよね。

オリエンタリズムにあこがれる。これって、オリエンタルな国にいる僕なんかには全く理解の範囲を超える誘惑的磁力があるんだろうと思う。そういう意味では我がベトナムの青年たちの日本へのあこがれは、言うまでも無く西洋人とは違うだろう。むしろ、小さな身近な、アジアだけれど西洋風な魅力なのだろうか。もちろん言うまでも無く、サブカルに対する関心は強い。マンガ、アニメ、ゲーム、それに関連したコスプレ、コミケ、かわいい、クールJAPAN、ラーメンなどのB級グルメなどかな。

ベトナムだけではなく、開発途上国と言われる国や社会では、どうも「男は理工系」「女は外国語や、文系」と考える傾向があるんじゃあないかなあ。たぶん「BRICs」の国のようなるとそうでもないんだろうけれど、まだ「VISTA」(ベトナム、インドネシア、南アフリカ、トルコ、アルゼンチン:最近南アはBRICSに移動)レベルであると、この志向の傾向がつよいんじゃあないかなあ。推定だけれどね。少なくともベトナムはまさに、その様な傾向が、歴然としている。僕が仕事をしているハノイ有数のハノイ貿易大学(一橋と東外大の合併した様なトップ大学と僕は形容している)では、男女の比較で80%以上女子学生だし、国家大学外国語大、ハノイ大学(外大)も全く同じ比率と聞いている。

理工系大学では、女子学生はいることいるけれど、ホントのポツリポツリで、%にあらわれる数字ではないような程度である。でも、日本とおなじで、その少数の女性たちは成績が優良だけでなく、総じてリーダーとしての能力も携えていて、当校にたまに入学してきたハノイ工科大の女子学生は極めて優秀な人材であった。山形のYCC情報システムさんに入社したANHさんとか、岡山のTAZUMOさんに入社したズン君を追って行き結婚し子供も授かったHOAさんや、静岡の恭和さんに行ったHUEさんらは、電子や数学など学科で最高峰の成績の持ち主だし、「クラスの仕切り」力も抜群で、かなう男の子は誰もいない、そんな立派な人材ばかりでした。

さて、本旨の方に舵を切ろう。
問題は文系にある。理工系はエンジニアをめざすわけで、「男らしさ」と言うだけでなく、途上国の中での、経済的な安定性は抜群だし、その傾向が強いことを否定や揶揄するつもりなど毛頭無い。僕が中高のころ地元の最有力大学の東北大学も理工系、医学系が強い印象で「経済なんかに行く奴は遊びたい怠け者連中さ!!」のような雰囲気があった。まあ、経済が不当な扱いで、僕なりにはちょっと反発はするけれど、田舎仙台の社会の雰囲気はそうであったと思う。
もう一度言う、問題は文系にあり、文系の分野の範囲の狭さにあると僕は言いたいのである。文系と言っても曖昧だし、範囲は広い。並べてみるか。経済、商学、外国語、美術、映画、演劇、音楽、歴史、心理学、文学、社会学、政治、家政、教育学、あとなんだっけなあ・・。おっとと、僕が”専門”の法律。なにせ、僕、早稲田の第一法学部の出身なのであ〜る。最近では早稲田で「公共学」とか出来ているが、今並べたのが大雑把な旧式な区分けだろうけれども、大体網羅したと思う。

前にも少しいらついて書いたことがある。僕の知人の若者たちの多くが経済学か国際経済学なる分野に属している。もちろん正確に調査すれば、他の分野を学んでいる青年も居るだろうけれど、たぶん絶望的に少ないと想像出来る。ベトナムは社会主義国である。社会主義の根幹たる理論はマルクス主義だ。マルクス主義の一番のシェーマは「経済が社会を支える下部構造である」であるのだ。ベトナム社会の中枢を支えている50才代の男性、特に官僚たちは、自分の身近な子弟らに、どのように「人生設計」をアドバイスしているか、詳細は定かでは無いけれど、「男は理系。もし文系に行くなら経済学」と迷い無くサジェスチョンして、それを聞いている17才、18才の高校三年生(VNでは7年生という)は、大抵が親思いの真面目な少年少女で、ほとんど熟考や抵抗することも無く、文系に行く学生は経済系を選択する事が多いのではないだろうか。経済は理数の側面もあるしね。でも、ベトナム国内では、音楽大学も美術大学も伝統在る外国語系もあるので、多様性は一定保たれている。問題は実は日本に来ている文系留学生の分野の事なのだ。

日本に来ている約3000人のベトナム人留学生の半分強は理工系だとしよう(データは調べていないが、VN青年団体VISAの知人たちの話しからの推測)。すると仮の数字だが残りは文系の学生1200人ぐらいとなる。私費で来ている主にHCMC方面から来ている学生は「美容」「アニメ」「マネージメント」など最新の分野に来ている男女も居るとは思う。でも、日本文科省の招きで来ている(留学生の中核となっているいわゆる国費留学生:毎年50名の枠)の中の文系のなかでは、ほぼ全員が「経済」か「国際経済」ではなかろうか。ちょっと「フェルミ推定」以上にざっくり気味だが、指摘しておきたいのだ。学生の選抜の実態はベトナム政府の推薦がほぼ決定らしいので思わず、高級官僚の子弟が選ばれやすい(もちろん、全く違う人ももちろん居るよ。そんなにえげつない選び方ではない)と聞いているが、僕はここで言いたいのは分野についてさ。

これからのベトナム社会を豊かにするための青年たちの留学の分野は「社会の下部構造である経済を専攻している」学生に限る、と言うような前提がないのだろうか。僕はかつて、青年学生の団体VISA(主に国費留学生が多い)のスポンサーでもあったので、全員の前でスピーチしたり、挨拶したりもしていて、彼ら若いベトナム優秀青年らと知人になった人も多い。僕の付き合いの範囲が狭いとも思えないが、文系で経済系以外の留学生と出会ったことがほとんどないんだ(日本語専攻、日本文学専攻は僅かいたような気がするが)。
もちろん、疑っている訳じゃあないけれど、国費留学生の推薦学生の専攻分野で「マンガとアニメ」とか「歌舞伎」「観光学」「日本のマネージメント」「ジャーナリズム」「日本芸術史」「日本の民法」「平和憲法」「日本の政治史」「東アジア史」などの専攻学生は国費留学の選抜段階で「残りにくい」環境に在るのではないのか。ベトナムの民法はODA予算で早稲田の内田勝一先生が中心にとりまとめているので、たぶんベトナム若手の日本の民法研究者も何人か育成されつつあるとは思うけれどもね。

もちろん、経済を学問することは悪いことではない、まさに社会の下部構造をキチンと把握し、次の時代を構想するためには必須だろう。だけれどもどうなんだろう。かつて日本がきらきら輝いて、「坂の上の雲」が紺碧の空の中で美しく映えていた時代に日本にきたアジアの留学生や志士たち、例えばベトナムのファンボイチャウ、魯迅、孫文、周恩来、インドの中村屋のボースなどは、別に経済を学びに来たわけではない、近代化のための社会総体を学ぶためだし、革命の準備のために日本から学ぶ物も多かったに違いない。今と比べるのは無理があるだろうけれど、というよりアメリカとか、オーストラリア、とかフランス、中国に行っているベトナム留学生も経済系が圧倒的に多いのだろうか。もし、そうならば、外国にせっかく5年も6年も在留しているのに、習得してくる範囲がほんとうに狭くて窮屈だよね。

前にもブログに書いたが、日本語優秀、英語優秀の貿易大学卒業生で、東京で日本語学校に行っていて、今から日本の有力大学に行こうとしている女子学生から大学の専攻と将来の就職の相談があった。個人的には美術が大好きらしい。でも、家族が経済を専攻した方が良いと言っているようで、僕はやや無責任ではあったが、日本の美術史を東京芸大か、早稲田あらりで専攻すべきじゃあないか、と何回か会う度にアドバイスしたが、結局横浜国大の経済に入って、お兄さんが東工大でITを専攻しているので、結局卒論が「ITと経済を絡めたテーマ」で横国を出て、有力家電P社に入った。もちろん、これはこれでハッピーさ。大成功のルートの一つなんだと思う。彼女は優秀だし努力家だ、だけれども、日本のカルチャーやサブカルチャーのベトナム人の研究者は何時生まれるのかしら。毎年経済学者ばっかり作っていてもどうなの?トラン・バン・トー早大教授の様に成功した国際経済学者は良いけれど、・・。

もちろん、僕の知らないところで、ベトナム人の日本文学史を研究している人、歌舞伎や浮世絵の研究者、はたまたサブカルの専門家、「クールJAPAN」の研究者が居るのかも知れない。もしそうであって、この文の撤回を迫られれば、ニコニコ顔で「そうか、それは良かったなあ。もう、そういう時期だよね」と撤回し握手を求めるのはやぶさかじゃあないさ。社会主義ベトナムだから、やっかいなのであるけれども、「ジャーナリズム」の研究者、さらに「市民の眼を持ったジャーナリスト」がそろそろ誕生しても良いんじゃあないかなあ。期待したいね。「杜氏」や「絵師」がすぐに出現するとは思えないけれど、もっと多様で日本社会や日本の深い文化の琴線にふれる分野の若い専門家が出てきて欲しい。それがないうちは、まだまだ本当の交流とは言えない。技術や文化の移転や遷移はまだ本物に到達していず、これからと言うことなのだろう。

*ご参考: 東京のある専門学校に行って話をする機会があって、聞いたらそのマンガクラスの半分は中国人と韓国人の青年たちであった。日本でマンガを学び、母国でデビューする、と彼らは言っていた。
以上。




2012年3月29日木曜日

会社の消防隊で活躍。応用電機さんのチュオン君

京都の応用電機の総務の高橋さんから、今までにはなかった珍しい写真と報告を頂きました。右上端っこが当校卒業生のエンジニアのチュオン君、仕事以外に企業の消防隊員でがんばって居るとは・・。すごいです。日本に完全に馴染んだねえ。もう何年目だろう。今年で5年目になるのかな?とてもうれしいなあ、で、安心できるなあ〜。
送っていただいた高橋さんのメールを以下コピーさせていただきました。

「昨年の暮れにチュオン君は当社の自衛消防隊として
城陽市の消防訓練大会に参加し、見事9チーム中3位に入賞しました。
毎朝始業前、消火栓で火を消す訓練をして練習頑張っていました。
宜しければ写真を送りますのでご使用下さい。
写真の右上がチュオン君です。

応用電機株式会社
総務部 高橋尚子         」

高橋さん、何時もご苦労様です。茶屋社長もお元気でしょうか。とても嬉しいご報告をありがとうございました。応用電機さんのURL http://www.oyoe.co.jp/

とっても立派な楯と賞状ですねえ。ご苦労様です。

2012年3月21日水曜日

東京の日野システックさんの2名もスタート

今日本社に着いて早速玄関前で記念撮影。向かって左から熊澤社長、ヒエン君、タン君、高橋役員。卒業生の二人はちょっと緊張の面持ち。

大田区の日野システックさんにも当校卒業生のタン君、ヒエン君が到着。さあいよいよ夢にまで見た日本企業での仕事と生活が今日からスタートだ。ラッキーだぜ、君ら。特に恵まれているのは会社のトップが先見性と心の優しさをお持ちであるということさ。最も解りやすい事をいえば、熊澤社長の名代で村松部長が学生の実家に親御さんを訪ねて、ご挨拶と御礼を申し上げたことだ。入社前の親御さんへのご挨拶は今までで初めてじゃあないかな。出来そうで出来ませんよ。
学生の実家に訪れ、ベトナムの家庭について人一倍認識を深めた村松部長から先ほど、僕に責任感に溢れたメールが写真と同時に届いたので、ご紹介させていただきます。

「ハノイ日本アカデミーの皆様へ
大変お世話になっております。
お陰様で本日無事にタン君、ヒエン君を迎えることができました。
御両名のような大変優秀な人材をご紹介頂き、誠にありがとうございます。
彼らの輝いた目を見ますと、我が日野システックの未来は非常に明るいと感じます。
この日が彼らにとって大いなる未来の始まりであると共に、日越友好のきっかけの一
つに成ることを願ってやみません。
我々日野システック株式会社は責任を持って彼らを一人前の社会人に育てあげること
を約束いたします。短いですが、御挨拶まで。  村松

追伸、記念撮影をしましたのでお送りいたします。
熊澤社長、高橋取締役と写るタン君、ヒエン君です。
この二人の輝いている目を見てください。」

何と愛情の深いお言葉であるだろうか・・・。本当に有り難いことです。彼らの頑張りと共に日野システックさんの皆さんの躍進とご多幸を心より祈念いたします。阿部

*当夜、村松さんの計らいで僕に二人から電話が来た。ご馳走になっているお店かららしい。「東京、美しいです。」「人が多くて驚いた」「もの凄く、美味しいです」「日本、サイコー!!」・・嬉しいじゃあありませんか、彼らの第一声です。村松さん、ご配慮ありがとうございました。
日野システックWEB http://www.hino-systech.co.jp/jp/index.html

ベトナム国への敬意として、本日は彼らの到着を祝しベトナム国旗も掲揚されていた。


2012年3月19日月曜日

おおー、もう仕事やってるね。関西セイキ工業さんのふたり。

3月1日に関空に到着だから、もう3週間ですね。もう、いっぱしの感じで仕事始めているね、ゴック君(手前)とハイ君(奥)。当面仕事上の言葉のことで、周囲にお手数を煩わせてしまうだろうから、丁寧に対応して、誠実に一歩一歩歩んで行こう。ともかく、総務の方にお願いして良い日本語学校をさがしていただき、自腹ではらって、1年は中級を体系的に学習してください。日本語のレベルが上がれば、自信が出る。自信が出てくれば、仕事も本格的に身についてくるよ。がんばれ、君たちは、優秀なベトナムの代表さ。焦らず、じっくり、確実に行こう。先輩のクアン君とダット君とも上手くやってね。4人でね。また、会長と社長に社内でたまたまあったら、最近の自分の報告を短時間で報告するといいよ。じゃあね。

さて、明後日21日の朝、東京の日野システックさんに、タン君とヒエン君が到着します。さあ、君たちもゴックやハイに続いてがんばろう。君たちも写真送ってね。待ってますよ。

2012年3月11日日曜日

3月11日深夜 日本で

東日本大震災で亡くなられた全ての人々に祈りを捧げます。
とりわけ、仙台二高の同級生であって、石巻市立雄勝病院の医師として救命活動の最中に亡くなった狩野研二郎君に哀悼の意を捧げます。阿部正行




2012年3月10日土曜日

内田樹(たつる)先生の街場の一刀


流石、内田先生。心地よい軽い展開で、教育のとらえ方の欠落部分を拾いあげてています。あまりにも良いので、皆さんに読んで頂きたく、丸善さんと内田樹先生にここで御礼をいいまして、不法にコピーをさせていただきました。責任は阿部にあります。去年の梅原猛先生の「文明災について語った」と辺見庸氏の「3・11とその後にある本質について語った」につづく三回目となる。

不便さと教育(内田先生のブログから)http://blog.tatsuru.com/

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丸善が出している『學鐙』という雑誌に教育論を寄稿した。
一般の方にはあまり手に取るチャンスのない媒体なので、ここに採録しておく。
■不便さと教育
というタイトルを頂いて原稿を書くことになった。たぶん「教育と効率」の背馳について論じて欲しいというのが編集部の趣旨であろうと思うので、それについて書くことにする(違ったらごめんなさい)。
教育と効率は本質的になじまない。というのは、効率というのは、「単位時間内の仕事量」を以て考量するものであるが、教育がそのアウトカムを計測するときの時間の幅は原理的に「その人が死ぬまで」というもので、「単位時間」を切り出すことができないからである。
もちろん、無理をすれば単位時間を切り出して(「1時間以内の」とか「一学期以内の」とか「卒業時までの」とか)教育のアウトカムを考量することもできないことではない。
けれども、そこではじき出された数値は、教育を受ける本人にとっても教育機関にとっても、実は何の意味も持っていない。
たしかに教育機関の質評価に際して、「単位時間内にどれほどの教育成果を上げたか」を見るということはやろうと思えば可能である。
例えば、「今年の大学入試で東大に何人合格したか」とか「TOEICの全校平均スコアが何点」ということは数値的に示すことができる。だが、それをある教育機関の教育の質の指標だと見なすことはできない。したい人は勝手にされればよいが、それには何の意味もない。
私たち経験的に言えるのは、「難関校合格するだけの学力をもつ生徒がたくさんいる高校」は難関校合格者が多いということ、「英語ができる生徒のたくさんいる高校のTOEIC平均スコアは高い」ということであって、それは単なる同語反復に過ぎず、当該教育機関の行っている教育の卓越性については何も語らない。
もし、本気で教育機関としての優秀性を難関校合格者で測定したいと思うなら(誰が思うか知らないが)、高校入学時点で複数の高校に同数の生徒をランダムに配分して、「よーいドン」で教育して、3年後の東大合格者数やTOEICスコアを比べればいい。新薬の治験と一緒である。ランダムにグループ分けして、こちらにはA高校の教育をほどこし、こちらにはB高校の教育をほどこし、3年後の同じ試験を課して学力を測定すればとりあえず教育プログラムの限定的な効果についてはデータが手に入るだろう。でも、そんなことをしている学校は日本のどこにもない。やろうという人もいない。教育機関の質の指標をそのような数値で示すことが実は無意味なのだということをみんなほんとうは知っているからである。
というのは「この教育方法でやってみたら、うまくゆきませんでした」ということを教育する側は絶対に言うことができないからである。学校教育の相手は生身の人間である。「出来の悪い教育プログラムを与えたせいで、学力が劣化しました」といって放り出すわけにはゆかない。教育において「実験」は許されない。だから、教育機関の卓越性は科学的には考量不能なのである。
松下村塾にしても、適塾にしても、懐徳堂にしても、劇的な成功を収めた学校は歴史上たくさんあるが、それが成功した理由を科学的に証明することは誰にもできない。それを証明するためには、松下村塾と同じ資質の塾生たちを集めて、吉田松陰ではない人が教えた場合のアウトカムを比較するしかないが、それが不可能だからである。
卓越した教育機関が卓越しているのは「卓越した資質を持った若者たちが、そこに惹きつけられて集まってきた」からである。私たちにはそれしか言えない。別に吉田松陰が有為の青年たちに向かって、「うちで学ぶとこんなに知力が上がり、いずれ歴史的転換点で大きな働きをして栄爵を得るでありましょう」というようなパブリシティをしたわけではないし、「他と比べて、こっちの方が学習努力の費用対効果がよさそうだ」と算盤を弾いて、高杉晋作や伊藤博文や山縣有朋が門下に参じたわけではない。そこで何が行われているのかわからないし、そこで講じられていることにどんな有用性があるのかよくわからないけれど、「なんだか知らないけれど、そこに行って学びたい」という若者たちが蝟集してくる学舎が教育機関として結果的に高いアチーブメントを示す。私たちが知っているのはそれだけである。教育機関の質はそこで学んだ若者たちがそれからあとなしとげた仕事の質によって見るほかない。そのときはじめて「これほど優秀な若者たちが一堂に集まった学舎はきっとすぐれた教育プログラムを行っていたに違いない」という推論が成立するのである。ある教育機関の質は、そこで学んだ人々のその後の生き方を見ることで事後的に測定するしかない。だが、「棺を覆いて定まる」という言葉が教えるように、ある人が「どのような評価を得たか」が確定するまでには長い時間がかかる。松下村塾の卓越性が歴史的に証明された頃には関係者は全員死亡しているので、科研費をつけることもできないし、塾長に紫綬褒章を送ることもできない。そうものである。私たちがある学校の卓越性や瑕疵についてのエビデンスを得るのは、いつだって「もう遅すぎる」ようになってからなのである。
だから、教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。 
私が30年の教師生活の経験から言えることは、教育において、教師からの「働きかけ」と学ぶものが示す「成果」(もっと散文的に「入力」と「出力」と言ってもいい)の相関は「よくわからない」ということである。ある学生にとって「学びのトリガー」となったような働きかけが別の学生には何の感動も与えないということがある。こうすれば必ず学びが起動し、学生たちの知的ブレークスルーが始まる、というような「一般的な」教育技術というものは存在しない。残念ながら。
人間は実に多様なきっかけによって心を開き、心を閉じ、学び始め、学ぶ気力を失い、成長を開始し、退行する。私たち教師が言えるのは、「経験的に比較的効果的な方法が存在する」ということだけである。その方法さえ教師ごとにみな違う。だから、教師たちが集合的に「正しい教え方」について合意形成するということは決して起こらない。
だが、まさにすべての子どもを斉一的に知性的感性的に成長させる方法が存在しないという当の事実が人間の本質的な開放性を担保していると私は思う。それは言い換えると、あらゆる人間のあらゆる言葉、あらゆるふるまいが、子どもたちにとっては「学びのトリガー」となる可能性があるということである。
やがて知的なブレークスルーを担うようになる破格にイノヴェーティヴな子ども(千人に一人くらいの確率でいる)にとって、目の前に立つ教師のほとんどは(残念ながら)知的にはあまりインスパイアリングではない。けれども、「教師が十分に知的に啓発的ではなかったためについに才能が開花しなかった天才」というようなものを私たちは想像することができない(その程度のことで萎れてしまうものを私たちは「才能」とは呼ばない)。教師は、しばしばその狭隘さや愚鈍によってさえ子どもの学びを起動させることができる。「なぜ教師たちはこれほど愚鈍なのか?」という問いはある種の子どもたちを「学校」や「教育」についてのメタ認知に導く(彼らはいずれ「誰であれ教壇の向こうに立っていてさえいれば教育的に機能する。人は教える立場にある限り、教えることができる」という人類学的知見にたどりつくだろう)。
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。だから、過去の出来事が意味の改訂を拒絶するというのは人間が成長を止めたということと同義である(それゆえ、意味の改訂を拒絶する出来事の記憶のことをフロイトは「トラウマ」と呼んで治療の対象としたのである)。
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
学びというのはそのようなしかたでダイナミックに構造化されている。学びが力動的で、時間的な現象である限り、私たちが生きる一瞬ごとに、私たちがかつて受けた教育の意味は改訂され続けているのである。私たちがかつて受けた教育の意味が振り返るごとに改訂され、そのつど深みと厚みを増し、そのつどそれまで気づかれなかった相をあらわにするということ以上に教育的な事況というものがあるだろうか。
「効率」というのはもう変化することのない価値(人間的尺度からすれば「死物」としての価値)を抽象的に切り出された単位時間で除して得られるものである。そのようなものを数値的に考量したり、比較したりすることに学びにおいてどれほどの意味があるのか、もうこれ以上の言葉を継ぐ必要はないだろう。
丸善さん、内田先生、ありがとうございました。

2012年3月9日金曜日

『あらしのよるに』きむらゆういち先生のハノイ小逍遙(写真多し)

まあ、仕事で来たわけだから逍遙ではないに決まっているけれど、何故か母校仙台二高の幾つかあった校歌の中の一部をおもいだしたりして、古めかしく言いたくなったわけであって、出張でも旅行でも良いし、おなじ「しょうよう」でも「商用」の方が幾分正しいわけなのさ。僕はきむらゆういち先生とベトナムに於ける出版その他の仕事をはじめたので、ベトナムの有力な出版社と大ヒット作品「あらしのよるに」とか「いないないばー」「ブータンシリーズ」「オオカミグーのはずかしいひみつ」、イベントとしての「がらくた工作」教室の展開をメディアミックスしてベトナムの中で全国展開しようと昔取った杵柄よろしく、動き始めたわけなのである。

ベトナムはベトナムの美意識があるのでどの作品も絵は変え、画家はベトナム人の若手で行こうと決めた。折しもシンガポールの有力アニメ会社がテレビ用の「あらしのよるに」のアニメを制作中(あの大ヒットした東宝系の映画とは違う。テレビ用26話分)であり、本年9月ぐらいから、ベトナムでも放映されるので、絶好のタイミングと言えるのだ。

アーチストというか才人は、ヤッパーちがうね。子供の喜ぶ要素の組み合わせによるアイディアは底なしで、それも本のような2次元ではなく、展示やミュージアムの時に発揮される空間性がきむら先生の神髄だなあと気づいた。本は本で面白いし、昔からの媒体だし、独特の説得力はあるのだけれど、むしろその本の内容に含まれている心を動かす要素は先生の場合、平面に押しとどめられているものも多く、これをを解放し立体化というか、3Dの空間の中にクリエートしたほうが活性化できるモノも多いと言うことが僕なりに解ってきた。だから「ベトナム・きむらゆういち子供ミュージアム」。戦略的テーマはこの一点に収斂されるね。8700万人の国民の半分は25才以下と言われる若者の国、子供の国だから、ここで実現するのは意義あるよね。

それはともかく、きむらゆういち先生、ベトナムがいたく気に入ってくれたようで、僕たちスタッフもとってもハッピー。特に、ベトナム料理は飽きないとおっしゃって、5日間毎日美味しい美味しいと言って猛烈に食べてくれた。なにせ、フォーやブンといううどんなどは、毎回2杯は召し上がる惚れぶり。仕事の進行とかもとっても褒めていただき(僕じゃあないですよ、担当の小社のNGOCさん、ANHさんらのことです!!)、有り難いと思って居ます。先生にとって、初めてのベトナムは、快適な5日間であった様です。お疲れ様でした。

文廟の虎 気に入ったので今後僕のマークに使う予定。いいでしょ?
文廟の逍遙
早稲田コンサルのゴックさんと買い物


ベトナム大手出版社にて
超有名Trang An小学校の校長先生と
校舎
さあ、パフォーマンスのはじまり〜

写真は他のカメラにもっとあるので、近日追加となります。阿部

2012年3月3日土曜日

ベトナムの床屋さんの良い感じ

今時のんびりと床屋のことなんか書いている暇はないんだけれど、ベトナムに19年ぐらい通い詰めで、時間と年数を圧縮合計して10年近く在留しているのに、床屋は始めてさ。僕は大抵の男性と同様に月一回程度しか行かないし、つまり、日本の1000円床屋で十分だし、駅の中などにあるので便利だしね。だから、ベトナムの床屋に世話になることは一度も無かった。また、ハノイにいるときは学校関係の仕事で結構忙しく、車の中から「ああ、路上の散髪屋さん、やってら〜」ぐらいにしか見ていなかったという事だ。

今日は、どういう訳か8時〜12時まで例のハノイ貿易大学の日本プロジェクトの授業を終えてランチ食べて、新居に戻って小さなベランダでコーヒーでもやろうと思いながら、ぬかった道を注意深く歩いていたら、何時もの道に、今まで気づかなかったが結構格好いい兄ちゃんが路上散髪をやっていて、その兄ちゃんのなすがままに古びた床屋椅子に背中もたれているおじさんが快適に見え、更に彼のハサミさばきがなにやら黒髪の中を快走しているように感じ、吸い寄せられるように、「エムオイ、たのむ」と声かけた。周りには待っている人もいなそうで、隣接の、隣接といっても例のお風呂場の小さい椅子風なプラスチック椅子とセットの青だったかのチープなテーブルが2,3あり、そこに喫煙中の学生がいただけであったので、「君、並んでるの」みたいな仕草で確認したところ、違うと答えたので、気分良くミニ椅子に腰を落とし、ブルーのおしゃれなダウンコートを着た彼職人の仕事ぶりに目を移した。

アジア諸国には路上床屋はどこでも有りそうだが、ベトナムの、というよりハノイの床屋の店舗と道具、良くある場所について記しておこう。まず必須条件は堅牢な塀が無くてはならない。そこに釘を数カ所打ち込み、頭上の屋根テントをこさえなければいけないからだ。もちろん、いきなり道路ではバイクや車に押しつぶされかねないので、堅牢な塀の前は舗道であらねばならない。床屋のご主人はこの舗道と堅牢塀の90度の角度を使って、床屋の必須アイテムである床屋椅子を配置し、塀に少し大型の鏡をぶら下げる。もちろん、五寸釘を遠慮無く打ち込んで、である。もちろん、毎日打ち込むのではなく、一回打ち込んで、ここは「僕の店舗」と犬のおしっこマーキングのようなマーキングなんだろうと思うね。

大抵交通の邪魔も考え、大通りから住宅街に幾分入ったやや広めの空間に陣取っている。それも「電気街」とおなじマーケティングで、2〜3軒、仲良く並んで居ることが多い。やはりお客集めの基本は同類の分野と関連業は、仲良く連係して、「あそこに行けば、なんとかなら〜」という消費者心理にかなった方策を採っているのは、世界共通なんだろうね。仙台の駅前に近くに位置したところに「家具屋町」というのがあって、今から50年前に何かの買い物で親爺と二人で、家具屋町を歩いていたときに、「おなじ職業がまとまった方がお客さんはふえて、商売繁盛になるんだよ」と子供の僕には全く意外なことを親爺が言った。「だげんども、せっかくきた客が隣にとられることもあるよ」反論した記憶があるが、まとまったほうが大量の客を集められそうな現実をそこの街で学んだ。寄り道せず続けよう。

で、ベトナムでは未だにこのような散髪屋だけでなく、ブログにも書いてきたように「喫茶」「うどん屋」「バインミー屋:フランスパンに肉や卵挟んでいる」「パンク修繕屋」「カギコピー屋」「クジ引き屋」など無数にあって、それでなくともバイクの駐輪で場所を取られている舗道にそういった税金対象でなさそうなミニ店舗がひしめいているのだ。硬質ビニールのミニ椅子とチープテーブルの置いてある所まで、当店のエリアですよっていう店舗ね。そのお店の中でやや大型の店は床屋のように土塀や金網塀や、直接家屋に釘打ち込んだり、針金やひも撒いて引っ張り、屋根を立派に設置している。五寸釘うちつけられたち、自分の金網塀に針金でテント屋根など構築されている家のご主人はどう思っているのか、しらべまでおよんでいず、近々スタッフや関係者に聞いてみるけれど、すくなくとも日本じゃああり得ず、「オイ止めてくれ」と言って針金を切りおとし、ポリスに一回は電話するだろう。

ベトナムのコーアン(公安)、つまり警察はヤクザと表裏一体の組織なので、警察が出てくると「金がかかる」のでその前に区長とか、町内の組織の介在でまるくまとめるのが常識。警察に訴えようかなどと言う日本人がたまにいるけれども、訴えた方もされた方も数千ドル単位、1万ドル単位でで警察にせびられ、むしり取られる。経験者が言うのだから間違いないよ「エヘン!」ということで、ミニ商店や床屋のインフラは、近所の有力者と「なしがついていて」当事者同士全く問題無く営業できているはずだ。はっきり言って、ここがベトナムの良さ、アジアの良さなんだろうと思う(ベトナムだけのこととは思えないのでね)。小さい営みや老人の営みに配慮がある良さということさ。

おっと、路上の散髪屋。彼はハンサム、見た感じは宇崎竜童を若くして二重まぶたにしたような兄ちゃんで、高額そうなブルーのダウンを着込んでお仕事さ。僕の順がきて「どのように仕上げますか」みたいなことを聞いてきたので「君みたいに」と解りやすく返事して身振りした。刈り上げで、ソフトモヒカン。まあ、「僕教職」にあるので、ソフトモヒカンは、おいおい仕上がり過程で修正をお願いしようと考えて、まずは仕事にかかっていただいた。東京の10分1000円床屋とおなじで、ここも水道インフラはないんだ。あはは、路上の床屋だから、水道と下水はむりだわな。ドライヤーの熱風で(電気は何処からか引いている)僕の髪の毛をほぐして、さっさとシェザーハンドよろしく、10分床屋だった。自分でやるのでシェービングは丁重にご辞退して、チップ弾んで合わせて45000ドン払った。処女体験としては、充分に良い感じであったからね。

《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルと日付け、紹介致します。
ぜひ、ご高覧ください。多いのは一日1400名の閲覧もありました。

・2009年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC /  立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年4月 リクルートの罪 / 金のTUBAKIの女優たち
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
・     3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・     7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができた
・2012年1月 成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人

これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2012年3月2日金曜日

日刊工業で大きな記事2度の掲載

上記の2月6日(2012年)の記事は、僕等が行っているハノイ貿易大学の日本プロジェクト「日本社会の基本学教程」の紹介記事。下記の2月10日の記事は今までのハノイ工科大提携とその成果を含めたインタビュー記事です。(*画面をクリックしないで、「拡大」させたほうが良いようです)
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