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2011年1月15日土曜日

ベトナムのiPad / 工場萌え / 勤王攘夷 / 映画「ウオールストリート」

■先日半年ぶりにホーチミンシティーに行った。新しい学校の設立の用件で行ったのだが、ハノイとホーチミン間の約二時間のベトナム航空の中で、iPadの愛好者が、やたら目立った。特にハノイに戻る際に目立った。僕の席の前後両隣などご近所の席だけで、何と4台が稼働中であった。仕事風情の各2名、恋人とゲーム中が2名というか1台、映画をみているモデル風長身美人が1台の使用。全部ベトナム人だぜ。この幹線の飛行ルートは、この18年間何十回と行き来しているが、7,8年前までは日本人を含む外人の方が圧倒的に多かったわけだが、今はニューヨークとワシントンDCの「シャトル便」のごとく本数も大幅に増加した上、搭乗者の大半はベトナム人となった。この機上のベトナム人の増加データと経済活動の上昇との関係はベトナムの経済活動の重要な側面を推し量るための指数だね、掴(つか)みのね。それにしても、iPadは、人気だね。当校のNGOC部長も去年11月日本に来た時、ご主人へのおみやげに買っていったね。日本では、5万円前後と思うが、ベトナムでは800〜1000ドルのようだ。

■ところで本当は、本日22日。1週間の短い日本滞在を終え、あと二時間で成田に向け出発だ。今度はテトもふくみ、2月9日までのハノイ。テト中にダナンのリゾートに2,3日行く予定。さて、大佛次郎「天皇の世紀」(文春文庫全12巻)が、まだ第四巻の470ページだ、12月25日のブログで320ページであったので、150ページしか進んでいない。理由は幾つかある。実はちょっとうんざりなのだ。と言っても、大佛さんの大著にうんざりと言うことではないんだ。営々と続く攘夷の狂気の沙汰の時代的気分に、と言ったら良いだろうな。水戸から発したこの時代的気分は長州と薩摩という一大勢力を席巻して、京都に勢力を構え、江戸の征夷大将軍に対峙した。日和見な江戸と勤王攘夷の台風に呷られていく京都禁裏(天皇)勢力との図。更に、開国は当然視しながらも、攘夷を鼓舞する「生麦事件」をひきおこした薩摩と、狂信的長州の対立と協調など、現代の僕らからほとんど読み取れない精神構造が時代の暗渠に蠢いているかのごとくだ。それが、第四巻の後半に綿々と綴られているので、「おいおい、攘夷はもういいぜ」て気持ちが僅かだが起きてきたということさ。

その攘夷というモノの時代の気分の本質は何なのだろうか。辟易しながらも整理すると、攘夷という疾風は、外国の排撃というエネルギーより、時代の桎梏となった幕府への倒幕運動である面が強いのではないか。過去のモノになりつつある幕府の日和見と開国派が幾分多い事に端緒があるが、倒幕し勤王、尊皇としてもう一つの旗頭を抱えて次代を乗り切りたいという幻想が、尊皇攘夷という狂気を構成したのではないか。江戸中期まで、刀で人を切ると言うことが久しく無かった成熟した徳川の時代であったのに、桜田門外の変以降、何百人という人々が攘夷の勤王の志士といわれる浪人たちや薩摩と長州の過激派武士により惨殺された。英仏の外国人も含まれている。多くがナチスのユダヤ人狩りを彷彿とさせる不合理な論理の下でだ。禁裏というか京都御所も久しぶりの配下として「武装勢力」を浪人、志士にもとめ、長州や薩摩を引き入れつつ、江戸に対抗しようとした。このうねりを攘夷の運動のエンジンとみるべきなのだろう。で、間違いないことは尊皇攘夷のイデオロギーの大意の下、明治革命は王政復古として成立した。ただし攘夷は臆面もなく一気に180度切り替わり、開国と近代化に向かった。そして尊皇攘夷の薩長の暗殺者たちが、権力を握った。

幾分うんざりと言ったものの、凄いのはもろくも英国海軍に粉砕された長州と比較して、英国海軍の軍艦同士で白兵戦のような接近戦で大砲を撃ち合いまで出来た大国薩摩のパワーは、事情をあまり知らない現代人からすると驚きだ。江戸で勝海舟も海軍の養成所を作り始めていたが、英国やオランダから買い求めた軍艦や大砲、鉄砲を日本の船大工や鉄工鍛冶の職人たちは、見よう見まねで開発をすでにしつつあり、数年で対抗し得る武器を生産していたと言うのだから、そんな開発力というか、工夫の仕方は尋常じゃあなく、明治革命のイントロ部分として、産業社会の萌芽がまさに音を立てて胎動していたことを伺わせる。

で、どんどん読み進められないもう一つの理由は、貴志祐介「新世界より」(講談社文庫全三巻)を並行して読んでいるからかもしれない。こちら古文でも「候文(そうろうぶん)」でもないので、読みやすいというか、1時間もまともに読むと50〜60ページも読み飛ばせる。だから、そのスムーズさにやや快感を感じつつも、でも何か物足りなさも引きづりながら読み進めている。いまなぜ、これか、というと僕は「新世界より」というような「新しい世界」タイトルに弱いのだ。池澤夏樹の「すばらしき新世界」もタイトルで買った様な気がするね。これはなかなか良い物であった。ドボルザークの「新世界」も好きな曲だし(関係ないか・・)、「あたらしい・せかい」という未知で未来なものに惹かれる資質が僕の内部にあるのだろうね。井上ひさし「吉里吉里人」、村上龍「希望の国エクソダス」、武者小路実篤の「新しき村」もだね、J・オーエルの「1984年」もそうだし、スイフト「ガリバー旅行記」、トーマス・モアの「ユートピア」も同じ系譜かもしれないね。考えれば、この系列の著作は少なくない。新しい国作りの魅力って何か在るモノね。かつての新世界はアメリカであった。21世紀の後半の新世界はどこかしら。ネパール、チベット、ブータンあたりか、イスラム諸国か。また、「電通とリクルート」という俗っぽいのも並行して読み始めた。腰巻きに「欲望はいかに作られたのか」とある。リクルートで3,4年仕事をし、その後電通の下請的仕事も随分こなしてきた。多分、その欲望の一つや二つに僕も加担してきたので、見つめ直す意味で、衝動買いした。リクルート事件は電通が火をつけ拡大させたものだと当時まことしやかに語られていたものだが、さて・・。

■先日、BSで「工場萌え」のドキュメントをやっていた。なかなか興味深いね。重工業地帯のパイプとタンク、そして煙突と火柱など一大ページェントだ。夜見るだけじゃあなく、昼でもなにやら時代の血脈と内蔵を曝している工場たち。不気味ほど美しいね。20年前にパリのポンピドーセンターに行った時を思い起こせる。ポンピドーを建築したレンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースの発想も実は「工場萌え」だろう。甚く感動した僕は、当時の部下の女性2名が英国に行く際に、ロジャースのオフィスに行かせた記憶があるね。ともかく、会ってこいよ、とね。レンゾ・ピアノは関西空港の設計でも有名だ。驚くのは工場の見学ツアーだ。女性が多く、その見学への凝りようは並大抵じゃあないよ。多分、大友克洋の描く崩壊する世界にもこの工場という複雑で究極の美が、絶えず描かれているようにも思える、さてどうだろうか。

■本日、ホーチミンへ行く機上で「ウオールストリート」を見た。まあ面白かったね。社会派オリバー・ストーン監督らしいプロの作品だ。先日僕が貶した「ノルウェイの森」などは、これと比較すると素人作品に見えて来る。ハリウッドのプロは腕力があるのだ。ただ、厳密に言うと、ハリウッドのプロの計算され尽くしたシノプシスと演出を遺憾なく発揮していたということであって、良質な作品とは言い難い。これは、20年ほど前の同監督で同じ配役(マイケル・ダグラス主演)の「ウオール街」の続編だ。インサイダー取引で7〜8年刑務所に入っていたマイケル・ダグラス扮するヘッジファンドの雄ゲッコーが、人生を見つめて「金だけでない世界」に入りつつも、娘との関係修復が上手く行かず、また、リーマンショックの世界的混乱に乗じて天才的手腕を発揮し、娘の恋人すらたぶらかし、一気に戦線復帰する、という話だ。

かつての自分を裏切った精悍な部下チャリー・シーンが太っちゃって年もくって、友情出演風に1分間ほど変わらぬ業界であぶくな銭と戯れているシーンもあって笑わせる。しいて言えば父親と絶交している娘の恋人がやり手の証券マンであるとか、設定にちょっとなああ、という不整合も無いではない。映画ってラストシーンから、ストーリーや、シナリオが出来る場合もおおい訳ですが、この映画は、オリバーストーンがどう終わらせて良いか、決断が出せなかったようにも見える。畢竟、ゲッコーが最後に儲けた100億円で、娘とその青年とゲッコーという新家族が幸せに暮らしたとさ、でエンディング。字幕のバックの幸せ風景が嘘っぱちに見えるよな〜。エンディングで、映画の緻密さが急激にトーンダウンしている。オリバー・ストーンも老人呆けかい。ラジカル左翼の断固とした掘り下げが今回、特にラストで薄められている印象。マイケルダグラスは、ガンを抱えて撮影をしていたようだ。エンディングの不整合が、その影響であるのか無いのかは、僕には解らない。

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