2008年12月27日土曜日

バブル時代の2,3の事柄 / ベトナム人の軽やか発想

このごろ、書く気が起きてこない。なぜだかはっきりとはしないが、学校の代表者、NPOの代表者として、この世界同時不況に打ち勝つための戦略を求めて苦悶しているからだろうか。でも、朝から晩までそういったことで思考しているわけで無し、通常のハノイとのやりとりの仕事、東京での、主に企業とのやりとりの仕事にいつものように忙殺されており、暗い雰囲気でふさぎ込んだように考え込んだりしている訳ではない。飯島愛が何故死んだか考えたり、若手お笑いのノンスタイルの二人がM−1グランプリ取った瞬間も見ていたし、「加山雄三までがパチンコのコマーシャルかよ〜」と彼の懐を考えたり、渡辺ミッチーの息子の小さな叛乱にちょっとニヤリとしたり、昼頃九州にいる息子が半年ぶりに来たので「よお〜」といったり、映画「k-20 怪人二十面相」は絶対見たいなどと考えたりしていたわけだが、「カラマーゾフの兄弟 第二巻」がまだ400ページで止まっているし、なんだか書いたり読んだりしたくない日々が続いているのである。

今日27日、オフィスでひとりで大掃除の続き(昨日スタッフが大半やっている)をしていたら、「道教と日本文化」という人文書院の本が机の周りに落ちていたを拾い上げ、懐かしく読み始めた。東大と京大で教授をしていた福永光司さんが書いた本で、これを読んだ1980年後半、正にバブルの真っ盛りの時代であったが、大分の中津市にお住まいの福永先生に会いに行ったことがある。会う前に知人である松岡正剛氏とNHKで道教:TAOについての対談をしていたのをみていたこともあるが、Kという金持ちを同行して、面会に行ったのだ。Kは、バブリー紳士の典型でゴルフ場の開発が一応仕事だ。が、盆栽が趣味で、あれは徳川家康の盆栽だとか、訳解らないお盆が5000万円だとか、2億円だとか言ってバリバリ収集していた。

盆栽フリークでは明光商会の会長が当時有名であったが、彼をしのぎたいのがKの願望で、連日全国から不思議なおじさんたちが、3千万円だ、1億円だとかの盆栽を各種持参し、Kに売りつけていた。元中央公論だったかの編集長とかいう、おべんちゃらインテリが毎日そばに控えていて「うむむ・・、この枝には神が降臨している」とかのたまふって、毎月小遣い稼いでいた。企画会社のサラリーマンであったぼくもバブルの末席にちゃっかり便乗して「盆栽は道教だ。だから、道教の碩学に会おう」とか提案して、大分県までバブル紳士を連れ出したわけである。

道教はよく老荘思想と同意で語られるが、厳密に言うと老荘は、道教の大河の中の上澄み的上層部分の哲学部門である。僕の老境計画の中では、65才以降、引退したら「道教:TAO」を極めたい。また「太平天国の乱」の書物を片っ端から読みたいと決めているので、20年ぶりに開いたこの本にはもの凄い磁力があり、書きたくない、読みたくない気分を一掃し、久しぶりに一時間ほど、かつて読み飛ばして居た部分などを集中して頁をめくれた。
Kはかつての興銀から、当時100億ぐらいだったか融資を受けていて、ゴルフ場の開発に投資していた。でもそのかなりの部分をシュレッダーの明光商会に勝ちたくて、盆栽の収集に使い込んでいたのだと思う。

奇妙な時代であった。所詮、田舎者の銀行員や証券会社の若手や中堅が慣れない六本木や赤坂あたりで、「1億円借りてくれ!借りる人居ないかあ」と毎日絶叫状態で走りまくり、あちこちに押しつけて金を貸し、プロ野球の優勝チームのビールかけ状態で遊びまくっていたのである。金融と不動産とリゾートが東京音頭を踊っていたのである。日本の都市が総ジュリアナしていたと言っていい。Kはそのあと、詐欺か横領でお縄をかけられたが、彼が気前よくばらまいた金品を哄笑しながらごっつあんした連中は祝祭の後、だらしなくゆるめていたネクタイをきゅきゅっと締め直して、こぞってオフィスビルにまいもどり、93年あの祭りは終わったのだった。

そしてKは気の毒にも”後の祭り”状態で、ひとり桜田門前に佇んでいたというわけだ。僕は、盆栽会館設立委員会なるボードの設置が担当で、一通り有名人をボードに据えて仕事を終え、僕はそこを去った。バブルと真反対の社会貢献(当時フィランソロピーといった)を企業に提案するベンチャーを設立するためである。92年夏、その小さな会社は志だけは大きく、青山の一角でひっそりと出発した。なんだか、回顧メモ風なことがこのブログに多くて恐縮ですが、道教は、ベトナムで仏教が広まる以前から、生活や宗教の営みの底流にしっかり流れている。それを言いたくて、バブルの時代も触れたが、それは、本日の前菜であって、実はクリスマスの日に、ベトナムの軽やかな思考を最近もろに体験したので、備忘したいのである。


で、やっと「ベトナム人の軽やか発想」である。
現在、世界の強欲資本主義が瓦解し、同時不況の最中である。僕を始め当校VCIは日本企業の採用ニーズの減退を避け、採用人数を減らさないための色々な手を打っている。対企業にも、また校内のシステムも、さらに財務的にもである。学生たちもインターネットの時代です。震源地アメリカの状況、余波を大きく受けつつある我が日本の状況もかなり詳細に情報を入手している。したがって、日本語学習や日本システムの学習は、果たしてこのままで良いのか、と学生なりの懊悩の表情を見せている。

当校のシステムの概要は1:13ヶ月間1600時間の学習、2:他では考えられない8名の日本人教員(通常日本人は1,2名)、3:日本語だけでなく「技術者教育」と「企業人研修」など日本の社会システムやメーカーのシステム、もの作りに関しても長時間学ぶ、他校にはないオリジナルなカリキュラムを有している、4:ハノイ工科大学とプログラムと就職支援で協定を締結している、5:卒業生は正社員エンジニアとして既に100名を越えている実績がある。 ・・・ふふふどうだ!といいたいですね。

というように宣伝臭いこと書いていたら、ちょっと飽きが来たので早稲田の本屋で奥田英朗の「オリンピックの身代金」と、内田樹の「昭和のエートス」、「カラマーゾフの兄弟3」を購入してきて、前2冊を読み始めた。「オリンピック・・」は話題の本で、2週間前から買いたい衝動に付きまとわれたしろもの。内田さんは初めて買った。タイトルも魅惑的だが手に取ったら、作家であり編み物クリエーターの橋本治さんとの共著もあることが解り、買うことにした。偶然にもこの二冊にはそれこそ敗戦後の時代のエートスに溢れた作品であるという共通性がある。

日本人は計画を立て、それに向かって粛々と途中で何があろうとも、完遂するまで直向きに努力する。ここで言いたいのは、僕の日本人的の形式主義、始まったら変えられない主義がもろくも露呈し、反対にベトナム人が彼らのしなやかな身のこなしを、僕に見せつけたのであった。半 藤一利さん、保阪正康さんお一連の昭和史ものに詳しいが、例えば太平洋戦争が誰が始めたか曖昧で、始まると誤謬が見えても誰も止められず、事もあろう に終結した後、責任者が何処にも居ないのが、日本の特徴的な体質だ。50年前に建設を決めたダムや誰も使わなくなった道路建設などもよくやり玉に挙が る。我々はそれをテレビで見て、「バカじゃあねーの」と冷笑する。また、日本の官僚体質は変わらん、と唾棄することが多い。が、実は俺も同様の資質あったということさ。

ベトナム人は計画を立てない。立てないと言い切ると相当語弊があるが、少なくとも当校のスタッフ、また、関連の企業の優秀な連中を見ていて、少なくとも計画を書面化して「さあ、この通り、行こうぜ」とは、誰も言わない。誤解を恐れずに言うと彼らは、計画とは現実と合致しなくなるのが通常だから故に(机上の空論を時間かけて紙に書いても意味が無く)現実と対応しながら日々戦線を立て直し(練り直し)、俊敏に調整をしながら未来を勝ち取ろう、と考えているのだとおもう。つまり、ゲリラ戦の陣形なのだ。 言うまでも無く、ゲリラ戦にはベトナム人の面目躍如たるものがある。

この世界同時不況の最中、日本人阿部は、新しい事や時代に対応する計画・企画をあああでもないこうでもない、としたためている訳だが、かれらのしなやかな運動神経の前で、自分の足腰の重さと老朽化を嘆くことになったのだ。ベトナム人総務スタッフらが、クリスマスの日にいきなり、日本の不況の現実を考えると今から夜間クラス作りましょう。昼でも可能な学生と夜間に入ってアルバイトしながら学習する学生に腑分けし、現状に合わせて再編成をしましょう。夜間は夜の授業時間が少なくなるため卒業が7ヶ月遅くなるが今不景気だから、遅くなるのは丁度良い、と根回しなしに如何にも軽やかに言ってきた。
彼らは何時も唐突なので「ええっ、いきなり、そんなの無理だよお。教室の空き加減とか先生のローテーションは難しいよ。その前にまず第一、そんなこと言われて彼らの計画が崩れてしまい学生が非道く戸惑うんじゃあないか?」とおたおた僕は反論する。しかし、彼らは持って生まれたセンスでニーズを一瞬のうちに細かくセグメント化して、即応しようとする。マーケティングを30年やってきたと標榜してる僕のメンツ丸つぶれのVUONGさんとNGOCさんの提案であった。僕は不機嫌になったが、悔しいがそれって、正しいナと内心、納得した。 奴ら、ゲリラだ・・・

また、こういう例もある。「今度の新しいクラスの募集の前に、学生が2名来てしまった。」僕は「クラスが正式に出来るまで、2週間ほど待ってもらいましょうよ」彼らは「いや、今あるBクラスか、Cクラスに2週間ほど出てもらい、新クラスができたら、そこに移動すればいいです。」と平気で言う。僕「中途半端にあちこち移動させるなんて・・・まずいよ。学生は言わばお客さんだよ」と反論するが、この二人は勉強を速く始めたいのだから、全く問題ないとまたまた僕を一蹴した。

《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上のいわば”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
多いのは一日1400名閲覧ありました。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行 

2008年12月11日木曜日

映画「おくりびと」考

劇場で映画を見なくなって、まあ20年は経つなあ。と言っても、劇場で見る習慣を無くして20年という意味であって、全く劇場に足を運ばなくなったわけではない。この数年でも、年に1〜2回ぐらいは見ていようか。それじゃあ見ないに等しいわけだが、劇場の雰囲気、それも始まる際の胸騒ぎは何時になってもたまらない。実は僕は何を隠そう、東映で助監督であったのだ。1970年から3年ほどだ。大学に行かず、日活の照明部に潜り込んだのが確か1970年春であった。渡哲也さん主演のホームドラマの照明を見よう見まねで、お二階で(スターたちへのライトを天井部分、つまり上から当てる役目)本格的労働者として、汗水垂らした。何しろ時代が時代だから、2階には直径1メートルや2メートル、厚み1メートルほどの巨大なライトがうなりを挙げて、煌々と下を照らしている。僕らの2階部分は40度以上の熱風地帯。汗を上から垂らせば、怒鳴られるし、物音立てては、しこたまどやされる毎日であった。

重量30キロ、40キロもあるそれらの灼熱ライトを照明技師のかけ声一つで、あっちへ移動、こっちへ移動と2階の渡り廊下(仮設仮設した、ロープでつり下げられただけの代物)を火傷しながら、スターたちにほどよい光量のライトを当てる仕事であった。ライトが直接お顔に当たると、お顔の陰影がシャープに出やすいので「パラピン」とか言われる半透明の紙をライトにあてがい、スターのお顔に柔らかい照明を施すのだ。階下は、理想的な家庭を仮装の美男美女が演じ、お二階では、熱地獄のような暗闇で元気よく僕の青春は爆発していたのだ。お二階には通常、2,3名の先輩が居て、僕の頼りない仕事を色々カバーしてくれていた。仕事も年齢も大抵不詳のようなお兄さんたちで、「お前全学連なんだって・・バカ田大学だな」とか揶揄しながらも、時々日活撮影所のそばの布田駅あたりの赤提灯で奢ってくれたりしていた。

で、日活は照明課長と折り合いが悪く、2ヶ月で辞め、上記先輩の一人の紹介で練馬大泉の東映東京撮影所へ。一年ばかり、照明部をやっていたが、お二階から撮影の現場を客観的に見ていたお陰で、ドラマの撮影なんか俺でも撮れると傲慢に、年齢も似たようなセカンド助監督数人とああだ、こうだ、フェリーニがなあ、ゴダールの黒画面は革命のなあ・・とか言っている内に早稲田の先輩がぞろぞろ居る演出部に入れと言うことになり、照明部からは「裏切り者」とやじられたが、71年初春に、東京12ch「プレーガール」、TBS「キーハンター」のセカンド助監督になった。ついでにここで早稲田も辞めた。初めての衣装合わせで、主演の桑原幸子やお姉(沢たまき)あたりに「今日、何故ここに居るの(衣装合わせに照明部の若手は参加しないのだ)?阿部ちゃん・・」と聞かれて「うん、今日から助監督さ」といなして、演出助手の第一歩が始まったのだった。

映画「おくりびと」はハノイ行きの機上で見た。評価が高かったので見たが、まあ、どうなんだろう、佳作とか小品とか言われる範疇の作品以上でも以下でもないと言ったところでしょうか。思い出すのは伊丹十三の「お葬式」だ。共通するのは怪優山崎努がほぼ主演で画面を支配していることだ。NTTドコモの最近の一連の自分探し風コマーシャルの不思議な館にいる山崎も同じ流れのようだ。単純に比較はできないが、お葬式には破壊力が充ち満ちていた。彼の意図は笑いで建前とか形式を吹き飛ばすって寸法だ。死を送り出すにはカオスが一番、と言い切った傑作である。

一方、同じ死の送り出しだが、死には、やっぱり静寂がいいよねと、演出トーンを抑えに押さえて好感持てるのだが、これからの若い夫婦の絆と、プラトニック的であったらしい初老の恋人笹野の「おくりびと」の絆の現れ方もまた「小品」で、総じて悪くないが小粒の感が否めない。この作品をモノクロで撮り、より不器用な生き方を選択し、主演本木を別れを享受できる男に仕立てれたら、やや「骨太」の作品になったような気がする。テレビ出身小山薫堂脚本の纏まりの良さの弊害なのかも知れない。アニエス・バルダの「幸福」(1966年フランス)を「おくりびと」の後、ご覧になるといい。葬送の「 本物の美しい映画」が見られるはずだ。

2008年11月29日土曜日

微笑の国って本当かい?

天国に一番近い島だとか、情熱の国とか、蒼い風の吹く・・・とかは、小説の引用などから観光会社がひねり出したいい加減な修飾語だろう。特に困っちゃうのはベトナムの「微笑みの国」って奴だ。正式に”微笑みの特許”を持ってはいるのは昔からタイ国だ。ところが女性雑誌などでは、ベトナムも最近「微笑み」に参入させられている。でも、どこに微笑みが転がって居るんだろう。ベトナムのどこに微笑みが溢れているというのだろうか。雑誌の編集者は何処見て書いて居るんだろう、と思うね。ベトナムを悪くは言いたかあないが、えっほんと?って言いたくなるね。

もちろんハノイにも大阪風のおばちゃんもいれば、山の手のご夫人たちもいる。巣鴨のおばあちゃんな人たち、あるいは、そのような一角もある。そこでは微笑みどころでなく、哄笑や豪快な笑いとおしゃべりに溢れている。生活や仕事に笑いは付きものだ、当たり前だね。世界の街角には、何処でも笑いや微笑みが在ろうというものだ。悲しみに満ちた星地球とはいうもののまだまだ笑顔は地球上で生きている。でも「微笑みの国」ってなんだい?微笑みのプロといえば、なんと言っても空飛ぶスッチーさんだ。しかし少なくともそのベトナム航空のスッチーには他人にスマイルを伝播させるような笑顔はないぜ。黙々と、時には憮然と仕事に励んでいる。JALの訓練されたスッチー軍団のようなプロの笑顔や気配り仕草はない。ほとんど無愛想だよ。正直と言えば正直な表情なんだがね。一度でもベトナム航空に搭乗されれば解ります。

今回この無愛想を考えてみようと思う。実は無愛想の中に「微笑み」に無い何かがあると睨んでいるのです。馴染みのレストラン、路上のレストラン、小売店で、「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」何ていう元気な挨拶は通常されたことが無い。ニコニコっとしたsmileもまあ、滅多にしていただけない。レストランであれば、注文も支払いも無表情の対応だ。だからといって、いやな気持ちになるわけでもないし、敵愾心が見えるわけでもなく、淡々と昔からの親戚のようにあっさりと事は済む。親戚と言うより、親や兄弟に近いかも知れない。実際日本の家庭で、親や兄弟に「ありがとう」「またよろしく」などと元気に明るく”感謝の意”や気配りを明示する人は希だ。家庭の中で、謝意を大げさにのたまう奴は居ないのと何処かにている。

小津安二郎監督の「東京物語」でも、ありがとうというのは嫁さん(外から来た人)の原節子だけだ、以心伝心で信頼が伝わり、生活は恙(つつが)なく進行する。それが日本の家庭であり、生活の品位というモノだろう。僕はベトナムの無愛想をそこに見ている。揺るぎない信頼関係に余計な言葉はいらない。外から見ると無愛想だが、むしろ以心伝心する信頼と敬愛に「粉飾のご愛敬」は要らないと言うことなのではないだろうか。
僕は仙台生まれ、仙台育ち。仙台人も昔から”商売っ気”がない、つまり愛嬌がないと言われてきた。商人でさえ無愛想なのだ。でも、信頼に基づいた社会は見事に揺るがなく構成されていた。武家文化仙台の在る意味で真骨頂なのだ。だから、ベトナム人の無愛想の中に潜む「前提としての信頼感」あるいは「絆」は、僕なりに見て取れる。お客さんも近所の人も通行人さえも、広い意味で”家族”と捉えているのではないか。頼母子講など相互扶助システムが昔から発達してきたベトナムならではの家族観が無理のない、つまり正直な表情で自然に生活していると言うことだろうと思う。
演出された笑顔が多すぎるのかもしれない日本。マニュアル化された笑顔に僕たちは慣らされすぎてきたのではないか。皆さんはどうご覧になっていますか。

2008年11月26日水曜日

老人と本

本日夕方成田を出発してハノイへ。本年12〜13回目の渡航だ。どうしても買いたくて出発前の時間割いて、さっき早稲田の本屋で「キャパになれなかったカメラマン・上下巻」を買った。最近あちこちで書評を見ていた。文春だったか作家の池澤夏樹さんの書評が特に印象的だ。カメラマンというと「スチールカメラマン」が戦史などを記録しているので、澤田さん、一ノ瀬さん、キャパ、岡村昭彦さん、石川文洋さん、マグナムの英雄的カメラマン群など有名なわけだが、ベトナム戦争は「テレビ報道が戦争終結に道をひらいた」と言われるぐらいに、テレビの時代となっており、1960年代のお茶の間に悲惨な戦争が連日侵入した。したがって、実は無名の16mmフィルム(ムービー)カメラマン(未だビデオカメラやENGがなかった)たちの報道が量としてもアメリカ国民に大変な影響を与えたわけだ。

この本はアメリカの元ABCのカメラマンの平敷安常さんの膨大な回顧録だ。読まずには居られない表紙や本が醸し出す魅力。「カラマーゾフの兄弟」は順調に読み進んで今二巻目の200ページあたりだ。つまり、これで当面中断だな〜。更に本屋の出口でロバート・ライシュの「暴走する資本主義」も買ってしまった。ライシュはご存じのようにクリントン時代の労働長官、天才的経済の構想家だ。15、16年前に彼の先鋭的「ザ・ワークオブネーション」を読み、かれの”シンボリックアナリスト”の提示から大きな衝撃を受けた記憶がある。僕には珍しくページに線を引いたり書き込みしたりした。そういえば、昨日、F・カストロの「チェ・ゲバラの記憶」も買った。

最近どうも、僕は老人症であるようだ。かつて買ったのを忘れて、また同じ本を買ったというのではない。好々爺になれない老人なのである。キャパになれないより、悲惨かもね。
実は短気になってきたのである、それも良くない感覚が忍び寄っている感じなのである、近頃。パパヘミングウエーの”老人と海”の様にカジキ釣り上げるような人生余録なく気持ちに余裕が無くなってきたという話なのである。
僕は本来から、差別を見たり、差別されると常に反発する。許せないと一瞬にして心に誓い反撃に出る。僕の親父は、いわば戦後民主主義の権化の様な誠実で熱血もある高校教員であった。神は居ないよ、と僕ら子供らに諭していたが軽いキリスト者であるし「オウガスチン」というクリスチャンネームも持っていた。彼から一貫して教えたれたのは公平とか、平等についての感覚であった。人の良い母親の感性も僕のそれを後押ししてきたと思われる。

その環境で育った僕は、大きいモノの横暴、つまり、国家とか、大企業とか、帝国アメリカ(まあ中国、ロシアもだね)とかの傍若無人が極めて嫌いなのである。ところが近年、身近なところでは満員電車で背の低い僕に鼻息を無造作に吹きかける背の高い奴らも我慢ならん。もっと敷衍すると、シルバーシートで居眠りする少年少女。ジャンボ尾崎風襟足長目の子供のヘアスタイル。ああイヤだ我慢できんぜ。平成新撰組でも設立して、バカな奴らを掃討したい衝動。マーチン・スコッセシの映画「タクシードライバー」にはなりたくないがね。そんな皮下脂肪を泡立たせるような感覚が巷にも僕にも通底する共通感覚の様な気がする。

つまりは、そのようなざらつき感が僕にもいつの間にか蓄積してきているような予感がするのだ。少なくとも、短気というより、「いらつき感」というのだろうか、そんな感覚が体内に宿どっている気配。老人は本を読み、先人や達人とも交わり多様な経験を積んで、精神も感覚も一段、高尚になって居るはずなのに・・。赤瀬川源平さんのような”老人力”にはなかなかなれない。老人社会に更に深く沈んでいくこれからは、老人でさえも持ってしまっているこの様ないらつき感的短気症状をどのように治癒していくのだろうか 。実は大きな社会問題になって行くような気がする。
そういえば、25日夜民放で、80歳代になった金嬉老が故郷釜山で差別が引き起こした自身の40年前の事件を静かに回想していた。まずは、ハノイの堅いベッドで分厚い「キャパになれなかったカメラマン」を枕に昼寝でもしてみて、スローな気分を自分で演出してみるしかないか・・。

2008年11月23日日曜日

幸せ探がさなきゃ・・

昨日、恒例でもあるがハノイの当校教員の尾崎さんから「ナナスポ」がメールで送られてきた。彼のスポーツニュースだ。我が尾崎監督率いるVCIの野球チームが、宿敵ハノイクラブ(ベトナム人の野球愛好クラブ)を8対3でやっと下したらしい。狂喜乱舞の報が入ったというわけだ。それまで野球を見たことさえ無かった彼らを約3ヶ月の指導と訓練でよくそこまで来たと感心。特に大人しいと言われがちのベトナム青年たちが、ふがいないプレーや敗北を自ら悔しがり、ついにここまで来たのだ。うれしい。闘将尾崎さん、また応援の女性の先生方、ご苦労さま。 その時、遂にHANOIのテレビ局が彼らの珍しい野球を取材にきたらしい。今後の反響に期待。

ぼくはベトナムに幸せを探している。日本が失ってきたこと、忘れようとしてきたことの多くがここにまだ残っているからであろうと思う。そこには、日本の戦後を総括する上で大事な要素がいくつもあるような気がする。まず、一等最初に頭に浮かぶものは「家族の絆」である。よく戦後の欧米化がいわれた。進駐軍の施策はじめ、文化情報の隅々にいたるまでの操作によって、家族関係、友人や知人との人間関係、地域との関わりは薄められ、代わりに個人の主体が重んじられることに価値が置かれてきた。そこでは”仕事”が栄えたのでなく”ビジネス」が隆盛したのだった。分断とか、解体というと一口過ぎるが、事実上「関係性」が閉じられ「個」が孤立しながら表に立たされるのが現在の普通のシチュエーションになった。これが欧米的というものなのであろうか。

たとえば、東欧は今でも東方正教的な泥臭い家族関係は実在しているときく。大ブリテンであっても、アイルランドやアイスランドでは、(ケルトの歴史だけじゃあなく)、大半を占めている農業者、漁業者の家族はまだまだどっこい家族を軸にした人間関係を維持できているようだ。フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ぼくの好きなポルトガルでも、そうであると予想できよう。優良なドキュメントやニュースでもそういう情報は少なくない。アメリカはNY,ロス、シカゴなど大都市以外は、ニューヨークも知らない「田舎もの」であふれたマッチョ的家族関係が今も無風で、その崩れを知らない。新旧キリスト教、イスラム教という生活に完全に根ざした宗教(生活システム自身)がまさに牙城として、家族と地域の「絆」を守っているのだろう。

大分前だが、世界の高校生のアンケートなるもので「親と生活したいか」という問いに「是」とした%が次だ。80%中国、フランス(多分)70%、アメリカ60%、韓国50%、日本16%とかいてあった(出典不明・うろ覚えだが大手生保の発表とおもう。数字もやや怪しいが、日本だけ16%で圧倒的に少なかった)。韓国が意外に低い印象であったが、アメリカでさえ”常識的”数字であった。住宅事情も大いに反映していよう。が、日本の場合、ここには別な要因がいくつか複合して隠されているように見える。

先週、ぼくが夕方不整脈で倒れた日の朝、田原総一郎さんのサンデープロジェクトを見ていたら、今をときめくフィンランドとデンマークの「幸せ」をドキュメントしていた。田原番組らしい良い企画だ。重税国らしく、フィンランドの所得税は、60%、デンマークは70%だそうだ。レポートに登場したデンマークの若い共稼ぎ夫婦が「ふたりで70万円ほどある月収のうち、自由に使えるのは十数万円だ」と言っていた。物価も決して安くないようだ。でも、そこには幸せ感が横溢している。街頭インタビューで若者も老人も溌剌と多様な言い方で、現在の幸せを落ち着いた口調で語っていた。

一方、小さな政府が良いとか、「経済は市場が決める」などという慶応の竹中はじめ金融市場「原理」主義者は、今後、この「北欧の”大きな政府”」の新しい価値をどのように批判していくのだろうか。彼らの幻想は今年もろくも崩壊したわけだし・・。虚構にITテクノを粉飾した実態が暴露されたからだ。これが「市場が決める」の内実であったのだ。この現状にあって、ぼくらが少年時代からではあったが、北欧のゆったりとした家族の絆を大切にしたままの社会形態には、理想的な眩しいものがある。日本は1億人、両国は各500万人だ。比べようがないと言うまい。田舎だろうが都市だろうが、大国だろうが小国だろうが、共通する真理は潜んでいる。次の兆しは、見えにくい日常に既に芽生えている。時代というモノはそういうものさ。
ベトナムでは、途上国が大抵抱えている環境問題、不公平、汚職などが根深い。理想を求める自分との乖離も無いではない。それを救っているのはまさに家族の絆だ。今後、彼らの社会は、この家族と地域などの絆のあり方をどう展望していくのであろうか。 時々このベトナムの家族の絆や、日本の戦後総括で肝要そうな事項を自分なりに論耕していきたいと思う。

今は大御所だが、田原さんは、昔「岩波映画制作所」にいた。その後東京12chにはいり、60年代後半に当時の社会現象のドキュメント表現者として突出していた。その後、局内で「干され」、テレ朝「トウナイト」司会者で政治評論家としての頭角を現すのだが、そのころ、ぼくの企画の「ドキュメント青春」の再販の試みを全面的に協力してくれた。また、1980年10月21日の反戦映画「怒りをうたえ」(合計8時間)のビデオ発売記念大上映会を今は無き池袋文芸座で2000人を集めて阿部が司会(主催)で行ったときも、作家の中上健二さんらとともに田原さんも駆けつけて講演をしてくれた。赤塚不二夫先生、村上龍さん、漫画原作のやまさき十三さん、作家立松和平さんからも協力もらった。友人や縁という絆が活きていた。28年前、ぼく32歳だった。

2008年11月21日金曜日

世界同時不況の中でのぼくらの逆転・・とは

ぼくらVCI にとっての大逆転はまあ、たいしたことじゃあないんですが、不況であっても、アジアへの今後の視点をぶれることなくお持ちの日本企業に卒業生の就職を勝ち取ること、に尽きます。年間今までの50人程度の供給から、今期からは70人規模を輩出予定ですので、それをまずやりきることです。まったくいける状況であったのに、いきなりトヨタが利益一兆減とか言われても、リーマンがつぶれて、一気に総崩れになろうが、知っちゃことでは無いのですが、確実に周囲に影響は及んだ。

今春から、「秋は怪しい、早めに新事業固めたい」と考えて、「kids」分野を調査したり、具体化を急いだが、手許費用がない寂しさ、ことははかどらなかった。で、日本でも予想通りに津波がきて、金融市場主義の砂上の楼閣は崩壊し、実は足元にあった巨大な暗渠にみんなぶち込まれた。
ただ、あわてることはない。当校には今までの100名の実績(約100名がハノイの当校を卒業し、日本の中堅メーカーで、正社員のエンジニアとして活躍している)がある、ご評価いただき採用された企業が40社以上ある。さらに採用を深く検討している企業も数十社越している。リピートオーダーで、3回目の採用企業も今回の秋の面接会で、2社ある。2社ともに、半導体と車関係というまさに今一番しんどい業界の企業であるにもかかわらずだ。両社とも120~200名のまさに中堅の企業であるが、「確固たる視点と大胆な工夫」をきちんと堅持している。

ここで、内容は書けないのが残念だが、推測してほしい。1 アジアおよびベトナムでの今後の展開を明確に打ち出している(一社は中国にすでに拠点あり)。2 販売も製造も日本国内外などを固定的に捉えない。3 コンテンツや開発、設計の場所を有機的にとらえ、アジア現地大学、研究所、オフショア開発ベンチャーと積極的に交流している。4 人事の世界観が自由な発想で、公平で、あらゆる青年に期待感を持っている。5 社長の個性が社内に貫通している。6 次の一手の予感が鋭い。しかも(失礼ですが)理論家ではない。 ここあたりが共通点だ。

当校は、このような企業を数十社、いわば顧客様として、すでに信頼を勝ち得ている(もちろん日ごろのメンテナンスは重要)。この企業を100社にする戦略を打ち出せばいい。あと、2倍少しかな。
マーケティング30年の経験と自信で、この戦略はまもなく概略が構成されそうな気分はするのだが。こういうときに病院にいるのは本当にありがたい。運が良い。集中が通常よりしやすい。
昨20日、現地当校「VCI技術教育アカデミー:VCIAT」では、ある歴史ある鉄鋼関係の面接があった。本来、ぼくが現地で面接など、采配振るう予定でしたが、この体ですので、教員の方々や学生管理課、総務のスタッフに活躍の場面を譲った。報告聞くと、ぼくは居なくて良い感じだね。日本人教員8名、ベトナム人教員1名、教員助手3名、総務系6名が全員で盛り上げて、成功裏に終えたようだ。安心。ありがたいものです。ベッドの上で心配性の「老人」があれこれ考えても体に障るだけだ。

25日からIT系、半導体、機械工業、電気など8社ほどの面接が連続してはじまる。まあ、今回は、現地に行くには行くが、みんなにお任せだ。
ベトナムの当校の学生は大半がハノイ工科大の卒業生とそれに準じたベトナムの最高峰の優秀青年ばかりだ。彼らもいま一般的な意味での世界不況はもちろん知っているが、リアルではなさそうだ。「憧れの技術大国日本の大不況の現実」をどう知らしめるか。日本人学生も就職し難い現実をどう教えるか。”それを教えることで、彼らの何を高めるか。” 課題はたくさんある。

これを書いていたら、担当の看護士Hさんが、お父さんはホンダのエンジニア(オートバイ設計)で、来年からリタイアで、ベトナムに住むと主張しているとのこと(お母さんは反対らしい)。Hさんも、数回ベトナムに来たことがあるという。 いい家族だなあ。お父さんに即伝言を頼んだ、「当校で技術者育成の授業」願いますと・・。

2008年11月18日火曜日

ベッドの上で冷静思考

闘病の記など、誰も読まないだろう。それも、私信だしメモだし、だから気楽に書ける。不整脈も喘息もキャリアは30年になる。機動隊に追いかけられた時に一度激しい不整脈が記憶にあるので、こっちのほうが先輩だ。今回は徹底治療で行こう。1973年、1998年(多分)に続く喘息3回目の入院となる。今回は不整脈が主因だから、同一ではないが医者に言わせると、相互関係ありで、中途半端な考えに基づく生活続けると、「死ぬ」と脅された。
親父、今94歳、母85歳の家庭で育ってる自分の自信から「まあ、わかりました」と軽くいなす。が、内心本気さも湧き上がっ来たのも事実だ。VCIの学校の完成という計画もある。新しい家庭を幸せにする義務もある。現在の事業をさらに「止揚」する夢もある。そう早めに”さらば”ができる立場にない。わかりきったことだ。ハノイの本部校にはすでに8名の日本人教員と総務系スタッフ10名が毎日、ベトナムの優秀青年の自己実現をアシストすべく、授業やアドミワークにと全知を使い快走している。ぼくはベッドの上に胡坐かき、パソコンたたいて、完治待つ。

いま、何とドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んでいる。ブログで公開するになんとふさわしいネタではないか。10月の後半朝日新聞に亀山郁夫さん全翻訳の「悪霊」と「カラマーゾフの兄弟」の全面広告があり、すぐ本屋に行き購入した。全面広告のパワーの所為だと思うが、以前から読書界では、亀山さん(東外大学長)訳のこの2作品は話題であった。10年前の長谷川宏さん訳の「ヘーゲル の歴史哲学講義」「精神現象学」の話題と共通していよう。意趣は違うが、千年を迎えた「源氏物語」の円地文子訳に代わる瀬戸内寂聴さんの現代語訳本、橋本治さんの「平家物語、徒然草 」など、現代語訳の話題がおおい。今の言葉でわかり易くしたというのではなく現代に原点を活かす志向が作家に強まったといえるのではなかろうか。

その広告を見た瞬間、読みたいと体が欲した。「悪霊」は1969年秋に一気に読んだ、娑婆じゃあないところに居たおかげで、邪魔もなく、中断もなくね。その後「カラマーゾフの兄弟」を読むか「資本論」か、プルーストの「失われた時を求めて」を 読むか迷った。馬鹿な迷いだが、そのころの気鋭の青年であれば、別に珍しくはない。特に全共闘運動にかかわっていた前衛気取りの文科系の学生の多くはぼくも含めてロブグリエだとか、ビュトールだとか、ラカンやル・クレジオだとか、ポピュラーなところで、サルトルだとかの難解狂であったので、最難関プルーストもチャレンジしたかった。で、友人からの差し入れあったので、「カラマーゾフ」をめくり始めた。
ところが、一巻もいかず、半分程度で沈没させられた。つまり、情けなく撃退された過去があったので、今回は「まあ、復讐戦」て言うことで、10月末のハノイ行き機上から、読み始めたわけだ。到着してからも帰国してからも「再チャレンジ」どころか、お飾りにもならない体でぼくの東京のオフィスの机上の書類に埋もれていた。だから、今回の入院は読みきるにチャンス。チャンスと軽く言ってしまうと「関東大震災が起きるとチャンス」といった正直兵庫知事のいい回しに似ちゃうが、軽さは同じようだ。17日月曜にスタッフに持ってきてもらっても、まだ、94ページ。24日退院まで一巻がいいところだろう。5巻目はいつになるのだろうか。そのころは今より言葉の滋養はつくだろう。

本をオフィスから病院まで持ってきてくれたスタッフのPちゃんは、本名PHUONGさん、ハノイ貿易大学の日本学部で優秀成績を収めた才女で、お兄さんも東工大にいる。ハノイの当校で、学生時代アルバイトをしていてくれ、周りの日本人先生からも信頼厚い。10月に渡航してきて日本語学校で最後のブラッシュアップを試みている。来年一橋大学あたりを考えているようなので「やめとけ、一橋で経済やっても、躍動感ないよ、大体ぼくの周りにいるベトナム人の文系学生はみんな一様に「国際経済」だ。経済は社会の基盤・下部構造とマルクスはいってるが、それはものの見方のひとつに過ぎない。
また途上国を背負う青年たちの責務感はわからないでもないが、せっかく日本が好きで好きで来ているんだから、いまや世界への日本の代表的輸出品のコミック、映画、アニメ、浮世絵、歌舞伎、相撲、日本の里山、洗練された観光、「もったいない」、環境技術、天皇制、小さな神々、建築、デザイン、テレビ・・・など、おもろいことや専門的に学ぶことはいっぱいあるぜ、とけしかけている。彼女は英語も巧みだし、聞くと、音楽や美術が本当は好きだという。
24日退院予定。25日はハノイに。さあ、直すぜよ、きちんと。

2008年11月17日月曜日

小市民的僕のドタバタ

阿部正行のベトナム私信といってる割には東京で書くことが多い。実は今日16日日曜いきなり救急車で運ばれ戸山ハイツにある国立医療センターに入院した。いま、娘に急遽持ってきてもらったモバイルパソコンでこれを打っている。明日17日月曜朝から、仙台に行って商工会議所で「VCI採用セミナー」が予定されている。予約制だから参加企業も分かっているので、今からお客様に中止のメール連絡し、会場もキャンセルしなくてはならない。やっかいだが、それ以上にセミナーに期待していたお客様に申し訳なくて暗澹たる気持ちだ。
18日火曜日からハノイ行きの予定。医者はとんでもない・・という。医者の立場からは当然だろうな。19日は飛行機がいっぱいで18日にしていたが、この際19日に訪越して、20日面接のお客様ご6名の現場段取りは、SLの佐藤先生、今回担当の作間先生、鈴木先生、学生管理課のNGOCさんらに”仕切って”いただくほかなさそうだ。26日からは、一気に8社来るので、何とか行こうと思う。

実は、16日日曜夕方4時半ごろ、久しぶりに「不整脈」が来たのだった。8月はじめ妻Vuongのハノイのマンションの階段でいきなり来て以来だ。8月の時は、階段途中で立ち上がれず、猛暑の中で正に冷たい「冷や汗」をあちこちから噴出させ、1時間ほど座り込んだ。ブオンは階上の家から、水やお絞りを持ってきたりと、迷惑かけたが小学校5年の娘LINHが何もできない自分をせめているような悲しい目で僕を見つめていた。 LINH、VUONG大丈夫だよ、心配しないで・・・・。普通長くとも1時間でケロリと回復するのだが、今回は夕方4時半から8時過ぎても回復せず、心臓の痛みが激しく119番に電話した。床に倒れたオフィスから救急車に搬送されるとき、酸素吸入器を顔に乱暴につけさせられストレッチャーに仰向けにされた僕を見る数人の若者からの好奇な視線、嫌なものだ。運ばれるとき二つのことが頭を巡った。

ひとつは妊婦がたらいまわしにあい死亡した事件だ。僕の場合幸いにも119番を電話して2分後には向かってくるサイレンの音を聞けた。救急隊がどやどやとオフィスに入っててきぱきと僕に事務的なことを処理し、軽々と僕を椅子型のストレッチャー(階段だからだろう)に乗せ、一気にエンジンを吹かし、10分後には最短距離の「国立国際医療センター」にいた。妊婦が亡くなった事件とどんな違いがあったのだろうか。運、不運としか言いようがないが、ぼくの場合、医師や看護婦が数人待機していて、バッと裸にされ、心電図とか、酸素吸入とか手際良くことは進んだ。看護婦の言葉はまさに男。頼もしいがやや不快。でも「ああ助かった」と正直思った。亡くなった妊婦の場合、当人もご家族も「待たされること」を恨んだであろう。なんという違いだろうか・・。ぼくのそばの医者がいった「この救急室は今日まだ、手があったが、病棟は満床」だそうだ。政治の無策で現場はぎりぎりのところあるのは確かだ。

もうひとつは、こうだ。どやどやと、救急隊が入って来たとき、実は山場を過ぎていた。心臓の痛さのピークなど、素人判断でも70%ぐらいに落ちていた。さあどうするか。「もう大丈夫です。お帰りください」というかあ?ぼくはあわてて目をつぶり「ありがとう、すみません」といったような気がする。
臨時の酸素計量器(指を差し込む奴)をあてがわれ、「酸素濃度」で「回復がばれたら恥かきそう」と一瞬感じたが、幸い酸素濃度はまだまだ悪いらしく、「さあ、担ぎますよ」といったので、ほっとした。車中のしぐさもちょっと重症らしく(だんだん回復傾向に)、病院の救急の部屋に着いたときなど、 一層ぼくの演技にも熱が入いった。目を開けないで、呼吸困難状態で娘にベッドから電話したりで・・。
亡くなった妊婦の方のお気持ちと相反するぼくの小市民的立場と気持ち。

2008年11月7日金曜日

オバマの時代

オバマが2年前、民主党の候補者で出てきたとき、正直言ってあまり好感を抱くことはなかった。ブラックパンサー党や全米学生非暴力調整委員会のストークリー・カーマイケル、アンジェラ・デービスなどを同時代人として知っている世代としては、彼の言動は何かあやふやで中間的で、期待するほどではなかった。むしろ同じ民主党の候補者であるヒラリーの鮮やかな選挙運動の方が魅力的に映っていた。

また、まずは女性の大統領の実現を見たいとも漠然と考えていたかもしれない。さらにヒラリーは、僕とまったく同世代であり、ベトナム反戦闘争を担った彼女の体験と思想性に期待があった。ついでにもうひとついうと、1992年にボストンでヒラリーに会っているのも影響しているかも・・。当時僕は、フィランソロピーやコーポレートシチズンシップ、つまり企業の社会貢献の企画を志ある企業に提案する小さな会社を経営していた。たとえば、企業の社会貢献を話し合う大きなセミナーを青山の国連大学国際会議場で2度ほど、主催したりしていた。

確か松岡正剛さんや、経団連の1%クラブ、NIFTY,アップルなどに協力してもらったはずだ。なぜ、ヒラリーにあったかというと、朝日新聞の論説委員であった下村満子さんに誘われ一緒にボストンで開催されたBSRの第二回目の全米大会に参加したからであった。BSRはいまでいうCSR(Corporate Social Responsibility)のビジネス連合体で、アメリカのエクセレントな企業の新興経済団体である。ジーパンのリーバイス、コカコーラ、化粧品のアベーダなど新進気鋭の経営者がリーダシップを取っていた。長くなったが、そのBSRのボストンの大会にゲストでヒラリーが来て、会ったというわけだ(正直言うとそばで見たということですね)。
だが、ヒラリーが敗退し、マケインも敗退していく中で、オバマの勝利は一定の歴史的価値があると思うようになった。なにせ、演説がうまい。緻密でかつ人の情感をわしづかむ。おそらく、オバマは次の時代のエネルギー構想、社会システム構想や市場の金融至上主義の規制と解体を打ち出すだろう。その意味では、アメリカは自国の民主主義の懐が深いところを見せ付けたことになった。いま、世界では、世界の産業の中軸が自動車産業から何かほかのものに移行しつある兆しも見え始めている。

でも、オバマは当面フォードなど三大自動車メーカーの不振を救出する責務を負っているだろう。この三大メーカーの次世代自動車である燃料電池車、ハイブリッド車、電気自動車などの研究が日本のトヨタなどにくらべ各段に遅滞している現状がある。であれば、オバマは環境の明日を考えるなら、また、今後の日米の関係を言うのなら、日本の環境技術の協力・移転・産業全体のコラボを堂々と日本に対して言うべきだろう。日本も救われる。それこそ、WIN/WINだ。内需や消費に限界が来ている日本の次の仕事はここにあると思える。トヨタなどは20年後おそらく自動車メーカの域を脱し、社会環境インフラの世界的メーカーに衣替えしていると思われる。
パナソニック:三洋電機の合併もトヨタの技術に統合されるイントロに見える。

日本の未来を占うひとつのメルクマールとして、トヨタが単なる自動車産業を超越した瞬間、日本に本当の次の時代が来るだろう。 が、麻生が、オバマの当選に「どなたが大統領になっても日米の50年の関係は・・・」などと渋い顔して言うセンスの悪さは、目を覆うほどのひどさだ。 昨今の一家に4,5万円をあげようってバラマキ政策などの無能で構想力のなさは、なんなんだあ。信じられない「経済政策」である。オバマという黒船をまた待つしかないか・・・。

・福井県小浜市の人たちは大喜びなわけですが、ベトナム人の妻ブオンにskypeで会話中にその小浜市の応援のこと伝えたら、彼女は知ってるという。へェ~ッ。ベトナムもいつのまにか情報社会に近付いているのかも しれない。
・今日、というより昨日筑紫哲也さんが亡くなった。日本ジャーナリズムの最良心部分が居なくなったのだ。今後日本のマスコミは、メディアはどうなってゆくのだろう。不安がよぎる。立花隆さんが、テレビ画面で泣いていた。 筑紫さんが編集長のころの朝日ジャーナルは戦後最高の週刊誌であったろう。

2008年11月3日月曜日

赤塚不二夫先生のこと

11月1日土曜に民放で赤塚先生の追悼番組を見た。赤塚さんはこの10年近く寝たきりで意識があまりないような症状の中で、最後の生を燃やしてきたと伝えていた。赤塚さんが亡くなった8月2日の数日前に一度目の奥さんも偶然に亡くなられたようだ。さらに秘書時代から一貫して、先生を守り、倒れた後は意識のない先生の病床で献身的なお世話をされた二度目の奥さんである真知子さんも数年前に脳溢血で亡くなられたと伝えていた。

追悼番組としては、不可もない構成であったが、天才の生涯をテレビでドキュメントするには無理があった。今から、27、28年前、先生とはプロデューサーと監督という関係で2年間ほど、共同で仕事をさせていただいたことがあった。ぼくは東映を辞めて個人会社を作り、コピーライターやイベントプロデューサーをやっていた70年代末で、映画狂の先生とビデオ作品を数本作成し、しょっちゅうあちこち飲み食いし、映画を論じた。何にも代えがたい幸せな2年間であった。一口に天才というのは簡単だが、赤塚さんは、簡単には語れない。誰にもまねできない破壊力とスピード感以外にどこか孤独で、刹那的であった。一生懸命ふざけていた感じもないではなかった。

そのころ昼間からアルコールに浸っていた時代であったからそのように感じたのかもしれないが、笑わせるためには、ご自分の肉体の破壊もいとわない姿勢を一貫させていたように思われる。亡くなられた第一報はハノイにいたぼくに九州の息子からskypeで伝えられた。亡くなられた8月2日の夜であったと思う。7日のご葬儀に間に合わず、帰国後9日にご自宅に弔問した。
久しぶりにお伺いした下落合のご自宅兼仕事場は、内装が大分スッキリと変わっていた。現在、フジオプロの社長である娘さんもどなたも居られなかったので、アルバイトとおっしゃるお若い方のご案内で
祭壇に案内され、お焼香をさせていただいた。

30年前、この部屋で、先生と映画を語り、アイディアを練り、真知子さんの出したビールを頂き、菊千代(仰向けになる猫)と遊んだことを思い出した。手塚先生はじめトキワ荘での若き漫画たちとの交遊やタモリとの出会いもお聞きした。糸井重里さんや、たこ八郎さんを紹介していただいたのも先生でした。そういえば、僕を赤塚先生に紹介してくれたのは、天才写真家アラーキーさんであった。
■《ブログご高覧感謝》
僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
多いのは一日1400名閲覧もあります。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

ハノイ日本アカデミー
NPO法人VCI人材戦略研究所
代表理事 阿部 正行
abevci@vietnam-waseda.org
http://www.vietnam-waseda.org (JPN)
http://www.vci.edu.vn   (VN)
118E Le Thanh Nghi,HaiBaTrung,Hanoi
Tel: +84-4-3623-0630
Fax: +84-4-3623-0631
Mobile 090-7490-720  (VN)
Mobile 090-1767-7063 (JPN)
阿部正行のブログ http://vciat.blogspot.com/

2008年10月26日日曜日

10月21日って・・・昔は誰でも知っていた・・

ブログを書くのは意外に骨だ。色々気遣うし、疲れる。実は先週、意を決してブログの作成をしていたら、その日が10月の21日だと知った。これは懐かしの「10・21」だと思って当時を思いを巡らせて書いたり、いじっていたら、すぐ、22日になってしまった。これでは、意味も霧消したので、そこで、一旦全部消して、あらためて、昨日ハノイで、チャレンジしたわけなのです。10月21日は1960年代中半から80年代まで続いたのだろうか、ベトナムに対するアメリカの侵略的戦争を止めさせようと、世界中の学生や青年、市民が立ち上がった世界共通の反戦の日でした。通称「じゅってんにいいち」と言っていました。いま、中年老年の人は大抵誰でも知っている今となってはメモリアルな日付です。

日本に「戦争を知らない子供たち」が出てきたようにベトナムにも同様の事が出てきています。が、ベトナム戦争(ベトナムでは、アメリカ戦争という)自体を知らない子供たちはさすが居ないようだ。この国はいまも、いわゆるれっきとした社会主義国です。教科書では、今でもキチンと「アメリカの非道の行為を歴史的に糾弾」しています。僕が見た教科書ではページが多いだけでなく、全体にそのポリシーが貫かれていたようにおもった。たしか、社会だけでなく国語にもあったような記憶です。

教育はそうであっても、アメリカ文化はグローバル戦略の一環で、モノの思考や感覚に入ってきており、アメリカ大好き青年は多い。朝から晩まで放映しているディズニーチャンネルなどはその先兵の代表だろう。「ハイスクール ミュージカル」などのヒット作品で溢れている。一昨日は別チャンネルで「プラダを着た悪魔」を放映していた。ベトナム語のスーパーインポーズで。
あらためて最高に面白かったが、この様に「NYの最前線」がベトナムの各家庭にダイレクトに「新しい価値」をプレゼンしているのだ。誰も抗し得ない。アメリカの金融市場中心主義が崩壊しつつあり、新しい世界構想が求められているというのに、アメリカのあるいはハリウッド的価値観の根強さは何なのだろう。

2008年10月25日土曜日

ベトナム・ハノイで野球やってみた

本日朝8時から、旧レーニン公園(現在統一公園)の広場で野球をした。僕にとっては30年ぶりだ。我がVCIATの尾崎ラビッツと佐藤スネークスの試合であったわけですが、スネークスはベトナム人女性が3名含まれているにもかかわらず、14対12で勝利。尾崎ラビッツも佐藤スネークスも当校タイガーズフアンの尾崎先生が自腹で道具を買い、この一ヶ月獅子奮迅の働きで、”野球を見たこともない”当校のベトナム人学生(大半はハノイ工科大学の卒業生で日本語やもの作りの基本を学んでいる)に身体はって教えている言わば手作りチーム。
先週土曜はハノイ唯一と思われるベトナム人チーム「ハノイクラブ」と当VCIAT連合軍が試合したらしいが、何と22対3?ぐらいの大差で我が素人連合軍は敗退したようで、昨夜は「勝ちに行く」と誓い合って、監督以下20数名みんなで「犬」を食べに行った。猛虎尾崎は本日は監督業と野球指導に専念、高校球児であった鈴木先生も腰痛とかでアンパイヤ専任。
結局9回出まくった日本人は不肖60才の私だけであった。4打席3安打(内二塁打2本)フォアボール1の好成績であったが、足はもつれるは、ボールにスピードが全く出ないはの現実に直面しあらためておどろいたが、ライトライナーを走ってキャッチした際は、野球少年パワーを久しぶりに味わった心地だ。
3回ほどピッチャーもしてみたが、大リーガーか昔の近藤昭彦ばりの、低いスイングのラビッツのスラッガーにホームランを2本も浴びせられた自信喪失。ベトナム人学生の野球熱は凄い。おとなしい風だが、結構勝ち負けにこだわって野球熱は毎週上昇の雰囲気だ。尾崎監督の夢もどうも大きく広げているようである。学生たちの(当校生は本日15人ぐらいか・・)の恋人が2,3名が来ており、甲斐甲斐しく応援していたり、バットを振ったりしている姿は微笑ましい。