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2010年12月31日金曜日

映画「ノルウェイの森」の失態

■今日は大晦日だ。村上さんとベトナム人トラン・アン・ユン監督の作品だし松山ケンイチだしと思い、昨日のうちに席を珍しく予約してちょっと早めに一人で新宿に出た。30分ほど早めに着いたので何かお腹に入れておこうと思い立ち、何故か「桂花ラーメン」喰いたしという事を身体が思い出したようで、何十年ぶりか足早に行ってみた。本年春のニュースでは桂花は倒産の憂き目を見そうであったが、とある九州の企業が助太刀をしたという人情話が流されていたので、安心して新宿駅前店を訪ねてあの独特のスープを口に運んだ。僕は今から35年ぐらい前に、東映の監督の梶間俊一君に新宿三丁目店を紹介されてこの味を知った。当時は九州の豚骨スープ味系が東京で全く流布されていない時代で、普通の醤油ラーメン以外はサッポロ味噌ラーメンしかなかった。だから桂花の味は美味しかったが、美味しいという前に不思議な味わいに驚いた記憶がある。で、僕はそそくさと堅めの例の麺をかみ切りながら平らげて、新装のコンプレックス新宿松竹に向かった。

■僕は「青いパパイヤの香り」と「夏至」を見ていたので、小津さんの影響らしさとか、執拗なクローズアップの連続の独特さ等の美しさと画面の落ち着きを評価していたので、TRAN ANH HUNG監督に期待していた(ハノイ読みなら、チャン・アイン・フン)。
さて、言うまでも無い。プロデューサーの仕事の大半は観客に支持される映画作りになっているかどうかを判断する事だ。特に原作が村上文学だから簡単ではないが、この作品では鮮烈な時代的印象を残して「直子」は死ななければならない。でも、その「直子」に菊池凛子を選ばざるを得ないほど、日本の20才代の女優陣は誰もいないのだろうか。生死の意味を問う役柄なら蒼井優だって良いし、他にもいそうだ。ベトナム人の監督と仕事をするのはプロデューサーも大変であったろう。まあ、フランス人と言った方が良いかもしれないが。でもだよ、この映画のプロデューサーは、(誰だか知らないが)、あの・・「パパイアの青き香り」の「ユン監督」と仕事が出来るという事に引っ張られた感が強い。己の判断つまり、助演女優直子を誰にするかの重要な志向と判断の基準を何処に置いたのだろうか。ユン監督は当代随一のアーチストの一人だから、プロデューサーが妥協したのだろうか。僕から見るとプロデューサーが不在であった。決定的なミスをこの映画の制作者のトップ二人はしてしまったのだ。まあ、失態を曝してしまったということだ。

問題はそのキャスティングだけでは無い。性と性交に付いての言葉の使い方についてもだ。連射される性の言辞が臆面もなく露わで上手く包み込むものも無く、日本人には聞くに堪えないと思うほど頻繁に役者たちは言わせられているのだが、映像とまるでモンタージュされておらず、文学の文字上のイメージの交差の豊かさに比すると「大空振り」も良いところの無惨さなのだ。映像と台詞のすれ違いは想像力を喚起せず、見る者に苛立ちを投与してしまう。そんな苛立ちを美しい画面から投与される僕ら観客の身になって欲しいぜ。画像が全体的に美しく、バランス良く配列されて居る分だけ、僕らの期待は混乱する。シナリオはユン監督が書いたようだ。もちろんフランス語だろう。それを誰かフランス人の日本語翻訳者が翻訳し、それを日本人翻訳者がオリジナル台本を照合しながら、調整したと思われる。多分これの反対の作業の流れでは無いと思われるね。もし、この作業を反対の流れにしたなら「科白の言葉」が微妙にでも救われたかも、と思うのは僕だけじゃあないだろう。これも、プロデューサーのプロとしての勘と実行力だぜ。村上さんの1960年代後半の当時の早稲田の騒擾のキャンパスに対する位相がそうであるように、同時代者である僕らにとって「性」は重要なモーメントで在ったが、最も僕らの心情というか激情の周辺を囲んでいた要素はヒューマンな理想主義であり、世代的な焦燥感であり、世界性を獲得したいという想像力への出血や吐き気の伴う創造過程であった。

従って、「ワタナベ」を演ずる松山ケンイチの一つ一つの相貌と語り口調は、60年代的雰囲気を漂わせて好感がもてるが、全体像で見る「ワタナベ」は軽々さが妙に前に出ていて、村上さんのイメージとはズレが生じているはずだ。当たり前だが、映画と文学は別な作品であるので、村上さんはそのズレをズレと見ないように評価したかもしれないが、文学と映画を一体と把握し「ノルウェイの森」の意味を確かめたい普通の観客は助演女優のキャストミス、画像と言葉のモンタージュ未消化、松山ケンイチのズレた存在をどういう角度から捉えたらいいのか混乱させられ、仕方ないので敢えて画面中に無理しても意味を模索せざるを得ない気持ちにさせられているのではないだろうか。ただ、ユン監督らしい落ち着いた画面の構成は優としたい。また「緑」の新人水原希子は悪くない。玉山鉄二の永沢は良いポジションを確保しているのだがもっと強烈で不可思議にすべきであった。シャブロール監督の「いとこ同士」(1959年)の助演ジャン・クロード・ブリアリを想起して僕は永山を見ていた。最後に流れる字幕の「学生運動監修」とかいう項があり、そこに早稲田の友人の名前があって思わずプッと吹いたぜ。でも、彼はリアルな”時代考証”の映像化に結構寄与していたね。

何年かぶりに日本映画を劇場で見た。新宿松竹のガラスで出来たようなシネマコンプレックスに初めて入って戸惑った。チケットの買い方や持ち込みの飲食の仕方も随分と変化していた。入場の仕方もルールができている様で、途中からの入場も不可となっていた。僕などは昔から上映予定時間に行かず途中から見て約1回半みる楽しみ方をしていた口なので、なにやらオンタイムのみエスカレータに乗って運ばれ、決まった時間に退場させられるこの劇場に健全であかるいハリウッド映画に相応しい洗練ビジネスシステムだけが目につき滅入ってしまった。映画と劇場の持つ期待感と不安と、別世界に観客が惹かれてゆく闇の魔力がもはや消滅させられていたことに強く気づかされ、溜息をついてしまったということだ。今どきの劇場(小屋)の様を新宿松竹の透明感溢れた現代建築の中で味わされた今回の久しぶりの劇場行きであった。
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・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2010年12月25日土曜日

★ 停電って、何だか心躍る / 乞食のおっさんのいる僕たちの界隈

■大佛次郎「天皇の世紀 文春文庫全十二巻」の第四巻130ページを読んでいたのが11月21日のブログに記してあるので、今日はまだまだの同巻の320ページだから、読書の進捗は低迷していたわけだ、この一ヶ月。勤王の志士たちの狂気のテロリズムと豹変志士の日本。尊皇攘夷のテロリストの一人である伊藤博文は開国派のイデオローグを斬り殺した経験もあった。でも、同時に文明の西洋にあこがれ、日本を離れたり、終には総理大臣になったりと、第二次世界大戦後1950年代「転向論」が鶴見俊輔や吉本隆明などによって論争があったが、幕末の志士が、文明開化に転向してゆく”自然さ”は、日本人論を構築する上で、一番のサンプルかもしれない。ともあれ、攘夷は狂気の台風として、武士階級だけでなく、一部の富裕町人階層も包含して、全土を吹き荒れた。

■停電って、結構わくわくするものだ。僕らが小学校低学年までのころ、つまり、1950年代は、日本で停電はさして珍しい事ではなかったね。子供の自分にとっては、停電は、夜に決まっていた。昼も在ったのだろうが、外で転がるように走りまくって遊んでいた僕らは気がつく術もなく、夜の遭遇が刺激があった。ラジオも消え、部屋中が真っ暗。すぐに、弟を脅かそうと、懐中電灯を顎から上に向かって照らして、フランケンシュタインを演じたりしたものだった。現代ほどではないが、煌々と部屋の団欒を照らしていた「マツダランプ」の常態が、いきなりいつもと違う「闇」に転ずるわけで、僕らガキたちにとって迷惑さは皆無で、いきなり劇場の舞台を与えられたごとくワクワクしたものだ。

この前、ハノイで、ベトナムのしょっちゅう起きる停電を汚い言葉で難じた正統なサラリーマンが居たので、鼻白んだことがあったが、僕らの国でも、停電は時々あった戦後の時期を彼は年齢的に知らないのだから仕方ないが、そういう己(ニッポン)の過去の環境ぐらい、想像できない頭の悪さを腹の虫の居所がたまたま悪かった僕は奴を罵倒した。あとで、やや反省したが、そういうちょっと前のニッポンが北朝鮮と同様な軍国主義であったとか、昭和20年代の荒廃の時代の日本は技術のぱくりと壊れやすい商品で一頃は世界中から、非難されていた歴史もあったとか、そういう40〜50年前のことぐらい、知識が無ければ想像力で補いやがれ!といったような、言わなかったような。

で、さっき、NHKのBSで「ニューヨークの停電」のドキュメントをやっていた。1968年とか77年とかの例の「出生率」向上したとか言う大停電とはちがって(結構多いね)、2003年の大停電の経験者たちのインタビュー中心のドキュメントだった。アメリカの明るいキャラもあって、どうもそのとき、ニューヨークの人々は、地下鉄もストップしたので、大変な迷惑を受けたに違いないが、それはそれとして、夏であったこともあって、オフィスに泊まってパーティーしたり、路上でバーベキューしたり、かなり、夜の暗さを単に楽しむだけでなく、非日常の人間関係を作り出し、結構事故を有効に使った人々が大勢いたことにハッとさせられた。アパートの住人同士の交流が出来たとか、長時間歩いて帰る途中に友人がたくさんできたとか、暗闇が意外なプレゼントを市民にくれていたようだ。我がベトナムでもレストランやピザハットとかで、僕も停電にかちあったことがあったが、その瞬間に悲鳴というより、「ヒャッホウ」と喜ぶ若者たちの歓喜の声が大抵、街中からわき起こる。暗ければ、つきあい始めの彼女に思い切ってキスの一つもしやすいのだろうし、次の展開に期待が生じるよね。

NYの若者が言っていた。「停電記念日」を作って、その日その時、電気に左右されない非日常を思い出し「不便さ」を楽しむ記念日を設けたらどうだろう、とね。なかなかまともな良い意見だね。特に日本人はこの10年、不便とか、合理的でない事を楽しむ人々というか、そういう気分が確実に醸造されているので、理解しやすい感覚だね、「停電の日」・・電気を使わない日の設置は面白いと思う。

■僕の居るハノイのレータンギーという地域は、東京でいえば、お茶の水界隈と言えるかもしれない。ハノイ工科大学やハノイ建築大学などが隣接しているいわば大学街なのである。カルチェラタンと言っても良いのだろう。学生街には安い食堂や本屋、「黒沢楽器店」とかパソコン屋がつきものだし、全く相似している。今からは想像ができないがそのお茶の水は明治や中大の、そして医科歯科大や日大の赤いへメットをかぶった社学同(ブント)を中心にした学生運動の一大拠点であり、新宿に次ぐ自由の天国のような若者たちの街であった。お茶の水の街にベトナム反戦闘争などの戦いが起きれば、すぐ飯田橋から白ヘルの法政の中核派の2000名が、本郷の東大や早稲田あたりからは青いヘルを被り武装した解放派や黒ヘルのノンセクトラジカル1000名の学生が一斉に駆けつけ、更に日大経済や文理などの全共闘の黒や銀、あるいはみどり色の戦闘部隊が数千名合流して、機動隊と対峙し戦闘を展開していた街であったのだ。

その上シンパやけしかけるサラリーマンやおっさんたちの群衆はすぐに万単位となり、機動隊を数の上でも凌駕する学生たちと市民のデモと隊列が出来ていたものだった。この極色彩のヘルメットの軍団の喧噪と騒擾は何かに突き動かされて、迷動していた幕末の尊皇攘夷の若者たちの武装した祝祭とどこか類似している様にも見える。大佛次郎「天皇の世紀」を読んでいると更にそう思う。心情は同位相なのだ。でも絶対の勤王と絶対の排外攘夷への衝動だけで自尽できる負のエネルギーに満ち満ちていた明治革命の第一段階の幕末と1960年代の僕らとは違いははっきりしている。

1960年代に起きた学生や若者たちの世界の反乱は個人のライフスタイルも、社会のシステムも、芸術の領域もパラダイムシフトしてゆく時代の、あらゆる世界性や都市性も含有していた。ベトナム戦争に反対するヒューマンな心情を僕たちは紛れもなく堅持していたものの、情報社会という魔物はテレビという堅牢なイデオロギー装置を市民社会に送り込み、あらゆるものを相対化してしまう「思考セオリー」を僕らの革命性の隣りに潜伏させたのだった。だから、僕らは若者としての想像力とポップな感性を肉体に搭載してはいたが、「何かが違う。こうではない!」という焦燥と体内に迸(ほとばし)っていたエネルギーを思想として止揚できず、結果次の時代からの回答をうまく得られず、70年代前半に無惨にも自壊し、霧消していった。結局、その後僕たちは高度資本主義のまっただ中で生きて、40年間働き続けてきた。
森田童子の歌に「みんな夢でありました」というのがある。

♪♪ あの時代は何だったのですか あのときめきは何だったのですか
みんな夢でありました みんな夢でありました
悲しいほどに ありのままの 君とぼくが ここにいる

ぼくはもう語らないだろう ぼくたちは歌わないだろう
みんな夢でありました みんな夢でありました
何もないけど ただひたむきな ぼくたちが 立っていた

キャンパス通りが炎と燃えた あれは雨の金曜日
みんな夢でありました みんな夢でありました
目を閉じれば 悲しい君の 笑い顔が 見えます

河岸の向こうにぼくたちがいる 風のなかにぼくたちがいる
みんな夢でありました みんな夢でありました
もう一度やりなおすなら どんな生き方が あるだろうか

で、話はレータンギーという街だ。僕の始終動いている界隈の或る路地に8月頃から、50才代と思われる乞食のおっさんが住み着き始めた。はじめの一週間は2メートルのばかりの道幅の片側の家屋の煉瓦壁に背もたれて座ってばかりいた。手持ちの家財道具もほとんど見あたらないので、はじめはその家のカカァに追い出された哀れな親父と思っていたが、10日もすると、2メートル幅の半分を占めた大きさに箱とか板きれなど組み立て始めていて、2週間ぐらいで僕がハノイに戻ったときは、いっぱしの小屋が建築されていた。日本のホームレスのおじさんの特許は青いビニールシートだが、彼は建築現場からいただいてきた青赤シート、昔海水浴で僕らが海に持って行ったそれだ、を器用に屋根や壁面に使用していて、きりっと締まった家屋に仕上がっている。もともと器用なベトナム人、家も建てればオートバイも直す。こんなビニール小屋など朝飯前ってものよ。彼がいつも背もたれしている壁の家の軒先は結構大きく、もともと、風雨をしのげる構造になっている。屋根など作らなくても良いのに、器用さともの作りの心が、屋根と天井までこさえてしまった。

僕は彼とお話ししたことはないが、いつもたいてい新聞や本を読むか、瞑想のように足を抱いて鎮座している。白髪に頬が痩けた面構え。彼は何者なのだろうか。不思議な事はどうも誰も立ち退きを迫ったり、追い出したりしていなそうだということだ。やはり、そこの家の親父なのかしら。日本の住宅街や商店街に一角に、路地とは言え、2メートル幅の路の半分を家にしてだよ。小屋を造る前に多分誰かが退散を迫るだろう。ポリスも来るだろう。でも、この4ヶ月見事に安泰なのである。「乞食」とは言え彼にも仕事がある。毎朝、側面の壁をお世話になっている家の玄関周りと周辺の道路を律儀にも掃き掃除しているのである。近隣と衝突を避け生き抜く彼の妙技なのであろうか。彼には彼の身を落とした何かの意志が見え「ホームレス」などという半端な形容はしたくないね。この項続く。

2010年12月15日水曜日

「ハノイ日本アカデミー」最新チラシ / 1月の講演原稿

■これは、最新の当校の日本企業向けのチラシの原稿です。当校の沿革、ポリシー、現況、成果などを解りやすく整理して記述しています。実物は写真を多用しています。

 ベトナムの理工系大学の精鋭をエンジニアとして採用しませんか?
  当ハノイ日本アカデミーはハノイ工科大学と提携しています。

世界の不況が長期化し、低迷が続く日本。その中にあっても、何とか成長を維持し、アジアの元気の素となっているベトナム。そのベトナムに進出の可能性を探りませんか。そして、その時必要になるのが将来のコア・エンジニアとなる精鋭たちです。この今だからこそ、優良なベトナム人エンジニアを採用し、不況明けに備えませんか。人材の確保はそろそろ積極策にでたいものです。日本企業に就職し、プロのエンジニアとして活躍したいと願っている大卒理工系の青年たちは数多く居ます。その中の最優良な数十人が私たち『ハノイ日本アカデミー』で日本語と日本の社会・企業システムなどを毎日猛烈に学習しています。

ウラのページ
《ベトナムは人材供給基地》ベトナムは8600万人の人口の半分が25歳以下の若い国です。かつ、理数系が強く記憶力なども大変優れた民族です。日本の産業界は今、企業のコアである開発のエンジニア(技術者)が何万人も不足しています。不況明けは、更なる不足が予想されます。半導体、機械設計、金型、IT、電機、ロボット、精密機械、化学関連・・このエンジニアの構造的な不足は、日本の産業構造を揺るがす大きな問題となっています。
2006年秋、日本とベトナムは戦略的パートナー宣言を協定しました。重要な点は日本政府がベトナムに対して「今後の最も大切な人材供給基地」と位置づけたことに有ります。

《当校の概要》2005年の開校(ハノイ市)以来、既に約140名以上の卒業生が日本に就労ビザで渡航し、日本全国の優良中堅企業で正社員の若手エンジニアとして活躍しています。
現在、日本人教員4名、ベトナム人教員2名の陣容で、毎年数十名の精鋭を日本企業に供給できる体制を作っております。2008年3月、ベトナム随一の国立ハノイ工科大学(正式名称BACH KHOA・5年制度)と当校は「日本語教育と就職支援」の業務協定を締結しました。また、本校の日本語の授業及び企業内コミュニケーション教育、技術者教育の実績は既に採用いただいたお客様はじめ各方面からご評価をいただいており、顧客様からのリピートオーダーも多数いただいております。3回目とか4回目の採用をいただいている企業もあります。

《当校へのご支援など》
今までセミナーなどの催事は社団法人九州経済連合会、社団法人九州ニュービジネス協議会、社団法人大阪国際ビジネス振興協会、社団法人静岡県国際経済振興会、社団法人岡山県国際経済交流協会、福岡商工会議所、早稲田大学ベトナム総研などのご後援や、東京都庁と東京都中小企業振興公社などのご視察もいただきました。また、在日ベトナム大使館、ベトナム労働省などのご支援もいただいています。更にNHK「おはよう日本」、日経新聞、日刊工業新聞などで、何回も好意的に取り上げられております。

《NPO法人VCI人材戦略研究所が運営》
VCI人材戦略研究所は2004年から任意団体として活動し2007年東京都からNPO法人として認証されました。ハノイにあるハノイ日本アカデミーはこの法人が運営する学校の名称です。当校によるこの“日本語ができる理工系学生の輩出”は、エンジニア不足に悩んで居られる中堅企業の人材戦略の一つの「解」と考えています。現在当「ハノイ日本アカデミー」で学ぶ学生のハノイ工科大での履修学部は、主に機械工学部、電機工学部、電子学部、IT学部、化学部、数学部、物理学部などです。

私たちは日本の教育分野のNPOとして、ベトナム人青年の夢の実現を支援しています。

《卒業生を採用いただいている企業》
採用いただいた全国の日本企業は東証第一部上場企業2社を含む約50社以上あり、多くの企業規模は従業員約50名から3000名規模のまさに中堅企業です。半導体、半導体装置、精密機械、金型、電機、機械設計,IT系(システム開発、組み込み系、ソフト開発など)、ロボット、鉄工・溶接など多様な分野の企業です。社名など詳細は、WEBサイト www.vietnam-waseda.org をご高覧ください。

《当校は日本企業に正社員エンジニアとして就職するための学校です。》
当校の学生は毎日8時間、約9ヶ月間にわたり日本語コミュニケーション教育、企業内コミュニケーション教育、技術者教育などを猛烈に学習します。合計は約1560時間です。卒業時は日本語能力試験の3級以上で2級の下のラインが平均値(N3)です。優良学生はほぼ2級レベルです。当校では夏、秋、春の年3回卒業があり、日本企業は各卒業前にハノイで面接し、採用します。当校の特徴は研修や派遣ではなく”御社の培ってきた技術を承継できる若手の正社員エンジニア”を採用できるということです。つまり、長期雇用が見込める事です。
費用や手続き、ビザ関係につきましては、お問い合わせください。
お問い合わせ abevci@vietnam-waseda.org
090-1767-7063 (日本の携帯 阿部) 以上

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■以下は近日、国際協力基金主催の「日本語教育国際シンポ」で講演する際の僕の予定原稿です。ベトナムの大学の日本語学部に向けた提案でもあります。

『日本に渡航して優良企業に就職するということを学生の目標とさせ、そしてその就職を確実に加速させるために』
〜〜学生の自己実現の第一歩は就職にあり〜〜

私は1970年代に就職関連の専門企業「リクルート」に勤務しておりました。リクルート社とは1960年当時、東大生であった一人の学生のベンチャー起業として出現し、今では巨大な情報企業となって日本では誰でも知っている、また、学生と企業には無くてはならない企業となっています。さて、その後、私は1980年マーケティングの企業を興しました。その仕事の関係で私は1993年に初めて、ベトナムの地を踏みました。そして2,3年後からベトナム交通運輸省、ベトナム外務省、MPI、観光総局(当時)、情報文化省の日本国へのパブリック・リレーション(PR)を各省の依頼に基づいて展開してきました。更に2005年、「理工系優秀学生の夢を実現する就職プレップ(準備)学校」として、当校を開校し今に続いております。これは、日本とベトナムにおける「就職と若い労働力」のマッチングを構想した2006年の両国政府の「日越パートナー宣言」の方向に沿ったものとして継続しております。

学生による「企業への就職活動」というものは、どうも偏った方向に流されていますが、情報と技術(知識)と人間形成が問われる大学生活にとって重要な活動なのです。スポーツマンが、努力し鍛錬するのと同じように、科学者が実験を来る日も来る日も地道に実践するように、就職活動は学問と同様で、「人間にとって仕事とは何か」を問い、自分にとっての適職は何なのか、それは社会に貢献できる仕事かどうか、あるいはその企業の財務内容はどうか、環境対策はどうかなど、自分の人生を深く考えることから情報の収集力を培うなどまで学習できる重要な分野なのです。つまり、個々人の就職であっても、就職するということは、実はその社会全体の文化と技術の承継であること、同時に「自分の人生と仕事」について学ぶ新しい専門領域なのです。「面接時に礼儀正しくしなさい」などと教えるようなレベルを申し上げているのではありません。つまり、就職活動は「仕事と人生」というくくりでの新しくて、かつ学生に必要な授業の領域になっているのです。従って授業として4年間、専門的に継続的に学習するカリキュラム編成が希求されます。そして、それを支援する新組織も必要になりましょう。新しいスーツを着込んで、焦心しながらエントリーした企業周りをするのが「就活」の本体ではないのです。

日本では、1970年代初期から、私がいたリクルート社が席巻し、政府の仕事斡旋センター「職安」だけの案内でない、もっと大がかりな「就職という社会の取り組み」が、社会各層に浸透し始めたのでした。特に80年代からは大学の社会における位置が大きく変動し、「大学は象牙の塔であり、学問を修めさえすればいい」という位置から、「社会に貢献する高度知識人財の育成」という方向に向かったのでした。従って、「卒業すれば、大学の役目は終えた」、から「学生一人一人の能力に合う適職」を提示し、就職して新たな人生を始めるまでを、大学が支援する体制に大きく変わったのでした。もちろん、個人の自立性を考えると、賛否両論がないわけではないですが、研究者にならない大多数の学生の社会への流入と受け入れは、社会的な要請として、その体制が新たに秩序付けられてきたわけなのです。

1960、70年代には、大学の中の掲示板に企業からの社員募集の紙を張り出すだけそして、企業ファイルを見られるだけの「就職部」はありました。が、80年代以降「キャリアセンター」として、大学側からの積極策が具体化してきました。大学として正式に就職活動を支援し始めたのです。また、変わったのは大学だけではありません。企業も採用をより戦略化し、本格化したのも同時代です。つまり、人材は、「人財」であること。企業に有益な優良人物はなかなか見つけられない現実の中で、如何に戦略的に獲得できるか・・・。企業は「人」で成り立っているからです。日本では大学、企業共に「人財」を通じて大きく、変容しました。が、それは80年代です。そんなに昔ではありません。

私たちは、2005年の開校以降、現在までにBK(ハノイ工科大学)の学生を中心に140名以上の「決意した青年」を、日本全国の優良中堅企業(メーカー)に、正社員エンジニアとして送り出してきました。それも、日本企業の現場の中で、新人エンジニアとしてすぐさま稼働できる人材を送り出してきました。このことはベトナムの政府だけでなく、日本の工業関係団体、中小企業の団体から、大いにご評価いただいて居ます。今まで3回、4回と継続的に採用いただいている企業、既に15名もの卒業生を採用いただいて居る企業なども在ります。企業規模は、50人から3000人ぐらいの日本の産業の裾野(すその)のまさに中核的企業群です。その中には東証一部上場企業も2社含まれています。

日本の法務省は、現在ベトナムの理工系出身者だけでなく、文化系出身者の日本での就職も大幅に認める傾向に変化してきました。「人文知識国際業務」というカテゴリーのビザの給付です。ただこれだけですと、まだ、通訳や翻訳などの範囲に収斂されるので、やはり、「日本の銀行が銀行の業務の担当者として」「証券会社が、証券業務の担当者として」「「出版社が、編集者として」ベトナム人が採用されるための育成体制が今後問われることになってくるでしょう。BKのIT学部では、既に特別のクラス編成をして、「日本語でITを学び実習する」授業が5年前から始まっています。

さて、セミナーやシンポジウムは議論するだけに終わるモノが多い。が、このシンポでは、「執行」を念頭において、具体化を話し合いましょう。
1 日本本土の日本企業就職を目的とした「毎年100名計画」を立てま
しょう。ハノイの日本企業へ就職するだけではなく、正社員とし
て採用され日本へ渡航・就労する学生100名の育成計画です。

2 そのためには、日本語学部の一年生入学時点から、「日本にいく
学生のための特別な授業」がカリキュラム化されなければなりま
せん。内容はまだ、研究中ですので、ここには記載いたしません。

3 更にそれらの学生を支援する体制が必要です。いわば「日本語学
部キュアリアセンター」です。ここでは、日本政府のお墨付きを
いただけば、就職問題が解決するモノではありませんので、マー
ケティング的戦略と中小企業との地道な組織化の活動が必要です。
ここでは詳細計画を明らかにする時間はありませんが、大学が本
格的に動き始めたとき、中小企業のパワフルなニーズの大風が吹
いてくるはずです。
日本社会は、誠実で頑張るベトナム人に好意を持っています。
そして、期待しています。また、現在、残念ながら、日本では企
業が求める優秀な人材が激減しています。

日本企業は、日本語の能力の高さだけを求めていません。むしろ、「伸びしろ」と言われる、未来の可能性を求めています。ここに現実の真実のポイントが潜んでいます。 さあ、動き出しましょう。 以上。

2010年12月9日木曜日

ジョン・レノンの死と僕らの死

12月8日は、言うまでも無い、ジョンレノンの命日だ。今でも鮮明に覚えている。1980年12月8日日本時間4時頃僕は何故か喫茶店にいた。ある会社のお客様と一緒だったと思う。店では何人ものサラリーマンたちが、いつもより新聞を大きく広げ、紙面を目で追っていた。そういう人が、4人も5人もいた。ちょっと異様な風景であったように記憶に染みている。で、紙面を大きく広げている人たちは、集中していながらも連れの相方となんとかなんとかと、話していた。普通じゃあないのだ。紙面の端に大きな黒地の大見出しが見える。大きな事件か事故の際にみられる紙面のレイアウトとレタリングだ。ぼくは、ためらうこともなく、隣のボックスの30才ぐらいの新聞を大きく広げている人に聞いた。

「何かあったのですか」と。彼もためらうことなく、むしろ第一発見者のような顔つきで僕に言った、ジョンレノンが殺されたんです、と。そうか、やっぱり大事件が起きていたのだ、それもあってはならない事が起きたらしい。ジョンが撃ち殺されたのだという。僕は隣のボックスに身を乗り出してその答を聞き、紙面の一部を見せてもらっていたので、反射的に僕のテーブルの対面にいる親しいお客さん、彼も僕の世代だ、に振り返って「ジョンレノンが・・」と言ったら、彼もつぶやくようにあああ、と血相を変えた面持ちで言った。これから来る時代の不安というか、黒い色の苛立ちが1980年12月8日のこの新宿の喫茶店の空気を支配していたとその時感じた。

その後の記憶は一切無い。その夜はどんな夜を過ごしたのだろうか。当時妻晃子の実家の一角に居を構えていた僕は、多分ビートルズの曲など聴かずに彼女と過ごしたと思う。沈黙しジョンレノン以後の世界について話していたのかもしれない。聡明な晃子は彼の死に振り回されることないように僕に何かやさしく意見していたんじゃあないかと思う。ともかく、まったく、記憶の破片もない。ただ、紛れもなく記憶しているのは次の朝に車の助手席にいたことだ。僕はカーラジオから流れる追悼の「イマジン」や「マザー」を聞いている訳でもないのに涙が止めどなく溢れ静かに泣きながら、目的地に向かった。もちろん、なぜ車に乗っていたかも忘れた。電車のつり革に掴まりながら、車窓から見える朝の明るい朝日に描かれた移り動く風景をぼんやり見つめながら涙していた記憶もあり、同じ日なのか、次の日なのか。

ここに、多くの友人たちの死も書こうと思ったが、まだ時期は早すぎるらしく、キーボード打つ指先に力も魂も入らない。情景だけが浮かんでも、文はまったく浮かんでこない。ちょっと中断。と言うより、中止の模様。

2010年12月3日金曜日

50年前のアンドロイド

■アンドロイド。何となく語呂が良く、未来がイメージできる様な言葉だ。ご存じのようにアンドロイドはグーグルの携帯用の新プラットホームだ。リナックスと同様のオープンソースなので、グーグルは、無料でアプリ各社に解放している。ハノイでも、アンドロイドのアプリ開発の会社も増えたようだ。SKYPEも使える様だから、通信の環境はより「無料化」に向かって進展してゆくだろう。このアンドロイドを導入した「au」の幹部もインタビューで、今後通信は無料になるだろうといいきっているし、トレンドはその無料の方向で大きく確実に歩み出したといえる。そういうインターネット・通信世界の怒濤の流れは、やはりマイクロソフトのビジネスモデルを既に過去のものにしつつあるね。

アンドロイドの広告は、あのレディーガガだ。中高年の皆さんも駅や車両のポスターで見かけるやや怪しげ、と言うより病的にさえ見受けられ、ちょっと硬質のソバージュのヘアーの女性のあの写真だ。目に隈ができていて、それは何か秘密めいている。「解禁」という文字もポスターに刻印されており、これは「通信がスカイプに依ってすべて無料になる」という今までの常識からの解放を暗示しているようだ。彼女はもともと1960年代末からイギリスで生起したグラムロック系の流れのアーチストでもあるので、このアンドロイドの広告はインターネットの原点であるヒッピー黎明の思想を垣間見せるコンセプトでまとめている様だ。ガガの化粧は60年代の平凡パンチなど当時の尖ったメディアにいろいろ登場した「思索する女」「闘う女」「飛ぶ女」「解放された女」の系譜をたぐり寄せ演出しているかのようだ。最近の「女子」とは、真反対の位置にある女性のイメージである。だから、僕のような60才代には、好みだし、理解もできる格好良さである。ああいうイメージの女子大生は、当時早稲田とか多摩美、武蔵美、日大の江古田あたりにわんさか居たものだ。

だからアンドロイドの言葉自体に懐かしさもある。僕は小学校高学年でこのANDROIDを知っていたからね。アンドロイドはヒューマノイド、ロボイドなどの造語と共に手塚先生の「鉄腕アトム」と、横山光輝さんの「鉄人28号」で既に登場していた。だから、ちょうど50年前ということになるね。これを読んでいるご同輩は「そうそう、覚えているよ」という人が多いに違いない。人造人間を意味するアンドロイドは音も意味合いも、インパクトがあるうえに記憶に残りやすい音声の構成になっている。一番多感な小学校の時に出会った、今となっては「懐かしき未来」。僕の記憶の海の底で静かに眠っていた言葉である。

■だんだん本を読むスピードと意欲が減退している様な気がする。半年前のこのブログで人生を終えるまで本をあと何冊読めるかをざっと計算したことがあった。そのときの基礎数字を年100冊とした。ここが大間違いだなあと最近とみに感じ始めた。昔は年に200〜300冊の本を約40年間買いまくり続けてきたとおもう。でも、今と違うのは本は読む本とは限らず、見る本もたくさん買っていた。多いのは美術書、建築書、写真集などが。また、たまにしか使用しないのだが、参考本、事典類も随分買った。また、買ったはいいが、意外につまらないので、うち捨てた状態のままの本も少なくない。目次とラストの解説ぐらいで放棄した本だ。従って、心してほぼ読了してきたのは、年100〜150冊位なのだろうか。

であれば、今後読む本は老人の僕にとって年間100冊で在るわけがないので、基礎数字を大幅に見直すことが必要であろう。最近はお金がないので、美術本、画集、書道書、写真集などは、全然買えないし、参考の本も買っていない。お金がもったいないものね。妻が生きていたときは、「しおこりもなく余計な本」を買ってしかられたものだった。いまごろ、晃子(てるこ)のいうことを聞いても遅いのだが、ともかく、現在は読む本しか買わない事に徹している。まあ、年に40冊だろうなあと、大幅に基礎数字を削減するね。また、今後何年生きるかだね。また、本を両手に持って、読書できる肉体をいつまで維持できるか。iPad等を使うようになるかもしれないが、もっと老人用に軽量になるとありがたいな。それはそうと計算する。一応、いきなり死ぬかもしれないが、元気さがまあまあ維持できれば、20年後の82才まで読み続けられると想定したい。であれば、40冊×15年=600冊、で、77才以降、量を減らして・・・24冊×5年=120冊。

ふむふむ・・というより、まいったなあ、というほか無い。この大事な人生で、人生あと僅か720冊しか読めないんだとさ。非道いなあ、神も予想以上に無慈悲だ。ほんとかよ〜、って感じです。目の前真っ暗くらだぜ。前は1500冊ぐらいの予想で、それでも、愕然ときて、読書の対象をもう日本の古典や名著といわれる作品だけにせざるを得ないと覚悟したわけだが、720じゃあ、どうすればいいのか。とんと見当がつかない。で、そろそろと思い昨日「天皇の世紀」の第五巻、第六巻を買った。これは12巻もの故、やっと、半分。で古典に絞らざるを得ないと思っても現代人もなかなかな著作を世に送ってくるので、また、幾つか、馬場あたりで、何冊か買ってしまった。「ヌーベルバーグの時代」(紀伊国屋書店)、書店をパトロール中にタイトルで衝動買い。本の装丁で買ったしまった。で帰ってから見ると、あれれれ似たような本が前も何冊か買っていたし、データ中心のもので、ちょっとしくじった。内田樹「武道的思考」(筑摩書房)の新「筑摩選書」の第一冊目だ。期待して買った。この新しい筑摩の選書シリーズは期待できる。筑摩はやはり流石だぜ。玄侑さんの「荘子と遊ぶ」、橋本治の「日本芸能史」、多木浩二さん「暴力論」、松井孝典さん「地球学的環境論」、池田晴彦さん「生きているとはどういうことか」とか、刺激的な本の予定リストが並んでいる。多木さん、松井さんは、かつて仕事でご一緒した方である。松井さんのは題名が貧相だね、彼らしくない。

東浩紀「日本的想像力の未来・・クールJAPANの可能性」(NHKブックス)、長谷川三千子さん「日本語の哲学へ」(筑摩新書)、フランスガリマール社の翻訳もの「フェリーニ」(祥伝社)、村山斉「宇宙は何でできているのか」(幻冬舎新書)、柳瀬尚紀「日本語ほど面白いものはない」(新潮社)も購入した。東さんのは、俊英の日本人論を読みたくて。偉大な映画監督フェデリコ・フェリーニの関連本は、自伝も含め結構持っているが、今回も何となく手が出てしまった。それの版元の「祥伝社」はかつて最悪雑誌「微笑」を出していたはず。ちょっと方向を変えたのかな。長谷川さんのは、読み始めた。和辻哲郎と対峙した展開で、魅惑的だ。東大のIPMUの初代所長村山さんの素粒子の知識にわくわく、これは新聞広告見ていて予定して買った。柳瀬本は、これは予定外だが、小学生との対話は僕の目線を引きつけた。さあ、早くも古典と名著だけで突っ走るとの決意も無理のようだ。