■最近ホーチミンに行くときに必ず泊まるのが「KYHOA」ホテルだ。KY(き)は植物とか木(き)の全体を現すらしいし、HOAはお花だ。だから、並べてどう訳すのか解らないけれど一応「木と花」ホテルと命名しておこう。この麗しい名前のホテルは今でも国営らしい。正面玄関最上階に赤旗が翩翻(へんぽん)とはためいている。通訳の女性に言わせると、律儀に国旗を掲揚している所は間違いなく国営か役所だという。僕はベトナムの何十という優良ホテルとか中級ホテルを体験している訳だが、このホテルは40ドルでリーズナブルな料金もありがたいが、前庭が広大でその余裕が特に嬉しい。オープンカフェレストランがその前庭の中に在って、そこが静寂で別世界を演出してくれているようで、僕のお気に入りなのだ。利益をあからさまに追求していない、超無駄な空間が今時「経済合理主義まっしぐらのベトナム」に厳然と在ると言うことが、嬉しくて特筆した訳なのだ。
このKYHOAホテル内で夕食は摂ったことないが、朝食は結婚式場となっている大型レストランでいただくシステムで、僕はいつもそこに朝食券を持って朝6時過ぎいそいそとそこの大げさなテーブルクロスの席に着く。着くといつも「すべり芸」の山崎邦正さんらしきフロアー長が、愛想良く現れ、若い者にテキパキ指示し、若い人を僕の席に向かわせる。とってもシステマチックでプロな動きが心地よい。彼は僕の好きなタレントの一人だ。間違いなくお笑いの吉本の中堅の芸人と言うより、ダウンタウンの「弟分」のヤマザキに間違いないのだが、なぜホーチミンくんだりでフロア長としてバイトしているのかは、定かでない。だから今日、本気で確かめたくて彼に「山崎さんですよね」と僕は意を決して聞いたのだった。彼は決して上品にならない笑顔をニタリと僕に提供して、オンビジネス風に口を開いて「ヴァン」と言ったような「Hai」とつぶやいたような。僕にはそんな風に聞こえた。売れっ子のお笑い芸人が身分を密かにしてこの中堅国営ホテルで、仕事をさせられていた。吉本興業もちょっと非道いんじゃあないかい。山崎邦正をさ、そこまで働かせるのかね。
そういえば兄貴分のダウンタウンの松ちゃんもハノイの結婚式場のモデルのバイトをさせられていたことがあった。ハノイの明治通りのようなもの凄い交通量のTRUNG通りとTON THAT TUNG通りの交差点に大きな結婚式場の巨大な看板が前からあり、その写真モデルとして天才松ちゃんは紛れもなく新郎の役柄で美女とポーズをとってモデルとして澄まして登場していたことがあった。僕はトップ屋として、これはいち早くスポーツ紙に情報提供せにゃいかんとその大看板の前をタクシーで通るたびに「あっカメラをまた忘れて」証拠写真を納めていないが、去年夏頃に写真が変えられ、ぺ・ヨンジュンのようなハンサム系の新郎写真になっている。残念で仕方がない。きちんと証拠写真を撮って、「日付けだけが正しく、記事はそうではない」東スポあたりの友人記者に送っていれば、相当な話題になったのにね。返す返すも残念無念。あんな超売れっ子でまで、ベトナムで仕事させているんだね、吉本ってちょっと凄いですね。
2013年ごろから、断続的になっていた。facebookに関心が移ったこともある。それにしても、長文を書いていた数年前が懐かし・・。で、また、書かねばというエネルギーふつふつ。 2019年夏VCI創立15周年の催事あった。ベトナムに仕事で来始めて多分27年目、随分と遠い町に長くいたもんだ。ところで、日本に対するうんざり感も頂点を極めつつあるが、山本太郎の「れいわ新選組」の登場で、久しぶりに、あえて言えば「光明」が、「光明と言わずも、面白感」が出てきたのが、平成の最後の年、2019年であった。本年2020は、去年10月の消費税増税で、デフレ不況が鮮明となった故、全力でアイディアと身の軽さを投入していく、大変だが実験的な年になろう・・。
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2011年1月23日日曜日
2011年1月15日土曜日
ベトナムのiPad / 工場萌え / 勤王攘夷 / 映画「ウオールストリート」
■先日半年ぶりにホーチミンシティーに行った。新しい学校の設立の用件で行ったのだが、ハノイとホーチミン間の約二時間のベトナム航空の中で、iPadの愛好者が、やたら目立った。特にハノイに戻る際に目立った。僕の席の前後両隣などご近所の席だけで、何と4台が稼働中であった。仕事風情の各2名、恋人とゲーム中が2名というか1台、映画をみているモデル風長身美人が1台の使用。全部ベトナム人だぜ。この幹線の飛行ルートは、この18年間何十回と行き来しているが、7,8年前までは日本人を含む外人の方が圧倒的に多かったわけだが、今はニューヨークとワシントンDCの「シャトル便」のごとく本数も大幅に増加した上、搭乗者の大半はベトナム人となった。この機上のベトナム人の増加データと経済活動の上昇との関係はベトナムの経済活動の重要な側面を推し量るための指数だね、掴(つか)みのね。それにしても、iPadは、人気だね。当校のNGOC部長も去年11月日本に来た時、ご主人へのおみやげに買っていったね。日本では、5万円前後と思うが、ベトナムでは800〜1000ドルのようだ。
■ところで本当は、本日22日。1週間の短い日本滞在を終え、あと二時間で成田に向け出発だ。今度はテトもふくみ、2月9日までのハノイ。テト中にダナンのリゾートに2,3日行く予定。さて、大佛次郎「天皇の世紀」(文春文庫全12巻)が、まだ第四巻の470ページだ、12月25日のブログで320ページであったので、150ページしか進んでいない。理由は幾つかある。実はちょっとうんざりなのだ。と言っても、大佛さんの大著にうんざりと言うことではないんだ。営々と続く攘夷の狂気の沙汰の時代的気分に、と言ったら良いだろうな。水戸から発したこの時代的気分は長州と薩摩という一大勢力を席巻して、京都に勢力を構え、江戸の征夷大将軍に対峙した。日和見な江戸と勤王攘夷の台風に呷られていく京都禁裏(天皇)勢力との図。更に、開国は当然視しながらも、攘夷を鼓舞する「生麦事件」をひきおこした薩摩と、狂信的長州の対立と協調など、現代の僕らからほとんど読み取れない精神構造が時代の暗渠に蠢いているかのごとくだ。それが、第四巻の後半に綿々と綴られているので、「おいおい、攘夷はもういいぜ」て気持ちが僅かだが起きてきたということさ。
その攘夷というモノの時代の気分の本質は何なのだろうか。辟易しながらも整理すると、攘夷という疾風は、外国の排撃というエネルギーより、時代の桎梏となった幕府への倒幕運動である面が強いのではないか。過去のモノになりつつある幕府の日和見と開国派が幾分多い事に端緒があるが、倒幕し勤王、尊皇としてもう一つの旗頭を抱えて次代を乗り切りたいという幻想が、尊皇攘夷という狂気を構成したのではないか。江戸中期まで、刀で人を切ると言うことが久しく無かった成熟した徳川の時代であったのに、桜田門外の変以降、何百人という人々が攘夷の勤王の志士といわれる浪人たちや薩摩と長州の過激派武士により惨殺された。英仏の外国人も含まれている。多くがナチスのユダヤ人狩りを彷彿とさせる不合理な論理の下でだ。禁裏というか京都御所も久しぶりの配下として「武装勢力」を浪人、志士にもとめ、長州や薩摩を引き入れつつ、江戸に対抗しようとした。このうねりを攘夷の運動のエンジンとみるべきなのだろう。で、間違いないことは尊皇攘夷のイデオロギーの大意の下、明治革命は王政復古として成立した。ただし攘夷は臆面もなく一気に180度切り替わり、開国と近代化に向かった。そして尊皇攘夷の薩長の暗殺者たちが、権力を握った。
幾分うんざりと言ったものの、凄いのはもろくも英国海軍に粉砕された長州と比較して、英国海軍の軍艦同士で白兵戦のような接近戦で大砲を撃ち合いまで出来た大国薩摩のパワーは、事情をあまり知らない現代人からすると驚きだ。江戸で勝海舟も海軍の養成所を作り始めていたが、英国やオランダから買い求めた軍艦や大砲、鉄砲を日本の船大工や鉄工鍛冶の職人たちは、見よう見まねで開発をすでにしつつあり、数年で対抗し得る武器を生産していたと言うのだから、そんな開発力というか、工夫の仕方は尋常じゃあなく、明治革命のイントロ部分として、産業社会の萌芽がまさに音を立てて胎動していたことを伺わせる。
で、どんどん読み進められないもう一つの理由は、貴志祐介「新世界より」(講談社文庫全三巻)を並行して読んでいるからかもしれない。こちら古文でも「候文(そうろうぶん)」でもないので、読みやすいというか、1時間もまともに読むと50〜60ページも読み飛ばせる。だから、そのスムーズさにやや快感を感じつつも、でも何か物足りなさも引きづりながら読み進めている。いまなぜ、これか、というと僕は「新世界より」というような「新しい世界」タイトルに弱いのだ。池澤夏樹の「すばらしき新世界」もタイトルで買った様な気がするね。これはなかなか良い物であった。ドボルザークの「新世界」も好きな曲だし(関係ないか・・)、「あたらしい・せかい」という未知で未来なものに惹かれる資質が僕の内部にあるのだろうね。井上ひさし「吉里吉里人」、村上龍「希望の国エクソダス」、武者小路実篤の「新しき村」もだね、J・オーエルの「1984年」もそうだし、スイフト「ガリバー旅行記」、トーマス・モアの「ユートピア」も同じ系譜かもしれないね。考えれば、この系列の著作は少なくない。新しい国作りの魅力って何か在るモノね。かつての新世界はアメリカであった。21世紀の後半の新世界はどこかしら。ネパール、チベット、ブータンあたりか、イスラム諸国か。また、「電通とリクルート」という俗っぽいのも並行して読み始めた。腰巻きに「欲望はいかに作られたのか」とある。リクルートで3,4年仕事をし、その後電通の下請的仕事も随分こなしてきた。多分、その欲望の一つや二つに僕も加担してきたので、見つめ直す意味で、衝動買いした。リクルート事件は電通が火をつけ拡大させたものだと当時まことしやかに語られていたものだが、さて・・。
■先日、BSで「工場萌え」のドキュメントをやっていた。なかなか興味深いね。重工業地帯のパイプとタンク、そして煙突と火柱など一大ページェントだ。夜見るだけじゃあなく、昼でもなにやら時代の血脈と内蔵を曝している工場たち。不気味ほど美しいね。20年前にパリのポンピドーセンターに行った時を思い起こせる。ポンピドーを建築したレンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースの発想も実は「工場萌え」だろう。甚く感動した僕は、当時の部下の女性2名が英国に行く際に、ロジャースのオフィスに行かせた記憶があるね。ともかく、会ってこいよ、とね。レンゾ・ピアノは関西空港の設計でも有名だ。驚くのは工場の見学ツアーだ。女性が多く、その見学への凝りようは並大抵じゃあないよ。多分、大友克洋の描く崩壊する世界にもこの工場という複雑で究極の美が、絶えず描かれているようにも思える、さてどうだろうか。
■本日、ホーチミンへ行く機上で「ウオールストリート」を見た。まあ面白かったね。社会派オリバー・ストーン監督らしいプロの作品だ。先日僕が貶した「ノルウェイの森」などは、これと比較すると素人作品に見えて来る。ハリウッドのプロは腕力があるのだ。ただ、厳密に言うと、ハリウッドのプロの計算され尽くしたシノプシスと演出を遺憾なく発揮していたということであって、良質な作品とは言い難い。これは、20年ほど前の同監督で同じ配役(マイケル・ダグラス主演)の「ウオール街」の続編だ。インサイダー取引で7〜8年刑務所に入っていたマイケル・ダグラス扮するヘッジファンドの雄ゲッコーが、人生を見つめて「金だけでない世界」に入りつつも、娘との関係修復が上手く行かず、また、リーマンショックの世界的混乱に乗じて天才的手腕を発揮し、娘の恋人すらたぶらかし、一気に戦線復帰する、という話だ。
かつての自分を裏切った精悍な部下チャリー・シーンが太っちゃって年もくって、友情出演風に1分間ほど変わらぬ業界であぶくな銭と戯れているシーンもあって笑わせる。しいて言えば父親と絶交している娘の恋人がやり手の証券マンであるとか、設定にちょっとなああ、という不整合も無いではない。映画ってラストシーンから、ストーリーや、シナリオが出来る場合もおおい訳ですが、この映画は、オリバーストーンがどう終わらせて良いか、決断が出せなかったようにも見える。畢竟、ゲッコーが最後に儲けた100億円で、娘とその青年とゲッコーという新家族が幸せに暮らしたとさ、でエンディング。字幕のバックの幸せ風景が嘘っぱちに見えるよな〜。エンディングで、映画の緻密さが急激にトーンダウンしている。オリバー・ストーンも老人呆けかい。ラジカル左翼の断固とした掘り下げが今回、特にラストで薄められている印象。マイケルダグラスは、ガンを抱えて撮影をしていたようだ。エンディングの不整合が、その影響であるのか無いのかは、僕には解らない。
■ところで本当は、本日22日。1週間の短い日本滞在を終え、あと二時間で成田に向け出発だ。今度はテトもふくみ、2月9日までのハノイ。テト中にダナンのリゾートに2,3日行く予定。さて、大佛次郎「天皇の世紀」(文春文庫全12巻)が、まだ第四巻の470ページだ、12月25日のブログで320ページであったので、150ページしか進んでいない。理由は幾つかある。実はちょっとうんざりなのだ。と言っても、大佛さんの大著にうんざりと言うことではないんだ。営々と続く攘夷の狂気の沙汰の時代的気分に、と言ったら良いだろうな。水戸から発したこの時代的気分は長州と薩摩という一大勢力を席巻して、京都に勢力を構え、江戸の征夷大将軍に対峙した。日和見な江戸と勤王攘夷の台風に呷られていく京都禁裏(天皇)勢力との図。更に、開国は当然視しながらも、攘夷を鼓舞する「生麦事件」をひきおこした薩摩と、狂信的長州の対立と協調など、現代の僕らからほとんど読み取れない精神構造が時代の暗渠に蠢いているかのごとくだ。それが、第四巻の後半に綿々と綴られているので、「おいおい、攘夷はもういいぜ」て気持ちが僅かだが起きてきたということさ。
その攘夷というモノの時代の気分の本質は何なのだろうか。辟易しながらも整理すると、攘夷という疾風は、外国の排撃というエネルギーより、時代の桎梏となった幕府への倒幕運動である面が強いのではないか。過去のモノになりつつある幕府の日和見と開国派が幾分多い事に端緒があるが、倒幕し勤王、尊皇としてもう一つの旗頭を抱えて次代を乗り切りたいという幻想が、尊皇攘夷という狂気を構成したのではないか。江戸中期まで、刀で人を切ると言うことが久しく無かった成熟した徳川の時代であったのに、桜田門外の変以降、何百人という人々が攘夷の勤王の志士といわれる浪人たちや薩摩と長州の過激派武士により惨殺された。英仏の外国人も含まれている。多くがナチスのユダヤ人狩りを彷彿とさせる不合理な論理の下でだ。禁裏というか京都御所も久しぶりの配下として「武装勢力」を浪人、志士にもとめ、長州や薩摩を引き入れつつ、江戸に対抗しようとした。このうねりを攘夷の運動のエンジンとみるべきなのだろう。で、間違いないことは尊皇攘夷のイデオロギーの大意の下、明治革命は王政復古として成立した。ただし攘夷は臆面もなく一気に180度切り替わり、開国と近代化に向かった。そして尊皇攘夷の薩長の暗殺者たちが、権力を握った。
幾分うんざりと言ったものの、凄いのはもろくも英国海軍に粉砕された長州と比較して、英国海軍の軍艦同士で白兵戦のような接近戦で大砲を撃ち合いまで出来た大国薩摩のパワーは、事情をあまり知らない現代人からすると驚きだ。江戸で勝海舟も海軍の養成所を作り始めていたが、英国やオランダから買い求めた軍艦や大砲、鉄砲を日本の船大工や鉄工鍛冶の職人たちは、見よう見まねで開発をすでにしつつあり、数年で対抗し得る武器を生産していたと言うのだから、そんな開発力というか、工夫の仕方は尋常じゃあなく、明治革命のイントロ部分として、産業社会の萌芽がまさに音を立てて胎動していたことを伺わせる。
で、どんどん読み進められないもう一つの理由は、貴志祐介「新世界より」(講談社文庫全三巻)を並行して読んでいるからかもしれない。こちら古文でも「候文(そうろうぶん)」でもないので、読みやすいというか、1時間もまともに読むと50〜60ページも読み飛ばせる。だから、そのスムーズさにやや快感を感じつつも、でも何か物足りなさも引きづりながら読み進めている。いまなぜ、これか、というと僕は「新世界より」というような「新しい世界」タイトルに弱いのだ。池澤夏樹の「すばらしき新世界」もタイトルで買った様な気がするね。これはなかなか良い物であった。ドボルザークの「新世界」も好きな曲だし(関係ないか・・)、「あたらしい・せかい」という未知で未来なものに惹かれる資質が僕の内部にあるのだろうね。井上ひさし「吉里吉里人」、村上龍「希望の国エクソダス」、武者小路実篤の「新しき村」もだね、J・オーエルの「1984年」もそうだし、スイフト「ガリバー旅行記」、トーマス・モアの「ユートピア」も同じ系譜かもしれないね。考えれば、この系列の著作は少なくない。新しい国作りの魅力って何か在るモノね。かつての新世界はアメリカであった。21世紀の後半の新世界はどこかしら。ネパール、チベット、ブータンあたりか、イスラム諸国か。また、「電通とリクルート」という俗っぽいのも並行して読み始めた。腰巻きに「欲望はいかに作られたのか」とある。リクルートで3,4年仕事をし、その後電通の下請的仕事も随分こなしてきた。多分、その欲望の一つや二つに僕も加担してきたので、見つめ直す意味で、衝動買いした。リクルート事件は電通が火をつけ拡大させたものだと当時まことしやかに語られていたものだが、さて・・。
■先日、BSで「工場萌え」のドキュメントをやっていた。なかなか興味深いね。重工業地帯のパイプとタンク、そして煙突と火柱など一大ページェントだ。夜見るだけじゃあなく、昼でもなにやら時代の血脈と内蔵を曝している工場たち。不気味ほど美しいね。20年前にパリのポンピドーセンターに行った時を思い起こせる。ポンピドーを建築したレンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースの発想も実は「工場萌え」だろう。甚く感動した僕は、当時の部下の女性2名が英国に行く際に、ロジャースのオフィスに行かせた記憶があるね。ともかく、会ってこいよ、とね。レンゾ・ピアノは関西空港の設計でも有名だ。驚くのは工場の見学ツアーだ。女性が多く、その見学への凝りようは並大抵じゃあないよ。多分、大友克洋の描く崩壊する世界にもこの工場という複雑で究極の美が、絶えず描かれているようにも思える、さてどうだろうか。
■本日、ホーチミンへ行く機上で「ウオールストリート」を見た。まあ面白かったね。社会派オリバー・ストーン監督らしいプロの作品だ。先日僕が貶した「ノルウェイの森」などは、これと比較すると素人作品に見えて来る。ハリウッドのプロは腕力があるのだ。ただ、厳密に言うと、ハリウッドのプロの計算され尽くしたシノプシスと演出を遺憾なく発揮していたということであって、良質な作品とは言い難い。これは、20年ほど前の同監督で同じ配役(マイケル・ダグラス主演)の「ウオール街」の続編だ。インサイダー取引で7〜8年刑務所に入っていたマイケル・ダグラス扮するヘッジファンドの雄ゲッコーが、人生を見つめて「金だけでない世界」に入りつつも、娘との関係修復が上手く行かず、また、リーマンショックの世界的混乱に乗じて天才的手腕を発揮し、娘の恋人すらたぶらかし、一気に戦線復帰する、という話だ。
かつての自分を裏切った精悍な部下チャリー・シーンが太っちゃって年もくって、友情出演風に1分間ほど変わらぬ業界であぶくな銭と戯れているシーンもあって笑わせる。しいて言えば父親と絶交している娘の恋人がやり手の証券マンであるとか、設定にちょっとなああ、という不整合も無いではない。映画ってラストシーンから、ストーリーや、シナリオが出来る場合もおおい訳ですが、この映画は、オリバーストーンがどう終わらせて良いか、決断が出せなかったようにも見える。畢竟、ゲッコーが最後に儲けた100億円で、娘とその青年とゲッコーという新家族が幸せに暮らしたとさ、でエンディング。字幕のバックの幸せ風景が嘘っぱちに見えるよな〜。エンディングで、映画の緻密さが急激にトーンダウンしている。オリバー・ストーンも老人呆けかい。ラジカル左翼の断固とした掘り下げが今回、特にラストで薄められている印象。マイケルダグラスは、ガンを抱えて撮影をしていたようだ。エンディングの不整合が、その影響であるのか無いのかは、僕には解らない。
2010年12月31日金曜日
映画「ノルウェイの森」の失態
■今日は大晦日だ。村上さんとベトナム人トラン・アン・ユン監督の作品だし松山ケンイチだしと思い、昨日のうちに席を珍しく予約してちょっと早めに一人で新宿に出た。30分ほど早めに着いたので何かお腹に入れておこうと思い立ち、何故か「桂花ラーメン」喰いたしという事を身体が思い出したようで、何十年ぶりか足早に行ってみた。本年春のニュースでは桂花は倒産の憂き目を見そうであったが、とある九州の企業が助太刀をしたという人情話が流されていたので、安心して新宿駅前店を訪ねてあの独特のスープを口に運んだ。僕は今から35年ぐらい前に、東映の監督の梶間俊一君に新宿三丁目店を紹介されてこの味を知った。当時は九州の豚骨スープ味系が東京で全く流布されていない時代で、普通の醤油ラーメン以外はサッポロ味噌ラーメンしかなかった。だから桂花の味は美味しかったが、美味しいという前に不思議な味わいに驚いた記憶がある。で、僕はそそくさと堅めの例の麺をかみ切りながら平らげて、新装のコンプレックス新宿松竹に向かった。
■僕は「青いパパイヤの香り」と「夏至」を見ていたので、小津さんの影響らしさとか、執拗なクローズアップの連続の独特さ等の美しさと画面の落ち着きを評価していたので、TRAN ANH HUNG監督に期待していた(ハノイ読みなら、チャン・アイン・フン)。
さて、言うまでも無い。プロデューサーの仕事の大半は観客に支持される映画作りになっているかどうかを判断する事だ。特に原作が村上文学だから簡単ではないが、この作品では鮮烈な時代的印象を残して「直子」は死ななければならない。でも、その「直子」に菊池凛子を選ばざるを得ないほど、日本の20才代の女優陣は誰もいないのだろうか。生死の意味を問う役柄なら蒼井優だって良いし、他にもいそうだ。ベトナム人の監督と仕事をするのはプロデューサーも大変であったろう。まあ、フランス人と言った方が良いかもしれないが。でもだよ、この映画のプロデューサーは、(誰だか知らないが)、あの・・「パパイアの青き香り」の「ユン監督」と仕事が出来るという事に引っ張られた感が強い。己の判断つまり、助演女優直子を誰にするかの重要な志向と判断の基準を何処に置いたのだろうか。ユン監督は当代随一のアーチストの一人だから、プロデューサーが妥協したのだろうか。僕から見るとプロデューサーが不在であった。決定的なミスをこの映画の制作者のトップ二人はしてしまったのだ。まあ、失態を曝してしまったということだ。
問題はそのキャスティングだけでは無い。性と性交に付いての言葉の使い方についてもだ。連射される性の言辞が臆面もなく露わで上手く包み込むものも無く、日本人には聞くに堪えないと思うほど頻繁に役者たちは言わせられているのだが、映像とまるでモンタージュされておらず、文学の文字上のイメージの交差の豊かさに比すると「大空振り」も良いところの無惨さなのだ。映像と台詞のすれ違いは想像力を喚起せず、見る者に苛立ちを投与してしまう。そんな苛立ちを美しい画面から投与される僕ら観客の身になって欲しいぜ。画像が全体的に美しく、バランス良く配列されて居る分だけ、僕らの期待は混乱する。シナリオはユン監督が書いたようだ。もちろんフランス語だろう。それを誰かフランス人の日本語翻訳者が翻訳し、それを日本人翻訳者がオリジナル台本を照合しながら、調整したと思われる。多分これの反対の作業の流れでは無いと思われるね。もし、この作業を反対の流れにしたなら「科白の言葉」が微妙にでも救われたかも、と思うのは僕だけじゃあないだろう。これも、プロデューサーのプロとしての勘と実行力だぜ。村上さんの1960年代後半の当時の早稲田の騒擾のキャンパスに対する位相がそうであるように、同時代者である僕らにとって「性」は重要なモーメントで在ったが、最も僕らの心情というか激情の周辺を囲んでいた要素はヒューマンな理想主義であり、世代的な焦燥感であり、世界性を獲得したいという想像力への出血や吐き気の伴う創造過程であった。
従って、「ワタナベ」を演ずる松山ケンイチの一つ一つの相貌と語り口調は、60年代的雰囲気を漂わせて好感がもてるが、全体像で見る「ワタナベ」は軽々さが妙に前に出ていて、村上さんのイメージとはズレが生じているはずだ。当たり前だが、映画と文学は別な作品であるので、村上さんはそのズレをズレと見ないように評価したかもしれないが、文学と映画を一体と把握し「ノルウェイの森」の意味を確かめたい普通の観客は助演女優のキャストミス、画像と言葉のモンタージュ未消化、松山ケンイチのズレた存在をどういう角度から捉えたらいいのか混乱させられ、仕方ないので敢えて画面中に無理しても意味を模索せざるを得ない気持ちにさせられているのではないだろうか。ただ、ユン監督らしい落ち着いた画面の構成は優としたい。また「緑」の新人水原希子は悪くない。玉山鉄二の永沢は良いポジションを確保しているのだがもっと強烈で不可思議にすべきであった。シャブロール監督の「いとこ同士」(1959年)の助演ジャン・クロード・ブリアリを想起して僕は永山を見ていた。最後に流れる字幕の「学生運動監修」とかいう項があり、そこに早稲田の友人の名前があって思わずプッと吹いたぜ。でも、彼はリアルな”時代考証”の映像化に結構寄与していたね。
何年かぶりに日本映画を劇場で見た。新宿松竹のガラスで出来たようなシネマコンプレックスに初めて入って戸惑った。チケットの買い方や持ち込みの飲食の仕方も随分と変化していた。入場の仕方もルールができている様で、途中からの入場も不可となっていた。僕などは昔から上映予定時間に行かず途中から見て約1回半みる楽しみ方をしていた口なので、なにやらオンタイムのみエスカレータに乗って運ばれ、決まった時間に退場させられるこの劇場に健全であかるいハリウッド映画に相応しい洗練ビジネスシステムだけが目につき滅入ってしまった。映画と劇場の持つ期待感と不安と、別世界に観客が惹かれてゆく闇の魔力がもはや消滅させられていたことに強く気づかされ、溜息をついてしまったということだ。今どきの劇場(小屋)の様を新宿松竹の透明感溢れた現代建築の中で味わされた今回の久しぶりの劇場行きであった。
■《ブログご高覧感謝》
僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
多いのは一日1400名閲覧もあります。
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・ 5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行
■僕は「青いパパイヤの香り」と「夏至」を見ていたので、小津さんの影響らしさとか、執拗なクローズアップの連続の独特さ等の美しさと画面の落ち着きを評価していたので、TRAN ANH HUNG監督に期待していた(ハノイ読みなら、チャン・アイン・フン)。
さて、言うまでも無い。プロデューサーの仕事の大半は観客に支持される映画作りになっているかどうかを判断する事だ。特に原作が村上文学だから簡単ではないが、この作品では鮮烈な時代的印象を残して「直子」は死ななければならない。でも、その「直子」に菊池凛子を選ばざるを得ないほど、日本の20才代の女優陣は誰もいないのだろうか。生死の意味を問う役柄なら蒼井優だって良いし、他にもいそうだ。ベトナム人の監督と仕事をするのはプロデューサーも大変であったろう。まあ、フランス人と言った方が良いかもしれないが。でもだよ、この映画のプロデューサーは、(誰だか知らないが)、あの・・「パパイアの青き香り」の「ユン監督」と仕事が出来るという事に引っ張られた感が強い。己の判断つまり、助演女優直子を誰にするかの重要な志向と判断の基準を何処に置いたのだろうか。ユン監督は当代随一のアーチストの一人だから、プロデューサーが妥協したのだろうか。僕から見るとプロデューサーが不在であった。決定的なミスをこの映画の制作者のトップ二人はしてしまったのだ。まあ、失態を曝してしまったということだ。
問題はそのキャスティングだけでは無い。性と性交に付いての言葉の使い方についてもだ。連射される性の言辞が臆面もなく露わで上手く包み込むものも無く、日本人には聞くに堪えないと思うほど頻繁に役者たちは言わせられているのだが、映像とまるでモンタージュされておらず、文学の文字上のイメージの交差の豊かさに比すると「大空振り」も良いところの無惨さなのだ。映像と台詞のすれ違いは想像力を喚起せず、見る者に苛立ちを投与してしまう。そんな苛立ちを美しい画面から投与される僕ら観客の身になって欲しいぜ。画像が全体的に美しく、バランス良く配列されて居る分だけ、僕らの期待は混乱する。シナリオはユン監督が書いたようだ。もちろんフランス語だろう。それを誰かフランス人の日本語翻訳者が翻訳し、それを日本人翻訳者がオリジナル台本を照合しながら、調整したと思われる。多分これの反対の作業の流れでは無いと思われるね。もし、この作業を反対の流れにしたなら「科白の言葉」が微妙にでも救われたかも、と思うのは僕だけじゃあないだろう。これも、プロデューサーのプロとしての勘と実行力だぜ。村上さんの1960年代後半の当時の早稲田の騒擾のキャンパスに対する位相がそうであるように、同時代者である僕らにとって「性」は重要なモーメントで在ったが、最も僕らの心情というか激情の周辺を囲んでいた要素はヒューマンな理想主義であり、世代的な焦燥感であり、世界性を獲得したいという想像力への出血や吐き気の伴う創造過程であった。
従って、「ワタナベ」を演ずる松山ケンイチの一つ一つの相貌と語り口調は、60年代的雰囲気を漂わせて好感がもてるが、全体像で見る「ワタナベ」は軽々さが妙に前に出ていて、村上さんのイメージとはズレが生じているはずだ。当たり前だが、映画と文学は別な作品であるので、村上さんはそのズレをズレと見ないように評価したかもしれないが、文学と映画を一体と把握し「ノルウェイの森」の意味を確かめたい普通の観客は助演女優のキャストミス、画像と言葉のモンタージュ未消化、松山ケンイチのズレた存在をどういう角度から捉えたらいいのか混乱させられ、仕方ないので敢えて画面中に無理しても意味を模索せざるを得ない気持ちにさせられているのではないだろうか。ただ、ユン監督らしい落ち着いた画面の構成は優としたい。また「緑」の新人水原希子は悪くない。玉山鉄二の永沢は良いポジションを確保しているのだがもっと強烈で不可思議にすべきであった。シャブロール監督の「いとこ同士」(1959年)の助演ジャン・クロード・ブリアリを想起して僕は永山を見ていた。最後に流れる字幕の「学生運動監修」とかいう項があり、そこに早稲田の友人の名前があって思わずプッと吹いたぜ。でも、彼はリアルな”時代考証”の映像化に結構寄与していたね。
何年かぶりに日本映画を劇場で見た。新宿松竹のガラスで出来たようなシネマコンプレックスに初めて入って戸惑った。チケットの買い方や持ち込みの飲食の仕方も随分と変化していた。入場の仕方もルールができている様で、途中からの入場も不可となっていた。僕などは昔から上映予定時間に行かず途中から見て約1回半みる楽しみ方をしていた口なので、なにやらオンタイムのみエスカレータに乗って運ばれ、決まった時間に退場させられるこの劇場に健全であかるいハリウッド映画に相応しい洗練ビジネスシステムだけが目につき滅入ってしまった。映画と劇場の持つ期待感と不安と、別世界に観客が惹かれてゆく闇の魔力がもはや消滅させられていたことに強く気づかされ、溜息をついてしまったということだ。今どきの劇場(小屋)の様を新宿松竹の透明感溢れた現代建築の中で味わされた今回の久しぶりの劇場行きであった。
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・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・ 5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行
2010年12月25日土曜日
★ 停電って、何だか心躍る / 乞食のおっさんのいる僕たちの界隈
■大佛次郎「天皇の世紀 文春文庫全十二巻」の第四巻130ページを読んでいたのが11月21日のブログに記してあるので、今日はまだまだの同巻の320ページだから、読書の進捗は低迷していたわけだ、この一ヶ月。勤王の志士たちの狂気のテロリズムと豹変志士の日本。尊皇攘夷のテロリストの一人である伊藤博文は開国派のイデオローグを斬り殺した経験もあった。でも、同時に文明の西洋にあこがれ、日本を離れたり、終には総理大臣になったりと、第二次世界大戦後1950年代「転向論」が鶴見俊輔や吉本隆明などによって論争があったが、幕末の志士が、文明開化に転向してゆく”自然さ”は、日本人論を構築する上で、一番のサンプルかもしれない。ともあれ、攘夷は狂気の台風として、武士階級だけでなく、一部の富裕町人階層も包含して、全土を吹き荒れた。
■停電って、結構わくわくするものだ。僕らが小学校低学年までのころ、つまり、1950年代は、日本で停電はさして珍しい事ではなかったね。子供の自分にとっては、停電は、夜に決まっていた。昼も在ったのだろうが、外で転がるように走りまくって遊んでいた僕らは気がつく術もなく、夜の遭遇が刺激があった。ラジオも消え、部屋中が真っ暗。すぐに、弟を脅かそうと、懐中電灯を顎から上に向かって照らして、フランケンシュタインを演じたりしたものだった。現代ほどではないが、煌々と部屋の団欒を照らしていた「マツダランプ」の常態が、いきなりいつもと違う「闇」に転ずるわけで、僕らガキたちにとって迷惑さは皆無で、いきなり劇場の舞台を与えられたごとくワクワクしたものだ。
この前、ハノイで、ベトナムのしょっちゅう起きる停電を汚い言葉で難じた正統なサラリーマンが居たので、鼻白んだことがあったが、僕らの国でも、停電は時々あった戦後の時期を彼は年齢的に知らないのだから仕方ないが、そういう己(ニッポン)の過去の環境ぐらい、想像できない頭の悪さを腹の虫の居所がたまたま悪かった僕は奴を罵倒した。あとで、やや反省したが、そういうちょっと前のニッポンが北朝鮮と同様な軍国主義であったとか、昭和20年代の荒廃の時代の日本は技術のぱくりと壊れやすい商品で一頃は世界中から、非難されていた歴史もあったとか、そういう40〜50年前のことぐらい、知識が無ければ想像力で補いやがれ!といったような、言わなかったような。
で、さっき、NHKのBSで「ニューヨークの停電」のドキュメントをやっていた。1968年とか77年とかの例の「出生率」向上したとか言う大停電とはちがって(結構多いね)、2003年の大停電の経験者たちのインタビュー中心のドキュメントだった。アメリカの明るいキャラもあって、どうもそのとき、ニューヨークの人々は、地下鉄もストップしたので、大変な迷惑を受けたに違いないが、それはそれとして、夏であったこともあって、オフィスに泊まってパーティーしたり、路上でバーベキューしたり、かなり、夜の暗さを単に楽しむだけでなく、非日常の人間関係を作り出し、結構事故を有効に使った人々が大勢いたことにハッとさせられた。アパートの住人同士の交流が出来たとか、長時間歩いて帰る途中に友人がたくさんできたとか、暗闇が意外なプレゼントを市民にくれていたようだ。我がベトナムでもレストランやピザハットとかで、僕も停電にかちあったことがあったが、その瞬間に悲鳴というより、「ヒャッホウ」と喜ぶ若者たちの歓喜の声が大抵、街中からわき起こる。暗ければ、つきあい始めの彼女に思い切ってキスの一つもしやすいのだろうし、次の展開に期待が生じるよね。
NYの若者が言っていた。「停電記念日」を作って、その日その時、電気に左右されない非日常を思い出し「不便さ」を楽しむ記念日を設けたらどうだろう、とね。なかなかまともな良い意見だね。特に日本人はこの10年、不便とか、合理的でない事を楽しむ人々というか、そういう気分が確実に醸造されているので、理解しやすい感覚だね、「停電の日」・・電気を使わない日の設置は面白いと思う。
■僕の居るハノイのレータンギーという地域は、東京でいえば、お茶の水界隈と言えるかもしれない。ハノイ工科大学やハノイ建築大学などが隣接しているいわば大学街なのである。カルチェラタンと言っても良いのだろう。学生街には安い食堂や本屋、「黒沢楽器店」とかパソコン屋がつきものだし、全く相似している。今からは想像ができないがそのお茶の水は明治や中大の、そして医科歯科大や日大の赤いへメットをかぶった社学同(ブント)を中心にした学生運動の一大拠点であり、新宿に次ぐ自由の天国のような若者たちの街であった。お茶の水の街にベトナム反戦闘争などの戦いが起きれば、すぐ飯田橋から白ヘルの法政の中核派の2000名が、本郷の東大や早稲田あたりからは青いヘルを被り武装した解放派や黒ヘルのノンセクトラジカル1000名の学生が一斉に駆けつけ、更に日大経済や文理などの全共闘の黒や銀、あるいはみどり色の戦闘部隊が数千名合流して、機動隊と対峙し戦闘を展開していた街であったのだ。
その上シンパやけしかけるサラリーマンやおっさんたちの群衆はすぐに万単位となり、機動隊を数の上でも凌駕する学生たちと市民のデモと隊列が出来ていたものだった。この極色彩のヘルメットの軍団の喧噪と騒擾は何かに突き動かされて、迷動していた幕末の尊皇攘夷の若者たちの武装した祝祭とどこか類似している様にも見える。大佛次郎「天皇の世紀」を読んでいると更にそう思う。心情は同位相なのだ。でも絶対の勤王と絶対の排外攘夷への衝動だけで自尽できる負のエネルギーに満ち満ちていた明治革命の第一段階の幕末と1960年代の僕らとは違いははっきりしている。
1960年代に起きた学生や若者たちの世界の反乱は個人のライフスタイルも、社会のシステムも、芸術の領域もパラダイムシフトしてゆく時代の、あらゆる世界性や都市性も含有していた。ベトナム戦争に反対するヒューマンな心情を僕たちは紛れもなく堅持していたものの、情報社会という魔物はテレビという堅牢なイデオロギー装置を市民社会に送り込み、あらゆるものを相対化してしまう「思考セオリー」を僕らの革命性の隣りに潜伏させたのだった。だから、僕らは若者としての想像力とポップな感性を肉体に搭載してはいたが、「何かが違う。こうではない!」という焦燥と体内に迸(ほとばし)っていたエネルギーを思想として止揚できず、結果次の時代からの回答をうまく得られず、70年代前半に無惨にも自壊し、霧消していった。結局、その後僕たちは高度資本主義のまっただ中で生きて、40年間働き続けてきた。
森田童子の歌に「みんな夢でありました」というのがある。
♪♪ あの時代は何だったのですか あのときめきは何だったのですか
みんな夢でありました みんな夢でありました
悲しいほどに ありのままの 君とぼくが ここにいる
ぼくはもう語らないだろう ぼくたちは歌わないだろう
みんな夢でありました みんな夢でありました
何もないけど ただひたむきな ぼくたちが 立っていた
キャンパス通りが炎と燃えた あれは雨の金曜日
みんな夢でありました みんな夢でありました
目を閉じれば 悲しい君の 笑い顔が 見えます
河岸の向こうにぼくたちがいる 風のなかにぼくたちがいる
みんな夢でありました みんな夢でありました
もう一度やりなおすなら どんな生き方が あるだろうか
で、話はレータンギーという街だ。僕の始終動いている界隈の或る路地に8月頃から、50才代と思われる乞食のおっさんが住み着き始めた。はじめの一週間は2メートルのばかりの道幅の片側の家屋の煉瓦壁に背もたれて座ってばかりいた。手持ちの家財道具もほとんど見あたらないので、はじめはその家のカカァに追い出された哀れな親父と思っていたが、10日もすると、2メートル幅の半分を占めた大きさに箱とか板きれなど組み立て始めていて、2週間ぐらいで僕がハノイに戻ったときは、いっぱしの小屋が建築されていた。日本のホームレスのおじさんの特許は青いビニールシートだが、彼は建築現場からいただいてきた青赤シート、昔海水浴で僕らが海に持って行ったそれだ、を器用に屋根や壁面に使用していて、きりっと締まった家屋に仕上がっている。もともと器用なベトナム人、家も建てればオートバイも直す。こんなビニール小屋など朝飯前ってものよ。彼がいつも背もたれしている壁の家の軒先は結構大きく、もともと、風雨をしのげる構造になっている。屋根など作らなくても良いのに、器用さともの作りの心が、屋根と天井までこさえてしまった。
僕は彼とお話ししたことはないが、いつもたいてい新聞や本を読むか、瞑想のように足を抱いて鎮座している。白髪に頬が痩けた面構え。彼は何者なのだろうか。不思議な事はどうも誰も立ち退きを迫ったり、追い出したりしていなそうだということだ。やはり、そこの家の親父なのかしら。日本の住宅街や商店街に一角に、路地とは言え、2メートル幅の路の半分を家にしてだよ。小屋を造る前に多分誰かが退散を迫るだろう。ポリスも来るだろう。でも、この4ヶ月見事に安泰なのである。「乞食」とは言え彼にも仕事がある。毎朝、側面の壁をお世話になっている家の玄関周りと周辺の道路を律儀にも掃き掃除しているのである。近隣と衝突を避け生き抜く彼の妙技なのであろうか。彼には彼の身を落とした何かの意志が見え「ホームレス」などという半端な形容はしたくないね。この項続く。
■停電って、結構わくわくするものだ。僕らが小学校低学年までのころ、つまり、1950年代は、日本で停電はさして珍しい事ではなかったね。子供の自分にとっては、停電は、夜に決まっていた。昼も在ったのだろうが、外で転がるように走りまくって遊んでいた僕らは気がつく術もなく、夜の遭遇が刺激があった。ラジオも消え、部屋中が真っ暗。すぐに、弟を脅かそうと、懐中電灯を顎から上に向かって照らして、フランケンシュタインを演じたりしたものだった。現代ほどではないが、煌々と部屋の団欒を照らしていた「マツダランプ」の常態が、いきなりいつもと違う「闇」に転ずるわけで、僕らガキたちにとって迷惑さは皆無で、いきなり劇場の舞台を与えられたごとくワクワクしたものだ。
この前、ハノイで、ベトナムのしょっちゅう起きる停電を汚い言葉で難じた正統なサラリーマンが居たので、鼻白んだことがあったが、僕らの国でも、停電は時々あった戦後の時期を彼は年齢的に知らないのだから仕方ないが、そういう己(ニッポン)の過去の環境ぐらい、想像できない頭の悪さを腹の虫の居所がたまたま悪かった僕は奴を罵倒した。あとで、やや反省したが、そういうちょっと前のニッポンが北朝鮮と同様な軍国主義であったとか、昭和20年代の荒廃の時代の日本は技術のぱくりと壊れやすい商品で一頃は世界中から、非難されていた歴史もあったとか、そういう40〜50年前のことぐらい、知識が無ければ想像力で補いやがれ!といったような、言わなかったような。
で、さっき、NHKのBSで「ニューヨークの停電」のドキュメントをやっていた。1968年とか77年とかの例の「出生率」向上したとか言う大停電とはちがって(結構多いね)、2003年の大停電の経験者たちのインタビュー中心のドキュメントだった。アメリカの明るいキャラもあって、どうもそのとき、ニューヨークの人々は、地下鉄もストップしたので、大変な迷惑を受けたに違いないが、それはそれとして、夏であったこともあって、オフィスに泊まってパーティーしたり、路上でバーベキューしたり、かなり、夜の暗さを単に楽しむだけでなく、非日常の人間関係を作り出し、結構事故を有効に使った人々が大勢いたことにハッとさせられた。アパートの住人同士の交流が出来たとか、長時間歩いて帰る途中に友人がたくさんできたとか、暗闇が意外なプレゼントを市民にくれていたようだ。我がベトナムでもレストランやピザハットとかで、僕も停電にかちあったことがあったが、その瞬間に悲鳴というより、「ヒャッホウ」と喜ぶ若者たちの歓喜の声が大抵、街中からわき起こる。暗ければ、つきあい始めの彼女に思い切ってキスの一つもしやすいのだろうし、次の展開に期待が生じるよね。
NYの若者が言っていた。「停電記念日」を作って、その日その時、電気に左右されない非日常を思い出し「不便さ」を楽しむ記念日を設けたらどうだろう、とね。なかなかまともな良い意見だね。特に日本人はこの10年、不便とか、合理的でない事を楽しむ人々というか、そういう気分が確実に醸造されているので、理解しやすい感覚だね、「停電の日」・・電気を使わない日の設置は面白いと思う。
■僕の居るハノイのレータンギーという地域は、東京でいえば、お茶の水界隈と言えるかもしれない。ハノイ工科大学やハノイ建築大学などが隣接しているいわば大学街なのである。カルチェラタンと言っても良いのだろう。学生街には安い食堂や本屋、「黒沢楽器店」とかパソコン屋がつきものだし、全く相似している。今からは想像ができないがそのお茶の水は明治や中大の、そして医科歯科大や日大の赤いへメットをかぶった社学同(ブント)を中心にした学生運動の一大拠点であり、新宿に次ぐ自由の天国のような若者たちの街であった。お茶の水の街にベトナム反戦闘争などの戦いが起きれば、すぐ飯田橋から白ヘルの法政の中核派の2000名が、本郷の東大や早稲田あたりからは青いヘルを被り武装した解放派や黒ヘルのノンセクトラジカル1000名の学生が一斉に駆けつけ、更に日大経済や文理などの全共闘の黒や銀、あるいはみどり色の戦闘部隊が数千名合流して、機動隊と対峙し戦闘を展開していた街であったのだ。
その上シンパやけしかけるサラリーマンやおっさんたちの群衆はすぐに万単位となり、機動隊を数の上でも凌駕する学生たちと市民のデモと隊列が出来ていたものだった。この極色彩のヘルメットの軍団の喧噪と騒擾は何かに突き動かされて、迷動していた幕末の尊皇攘夷の若者たちの武装した祝祭とどこか類似している様にも見える。大佛次郎「天皇の世紀」を読んでいると更にそう思う。心情は同位相なのだ。でも絶対の勤王と絶対の排外攘夷への衝動だけで自尽できる負のエネルギーに満ち満ちていた明治革命の第一段階の幕末と1960年代の僕らとは違いははっきりしている。
1960年代に起きた学生や若者たちの世界の反乱は個人のライフスタイルも、社会のシステムも、芸術の領域もパラダイムシフトしてゆく時代の、あらゆる世界性や都市性も含有していた。ベトナム戦争に反対するヒューマンな心情を僕たちは紛れもなく堅持していたものの、情報社会という魔物はテレビという堅牢なイデオロギー装置を市民社会に送り込み、あらゆるものを相対化してしまう「思考セオリー」を僕らの革命性の隣りに潜伏させたのだった。だから、僕らは若者としての想像力とポップな感性を肉体に搭載してはいたが、「何かが違う。こうではない!」という焦燥と体内に迸(ほとばし)っていたエネルギーを思想として止揚できず、結果次の時代からの回答をうまく得られず、70年代前半に無惨にも自壊し、霧消していった。結局、その後僕たちは高度資本主義のまっただ中で生きて、40年間働き続けてきた。
森田童子の歌に「みんな夢でありました」というのがある。
♪♪ あの時代は何だったのですか あのときめきは何だったのですか
みんな夢でありました みんな夢でありました
悲しいほどに ありのままの 君とぼくが ここにいる
ぼくはもう語らないだろう ぼくたちは歌わないだろう
みんな夢でありました みんな夢でありました
何もないけど ただひたむきな ぼくたちが 立っていた
キャンパス通りが炎と燃えた あれは雨の金曜日
みんな夢でありました みんな夢でありました
目を閉じれば 悲しい君の 笑い顔が 見えます
河岸の向こうにぼくたちがいる 風のなかにぼくたちがいる
みんな夢でありました みんな夢でありました
もう一度やりなおすなら どんな生き方が あるだろうか
で、話はレータンギーという街だ。僕の始終動いている界隈の或る路地に8月頃から、50才代と思われる乞食のおっさんが住み着き始めた。はじめの一週間は2メートルのばかりの道幅の片側の家屋の煉瓦壁に背もたれて座ってばかりいた。手持ちの家財道具もほとんど見あたらないので、はじめはその家のカカァに追い出された哀れな親父と思っていたが、10日もすると、2メートル幅の半分を占めた大きさに箱とか板きれなど組み立て始めていて、2週間ぐらいで僕がハノイに戻ったときは、いっぱしの小屋が建築されていた。日本のホームレスのおじさんの特許は青いビニールシートだが、彼は建築現場からいただいてきた青赤シート、昔海水浴で僕らが海に持って行ったそれだ、を器用に屋根や壁面に使用していて、きりっと締まった家屋に仕上がっている。もともと器用なベトナム人、家も建てればオートバイも直す。こんなビニール小屋など朝飯前ってものよ。彼がいつも背もたれしている壁の家の軒先は結構大きく、もともと、風雨をしのげる構造になっている。屋根など作らなくても良いのに、器用さともの作りの心が、屋根と天井までこさえてしまった。
僕は彼とお話ししたことはないが、いつもたいてい新聞や本を読むか、瞑想のように足を抱いて鎮座している。白髪に頬が痩けた面構え。彼は何者なのだろうか。不思議な事はどうも誰も立ち退きを迫ったり、追い出したりしていなそうだということだ。やはり、そこの家の親父なのかしら。日本の住宅街や商店街に一角に、路地とは言え、2メートル幅の路の半分を家にしてだよ。小屋を造る前に多分誰かが退散を迫るだろう。ポリスも来るだろう。でも、この4ヶ月見事に安泰なのである。「乞食」とは言え彼にも仕事がある。毎朝、側面の壁をお世話になっている家の玄関周りと周辺の道路を律儀にも掃き掃除しているのである。近隣と衝突を避け生き抜く彼の妙技なのであろうか。彼には彼の身を落とした何かの意志が見え「ホームレス」などという半端な形容はしたくないね。この項続く。
2010年12月15日水曜日
「ハノイ日本アカデミー」最新チラシ / 1月の講演原稿
■これは、最新の当校の日本企業向けのチラシの原稿です。当校の沿革、ポリシー、現況、成果などを解りやすく整理して記述しています。実物は写真を多用しています。
ベトナムの理工系大学の精鋭をエンジニアとして採用しませんか?
当ハノイ日本アカデミーはハノイ工科大学と提携しています。
世界の不況が長期化し、低迷が続く日本。その中にあっても、何とか成長を維持し、アジアの元気の素となっているベトナム。そのベトナムに進出の可能性を探りませんか。そして、その時必要になるのが将来のコア・エンジニアとなる精鋭たちです。この今だからこそ、優良なベトナム人エンジニアを採用し、不況明けに備えませんか。人材の確保はそろそろ積極策にでたいものです。日本企業に就職し、プロのエンジニアとして活躍したいと願っている大卒理工系の青年たちは数多く居ます。その中の最優良な数十人が私たち『ハノイ日本アカデミー』で日本語と日本の社会・企業システムなどを毎日猛烈に学習しています。
ウラのページ
《ベトナムは人材供給基地》ベトナムは8600万人の人口の半分が25歳以下の若い国です。かつ、理数系が強く記憶力なども大変優れた民族です。日本の産業界は今、企業のコアである開発のエンジニア(技術者)が何万人も不足しています。不況明けは、更なる不足が予想されます。半導体、機械設計、金型、IT、電機、ロボット、精密機械、化学関連・・このエンジニアの構造的な不足は、日本の産業構造を揺るがす大きな問題となっています。
2006年秋、日本とベトナムは戦略的パートナー宣言を協定しました。重要な点は日本政府がベトナムに対して「今後の最も大切な人材供給基地」と位置づけたことに有ります。
《当校の概要》2005年の開校(ハノイ市)以来、既に約140名以上の卒業生が日本に就労ビザで渡航し、日本全国の優良中堅企業で正社員の若手エンジニアとして活躍しています。
現在、日本人教員4名、ベトナム人教員2名の陣容で、毎年数十名の精鋭を日本企業に供給できる体制を作っております。2008年3月、ベトナム随一の国立ハノイ工科大学(正式名称BACH KHOA・5年制度)と当校は「日本語教育と就職支援」の業務協定を締結しました。また、本校の日本語の授業及び企業内コミュニケーション教育、技術者教育の実績は既に採用いただいたお客様はじめ各方面からご評価をいただいており、顧客様からのリピートオーダーも多数いただいております。3回目とか4回目の採用をいただいている企業もあります。
《当校へのご支援など》
今までセミナーなどの催事は社団法人九州経済連合会、社団法人九州ニュービジネス協議会、社団法人大阪国際ビジネス振興協会、社団法人静岡県国際経済振興会、社団法人岡山県国際経済交流協会、福岡商工会議所、早稲田大学ベトナム総研などのご後援や、東京都庁と東京都中小企業振興公社などのご視察もいただきました。また、在日ベトナム大使館、ベトナム労働省などのご支援もいただいています。更にNHK「おはよう日本」、日経新聞、日刊工業新聞などで、何回も好意的に取り上げられております。
《NPO法人VCI人材戦略研究所が運営》
VCI人材戦略研究所は2004年から任意団体として活動し2007年東京都からNPO法人として認証されました。ハノイにあるハノイ日本アカデミーはこの法人が運営する学校の名称です。当校によるこの“日本語ができる理工系学生の輩出”は、エンジニア不足に悩んで居られる中堅企業の人材戦略の一つの「解」と考えています。現在当「ハノイ日本アカデミー」で学ぶ学生のハノイ工科大での履修学部は、主に機械工学部、電機工学部、電子学部、IT学部、化学部、数学部、物理学部などです。
私たちは日本の教育分野のNPOとして、ベトナム人青年の夢の実現を支援しています。
《卒業生を採用いただいている企業》
採用いただいた全国の日本企業は東証第一部上場企業2社を含む約50社以上あり、多くの企業規模は従業員約50名から3000名規模のまさに中堅企業です。半導体、半導体装置、精密機械、金型、電機、機械設計,IT系(システム開発、組み込み系、ソフト開発など)、ロボット、鉄工・溶接など多様な分野の企業です。社名など詳細は、WEBサイト www.vietnam-waseda.org をご高覧ください。
《当校は日本企業に正社員エンジニアとして就職するための学校です。》
当校の学生は毎日8時間、約9ヶ月間にわたり日本語コミュニケーション教育、企業内コミュニケーション教育、技術者教育などを猛烈に学習します。合計は約1560時間です。卒業時は日本語能力試験の3級以上で2級の下のラインが平均値(N3)です。優良学生はほぼ2級レベルです。当校では夏、秋、春の年3回卒業があり、日本企業は各卒業前にハノイで面接し、採用します。当校の特徴は研修や派遣ではなく”御社の培ってきた技術を承継できる若手の正社員エンジニア”を採用できるということです。つまり、長期雇用が見込める事です。
費用や手続き、ビザ関係につきましては、お問い合わせください。
お問い合わせ abevci@vietnam-waseda.org
090-1767-7063 (日本の携帯 阿部) 以上
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■以下は近日、国際協力基金主催の「日本語教育国際シンポ」で講演する際の僕の予定原稿です。ベトナムの大学の日本語学部に向けた提案でもあります。
『日本に渡航して優良企業に就職するということを学生の目標とさせ、そしてその就職を確実に加速させるために』
〜〜学生の自己実現の第一歩は就職にあり〜〜
私は1970年代に就職関連の専門企業「リクルート」に勤務しておりました。リクルート社とは1960年当時、東大生であった一人の学生のベンチャー起業として出現し、今では巨大な情報企業となって日本では誰でも知っている、また、学生と企業には無くてはならない企業となっています。さて、その後、私は1980年マーケティングの企業を興しました。その仕事の関係で私は1993年に初めて、ベトナムの地を踏みました。そして2,3年後からベトナム交通運輸省、ベトナム外務省、MPI、観光総局(当時)、情報文化省の日本国へのパブリック・リレーション(PR)を各省の依頼に基づいて展開してきました。更に2005年、「理工系優秀学生の夢を実現する就職プレップ(準備)学校」として、当校を開校し今に続いております。これは、日本とベトナムにおける「就職と若い労働力」のマッチングを構想した2006年の両国政府の「日越パートナー宣言」の方向に沿ったものとして継続しております。
学生による「企業への就職活動」というものは、どうも偏った方向に流されていますが、情報と技術(知識)と人間形成が問われる大学生活にとって重要な活動なのです。スポーツマンが、努力し鍛錬するのと同じように、科学者が実験を来る日も来る日も地道に実践するように、就職活動は学問と同様で、「人間にとって仕事とは何か」を問い、自分にとっての適職は何なのか、それは社会に貢献できる仕事かどうか、あるいはその企業の財務内容はどうか、環境対策はどうかなど、自分の人生を深く考えることから情報の収集力を培うなどまで学習できる重要な分野なのです。つまり、個々人の就職であっても、就職するということは、実はその社会全体の文化と技術の承継であること、同時に「自分の人生と仕事」について学ぶ新しい専門領域なのです。「面接時に礼儀正しくしなさい」などと教えるようなレベルを申し上げているのではありません。つまり、就職活動は「仕事と人生」というくくりでの新しくて、かつ学生に必要な授業の領域になっているのです。従って授業として4年間、専門的に継続的に学習するカリキュラム編成が希求されます。そして、それを支援する新組織も必要になりましょう。新しいスーツを着込んで、焦心しながらエントリーした企業周りをするのが「就活」の本体ではないのです。
日本では、1970年代初期から、私がいたリクルート社が席巻し、政府の仕事斡旋センター「職安」だけの案内でない、もっと大がかりな「就職という社会の取り組み」が、社会各層に浸透し始めたのでした。特に80年代からは大学の社会における位置が大きく変動し、「大学は象牙の塔であり、学問を修めさえすればいい」という位置から、「社会に貢献する高度知識人財の育成」という方向に向かったのでした。従って、「卒業すれば、大学の役目は終えた」、から「学生一人一人の能力に合う適職」を提示し、就職して新たな人生を始めるまでを、大学が支援する体制に大きく変わったのでした。もちろん、個人の自立性を考えると、賛否両論がないわけではないですが、研究者にならない大多数の学生の社会への流入と受け入れは、社会的な要請として、その体制が新たに秩序付けられてきたわけなのです。
1960、70年代には、大学の中の掲示板に企業からの社員募集の紙を張り出すだけそして、企業ファイルを見られるだけの「就職部」はありました。が、80年代以降「キャリアセンター」として、大学側からの積極策が具体化してきました。大学として正式に就職活動を支援し始めたのです。また、変わったのは大学だけではありません。企業も採用をより戦略化し、本格化したのも同時代です。つまり、人材は、「人財」であること。企業に有益な優良人物はなかなか見つけられない現実の中で、如何に戦略的に獲得できるか・・・。企業は「人」で成り立っているからです。日本では大学、企業共に「人財」を通じて大きく、変容しました。が、それは80年代です。そんなに昔ではありません。
私たちは、2005年の開校以降、現在までにBK(ハノイ工科大学)の学生を中心に140名以上の「決意した青年」を、日本全国の優良中堅企業(メーカー)に、正社員エンジニアとして送り出してきました。それも、日本企業の現場の中で、新人エンジニアとしてすぐさま稼働できる人材を送り出してきました。このことはベトナムの政府だけでなく、日本の工業関係団体、中小企業の団体から、大いにご評価いただいて居ます。今まで3回、4回と継続的に採用いただいている企業、既に15名もの卒業生を採用いただいて居る企業なども在ります。企業規模は、50人から3000人ぐらいの日本の産業の裾野(すその)のまさに中核的企業群です。その中には東証一部上場企業も2社含まれています。
日本の法務省は、現在ベトナムの理工系出身者だけでなく、文化系出身者の日本での就職も大幅に認める傾向に変化してきました。「人文知識国際業務」というカテゴリーのビザの給付です。ただこれだけですと、まだ、通訳や翻訳などの範囲に収斂されるので、やはり、「日本の銀行が銀行の業務の担当者として」「証券会社が、証券業務の担当者として」「「出版社が、編集者として」ベトナム人が採用されるための育成体制が今後問われることになってくるでしょう。BKのIT学部では、既に特別のクラス編成をして、「日本語でITを学び実習する」授業が5年前から始まっています。
さて、セミナーやシンポジウムは議論するだけに終わるモノが多い。が、このシンポでは、「執行」を念頭において、具体化を話し合いましょう。
1 日本本土の日本企業就職を目的とした「毎年100名計画」を立てま
しょう。ハノイの日本企業へ就職するだけではなく、正社員とし
て採用され日本へ渡航・就労する学生100名の育成計画です。
2 そのためには、日本語学部の一年生入学時点から、「日本にいく
学生のための特別な授業」がカリキュラム化されなければなりま
せん。内容はまだ、研究中ですので、ここには記載いたしません。
3 更にそれらの学生を支援する体制が必要です。いわば「日本語学
部キュアリアセンター」です。ここでは、日本政府のお墨付きを
いただけば、就職問題が解決するモノではありませんので、マー
ケティング的戦略と中小企業との地道な組織化の活動が必要です。
ここでは詳細計画を明らかにする時間はありませんが、大学が本
格的に動き始めたとき、中小企業のパワフルなニーズの大風が吹
いてくるはずです。
日本社会は、誠実で頑張るベトナム人に好意を持っています。
そして、期待しています。また、現在、残念ながら、日本では企
業が求める優秀な人材が激減しています。
日本企業は、日本語の能力の高さだけを求めていません。むしろ、「伸びしろ」と言われる、未来の可能性を求めています。ここに現実の真実のポイントが潜んでいます。 さあ、動き出しましょう。 以上。
ベトナムの理工系大学の精鋭をエンジニアとして採用しませんか?
当ハノイ日本アカデミーはハノイ工科大学と提携しています。
世界の不況が長期化し、低迷が続く日本。その中にあっても、何とか成長を維持し、アジアの元気の素となっているベトナム。そのベトナムに進出の可能性を探りませんか。そして、その時必要になるのが将来のコア・エンジニアとなる精鋭たちです。この今だからこそ、優良なベトナム人エンジニアを採用し、不況明けに備えませんか。人材の確保はそろそろ積極策にでたいものです。日本企業に就職し、プロのエンジニアとして活躍したいと願っている大卒理工系の青年たちは数多く居ます。その中の最優良な数十人が私たち『ハノイ日本アカデミー』で日本語と日本の社会・企業システムなどを毎日猛烈に学習しています。
ウラのページ
《ベトナムは人材供給基地》ベトナムは8600万人の人口の半分が25歳以下の若い国です。かつ、理数系が強く記憶力なども大変優れた民族です。日本の産業界は今、企業のコアである開発のエンジニア(技術者)が何万人も不足しています。不況明けは、更なる不足が予想されます。半導体、機械設計、金型、IT、電機、ロボット、精密機械、化学関連・・このエンジニアの構造的な不足は、日本の産業構造を揺るがす大きな問題となっています。
2006年秋、日本とベトナムは戦略的パートナー宣言を協定しました。重要な点は日本政府がベトナムに対して「今後の最も大切な人材供給基地」と位置づけたことに有ります。
《当校の概要》2005年の開校(ハノイ市)以来、既に約140名以上の卒業生が日本に就労ビザで渡航し、日本全国の優良中堅企業で正社員の若手エンジニアとして活躍しています。
現在、日本人教員4名、ベトナム人教員2名の陣容で、毎年数十名の精鋭を日本企業に供給できる体制を作っております。2008年3月、ベトナム随一の国立ハノイ工科大学(正式名称BACH KHOA・5年制度)と当校は「日本語教育と就職支援」の業務協定を締結しました。また、本校の日本語の授業及び企業内コミュニケーション教育、技術者教育の実績は既に採用いただいたお客様はじめ各方面からご評価をいただいており、顧客様からのリピートオーダーも多数いただいております。3回目とか4回目の採用をいただいている企業もあります。
《当校へのご支援など》
今までセミナーなどの催事は社団法人九州経済連合会、社団法人九州ニュービジネス協議会、社団法人大阪国際ビジネス振興協会、社団法人静岡県国際経済振興会、社団法人岡山県国際経済交流協会、福岡商工会議所、早稲田大学ベトナム総研などのご後援や、東京都庁と東京都中小企業振興公社などのご視察もいただきました。また、在日ベトナム大使館、ベトナム労働省などのご支援もいただいています。更にNHK「おはよう日本」、日経新聞、日刊工業新聞などで、何回も好意的に取り上げられております。
《NPO法人VCI人材戦略研究所が運営》
VCI人材戦略研究所は2004年から任意団体として活動し2007年東京都からNPO法人として認証されました。ハノイにあるハノイ日本アカデミーはこの法人が運営する学校の名称です。当校によるこの“日本語ができる理工系学生の輩出”は、エンジニア不足に悩んで居られる中堅企業の人材戦略の一つの「解」と考えています。現在当「ハノイ日本アカデミー」で学ぶ学生のハノイ工科大での履修学部は、主に機械工学部、電機工学部、電子学部、IT学部、化学部、数学部、物理学部などです。
私たちは日本の教育分野のNPOとして、ベトナム人青年の夢の実現を支援しています。
《卒業生を採用いただいている企業》
採用いただいた全国の日本企業は東証第一部上場企業2社を含む約50社以上あり、多くの企業規模は従業員約50名から3000名規模のまさに中堅企業です。半導体、半導体装置、精密機械、金型、電機、機械設計,IT系(システム開発、組み込み系、ソフト開発など)、ロボット、鉄工・溶接など多様な分野の企業です。社名など詳細は、WEBサイト www.vietnam-waseda.org をご高覧ください。
《当校は日本企業に正社員エンジニアとして就職するための学校です。》
当校の学生は毎日8時間、約9ヶ月間にわたり日本語コミュニケーション教育、企業内コミュニケーション教育、技術者教育などを猛烈に学習します。合計は約1560時間です。卒業時は日本語能力試験の3級以上で2級の下のラインが平均値(N3)です。優良学生はほぼ2級レベルです。当校では夏、秋、春の年3回卒業があり、日本企業は各卒業前にハノイで面接し、採用します。当校の特徴は研修や派遣ではなく”御社の培ってきた技術を承継できる若手の正社員エンジニア”を採用できるということです。つまり、長期雇用が見込める事です。
費用や手続き、ビザ関係につきましては、お問い合わせください。
お問い合わせ abevci@vietnam-waseda.org
090-1767-7063 (日本の携帯 阿部) 以上
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■以下は近日、国際協力基金主催の「日本語教育国際シンポ」で講演する際の僕の予定原稿です。ベトナムの大学の日本語学部に向けた提案でもあります。
『日本に渡航して優良企業に就職するということを学生の目標とさせ、そしてその就職を確実に加速させるために』
〜〜学生の自己実現の第一歩は就職にあり〜〜
私は1970年代に就職関連の専門企業「リクルート」に勤務しておりました。リクルート社とは1960年当時、東大生であった一人の学生のベンチャー起業として出現し、今では巨大な情報企業となって日本では誰でも知っている、また、学生と企業には無くてはならない企業となっています。さて、その後、私は1980年マーケティングの企業を興しました。その仕事の関係で私は1993年に初めて、ベトナムの地を踏みました。そして2,3年後からベトナム交通運輸省、ベトナム外務省、MPI、観光総局(当時)、情報文化省の日本国へのパブリック・リレーション(PR)を各省の依頼に基づいて展開してきました。更に2005年、「理工系優秀学生の夢を実現する就職プレップ(準備)学校」として、当校を開校し今に続いております。これは、日本とベトナムにおける「就職と若い労働力」のマッチングを構想した2006年の両国政府の「日越パートナー宣言」の方向に沿ったものとして継続しております。
学生による「企業への就職活動」というものは、どうも偏った方向に流されていますが、情報と技術(知識)と人間形成が問われる大学生活にとって重要な活動なのです。スポーツマンが、努力し鍛錬するのと同じように、科学者が実験を来る日も来る日も地道に実践するように、就職活動は学問と同様で、「人間にとって仕事とは何か」を問い、自分にとっての適職は何なのか、それは社会に貢献できる仕事かどうか、あるいはその企業の財務内容はどうか、環境対策はどうかなど、自分の人生を深く考えることから情報の収集力を培うなどまで学習できる重要な分野なのです。つまり、個々人の就職であっても、就職するということは、実はその社会全体の文化と技術の承継であること、同時に「自分の人生と仕事」について学ぶ新しい専門領域なのです。「面接時に礼儀正しくしなさい」などと教えるようなレベルを申し上げているのではありません。つまり、就職活動は「仕事と人生」というくくりでの新しくて、かつ学生に必要な授業の領域になっているのです。従って授業として4年間、専門的に継続的に学習するカリキュラム編成が希求されます。そして、それを支援する新組織も必要になりましょう。新しいスーツを着込んで、焦心しながらエントリーした企業周りをするのが「就活」の本体ではないのです。
日本では、1970年代初期から、私がいたリクルート社が席巻し、政府の仕事斡旋センター「職安」だけの案内でない、もっと大がかりな「就職という社会の取り組み」が、社会各層に浸透し始めたのでした。特に80年代からは大学の社会における位置が大きく変動し、「大学は象牙の塔であり、学問を修めさえすればいい」という位置から、「社会に貢献する高度知識人財の育成」という方向に向かったのでした。従って、「卒業すれば、大学の役目は終えた」、から「学生一人一人の能力に合う適職」を提示し、就職して新たな人生を始めるまでを、大学が支援する体制に大きく変わったのでした。もちろん、個人の自立性を考えると、賛否両論がないわけではないですが、研究者にならない大多数の学生の社会への流入と受け入れは、社会的な要請として、その体制が新たに秩序付けられてきたわけなのです。
1960、70年代には、大学の中の掲示板に企業からの社員募集の紙を張り出すだけそして、企業ファイルを見られるだけの「就職部」はありました。が、80年代以降「キャリアセンター」として、大学側からの積極策が具体化してきました。大学として正式に就職活動を支援し始めたのです。また、変わったのは大学だけではありません。企業も採用をより戦略化し、本格化したのも同時代です。つまり、人材は、「人財」であること。企業に有益な優良人物はなかなか見つけられない現実の中で、如何に戦略的に獲得できるか・・・。企業は「人」で成り立っているからです。日本では大学、企業共に「人財」を通じて大きく、変容しました。が、それは80年代です。そんなに昔ではありません。
私たちは、2005年の開校以降、現在までにBK(ハノイ工科大学)の学生を中心に140名以上の「決意した青年」を、日本全国の優良中堅企業(メーカー)に、正社員エンジニアとして送り出してきました。それも、日本企業の現場の中で、新人エンジニアとしてすぐさま稼働できる人材を送り出してきました。このことはベトナムの政府だけでなく、日本の工業関係団体、中小企業の団体から、大いにご評価いただいて居ます。今まで3回、4回と継続的に採用いただいている企業、既に15名もの卒業生を採用いただいて居る企業なども在ります。企業規模は、50人から3000人ぐらいの日本の産業の裾野(すその)のまさに中核的企業群です。その中には東証一部上場企業も2社含まれています。
日本の法務省は、現在ベトナムの理工系出身者だけでなく、文化系出身者の日本での就職も大幅に認める傾向に変化してきました。「人文知識国際業務」というカテゴリーのビザの給付です。ただこれだけですと、まだ、通訳や翻訳などの範囲に収斂されるので、やはり、「日本の銀行が銀行の業務の担当者として」「証券会社が、証券業務の担当者として」「「出版社が、編集者として」ベトナム人が採用されるための育成体制が今後問われることになってくるでしょう。BKのIT学部では、既に特別のクラス編成をして、「日本語でITを学び実習する」授業が5年前から始まっています。
さて、セミナーやシンポジウムは議論するだけに終わるモノが多い。が、このシンポでは、「執行」を念頭において、具体化を話し合いましょう。
1 日本本土の日本企業就職を目的とした「毎年100名計画」を立てま
しょう。ハノイの日本企業へ就職するだけではなく、正社員とし
て採用され日本へ渡航・就労する学生100名の育成計画です。
2 そのためには、日本語学部の一年生入学時点から、「日本にいく
学生のための特別な授業」がカリキュラム化されなければなりま
せん。内容はまだ、研究中ですので、ここには記載いたしません。
3 更にそれらの学生を支援する体制が必要です。いわば「日本語学
部キュアリアセンター」です。ここでは、日本政府のお墨付きを
いただけば、就職問題が解決するモノではありませんので、マー
ケティング的戦略と中小企業との地道な組織化の活動が必要です。
ここでは詳細計画を明らかにする時間はありませんが、大学が本
格的に動き始めたとき、中小企業のパワフルなニーズの大風が吹
いてくるはずです。
日本社会は、誠実で頑張るベトナム人に好意を持っています。
そして、期待しています。また、現在、残念ながら、日本では企
業が求める優秀な人材が激減しています。
日本企業は、日本語の能力の高さだけを求めていません。むしろ、「伸びしろ」と言われる、未来の可能性を求めています。ここに現実の真実のポイントが潜んでいます。 さあ、動き出しましょう。 以上。
2010年12月9日木曜日
ジョン・レノンの死と僕らの死
12月8日は、言うまでも無い、ジョンレノンの命日だ。今でも鮮明に覚えている。1980年12月8日日本時間4時頃僕は何故か喫茶店にいた。ある会社のお客様と一緒だったと思う。店では何人ものサラリーマンたちが、いつもより新聞を大きく広げ、紙面を目で追っていた。そういう人が、4人も5人もいた。ちょっと異様な風景であったように記憶に染みている。で、紙面を大きく広げている人たちは、集中していながらも連れの相方となんとかなんとかと、話していた。普通じゃあないのだ。紙面の端に大きな黒地の大見出しが見える。大きな事件か事故の際にみられる紙面のレイアウトとレタリングだ。ぼくは、ためらうこともなく、隣のボックスの30才ぐらいの新聞を大きく広げている人に聞いた。
「何かあったのですか」と。彼もためらうことなく、むしろ第一発見者のような顔つきで僕に言った、ジョンレノンが殺されたんです、と。そうか、やっぱり大事件が起きていたのだ、それもあってはならない事が起きたらしい。ジョンが撃ち殺されたのだという。僕は隣のボックスに身を乗り出してその答を聞き、紙面の一部を見せてもらっていたので、反射的に僕のテーブルの対面にいる親しいお客さん、彼も僕の世代だ、に振り返って「ジョンレノンが・・」と言ったら、彼もつぶやくようにあああ、と血相を変えた面持ちで言った。これから来る時代の不安というか、黒い色の苛立ちが1980年12月8日のこの新宿の喫茶店の空気を支配していたとその時感じた。
その後の記憶は一切無い。その夜はどんな夜を過ごしたのだろうか。当時妻晃子の実家の一角に居を構えていた僕は、多分ビートルズの曲など聴かずに彼女と過ごしたと思う。沈黙しジョンレノン以後の世界について話していたのかもしれない。聡明な晃子は彼の死に振り回されることないように僕に何かやさしく意見していたんじゃあないかと思う。ともかく、まったく、記憶の破片もない。ただ、紛れもなく記憶しているのは次の朝に車の助手席にいたことだ。僕はカーラジオから流れる追悼の「イマジン」や「マザー」を聞いている訳でもないのに涙が止めどなく溢れ静かに泣きながら、目的地に向かった。もちろん、なぜ車に乗っていたかも忘れた。電車のつり革に掴まりながら、車窓から見える朝の明るい朝日に描かれた移り動く風景をぼんやり見つめながら涙していた記憶もあり、同じ日なのか、次の日なのか。
ここに、多くの友人たちの死も書こうと思ったが、まだ時期は早すぎるらしく、キーボード打つ指先に力も魂も入らない。情景だけが浮かんでも、文はまったく浮かんでこない。ちょっと中断。と言うより、中止の模様。
「何かあったのですか」と。彼もためらうことなく、むしろ第一発見者のような顔つきで僕に言った、ジョンレノンが殺されたんです、と。そうか、やっぱり大事件が起きていたのだ、それもあってはならない事が起きたらしい。ジョンが撃ち殺されたのだという。僕は隣のボックスに身を乗り出してその答を聞き、紙面の一部を見せてもらっていたので、反射的に僕のテーブルの対面にいる親しいお客さん、彼も僕の世代だ、に振り返って「ジョンレノンが・・」と言ったら、彼もつぶやくようにあああ、と血相を変えた面持ちで言った。これから来る時代の不安というか、黒い色の苛立ちが1980年12月8日のこの新宿の喫茶店の空気を支配していたとその時感じた。
その後の記憶は一切無い。その夜はどんな夜を過ごしたのだろうか。当時妻晃子の実家の一角に居を構えていた僕は、多分ビートルズの曲など聴かずに彼女と過ごしたと思う。沈黙しジョンレノン以後の世界について話していたのかもしれない。聡明な晃子は彼の死に振り回されることないように僕に何かやさしく意見していたんじゃあないかと思う。ともかく、まったく、記憶の破片もない。ただ、紛れもなく記憶しているのは次の朝に車の助手席にいたことだ。僕はカーラジオから流れる追悼の「イマジン」や「マザー」を聞いている訳でもないのに涙が止めどなく溢れ静かに泣きながら、目的地に向かった。もちろん、なぜ車に乗っていたかも忘れた。電車のつり革に掴まりながら、車窓から見える朝の明るい朝日に描かれた移り動く風景をぼんやり見つめながら涙していた記憶もあり、同じ日なのか、次の日なのか。
ここに、多くの友人たちの死も書こうと思ったが、まだ時期は早すぎるらしく、キーボード打つ指先に力も魂も入らない。情景だけが浮かんでも、文はまったく浮かんでこない。ちょっと中断。と言うより、中止の模様。
2010年12月3日金曜日
50年前のアンドロイド
■アンドロイド。何となく語呂が良く、未来がイメージできる様な言葉だ。ご存じのようにアンドロイドはグーグルの携帯用の新プラットホームだ。リナックスと同様のオープンソースなので、グーグルは、無料でアプリ各社に解放している。ハノイでも、アンドロイドのアプリ開発の会社も増えたようだ。SKYPEも使える様だから、通信の環境はより「無料化」に向かって進展してゆくだろう。このアンドロイドを導入した「au」の幹部もインタビューで、今後通信は無料になるだろうといいきっているし、トレンドはその無料の方向で大きく確実に歩み出したといえる。そういうインターネット・通信世界の怒濤の流れは、やはりマイクロソフトのビジネスモデルを既に過去のものにしつつあるね。
アンドロイドの広告は、あのレディーガガだ。中高年の皆さんも駅や車両のポスターで見かけるやや怪しげ、と言うより病的にさえ見受けられ、ちょっと硬質のソバージュのヘアーの女性のあの写真だ。目に隈ができていて、それは何か秘密めいている。「解禁」という文字もポスターに刻印されており、これは「通信がスカイプに依ってすべて無料になる」という今までの常識からの解放を暗示しているようだ。彼女はもともと1960年代末からイギリスで生起したグラムロック系の流れのアーチストでもあるので、このアンドロイドの広告はインターネットの原点であるヒッピー黎明の思想を垣間見せるコンセプトでまとめている様だ。ガガの化粧は60年代の平凡パンチなど当時の尖ったメディアにいろいろ登場した「思索する女」「闘う女」「飛ぶ女」「解放された女」の系譜をたぐり寄せ演出しているかのようだ。最近の「女子」とは、真反対の位置にある女性のイメージである。だから、僕のような60才代には、好みだし、理解もできる格好良さである。ああいうイメージの女子大生は、当時早稲田とか多摩美、武蔵美、日大の江古田あたりにわんさか居たものだ。
だからアンドロイドの言葉自体に懐かしさもある。僕は小学校高学年でこのANDROIDを知っていたからね。アンドロイドはヒューマノイド、ロボイドなどの造語と共に手塚先生の「鉄腕アトム」と、横山光輝さんの「鉄人28号」で既に登場していた。だから、ちょうど50年前ということになるね。これを読んでいるご同輩は「そうそう、覚えているよ」という人が多いに違いない。人造人間を意味するアンドロイドは音も意味合いも、インパクトがあるうえに記憶に残りやすい音声の構成になっている。一番多感な小学校の時に出会った、今となっては「懐かしき未来」。僕の記憶の海の底で静かに眠っていた言葉である。
■だんだん本を読むスピードと意欲が減退している様な気がする。半年前のこのブログで人生を終えるまで本をあと何冊読めるかをざっと計算したことがあった。そのときの基礎数字を年100冊とした。ここが大間違いだなあと最近とみに感じ始めた。昔は年に200〜300冊の本を約40年間買いまくり続けてきたとおもう。でも、今と違うのは本は読む本とは限らず、見る本もたくさん買っていた。多いのは美術書、建築書、写真集などが。また、たまにしか使用しないのだが、参考本、事典類も随分買った。また、買ったはいいが、意外につまらないので、うち捨てた状態のままの本も少なくない。目次とラストの解説ぐらいで放棄した本だ。従って、心してほぼ読了してきたのは、年100〜150冊位なのだろうか。
であれば、今後読む本は老人の僕にとって年間100冊で在るわけがないので、基礎数字を大幅に見直すことが必要であろう。最近はお金がないので、美術本、画集、書道書、写真集などは、全然買えないし、参考の本も買っていない。お金がもったいないものね。妻が生きていたときは、「しおこりもなく余計な本」を買ってしかられたものだった。いまごろ、晃子(てるこ)のいうことを聞いても遅いのだが、ともかく、現在は読む本しか買わない事に徹している。まあ、年に40冊だろうなあと、大幅に基礎数字を削減するね。また、今後何年生きるかだね。また、本を両手に持って、読書できる肉体をいつまで維持できるか。iPad等を使うようになるかもしれないが、もっと老人用に軽量になるとありがたいな。それはそうと計算する。一応、いきなり死ぬかもしれないが、元気さがまあまあ維持できれば、20年後の82才まで読み続けられると想定したい。であれば、40冊×15年=600冊、で、77才以降、量を減らして・・・24冊×5年=120冊。
ふむふむ・・というより、まいったなあ、というほか無い。この大事な人生で、人生あと僅か720冊しか読めないんだとさ。非道いなあ、神も予想以上に無慈悲だ。ほんとかよ〜、って感じです。目の前真っ暗くらだぜ。前は1500冊ぐらいの予想で、それでも、愕然ときて、読書の対象をもう日本の古典や名著といわれる作品だけにせざるを得ないと覚悟したわけだが、720じゃあ、どうすればいいのか。とんと見当がつかない。で、そろそろと思い昨日「天皇の世紀」の第五巻、第六巻を買った。これは12巻もの故、やっと、半分。で古典に絞らざるを得ないと思っても現代人もなかなかな著作を世に送ってくるので、また、幾つか、馬場あたりで、何冊か買ってしまった。「ヌーベルバーグの時代」(紀伊国屋書店)、書店をパトロール中にタイトルで衝動買い。本の装丁で買ったしまった。で帰ってから見ると、あれれれ似たような本が前も何冊か買っていたし、データ中心のもので、ちょっとしくじった。内田樹「武道的思考」(筑摩書房)の新「筑摩選書」の第一冊目だ。期待して買った。この新しい筑摩の選書シリーズは期待できる。筑摩はやはり流石だぜ。玄侑さんの「荘子と遊ぶ」、橋本治の「日本芸能史」、多木浩二さん「暴力論」、松井孝典さん「地球学的環境論」、池田晴彦さん「生きているとはどういうことか」とか、刺激的な本の予定リストが並んでいる。多木さん、松井さんは、かつて仕事でご一緒した方である。松井さんのは題名が貧相だね、彼らしくない。
東浩紀「日本的想像力の未来・・クールJAPANの可能性」(NHKブックス)、長谷川三千子さん「日本語の哲学へ」(筑摩新書)、フランスガリマール社の翻訳もの「フェリーニ」(祥伝社)、村山斉「宇宙は何でできているのか」(幻冬舎新書)、柳瀬尚紀「日本語ほど面白いものはない」(新潮社)も購入した。東さんのは、俊英の日本人論を読みたくて。偉大な映画監督フェデリコ・フェリーニの関連本は、自伝も含め結構持っているが、今回も何となく手が出てしまった。それの版元の「祥伝社」はかつて最悪雑誌「微笑」を出していたはず。ちょっと方向を変えたのかな。長谷川さんのは、読み始めた。和辻哲郎と対峙した展開で、魅惑的だ。東大のIPMUの初代所長村山さんの素粒子の知識にわくわく、これは新聞広告見ていて予定して買った。柳瀬本は、これは予定外だが、小学生との対話は僕の目線を引きつけた。さあ、早くも古典と名著だけで突っ走るとの決意も無理のようだ。
アンドロイドの広告は、あのレディーガガだ。中高年の皆さんも駅や車両のポスターで見かけるやや怪しげ、と言うより病的にさえ見受けられ、ちょっと硬質のソバージュのヘアーの女性のあの写真だ。目に隈ができていて、それは何か秘密めいている。「解禁」という文字もポスターに刻印されており、これは「通信がスカイプに依ってすべて無料になる」という今までの常識からの解放を暗示しているようだ。彼女はもともと1960年代末からイギリスで生起したグラムロック系の流れのアーチストでもあるので、このアンドロイドの広告はインターネットの原点であるヒッピー黎明の思想を垣間見せるコンセプトでまとめている様だ。ガガの化粧は60年代の平凡パンチなど当時の尖ったメディアにいろいろ登場した「思索する女」「闘う女」「飛ぶ女」「解放された女」の系譜をたぐり寄せ演出しているかのようだ。最近の「女子」とは、真反対の位置にある女性のイメージである。だから、僕のような60才代には、好みだし、理解もできる格好良さである。ああいうイメージの女子大生は、当時早稲田とか多摩美、武蔵美、日大の江古田あたりにわんさか居たものだ。
だからアンドロイドの言葉自体に懐かしさもある。僕は小学校高学年でこのANDROIDを知っていたからね。アンドロイドはヒューマノイド、ロボイドなどの造語と共に手塚先生の「鉄腕アトム」と、横山光輝さんの「鉄人28号」で既に登場していた。だから、ちょうど50年前ということになるね。これを読んでいるご同輩は「そうそう、覚えているよ」という人が多いに違いない。人造人間を意味するアンドロイドは音も意味合いも、インパクトがあるうえに記憶に残りやすい音声の構成になっている。一番多感な小学校の時に出会った、今となっては「懐かしき未来」。僕の記憶の海の底で静かに眠っていた言葉である。
■だんだん本を読むスピードと意欲が減退している様な気がする。半年前のこのブログで人生を終えるまで本をあと何冊読めるかをざっと計算したことがあった。そのときの基礎数字を年100冊とした。ここが大間違いだなあと最近とみに感じ始めた。昔は年に200〜300冊の本を約40年間買いまくり続けてきたとおもう。でも、今と違うのは本は読む本とは限らず、見る本もたくさん買っていた。多いのは美術書、建築書、写真集などが。また、たまにしか使用しないのだが、参考本、事典類も随分買った。また、買ったはいいが、意外につまらないので、うち捨てた状態のままの本も少なくない。目次とラストの解説ぐらいで放棄した本だ。従って、心してほぼ読了してきたのは、年100〜150冊位なのだろうか。
であれば、今後読む本は老人の僕にとって年間100冊で在るわけがないので、基礎数字を大幅に見直すことが必要であろう。最近はお金がないので、美術本、画集、書道書、写真集などは、全然買えないし、参考の本も買っていない。お金がもったいないものね。妻が生きていたときは、「しおこりもなく余計な本」を買ってしかられたものだった。いまごろ、晃子(てるこ)のいうことを聞いても遅いのだが、ともかく、現在は読む本しか買わない事に徹している。まあ、年に40冊だろうなあと、大幅に基礎数字を削減するね。また、今後何年生きるかだね。また、本を両手に持って、読書できる肉体をいつまで維持できるか。iPad等を使うようになるかもしれないが、もっと老人用に軽量になるとありがたいな。それはそうと計算する。一応、いきなり死ぬかもしれないが、元気さがまあまあ維持できれば、20年後の82才まで読み続けられると想定したい。であれば、40冊×15年=600冊、で、77才以降、量を減らして・・・24冊×5年=120冊。
ふむふむ・・というより、まいったなあ、というほか無い。この大事な人生で、人生あと僅か720冊しか読めないんだとさ。非道いなあ、神も予想以上に無慈悲だ。ほんとかよ〜、って感じです。目の前真っ暗くらだぜ。前は1500冊ぐらいの予想で、それでも、愕然ときて、読書の対象をもう日本の古典や名著といわれる作品だけにせざるを得ないと覚悟したわけだが、720じゃあ、どうすればいいのか。とんと見当がつかない。で、そろそろと思い昨日「天皇の世紀」の第五巻、第六巻を買った。これは12巻もの故、やっと、半分。で古典に絞らざるを得ないと思っても現代人もなかなかな著作を世に送ってくるので、また、幾つか、馬場あたりで、何冊か買ってしまった。「ヌーベルバーグの時代」(紀伊国屋書店)、書店をパトロール中にタイトルで衝動買い。本の装丁で買ったしまった。で帰ってから見ると、あれれれ似たような本が前も何冊か買っていたし、データ中心のもので、ちょっとしくじった。内田樹「武道的思考」(筑摩書房)の新「筑摩選書」の第一冊目だ。期待して買った。この新しい筑摩の選書シリーズは期待できる。筑摩はやはり流石だぜ。玄侑さんの「荘子と遊ぶ」、橋本治の「日本芸能史」、多木浩二さん「暴力論」、松井孝典さん「地球学的環境論」、池田晴彦さん「生きているとはどういうことか」とか、刺激的な本の予定リストが並んでいる。多木さん、松井さんは、かつて仕事でご一緒した方である。松井さんのは題名が貧相だね、彼らしくない。
東浩紀「日本的想像力の未来・・クールJAPANの可能性」(NHKブックス)、長谷川三千子さん「日本語の哲学へ」(筑摩新書)、フランスガリマール社の翻訳もの「フェリーニ」(祥伝社)、村山斉「宇宙は何でできているのか」(幻冬舎新書)、柳瀬尚紀「日本語ほど面白いものはない」(新潮社)も購入した。東さんのは、俊英の日本人論を読みたくて。偉大な映画監督フェデリコ・フェリーニの関連本は、自伝も含め結構持っているが、今回も何となく手が出てしまった。それの版元の「祥伝社」はかつて最悪雑誌「微笑」を出していたはず。ちょっと方向を変えたのかな。長谷川さんのは、読み始めた。和辻哲郎と対峙した展開で、魅惑的だ。東大のIPMUの初代所長村山さんの素粒子の知識にわくわく、これは新聞広告見ていて予定して買った。柳瀬本は、これは予定外だが、小学生との対話は僕の目線を引きつけた。さあ、早くも古典と名著だけで突っ走るとの決意も無理のようだ。
2010年11月21日日曜日
大卒者の就職率57%の実相 / 「天皇の世紀」
*当ハノイ日本アカデミーの教職員のメンバーの久しぶりの記念写真です。ハノイビンコムタワービルそばのレストランにて。食事の後に勢揃いです。
■さて、就職氷河期の再来らしい。前より深刻の様だ。企業の採用意欲の減退とか、採用不能な環境は、我々海外で優秀青年の就職を日本企業に提案している学校にとっても、バッドニュースだ。暗澹たる気持ちになってしまう。企業の特に中小企業の採用意欲が後退することは、当校のような海外にある就職プレップスクールにとっては、困った事態なのだ。採用数が、目に見えて激減する訳だからね。でも、それだけではないんだ。今度のことはもっと複雑だ。むしろ、その数字とは逆にベトナム人の採用は今夏から、漸増しつつある。問題はこの数字が一人歩きし、日本のアジアや世界でのプレゼンス(存在意義、価値)の低下に直接繋がってしまう事なのだ。
日本のこの20年間の長期低迷は大変知られており、ベトナムの大学生なら大抵知っている。景気は上下し、今は不景気。だがまた、しばらくすれば上昇すると、アジアの若者が「今までのルール通りの」景気として理解しているのなら助かる。それならプレゼンスの低下には繋がらない。でも20年も低迷が継続し、ソニーに「冴え」が無くなり、トヨタも(誤解も多いが)権威が落下し、中国とかロシアとの島や国境のトラブルも解決不能で、ハーバード始め海外の有力大学に行く日本の若者が減少、毎年3万人の自殺がある国、アニメやマンガ、ゲームのサブカルだけが孤軍奮闘している日本の今の姿を、ベトナムの感度の高い青年たちは凝視している。こういう時期にこの57%の数字の作り出す影響は痛い。
日本の裾野の広い産業構造と高度で研ぎ澄まされた技術力。品質の高さとデザイニング力、もちろん今でも世界一であろう。欧米の老舗も舌を巻くクッキングの世界とホスピタリティーとサービス分野、これも今でも誰にもとやかく言わせないさ。「クール・JAPAN」も「カワイイ」も、優れた日本の文化だけど、いわずもがな日本の伝統的芸術と工芸品は今も圧倒的魅力にまだまだ満ちている。でも、アジアの青年たちとか世界のマスコミにとって、今の日本は退色しかかった形容しがたい社会に見えているのだと思う。輝きがないというか、冴えがないというか、間違いなく「不思議さ」が消え、感動を与える躍動感が減退し、低下しているのだ。
先日ハノイで日本の文科省関係のJASSO主催の「日本留学のためのイベント」に行った。僕は初めての見物なので、驚く事も多かった。文科省の「30万人留学生受け入れ計画」が仕分けの嵐の中でまだ生きているかどうか解らないが、会場には有力国立大学はじめ、私立も有名大学が勢揃いしていた。京大、東北大、大阪大、奈良女子大など最有力大学がブースをデンと構えていた。早稲田、慶応、立教など私立の雄と言われているところもかなりブース展開しており、日本国内の日本語学校や専修学校含めて多分100校程度は出店していたと思う。この催事の近年の大学などの出店数の増減と、来場のベトナムの高校生や大学生、親御さんの数字がどうであったか、まだ伺えていないが、印象としてはそれなりの混雑で、盛況と見えた。とくに、集中していたのが京大、大阪大、東北大と、早稲田慶応で、人だかり状態。で、反対に気の毒にもお客が誰もいない暇そうな大学や、日本語学校も多かった。つまり15〜20校ぐらいの有名大学に集中の印象であった。学生(お客さん)が、じり貧だからアジアの金持ちの子弟を入学させようと目論んでいる三流大学や同レベルの専門学校の意図は、ベトナム人の青年たちに既に見透かされているようだ。参加関係のデータが今まだ無いのでこの体験を正確に分析できないが、「日本留学試験」(JASSO主催)の高得点を獲得し有力大学を目指すベトナムの優秀層の日本への関心が、そう一挙に落下している訳ではないようだ。ちょっと安心。2006年秋に「日越パートナー宣言」を交わし、日本とベトナムが若者の人材供給と雇用促進で提携し、お互いの互恵関係を定めた国同士の良好な関係の現れの一つなのだろう。
この国の大学生の就職率が最悪の57%だと言う。その数字の出し方は、卒業生総数から、大学院や留学の進学者を引いた人数を母数にして就職者数を割ったものだ。マスコミによると毎年20パーセント程度は、学校に報告もないグループ、つまり、「ふらふら」している遊び人から、世を捨てて閉じこもっている人、フリーター、公務員試験浪人までおり、したがって、天井数は80%らしい。であれば、就職率80%を誇ったバブル時代は、三流大学やインチキ大学も含めて、実態はほぼ100%誰でも就職できたということになるのだから、相当凄い。それはそうと、学生の報告に依っているので、一人三つも四つももらった場合の内定数も混在しているので、知っててそれを含めて就職率をアップさせている不埒な三流大学も数多いので、就職率自体が、数字的に根拠が薄いんだ。有力国立大学、有名私大は、正式に数字を出していないようだが、毎年進学者、留学者を含んで70〜80%は就職できている様だ。大学院進学の数字は把握しやすいので、これ以上にはならない天井数字が80%である事を考えれば、有力大学とそれに近い伝統的大学の就職希望者のほぼ100%が本年も適当な企業や公務員、団体に収まっていると言うことだ。歴史的最悪数字の57%は、ここではピンと来ない。
以前テレビのニュースを見ていたら、女子大生数人がインタビューを受けていた。画面では、ヨーロッパを国名と思っていた者が一人、インドだったか国名は忘れたが、あるアジアの国を探すのに世界地図でヨーロッパやアメリカ大陸あたりばかり見ていて、見つからないと嘆く者一人。インタビューのアナウンサーも予定通り(シノプシス通り)女子大生がバカなので、ニコニコしていたが、あまりにも非道いので、心配になり正解が出そうな次の質問を放った。「日本はアジアにありますか?ヨーロッパですか。アメリカ大陸ですか、南極大陸にありますか?」4人は「アジアだよね。ヨーロッパ?中国だっけ?南極はちがうよねえ・・」とゾンビに肉体ごと乗っ取られたような答を4人で内部議論していた。おいおい〜、これが女子大生の実態とは言いたくないが、少なくともこのレベルは現実に居るのだ。足し算、かけ算ができない大学生。大学入学後に、高校の教科書を使って、復習の授業をやらざるを得ない一部の大学群。本当に無残だ。日本には現在大学が750、短大と他が400位で、つかみの数字で合計1200校らしい。ベトナムは8600万人で、大学が120校、そのうち首都ハノイに35校ある。全く環境が違うので、安易に数字だけを並列できないわけだが、ベトナムはまだ、優秀で意欲のある者だけが、大学に行く社会なのだ。
で、テーマは就職率57%の事だ。仕事が無い、無いと言いながら、何処まで真剣にアタックしているのだろうか。中小企業のメーカーやベンチャー、これからの介護・CO-メディカル系、海外の日本企業、海外の地元企業、若い内だけでもガテン系・・などに面接にも行かないで、困った困ったと親子で嘆いている輩が多いのではないか。大田区、墨田区、東大阪などの日本産業の裾野をささえる中小メーカーには、世界的な技術が宝のように眠っている。なぜ、そこのドアーをノックしないのだい?ドアを開ければ、多様な仕事場が待っていよう。少々給与が少なく、会社は小さくとも、自分がひたむきにがんばれば、自分の提案を社長が直に認めてくれる、そういう職場が無数に存在している。何故本気になって、自分の実力を発揮できる仕事を探さないのか。なぜ、溶接や旋盤をやらないのか。大卒者がそれをやっていけない法規があるのか。実際の天上数の80から57を引くと=23% この23%は、文科省の無能な政策のため、無理矢理に大学生にさせられた犠牲者なのだ。本当に気の毒としか言いようがない。上記の女子大生4名もその犠牲者なのさ。そのうえ、近年は話題のゆとり政策のこれも犠牲者の何百万人が、去年あたりから社会に出てきたようだ。前途洋々として、社会から祝福されるべき青年たちが社会全体から、さげすまれバカにされている時代って、今まであっただろうか。これは既に喜劇の領域だとしか言いようがない。
先ほど、ハノイでの「留学イベント」の模様を語った。特に優良大学にベトナム人の高校生、大学生の親子連れが殺到していたと書いた。
僕はいままで、東北大学の工学部大学院のハノイ試験実施プロジェクトに関わったので、知っていたが、あの優秀で有名な東北大の工学部の大学院でさえ、学生の質が低下しているという。その質とは、情報量とか、知的能力と言うことではなく、若者が持つ特有ながむしゃらさ、熱気などの精神に関係したことだと、担当の教授は僕に何度も話した。確かに”数学を解析するのにも豪腕さが必要”とよく聞くね。そういうがむしゃらなパワーとかハングリーさ、お腹だけでなく知識に対するハングリーさに充ち満ちているのが、青年だよね。そういう青年・学生を東北大工学部大学院は具体的に東南アジアで探し始めているのだ。そこでその会場の幾つかの大学ブースで担当者に聞いてみた。総じて大学関係者の意識は東北大学と同様な考えのようだ。アジアとの具体的交流を始めたいという平板な答を言う人も多いが煎じつめると、優秀なアジアの青年を入れる事での大学の質の防衛し、世界の荒波に対抗しようと言うことであろう。たいした根拠のないデータだが、東大が世界で20番そこらで、早稲田なんて300番以下程度だからね。でも、いろいろ話をお聞きすると、大学自身が何処まで本気になっているのか、まだ不明だといって良い。
僕は、今就職率57%という「就職難の国」へ、ベトナムの優秀でやる気のある青年エンジニア候補者を送り出している。23%(80−57)の卒業生つまり、15万人ぐらいの大学生が就職できていない現状がある一方、国内の日本企業は中国人、韓国人、ベトナム人、インド人などの優秀者をどしどし、採用している。ワーカーも含めると中国人は70万人、韓国人は20万人ほど日本に在留している。楽天の本社などは、今春400名ほど外国人を採用したと聞いた。つまり、この57%の就職率の実相はどういう事なのか。
1 私の知っている中小メーカーの社長さんたちの主な言を借りれば、こうだ。「まず、エントリーも、面接も数が少ない。もちろん、ゼロではないが、面接に来た人の質が問題だ。好意的に見ても、1年以内に辞めそうな人物か、仕事の初歩さえおぼつかない感じの人間が多い」という。これは大卒、高卒を問わずだ。若者をここで非難するつもりは毛頭無いが、面接に来ても、採用の基準に達していないのだ。どんなに小さい会社でも、しっかりした独自の採用の計画や基準はあるからね。
2 日本の中小企業で、技術を承継し、品質を守ろうとしている企業は、はっきり言って、その就職できない23%という15万人を採用したいとも、しようとも思っていないのだ。だって、大企業に使えない学生は中小企業だって使えないよ。中小企業には中小企業の誇りと伝統がある。逆に会社が小さい分、人材の質の低下は企業としての致命傷に繋がるのだ。例を言えば、日本の産業を特に牽引してきた自動車産業はガソリンから「燃料電池」や「電気」へとエネルギーが変わるだけでなく、電気自動車などはエンジンが不要になり、1台の自動車の部品が3万個から1万個に激減するのだ。すなわち日本の産業構造が大きくシフト変動するのだ。したがって、産業の裾野が変わるこの大きな変革期にバカは採用できないのさ。むしろ、下請け構造から脱しようと、より良い人材を求め始めているんだ。そこに学問の基礎部分が不安な「ゆとり世代」を押しつけられても困るのだ。余裕の大企業が彼らを引き受けるべきだという政策提案したいと誰かが言っていた。
言いたくないが、80−57=23%の中に入ってしまった学生は、中小企業も彼らに採用意欲は無いと言うことだ。冷静に受けとめてほしい。いいかい、世界中に面白くて、意義のある仕事は山ほど転がっている。発想を変えてくれ、疲れた学生諸君。
学生の諸君、ごめんなさいね、バカ呼ばわりして。本当に気の毒に思う。君らだけの責任じゃあない。自分を信じて、別の方向を模索するといいよ。突飛と思われようが、新しいことを探せよ。歴史上始まって以来じゃあないかなあ。若者が大人にバカにされているなんて、あってはならない事態だぜ。歴史はいつも若者が大人をバカにし無視して、時代を超越し新しい時代を築いてきたものだ。三井物産にせっかく入ったと言う青年が海外駐在をいやがったり、アメリカを始め世界へ出ていた留学生が激減している内向きの時代の話題を聞くたびに悲しいなあと心から思う。
この「日本の大卒者の就職率57%」は世界のジャーナリズムの中で行き交うだろう。実態を物語っていないこのデータがアジアの青年たちの日本への興味や渡航意欲を減退させて行く。僕は、当校の優秀学生たちに「日本の大学生の70%は君らの競争相手じゃあない。心配するな。むしろ、日本に居て頑張っている何十万人かの韓国、中国、台湾、インドの青年たちが怖い敵だ」と叱咤・アドバイスしている。
■大佛次郎「天皇の世紀 文春文庫十二巻」の第四巻の130頁に来た。やっとだね。このブログで確認すると8月4日に読み始めたようだ。10月10日のブログには、第二巻の320頁とあるから、まあ順調に読み進めている。マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」は、前に書いたようにイントロが平板なビジネス書のようで、僕の読む気をそいだので、現在は気の毒にもトイレで読む本にランク下げ。トイレじゃあ、小用では流石本は読まないので、読書は大便に限られるわけだが、長くて10分だから、そうは進まないね。前田愛の「幻景の明治」(岩波現代文庫)は、7〜8年前に買った本だが、読み直していると、新たな発見がある。いま、僕自身が幕末・明治の本を立て続けに読破しているので、理解がちょっと進んだ感があるね。天皇の世紀の第三巻と第四巻は桜田門外の変を含む水戸の怒濤のような攘夷の風が、長州や薩摩を動かし、島津久光がクーデターのように上洛し、その後に江戸への進軍。力付いた朝廷・禁裏勢の巻き返しが開始される。禁を解かれた一橋慶喜。大久保一蔵(利通)や岩倉具視、伊藤博文、桂小五郎(木戸孝允)下級の官僚・武士たちの台頭と、東善寺襲撃事件とか生麦事件とか外国人排撃テロルが相変わらずの詳細な資料の引用でリアルに示される。
大佛次郎関係を調べていたら、この「天皇の世紀」の第八巻を読んでいるとか言う人のブログがあり、「龍馬暗殺のところが以外にあっさりしていた」と不満げに書いていた。バカじゃあないの、この人。大佛さんが明治革命という大河をどのように表現するか、想像できていなかったのかよ〜。龍馬にゃ悪いが、ここは2〜3行で済ましていいのさ、僕はそう思っている。司馬遼太郎が神話化してしまっただけさ。今回のNHKもやり過ぎだよ。幕末の先鋭的青年は龍馬だけじゃない。勝海舟の「氷川清話」(江藤淳編)では、龍馬は西郷の子分扱いだぜよ。
2010年11月10日水曜日
VCIスタッフの日本研修(写真とご報告)
10月27日から11月4日までの9日間、当校幹部職員の日本研修が行われました。現地会社のパートナーで社長のブオンさん(日本留学志望の娘リン12才も同行)と当校のメインのスタッフのゴックさんの2名が来日し、日頃お世話になっている顧客様の会社を7社訪問、また、VCI関係者、留学事業関係者、新事業関係者の方々とも懇談できました。研修のテーマは、ご挨拶と各社を取り巻く現環境に付いてお話しをお聞きすること、また、各社でがんばっている卒業生を職場で激励することでした。各社の社長さん、会長さんの好意溢れるご対応で、実りある研修となりました。本当にありがとうございました。更に、京都と東京で、地方からも駆けつけた卒業生十数名とも懇談できました。
■写真は上から1:静岡の株式会社恭和(車部品設計など)の本社前で、太田社長(ワイシャツ姿)、奥様を挟んでフエさん、クワ君。2:興南祭りに参加して。倉敷の興南設計株式会社(機械設計)の本社まえで。森社長と奥様を囲み、ツック、ルアット、ロンの各君。3:姫路のアユミ工業株式会社(半導体装置、真空装置)の阿部会長を中心にクオン、チェンの両君。左は奈良井さん。4:大阪のヨコタ工業株式会社(エアーツール)の正門にて、真ん中の横田社長とホアン君。5:株式会社電業(鉄道車両機器)の工場入り口にて、濱谷社長を囲んで、キエン、ギアの両君。6:株式会社関西セイキ(医療機器など)の小菅社長(真ん中)と設計部門の方々。社長の向かって右後ろにクアン君とダット君。
2005年6月の設立以来、当校の卒業生の日本渡航は、すでに140名を突破しました。3回、4回と採用いただいた企業さんもすでにあります。今まで15名採用いただいて居る東京の半導体関連企業もあります。すべて、労働(技術)ビザによる正社員エンジニア採用です。私たちNPOの最終目標は、ベトナムの中小企業の創設と育成です。つまり、このがんばった彼らの多くが、10年後夢を抱いて母国にもどり、お世話になった日本企業と一緒にベトナムの産業の裾野を広げていくことです。がんばれ、ベトナムの若きエンジニアたち!日本の中堅メーカー様には更なるご理解とご協力を心からお願いいたします。 * MSI(高畑所長)さんと、また関係者の方々とのお写真はレストランや居酒屋などでの写真はたくさんあるのですが、今回掲載していません。済みません。
2010年10月24日日曜日
「かわいい」と経済学への信奉
僕がよく見る番組の一つにNHKの「東京カワイイ」がある。沢村一樹とか、一緒の女の子たちのキャラが不思議と良い。「カワイイ」という概念は「COOL JAPAN」と同様にいま、その「感じ」というか感覚は世界中の若者を席巻している。この番組は次週からベトナムでも放送が開始されるらしく、そのオープニングに日本にいるベトナムの「カワイイ」が登場する。それに選ばれたのが、ハノイの当校に長くアルバイトしてくれ、その後に横浜国大の大学院に入学して、引き続き東京の当オフィスでも1年ぐらいアルバイトをしてくれたPちゃんなのだ。美人で物怖じしなく、日本語と英語も堪能、その上優しさに溢れている最高の女の子だ。半年前に高田馬場で一度食事したぐらいで、去年からここ1年ぐらいはウチのアルバイトから離れているので、最近の彼女の環境をよく知らなかったが、本日の「東京カワイイ」を見ていたら次回の予告編に突如出て来た。流石の僕も驚いたぜ。そして、深夜「おめでとう」の電話さっそくしたさ。
ベトナムは今でも農業国である。だから、ベトナムの若者の親世代で、企業に居る、あるいは居たという人はかなり少ない。社会主義と言うこともあって、50才代以上の世代では、公務員やそれに準じた関係団体や教員、軍人というサラリーマンと小さな商店主以外は、大半は農魚民と言って良い。だから、若者は親の世代から「商売、ビジネス、経営、マネージメント」の経験や知識、文化、感覚などが継承されていることが本当に少ないのだ。でも、ベトナム戦争がおわり、ドイモイ政策がはじまって20年以上になるので、都市部の新しい世代には、職業の分野も広がりそれぞれに関する新しい伝統とその継承ももちろん生まれていると思われる。だから45〜50才代の比較的若い親世代は、多様な仕事に就いている場合もあるだろう。がしかし8600万人という東南アジアで最大人口の中(ちなみにタイ人口が6500万、カンボジアが1500万、ラオスは500万人)では、そういう多様な職業人はまだまだ、大都市に限られているだろうと思う。
多くのベトナム人は最近、ベトナム国内で見られるアメリカ、フランス、韓国、中国のテレビチャンネルでいろいろな仕事や企業、ビジネスを見る機会も多いはずだ。しかし、見てるだけなので職業感を育成してゆく様な認識にはなっていないね。その上、各大学は、カリキュラムが古くさく教条的で、「進取の精神」が欠落しているので、授業の中で、多感な学生の心を揺り動かす職業:仕事と出会えるような環境にほとんどなっていないから。煎じつめると大学と大学の教員が学生の就職にほとんど関心がないからである。その点、理工学部の学生は、文化系に比べて「最新技術」など自分のこだわりや確信を持てる機会が多いので、当校出身者を見ていても、まあまあ安心できる。従って、文系に話を移す。例えば、日本の場合、IT企業のオペレーターやエンジニアで、文化系出身者も多い。特にアプリ系なら、比較的文化系の人間が入りやすいと聞く。日本では別に珍しいことでは無くなった。でも、ベトナムでは、発想上もあり得ないし、学生自身もまったく、そういうことは視線に入りようがないはずだ。以前もこのブログに書いたが、僕の周辺の文系の留学生は何故かしら、全員「経済学」という特徴のない分野で日々研鑽に努めている。僕はお節介とは思いながらも、そんな分野勉強しても、役に立つとは思えないし、ベトナム人同士の「経済学」競争も大変だから、経済学部の大学教授やベトナム政府の経済系高官を目指すのならともかく、ここは日本なのだからさ、歌舞伎、浮世絵、華道や茶道の研究するとかさ、あるいはアニメ、マンガ、ゲームなどのサブカル、またはジャーナリズム学、観光学、交通政策、環境政策などなど、学ぶべき分野は広大に存在しているぜ。君の未来は無限に広がってる。とうんざりしながらも、何回かアドバイスしたんだ。
まあ、でもね、僕の周辺の彼らは多様で新しい職業感を持っていない「親の意向」とか「経済は下部構造だから、基本だ」というマルクス主義的なベトナムの知識階級の既成概念の頑迷さのなかで、悩むけれども変えることはなかったね。余計なお節介なのだが、人生の先輩として、また「リクルート社」にいたプロとして、口説いたりしたわけだが、そこはどっこいベトナム人は頑固なのだ。戦術的にはひどく柔軟で、僕など卒倒するほどの斬新発想体験を何度もしているが、「目的や目標」に対しては頑固一徹なのだ。ご多分に漏れず横浜国大のPチャンももちろん経済が専門だ。アルバイトで来ていた当時、僕はランチを一緒に食べながら(彼女がまだ、横国に入る前で、選択の余地があった時)日本の伝統美術の研究とマスコミなどの関連の話題をよく話しては勧めたものだ。その彼女が今度NHKで「モデルデビュー」さ。いいねえ、そういう現場で、日頃知らない新しい「人種」や全く知らない「文化」と交わるのは良い刺激になるだろう。彼女の自分の将来イメージも一気に膨らむんじゃあないかなあ。良いことだね〜。いずれにせよ、努力の人だから、彼女は何をしてもきっと成功するはずだ。かんばれ、Pチャン。チャンスを掴め!
ベトナムは今でも農業国である。だから、ベトナムの若者の親世代で、企業に居る、あるいは居たという人はかなり少ない。社会主義と言うこともあって、50才代以上の世代では、公務員やそれに準じた関係団体や教員、軍人というサラリーマンと小さな商店主以外は、大半は農魚民と言って良い。だから、若者は親の世代から「商売、ビジネス、経営、マネージメント」の経験や知識、文化、感覚などが継承されていることが本当に少ないのだ。でも、ベトナム戦争がおわり、ドイモイ政策がはじまって20年以上になるので、都市部の新しい世代には、職業の分野も広がりそれぞれに関する新しい伝統とその継承ももちろん生まれていると思われる。だから45〜50才代の比較的若い親世代は、多様な仕事に就いている場合もあるだろう。がしかし8600万人という東南アジアで最大人口の中(ちなみにタイ人口が6500万、カンボジアが1500万、ラオスは500万人)では、そういう多様な職業人はまだまだ、大都市に限られているだろうと思う。
多くのベトナム人は最近、ベトナム国内で見られるアメリカ、フランス、韓国、中国のテレビチャンネルでいろいろな仕事や企業、ビジネスを見る機会も多いはずだ。しかし、見てるだけなので職業感を育成してゆく様な認識にはなっていないね。その上、各大学は、カリキュラムが古くさく教条的で、「進取の精神」が欠落しているので、授業の中で、多感な学生の心を揺り動かす職業:仕事と出会えるような環境にほとんどなっていないから。煎じつめると大学と大学の教員が学生の就職にほとんど関心がないからである。その点、理工学部の学生は、文化系に比べて「最新技術」など自分のこだわりや確信を持てる機会が多いので、当校出身者を見ていても、まあまあ安心できる。従って、文系に話を移す。例えば、日本の場合、IT企業のオペレーターやエンジニアで、文化系出身者も多い。特にアプリ系なら、比較的文化系の人間が入りやすいと聞く。日本では別に珍しいことでは無くなった。でも、ベトナムでは、発想上もあり得ないし、学生自身もまったく、そういうことは視線に入りようがないはずだ。以前もこのブログに書いたが、僕の周辺の文系の留学生は何故かしら、全員「経済学」という特徴のない分野で日々研鑽に努めている。僕はお節介とは思いながらも、そんな分野勉強しても、役に立つとは思えないし、ベトナム人同士の「経済学」競争も大変だから、経済学部の大学教授やベトナム政府の経済系高官を目指すのならともかく、ここは日本なのだからさ、歌舞伎、浮世絵、華道や茶道の研究するとかさ、あるいはアニメ、マンガ、ゲームなどのサブカル、またはジャーナリズム学、観光学、交通政策、環境政策などなど、学ぶべき分野は広大に存在しているぜ。君の未来は無限に広がってる。とうんざりしながらも、何回かアドバイスしたんだ。
まあ、でもね、僕の周辺の彼らは多様で新しい職業感を持っていない「親の意向」とか「経済は下部構造だから、基本だ」というマルクス主義的なベトナムの知識階級の既成概念の頑迷さのなかで、悩むけれども変えることはなかったね。余計なお節介なのだが、人生の先輩として、また「リクルート社」にいたプロとして、口説いたりしたわけだが、そこはどっこいベトナム人は頑固なのだ。戦術的にはひどく柔軟で、僕など卒倒するほどの斬新発想体験を何度もしているが、「目的や目標」に対しては頑固一徹なのだ。ご多分に漏れず横浜国大のPチャンももちろん経済が専門だ。アルバイトで来ていた当時、僕はランチを一緒に食べながら(彼女がまだ、横国に入る前で、選択の余地があった時)日本の伝統美術の研究とマスコミなどの関連の話題をよく話しては勧めたものだ。その彼女が今度NHKで「モデルデビュー」さ。いいねえ、そういう現場で、日頃知らない新しい「人種」や全く知らない「文化」と交わるのは良い刺激になるだろう。彼女の自分の将来イメージも一気に膨らむんじゃあないかなあ。良いことだね〜。いずれにせよ、努力の人だから、彼女は何をしてもきっと成功するはずだ。かんばれ、Pチャン。チャンスを掴め!
2010年10月23日土曜日
嬉しい事件
■昨日の朝、家を出ようとしたら、財布が無いことに気がついた。前日、何をしていたっけ?冷静に思い出そうとしたら、家の前で車を降りた時か、その車のなかか・・。財布の中身はたいした物が入っていなかったので、自分でも意外に動揺も失望の念も湧いてこず、カード関係の電話を入れる面倒くささが、先に立った。また、珍しく買った宝くじが10枚はいっていたなあ、と思い出して、これが出て来ず、1億円当たっていたらもったいないなあとか思いつつ、時間がタイトになったので、何処へも電話せずにともかく家を出た。お客様待たせちゃいけないからね。老人になったのだろうか。生まれて初めてである、財布やお金を落として経験は今まで62年皆無であったからね。今後、気をつけないといけないね。僕って意外に財布や大事なモノの管理は細心なんだ。
逆に今まで、何度も財布や、現金を拾った。総額では、推測だが30万円はあると思うぜ。大阪のホテルで、富裕な感じのおじさんが(20年ぐらい前)、ロビーにあるソファーを立ち上がったとき、おしりのポケットから、まん丸に太った財布がころころころ。運良くぼくの目の前を転がって、誰にも見えない植物鉢の影へ。僕は不埒にもゴクリとつばを飲んだような気がする。成田のトイレでは、3〜4万円入った財布が、大便所に鎮座していたし、駅で歩いていたら僕の目の前で1万円札をひらひら落とした御仁もいたし、電話ボックスにはいったら、緑色の電話器の上に丁寧に封筒に7万円が入っていたこともあった。長年ビンボーしているが、金を拾い上げる運は僕に無いでもないのだ、ハイ。すべて最寄りの警察や駅員に取得物としてもちろん届けています。
で、僕の財布のことですが、朝の会議中に警察から電話が有って、届けられているという。その上、あるべき金額もそのままのようだ。ありがたい話だ。もらい受けに行くと、大学生が届けてくれたらしい。早速警察から電話したら彼の母親が出られて、御礼の金品は固辞されたので、仕方なく息子さんと彼の将来を大いに褒めて、深く感謝し電話を切った。日本の青年、まだまだ捨てたモノでないなあ〜、と言う言葉が、僕の中で軽快に踊った。うれしいねえ。
逆に今まで、何度も財布や、現金を拾った。総額では、推測だが30万円はあると思うぜ。大阪のホテルで、富裕な感じのおじさんが(20年ぐらい前)、ロビーにあるソファーを立ち上がったとき、おしりのポケットから、まん丸に太った財布がころころころ。運良くぼくの目の前を転がって、誰にも見えない植物鉢の影へ。僕は不埒にもゴクリとつばを飲んだような気がする。成田のトイレでは、3〜4万円入った財布が、大便所に鎮座していたし、駅で歩いていたら僕の目の前で1万円札をひらひら落とした御仁もいたし、電話ボックスにはいったら、緑色の電話器の上に丁寧に封筒に7万円が入っていたこともあった。長年ビンボーしているが、金を拾い上げる運は僕に無いでもないのだ、ハイ。すべて最寄りの警察や駅員に取得物としてもちろん届けています。
で、僕の財布のことですが、朝の会議中に警察から電話が有って、届けられているという。その上、あるべき金額もそのままのようだ。ありがたい話だ。もらい受けに行くと、大学生が届けてくれたらしい。早速警察から電話したら彼の母親が出られて、御礼の金品は固辞されたので、仕方なく息子さんと彼の将来を大いに褒めて、深く感謝し電話を切った。日本の青年、まだまだ捨てたモノでないなあ〜、と言う言葉が、僕の中で軽快に踊った。うれしいねえ。
2010年10月16日土曜日
ハノイ・コンビンザン考
■いま、「♪♪ホンキートンク・ウーマン」を聞きながら、これを書き始めた。なにせ、ストーンズが80年代末に東京ドームに来たとき、彼らのコンサートに連続三日間3回も行ったんだぜ。まあいいさ。で、コンビンザンだ。「COM BINH DAN」と書く。日本なら定食屋と言ったところであろう。日本の場合、定食屋では大抵各種の小皿とか、角長の焼き魚皿などに煮物、卵焼き、サンマの開き、唐揚げやコロッケなどから、おひたし、納豆、シラスおろし、お新香まで取り分けてあり、お客さんは、好きな皿を好きな数だけ、と言っても多すぎないように3,4点自分のお盆に乗せて、最後にご飯とみそ汁をいただき、席について食する。お店によっては、10も20個もある大皿にたくさんの各種おかずが並んでいて(良い皿使っていて結構壮観さを演出している店もある)、自分で適量をとったり、店員にとってもらったりするお店もある。「大戸屋」などのチェーン店から、昔から地元商店街に馴染んでいるおじいさんおばあさんのお店も結構あちこちにまだ、生き延びている。こんな事、これを読んでる日本人には常識の話だね、最近ベトナムの青年向けに書いている事が多いので、コンビンザンに至るまでのイントロ部分がうっかり長くなってしまった。
で、コンビンザンだ。大抵、お店の店頭に20種類ぐらいのおかずが、台所のシンクのようなものに入って並んでいて、お客があれだこれだと言って、大皿のに盛られたご飯の山の峰から、てっぺんまで、乗っけてくれるシステムなのだ。プレート(皿)の丼とでも言おうか。煮込んだ豚肉や鳥、インゲンやもやしの炒めサラダ、空心菜、牛の煮っ転がし、目玉焼き、卵焼きいろいろだ。南京豆の炒め物もあるぜ。一通りのっけてから、店員の田舎娘はつゆもかけるか、と聞いてくる。
僕のように、ビールを飲みながら食べる向きは、ご飯少なめにおかず多めに発注すると40000ドン位。つまり160円ぐらいで、結構旨い飯とおかずにありつけるということだ。ハノイの学生も金がないから、遠慮がちにおかずを乗っけて15000ドン〜20000ドンぐらいで済ましているようだ。ビールは現地生ビールで、大ジョッキで40円から50円ってところだ。アルコール度数が低く、ぐいぐい何倍でも飲めてしまう、結構僕は好きさ。ところで、味の素が多いんじゃあないか?農薬はきちんと洗い落としているのか?いつも気にならないと言えばうそになる。
が、しかし、その前にだ、もっと肝心なことが、凄いんだ。日本人女性には卒倒ものだね。厨房の現場をみた日には、「ベテラン」のぼくでも食えない。普通の上品なレストランでも、調理場は見ない方が良いというのはベトナムに詳しい人たちの常識なわけだから、コンビンザンの調理場、想像できる?ちょっと凄いぜ。娘のLINHは中学2年だが、ブオンによると、生まれてこの方、「怖くて」食べたことが無いらしい。ブオンもこの何年もコンビンザンでは食べたことないと宣う。まあ、それって理解できるね。だってさ、僕は何件ものコンビンザンの調理現場を偶然目撃しているが、調理の現場は厨房とは思えない。現場は土間やそばの路上なんだぜ。この間も店員と思われる如何にも田舎からの娘や小僧が空心菜などを道路のアスファルトをまな板がわりに・・・ここで、時間がきた。今から、ハノイ空港へ。続きは、近日に。じゃあね。
■今日、マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」を読み始めた。ハーバードや東大での白熱授業で、最近マスコミを騒がせている基になった本らしい。彼はコミュニタリアンと言う学派にいる現代きっての論客の一人と言われている。でも僕は彼の本を読むのは今回が初めてさ。いったいに僕はアメリカ人の学者の本はあんまり読まない。少しこだわって何冊かずつ読んだのは、スーザン・ソンタグ、ガルブレイス、P・ドラッガー、N・チョムスキー、ロバート・ライシュぐらいだろう。後はすぐに思い出せないなあ。この「これからの正義の話をしよう」を読み出してちょっと意外であったのはMBAや大学院の課題研究のような本のしつらえになっていたことだ。まるでさ、今から10年ほど前に話題になった本「ザ・ゴール」を思い出させるよ。なんかさあ、良書と評判なのに如何にもアメリカの”ビジネスソリューション本”風で僕は読みながらすでに辟易し始める。でも、もう少し耐えて読み進めれば、良い展開になるだろうと期待したいところだ。一瞬思い出したので、書き付けておくがライシュの「ザ・ワークオブネーション・・・21世紀資本主義のイメージ」は衝撃的本だ。画期的な本と言って良い。ダイヤモンド社刊のはずだ。90年代初頭に出てすぐ買って、一気に読んだことを思い出す。”シンボリック・アナリスト”になるにはどうすればいいか、真剣に僕はメモをいろいろ書いた。
■で、コンビンザンだ。コンビンザンとレストランの違いは、プロのコックが居ないことなのだろうと思う。コックが居ても、ベトナムではしれた環境なわけだから、コンビンザンは推して知るべし、まで前回書いたわけだ。コンビンザンは家庭の延長の定食屋なので、管理者が不明な上、元々お店を始めたオバチャンやヤクザな親父たちは、銭勘定に忙しいのが普通だ。入れ墨いれた親父の仲間と、日中からビールを呷り、お客からもらった現金入れたアルミ箱に手を入れては札束勘定して束にして、一握り持ち出したりしている。また、人件費を最低に抑えようとしているので、田舎から出てきた何にも知らない少年少女を使うしかない。ベトナムの義務教育は驚くことに小学校三年生までなのだ。だから、10才ぐらいになると労働しないと食えない子供が都市にどんどん流入してきている。そういう彼らが潜り込みやすい仕事が、こういった飲食と建築現場だ。ベトナムでは一般に社内や店舗でも「教育」を体系だって教え込む伝統が無い位な訳だから、ここでは、まったく「お客様へのホスピタリティー」など無縁なわけさ。先ほど定食屋と比較したが実態は戦後の直後の東京の闇市の飯屋に近いのかも知れないな。そう言うと、ちょっと酷かな・・・。
で、コンビンザンだ。大抵、お店の店頭に20種類ぐらいのおかずが、台所のシンクのようなものに入って並んでいて、お客があれだこれだと言って、大皿のに盛られたご飯の山の峰から、てっぺんまで、乗っけてくれるシステムなのだ。プレート(皿)の丼とでも言おうか。煮込んだ豚肉や鳥、インゲンやもやしの炒めサラダ、空心菜、牛の煮っ転がし、目玉焼き、卵焼きいろいろだ。南京豆の炒め物もあるぜ。一通りのっけてから、店員の田舎娘はつゆもかけるか、と聞いてくる。
僕のように、ビールを飲みながら食べる向きは、ご飯少なめにおかず多めに発注すると40000ドン位。つまり160円ぐらいで、結構旨い飯とおかずにありつけるということだ。ハノイの学生も金がないから、遠慮がちにおかずを乗っけて15000ドン〜20000ドンぐらいで済ましているようだ。ビールは現地生ビールで、大ジョッキで40円から50円ってところだ。アルコール度数が低く、ぐいぐい何倍でも飲めてしまう、結構僕は好きさ。ところで、味の素が多いんじゃあないか?農薬はきちんと洗い落としているのか?いつも気にならないと言えばうそになる。
が、しかし、その前にだ、もっと肝心なことが、凄いんだ。日本人女性には卒倒ものだね。厨房の現場をみた日には、「ベテラン」のぼくでも食えない。普通の上品なレストランでも、調理場は見ない方が良いというのはベトナムに詳しい人たちの常識なわけだから、コンビンザンの調理場、想像できる?ちょっと凄いぜ。娘のLINHは中学2年だが、ブオンによると、生まれてこの方、「怖くて」食べたことが無いらしい。ブオンもこの何年もコンビンザンでは食べたことないと宣う。まあ、それって理解できるね。だってさ、僕は何件ものコンビンザンの調理現場を偶然目撃しているが、調理の現場は厨房とは思えない。現場は土間やそばの路上なんだぜ。この間も店員と思われる如何にも田舎からの娘や小僧が空心菜などを道路のアスファルトをまな板がわりに・・・ここで、時間がきた。今から、ハノイ空港へ。続きは、近日に。じゃあね。
■今日、マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」を読み始めた。ハーバードや東大での白熱授業で、最近マスコミを騒がせている基になった本らしい。彼はコミュニタリアンと言う学派にいる現代きっての論客の一人と言われている。でも僕は彼の本を読むのは今回が初めてさ。いったいに僕はアメリカ人の学者の本はあんまり読まない。少しこだわって何冊かずつ読んだのは、スーザン・ソンタグ、ガルブレイス、P・ドラッガー、N・チョムスキー、ロバート・ライシュぐらいだろう。後はすぐに思い出せないなあ。この「これからの正義の話をしよう」を読み出してちょっと意外であったのはMBAや大学院の課題研究のような本のしつらえになっていたことだ。まるでさ、今から10年ほど前に話題になった本「ザ・ゴール」を思い出させるよ。なんかさあ、良書と評判なのに如何にもアメリカの”ビジネスソリューション本”風で僕は読みながらすでに辟易し始める。でも、もう少し耐えて読み進めれば、良い展開になるだろうと期待したいところだ。一瞬思い出したので、書き付けておくがライシュの「ザ・ワークオブネーション・・・21世紀資本主義のイメージ」は衝撃的本だ。画期的な本と言って良い。ダイヤモンド社刊のはずだ。90年代初頭に出てすぐ買って、一気に読んだことを思い出す。”シンボリック・アナリスト”になるにはどうすればいいか、真剣に僕はメモをいろいろ書いた。
■で、コンビンザンだ。コンビンザンとレストランの違いは、プロのコックが居ないことなのだろうと思う。コックが居ても、ベトナムではしれた環境なわけだから、コンビンザンは推して知るべし、まで前回書いたわけだ。コンビンザンは家庭の延長の定食屋なので、管理者が不明な上、元々お店を始めたオバチャンやヤクザな親父たちは、銭勘定に忙しいのが普通だ。入れ墨いれた親父の仲間と、日中からビールを呷り、お客からもらった現金入れたアルミ箱に手を入れては札束勘定して束にして、一握り持ち出したりしている。また、人件費を最低に抑えようとしているので、田舎から出てきた何にも知らない少年少女を使うしかない。ベトナムの義務教育は驚くことに小学校三年生までなのだ。だから、10才ぐらいになると労働しないと食えない子供が都市にどんどん流入してきている。そういう彼らが潜り込みやすい仕事が、こういった飲食と建築現場だ。ベトナムでは一般に社内や店舗でも「教育」を体系だって教え込む伝統が無い位な訳だから、ここでは、まったく「お客様へのホスピタリティー」など無縁なわけさ。先ほど定食屋と比較したが実態は戦後の直後の東京の闇市の飯屋に近いのかも知れないな。そう言うと、ちょっと酷かな・・・。
2010年10月10日日曜日
遷都1000年とノーベル賞
■1949年湯川秀樹京都大学教授が日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞したニュースが当時の日本にどのような衝撃を与えたのだろうか。敗戦し廃墟となった日本にとってはまさにこれからの明るい未来を象徴する最高の精神的プレゼントであったろう。敗戦から4年が経ち、今の日本人と違って生命力の強い当時の日本人は工業や商業だけでなく、闇市も一定の秩序すなわち流通や物流も形をなして来始めた時期であるものの、それこそ、世界から日本製品は猿まね、壊れやすいなどの非難がこの新興国に相次いでいた時期でもあろう。そのときにまさしくオリジナルな量子力学の理論で、ノーベル賞を受賞したのだ。日本国民の喜び様は、どのくらいのものであったろうか。また、湯川博士が東京大学でなく、京都大学であったことも、実は心理的に国民にフィットしたと思われる。第二次世界大戦に引きずり込んだ大多数の指導者は、東京大学卒業者であったからね。だから、京大は自由の象徴としても人々に愛されることになった。この湯川受賞の自信回復は戦後日本のエポックメイキングな出来事であったろう。
欧米の科学技術の壁に敗戦したという思いに上乗せて、この受賞によって日本の若い学究者や学生たちに政治や経済ではなく、科学技術こそが国作りの基礎になるという意識はこのような環境の中で培われたと思う。僕が小さいとき東北大理学部マスターであった母の弟も「遊びたい人は経済にいくのさ」と言っていたような、彼ではなかったかもしれないが昭和20年代30年代は理工学部へ行くこと、また科学を学ぶ事の大切さが、大学にも行かない多くの庶民にさえ、共通の認識であった気がする。科学の子アトムが生まれた日本だものね。
今、民主党は無能で、何もできないでいるし、自民党もあら探ししかテーマに無いようだし、公明とか日共は、自組織の維持で精一杯で完全に政治過程の欄外。日本人はかねてから大きな構想作りは、苦手にしてきた。でも、それにしてもだよ、いま日本の政治に大局的見地らしいものが全く見えないよね。これほど指針がない政治状況もおそらく初めてじゃあないか。僕らは、何に希望を託せばいいのかいなあ。はい、はい、はじめからやっぱー託しちゃいけないんだよね。政治は基本的に無視する事しかない。僕ら老人の将来は決まってしまっているしどうでも良いが、感受性の強く、今からの将来がある中学生とか、高校生は今後どうしていくのだろう。本当に可哀想だぜ。このような参考にも反面教師にすらなりもしない大人たちに囲まれてさ。ここを何とかしないと完全に凋落するしかない。ギリシャやローマの様に凋落後、数百年はだんまりを決め込むほかは無いだろうね。2年ほど前秋葉原で、多くの死傷者生んだ大きな事件が発生した。派遣社員加藤という人物が犯人であったが、彼の行為はインターネット上で、あろう事か英雄に祭り上げられていた。僕らはそういう国に住んでいる。国の骨格が無いどころか、神経や皮膚すらも訳もわからない病に冒されつつある。
今回の北大の鈴木章名誉教授と根岸栄一パデュー大教授(東大工卒)の受賞の僕らの嬉しさも、2年前の小林、増川、下村の名古屋大学関係トリオの時もそうでしたね。純粋にうれしい。日本人の地力というか、本来持っている能力が堂々と発揮される科学世界は、いいなあっと思うね。東北大の田中さん(島津製作所)の時も地道に努力することの大切さが、まさに証明されたようで、嬉しかったね。鈴木先生と根岸先生の快挙もいわずもがなだが、たいてい受賞の評価は30年、40年以上前の功績である。基礎研究にまだまだ予算が与えられ、それが、良いことなのだ、そうでないといけないという常識が働いていた時代の産物ですね。NHKなども、大分「ノーベル賞受賞者と子供たちの接触」をテーマにして、企画をしているようだ。が、まさしく、政府が、東工大でた理系の菅さんが、中高生と受賞の巨人たちの交わりを政策化すべきじゃあないの。子供の頃、天才や巨人とであった人は幸せだよ。会えただけで何かを得るものだよ。こういう施策を積極的にできないのか。僕らの日本は、現在の子供たちの能力と努力に運命が掛かっている。
いま、ベトナム人の青年向けに「日本語を学んで、サムライにならないか・・・日本企業へ就職の薦めとガイダンス(仮題)」という本を書いている。日本語で書いて、ベトナム語に翻訳して、ベトナム全土で発売するものだ。300ぺージもの中に、僕は日本の良いことをたくさん書いた。書きながらむずがゆい。というより、日本についての嘘を書いているかもしれないという責めもある。ベトナムのある長老が昔僕にこういった。「日本がロシアに戦勝したときの衝撃は世界を揺るがした」と、老人の父親が彼に言ったらしい。「それ以降、アジアの民衆は日本に尊敬の気持ちを持つようになった」と。思い起こすとまさにそうだね。魯迅、孫文、周恩来、チャンドラ・ボースなど歴史に名前を刻んだ人々だけでなく、アジアの何千人という優秀学生や若き革命家が、青年期の留学などの居場所として日本を選んでいた。日本には新興の生命力が横溢していたのだろう。次の何かが期待できる魅力的な国であったんだ、当時はね。僕が今まさに、今これを書いているベトナムの様にね。
■昨日の夜に、予感もあった。夜夜中まで、ハノイ工科大とか、統一公園横をとおっている市内幹線のうちのひとつレズアン通りなど、若者であふれており、バイクも車も立ち往生といった風情であった。テトは、国民の大半が帰郷するので、意外に静かだが、初めてのお祭りこの「遷都1000年祭」は、どう祝って良いか解らない青年たちが、ともかく夜右往左往していた。で、ブオンに言われたままに、10日朝9時に家を出て、ホアンキエムに向かって歩いた。「なんだ、バスもタクシーもバイクも通常通りだぜ」、とか愚痴を言いながら遠くの右に国営デパート(戦争前からのいわば「高島屋」)が見えてきた頃から、状況が一変した。数千、いや数万のホアンキエム湖から戻って来る群衆が今からそこに行こうとする数万の徒歩の人々と交差し始めたのだ。軍事パレードなどの催しものが終わったらしく帰途する群衆。何かやってそうだなとデパートの交差点からホアンキエム湖に近づこうとする刺激を求める強気の人々。これも数万かもなあ。まさにラグビーのスクラムだあ。それに車と突入してくるバイクも絡むので阿鼻叫喚。でもそこを超えると歩行者天国をやっていた。懐かしいほどの快感のある空間が一応演出されていた。ただ、驚くのは、なにもやっていないのに、ただ人は集まっていたことだ。僕もね。
驚きはホアンキエム湖の周りに人が溢れ、湖の岸に人垣がほぼ一周分できていた。何をするでなし。お祝いに来た、でも見るモノがない数万人が湖面に佇んだり押し合いへし合いのお散歩。お調子者は木や電柱に登る。昔から何処の国でも共通の現象だ。ホアンキエムでも、バカな若衆が木々にあがりふざけていた。「阪神フアンなら、こういう時、川や湖に次々飛び込むものさ」と、思いながらブオンとデザイナーフックさんがバイクで迎えにくるはずで、大混乱のホアンキエム周辺から脱し、白い館メトロポールソフィテルに向かった。そこいらでは空間に余裕がでたのでやっと気づいたが、凛々しく赤いはじまきをしている青年が目立った。何百人もいそうだ。額の刻した文字は読めないが「1000」は読める。おそらく「祝ハノイ1000年」というような事だろう。高校生か大学生の様だ。これらを見て思った。「江戸東京祝500年」とかのはじ巻きを凛々しく巻く東京の高校生が果たしているか。もちろん、一人もいないと言っていい。居ないのが当たり前で、それをいま、とやかく言うつもりは毛頭無い。だけれども、ハノイには、確実に存在している。「遷都1000年」に誇りをもっている青年たちが、確実に何十万人もここには居るのだ。都会から来た僕らなどに稚拙に見えていようとも、断固として国や郷土を思う途方もない数の若者たちがこの国にいるという現実。
20歳前後の数年間、日本とアメリカという帝国主義に牙を向けていた僕にはナショナリズムは、苦手だし、毛嫌いの対象でしかなかったね。でも、このごろナショナリズムの意味を時々考えることがある。そういう意味ではベトナムは僕にとって学習の場だね。
ノーベル賞は、欧米の価値観で決まるので、ハンディーキャップがあるけれど、ベトナム人が理工系分野で(現在欧米の在住者であれ)ノーベル賞を取ることを心から祈念したい。僕らの仕事もその一助になれば嬉しいね。
アントニオ・ネグリなどが9・11以後に捉えた「帝国」概念は、実はアメリカから中国に遷移しつつあるのではないかと思うこの頃ですが、「国家資本主義」中国は、自国のノーベル賞受賞を隠さなくてはならない事態に遭遇した。過去をみても、佐藤栄作に平和賞を与えるいい加減なノーベル賞委員会ではあるが、今回の劉暁波さんの平和賞受賞は、すでに、今春から、中国政府に圧力を受けていながらも民主化活動家で「08憲章」を起草した彼に贈ったことは、評価されて良いだろう。今後、中国の対応が見物だ。孔子、老子、孫子の国として?あるいは世界の新「帝国」として対応するのか。現在のところ二流の「国家資本主義」国としての振る舞いに終始している。そんな中で、中国共産党の元幹部の老人たちが、憲法を盾に自由を求めて反撃に出始めたようだ。
■大佛次郎「天皇の世紀」全12巻文春文庫を読んでいる。まだ、第二巻の320ページ。今回ハノイに居る間に第三巻に移行できそうだ。井伊大老の一見傲慢に見えるが、計算し尽くされた対水戸斉昭攻撃。これに対抗する水老こと斉昭らの攘夷派、実は息子徳川慶喜を将軍にする画策。分裂する京都の公家や禁裏サイド。水戸派の京都結集に対抗する幕府の京都支配はどうなるか。歴史というドラマは、現代人の知る映画や小説のシノプシスを軽々と超越してゆく。大佛さんと朝日新聞担当部門の資料収集のすごさと解析と抽出のエネルギーを改めてまざまざと知らししめる。何せ、資料分が30〜45%を占めているわけで、それが全部候(そうろう)文だから、どうしても読み解きに時間を要するので、大変は大変。でも追体験できる魔力が読者を離さない。
欧米の科学技術の壁に敗戦したという思いに上乗せて、この受賞によって日本の若い学究者や学生たちに政治や経済ではなく、科学技術こそが国作りの基礎になるという意識はこのような環境の中で培われたと思う。僕が小さいとき東北大理学部マスターであった母の弟も「遊びたい人は経済にいくのさ」と言っていたような、彼ではなかったかもしれないが昭和20年代30年代は理工学部へ行くこと、また科学を学ぶ事の大切さが、大学にも行かない多くの庶民にさえ、共通の認識であった気がする。科学の子アトムが生まれた日本だものね。
今、民主党は無能で、何もできないでいるし、自民党もあら探ししかテーマに無いようだし、公明とか日共は、自組織の維持で精一杯で完全に政治過程の欄外。日本人はかねてから大きな構想作りは、苦手にしてきた。でも、それにしてもだよ、いま日本の政治に大局的見地らしいものが全く見えないよね。これほど指針がない政治状況もおそらく初めてじゃあないか。僕らは、何に希望を託せばいいのかいなあ。はい、はい、はじめからやっぱー託しちゃいけないんだよね。政治は基本的に無視する事しかない。僕ら老人の将来は決まってしまっているしどうでも良いが、感受性の強く、今からの将来がある中学生とか、高校生は今後どうしていくのだろう。本当に可哀想だぜ。このような参考にも反面教師にすらなりもしない大人たちに囲まれてさ。ここを何とかしないと完全に凋落するしかない。ギリシャやローマの様に凋落後、数百年はだんまりを決め込むほかは無いだろうね。2年ほど前秋葉原で、多くの死傷者生んだ大きな事件が発生した。派遣社員加藤という人物が犯人であったが、彼の行為はインターネット上で、あろう事か英雄に祭り上げられていた。僕らはそういう国に住んでいる。国の骨格が無いどころか、神経や皮膚すらも訳もわからない病に冒されつつある。
今回の北大の鈴木章名誉教授と根岸栄一パデュー大教授(東大工卒)の受賞の僕らの嬉しさも、2年前の小林、増川、下村の名古屋大学関係トリオの時もそうでしたね。純粋にうれしい。日本人の地力というか、本来持っている能力が堂々と発揮される科学世界は、いいなあっと思うね。東北大の田中さん(島津製作所)の時も地道に努力することの大切さが、まさに証明されたようで、嬉しかったね。鈴木先生と根岸先生の快挙もいわずもがなだが、たいてい受賞の評価は30年、40年以上前の功績である。基礎研究にまだまだ予算が与えられ、それが、良いことなのだ、そうでないといけないという常識が働いていた時代の産物ですね。NHKなども、大分「ノーベル賞受賞者と子供たちの接触」をテーマにして、企画をしているようだ。が、まさしく、政府が、東工大でた理系の菅さんが、中高生と受賞の巨人たちの交わりを政策化すべきじゃあないの。子供の頃、天才や巨人とであった人は幸せだよ。会えただけで何かを得るものだよ。こういう施策を積極的にできないのか。僕らの日本は、現在の子供たちの能力と努力に運命が掛かっている。
いま、ベトナム人の青年向けに「日本語を学んで、サムライにならないか・・・日本企業へ就職の薦めとガイダンス(仮題)」という本を書いている。日本語で書いて、ベトナム語に翻訳して、ベトナム全土で発売するものだ。300ぺージもの中に、僕は日本の良いことをたくさん書いた。書きながらむずがゆい。というより、日本についての嘘を書いているかもしれないという責めもある。ベトナムのある長老が昔僕にこういった。「日本がロシアに戦勝したときの衝撃は世界を揺るがした」と、老人の父親が彼に言ったらしい。「それ以降、アジアの民衆は日本に尊敬の気持ちを持つようになった」と。思い起こすとまさにそうだね。魯迅、孫文、周恩来、チャンドラ・ボースなど歴史に名前を刻んだ人々だけでなく、アジアの何千人という優秀学生や若き革命家が、青年期の留学などの居場所として日本を選んでいた。日本には新興の生命力が横溢していたのだろう。次の何かが期待できる魅力的な国であったんだ、当時はね。僕が今まさに、今これを書いているベトナムの様にね。
■昨日の夜に、予感もあった。夜夜中まで、ハノイ工科大とか、統一公園横をとおっている市内幹線のうちのひとつレズアン通りなど、若者であふれており、バイクも車も立ち往生といった風情であった。テトは、国民の大半が帰郷するので、意外に静かだが、初めてのお祭りこの「遷都1000年祭」は、どう祝って良いか解らない青年たちが、ともかく夜右往左往していた。で、ブオンに言われたままに、10日朝9時に家を出て、ホアンキエムに向かって歩いた。「なんだ、バスもタクシーもバイクも通常通りだぜ」、とか愚痴を言いながら遠くの右に国営デパート(戦争前からのいわば「高島屋」)が見えてきた頃から、状況が一変した。数千、いや数万のホアンキエム湖から戻って来る群衆が今からそこに行こうとする数万の徒歩の人々と交差し始めたのだ。軍事パレードなどの催しものが終わったらしく帰途する群衆。何かやってそうだなとデパートの交差点からホアンキエム湖に近づこうとする刺激を求める強気の人々。これも数万かもなあ。まさにラグビーのスクラムだあ。それに車と突入してくるバイクも絡むので阿鼻叫喚。でもそこを超えると歩行者天国をやっていた。懐かしいほどの快感のある空間が一応演出されていた。ただ、驚くのは、なにもやっていないのに、ただ人は集まっていたことだ。僕もね。
驚きはホアンキエム湖の周りに人が溢れ、湖の岸に人垣がほぼ一周分できていた。何をするでなし。お祝いに来た、でも見るモノがない数万人が湖面に佇んだり押し合いへし合いのお散歩。お調子者は木や電柱に登る。昔から何処の国でも共通の現象だ。ホアンキエムでも、バカな若衆が木々にあがりふざけていた。「阪神フアンなら、こういう時、川や湖に次々飛び込むものさ」と、思いながらブオンとデザイナーフックさんがバイクで迎えにくるはずで、大混乱のホアンキエム周辺から脱し、白い館メトロポールソフィテルに向かった。そこいらでは空間に余裕がでたのでやっと気づいたが、凛々しく赤いはじまきをしている青年が目立った。何百人もいそうだ。額の刻した文字は読めないが「1000」は読める。おそらく「祝ハノイ1000年」というような事だろう。高校生か大学生の様だ。これらを見て思った。「江戸東京祝500年」とかのはじ巻きを凛々しく巻く東京の高校生が果たしているか。もちろん、一人もいないと言っていい。居ないのが当たり前で、それをいま、とやかく言うつもりは毛頭無い。だけれども、ハノイには、確実に存在している。「遷都1000年」に誇りをもっている青年たちが、確実に何十万人もここには居るのだ。都会から来た僕らなどに稚拙に見えていようとも、断固として国や郷土を思う途方もない数の若者たちがこの国にいるという現実。
20歳前後の数年間、日本とアメリカという帝国主義に牙を向けていた僕にはナショナリズムは、苦手だし、毛嫌いの対象でしかなかったね。でも、このごろナショナリズムの意味を時々考えることがある。そういう意味ではベトナムは僕にとって学習の場だね。
ノーベル賞は、欧米の価値観で決まるので、ハンディーキャップがあるけれど、ベトナム人が理工系分野で(現在欧米の在住者であれ)ノーベル賞を取ることを心から祈念したい。僕らの仕事もその一助になれば嬉しいね。
アントニオ・ネグリなどが9・11以後に捉えた「帝国」概念は、実はアメリカから中国に遷移しつつあるのではないかと思うこの頃ですが、「国家資本主義」中国は、自国のノーベル賞受賞を隠さなくてはならない事態に遭遇した。過去をみても、佐藤栄作に平和賞を与えるいい加減なノーベル賞委員会ではあるが、今回の劉暁波さんの平和賞受賞は、すでに、今春から、中国政府に圧力を受けていながらも民主化活動家で「08憲章」を起草した彼に贈ったことは、評価されて良いだろう。今後、中国の対応が見物だ。孔子、老子、孫子の国として?あるいは世界の新「帝国」として対応するのか。現在のところ二流の「国家資本主義」国としての振る舞いに終始している。そんな中で、中国共産党の元幹部の老人たちが、憲法を盾に自由を求めて反撃に出始めたようだ。
■大佛次郎「天皇の世紀」全12巻文春文庫を読んでいる。まだ、第二巻の320ページ。今回ハノイに居る間に第三巻に移行できそうだ。井伊大老の一見傲慢に見えるが、計算し尽くされた対水戸斉昭攻撃。これに対抗する水老こと斉昭らの攘夷派、実は息子徳川慶喜を将軍にする画策。分裂する京都の公家や禁裏サイド。水戸派の京都結集に対抗する幕府の京都支配はどうなるか。歴史というドラマは、現代人の知る映画や小説のシノプシスを軽々と超越してゆく。大佛さんと朝日新聞担当部門の資料収集のすごさと解析と抽出のエネルギーを改めてまざまざと知らししめる。何せ、資料分が30〜45%を占めているわけで、それが全部候(そうろう)文だから、どうしても読み解きに時間を要するので、大変は大変。でも追体験できる魔力が読者を離さない。
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