2008年11月29日土曜日

微笑の国って本当かい?

天国に一番近い島だとか、情熱の国とか、蒼い風の吹く・・・とかは、小説の引用などから観光会社がひねり出したいい加減な修飾語だろう。特に困っちゃうのはベトナムの「微笑みの国」って奴だ。正式に”微笑みの特許”を持ってはいるのは昔からタイ国だ。ところが女性雑誌などでは、ベトナムも最近「微笑み」に参入させられている。でも、どこに微笑みが転がって居るんだろう。ベトナムのどこに微笑みが溢れているというのだろうか。雑誌の編集者は何処見て書いて居るんだろう、と思うね。ベトナムを悪くは言いたかあないが、えっほんと?って言いたくなるね。

もちろんハノイにも大阪風のおばちゃんもいれば、山の手のご夫人たちもいる。巣鴨のおばあちゃんな人たち、あるいは、そのような一角もある。そこでは微笑みどころでなく、哄笑や豪快な笑いとおしゃべりに溢れている。生活や仕事に笑いは付きものだ、当たり前だね。世界の街角には、何処でも笑いや微笑みが在ろうというものだ。悲しみに満ちた星地球とはいうもののまだまだ笑顔は地球上で生きている。でも「微笑みの国」ってなんだい?微笑みのプロといえば、なんと言っても空飛ぶスッチーさんだ。しかし少なくともそのベトナム航空のスッチーには他人にスマイルを伝播させるような笑顔はないぜ。黙々と、時には憮然と仕事に励んでいる。JALの訓練されたスッチー軍団のようなプロの笑顔や気配り仕草はない。ほとんど無愛想だよ。正直と言えば正直な表情なんだがね。一度でもベトナム航空に搭乗されれば解ります。

今回この無愛想を考えてみようと思う。実は無愛想の中に「微笑み」に無い何かがあると睨んでいるのです。馴染みのレストラン、路上のレストラン、小売店で、「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」何ていう元気な挨拶は通常されたことが無い。ニコニコっとしたsmileもまあ、滅多にしていただけない。レストランであれば、注文も支払いも無表情の対応だ。だからといって、いやな気持ちになるわけでもないし、敵愾心が見えるわけでもなく、淡々と昔からの親戚のようにあっさりと事は済む。親戚と言うより、親や兄弟に近いかも知れない。実際日本の家庭で、親や兄弟に「ありがとう」「またよろしく」などと元気に明るく”感謝の意”や気配りを明示する人は希だ。家庭の中で、謝意を大げさにのたまう奴は居ないのと何処かにている。

小津安二郎監督の「東京物語」でも、ありがとうというのは嫁さん(外から来た人)の原節子だけだ、以心伝心で信頼が伝わり、生活は恙(つつが)なく進行する。それが日本の家庭であり、生活の品位というモノだろう。僕はベトナムの無愛想をそこに見ている。揺るぎない信頼関係に余計な言葉はいらない。外から見ると無愛想だが、むしろ以心伝心する信頼と敬愛に「粉飾のご愛敬」は要らないと言うことなのではないだろうか。
僕は仙台生まれ、仙台育ち。仙台人も昔から”商売っ気”がない、つまり愛嬌がないと言われてきた。商人でさえ無愛想なのだ。でも、信頼に基づいた社会は見事に揺るがなく構成されていた。武家文化仙台の在る意味で真骨頂なのだ。だから、ベトナム人の無愛想の中に潜む「前提としての信頼感」あるいは「絆」は、僕なりに見て取れる。お客さんも近所の人も通行人さえも、広い意味で”家族”と捉えているのではないか。頼母子講など相互扶助システムが昔から発達してきたベトナムならではの家族観が無理のない、つまり正直な表情で自然に生活していると言うことだろうと思う。
演出された笑顔が多すぎるのかもしれない日本。マニュアル化された笑顔に僕たちは慣らされすぎてきたのではないか。皆さんはどうご覧になっていますか。

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