2008年11月23日日曜日

幸せ探がさなきゃ・・

昨日、恒例でもあるがハノイの当校教員の尾崎さんから「ナナスポ」がメールで送られてきた。彼のスポーツニュースだ。我が尾崎監督率いるVCIの野球チームが、宿敵ハノイクラブ(ベトナム人の野球愛好クラブ)を8対3でやっと下したらしい。狂喜乱舞の報が入ったというわけだ。それまで野球を見たことさえ無かった彼らを約3ヶ月の指導と訓練でよくそこまで来たと感心。特に大人しいと言われがちのベトナム青年たちが、ふがいないプレーや敗北を自ら悔しがり、ついにここまで来たのだ。うれしい。闘将尾崎さん、また応援の女性の先生方、ご苦労さま。 その時、遂にHANOIのテレビ局が彼らの珍しい野球を取材にきたらしい。今後の反響に期待。

ぼくはベトナムに幸せを探している。日本が失ってきたこと、忘れようとしてきたことの多くがここにまだ残っているからであろうと思う。そこには、日本の戦後を総括する上で大事な要素がいくつもあるような気がする。まず、一等最初に頭に浮かぶものは「家族の絆」である。よく戦後の欧米化がいわれた。進駐軍の施策はじめ、文化情報の隅々にいたるまでの操作によって、家族関係、友人や知人との人間関係、地域との関わりは薄められ、代わりに個人の主体が重んじられることに価値が置かれてきた。そこでは”仕事”が栄えたのでなく”ビジネス」が隆盛したのだった。分断とか、解体というと一口過ぎるが、事実上「関係性」が閉じられ「個」が孤立しながら表に立たされるのが現在の普通のシチュエーションになった。これが欧米的というものなのであろうか。

たとえば、東欧は今でも東方正教的な泥臭い家族関係は実在しているときく。大ブリテンであっても、アイルランドやアイスランドでは、(ケルトの歴史だけじゃあなく)、大半を占めている農業者、漁業者の家族はまだまだどっこい家族を軸にした人間関係を維持できているようだ。フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ぼくの好きなポルトガルでも、そうであると予想できよう。優良なドキュメントやニュースでもそういう情報は少なくない。アメリカはNY,ロス、シカゴなど大都市以外は、ニューヨークも知らない「田舎もの」であふれたマッチョ的家族関係が今も無風で、その崩れを知らない。新旧キリスト教、イスラム教という生活に完全に根ざした宗教(生活システム自身)がまさに牙城として、家族と地域の「絆」を守っているのだろう。

大分前だが、世界の高校生のアンケートなるもので「親と生活したいか」という問いに「是」とした%が次だ。80%中国、フランス(多分)70%、アメリカ60%、韓国50%、日本16%とかいてあった(出典不明・うろ覚えだが大手生保の発表とおもう。数字もやや怪しいが、日本だけ16%で圧倒的に少なかった)。韓国が意外に低い印象であったが、アメリカでさえ”常識的”数字であった。住宅事情も大いに反映していよう。が、日本の場合、ここには別な要因がいくつか複合して隠されているように見える。

先週、ぼくが夕方不整脈で倒れた日の朝、田原総一郎さんのサンデープロジェクトを見ていたら、今をときめくフィンランドとデンマークの「幸せ」をドキュメントしていた。田原番組らしい良い企画だ。重税国らしく、フィンランドの所得税は、60%、デンマークは70%だそうだ。レポートに登場したデンマークの若い共稼ぎ夫婦が「ふたりで70万円ほどある月収のうち、自由に使えるのは十数万円だ」と言っていた。物価も決して安くないようだ。でも、そこには幸せ感が横溢している。街頭インタビューで若者も老人も溌剌と多様な言い方で、現在の幸せを落ち着いた口調で語っていた。

一方、小さな政府が良いとか、「経済は市場が決める」などという慶応の竹中はじめ金融市場「原理」主義者は、今後、この「北欧の”大きな政府”」の新しい価値をどのように批判していくのだろうか。彼らの幻想は今年もろくも崩壊したわけだし・・。虚構にITテクノを粉飾した実態が暴露されたからだ。これが「市場が決める」の内実であったのだ。この現状にあって、ぼくらが少年時代からではあったが、北欧のゆったりとした家族の絆を大切にしたままの社会形態には、理想的な眩しいものがある。日本は1億人、両国は各500万人だ。比べようがないと言うまい。田舎だろうが都市だろうが、大国だろうが小国だろうが、共通する真理は潜んでいる。次の兆しは、見えにくい日常に既に芽生えている。時代というモノはそういうものさ。
ベトナムでは、途上国が大抵抱えている環境問題、不公平、汚職などが根深い。理想を求める自分との乖離も無いではない。それを救っているのはまさに家族の絆だ。今後、彼らの社会は、この家族と地域などの絆のあり方をどう展望していくのであろうか。 時々このベトナムの家族の絆や、日本の戦後総括で肝要そうな事項を自分なりに論耕していきたいと思う。

今は大御所だが、田原さんは、昔「岩波映画制作所」にいた。その後東京12chにはいり、60年代後半に当時の社会現象のドキュメント表現者として突出していた。その後、局内で「干され」、テレ朝「トウナイト」司会者で政治評論家としての頭角を現すのだが、そのころ、ぼくの企画の「ドキュメント青春」の再販の試みを全面的に協力してくれた。また、1980年10月21日の反戦映画「怒りをうたえ」(合計8時間)のビデオ発売記念大上映会を今は無き池袋文芸座で2000人を集めて阿部が司会(主催)で行ったときも、作家の中上健二さんらとともに田原さんも駆けつけて講演をしてくれた。赤塚不二夫先生、村上龍さん、漫画原作のやまさき十三さん、作家立松和平さんからも協力もらった。友人や縁という絆が活きていた。28年前、ぼく32歳だった。

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