2010年10月24日日曜日

「かわいい」と経済学への信奉

僕がよく見る番組の一つにNHKの「東京カワイイ」がある。沢村一樹とか、一緒の女の子たちのキャラが不思議と良い。「カワイイ」という概念は「COOL JAPAN」と同様にいま、その「感じ」というか感覚は世界中の若者を席巻している。この番組は次週からベトナムでも放送が開始されるらしく、そのオープニングに日本にいるベトナムの「カワイイ」が登場する。それに選ばれたのが、ハノイの当校に長くアルバイトしてくれ、その後に横浜国大の大学院に入学して、引き続き東京の当オフィスでも1年ぐらいアルバイトをしてくれたPちゃんなのだ。美人で物怖じしなく、日本語と英語も堪能、その上優しさに溢れている最高の女の子だ。半年前に高田馬場で一度食事したぐらいで、去年からここ1年ぐらいはウチのアルバイトから離れているので、最近の彼女の環境をよく知らなかったが、本日の「東京カワイイ」を見ていたら次回の予告編に突如出て来た。流石の僕も驚いたぜ。そして、深夜「おめでとう」の電話さっそくしたさ。

ベトナムは今でも農業国である。だから、ベトナムの若者の親世代で、企業に居る、あるいは居たという人はかなり少ない。社会主義と言うこともあって、50才代以上の世代では、公務員やそれに準じた関係団体や教員、軍人というサラリーマンと小さな商店主以外は、大半は農魚民と言って良い。だから、若者は親の世代から「商売、ビジネス、経営、マネージメント」の経験や知識、文化、感覚などが継承されていることが本当に少ないのだ。でも、ベトナム戦争がおわり、ドイモイ政策がはじまって20年以上になるので、都市部の新しい世代には、職業の分野も広がりそれぞれに関する新しい伝統とその継承ももちろん生まれていると思われる。だから45〜50才代の比較的若い親世代は、多様な仕事に就いている場合もあるだろう。がしかし8600万人という東南アジアで最大人口の中(ちなみにタイ人口が6500万、カンボジアが1500万、ラオスは500万人)では、そういう多様な職業人はまだまだ、大都市に限られているだろうと思う。

多くのベトナム人は最近、ベトナム国内で見られるアメリカ、フランス、韓国、中国のテレビチャンネルでいろいろな仕事や企業、ビジネスを見る機会も多いはずだ。しかし、見てるだけなので職業感を育成してゆく様な認識にはなっていないね。その上、各大学は、カリキュラムが古くさく教条的で、「進取の精神」が欠落しているので、授業の中で、多感な学生の心を揺り動かす職業:仕事と出会えるような環境にほとんどなっていないから。煎じつめると大学と大学の教員が学生の就職にほとんど関心がないからである。その点、理工学部の学生は、文化系に比べて「最新技術」など自分のこだわりや確信を持てる機会が多いので、当校出身者を見ていても、まあまあ安心できる。従って、文系に話を移す。例えば、日本の場合、IT企業のオペレーターやエンジニアで、文化系出身者も多い。特にアプリ系なら、比較的文化系の人間が入りやすいと聞く。日本では別に珍しいことでは無くなった。でも、ベトナムでは、発想上もあり得ないし、学生自身もまったく、そういうことは視線に入りようがないはずだ。以前もこのブログに書いたが、僕の周辺の文系の留学生は何故かしら、全員「経済学」という特徴のない分野で日々研鑽に努めている。僕はお節介とは思いながらも、そんな分野勉強しても、役に立つとは思えないし、ベトナム人同士の「経済学」競争も大変だから、経済学部の大学教授やベトナム政府の経済系高官を目指すのならともかく、ここは日本なのだからさ、歌舞伎、浮世絵、華道や茶道の研究するとかさ、あるいはアニメ、マンガ、ゲームなどのサブカル、またはジャーナリズム学、観光学、交通政策、環境政策などなど、学ぶべき分野は広大に存在しているぜ。君の未来は無限に広がってる。とうんざりしながらも、何回かアドバイスしたんだ。

まあ、でもね、僕の周辺の彼らは多様で新しい職業感を持っていない「親の意向」とか「経済は下部構造だから、基本だ」というマルクス主義的なベトナムの知識階級の既成概念の頑迷さのなかで、悩むけれども変えることはなかったね。余計なお節介なのだが、人生の先輩として、また「リクルート社」にいたプロとして、口説いたりしたわけだが、そこはどっこいベトナム人は頑固なのだ。戦術的にはひどく柔軟で、僕など卒倒するほどの斬新発想体験を何度もしているが、「目的や目標」に対しては頑固一徹なのだ。ご多分に漏れず横浜国大のPチャンももちろん経済が専門だ。アルバイトで来ていた当時、僕はランチを一緒に食べながら(彼女がまだ、横国に入る前で、選択の余地があった時)日本の伝統美術の研究とマスコミなどの関連の話題をよく話しては勧めたものだ。その彼女が今度NHKで「モデルデビュー」さ。いいねえ、そういう現場で、日頃知らない新しい「人種」や全く知らない「文化」と交わるのは良い刺激になるだろう。彼女の自分の将来イメージも一気に膨らむんじゃあないかなあ。良いことだね〜。いずれにせよ、努力の人だから、彼女は何をしてもきっと成功するはずだ。かんばれ、Pチャン。チャンスを掴め!

2010年10月23日土曜日

嬉しい事件

■昨日の朝、家を出ようとしたら、財布が無いことに気がついた。前日、何をしていたっけ?冷静に思い出そうとしたら、家の前で車を降りた時か、その車のなかか・・。財布の中身はたいした物が入っていなかったので、自分でも意外に動揺も失望の念も湧いてこず、カード関係の電話を入れる面倒くささが、先に立った。また、珍しく買った宝くじが10枚はいっていたなあ、と思い出して、これが出て来ず、1億円当たっていたらもったいないなあとか思いつつ、時間がタイトになったので、何処へも電話せずにともかく家を出た。お客様待たせちゃいけないからね。老人になったのだろうか。生まれて初めてである、財布やお金を落として経験は今まで62年皆無であったからね。今後、気をつけないといけないね。僕って意外に財布や大事なモノの管理は細心なんだ。

逆に今まで、何度も財布や、現金を拾った。総額では、推測だが30万円はあると思うぜ。大阪のホテルで、富裕な感じのおじさんが(20年ぐらい前)、ロビーにあるソファーを立ち上がったとき、おしりのポケットから、まん丸に太った財布がころころころ。運良くぼくの目の前を転がって、誰にも見えない植物鉢の影へ。僕は不埒にもゴクリとつばを飲んだような気がする。成田のトイレでは、3〜4万円入った財布が、大便所に鎮座していたし、駅で歩いていたら僕の目の前で1万円札をひらひら落とした御仁もいたし、電話ボックスにはいったら、緑色の電話器の上に丁寧に封筒に7万円が入っていたこともあった。長年ビンボーしているが、金を拾い上げる運は僕に無いでもないのだ、ハイ。すべて最寄りの警察や駅員に取得物としてもちろん届けています。

で、僕の財布のことですが、朝の会議中に警察から電話が有って、届けられているという。その上、あるべき金額もそのままのようだ。ありがたい話だ。もらい受けに行くと、大学生が届けてくれたらしい。早速警察から電話したら彼の母親が出られて、御礼の金品は固辞されたので、仕方なく息子さんと彼の将来を大いに褒めて、深く感謝し電話を切った。日本の青年、まだまだ捨てたモノでないなあ〜、と言う言葉が、僕の中で軽快に踊った。うれしいねえ。

2010年10月16日土曜日

ハノイ・コンビンザン考

■いま、「♪♪ホンキートンク・ウーマン」を聞きながら、これを書き始めた。なにせ、ストーンズが80年代末に東京ドームに来たとき、彼らのコンサートに連続三日間3回も行ったんだぜ。まあいいさ。で、コンビンザンだ。「COM BINH DAN」と書く。日本なら定食屋と言ったところであろう。日本の場合、定食屋では大抵各種の小皿とか、角長の焼き魚皿などに煮物、卵焼き、サンマの開き、唐揚げやコロッケなどから、おひたし、納豆、シラスおろし、お新香まで取り分けてあり、お客さんは、好きな皿を好きな数だけ、と言っても多すぎないように3,4点自分のお盆に乗せて、最後にご飯とみそ汁をいただき、席について食する。お店によっては、10も20個もある大皿にたくさんの各種おかずが並んでいて(良い皿使っていて結構壮観さを演出している店もある)、自分で適量をとったり、店員にとってもらったりするお店もある。「大戸屋」などのチェーン店から、昔から地元商店街に馴染んでいるおじいさんおばあさんのお店も結構あちこちにまだ、生き延びている。こんな事、これを読んでる日本人には常識の話だね、最近ベトナムの青年向けに書いている事が多いので、コンビンザンに至るまでのイントロ部分がうっかり長くなってしまった。

で、コンビンザンだ。大抵、お店の店頭に20種類ぐらいのおかずが、台所のシンクのようなものに入って並んでいて、お客があれだこれだと言って、大皿のに盛られたご飯の山の峰から、てっぺんまで、乗っけてくれるシステムなのだ。プレート(皿)の丼とでも言おうか。煮込んだ豚肉や鳥、インゲンやもやしの炒めサラダ、空心菜、牛の煮っ転がし、目玉焼き、卵焼きいろいろだ。南京豆の炒め物もあるぜ。一通りのっけてから、店員の田舎娘はつゆもかけるか、と聞いてくる。
僕のように、ビールを飲みながら食べる向きは、ご飯少なめにおかず多めに発注すると40000ドン位。つまり160円ぐらいで、結構旨い飯とおかずにありつけるということだ。ハノイの学生も金がないから、遠慮がちにおかずを乗っけて15000ドン〜20000ドンぐらいで済ましているようだ。ビールは現地生ビールで、大ジョッキで40円から50円ってところだ。アルコール度数が低く、ぐいぐい何倍でも飲めてしまう、結構僕は好きさ。ところで、味の素が多いんじゃあないか?農薬はきちんと洗い落としているのか?いつも気にならないと言えばうそになる。

が、しかし、その前にだ、もっと肝心なことが、凄いんだ。日本人女性には卒倒ものだね。厨房の現場をみた日には、「ベテラン」のぼくでも食えない。普通の上品なレストランでも、調理場は見ない方が良いというのはベトナムに詳しい人たちの常識なわけだから、コンビンザンの調理場、想像できる?ちょっと凄いぜ。娘のLINHは中学2年だが、ブオンによると、生まれてこの方、「怖くて」食べたことが無いらしい。ブオンもこの何年もコンビンザンでは食べたことないと宣う。まあ、それって理解できるね。だってさ、僕は何件ものコンビンザンの調理現場を偶然目撃しているが、調理の現場は厨房とは思えない。現場は土間やそばの路上なんだぜ。この間も店員と思われる如何にも田舎からの娘や小僧が空心菜などを道路のアスファルトをまな板がわりに・・・ここで、時間がきた。今から、ハノイ空港へ。続きは、近日に。じゃあね。

■今日、マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」を読み始めた。ハーバードや東大での白熱授業で、最近マスコミを騒がせている基になった本らしい。彼はコミュニタリアンと言う学派にいる現代きっての論客の一人と言われている。でも僕は彼の本を読むのは今回が初めてさ。いったいに僕はアメリカ人の学者の本はあんまり読まない。少しこだわって何冊かずつ読んだのは、スーザン・ソンタグ、ガルブレイス、P・ドラッガー、N・チョムスキー、ロバート・ライシュぐらいだろう。後はすぐに思い出せないなあ。この「これからの正義の話をしよう」を読み出してちょっと意外であったのはMBAや大学院の課題研究のような本のしつらえになっていたことだ。まるでさ、今から10年ほど前に話題になった本「ザ・ゴール」を思い出させるよ。なんかさあ、良書と評判なのに如何にもアメリカの”ビジネスソリューション本”風で僕は読みながらすでに辟易し始める。でも、もう少し耐えて読み進めれば、良い展開になるだろうと期待したいところだ。一瞬思い出したので、書き付けておくがライシュの「ザ・ワークオブネーション・・・21世紀資本主義のイメージ」は衝撃的本だ。画期的な本と言って良い。ダイヤモンド社刊のはずだ。90年代初頭に出てすぐ買って、一気に読んだことを思い出す。”シンボリック・アナリスト”になるにはどうすればいいか、真剣に僕はメモをいろいろ書いた。

■で、コンビンザンだ。コンビンザンとレストランの違いは、プロのコックが居ないことなのだろうと思う。コックが居ても、ベトナムではしれた環境なわけだから、コンビンザンは推して知るべし、まで前回書いたわけだ。コンビンザンは家庭の延長の定食屋なので、管理者が不明な上、元々お店を始めたオバチャンやヤクザな親父たちは、銭勘定に忙しいのが普通だ。入れ墨いれた親父の仲間と、日中からビールを呷り、お客からもらった現金入れたアルミ箱に手を入れては札束勘定して束にして、一握り持ち出したりしている。また、人件費を最低に抑えようとしているので、田舎から出てきた何にも知らない少年少女を使うしかない。ベトナムの義務教育は驚くことに小学校三年生までなのだ。だから、10才ぐらいになると労働しないと食えない子供が都市にどんどん流入してきている。そういう彼らが潜り込みやすい仕事が、こういった飲食と建築現場だ。ベトナムでは一般に社内や店舗でも「教育」を体系だって教え込む伝統が無い位な訳だから、ここでは、まったく「お客様へのホスピタリティー」など無縁なわけさ。先ほど定食屋と比較したが実態は戦後の直後の東京の闇市の飯屋に近いのかも知れないな。そう言うと、ちょっと酷かな・・・。

2010年10月10日日曜日

遷都1000年とノーベル賞

■1949年湯川秀樹京都大学教授が日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞したニュースが当時の日本にどのような衝撃を与えたのだろうか。敗戦し廃墟となった日本にとってはまさにこれからの明るい未来を象徴する最高の精神的プレゼントであったろう。敗戦から4年が経ち、今の日本人と違って生命力の強い当時の日本人は工業や商業だけでなく、闇市も一定の秩序すなわち流通や物流も形をなして来始めた時期であるものの、それこそ、世界から日本製品は猿まね、壊れやすいなどの非難がこの新興国に相次いでいた時期でもあろう。そのときにまさしくオリジナルな量子力学の理論で、ノーベル賞を受賞したのだ。日本国民の喜び様は、どのくらいのものであったろうか。また、湯川博士が東京大学でなく、京都大学であったことも、実は心理的に国民にフィットしたと思われる。第二次世界大戦に引きずり込んだ大多数の指導者は、東京大学卒業者であったからね。だから、京大は自由の象徴としても人々に愛されることになった。この湯川受賞の自信回復は戦後日本のエポックメイキングな出来事であったろう。

欧米の科学技術の壁に敗戦したという思いに上乗せて、この受賞によって日本の若い学究者や学生たちに政治や経済ではなく、科学技術こそが国作りの基礎になるという意識はこのような環境の中で培われたと思う。僕が小さいとき東北大理学部マスターであった母の弟も「遊びたい人は経済にいくのさ」と言っていたような、彼ではなかったかもしれないが昭和20年代30年代は理工学部へ行くこと、また科学を学ぶ事の大切さが、大学にも行かない多くの庶民にさえ、共通の認識であった気がする。科学の子アトムが生まれた日本だものね。

今、民主党は無能で、何もできないでいるし、自民党もあら探ししかテーマに無いようだし、公明とか日共は、自組織の維持で精一杯で完全に政治過程の欄外。日本人はかねてから大きな構想作りは、苦手にしてきた。でも、それにしてもだよ、いま日本の政治に大局的見地らしいものが全く見えないよね。これほど指針がない政治状況もおそらく初めてじゃあないか。僕らは、何に希望を託せばいいのかいなあ。はい、はい、はじめからやっぱー託しちゃいけないんだよね。政治は基本的に無視する事しかない。僕ら老人の将来は決まってしまっているしどうでも良いが、感受性の強く、今からの将来がある中学生とか、高校生は今後どうしていくのだろう。本当に可哀想だぜ。このような参考にも反面教師にすらなりもしない大人たちに囲まれてさ。ここを何とかしないと完全に凋落するしかない。ギリシャやローマの様に凋落後、数百年はだんまりを決め込むほかは無いだろうね。2年ほど前秋葉原で、多くの死傷者生んだ大きな事件が発生した。派遣社員加藤という人物が犯人であったが、彼の行為はインターネット上で、あろう事か英雄に祭り上げられていた。僕らはそういう国に住んでいる。国の骨格が無いどころか、神経や皮膚すらも訳もわからない病に冒されつつある。

今回の北大の鈴木章名誉教授と根岸栄一パデュー大教授(東大工卒)の受賞の僕らの嬉しさも、2年前の小林、増川、下村の名古屋大学関係トリオの時もそうでしたね。純粋にうれしい。日本人の地力というか、本来持っている能力が堂々と発揮される科学世界は、いいなあっと思うね。東北大の田中さん(島津製作所)の時も地道に努力することの大切さが、まさに証明されたようで、嬉しかったね。鈴木先生と根岸先生の快挙もいわずもがなだが、たいてい受賞の評価は30年、40年以上前の功績である。基礎研究にまだまだ予算が与えられ、それが、良いことなのだ、そうでないといけないという常識が働いていた時代の産物ですね。NHKなども、大分「ノーベル賞受賞者と子供たちの接触」をテーマにして、企画をしているようだ。が、まさしく、政府が、東工大でた理系の菅さんが、中高生と受賞の巨人たちの交わりを政策化すべきじゃあないの。子供の頃、天才や巨人とであった人は幸せだよ。会えただけで何かを得るものだよ。こういう施策を積極的にできないのか。僕らの日本は、現在の子供たちの能力と努力に運命が掛かっている。

いま、ベトナム人の青年向けに「日本語を学んで、サムライにならないか・・・日本企業へ就職の薦めとガイダンス(仮題)」という本を書いている。日本語で書いて、ベトナム語に翻訳して、ベトナム全土で発売するものだ。300ぺージもの中に、僕は日本の良いことをたくさん書いた。書きながらむずがゆい。というより、日本についての嘘を書いているかもしれないという責めもある。ベトナムのある長老が昔僕にこういった。「日本がロシアに戦勝したときの衝撃は世界を揺るがした」と、老人の父親が彼に言ったらしい。「それ以降、アジアの民衆は日本に尊敬の気持ちを持つようになった」と。思い起こすとまさにそうだね。魯迅、孫文、周恩来、チャンドラ・ボースなど歴史に名前を刻んだ人々だけでなく、アジアの何千人という優秀学生や若き革命家が、青年期の留学などの居場所として日本を選んでいた。日本には新興の生命力が横溢していたのだろう。次の何かが期待できる魅力的な国であったんだ、当時はね。僕が今まさに、今これを書いているベトナムの様にね。

■昨日の夜に、予感もあった。夜夜中まで、ハノイ工科大とか、統一公園横をとおっている市内幹線のうちのひとつレズアン通りなど、若者であふれており、バイクも車も立ち往生といった風情であった。テトは、国民の大半が帰郷するので、意外に静かだが、初めてのお祭りこの「遷都1000年祭」は、どう祝って良いか解らない青年たちが、ともかく夜右往左往していた。で、ブオンに言われたままに、10日朝9時に家を出て、ホアンキエムに向かって歩いた。「なんだ、バスもタクシーもバイクも通常通りだぜ」、とか愚痴を言いながら遠くの右に国営デパート(戦争前からのいわば「高島屋」)が見えてきた頃から、状況が一変した。数千、いや数万のホアンキエム湖から戻って来る群衆が今からそこに行こうとする数万の徒歩の人々と交差し始めたのだ。軍事パレードなどの催しものが終わったらしく帰途する群衆。何かやってそうだなとデパートの交差点からホアンキエム湖に近づこうとする刺激を求める強気の人々。これも数万かもなあ。まさにラグビーのスクラムだあ。それに車と突入してくるバイクも絡むので阿鼻叫喚。でもそこを超えると歩行者天国をやっていた。懐かしいほどの快感のある空間が一応演出されていた。ただ、驚くのは、なにもやっていないのに、ただ人は集まっていたことだ。僕もね。

驚きはホアンキエム湖の周りに人が溢れ、湖の岸に人垣がほぼ一周分できていた。何をするでなし。お祝いに来た、でも見るモノがない数万人が湖面に佇んだり押し合いへし合いのお散歩。お調子者は木や電柱に登る。昔から何処の国でも共通の現象だ。ホアンキエムでも、バカな若衆が木々にあがりふざけていた。「阪神フアンなら、こういう時、川や湖に次々飛び込むものさ」と、思いながらブオンとデザイナーフックさんがバイクで迎えにくるはずで、大混乱のホアンキエム周辺から脱し、白い館メトロポールソフィテルに向かった。そこいらでは空間に余裕がでたのでやっと気づいたが、凛々しく赤いはじまきをしている青年が目立った。何百人もいそうだ。額の刻した文字は読めないが「1000」は読める。おそらく「祝ハノイ1000年」というような事だろう。高校生か大学生の様だ。これらを見て思った。「江戸東京祝500年」とかのはじ巻きを凛々しく巻く東京の高校生が果たしているか。もちろん、一人もいないと言っていい。居ないのが当たり前で、それをいま、とやかく言うつもりは毛頭無い。だけれども、ハノイには、確実に存在している。「遷都1000年」に誇りをもっている青年たちが、確実に何十万人もここには居るのだ。都会から来た僕らなどに稚拙に見えていようとも、断固として国や郷土を思う途方もない数の若者たちがこの国にいるという現実。

20歳前後の数年間、日本とアメリカという帝国主義に牙を向けていた僕にはナショナリズムは、苦手だし、毛嫌いの対象でしかなかったね。でも、このごろナショナリズムの意味を時々考えることがある。そういう意味ではベトナムは僕にとって学習の場だね。
ノーベル賞は、欧米の価値観で決まるので、ハンディーキャップがあるけれど、ベトナム人が理工系分野で(現在欧米の在住者であれ)ノーベル賞を取ることを心から祈念したい。僕らの仕事もその一助になれば嬉しいね。

アントニオ・ネグリなどが9・11以後に捉えた「帝国」概念は、実はアメリカから中国に遷移しつつあるのではないかと思うこの頃ですが、「国家資本主義」中国は、自国のノーベル賞受賞を隠さなくてはならない事態に遭遇した。過去をみても、佐藤栄作に平和賞を与えるいい加減なノーベル賞委員会ではあるが、今回の劉暁波さんの平和賞受賞は、すでに、今春から、中国政府に圧力を受けていながらも民主化活動家で「08憲章」を起草した彼に贈ったことは、評価されて良いだろう。今後、中国の対応が見物だ。孔子、老子、孫子の国として?あるいは世界の新「帝国」として対応するのか。現在のところ二流の「国家資本主義」国としての振る舞いに終始している。そんな中で、中国共産党の元幹部の老人たちが、憲法を盾に自由を求めて反撃に出始めたようだ。

■大佛次郎「天皇の世紀」全12巻文春文庫を読んでいる。まだ、第二巻の320ページ。今回ハノイに居る間に第三巻に移行できそうだ。井伊大老の一見傲慢に見えるが、計算し尽くされた対水戸斉昭攻撃。これに対抗する水老こと斉昭らの攘夷派、実は息子徳川慶喜を将軍にする画策。分裂する京都の公家や禁裏サイド。水戸派の京都結集に対抗する幕府の京都支配はどうなるか。歴史というドラマは、現代人の知る映画や小説のシノプシスを軽々と超越してゆく。大佛さんと朝日新聞担当部門の資料収集のすごさと解析と抽出のエネルギーを改めてまざまざと知らししめる。何せ、資料分が30〜45%を占めているわけで、それが全部候(そうろう)文だから、どうしても読み解きに時間を要するので、大変は大変。でも追体験できる魔力が読者を離さない。

2010年10月9日土曜日

1000年祭りとKFC

今年はハノイに都ができて1000年だそうで、奈良の1300年と共にお祝いされている。ベトナムでは10月初頭から旗日で、ハノイの街中がお祝いムードに包まれている。昨日は2週間ぶりにハノイに入った。ベトナムのインターネット新聞の写真特集などでも数日前に東京で見ていたので、大体は知っていたが、こういうお祝いなどの喧噪は現場じゃあないと味わえないね。昨夜はブオンの娘LINHの13才の誕生日であったので、ミニパーティー会場である「KFC」に行ってみた。こっちの人はケンタッキーと言わずにKFCという。おめでとうと言ってチキンやフィッシュのフライを食べてとコーラを飲むだけのたわいのない集いだがわいわいと楽しい。ブオンの親友の女性会計士さんと、ブオンの前夫のお姉さんの娘で、時々我々の食事にも来るボーイッシュでかわいい子チャンのハノイ貿易大学の学生と子供が5人。その中の4名は中学2年生。日本で言うと中学1年生だ。「♪ハッピーバースディーツーユー♪」のCDが部屋にがんがん響き、あの油まみれの空気の中であったが、楽しくやっていた。リンはいつの間にか僕より背が高い。おめでとう13才。

ケンタッキーは、20年ぶりだろうなあ、食べたの。あのガーリックと複雑な胡椒がきつく効いた味わいは、嫌いじゃあないが、あまりにも食べ物としての健全性に欠けるので、自分から食べたいと思ったことはなかった。真っ暗な体育館の中、シーンとした物音ひとつしない暗闇。だが、何かの気配がある。撮影ライトをつけたら、そこに一面に何万羽という鶏が声も立てずに蠢いていた、とかいうレポートの噂などは誰でも知っている。工場化する理由もわからない訳じゃあないけれど、その暗闇で3ヶ月で成鳥にして、出荷するそのシステムは食べる以前の問題で、普通の感覚ではゾッとするよね。根拠もない噂であれば、KFCさんに営業妨害なことだが、これに近い実態が、リアルな事だろうと思う。消費量と生産を考えれば、このようにシステマチックにしなければ追いつかないからね。

でも、「地鶏」しかいないベトナムで、ケンタッキーはチキンの仕入れをどうしているのだろう。そして、お肉自体のお味はどうなのだろう。実は前々から、ベトナムのケンタッキーを試食してみたかったのさ。わざわざ、「暗闇のブロイラー」を日本から輸入する必要も無いしね。ベトナムのお肉の牛(ボー)と鶏(ガー)と豚のうち、ぼくは、豚の味が秀逸だ、その次がチキンやダックの鳥肉だと思っていると今までベトナムに来た関係者にそう語ってきた。牛も含めて、ベトナムのお肉は味が濃い。鳥と豚はそれこそ逸品と言って良い。まあ、ベトナムだけでなく、工場化し大量生産していないメコン地域の国々のお肉は本来の味わいを保っていよう。
さて、食べてみた。日本のケンタッキーに比べて、胡椒やガーリックの度合いは薄い。なあるほど、良い肉には「刺激」あるふりかけは少なくて良いはずだ。で、どうなの、お肉自体は?

・・うう〜ん。実はそうでもないのだ。おいしいチキンだ、とは言えない。残念ですが。ベトナムに通い続けて17年。ベトナムの鶏肉は何十キログラムと食ってきたはずだぜ。が、今回はっきり言って、良くない。ベトナムのチキンの本来の濃い旨み成分が感じられないのだ。おいおい、どういうことだ。ベトナムでも「暗闇ブロイラー」にしているのか。・・・この件、調べます。いい加減なこと、言えないからね。近々報告します。
さて、こういう事でも、西洋から来た「進んだお店」KFCは、親子や恋人で今夜も超満員でした。サービスはマニュアルが行き届いているようで、テキパキと快適に遂行されていた。通常のレストランにはないアメリカンスタイルのスムーズさが、少し散財しても良い日の気分を充足させるのだろうね。
ちなみに、ロッテリアはあるが、マクドナルドは、まだ進出許可が下りていない。

で、帰り道、ブオンやリンはオートバイで帰ったが、僕はぶらぶらすることにして歩き出した。1000年の誇りが、街中に溢れていた。大きな人だかりが、あちこちに生まれている。常日頃さえ、車道も歩道も区別無くオートバイがうねり、人が往来している街ではあるが、今日は(たぶん、この1週間)、歩行者天国状態で、危険といえば路上は危険状態だ、オートバイは普通にブイブイしてるからね。人混みを分けて入っていくとそこでは、仮設な舞台が設えられており、黄色い衣装の娘さんが10名ほど民族舞踊を舞っていた。音楽は、ドラムスや低音が効いた今風なもの、日本で言うと原宿などで例年やっているよさこい祭りというか、現代ソーラン踊り調なのだ。日本でそれらを見ると「衣装が香港っぽいなあ」と感じるけれど、まったくそういうものと同じで、こちとら本場だよと言わんばかりに、優雅にかつ激しく踊っていた。舞台袖には、赤い一群、後には青い衣装の一群もおり、おそらく、踊りのコンテストで、競っているものと思われる。まあ、大学の学園祭だね、街中が。テトと違うのは、旗日といっても休みが公務員だけとか、中途半端なようで、多くが田舎に帰郷していない分だけ、人々が何か楽しいことを探して街頭に繰り出していることだろう。特に僕が歩いている地域はハノイ工科大を中心にした大学の街のせいもある。若者で路上が溢れ、何となく懐かしさも漂っていた。

で、本日9日土曜。ベトナムでの僕の出版の重要な会議があった。夜、ブオンの家で、ブオンと親友の美人アラフォーファッションデザイナーと娘LINHと4人で飯食べつつ、明日10日は、遷都1000年祭のフィナーレで朝から、ホアンキエム湖周辺は盛り上がりが最高潮になるようだと、ブオンがインターネット新聞見ながら言い出し、ハノイに居るのだから明日を見逃す手はないわよ、でも、車もバイクも大半交通止め。徒歩で行くのよというので、朝から出かけることにしたが、女子三人組は疲労困憊で、日曜は昼まで眠らせてとのたまう。どういうこっちゃあ。リンだけには、「どう、行こうぜ」と声かけたが、ベトナムの中学生も日本や韓国並みに猛烈な毎日。日曜午前の眠りも大切だね。仕方ない、朝からひとりでホアンキエム目指してフエ通りを散策し祭りの熱気と喧噪に分け入ってみるとしよう、ということでこの項続く。