2008年12月11日木曜日

映画「おくりびと」考

劇場で映画を見なくなって、まあ20年は経つなあ。と言っても、劇場で見る習慣を無くして20年という意味であって、全く劇場に足を運ばなくなったわけではない。この数年でも、年に1〜2回ぐらいは見ていようか。それじゃあ見ないに等しいわけだが、劇場の雰囲気、それも始まる際の胸騒ぎは何時になってもたまらない。実は僕は何を隠そう、東映で助監督であったのだ。1970年から3年ほどだ。大学に行かず、日活の照明部に潜り込んだのが確か1970年春であった。渡哲也さん主演のホームドラマの照明を見よう見まねで、お二階で(スターたちへのライトを天井部分、つまり上から当てる役目)本格的労働者として、汗水垂らした。何しろ時代が時代だから、2階には直径1メートルや2メートル、厚み1メートルほどの巨大なライトがうなりを挙げて、煌々と下を照らしている。僕らの2階部分は40度以上の熱風地帯。汗を上から垂らせば、怒鳴られるし、物音立てては、しこたまどやされる毎日であった。

重量30キロ、40キロもあるそれらの灼熱ライトを照明技師のかけ声一つで、あっちへ移動、こっちへ移動と2階の渡り廊下(仮設仮設した、ロープでつり下げられただけの代物)を火傷しながら、スターたちにほどよい光量のライトを当てる仕事であった。ライトが直接お顔に当たると、お顔の陰影がシャープに出やすいので「パラピン」とか言われる半透明の紙をライトにあてがい、スターのお顔に柔らかい照明を施すのだ。階下は、理想的な家庭を仮装の美男美女が演じ、お二階では、熱地獄のような暗闇で元気よく僕の青春は爆発していたのだ。お二階には通常、2,3名の先輩が居て、僕の頼りない仕事を色々カバーしてくれていた。仕事も年齢も大抵不詳のようなお兄さんたちで、「お前全学連なんだって・・バカ田大学だな」とか揶揄しながらも、時々日活撮影所のそばの布田駅あたりの赤提灯で奢ってくれたりしていた。

で、日活は照明課長と折り合いが悪く、2ヶ月で辞め、上記先輩の一人の紹介で練馬大泉の東映東京撮影所へ。一年ばかり、照明部をやっていたが、お二階から撮影の現場を客観的に見ていたお陰で、ドラマの撮影なんか俺でも撮れると傲慢に、年齢も似たようなセカンド助監督数人とああだ、こうだ、フェリーニがなあ、ゴダールの黒画面は革命のなあ・・とか言っている内に早稲田の先輩がぞろぞろ居る演出部に入れと言うことになり、照明部からは「裏切り者」とやじられたが、71年初春に、東京12ch「プレーガール」、TBS「キーハンター」のセカンド助監督になった。ついでにここで早稲田も辞めた。初めての衣装合わせで、主演の桑原幸子やお姉(沢たまき)あたりに「今日、何故ここに居るの(衣装合わせに照明部の若手は参加しないのだ)?阿部ちゃん・・」と聞かれて「うん、今日から助監督さ」といなして、演出助手の第一歩が始まったのだった。

映画「おくりびと」はハノイ行きの機上で見た。評価が高かったので見たが、まあ、どうなんだろう、佳作とか小品とか言われる範疇の作品以上でも以下でもないと言ったところでしょうか。思い出すのは伊丹十三の「お葬式」だ。共通するのは怪優山崎努がほぼ主演で画面を支配していることだ。NTTドコモの最近の一連の自分探し風コマーシャルの不思議な館にいる山崎も同じ流れのようだ。単純に比較はできないが、お葬式には破壊力が充ち満ちていた。彼の意図は笑いで建前とか形式を吹き飛ばすって寸法だ。死を送り出すにはカオスが一番、と言い切った傑作である。

一方、同じ死の送り出しだが、死には、やっぱり静寂がいいよねと、演出トーンを抑えに押さえて好感持てるのだが、これからの若い夫婦の絆と、プラトニック的であったらしい初老の恋人笹野の「おくりびと」の絆の現れ方もまた「小品」で、総じて悪くないが小粒の感が否めない。この作品をモノクロで撮り、より不器用な生き方を選択し、主演本木を別れを享受できる男に仕立てれたら、やや「骨太」の作品になったような気がする。テレビ出身小山薫堂脚本の纏まりの良さの弊害なのかも知れない。アニエス・バルダの「幸福」(1966年フランス)を「おくりびと」の後、ご覧になるといい。葬送の「 本物の美しい映画」が見られるはずだ。

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