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2010年10月16日土曜日

ハノイ・コンビンザン考

■いま、「♪♪ホンキートンク・ウーマン」を聞きながら、これを書き始めた。なにせ、ストーンズが80年代末に東京ドームに来たとき、彼らのコンサートに連続三日間3回も行ったんだぜ。まあいいさ。で、コンビンザンだ。「COM BINH DAN」と書く。日本なら定食屋と言ったところであろう。日本の場合、定食屋では大抵各種の小皿とか、角長の焼き魚皿などに煮物、卵焼き、サンマの開き、唐揚げやコロッケなどから、おひたし、納豆、シラスおろし、お新香まで取り分けてあり、お客さんは、好きな皿を好きな数だけ、と言っても多すぎないように3,4点自分のお盆に乗せて、最後にご飯とみそ汁をいただき、席について食する。お店によっては、10も20個もある大皿にたくさんの各種おかずが並んでいて(良い皿使っていて結構壮観さを演出している店もある)、自分で適量をとったり、店員にとってもらったりするお店もある。「大戸屋」などのチェーン店から、昔から地元商店街に馴染んでいるおじいさんおばあさんのお店も結構あちこちにまだ、生き延びている。こんな事、これを読んでる日本人には常識の話だね、最近ベトナムの青年向けに書いている事が多いので、コンビンザンに至るまでのイントロ部分がうっかり長くなってしまった。

で、コンビンザンだ。大抵、お店の店頭に20種類ぐらいのおかずが、台所のシンクのようなものに入って並んでいて、お客があれだこれだと言って、大皿のに盛られたご飯の山の峰から、てっぺんまで、乗っけてくれるシステムなのだ。プレート(皿)の丼とでも言おうか。煮込んだ豚肉や鳥、インゲンやもやしの炒めサラダ、空心菜、牛の煮っ転がし、目玉焼き、卵焼きいろいろだ。南京豆の炒め物もあるぜ。一通りのっけてから、店員の田舎娘はつゆもかけるか、と聞いてくる。
僕のように、ビールを飲みながら食べる向きは、ご飯少なめにおかず多めに発注すると40000ドン位。つまり160円ぐらいで、結構旨い飯とおかずにありつけるということだ。ハノイの学生も金がないから、遠慮がちにおかずを乗っけて15000ドン〜20000ドンぐらいで済ましているようだ。ビールは現地生ビールで、大ジョッキで40円から50円ってところだ。アルコール度数が低く、ぐいぐい何倍でも飲めてしまう、結構僕は好きさ。ところで、味の素が多いんじゃあないか?農薬はきちんと洗い落としているのか?いつも気にならないと言えばうそになる。

が、しかし、その前にだ、もっと肝心なことが、凄いんだ。日本人女性には卒倒ものだね。厨房の現場をみた日には、「ベテラン」のぼくでも食えない。普通の上品なレストランでも、調理場は見ない方が良いというのはベトナムに詳しい人たちの常識なわけだから、コンビンザンの調理場、想像できる?ちょっと凄いぜ。娘のLINHは中学2年だが、ブオンによると、生まれてこの方、「怖くて」食べたことが無いらしい。ブオンもこの何年もコンビンザンでは食べたことないと宣う。まあ、それって理解できるね。だってさ、僕は何件ものコンビンザンの調理現場を偶然目撃しているが、調理の現場は厨房とは思えない。現場は土間やそばの路上なんだぜ。この間も店員と思われる如何にも田舎からの娘や小僧が空心菜などを道路のアスファルトをまな板がわりに・・・ここで、時間がきた。今から、ハノイ空港へ。続きは、近日に。じゃあね。

■今日、マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」を読み始めた。ハーバードや東大での白熱授業で、最近マスコミを騒がせている基になった本らしい。彼はコミュニタリアンと言う学派にいる現代きっての論客の一人と言われている。でも僕は彼の本を読むのは今回が初めてさ。いったいに僕はアメリカ人の学者の本はあんまり読まない。少しこだわって何冊かずつ読んだのは、スーザン・ソンタグ、ガルブレイス、P・ドラッガー、N・チョムスキー、ロバート・ライシュぐらいだろう。後はすぐに思い出せないなあ。この「これからの正義の話をしよう」を読み出してちょっと意外であったのはMBAや大学院の課題研究のような本のしつらえになっていたことだ。まるでさ、今から10年ほど前に話題になった本「ザ・ゴール」を思い出させるよ。なんかさあ、良書と評判なのに如何にもアメリカの”ビジネスソリューション本”風で僕は読みながらすでに辟易し始める。でも、もう少し耐えて読み進めれば、良い展開になるだろうと期待したいところだ。一瞬思い出したので、書き付けておくがライシュの「ザ・ワークオブネーション・・・21世紀資本主義のイメージ」は衝撃的本だ。画期的な本と言って良い。ダイヤモンド社刊のはずだ。90年代初頭に出てすぐ買って、一気に読んだことを思い出す。”シンボリック・アナリスト”になるにはどうすればいいか、真剣に僕はメモをいろいろ書いた。

■で、コンビンザンだ。コンビンザンとレストランの違いは、プロのコックが居ないことなのだろうと思う。コックが居ても、ベトナムではしれた環境なわけだから、コンビンザンは推して知るべし、まで前回書いたわけだ。コンビンザンは家庭の延長の定食屋なので、管理者が不明な上、元々お店を始めたオバチャンやヤクザな親父たちは、銭勘定に忙しいのが普通だ。入れ墨いれた親父の仲間と、日中からビールを呷り、お客からもらった現金入れたアルミ箱に手を入れては札束勘定して束にして、一握り持ち出したりしている。また、人件費を最低に抑えようとしているので、田舎から出てきた何にも知らない少年少女を使うしかない。ベトナムの義務教育は驚くことに小学校三年生までなのだ。だから、10才ぐらいになると労働しないと食えない子供が都市にどんどん流入してきている。そういう彼らが潜り込みやすい仕事が、こういった飲食と建築現場だ。ベトナムでは一般に社内や店舗でも「教育」を体系だって教え込む伝統が無い位な訳だから、ここでは、まったく「お客様へのホスピタリティー」など無縁なわけさ。先ほど定食屋と比較したが実態は戦後の直後の東京の闇市の飯屋に近いのかも知れないな。そう言うと、ちょっと酷かな・・・。

2010年10月10日日曜日

遷都1000年とノーベル賞

■1949年湯川秀樹京都大学教授が日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞したニュースが当時の日本にどのような衝撃を与えたのだろうか。敗戦し廃墟となった日本にとってはまさにこれからの明るい未来を象徴する最高の精神的プレゼントであったろう。敗戦から4年が経ち、今の日本人と違って生命力の強い当時の日本人は工業や商業だけでなく、闇市も一定の秩序すなわち流通や物流も形をなして来始めた時期であるものの、それこそ、世界から日本製品は猿まね、壊れやすいなどの非難がこの新興国に相次いでいた時期でもあろう。そのときにまさしくオリジナルな量子力学の理論で、ノーベル賞を受賞したのだ。日本国民の喜び様は、どのくらいのものであったろうか。また、湯川博士が東京大学でなく、京都大学であったことも、実は心理的に国民にフィットしたと思われる。第二次世界大戦に引きずり込んだ大多数の指導者は、東京大学卒業者であったからね。だから、京大は自由の象徴としても人々に愛されることになった。この湯川受賞の自信回復は戦後日本のエポックメイキングな出来事であったろう。

欧米の科学技術の壁に敗戦したという思いに上乗せて、この受賞によって日本の若い学究者や学生たちに政治や経済ではなく、科学技術こそが国作りの基礎になるという意識はこのような環境の中で培われたと思う。僕が小さいとき東北大理学部マスターであった母の弟も「遊びたい人は経済にいくのさ」と言っていたような、彼ではなかったかもしれないが昭和20年代30年代は理工学部へ行くこと、また科学を学ぶ事の大切さが、大学にも行かない多くの庶民にさえ、共通の認識であった気がする。科学の子アトムが生まれた日本だものね。

今、民主党は無能で、何もできないでいるし、自民党もあら探ししかテーマに無いようだし、公明とか日共は、自組織の維持で精一杯で完全に政治過程の欄外。日本人はかねてから大きな構想作りは、苦手にしてきた。でも、それにしてもだよ、いま日本の政治に大局的見地らしいものが全く見えないよね。これほど指針がない政治状況もおそらく初めてじゃあないか。僕らは、何に希望を託せばいいのかいなあ。はい、はい、はじめからやっぱー託しちゃいけないんだよね。政治は基本的に無視する事しかない。僕ら老人の将来は決まってしまっているしどうでも良いが、感受性の強く、今からの将来がある中学生とか、高校生は今後どうしていくのだろう。本当に可哀想だぜ。このような参考にも反面教師にすらなりもしない大人たちに囲まれてさ。ここを何とかしないと完全に凋落するしかない。ギリシャやローマの様に凋落後、数百年はだんまりを決め込むほかは無いだろうね。2年ほど前秋葉原で、多くの死傷者生んだ大きな事件が発生した。派遣社員加藤という人物が犯人であったが、彼の行為はインターネット上で、あろう事か英雄に祭り上げられていた。僕らはそういう国に住んでいる。国の骨格が無いどころか、神経や皮膚すらも訳もわからない病に冒されつつある。

今回の北大の鈴木章名誉教授と根岸栄一パデュー大教授(東大工卒)の受賞の僕らの嬉しさも、2年前の小林、増川、下村の名古屋大学関係トリオの時もそうでしたね。純粋にうれしい。日本人の地力というか、本来持っている能力が堂々と発揮される科学世界は、いいなあっと思うね。東北大の田中さん(島津製作所)の時も地道に努力することの大切さが、まさに証明されたようで、嬉しかったね。鈴木先生と根岸先生の快挙もいわずもがなだが、たいてい受賞の評価は30年、40年以上前の功績である。基礎研究にまだまだ予算が与えられ、それが、良いことなのだ、そうでないといけないという常識が働いていた時代の産物ですね。NHKなども、大分「ノーベル賞受賞者と子供たちの接触」をテーマにして、企画をしているようだ。が、まさしく、政府が、東工大でた理系の菅さんが、中高生と受賞の巨人たちの交わりを政策化すべきじゃあないの。子供の頃、天才や巨人とであった人は幸せだよ。会えただけで何かを得るものだよ。こういう施策を積極的にできないのか。僕らの日本は、現在の子供たちの能力と努力に運命が掛かっている。

いま、ベトナム人の青年向けに「日本語を学んで、サムライにならないか・・・日本企業へ就職の薦めとガイダンス(仮題)」という本を書いている。日本語で書いて、ベトナム語に翻訳して、ベトナム全土で発売するものだ。300ぺージもの中に、僕は日本の良いことをたくさん書いた。書きながらむずがゆい。というより、日本についての嘘を書いているかもしれないという責めもある。ベトナムのある長老が昔僕にこういった。「日本がロシアに戦勝したときの衝撃は世界を揺るがした」と、老人の父親が彼に言ったらしい。「それ以降、アジアの民衆は日本に尊敬の気持ちを持つようになった」と。思い起こすとまさにそうだね。魯迅、孫文、周恩来、チャンドラ・ボースなど歴史に名前を刻んだ人々だけでなく、アジアの何千人という優秀学生や若き革命家が、青年期の留学などの居場所として日本を選んでいた。日本には新興の生命力が横溢していたのだろう。次の何かが期待できる魅力的な国であったんだ、当時はね。僕が今まさに、今これを書いているベトナムの様にね。

■昨日の夜に、予感もあった。夜夜中まで、ハノイ工科大とか、統一公園横をとおっている市内幹線のうちのひとつレズアン通りなど、若者であふれており、バイクも車も立ち往生といった風情であった。テトは、国民の大半が帰郷するので、意外に静かだが、初めてのお祭りこの「遷都1000年祭」は、どう祝って良いか解らない青年たちが、ともかく夜右往左往していた。で、ブオンに言われたままに、10日朝9時に家を出て、ホアンキエムに向かって歩いた。「なんだ、バスもタクシーもバイクも通常通りだぜ」、とか愚痴を言いながら遠くの右に国営デパート(戦争前からのいわば「高島屋」)が見えてきた頃から、状況が一変した。数千、いや数万のホアンキエム湖から戻って来る群衆が今からそこに行こうとする数万の徒歩の人々と交差し始めたのだ。軍事パレードなどの催しものが終わったらしく帰途する群衆。何かやってそうだなとデパートの交差点からホアンキエム湖に近づこうとする刺激を求める強気の人々。これも数万かもなあ。まさにラグビーのスクラムだあ。それに車と突入してくるバイクも絡むので阿鼻叫喚。でもそこを超えると歩行者天国をやっていた。懐かしいほどの快感のある空間が一応演出されていた。ただ、驚くのは、なにもやっていないのに、ただ人は集まっていたことだ。僕もね。

驚きはホアンキエム湖の周りに人が溢れ、湖の岸に人垣がほぼ一周分できていた。何をするでなし。お祝いに来た、でも見るモノがない数万人が湖面に佇んだり押し合いへし合いのお散歩。お調子者は木や電柱に登る。昔から何処の国でも共通の現象だ。ホアンキエムでも、バカな若衆が木々にあがりふざけていた。「阪神フアンなら、こういう時、川や湖に次々飛び込むものさ」と、思いながらブオンとデザイナーフックさんがバイクで迎えにくるはずで、大混乱のホアンキエム周辺から脱し、白い館メトロポールソフィテルに向かった。そこいらでは空間に余裕がでたのでやっと気づいたが、凛々しく赤いはじまきをしている青年が目立った。何百人もいそうだ。額の刻した文字は読めないが「1000」は読める。おそらく「祝ハノイ1000年」というような事だろう。高校生か大学生の様だ。これらを見て思った。「江戸東京祝500年」とかのはじ巻きを凛々しく巻く東京の高校生が果たしているか。もちろん、一人もいないと言っていい。居ないのが当たり前で、それをいま、とやかく言うつもりは毛頭無い。だけれども、ハノイには、確実に存在している。「遷都1000年」に誇りをもっている青年たちが、確実に何十万人もここには居るのだ。都会から来た僕らなどに稚拙に見えていようとも、断固として国や郷土を思う途方もない数の若者たちがこの国にいるという現実。

20歳前後の数年間、日本とアメリカという帝国主義に牙を向けていた僕にはナショナリズムは、苦手だし、毛嫌いの対象でしかなかったね。でも、このごろナショナリズムの意味を時々考えることがある。そういう意味ではベトナムは僕にとって学習の場だね。
ノーベル賞は、欧米の価値観で決まるので、ハンディーキャップがあるけれど、ベトナム人が理工系分野で(現在欧米の在住者であれ)ノーベル賞を取ることを心から祈念したい。僕らの仕事もその一助になれば嬉しいね。

アントニオ・ネグリなどが9・11以後に捉えた「帝国」概念は、実はアメリカから中国に遷移しつつあるのではないかと思うこの頃ですが、「国家資本主義」中国は、自国のノーベル賞受賞を隠さなくてはならない事態に遭遇した。過去をみても、佐藤栄作に平和賞を与えるいい加減なノーベル賞委員会ではあるが、今回の劉暁波さんの平和賞受賞は、すでに、今春から、中国政府に圧力を受けていながらも民主化活動家で「08憲章」を起草した彼に贈ったことは、評価されて良いだろう。今後、中国の対応が見物だ。孔子、老子、孫子の国として?あるいは世界の新「帝国」として対応するのか。現在のところ二流の「国家資本主義」国としての振る舞いに終始している。そんな中で、中国共産党の元幹部の老人たちが、憲法を盾に自由を求めて反撃に出始めたようだ。

■大佛次郎「天皇の世紀」全12巻文春文庫を読んでいる。まだ、第二巻の320ページ。今回ハノイに居る間に第三巻に移行できそうだ。井伊大老の一見傲慢に見えるが、計算し尽くされた対水戸斉昭攻撃。これに対抗する水老こと斉昭らの攘夷派、実は息子徳川慶喜を将軍にする画策。分裂する京都の公家や禁裏サイド。水戸派の京都結集に対抗する幕府の京都支配はどうなるか。歴史というドラマは、現代人の知る映画や小説のシノプシスを軽々と超越してゆく。大佛さんと朝日新聞担当部門の資料収集のすごさと解析と抽出のエネルギーを改めてまざまざと知らししめる。何せ、資料分が30〜45%を占めているわけで、それが全部候(そうろう)文だから、どうしても読み解きに時間を要するので、大変は大変。でも追体験できる魔力が読者を離さない。

2010年10月9日土曜日

1000年祭りとKFC

今年はハノイに都ができて1000年だそうで、奈良の1300年と共にお祝いされている。ベトナムでは10月初頭から旗日で、ハノイの街中がお祝いムードに包まれている。昨日は2週間ぶりにハノイに入った。ベトナムのインターネット新聞の写真特集などでも数日前に東京で見ていたので、大体は知っていたが、こういうお祝いなどの喧噪は現場じゃあないと味わえないね。昨夜はブオンの娘LINHの13才の誕生日であったので、ミニパーティー会場である「KFC」に行ってみた。こっちの人はケンタッキーと言わずにKFCという。おめでとうと言ってチキンやフィッシュのフライを食べてとコーラを飲むだけのたわいのない集いだがわいわいと楽しい。ブオンの親友の女性会計士さんと、ブオンの前夫のお姉さんの娘で、時々我々の食事にも来るボーイッシュでかわいい子チャンのハノイ貿易大学の学生と子供が5人。その中の4名は中学2年生。日本で言うと中学1年生だ。「♪ハッピーバースディーツーユー♪」のCDが部屋にがんがん響き、あの油まみれの空気の中であったが、楽しくやっていた。リンはいつの間にか僕より背が高い。おめでとう13才。

ケンタッキーは、20年ぶりだろうなあ、食べたの。あのガーリックと複雑な胡椒がきつく効いた味わいは、嫌いじゃあないが、あまりにも食べ物としての健全性に欠けるので、自分から食べたいと思ったことはなかった。真っ暗な体育館の中、シーンとした物音ひとつしない暗闇。だが、何かの気配がある。撮影ライトをつけたら、そこに一面に何万羽という鶏が声も立てずに蠢いていた、とかいうレポートの噂などは誰でも知っている。工場化する理由もわからない訳じゃあないけれど、その暗闇で3ヶ月で成鳥にして、出荷するそのシステムは食べる以前の問題で、普通の感覚ではゾッとするよね。根拠もない噂であれば、KFCさんに営業妨害なことだが、これに近い実態が、リアルな事だろうと思う。消費量と生産を考えれば、このようにシステマチックにしなければ追いつかないからね。

でも、「地鶏」しかいないベトナムで、ケンタッキーはチキンの仕入れをどうしているのだろう。そして、お肉自体のお味はどうなのだろう。実は前々から、ベトナムのケンタッキーを試食してみたかったのさ。わざわざ、「暗闇のブロイラー」を日本から輸入する必要も無いしね。ベトナムのお肉の牛(ボー)と鶏(ガー)と豚のうち、ぼくは、豚の味が秀逸だ、その次がチキンやダックの鳥肉だと思っていると今までベトナムに来た関係者にそう語ってきた。牛も含めて、ベトナムのお肉は味が濃い。鳥と豚はそれこそ逸品と言って良い。まあ、ベトナムだけでなく、工場化し大量生産していないメコン地域の国々のお肉は本来の味わいを保っていよう。
さて、食べてみた。日本のケンタッキーに比べて、胡椒やガーリックの度合いは薄い。なあるほど、良い肉には「刺激」あるふりかけは少なくて良いはずだ。で、どうなの、お肉自体は?

・・うう〜ん。実はそうでもないのだ。おいしいチキンだ、とは言えない。残念ですが。ベトナムに通い続けて17年。ベトナムの鶏肉は何十キログラムと食ってきたはずだぜ。が、今回はっきり言って、良くない。ベトナムのチキンの本来の濃い旨み成分が感じられないのだ。おいおい、どういうことだ。ベトナムでも「暗闇ブロイラー」にしているのか。・・・この件、調べます。いい加減なこと、言えないからね。近々報告します。
さて、こういう事でも、西洋から来た「進んだお店」KFCは、親子や恋人で今夜も超満員でした。サービスはマニュアルが行き届いているようで、テキパキと快適に遂行されていた。通常のレストランにはないアメリカンスタイルのスムーズさが、少し散財しても良い日の気分を充足させるのだろうね。
ちなみに、ロッテリアはあるが、マクドナルドは、まだ進出許可が下りていない。

で、帰り道、ブオンやリンはオートバイで帰ったが、僕はぶらぶらすることにして歩き出した。1000年の誇りが、街中に溢れていた。大きな人だかりが、あちこちに生まれている。常日頃さえ、車道も歩道も区別無くオートバイがうねり、人が往来している街ではあるが、今日は(たぶん、この1週間)、歩行者天国状態で、危険といえば路上は危険状態だ、オートバイは普通にブイブイしてるからね。人混みを分けて入っていくとそこでは、仮設な舞台が設えられており、黄色い衣装の娘さんが10名ほど民族舞踊を舞っていた。音楽は、ドラムスや低音が効いた今風なもの、日本で言うと原宿などで例年やっているよさこい祭りというか、現代ソーラン踊り調なのだ。日本でそれらを見ると「衣装が香港っぽいなあ」と感じるけれど、まったくそういうものと同じで、こちとら本場だよと言わんばかりに、優雅にかつ激しく踊っていた。舞台袖には、赤い一群、後には青い衣装の一群もおり、おそらく、踊りのコンテストで、競っているものと思われる。まあ、大学の学園祭だね、街中が。テトと違うのは、旗日といっても休みが公務員だけとか、中途半端なようで、多くが田舎に帰郷していない分だけ、人々が何か楽しいことを探して街頭に繰り出していることだろう。特に僕が歩いている地域はハノイ工科大を中心にした大学の街のせいもある。若者で路上が溢れ、何となく懐かしさも漂っていた。

で、本日9日土曜。ベトナムでの僕の出版の重要な会議があった。夜、ブオンの家で、ブオンと親友の美人アラフォーファッションデザイナーと娘LINHと4人で飯食べつつ、明日10日は、遷都1000年祭のフィナーレで朝から、ホアンキエム湖周辺は盛り上がりが最高潮になるようだと、ブオンがインターネット新聞見ながら言い出し、ハノイに居るのだから明日を見逃す手はないわよ、でも、車もバイクも大半交通止め。徒歩で行くのよというので、朝から出かけることにしたが、女子三人組は疲労困憊で、日曜は昼まで眠らせてとのたまう。どういうこっちゃあ。リンだけには、「どう、行こうぜ」と声かけたが、ベトナムの中学生も日本や韓国並みに猛烈な毎日。日曜午前の眠りも大切だね。仕方ない、朝からひとりでホアンキエム目指してフエ通りを散策し祭りの熱気と喧噪に分け入ってみるとしよう、ということでこの項続く。

2010年9月28日火曜日

オッ金剛組だ、世界最長寿の / 「誰がために鐘は鳴る」

先日、早稲田通りを歩いていたら、良く門前を通ってきたお寺さんが、工事中であった。工事中というより、今までの本堂の全容は消え失せ、新しくお堂をこさえようというのだろう、白い工事用テント地の幕で、大きな敷地全体が覆われていた。何気なく見たら工事看板に目を見張った。僕は驚喜したというか、「おお金剛組だあ」と路上で声を上げてしまった。そこで、理由はともかく工事事務所を探そうと左右を見渡したが、見えない。見えないので、砂利石の参道を走り、寺務所の玄関をカラカラカラと開き、誰かに工事事務所の在処はどこか聞こうと思った。20畳も30畳もするような広い玄関は、誰もいない。僕の影が三和土で動くだけだ。すみません〜、と大声でよびつつ、呼び出しのベルも見つかったのでそれも連打した。「いらっしゃいませ」中高年の坊主が小走りで出てきた。僕は、すみませんねえ、と一言言いつつ「こちらさんの本堂の工事はあの金剛組がやっているんですね。あの有名な金剛組ですよね」と念を押すと、坊さん”どや顔”で「そうですよ、あの金剛組です」と応え、ちょっと離れたところにある金剛組の工事事務所の場所を教えてくれた。

いやはや興奮したぜ。日本には100年の歴史を持った企業が10万社ある。多分世界一だと思う。これだけでも凄いのに200年の歴史を有する企業もなんと3000社も我が日本には存在する。でもこの金剛組こそ何を隠そう(いや隠せない)飛鳥時代に、つまり聖徳太子が生きている時代に創業された世界で一番古い企業(西暦578年創業)なのである。金剛組は大阪にある寺社仏閣専門の職人だけのゼネコンで1500年も生き抜いてきた世界最古というか最長寿の企業なのだ。嬉しいじゃあないか、こういう出会いも。さっそく、工事現場に行って工事監督さんと名刺交換でもしようと、くびすをそちらに向けで歩き出したがだが待てよ、俺も62才だ。20代の時なら、いざ知らず今の僕が「あのう、済みませんが・・」と嬉しさだけで理由もなく追っかけ風に行ったらどうだろう、名刺はくれるだろうか、などと思い始め携帯のカメラで「金剛組」というロゴを撮影するだけにとどめて、商用に向かった。何と言ったらよいか、銀幕の往年のスターに出会ったときのような、ともかくとっても幸福感に包まれたひとときであった。

■ 先日、ジョンフォードの「荒野の決闘」と「誰がために鐘が鳴る」を見た。もちろんDVDで、だよ。390円で本屋に並んでいたものを無造作に買ったのだ。「荒野の決闘」はいわずもがな「クレメンタイン」の歌がながれる「OK牧場」ものというか、「ワイアット・アープ」ものだ。学生の時、どこかの場末の映画館でも見たし、ビデオテープも持っているので5〜6回は見たかな。言うまでもなく「シェーン」や「駅馬車」と並び賞される西部劇の名画中の名画だろう。俗っぽいマカロニウエスタンが始まるずうっと以前だから清教徒の清楚さと素朴な愛が全面にあふれている。今で言えばアーミッシュ的ともいえるプロテスタントの物欲も性欲も良しとしない原始キリスト教の時代的雰囲気に満ちている。悪徳と善良の対比もやや宗教臭いが、勧善懲悪の構図は水戸黄門と同じで結論が最初から見えていて安心して鑑賞できる。なぜか、今日は皮肉っぽく書いたが、ただ、本日の体調のせいだとご理解ください。

かつて母親が「誰がために鐘は鳴る」のイングリッド・バーグマンを「本当に輝いていたのよ」と僕が中学の頃、言っていた。今見てもその輝きは全く失せてはいない。反ファシスト戦争に命をかける乙女の麗しさは、まさしく太陽の様なのだ。彼女の微笑みに接した事のある中高年の御仁はたいていそう思っているだろう。新宿の伊勢丹の向かいで今の丸井あたりにかつてあった名画座で見たような気がするが、これもビデオテープを持っているので、いままで数回は見ただろう。バーグマンは、「カサブランカ」で評価をもらった直後に出演したのがこの作品であったが、英語が下手な(らしい)スエーデン人の大女である彼女に演技の期待は無いが、無心に愛に浸る彼女の陶酔の目とか、頬、首筋の美しさは、まさに燦然と輝いていた。この太陽の様な笑顔に母たちの世代(母は、現在84才)たちは輝く未来を感じ取ったであろう。母が仙台の文化劇場のスクリーンから彼女の愛に感涙したのは、多分昭和21年か、22年、結婚する直前か、その直後かだから、その輝きに満ちた笑顔に母は己のこれからの幸せと重ね合わせたことであろう。で、23年に僕が生まれたわけだから、バーグマンの笑顔は、僕の生誕に少なからず影響したはずだと言っていいかもしれないね。

でも、酒飲みながら、見た今回はかなり違った感じ方も改めてした。地方の反ファシストゲリラ群と共和国派の中央司令部の意識のずれと中央部のスターリン主義とでもいうべき硬直した上意下達組織の情けなさが、見始めてすぐに感じた。義勇軍として個人参戦していた原作のA・ヘミングウエイ自身がその組織の硬直したあり方に疑問を挺して居たからなのであろう。ドイツのナチズム、イタリアのファシズムに続くスペインのフランコ将軍のファシズム化から守るためスペインの共和国政府が全世界の闘う有志に呼びかけ、アメリカやフランス、イギリスや日本などから左派系インテリや、学生、マルクス主義者、アナキスト、自由主義者などが、統一戦線を構成し、スペインに集結してファシストと戦火を交え市街戦を展開した。それはイギリスの作家ジョージ・オーエルの参戦体験をまとめた名著「カタロニア讃歌」に詳しい。

この映画の舞台となったスペインの反ファシスト戦線では、ソ連を盟主と考える共産党派の傲慢が、正義感と情熱で世界各地から参戦していた数十万の戦闘的左派や市民軍、POUMの広範な統一戦線を分裂させ、ついにはスペイン人民戦争自体の敗北を招いた。その荒涼とした現代史をこの映画の中にほんの少しだが垣間見ることができる。だが、映画の主たるテーマは欧米や日本の戦後に求められる「愛と希望」さ。だからヘミングウエイが自分の体験を投影させたハンサム中年の大学教授役のG・クーパーが中央との板挟みに苦悩する左翼インテリゲンチャーを演じるが、バーグマンとのいちゃつきと口説き台詞は、クーパーの地が出てそこだけ冴えてしまうので笑わせる。自分の命を捨てても、愛する女と共和国に殉じる中年クーパーの泣かせるラストシーンもハリウッドのいつもの「感動フォーマット」そのままだ。ヘミングウエイの原作は読んでないが、ハリウッドは原作とは違い第三インターの内紛というかスペイン人民戦争への共産党の裏切りなどにははじめから興味なく、捨象して原作の恋愛部分を上手くチョイスして、戦後の希望と明るさを提供するアメリカの戦後処理イデオロギー作品と位置づけて、焼け跡の日本などに輸出したのであったのだろうと思う。その意味では深刻さを演じられない大根役者の二人を、つまり太陽の様なスマイルとアメリカの典型的ハンサムを画面にクローズアップさせただけで良しとした営業戦略は、計画通り成功した。つまりそういう作品ということだ。

余録だが、この主要な出演者に山岳ゲリラの剛胆な女親分が登場する。もの凄く良いキャラで、二人の心の進展に協力したりする婆(ばばあ)だ。この婆は紛れもなく宮崎駿監督の一連の作品に出てくる婆の原型に違いないと気づいた。面構えといい、態度やキャラといい、服装までも宮崎さんは、この婆から、あの一連の宮崎アニメの愛すべき婆たちを想像したと直感した。今回見ての収穫はこの婆だけさ。

■ はいはい、また、原稿の一部をもってきた。

3−4−2 「ベトナム人は、計画嫌いですか?」
16〜17年もベトナムのいろいろな階層の人々つきあっている。総じて言えることは、「計画」というものに関心が無い人が多い。計画が苦手というより、大して意味がないと思っているようにも見えるね。確かにいろいろな客体的な要素で成立させた計画は、自分に関係ない客観的状況によって、どんどん変化する。変化すれば、計画も変更をしいられる。だから、あまり計画にこだわりたくないと思うのであろう。それはわからないでもない。

君らと反対に日本人は計画が大好きなのだ。何をするにもすぐ、計画を作り始める。
一般的に僕らの言う計画は1:期間、2:費用、3:事業の内容の詰め という3点だ。この3点がどうなるのかを現在の時点で論理的に想像し構築するのが計画というものだろう。とくに3は、事業の内容を構成している客観的な要素が多い。わかりやすく言うと、他人や他社と絡んでいるわけだから、自分ではどうしようもないことが、突然起きることも多い。そこが変更になれば、当然1が変わる、普通は期間が延びてしまう。そうすれば、2も、大きく変わってくる。そんなことは、百も承知だけれど、日本人は会社や、役所の中で予算を確保するために、時によっては「形式的に」事業計画を作る場合さえ在るんだ。

それに比べて、ベトナム人は一般的に、そのような変化があるから、計画したって、意味ないんじゃあないかと考えているように、僕ら日本人の目には映っている。だから、積極的に計画は作らない人が多い。

ここは比較文化論のページじゃあないので、話を戻す。この「日本語を学習する計画」の場合の3は、他人とか客観的な要素が無いと言っていいだろう。問題は、自分だ。自分が決意して進めていくだけの計画なのだ。自分の意志が弱くなければ、ほとんど変更はない。だから、この1年間の計画を立案することは意味があるし、十分に可能だと言うことさ。

2010年9月13日月曜日

吉永小百合さんの朗読

■ハノイの夜明けだ。希望をもたらすような見事な朝焼けとはなって居らないけれど、だんだんと朝焼けが消え行き街並みが鮮やかに立ち上がってくる様は例えよう無く美しい。雑然とした喧噪の街ではあるが、流石フランスにかつて統治された街で、アジアの熱風とフランスの情緒が上手くお互いに練り込んだような雰囲気が醸し出されている。

■先日、NHKの深夜番組で吉永小百合さんの「原爆の詩の朗読」という番組を初めて見た。静謐な空間で吉永さんが語る、原爆の飛来下で起こった地獄絵の中での人びとの阿鼻叫喚と、恐ろしいほどに冷静な母たちの声。吉永さんは、余計な感情を交えずあくまで粛々と詩を形作る一文字一文字を目で追い、あの独特の鼻に少しかかった声でゆっくり語ってゆく。カメラマンも民放の若い撮影者と違い、彼女の不要なクローズアップはせず、精々バストサイズで落ち着いた画面を構成していた。吉永さん唯一人の舞台で、もう20年もご自分の仕事として、続けておられるという。意外と言っては失礼だけれど、優れて深いイベントであることが解った。

勿論、僕も吉永さんのフアンの一人として(サユリストほどではない位の)、この彼女の大切にしている朗読の会のことは、当然知っていた。ニュースでも何遍もちらりと見てきている。しかし、どうしても積極的にその朗読を見ようとはしてこなかった。ああいうイベントは僕、昔から苦手なのさ。労働組合的というか、共産党的というか、「ああいうたぐいは」として一括りにして「臭い」と感じ、イヤで無視してきた。吉永さんは赤胴鈴之助の時代(ラジオ)は別にして誰もが微笑む日活の青春スターとなった頃、中学生の僕の視線は吉永さんではなかった。ジャクリーヌ・ササール、クリスティーネ・カウフマン、クラウディア・カルディナーレ、ブリジッド・バルドー(B・B)、ミリー・パーキンスなんかのフアンであった。まだ、「映画芸術」誌、「映画評論」誌、「シナリオ」誌、「キネ旬」誌などの玄人向け専門雑誌の購読者になる前のことで、素人向けの写真の多い映画ファン雑誌「スクリーン」誌、「映画ファン」誌などの雑誌から猛烈に伝播してくる華やかで麗しい性的興奮を毎日収集しては友人たちに海の向こうからの別世界な情報を教えていた。

だから、いわゆる映画青年風情な大学生になったときは、吉永さんはもう全く視界に入っていなかった。だって、大隈講堂下の小講堂で、河津一彦などらと、フランスのクリス・マルケルの実験映画(題名忘れたなあ)の上映をやったり、「アルジェの戦い」をみんなで見て評論しあったり、ゴダールだ、ジガベルトフだ、アンドレ・パザンだの、ルイス・ブニュエルだとか、ジャン・コクトーとか、仲間とあーだ、こーだと、寝るのも惜しんで言い合っていた訳だし、大島渚や吉田喜重、今村昌平も論じ、鈴木清順を支援するデモで日活に押しかけたりしていた。だから、吉永さんが志向する原爆の詩を朗読する崇高な世界など、ほとんど視野の外だったのだろうと思う。所詮大人は敵でしか無く、知識や論理の絶対的自信を持って映画とか前衛の芸術を語り反抗していた20才前後という時期は、全身から全力発光する何かの呪祭であったのだろうか。今となってはまるで幻だねえ。吉永さんは青春期から、あの優しい真っ正面からの眼差しをいまも続けている。

■またまた、ネタを書く時間がなく、ベトナム語で出版する準備著作の一部からコピーした。
 『採用されるポイントは、はっきりしている』
   日本企業の学生評価の4ポイント
4−1−1現在の日本語能力の高さと今後の日本語伸長のポテンシャル
4−1−2高校と大学の数学、物理、化学、生物と英語の基礎的学力
4−1−3精神力、性格(積極性、明るさ、協調性:業務に適性があるかどうか)
4−1−4面接当日の戦略と戦術、態度、話し方、印象

上記は理工系大卒者向けの面接の日本企業の一般的な基準である。当校が今までの日本企業の採用活動に協力しながら、得た情報と、有力企業のトップから取材して得た情報をまとめた物である。従って、最新の日本企業の考え方がリアルに現れている。しかし、業界や分野、また、企業によっても採用の考え方は微妙に違いがあることは、当然、承知してほしい。
上記1に在るように、日本語の実力は高ければ高い方が良い。言うまでも無いね。でも、現状のレベルだけではなく、「今後の日本語上達の可能性」も、実は採点ポイントが高いんだよ。つまり、日本に来てからの生活態度が、どうなりそうか。そこを見ている。積極的に社内で日本人の友人を作ったり、中級以上の日本語学校に通ったりしてゆく勉強熱心な人物かどうか、企業は見定めようとする。将来の可能性も評価されると言うことだ。

2は、実は日本企業の多くが一番採点の判定の対象としているポイントだ。つまり、日本語や、新しい技術の知識は今から、何とか猛烈に学習すれば、一定のレベルに達するだろう。しかし、とくに高校時代の数学や物理の基礎学問は、エンジニアにとっての知識の基礎中の基礎の知識だ。この基礎知識が薄ければその人はエンジニアとして、大きく成長することは期待できない。だから、面接時に高校と大学の数学や物理の試験を行う企業も時々ある。この2は、日本企業に入社するには重要なポイントだから、高校や大学の基礎学問を、もう一回時間を作って復習する必要がある。文化系の学生も自分の基礎学問を復習した方が良い。基礎知識がしっかりしていない人間は将来能力が伸びないことが多いからだ。また、同時に英語の能力は必須である。日本では、会話能力は通常は使わないが、英語で書かれた資料やマニュアルも多いからだ。また、日本独特の「カタカナ英語」という使われ方もひんぱんに多いので、英語は、少なくともTOEIC600点ぐらいは欲しい。当校への入学時にも英語の基礎テストを実施している。

3は、性格や精神の強さ、周囲との協調性などさ。その企業の業務との適性を探るわけだ。日本企業の土壌には、「天才はいらない」という面が有る。一人だけ優れていても良い発明や開発ができない。むしろ、周囲と調和できずに人間関係がこわれ、組織的なことができなくなる、と考える傾向が強い。特に会社の幹部ほどそういう傾向が強い。つまり、一人の天才より、優秀な人や努力する人が例えば10人いた方が会社にとってプラスと考えるのだ。つまり、みんなと仲良く、協力し合って仕事ができるかが、日本企業の採用に関する際のポイントなのだ。もちろん、新しい小さな企業と、10年20年50年と歴史がある会社では発想が違うよ。小さな企業は革命的なブレークスルーを望むので、採用のポイントは違ってくるね。ただ共通することは、明るくて積極的な資質だね。仕事も積極的、新しい情報や技術の勉強も積極的、さらに明るく快活に積極的に遊ぶ人が好まれる。暗い感じの人や、引っ込みじゃんの人は、面接で絶対えらばれないよ。日本人は特に中高年の人は明るくてがんばる人が好きなのさ。次の4-2項を見れば、よりはっきりするだろう。

4の事は、当日の君の戦略と戦術の立て方と、その日の体調によって、大きく違ってくるということだ。一番大事なことは、自分の能力を具体的に提示することだ。例えば、卒業論文を持ってきて見せる。ベトナム語だから、日本人は読めないさ、だけれども、“持ってきて、一生懸命プレゼンしている”ことが、重要なのさ。他の人が余りやらないそのアイディアと熱意が評価される。何かチームでプロジェクトを行ったときの写真とかもGOODだね。工夫せよ。具体的に自分の能力や性格が伝わることを工夫せよ。さらに、相手の企業のWEB SITEは、当然事前に見ているはずだが、当日余裕(よゆう)ある態度をみせるためにも、前日はもう一回WEBを確認する必要がある。自分はその会社のどの事業に相応しいか、あるいは担当したいか、明確に言えるようでなければならない。相手の企業のことを詳しく面接時に語れば、「彼は、勉強家だね、事前に努力している。入社したい意志が強い」と評価される。入社したい意志や熱意に相手は喜ぶ。高評価さ。当たり前のことだが、実はきちんとやれていない人が現実は多いんだ。ここ、忘れないでね。だから、この4もとても大事だぜ。

■大佛次郎さんの「天皇の世紀」第二巻もまだ200p。読み方の進みが遅いが、井伊大老が大獄の当日に歩んでいくワクワクさせる項に差し掛かっている。なにせ引用の多くの資料が全部「候文」だから、読み込みに結構時間がかかるね。同時に読んでいるゲバラの日記は以前読んだ原書房の三好徹翻訳でなく、朝日新聞刊の1968年版だ。巻頭のカストロのチェへの賛辞文の格調の高さは見事なものである。演説の天才の世界の論理的把握とイメージ構成の妙に改めて驚かされる。
じゃあまたね、諸君。9月27日

2010年8月27日金曜日

★ 灼熱のアジアに神はやはり居た

今日は9月2日木曜。ベトナムは建国記念日で祭日である。
■しかし、おどろくね。菅さんって、まったく、政治的なセンスが無い人物であることが、今回はっきりわかった。田中派の残滓小沢に期待することは、以前から全くないが、市民活動家上がりで、厚生大臣時の官僚との押し合いへし合いでは、強みを発揮して、僕なんかも一定の期待感は持っていたのだが。だが、だが、なんだね、この3ヶ月なあ〜んにもやってこなかった、無策としか言えない。でも何故か対米追従だけは明言したようだ。信頼する作家高村薫さんがアエラ誌で喝破していたが、8月6日、広島で国連事務総長とか、アメリカの代表まで来た画期的な日の記者会見で管首相は何と「当面核抑止は必要で、アメリカの核の傘から出ることは考えない」と言ったらしいのだ。現実対応はいろいろあるにしても、何故その日にわざわざ、自民党さえその日に言わない様なことを、不用意に言ったのか。政治家としてのセンスというか見識がまるで無いと、僕ははっきりと認識した。

彼は、こんどの民主党の総裁戦で更に無策を曝している。9月1日の公開討論会でも良いし、本日の日本記者クラブでの討論会でもいい、世界とアジアへの当面の10年、20年の政治的経済的構想というかグランドデザインがなぜ、言えないのだ。おいおい、二人とも20年も30年も政治家をやってきたベテランだぜ、特に管さんは首相として少なくとも何故話ないのかあ?泣きたくなるぜ。今後のグリーンニューディール的なアジアでの互恵的な経済交流や日中をきちんと押さえたアジア平和外交、世界一の環境技術とサブカル含めたコンテンツの世界性が活躍できる内需外需を超越した施策、ベトナム他とのEPAの推進など何故言えないの?また雇用、雇用と言うけれど中小企業政策が全く不明、さらに中小をコアにした成長戦略もほとんど聞こえてこない。脱「官僚主導」も停滞している。この管首相の構想力の無さ、指導力の無さは何なんだあ。今後日本はどうなるのだろうか?日共や公明党はまったく論外だし。絶望だねえ。 村上龍の近未来小説「希望の国エクソダス」の冒頭部分が突如、脈絡無く僕の脳裏に蘇ってきた。アフガンから中央アジアにかけてのイスラムゲリラ地帯で、日本人中学生の武装ゲリラ部隊数百人と日本のマスコミが現地で遭遇したというテレビニュースが舞い込んできた戦慄の冒頭である。

■先日、NHKでドキュメントシリーズ「灼熱アジア 中東編」をやっていた。凄い。あのねえ、知っていますか。アフリカのサハラをふくむ赤道地帯から、アラビア半島、インド近くまでの赤道直下の地帯を「サンベルト」と言うらしい。で凄いのは、このサンベルトに強力に降り注ぐ太陽光のエネルギーのたったの6時間分が、実は全世界の必要エネルギーの1年分に等しいのだと言う!! ね、そこで、この50年間石油を世界中に供給し富と、時には世界を牽制する武器として使いまくり、ついには後20年もすると、枯渇に近づくと言われていた中東のイスラム国家群が、一斉に石油を過去の物として、太陽の恵みに国家の未来設計を大転換させたのであった。彼らは、石油の埋蔵が気になり始めていたが、不毛と思っていた砂漠と灼熱の太陽が実は、これからの国家を支える救いのアラーの神であることに気がついたのだ。ある時ふと空を見上げ、神に気がついたわけだ。いま、UAEやカタールなどの比較的小さな諸国が広大な砂漠に永遠に続いて見えるほどの太陽光パネルを並べ始めているのだ。間もなく巨大な王国サウジアラビアも始めるだろう。更に巨大ビルとビルの間にはこれも巨大な風力発電機を設置したりしており、排ガス・炭素という汚染物質の供給源諸国が一気に完全に太陽光と風力のエコ発電所の一大拠点に切り替わったのであった、このダイナミズムが番組からビリビリ伝わって来た。

サルタンの名前をもった36才の留学帰りの若いUAEの革命的官僚が、東奔西走して、郊外に新エネルギー都市「マスダールシティー」を作り上げていた。ここには中国、韓国、ドイツ、ロシアの有能な若い官僚たち、ビジネスマンたちが押しかけて、新しい事業と新しい世界作りに熱中しているのである。環境技術を持つドイツのメルケル首相はしっかりと、このマスダールの主力のシステムを受注していた。トンガやモロッコさえも、トップ営業でマスダール計画の展開構想に参入している。東電や物産、商事なども参画しているようだが、リーダーシップを発揮する位置にはほとんど入れていないようだ。菅さん!僕が言いたいのは、こういう新しい構想を東工大出たあなたの頭脳から発信できても良いのじゃあないか、と言いたいのだ。1時間のドキュメントは、心からワクワクさせられた。さあさあ、ニッポン、踏ん張ろうぜい!

■足の長いスーツの4人の男の子たちが、古い町並みの中を走る。赤い制服の数十人の女子高校生が、この愛らしいハンサム4人組を嬉々として追う。多分、この四人と制作者からのリチャード・レスター監督の名画「ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!」へのオマージュなのだろう。妻夫木、小栗、英太、三浦春馬の汗もかかない草食男子4人が「シュッシュー」とか言いながら走る、走る、ロンドンの街を駆け抜ける。僕の大好きなコマーシャルだ。資生堂のFOGBARが、また最近、固め打ちで、オンエアーしている。前回、去年12月も一連のシリーズがあって、思わずこのブログで褒めた。アビー・ロードスタジオ前の横断歩道でのビートルズのアルバムと同じシチュエーションは、まだ出てこないようだが、この「シュシュシュー」しか言わずシンプルなサウンドのCMは、眺めているだけで嬉しくなるね。「TUBAKI」もそうだが、映像コンテンツとして、資生堂のCMは近年の商品CMでは、ダントツにハイレベルで、かつ楽しいできばえとなっている。
■《ブログご高覧感謝》
僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
多いのは一日1400名閲覧もあります。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2010年8月18日水曜日

嗚呼、青春の「旅の重さ」/ ニッポン専門チャンネル欲しい!!

  《ニッポンチャンネル》は、下方に記述
■御嶽山に登る人々のドキュメントをNHKでやっていた。昔から日本では山や岩、川などにそれぞれの神を見てきた。なかでも山には畏敬と恐怖が混じり合った多様な信仰が各所に在るようだ。御嶽山は、映像で見ただけで恐れ多い神が居るような気配があるね。山岳好きの息子はここに登攀したことがあるのだろうか。今度会ったときに聞いてみたい。で、さきほど、アエラをパラパラ見ていたら、四国のお遍路さんの記事が特集であった。アエラ流の「登山ガール」などのアラフォーものの一環の記事らしいが、この四国お遍路巡りの記事は僕の目を引き込んだ。書き出しにあの初々しい名作「旅の重さ」のことから切り出していたからだ。松竹映画「旅の重さ」は僕にとって大切な映画の一つだ。

胸が「キュン」となるとはよく言ったのもだ、一瞬にして初々しい新人女優高橋洋子を思い出した。久しぶりのこの感覚。何かが疼くね。昔の忘れ物を幾つか思い出す。この「旅の重さ」は、お遍路をたどっていた少女の旅路であったらしい。そうであることを僕は全く覚えていなかった。カメラマン出身の斉藤耕一監督のちょっと軽いが巧みなカメラワークが、青春映画のリズムを軽快に刻んでいたし、全編ながれる吉田拓郎の「僕は今日まで生きてきました〜♪♪」も当時の僕らの胸にストレートとに届く詞であったからね。シナリオのシチュエーションなど目に入らなかったのかも。不思議な大人たちとの出会い。今を超えようと震える身体。でも、大人の世界に行くことを拒絶したいと号泣する。この映画は青春の巡礼さ、まさしくね。高橋洋子のみずみずしい笑顔と肢体。青春の苦悩を素直に受け入れている少女の全身が全部鮮やかであった。1972年の僕を圧倒してくれた。その年の3月僕は結婚したばかりであったし、闘う学生や若者たちが一敗地にまみれた季節でもあった。多分、高橋洋子のみずみずしさは、僕の新しく始まっていた妻晃子との生活と二重写しになっていたのだろうと思う。♪♪私は今日まで生きてみました 時には人の助けを借りながら 私は今日まで生きてきました そして明日からも 同じように生きていくでしょう〜〜♪と。
それにしても、10年前ならほとんど視線に入ることがなかった四国のお遍路さんとか自然信仰について知りたいと体や心が意図せずに動いているようである。今月末で62才だ。多くの先達もそうであったようにマルクス主義を含む西洋哲学だけでは近づくことができない文明史的な積み重ねが我々のアジアにはあるのだろうと思う。

■「天皇の世紀」第二巻にはいっているが、何回目かの「ゲバラ日記」とか他のも読んでるのであんまり進まない。でも、先日まで読んでいた「福翁自伝」「アーネスト・サトウの外交官が見た明治維新」や「勝海舟の氷川清談話」との事実の整合性もひしひし伝わってくるので、まさにドキュメントのリアリティを享受できる。
下記は、また例によって、ベトナムで発行する本の原稿の一部だ。そのうえ、この文章は、去年まとめて書いた「海外広報のだめさ加減」原稿の一部をベトナム人向けに編み直したものだ。でも、大切なことだと思うので敢えててまたここで現した。

■私はこの十数年ほど、ベトナムのハノイ市と日本をほとんど毎月往復している。ハノイにも家があるのでテレビ番組を見ることも多い。ベトナムのテレビ番組で特徴的なことは、いくつかのチャンネルで「ディズニーチャンネル」「韓流ドラマ」「中国歴史ドラマ」を朝から晩まで放映している事だ。チャンネルを回してあちこち見ているが、それらは洪水のようだ、と言っておこう。毎日見ている、君らはどう思うか。でも、日本の映画は、たまに流れるだけだよね。

私は1948年生まれ、いわゆる団塊の世代である。ベトナムの若い君らには解らないだろうが、1945年に第二次世界大戦が終わり、その頃同年齢が年200万人生まれたのだ。それが、数年続いたので、「塊(かたまり)の世代」と命名されている。対アメリカ戦争後に君の国で子供が一気に増えたのと同じ現象さ。僕らが小学校に行った頃、少年少女の当時の世界の中心は「ぼくら」「なかよし」「冒険王」「少年サンデー」「少年マガジン」などのマンガ雑誌と数々のアメリカ製テレビドラマであった。今から、約50年前の事だ。
以下のタイトルは連日、僕らの家庭で放映されていたアメリカのテレビドラマだ。『うちのママは世界一』『パパ大好き』『ビーバーちゃん』『名犬ラッシー』思い起こすだけでも楽しい。『ローハイド』『名犬リンチンチン』『ルート66』『ララミー牧場』なんて格好良いのだろう。毎晩僕らをわくわくさせたハリウッド製プログラムの数々。僕たちはこれらのアメリカ映画を見てアメリカ市民の生活に憧れ、アメリカ的勇気と正義を学んで大きくなった。大人の背丈もある冷蔵庫、大きな牛乳瓶、そして各家庭には必ず大きな車が在ることを知ったのであった。男女の逢い引きが、気軽なデート (Date)と言う言葉に置き換わったのも僕らが中学校の頃つまり1950〜1960年代初めの頃であった。

聞くところによると1950年代当時に日本のテレビの各キー局では、それらのハリウッドテレビドラマをほとんど無償か超廉価で仕入れて放映していたようだ。言うまでもない。アメリカの組織的文化戦略の一環であったからだ。ごはんは太るから輸入小麦のパン食にしようなどというキャンペーンもあったことを思い出す。また、保守的な大家族制度から、アメリカ的な一世代だけの核家族への社会的再編作業なども、これらハリウッド製テレビ番組と一体なって、広報戦略のもとで、展開されたのだった。僕らは、当時無自覚だったけれど。あはは、君らも、今まさに無自覚だよね。

アメリカはおそらく、戦後日本での広報戦略スタイルをこの60年間、世界中で継続しているだろうと思う。現在のその先兵はディズニーチャンネルなのさ。結果、英語の普及は地球上で圧倒的だ。韓国も、中国も同様に広報に力を入れ始めている。韓国では最近コンテンツとその販売の世界戦略を統括する省庁が発足した。日本への「韓流モノ」の攻勢もその一環なのだろう。ベトナムで日本映画の放映があまりにも少ないので現地テレビ関係者に聞いたら、日本の番組は高額すぎると言う。いま、ベトナムの或る局ではエミー賞受賞のドラマ『アグリーベティー(NHKで深夜放送している)』の「番組フォーマット」(番組のコンテンツとノウハウの売買)を購入し、ベトナム版連続ドラマを制作し、ゴールデンタイムに放映までしているのだ。私は今ベトナム以外の海外事情には不案内だが、国民の大半が日本を敬愛してくれているベトナムに於いてさえ、テレビなどを通じた広範な国民への我が日本の広報活動は完全に出遅れているのが歯がゆい。大切なことは、他の国の文化も摂取しつつ、ベトナム独自の文化を守り、そして育成してゆくことである。だから、君らからすると余計なお節介かもしれないが、ベトナムの文化の今後を心配しているんだ。文化というかセンス(sense)の持ち方もね。アメリカ文化に体中「毒された経験」がある先輩として。

我々の日本はこれから、技術移転も含む裾野産業構築を基礎にした各国国民との「共生的な外需」の方向に行かざるを得ないと、これも多くの人は既に予感している。そう言う意味で中国や韓国だけでなく、ベトナム、タイ、カンボジア、ラオスなどのメコン流域地域などもこれからの正にパートナーになっていくだろう。
我々がそれらの国々に提供できるものは多い。僕らの自負さ。「環境分野などを中軸とした技術とサイエンス」や「観光」、「サービス、サブカルチャー(マンガやアニメなど)、食と農などのコンテンツ分野」などは、成長分野であると同時に外需向けに相応しい。そうであるなら日本語の流布拡大と日本社会をアジアの国民の皆さんに身近に感じていただく広報活動を貿易、投資、企業進出に先駆けて本気で始めるべきなのだ。東アジア共同体構想の下にアジア政策を推進する場合、言わずもがな広報はそれらの基礎を作る先行のファンダメンタルである。だが、君らが知っているように、日本の海外広報は弱い。橋を建設したり、道路、ダムを造っているだけだ。日本はベトナムへ毎年約1000億円のODA予算を投入していても、おそらく、ベトナムの国民の多くはそのこと自体を知らない。知らせる努力も足りないが、支援の分野が建設・土木に偏りすぎているのだ。バランスが悪い、ゼネコン主導の分野がいつまで、のさばるのか。

はっきり言って、日本の良質な番組(世界の黒沢明監督や手塚治虫先生が代表する日本の良質な映画、ドラマ、アニメ、バラエティー、ドキュメンタリー)を日本政府は日本の各テレビ局や映画会社から計画的に買い上げ、アジア各国の主要メディアに無償で大量に供給したらいのだ。各国の国民が現地語で視聴できる独自の「チャンネルニッポン」を各国に設置することだってODAの予算の一部を確保するだけで、十分に可能だ(NHK国際放送は各国在住の主に日本人向けの日本語放送のみ)。そのほか現地新聞の活用とか、現地語のインターネットWEB展開など経費「縮減」の施策はいくらでもある。

世界語になった日本語は多い。中でも最近「もったいない」が世界語になったことは、未来志向のグリーンニューディール時代の嚆矢(こうし)だろう。日本古来のリサイクルシステムや節約の心から最先端技術まで、私たちが蓄積した“世界財産”は途方もなく膨大だ。ベトナムの知的な青年諸君、どうだね。ぼくの言いたいことはわかるね。僕ら日本は、ベトナムを兄弟と考えて、相互協力して未来を切り開くのが、一番現実的だと考えている。さあ、君はどう思う?     
 

2010年7月31日土曜日

「天皇の世紀」ハノイで読む

日付は、7月31日となっているが、実は今日8月4日である。
■世の中にはいやな奴がいるよね。いけ好かないという奴だ。古くはジャンボ尾崎。その後は柔チャン。田村で金、谷で金、ママで金の御人だ。今度は参議院議員で金を狙っているようで、いちいち鼻につく。こういう毛嫌いはよくないと自覚しているが、生理的に如何ともしがたいものがあり、「これぐらいはいいだろう」と自分の老人わがまま症を許してる。で、最近のいやな奴ナンバーワンは、なんと言っても「ワタミ」の渡邊美樹だろう。次は介護だ、学校経営だ、さらに政府の委員だと、へらへらしゃべってる。奴が「居酒屋つぼ八」でのし上がったドキュメントをだいぶ昔「東洋経済「で読んだことがあった。当時はまともな青年という印象であったが・・。だいたい、テレビの番組で何か意見をいっても、音声の出し方からして軽々しいし、内容はというとこれまた平凡、床屋談義レベルの意見だし、どこが良くてNHKあたりもコメンテーターとして招聘するのだろうか。「夢に色つけろ」だとさ。「夢に日付つけろ」だとさ。よしてくれよ。NHKもしっかりしてほしい。

■海江田万里。僕の数少ない政治家の知人の一人だ。彼は慶応でフロント派で学生運動をしていた男で、同じく慶応で中核派で活動していたかつての僕の上司であったA・M社オーナー河村氏から、30年前に紹介されてからの知り合いだ。その後、縁あって時々は彼のための協力もしてきた。今から10数年前、ベトナム航空機がカンボジアで墜落して、ホーチミンで南蛮亭を営んでいた僕のベトナムでの盟友高野くんも巻き込まれてしまった時、葬儀にて格調高い弔辞を念じたのも海江田だ。その彼が管さんに対抗して、9月の民主党大会で出馬して党首・首相を狙うという。何を考えているのだろう。全く、世間や世界の中の日本について熟考していないというか、冗談としか思えないぜ。確かに参議院選挙以降、管氏は最悪だ。こんなに彼は政治的センスが悪かったかしら・・とため息が出るほど、非道い歩み方だ。特に「国家戦略局」を事実上廃止するなんて、僕のように海外の仕事に専念していて、”日本のアジアのなかのプレゼンスが急落下している現実”に対峙している人間からすると、本当に裏切りだぜ。東京工業大学で、中核派の邪魔をもろともせず、独自のベトナム反戦の市民運動を行っていた御仁の構想力は何処へいたのか。だいたい、荒井なんとかという、どうしようもない面(つら)の男を戦略局担当大臣に据えたときから、心配していたがね。

まあいいや。そういう管の現状だから、海江田の気持ちは理解しないわけではないが、田中派の残滓の小沢を活用しての党首奪取は、方法論に誤りがある。もちろん、ご当人としては、敗北前提で拮抗し民主党の新しい首脳(都市部ネットワーク)に躍り出たいのだろうが、田中派と元社会党労組出身者の連合である小沢派を利用するのは、鮮烈な政治目的を堅持できていないからにすぎない、と断じざるを得ないぜ。海江田君、はっきり言って、都知事へのステップと考えているなら、今もっと世界に通用するメッセージを発してくれ。都知事とか、世界銀行総裁の道は、決して遠くないのだよ。今、松木だの、高島だの貧相バカ面の労組(ろうくみ)あがり連中と組むのだけはよしてくれ。国民が全く無関心の民主党政局に惑わされないで欲しい。たのむよ、海江田さん。

■ところで、NHKの企業買収の争闘を描く「ハゲタカ」は、傑作の連続ドラマだね。昨日の深夜の放映は再放送だ。以前、2年前にも見た。テレビドラマで同じモノを2度も見ているなんて初めてだね。スピード感といい、緊張感といい、心地よいね。銀行の非情で実は稚拙な体質。ハゲタカと言われる”前衛”の群れ。このハゲタカにしか資本主義の構造の冷酷さが理解できないのか。金の亡者と世捨て人の表裏。大森南朋がいいねえ。演技力は凄まじいと言っていいだろう。彼の親父の演技と舞踏は、数十年前に何度もテントの薄暗い演劇空間で見せていただいていたものだ。あの麿赤児だ。「ハゲタカ」は配役もほぼ同様で、劇場映画もあったようだが、今度NHKで放映するらしい。7日夜。残念ながら僕は在ハノイだ。

■書籍を本屋で購入するとき、僕はたいていワクワク感を味わう。大著の場合はなおさらだ。大佛次郎の幕末から戊辰戦争を描いた、そして彼の絶筆となった「天皇の世紀」を手にとって、その場で決めたので、出会いというか、選択のそのひらめきの確信のうれしさもあり、ひとしおの感がある。新しく刊行が始まった文春の文庫だが、約500ページもので12巻の大ボリュームだ。去年苦心しながらも充実した読書時間を僕に与えてくれたドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」(光文社:亀山郁夫訳)でさえ、各巻400〜500ページで5巻もの。あれに比しても、「天皇の世紀」は、大分なモノである。はじめ、荻原延寿の「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」が有れば買おうとしていたが無い。所沢じゃあ、しゃーねーか、ということで、仕方なく長編大作が読みたいというだけで、本屋であさり始めた。山岡荘八の「徳川家康」に浸るほどまだ老人じゃあないし、円地文子、瀬戸内寂聴や橋本治の「源氏物語」は、まだ、どれを選ぶか整理がついていないし、やっぱー吉川英治の「宮本武蔵」にしようかな、とも思った。最近、新渡戸稲造の「BUSHIDO」と武蔵の「五輪書」も読んでいたからね。でも、何か吹っ切れないモノがあって、踏み切れない。よくその正体がつかめないのだが、どうも「極めた人」「達人」の心境に入り込むのが、僕の体質じゃあないんじゃあないか、僕の強い関心はどうも違うらしい。

僕が高校三年生の春にビートルズが来日した。法被着てタラップを降りてくる写真で有名な来日だ。若い人には信じられないだろうが、武道館公演に高校生を行かせまいと、特に東京の教育委員会は必死に防波堤を張ったのだった。田舎の僕らの仙台はどんなであったかは、よく覚えていない。でも、東京の厳戒態勢は、ロックは社会の害毒だと権力側が信じ込んでいたということをはっきり物語っていた。マスコミも文化人もあまり物言わぬ中、大佛次郎氏だけは敢然と「ビートルズ公演に行った。会場は騒がしかったが、イエスタディーは美しい。名曲だ」と朝日新聞の夕刊の文化欄に大佛さんの顔写真入りで、ビートルズを養護した。僕などは目頭に涙が滲んで来るほど嬉しかったぜ。僕は何回かその記事を読み返したモノだ。大人にもまともな人物がいると、この記事で初めて知ったわけだ。だから、17才の時から大佛次郎さんには、漠然とだが強い信頼を寄せてきた。信じられる希有な大人として。

僕の親父の家族が経営していた「仙台中央劇場」は新東宝ほぼ専門館であったので、鞍馬天狗はそこで大分見た。言うまでもない大佛次郎の作家としてのデビューはこの天下無敵の鞍馬天狗だ。勝海舟と鞍馬天狗がお堀に浮かぶ小舟に乗って、「江戸城の明け渡し」について会談をするシーンを今でも鮮明に覚えている。僕らは、母親から風呂敷をかり、頭巾をかむり何度鞍馬天狗を演じ、チャンバラを繰り広げたのだろうか。言うまでもない。役者嵐寛寿郎がいたから、鞍馬天狗も大衆化したと言っていいだろう。なにせ、通称アラカンは、東千代の助、中村錦之助、や裕次郎や、長島と王が、出てくる前の大スターであったからね。マンガのヒーローには赤胴鈴之がいたっけ。アラカンのエピソードが凄いよ。アラカンの付き人の嵐寿之助は、「ある時ドロボーに入られたが、“警察に届けたらあかんで〜、折角ゼニつかんで喜んでるのに、気の毒やさかい”という人ですからね・・・“他人のためには金は惜しまん、おのれは最低必要なものがあればよい”という精神、これ昔からなんですわ。神様みたいな人です。」と証言している、とものの本に書いてあった。大佛さんはこういう本物のスターも誕生させたということだろう。

さて、僕が67年4月に早稲田に入って学生運動というか、いきなりベトナム反戦闘争に関与し雰囲気とか体で覚え始めていて、しばらくしたら、まさにこの「天皇の世紀」は、朝日新聞に連載が始まった。僕は板橋や下落合、江古田あたりの3畳一間の下宿やら、友人の家々を放浪していたので、新聞を毎月自分でとっていたのは、限られた短期間に過ぎなかっただろうと思う。だから、タイトルを目にし、連載の存在は知っていたが読むことは皆無であった。それは当時の僕らにとって、やはりタイトルが理解しにくかった。左翼急進主義の観念に支配されていた僕らは肉体から轟音炸裂ような熱気振りまいてキャンパスや街頭の戦闘現場を闊歩していた風だ。だからそんな僕に「天皇」という文字の奥にあるものなど全く読解不能であって、拒絶的対応をしていたのだろう。だから、当時は「大佛さん、どうなってんの?」というような気分で、それもテーマが明治維新ではなく”昭和裕仁天皇の一代記”と思い込んでいたと思う。この無教養でバカさ加減も最悪だが、18、19才ぐらいで、日本帝国主義に打ち勝とうと傲慢に夢想していた頭と肉体だから、そのあたりが限度であったようだ。

30才のころ何故か続けて、山田風太郎「戦中派不戦日記」と大佛次郎の「敗戦日記」を同じ頃読んだ記憶がある。続けた意味は特にないのだとおもうが、二つの作品共に意識して8月15日のページをまず、一旦覗き、それから巻頭に戻ったと記憶するから、ぼくは、明治革命にしても、アジア太平洋戦争の敗北にしても、実は人と人の日常は変わらないのだということを、15日があれば次の日に普通の16日が作家やその家族たちにやって来ていたということを確認できて、ホッとしたことをはっきりと覚えている。
「天皇の世紀」第一巻を開くと、明治天皇の生誕と取り巻く古式な環境、続いて渡辺崋山と高野長英の誠実に時代と奮闘するがまだ時局に恵まれない不運な人生が資料豊富に描かれる。
■《ブログご高覧感謝》
僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
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・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2010年7月25日日曜日

僕の「風に吹かれて」

最近、エビスビールのコマーシャルで、風の国のビールですと役所広司がつぶやいて、旨そうにビールを飲んでいた。風の名称がほんとに2000もあるのかいな、と思いつつ、風という浪漫がもつ響きで、ボブ・ディランを思い起こした。

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
Yes, 'n' how many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, 'n' how many times must the cannon balls fly
Before they're forever banned?
The answer, my friend, is blowin' in the wind,
The answer is blowin' in the wind.

どれだけ遠くまで歩けば大人になれるの?
どれだけ金を払えば満足できるの?
どれだけミサイルが飛んだら戦争が終わるの?

その答えは風の中さ 風が知ってるだけさ
・・・・
翻訳は数々あるが、これは忌野清志郎の翻訳である。ディランは、当時の英語詩翻訳の代表格であった片桐ユズル氏の訳詞が気に入っていなかったという風評も強く、未だ定番の訳がない。特にもっとも大切なラスト2行のニュアンスが、微妙だね。
英語の苦手な僕ですが、僕なりの解釈はこうだ。

「(友よ!)答とは(昔から)風の中にあるものさ。答はいつも風の中で舞っている。」

この詩は解説するまでもなく、1960年代の全世界の若者の心象を現していたのであった。当時、ジョンバエズや、PPMとかの厭戦的なフォークはいくらもあったが、全世界的なベトナム反戦闘争の時代の若者の思いと声に応えていた歌はこの「風に吹かれて」であった。僕は特別に音楽少年ではなかったが、中学3年でビートルズの衝撃を受けていた僕は、ローリングストーンズも聞き始めていて、「洋楽」一辺倒の音楽ライフに浸っていた。小島正雄の9500万人のポピュラーリクエストくらいしか田舎の高校生に情報はなかったが、ニール・セダカ、ポールとポーラ、カスケーズ、シルビーバルタン、リトル・ぺぎー・マーチ(I WILL FOLLOW HIMで大ヒットした彼女をいま、調べたら1948年生まれ。僕と同年齢であった。かなり大人に見えたのに)、ビージーズ、スコット・マッケンジー、フランス・ギャルとか、きら星が限りなく居て、ラジオからや買った来たドーナッツ盤から僕らのミュージックを解き放っていた。僕らは小学校の時から、「うちのママは世界一」「パパ大好き」「名犬リンチンチン」「名犬ラッシー」「サーフサイド6」「ルート66」「ビーバーちゃん」などのアメリカ製テレビドラマの洪水の中で育ったので、僕らのあこがれはアメリカだし、価値基準もそのなかに取り込まれていたので、日本の「流行歌」や演歌などに当時は僕ら聞く耳を全く持っていなかった。もちろん舟木一夫や橋幸夫とか、今となっては懐かしいけれどね・・。

1966年秋だと思う。仙台二高の映画愛好会(学校そばの河原で昼間から宴会して酔っぱらい、後日、学校に解散させたれた)の会長であった僕に、音楽好きの後輩の小野寺が、頭ぼうぼうで髪が逆立ちしているような風貌だが、顔は憂いがあるようなハンサム男の写真を僕に見せてくれた。これが、噂のボブ・ディランだという。奴が「彼は、朝起きて髪もとかさず、そのままレコーディングにいったり」「いつも風来坊で、レコード会社も困っているらしい」と、かなり低レベルの評論を映画愛好会の狭い部室で、ぼくに言ったものだ。「スゲーナー」僕なんかそれだけで、ぱっと未来が見えた気がしたもんだ。日本の高校生はみんな「バイタリス」を頭に振りかけ櫛を入れていた時代にだ。そのとき僕は、本当に衝撃を受けた。これが、あのボブ・ディランか。そうか、あちらの文化は今そうなっているのか。ハリウッド製アメリカのテレビドラマは幻想なのだった。その写真を見つめ、僕はビートルズやストーンズとも違い、つまり音楽の革命性だけでない俺たちの時代の生き方を一瞬にして、予見できたような気がした。僕らのまだ見ぬ未来をね。ああそういうことか、僕らには、もう一つの生き方があるんだ、とぼくはそう合点した。たかだか5分ぐらいのたわいない高校生の会話の中だったが、人生を変えた一瞬であったのかもしれない。「よし、東京へいって、どうしようもない大人たちに闘いを挑もう」と僕は決意した。

ボブ・ディランの「風に吹かれて」とか「Like a Rolling Stone」を聞くと、当時の友人たちの顔や心情、そして妻との出会いを思い出してしまう。いつの間にか、僕も老人になってきたと言うことなのだろうナ。
you tube で「Bob Dylan Blowin' In the Wind」とか「like a rolling stone youtube」で検索して開くとボブディランだけでなく、世界のアーチストたちによるカバーがたくさん載っている。

音楽は世界を変える、なんていうフレーズはきらいで、「へっ」何言ってんだよ、具体的な闘いだけが状況を突破するのだ、と二十歳前後は真剣に思考していた。でもやはり、音楽は世界を変えうるパワーを持っている。それはいま、はっきりとしているね。若者が思うほど世の中は急激には変化しない。そう、答はいつも風の中で舞(ま)っているのさ。

2010年7月22日木曜日

中小企業20社のトップと・・/ 「武士道BUSHIDO」

6月と7月にハノイや日本で企業のTOP約20名の方々と話す機会があった。急に増えてきた。当校の学生を何度か採用いただいている企業もあれば、初めての企業も多い。いま、総じて言えることは、ベトナムへの関心、とくに進出と人材の確保に関心が高まっていることだ。2008年の秋のリーマンショック以降、ベトナムへの進出などを計画していた日本企業の大半が、計画の中止や、調査の中止を余儀なくされた。いろんな関係者の話を総合すると数千社はあったようだ。まさにそうだと思うよ。当校や当NPOに相談されつつ、待機していた企業だけでも20社以上はあるモノね。その関心がいま、ようやくかなりの勢いで「再開」へと動きだしたのだ。だから、今月と先月お会いした社長さんらの熱意はかなりパワフルだし、目的がリアルだ。

初めての方も、当校卒業生がいる知人の社長の評価などを聞かれて安心して動き出したようだ。特に地方の企業は地元との狭間の中で、アジア進出は簡単ではなく複雑な要素もある。地元を簡単に置いてきぼりにはできない。じゃあ、まずは人材の確保から、と考えている企業もいくつかあるようだ。不況はまだ明けていないし、政治は相変わらず三流状態。環境が良くなったわけではない。が、中小企業のTOPお一人お一人の「次代」への意志が積極方向に現れている様な気がする。もう、状況を待てないのだ。待つ時間がもったいないのだろう。

■ 以下は、またまた、原稿からのコピーだ。忙しくなってきたからね。どうにも書く時間がね。例のベトナム人青年向けの著作の一部です。
「日本人の倫理感、日本人の武士道」・・・参考になるはずだぜ。ベトナムのサムライ君!

日本人にもいい加減な人も、本当に悪い人も大勢いるさ。他の国と全く変わらないだろう。でも、仕事に関していうと、与えられた仕事を丁寧に責任を持って完遂しようとする人々が他のたいていの国より多いことは間違いなくいえる。僕が主観で言っているのではなく、世界のジャーナリズムや学識経験者がいろいろなところで書いている。にもかかわらず、日本人の多くは宗教者ではない、ほとんど宗教には関心がない人が多いと言っておこう。お寺に行くのは観光で行く場合が多いし、先祖や家族のお墓にお花を手向け、お線香を上げるのはせいぜい年に一回だけだ。毎日曜日に教会のミサに出席するキリスト者はもっと少ない、国民のほんの一部だ。ベトナムは仏教国だ。ラオスもカンボジアもミャンマーもそうだろう。生活全体の指針とか規範は仏教で、それに先祖を敬う民衆の地元の宗教が加味されたものだろう。イスラムの国々はさらにその宗教的な戒律はいまでも厳しいのが一般的だ。アメリカは多勢がプロテスタントであり、イギリスは旧教か英国国教会だし、ヨーロッパの諸国はそれなりにカトリックを国の心の糧にしてきた。

でも、日本人から見るとキリスト者であった旧南ベトナムの支配者がベトナム人に対し非道なことを行っていたり、米軍の慰問(いもん)に神父さんがきて、「今からベトナム人を殺しに行く米軍兵士の無事を祈ったり」まったく理解ができないこともおおいぜ。では、日本はどうか。日本人の生活を律している価値基準は多様な伝統的事象が混在していることは確かだ。仏教、道教、儒教の影響を心の底流で受けており、だから何故か知らなくてもいつの間にか生活のあり方は、それに無意識に左右されている。

1900年に国際連盟事務局次長であり、教育者(東京女子大学創設)でキリスト者であった新渡戸稲造博士が英語で「BUSHIDO」を出版した。流麗な英語で見事に日本人の精神構造を書いたものとして、欧米だけでなく日本語版もあり日本の知識層にも強い影響を与えた。もともとは、西洋のキリスト教が西洋人の生活の規範となっていることと同様の「神」が、日本には居ないのか?宗教がないのに日本人は何を心のよりどころにして、生活の規範やひとりひとりの「良心」を形作っているのかという、インテリの友人たちの質問に全面的に応えるために執筆したのだ。武士道精神は「葉隠」や宮本武蔵の「五輪書」などの文書はあるけれど、経典がある宗教ではないので、明確な形があるわけではないが、日本人の責任感や倫理感、公平感、質実剛健な生活スタイルなどがそこに如実に表されている。特に「礼」、「誠」、「克己」などが、現代の日本の生活にまで脈々と流れていることを西洋の騎士道など似た例題をうまく引用して丁寧に綴ってある。「礼は寛容にして慈愛あり、礼は妬まず、驕(たかぶ)らず、己の利を求めず・・」と、明確に書いている。武士道、いや、日本人の心の持ち方の原点だね。「ただし、誠実と信頼がなければ、礼は茶番であるともいわれている」とも書かれている。むずかしいね。わかるかい?ベトナムのサムライ君。

「BUSHIDO」にはこうもかかれている。「富の道は、誠や名誉の道ではない」と。また「克己」は自分の妥協的ないい加減さや、楽をもとめる気持ちに打ち勝つ心のことだ、とね。このようなことが、この本にわかりやすく記述されている。英語が得意な人は英語版で読むと良いよ。読書家の青年は気づいたかもしれないが、この武士道精神のコアになっているものは孔子の儒教であり、孟子の道教なのだ。わかるかい?さらに、武士道や日本的な考え方と同時に僕ら日本人は、高校や大学でボルテール、モンテスキュー、ルソー、ロックなどを一応少し学んでいて、フランス革命で作られた人権宣言などもアジア人ではあるが、いつの間にか僕らの常識的な思考方法に影響を与えてきた。第二次世界大戦の敗戦後作られた現在の「日本国憲法」もその影響をもろに受けている。したがって、戦後生まれの僕らの「正義感」や思考感覚は、その憲法とアメリカからの生活の価値基準で形作られてきた。つまり「ヒューマンな感覚」という奴さ。とても大切なものだよ。

その上、我々中高年の世代はカント、キルケゴール、ニーチェ、ヘーゲル、マルクス、レーニン、ウエーバーなどを自分らで読みこなすことが常識であったので、西洋の思想的な影響を現代の若者より多大に受けた。しかし、東アジアの辺境にある日本人である自分の内部の底流に流れているものは、目に見えないが思考感覚や日常の所作などの中に、確実に儒教や武士道の精神が流れているのだ。その精神が西洋思想と複合しながらも僕ら日本人の内面の主な規範や基準となっているのだ。最近、課題になっていることだが、僕ら戦後の日本人の感覚は「個人主義」傾向が強くあらわれており、「公共」というもののとらえ方が、おろそかになっていた事は否めない。いま、日本ではまだまだ一部ではあるが、その隙間を埋めるような潮流も現れてきた。ボランティア活動が若者やリタイアした僕らの世代を中心に胎動しつあるのだ。グランドワークとか、プロボノというシステムなども新しい形態の一つだろう。

2010年7月14日水曜日

ユニクロとグラミン銀行

まあ、最近僕が購入する衣料品の大半はユニクロだ。お金もないし、行けばほどほどおしゃれというか、「すっきり系」の衣料品が買えるからだ。言ってしまえば、ありがたいということだね。下着から、シャーツ、ベルト、靴下までいやはや、ほとんどだね。そのユニクロがバングラディッシュのグラミン銀行(貧民銀行)と共同で事業を始めるらしい。うれしいね、すごいね、柳井さん。やっとこういう企業が現れてきたんだね、ニッポンにも。僕が1990年代初め、フィランソロピーの企画会社シグフロントをたちあげて、日本企業の大手を中心に「企業の社会貢献」の提案活動をしていた頃は、本気ではない企業もおおく閉口したし、疲れたことが多かった。「納税で十分。それが社会貢献というものさ」とか「アフリカあたりに、寄付しておかないと、批判出そうだしね」とか「おつきあいさ」みたいなことを平気で言っている担当もおおく、一部の積極派企業以外は、ビジネスで”使い物にならないおじさん”のあてがいぶち人事で、やらせられている人が多かったんだ。だから、ひねた人物もおおかった。特に大手商社の「**環境企画室」「企業市民***」「21世紀企画**」とか、たいそうな名称の割には実態はお寒かった。当時の明治生命や日産などは、担当者の方も熱心で教養の豊かな人で、ずいぶんお教えいただいたものだ。当時まだCSRなどという言葉はなく、コーポレートシチズンシップか、フィランソロピーといわれ、マスコミでも取り上げられつつあった。僕もテレビの仕事や広告の表層的おべんちゃら仕事にうんざりしていて、40代はまじめにやろうと言うことで、学生時代の正義感の勘を取り戻して、取り組み始めたのであった。

アメリカでは当時「BSR ビジネス フォー ソーシャル リスポンシビリティー」という団体が産声をあげていて、朝日新聞の編集委員であった下村満子さんと一緒にそのBSRのボストン大会に参加した。当時の僕の会社シグフロントは、日本企業の加入第一号となった。確か次年度も行ったね。サンフランシスコだった。そこで、学んだことは経営者の徹底した企業市民意識であった。彼らは経常利益の10%程度を貧しい子供たちの奉仕団体や医療団体に寄付し、また、アフリカ系住民の雇用拡大など協力活動を細やかにしていた。つまり、アメリカの貧しさと正面から対峙しようとしていた。もちろん日本と歴史も事情も大いに違うので、並列には語れない。語れないが、その本気さが違うのだった。
アップル、リーバイス、そのころ新進のシスコシステムズ、コカコーラ、アベーダ(エスティーローダに買収されたが)などが、幹事役でがんばっていた。まだ、確か当時200社ぐらいの小さな萌芽であったが、大統領夫人ヒラリーさんが参加したり、「スゲー」と僕に言わしめた。

経団連の1%クラブと提携させていただき、協力や後援をもらい、2度青山の国連大学の大ホールで僕の会社が主催で「フィランソロピーの国際大会」を挙行した。アップルの協賛などいただいてね(いまマクドナルドの社長である原田さんが当時アップルの担当の部長であった)。引退された経団連の房野専務理事も僕らの活動の面倒をずいぶんと見てくれた。房野専務の下にいらした上田さんにもいろいろ協力いただいた。上田さんはP・ドラッカーの一連の翻訳者で有名な方だ。
話をもどそう。ともかく、行動がいつも叫ばれていたのに、いつも日本的に「寄付金」で自己満足してきた。そうでない活動もありますよ、もちろん。大企業の方々が呼びかけ合って、富士山の掃除をする、良いことです。NYハーレムで、日本の証券会社の社員がおそろいのTシャツ着て日曜日に大掃除をする。社員の寄付金に倍上乗せして、地震の被災地に寄付する、あるいは物資を送る。もちろん、すばらしいし、それに誰も文句はいえないさ。そういうあり方もあっていいのさ。だけれど、どこか、それだけではない、もっと違う方向があるのではないかと、考えることも実は多かった。
その答えが、やっぱり、ユニクロなどのありかただろうね。そう、これが初めてではない。雇用促進をテーマに国内外で展開しているチームやNPOもたくさんある。グランドワークという考え方もその一つだし、最近増え始めたプロボノシステムもそうだろう。専門性を活かして、共同・協働を模索する試みさ。でも、ユニクロは世界企業として、取り組む訳だから、規模がちがう。すごいよ。
グラミン銀行のムハマド・ユヌス総裁が、語っている。「ユニクロの持つ優れた技術は、ビジネスのためだけではなく、世界の問題解決のために使うべきだ。(合弁は)寒さに苦しんでいる多くの人のためになる」と。ユヌスさんは2006年、ノーベル平和賞を受賞している。

2010年7月10日土曜日

ベトナム航空が不安だ

今読んでいる勝海舟の「氷川清話 ・江藤淳編」を不覚にもハノイの当校の門の鍵を開けようとした際、左腕脇に挟んで解錠しようとして、思わず本が左脇から落下、水たまりにチャポンさ。それも、いかにもキレイでない感じの水たまり。慌てて、洗ってベランダのテーブル上で干してみたが、やっぱーよれよれ文庫本に成りはてた。若いとき本をコーヒーかお茶でぬらして天日に曝したこともそういえばあった。20代の妻と一緒だった、懐かしくて胸キュンだぜ。ネクタイやYシャーツのよれない干し方は知らないでないが、本はどうしたらいいのか。いきなりどうして、あそこまで皺くしゃにかつ大胆に変形しちまうのだろう。製本というものが、かなり紙に無理を強いて整えた振りをしているとしか言えないほど、勝海舟の本は踊り狂った有様となった。本日、ハノイは快晴の土曜日だ。上半身裸で、さてさて、ベトナム航空の事、書いてやれ。

■ 僕はベトナム航空に毎年12〜13回、今年もすでに7回ベトナム航空のみを使って日本とハノイを往復している。つごう150回以上利用してきたはずだ。以前は日航とのコードシェア便も多く、ベトナム航空のチケットでも日航の機体で、かつ日航のキャビンアテンダントの場合も少なくなかった。その際は実は「おっ、今日は日航か」と安心したものだ。正確に言うと日航なら、映画を確実に見ることができるのでのホッとなのだがね。日航はあのていたらくだから、ベトナム航空との提携の度合いが減ったようで、関空からの便など、日航は確か撤退したとおもう。そういう意味ではベトナム航空は自立して営業から、整備までやらなくてはいけない環境にあるはずだと思う。ところが、最近のベトナム航空の機内の中の破損状況はひどい。一昨日、ハノイに来たときの事を話そう。機内の中央には、天井の中にしまわれて良いはずの大きなモニターが故障で、出しっぱなし、画面ではなにやら映像が放映されているのだが、雑誌を破いたような紙を画面に「すみません、これ故障です」とわびた風情で、貼り付けてあるひどさ。さて、僕の前の背もたれにある小型モニターは、点く点かない以前に手元の操作機器がのコードがちぎれていて、点くはずもない状況。男性のアテンダントに告げたら、「まいったなあ」とひとこといって、隣の席の雑誌ポケットにねじ込んだ。一件落着と言うことだろう。

次回の機内掃除の時、掃除の人が、それを見つけてもメンテの担当でないだろうから、例の肘掛けにある「操作機器収納」にただはめて、事は終了し、また、次の客が文句をいい、未解決のままことは推移するのだろう。推して知るべし。こんな調子だから、僕の周りのひとの20名ぐらいのお客さんは、みんなモニター故障らしいし、読書用のランプさえもつかないんだぜ。これが、初めて?というと、そうじゃあないぜ。最近とみに増えている。日航の機体がなつかしい。で、トイレにいっても、手を洗う水が出ないんだぜ。ちょっと非道い・・。でも、2回目に行ったときは、ミネラルウオーターの大瓶が無造作においてあった。たぶん、これ使ってね、ということだろう。書いているとあれこれ、以前のことも思い出して、疲れるので、ここで「事実の開陳」は終了しておく。問題は、じつは、こういう現象だけでないのだよ。これはベトナム空港の幹部から一般の社員、アテンダントまで仕事に対する関心についての重大な要素を指摘しておきたいのだ。

本年初めて、ハノイの市バスに2回乗った。ブオンと娘のりん、ブオンの母親と4人でね。ハノイのバスはヒュンダイ製、ベンツ製などがある。元々新車だと思う。バスの運行はまだ、5,6年しか経っていないのに、僕が乗った二回共に20〜30年ぐらい使いくたびれた、車体と車内に見えたのであった。たぶん、購入して一回もしっかり拭き掃除などしたことがない、錆が出そうなところには油で拭いたり、まったくしていそうもないバスの車内なのだ。運転手は陽気で、母親とはなしたり、他の数人のお客と冗談を言っていたので、雰囲気は明るく悪くはない。だけれど、僕は公共への関心や仕事への責任についてを考えながら、バスに揺られていた。このことは決してバスの車内だけのことではないのさ。飛行機の機内、ビルの構内、道路も同じ事なんだ。市民としての責任、公共意識、仕事に対する責任感、すべて共通していることなんだ。僕が言いたいのはベトナムだけじゃあないよ、多くの世界の国に共通した課題なんだ。このあたりはこのブログの2月27日「ベトナムのテト スローな元旦」に詳しく書いておいた。

日本のメンテナンスを理想として語るつもりは全くないが、美しさや、清潔さを保とうという意志は日本に昔からあった。あるとき、東南アジアの有名な政治家が、東京の地下鉄のエスカレーターの回る手すりを拭いている清掃員の老人を見て感嘆の声をあげたそうだ。「そこまで掃除しているのか」と。だいぶ前に雑誌に載っていた。お客様に責任を果たす。お客様に不快感を感じさせない仕事。日本人は元来から、自分を中心にした思考や感覚を紡いでこなかった、良いも悪いも、周囲のと関係で思考と感覚を設定してきた。他人が先なのだ。他人の感情や他人の主張がまず、先に気になることであり、自分は後回し。「空気を読む」とは、まさに言い得て妙だ。日本人の思考を少しおとしめて書いたが、この感覚は使い方によってずいぶん威力をはっきできる感覚なのだと思う。それをうまく使うと、他人に気を遣い、自分を律して責任有る仕事ぶりを発揮できる。日本人はこの「気遣い」分野では、世界に冠たるメンテナンスやホスピタリティーを発揮してきた。その技術の教育も膨大な蓄積がある。

ベトナム航空に不安を持つのは、自分の仕事に関心が薄いとしか思われないスタッフが多いと言うことだ。例えば、全部とは言わないが、機内でスマイルで仕事しているアテンダントはほぼ皆無だ。とくに女性アテンダントは無表情はまだ良い方で、苦痛の表情の者すら多いぜ。その上機内作業も、事務的で無造作だ。ホスピタリティーの「ホ」の字もない。だったらやめろ、と言いたくなるほど非道い。5年ほど前、麗しいアテンダントとしばらくつきあって居たので、彼女たちに言いたくないし、この会社には知り合いもいないわけじゃあない。でも、年間30往復もしている「顧客」の僕だから、あえて言ってるのだ。自分の与えられた仕事に関心が薄い社員の多い企業は末路が見えてくる。ただの普通の企業なら自業自得で、じゃあ、さらばでことは済むが、この企業は事故に直結する。機内のクルーは、機内のホスピタリティつまり、快適環境に常に責任を持たねばならない、僕が言うまでもないさ。機内がこの調子なのに、機体の修理メンテ工場のスタッフは、自分の仕事に極めて関心が高いのだろうか。僕はそうは思えない。企業の中の気分が全社的に連動してしまうのは、世の常さ。ブラックボックスの中だから、僕らはまったく、知らないで毎日利用している。

少なくとも、機内のビデオ機械、ランプなどの装置機械、水道の装置のメンテもほとんど関心をもたない機内クルーと、修理工場のスタッフは、どこがちがうか、誰か証明できるのか。機内のクルー・アテンダントは、ベトナムの労働者の中できわめて高い待遇だ。だけれどもメンテスタッフも最高級の待遇で、優秀正社員エンジニアでメンテナンスの牙城を築いているのだろうか。機内の電気系、電子系のメンテの担当が誰だか解らないが、このいい加減さは、機体の整備の細心の注意と技術がきちんと発揮できる環境にあるのかが疑わしく思えてしまう。かつては成田では日航がメンテを担当していたと聞く。さて、今はどうなのだろうか。ノイバイ空港では誰が、メンテをしているのか。僕がベトナムに来始めた1993年当時はキャセイが担当していたと聞いていたが・・。

最悪の事態とかの不安を煽る気などさらさらない。が、ベトナム常連の日本企業の人たちは、ベトナム航空に乗らない人が多い現実。乗らない理由はいろいろあるので、これ以外にも。ここではあえて書かないが、料金が高くともみんな日航か、ANAさ。ベトナム航空の幹部はいま、どう考えているのだろうか。現場の実態をどこまで把握しているのだろうか。ぼくは、たぶん今後もベトナム航空にのるだろう。だから、言いたいのさ。このブログは、結構読んでいる人も居るようだし、ベトナム関係者も多いらしい。いつか、ベトナム航空関係者も読むことになるだろう。むしろ、そうあって欲しい。少なくとも日本人スタッフからでも、改善の本気の声をあげてほしい。それも至急にね。

2010年7月3日土曜日

★ 福翁自伝の痛快さ / 戦後の僕らのバイタリティー

いま、福沢先生の「福翁自伝」を読んでいる。まもなく終わる。思い起こすと、この本は息子が塾高に入学したころ、女房が読んでいて勧められ、ちょっと読んだが、なぜかすぐやめていた。何故なのか思い出せない。こんなに痛快で人を爽快にさせる本はそう滅多にないのに、当時なぜ気付かず、たぶん10ページ程度で中断したのか。まあ、いいや。福沢諭吉という人物が日本の教育や社会を形作る規範などに与えた影響は本当に強烈だ。まさに2010年の僕が読んで、このラジカリストの深さに呆れるよ。現代人の僕を卒倒させるほどの本質を堂々と謳っているのだぜ、江戸末期から明治中期に。今更ながら、僕が言うのも恥ずかしいが、慶応の人は幸せだよ。この「福翁自伝」とか「学問のすすめ」などをたぶん中学高校で読むのだろうと思う。慶応出て、バカなやつも結構知ってるが、健全でまっとうな人物がすぐれて多い。早稲田出て良い人物は呆れるほど少ないぜ。だから早稲田にいた妻晃子が、息子を塾高に入れた理由もわかるよ。
慶応にはこの啓蒙家で冒険家で教育者で語学者の福沢の意志が今でも脈々と引き継がれているからだろう。日本における自立した「市民」第一号と言っていいと思う。総理大臣やって「在野」を語る大隈さんとは、いっちゃあ悪いが、比較できない才覚が福沢先生にはある。
と、いいながら、

■ また、ブログ書いていないので、またまた、原稿の一部からコピーしてきた。ベトナムで発行予定の青年向け著作さ。今秋ベトナム全国の本屋に並ぶ予定だ。
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戦後の僕らのバイタリティー
日本は明治時代、西洋に追いつけ追い越せで富国強兵を歩み、1894年の日清戦争と1905年の日露戦争という大国との戦争に勝利した。その自信で比較的のんびりしていた大正時代をすぎ、昭和に入ると、国力にますます傲慢(ごうまん)さが現れてきていた。「神の国」は負けるはずがないと気負ったのだった。軍部の台頭と天皇の神格化がだんだん日本を覆うようになり、中国や朝鮮への出兵は、庶民レベルでさえも当然視されてきた。そして現在の北朝鮮と似たような国家になってしまったわけだが、北朝鮮より悪いのは、“やらされているのではなく、自らそう信じて協力していた国民が多い”ことだった。実はここが、国民性であり、日本人の問題点でもあるのだ。戦後、うまく転がると復興の国民的なパワーとなるのだから、国民性とは、実にやっかいなものなのである。

アメリカは、負けそうな日本に追い打ちをかけるように、1945年8月に広島と長崎に原爆を試験投下した。その前の3月には東京に猛爆を加えて、10万人を殺した。戦争にも国際法があり、関係ない市民を殺害した場合、罰せられる。それにもかかわらず、「民主主義の国アメリカ」は、ジェノサイド(皆殺し)を日本ですでに実行し、その成果をまた、1960年代に君たちの国ベトナムで再現した。歴史的にこのような市民を巻き込んで皆殺しにする犯罪的な戦争を繰り返し、罰せられない国はほかにないぜ。まあ、この話は別な機会にゆずり、日本の戦後のバイタリティーにテーマを戻す。

僕は1948年生まれである。1945年8月に敗戦なので、3年後に生まれたわけだ。日本では1947〜1949年生まれを団塊の世代(ベビーブーマー)という。戦争がおわり、軍国主義が壊滅し、明るい青空の下、結婚がブームとなり若い夫婦が子供を次々に産んだのであった。一気にそのころ急激に200万人の大量の赤ん坊が数年間続けて生まれた。日本ではこの世代を団塊(だんかい)の世代という。貧しくて、何もないが愛と将来への希望にあふれていたと、親の世代はよく言っていた。
そんな中で日本の経済や産業は立ち上がっていったのだ。東京無線工業(ソニー)やホンダ、京都セラミックなどを筆頭に無名だが、バイタリティーあふれる企業が胎動していった。流通ではスーパーのダイエーなどが、勃興(ぼっこう)していた。その頃の国民的な娯楽は映画とラジオであった。家族そろって時々行く映画とか、夕方に、工場から帰ってきたお父さんと一緒にラジオをきくという「団らん」は、戦争のない、平和な小さな幸せであった。ベトナムの若者は覚えていないかもしれないが1990年代に日本の有名なテレビドラマ「おしん」が放映され、ベトナムだけでなく、アジア一帯、ロシア、ヨーロッパまで大反響を巻き起こしたのだ。あの苦しい生活をしながらも明るく、がんばって幸せをつかもうとする少女の姿は、世界に感動を与えたのだ。じつは、まさに、「おしん」同様の生活環境の中で日本人はこぞって、幸せを模索したのさ。みんなで協力し合ってね。

で、当時の明るさの象徴は、1949年の湯川秀樹博士のノーベル物理学賞の受賞だった。自信が無くなっていた国民にとって、「やっぱり、僕らはすごいんだあ」と思ったものだ。この自信は大きかった。
このころ、1950年代、我が日本の中小産業はいかに安く作るかで健闘していた。大学との連携した研究開発はまだまだ行われて居らず自前で思い切って優秀学生を集めて研究部門を拡大していった。オートバイを、トランジスターを、セラミックを、自動車をいかに安く合理的に、早く作るかに腐心(ふしん)した。何を作るかではなく、“いかにつくるか”の競争であった。だから、いまでは、中国が世界の技術の真似をしてひんしゅくを買っているが、当時の日本製品は真似で成り立っていたし、すぐ壊れるで、有名であったのだ。まさに同じ事が起きている。でも現在の中国の技術の剽窃(ひょうせつ)は、乱暴で、その上ずるい手段で技術を盗むことを国が後押ししていると聞く。日本は「基本構造」はまねたりしたが、それを自分流にアレンジして内容を進化させてきたんだ。身勝手中国企業とは違うところだ。
日本は、真似をいち早く脱して、物作りといわれる「最新技術と職人芸」の合わせ技のような独特のシステムを各企業それぞれが編み出していった。

大変有名な教育者であり政治家で慶応大学の創設者の福沢諭吉の「福翁自伝」にこんな事が書いてある。「江戸時代にアメリカのペリーが黒船で日本に来てから、たった7年後には、日本人だけで咸臨丸は太平洋をわたった。黒船を見てから航海術を学習し、アメリカに行けるまでたったの7年でやり遂げる日本人の好奇心と探求心そして勇気は特別な物だろう」と。そういう探求心や好奇心が日本人のエンジニアリングの基礎となっている。1000分の1ミリの違いを見抜く職人の指先、コンピュータでは、表せない「ゆるみやあそび」を確保する微妙な感覚、音だけで聞き分けられる旋盤の作業、水を口に含んだだけで、全国各地の水源を見分ける水道技師など現場の匠(たくみ)たちは、いまでも元気だ。だが、現場での後継者の育成がうまく追いつかず、「ものづくり大学」のような教育システムに環境は移行しているが、器用でがんばるベトナム人に技術をじっくり教えて、育成したいと考えている企業や中高年のエンジニアたちは少なくない。

1950年代後半から、高度成長期に入った。テレビや冷蔵庫はすでに行き渡っていたが、象徴的なものは家庭の3Cだ。「カー」であり、「カラーテレビ」「クーラー」であった。日本の産業はまさにアメリカを追い越そう、追い越せると自覚し、結果、日本のオリジナルな製品が世界を覆(おお)った。ニコンやアサヒペンタックスのカメラであり、セイコーの時計であり、蛇の目やJUKIのミシンであり、ソニーのテープレコーダーなどであった。それを後押ししたのが、何を隠そう1964年の東京オリンピックであったのだ。
郊外には団地といわれる巨大なアパート群が建築され、新幹線が完成し、都市には未来型の高速道路が、あふれた。
1ドルがまだ360円の固定相場であり、欧米世界も東洋の小さな国の産業を競争相手とはせず、妨害も無かった中でのラッキーな日本の世界デビューであったのだ。いわばキャッチアップ(CatchUp)ビジネスモデルの最初で最後のモデルかもしれない。