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2011年7月17日日曜日

★ 草間彌生という人生(完了)


1■先日、お客様の会社にお邪魔するので、炎天下久しぶりに青山の骨董通りを黙々と歩いた。久しぶりでゆっくり周辺見ながら歩くと、骨董通りの六本木よりのエリアの没落の激しいことが解る。僕が1990年代、独立して青山のこどもの城の隣のオーバルビルにオフィスを持った時代から20年は経っているので、時代の厳しい推移がはっきりと見えて来る。青山通りの表参道交差点とか、外苑前もそうだが、メイン通りにも活力が見えないとこの2、3年何となく感じて居たが、骨董通りの表情を見て、やっぱりだな、と改めて感じたわけだ。

骨董通りのビルが歯抜けになっていたおかげで、岡本太郎先生の美術館が表から見えた。時間に余裕があったので、かつてのご自宅のお庭部分に入って、頭上を見上げ太陽を仰いだ。そして、お庭に陳列されてあった太陽の塔の「孫」みたいな金色のオブジェの写真をカメラが無いので、携帯で撮った。そういえば岡本太郎先生と直に二人でお話しした事があった。1985年頃だと思う。その話はこのブログの2010年3月30日の項に「岡本太郎体験」として書いてあるので、ぜひ、参考にお読みください。ともかく、今は「会館」となっているこのご自宅で、「縄文文化」のイベントの企画をお願いしたのであった。岡本先生は爆発する人でも、多弁のひとでもなく、落ち着いた論旨でお話しする方で在った。芸術家は当然ながら、自らを演出する演出家だということだろう。でも、縄文車などアイディアを湧き起こしたときの瞬発力は腰抜かすほど僕の魂を震わせたという思い出がある。

2■先ほど(16日深夜)、草間彌生(やよい)さんの4〜5時間のドキュメントをNHKBSでやっていた。本年世界での移動展があるそうで、その準備と最新作品の100点の絵画作品を82歳の彼女が、力業でやり遂げるまでのドキュメントだ。僕の写真の師アラーキーさんとの対談まである見応えがある5時間であった。今回、草間さんをここで取り上げたのは、ちょっと微妙な事だけれど、精神的疾患と芸術のこと、また、商品としての「芸術」のことなど際どい所を耕論してみたくて、・・。ちょっとめんどうなのですがね。岡本太郎、YOKO ONO、山下清、ジミー大西、詩人の何人か・・など登場させて書きたいと思っています。・・・ハノイで授業はじまるので、準備で。ちょっと中断させてくださいね・・・。

・・なでしこジャパンが勝ったという。凄いね。彼女らの世界一をめざすイメージ力がまずは勝っていたということでしょう。おめでとう・・・
・・・ぼやぼやして、書くのをサボっていたら、草間さんの項が、毎日100pvぐらいで、読んでくれて居る人いるのに、ほとんどタイトルだけで、本当に失礼しました。

1990年頃、青山通りから、明治公園の方にちょっと入った所にポスターとか、ポストカード等を売っていたおしゃれな古くからの紙屋のギャラリーがいきなり僕の大好きなマリオ・ボッタが建築した美術館「ワタリウム」に変身した。まあ、拡大したのだろう。経営者はちょっと五月蠅そうな母子で、ほとんど記憶が薄れつつあるが、何故か草間さんのアートのことでその母子と「もめた」ことあった。というより、会議がその母子と気まずくなったというか、事実上決裂したというような事であった。そのときが、草間アートに僕が仕事で関係しようとした最初であったのだろうと思う。そのころ、そこが草間さんの代理人であったのだろうか、定かではない。草間彌生さんにとっては、全くあずかり知らない話だが、印象悪い雰囲気でその出会いをしてしまったのだ。こういう記憶の残滓は、意外にやっかいなものだ。

このBSの長時間ドキュメントは、彼女のアート以外の生活は全く触れない。触れないことが製作開始時点での双方の了解点なのだろう。子供時代から、1950年代にまったく単身でNYのアートシーンに乗り込み奮戦していたことなど、彼女の生い立ちや今に至る軌跡はインタビューも交えて丹念に追っている。でも、現在の彼女は生誕地の松本市に居ると言う以外触れようとしていなかったが、街中を車いすで介助されながら移動する彼女の画像にかぶらせて、「草間さんは、アトリエに近い精神病院から、毎日通っています」と唐突にナレーションで触れた。その言葉選びに制作側のこの番組への意図は伝わってきた。

3■3,4年前、ジミー大西のカリブ海を旅するドキュメントを見た。吉本のお笑い芸人から売れっ子画家に変身したジミーの原点の旅と言えるものである。ご存じの方も多いと思うが、彼のテーマとか、筆致また彩色は、カリブの民族絵に近い原色を多用した目映いばかりの、動的なスタイルである。イラストレーション・絵画に詳しい人なら知っている宇野亜喜良さんのタッチに極彩色の色がついたような作品が多い。さらに、このドキュメントだけではないが、ジミーのアート展開には吉本がプロモーションしているので、気の毒にも逆に「臭さ」が顔を出してしまったりしている。テレビ製作サイドの意図にも拘わらず、このテレビの中で、カリブのアーチストたちの作品の「プリミティブ」度は日本人の持っているジミー程度の「プリミティブ」度をあっさり突き抜けていた。そのせいか、この番組では絵画の比較シーンは避けられ押さえられていたように思った。

いまさら、言うまでも無いけれど世界の「西洋流」絵画、アートは、ピカソやマチスを言うに及ばず、アフリカのそれも旧植民地の原始的民俗的職人芸の影響、言い換えると侵略的な遷移、パクリというと身も蓋もないけれど、現代アートはそのアフリカのプリミティブを吸収して、それに依って中世的、あるいはキリスト教的呪縛から、解放され開花した。人類が誕生したその聖地が育んだ人類の営為は白人が作り出したキリスト教、西洋ヒューマニズム、資本主義という小賢しくて暴力的な三大制度に負けないオリジナリティーがあり、国家の覇権では敗走の連続であったが、精神性やアート、民芸では、見事に抗することが出来ていたのだと思う。アフリカ大陸の人類史がたい積させてきた「プリミティブ」な営為は西洋の「洗練」された価値観を粉砕し、見事に改宗させるほどの磁力を蓄えていたのだった。

4■岡本太郎先生の芸術表現は、いえ、岡本先生も営為という文字でなぞった方が、彼の一人の芸術運動にふさわしいかもしれない。岡本太郎先生は、メキシコ革命であり、民衆の壁画運動であり、「シケイロス」であり「リベラ」であり、インカであり、中南米大陸にある民衆と民俗史総体と同化し、全く衒いもせず、そのことをオープンにして、安穏として均質を良しとし、和を以て良しとするニッポンに火山の様な形相で、挑みかかっていったのである。岡本先生の作品は太陽の塔だろうが、青山の子供の城のファサードにあるオブジェにしても、ご自宅(今は会館)の狭いお庭に鎮座している像たちも皆〜な同じ形状だし、同じ主張だ。同じ事をくり返しています。見る人を呆れさせるほど、同じ作りです。そしてこの継続・持続の爆発を画壇や、マスコミ、そして日本の戦後の民衆の渇望感の真上から、ぶちまけたのである。恐れおののき呆れた画壇とか怖いモノには目をつぶる大勢の輩など無視して、中南米大陸のプリミティブを日本人の芸術フィールドのど真ん中に屹立させたのである。それは日本人にとって見たこともない圧倒的な「無垢」であった。

アフリカの人類の営為からでた表現も、中南米の民衆からでた表現も吉本隆明的にいえば「自己表出」だが、民衆の表出として、無意識のまさに生活の営為が「民俗の道具や装飾」として、白人社会が無視してきた暗黒大陸に鮮烈なアートとして存在していたのだ。岡本太郎の凄さは、そのアフリカのプリミティブがピカソやマチスなど白人アーチストや画商を驚愕させたのと同様な中南米民衆の魂を一人で背負い、世界の芸術戦線で一人で戦闘してきたことにある。換言すると、中南米の民衆の本源的な「無垢」の化身となって、歩んできたとことに誰もが真似の出来ない偉大さがあるのだ。

5■1980年代の後半に6,7回ニューヨークに仕事でいった。有名JAZZライブ店「ビレッジバンガード」を東京に持ってくるためである。もちろん、ブルーノート青山に触発されたことは否めない。ヤッパー、老舗中の老舗で無くっちゃー、と僕の発案でNYに通い始めた。初めは、家族四人で行った。早稲田の全共闘の仲間で、妻晃子の同級であった島津隆文が、当時東京都庁を代表してNY市庁舎(シティーホール)に出向していたので、彼にも大分助けてもらった。ビレッジバンガードのオーナーのマックスゴードンが亡くなったばかりで、ゴードン未亡人は、店舗の東京への拡大を固辞して、この件は不調に結果終わったのだが、実は同時に僕はアフリカ美術の専門家たちとNYで会い、東京での展示会をイメージし始めていた。彼らの紹介で、「日本アフリカ夫人の会」の重光代表を紹介されて、目黒だったかのご自宅に伺った。現代史に詳しい人は解りますね。重光のお名前。やんごとない戦時中の外務大臣であり、ミズーリ艦上で戦争終結のサインをした人だね。その娘さんが彼女で、それはそれは美しいおばあさまでした。格調の高い古い洋館のご自宅はなにせ、土足です。靴はいたまま、応接室にとうされたのですから、二重三重に驚かされました。本外交官のご主人も最高のキャラなのですが、主題じゃあないので別項に譲ります。

さて、ユッソー・ウンドールはアフリカの音楽アーチストですが、彼の様に有名な画家やデザイナーの名前が忘れてしまったのですが、名前の大きさに関係なく見る機会は東京でも80年代から90年代のバブル期にありました。重光さんに教えていただいたり、ご紹介いただいたり。セネガル、コートジボアールなどの作家や作品がおおい印象でした。NYの友人からは、彼らがアメリカで展開した展示会の公式作品集(立派な装丁)などもいただいたり、そのカタログに在るモノは日本に送れるから、展示のチャンスがあったら、連絡欲しいとなったり、随分動いたのですが、やっぱりアフリカのアートとなると、好きな人は好きですが、スポンサーなどを見つけることが出来ず、僕が事務局長やっていた「青山国際村」(国連大学と子供の城と、楕円形のオーバルビルのビルの三連の空間を活用した活動)で、アフリカのバザール中心のお祭りを二回やってお茶を濁すことになりました。盛況でしたがね。そんな活動の中で、アフリカの骨太い民芸的営為の作品の驚くべき強さを(少しですが)認識したのでした。

6■村上隆のかわいいセクシーな「アート」フィギアが16億円だとか、奈良美智の不機嫌そうな女の子のイラストが数千万でNYのMOMAが買い取ったとか。悪い話ではありません。僕が昔仕事で付き合ったイラストレーターの鈴木英人さんが、風の動きや光のハレーションを可視化したひとで、1980年代は教科書にも使われたりで、イラスト界の寵児でもあり、「イラスト料金の底上げを結果押し上げた人」として、売れっ子でした。現在は、横尾忠則さんや横山明さんと同様、イラストレイターを廃業し画家になっています。でも、村上隆や奈良美智の場合は、全く位相が違う。現金の値を一気に上昇させたい画商と幻想と話題を作りたいミュージアムなど世界の業界、マスコミ、ついでに言うと「騙されたい常連の芸術愛好家・金持ち」の共同戦線の成果に過ぎない。恣意的な共同幻想が生み出した「価値」だ。

草間さんが不運なのは、このドキュメントにある彼女の世界展の準備中に3月11日の大震災をうけ、日本人や世界の人々の意識が大分「地殻変動」をしてしまったと言うことだ。もう、彼女の一流のオリジナルとはいえ水玉模様の連続を壁や乗り物に、またキャンバスに描いても誰も幸せにならなくなったと言うことだろう。ひらめきの抽象だけでは誰の心も引きつけない時代になったことだ。80才代だから「利用の限界の最後の世界キャンペーン」を張ろうと考えていた賢い画商たちの、こうなったときのひねりはどうするのだろうか。それも見物だけれど、肉体の最後の機能を全力展開させてキャンバスに向かう彼女の姿は強欲婆の生々しさは薄れ、むしろお気の毒な雰囲気で映像の奥に沈殿物のごとくたゆたっているようにも見える。

7■はっきり言って、草間さんの「アート」とか村上隆のフィギュアとか奈良美智のイラストなど、束になってかかっても岡本太郎先生にはまったく敵わないこと。全く次元がちがうレベルにあること。日本の飛鳥奈良時代から、江戸の浮世絵、そして岡本先生まで連綿と続く日本の芸術と芸術家たちの系譜。「アート」を振りかざして、何をいいたいの?お宅ら。ここは草間彌生の項目だから老婆には非道いことを言いにくいが、画商とプロデューサーを使って演出の価値を上げ、価格を上げて、一気に売り抜くビジネスは、空しくないかい?株取引とまったく一緒だね。本年に彼女が展示会用に書いた100枚は、テレビで見た限りだが何の躍動もなく、見る者を震わす何ものも見受けられなかった。ただ、周りの取り巻きが、良いですね、元気ですね。世界に見せたいですね、みたいなおべんちゃら言って、彼女もホッとして微笑む。はっきり言って、余生を静かにそして、書きたいことをだれに見せるでなく描いて、ラッキーな人生を終わればいいのに。歩けない老人までもこき使い、最後まで金のなる木から絞ろうとする人々。まあ、無惨な世界展示会の総括を予感して、この項を終えたい。


《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルと日付け、紹介致します。
ぜひ、ご高覧ください。多いのは一日1400名の閲覧もありました。

・2008年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC /  立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・2011年7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人

これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2011年7月16日土曜日

最近のこと、写真で報告

■下方にコメントなど記した。
1「お客様へ訪問」
2「頑張る卒業生」
3「東京のセミナー」
4「ハノイ農業大学にて」
5「記念写真」
6「真剣そのもの、面接」
7「大学にお客様引率」
8「お客様をご紹介」
9「僕の朝飯」
「娘が来た」
10「取材」
11「記念に1枚」
12「仕事人」
13「アート」


■何だか暑いせいだろうか、ブログの筆が進まない。進まないと言うより、書こうという気が起きてこない。というより、例の著作の原稿の作業は継続しているので、全部に疲労が出ているわけでもないが、無意識に僕なりの優先順位を付けているようだ。もう、今回は、写真だけでごまかしますね。主には、5月、6月、7月のフォト報告と言うことになる。上から順に簡単キャプション付けた。昔は何でも撮ったものだが、年齢のせいか、面接などさえ、あまり撮影していない。こういう場合になると写真不足で、忸怩たるものあるね。

1:今月12日埼玉の株式会社タイショー様を訪問。精力的な橋本社長が率いて、大学との提携も多い機械製作専門メーカ。既にヒュー君とホアン君がエンジニア見習いで稼働している。二人ともハノイ工科大卒の精鋭だ。写真は左から、ご紹介の人財ソリューションの佐藤さん、橋本社長、ヒュー君、ホアン君、右端阿部。 今月末、第二回目の採用で、橋本社長がいらっしゃる予定。
2:工場の一角でソフトウエアを開発中のヒュー君。彼の大きな課題はハノイに居る恋人のこと。彼女は日本語も堪能なので、橋本社長が「こっちへ呼んだら」とアドバイス中。 

3:ちょっと前だが、3月末の東京での「ベトナム人エンジニア採用セミナー」 
4:これは実は3月11日の「ハノイ農業大学での学生募集セミナー」多数が参席。日本の震災を全く知らずにセミナーは進行した。 
5:この頃、フンイエン大学、農業大学、恒例のハノイ工科大学のセミナーが、行われた。当校教員、スタッフ、農業大学幹部などが、演壇で記念写真。 
6:本年、創業130年を迎える自動車関連分野の村上開明堂様の面接。去年に引き続き本年も2名の採用をいただいた。
7:お客様を銀行大学にご紹介。 
8:近畿の会計士・税理士団体をベトナム会計士協会にご紹介。
9:六月のある朝の阿部の手作り朝食。粗末なものだが朝食は、東京に居るときは毎日作っている。ご飯は、ベトナム米の「バックフン:北の香り」。最高に美味。 
10:アメリカ系大手女性雑誌社にいる娘のはるひが来たので、有力誌「ヘリテージ」を紹介した。向かって右はNGOCさん、左奥はLUYENさん。 
11:最近、僕の著作の取材の関係でたくさんの優秀なベトナム人を取材した。その中のお一人、ホーチミン国家大学人文科学大学のフオン博士。 
12:ベトナム銀行大学のビン学部長と記念写真。 
13:当校のかなめ、NGOC部長とLUYENさん、6月中旬、校内で。 
14:ハノイの市内街頭にあった”前衛的”インスタレーション。全部、電話線と電線でアートされていた。
・・・今後は、頑張ってまめに写真をとり、報告した方が良いようですね。では。阿部
 

2011年6月29日水曜日

★ 消滅している東北弁 / 道傳愛子様


麗しい解説委員

■道傳愛子NHKアナウンサーを久しぶりでBSで見た。はっきり言って僕にとってセクシーで好みなのです、ハイ。多くの人も知っているはずですが、彼女は20年ほど前は美女で輝いており、朝や夜の主要ニュースも担当していた。もちろん、今も麗しいよ。でも人間だから寄る年波に勝てるわけでなく、予想通り小太り風になっていた。首回りに贅肉というか脂肪分というのかが、幾分張り付いていたかな。ちょっとリアルに書き過ぎかな。亡くなった女房も昔わりかし彼女に好感を持っていたようで、彼女が出演していると、心地よさそうに見入っていた。僕の母親の名前と同じ愛子だからというわけではないが、彼女の魅力は、トロッとして眠そうでその分、程よく自分の感情を押さえた「何考えているんだかよくわからない」感にあった。彼女は感情や価値観をあまり出さないので、僕の好みが続いたのかも知れない。価値観が自分と乖離していくと、ヤッパー好意も減退するからね。彼女のお顔の相を見ると、結構強い保守派だろうと思うがね。

ただし、彼女のために言っときますが、いわばNHK的に「感情をださない」規則・伝統に忠実という意味ではないんです。なんというのかなあ、「僕から浮気しない安心感」というのかなあ。「どこかに行っちゃわない安心感」というのだろうか。でもあに図らんやその彼女が10年ちょっと前にアジア総局に行っちゃって・・・、アナウンサーとしての出演がなくなり、特派員・記者の立場で得意な英語を駆使して、時々タイやシンガポールからの生中継にでていた。ベトナムへはあまり来なかったようだね。つまり、アナウンスの業界から、ジャーナリズムの分野にシフトしたと言うことで、新しい肩書きは何と「解説委員」となっていた、現在45,か46才だから、順調な歩みなのだろう。まだ、未婚の様だ。率直言ってうれしいで御座候。歴史女子の美女黒田あゆみアナは三つ目の名前渡邊さん名に、アート女子の麗人山根基世アナも六十代になってしまったが、そのNHKを代表する知的で麗しい方々連に我が道傳ちゃんも加わるのだろうね。道傳さん頑張って、応援してるよ。画面の此岸からね。僕のアイドルさ。渡邊さんも、山根さんも見てますよ〜。

■海江田は、僕の数少ない政治家の友人の一人である。前にもブログにかいた。小沢の代理人的な動きをした今春かな。でも、最近の彼はさらに非道いね。経産省というか、東電・・電事連のいうがままな「もう安全です。定期運休原発は、そろそろ稼働させましょう」という情けないことをいつものように無表情に近い顔で宣言した。リーダーシップ無き管さんでさえ「9月に原発解散」をちらつかせているんだぜ。どうなってるの海江田!!お前また、選挙でおとされるぞ。それはどうでもいいが、どういうセンスなのよ君は。ちょっと非道いぜ。

君は東大の仙石さんと同じ「フロント:構造改革系」に属して、慶応全共闘で「先駆的に」闘っていたんだろう?原発はもともと反対だろう?大人だし、選挙で選ばれる立場であるので、ガキのような「小児的急進主義」はできないとしてもだよ、未来を先取りする感覚と感性まで身ぐるみ捨てたのかよ。恥ずかしいぜ。いざという時は海江田さんの本当の姿と考えを「立場を弁えずに」断固と言って欲しいぜ。「原発解散」になってしまったら、君は選挙民にどのように言うの?原発は、あくまでつなぎのエネルギー。再生可能自然エネルギーに主軸を移そう。問題は全国54の全廃炉へのリアルな構想とその技術開発だ!!ぐらいは、雑誌「世界」か「文藝春秋」の10月号ぐらいに出稿してみてよ。元毎日新聞の記者であった君の親爺に「やっぱり、お前は立派だ」ぐらい言ってもらいたいだろう? でも言っておくけれどさ、民主党にはまったく幻想持っていないからね、すでに。僕。

■僕の故郷である宮城県を真ん中にして岩手、福島が言うまでも無く歴史的な震災と津波を受けた。福島は更に原発のいわば人災・文明災を被ってしまった。原発の被害は、必要以上に神経質に被害を声高に言うことはないが、3月23日には、SPEEDIによる放射能の飛散のシミュレーションがでていたのにも関わらず、政府も東電も全く隠匿していた。見れば、一部は宮城の端まで含む浜通り一体が縦位置に汚染されていたのが明確に解る。20キロ、30キロの円周的区別の意味など役所の便宜でしかなかったことが、明白だ。テレビ映像ではゆっくりと侵入してくる漆黒の怒濤が、人や家屋、車や接岸していた大小の船舶を流しては、陸地に打ち上げ、そして平然とすべての命と人々の生活を深い海に連れ去って行った。石巻で医者であった高校時代の同級生もその巨大な潮の中に巻き込まれた。その様な大きな被災を受けた東北の人々は、カメラに曝され、インタビューのマイクを幾度となく突きつけられた。

3月25日に日本に戻ってテレビの前にすわり、地震と津波と原発の映像をザッピングして、たくさん見た。もちろん11日以降ハノイでYouTuBeでおもに津波の恐ろしい光景はたくさん見ていたが、人々の表情の映像は限りがあった。25日は、丁度2週間後で、被災の数十万人の人々が、体育館などの避難所で生活をしていた。ボランティアや自衛隊も活躍していた。そう言う映像を見ながらすぐに気づいたことがあった。誰も彼もインタビューに応えるとき東北特有の訛りがないのだ。僕が高校まで慣れ親しんでいた東北弁・仙台弁が見事に消え失せていた。若い人なら何となく理解可能であるが、僕のような60才ぐらいか70才位の人までも発音といい、イントネーションといい、ほぼ標準語であったのだ。画面に出てくる普通の被災者は千葉か神奈川あたりかと思うような話し方であったし、仕草も東北のそれではなかった。

僕ら仙台の人は、高校の頃まで、いや多分1980年代ぐらいまでは、「そんだべ:そうですね」「うんだっちゃ〜:そうだろう」とか、普通に使っていたはずである。1980年代までというのはぼくの想像だが、少なくとも1948年仙台生まれのオレは、1967年に大学に入るために上京するまで、そんだ話し方をしてたっちゃぁ。それがぎれいさっぱり、消えていたんだっちゃあ、たまげたよ。実は変化は2点あった。一つはいま申し上げた東北弁の言葉・発音・イントネーションがほぼ誰からも出てこないという事だ。もう一つは、インタビュアーにどう答えたらいいか、そのテレビ局に期待された正解を割に気軽に応えていることだ。もちろんこれはこの10年ほど街頭インタビューでも溢れていたことで、今回の震災に特有な現象ではないが、マイクを向けられた人の瞬時の「予定調和」の把握が見事すぎてあっけにとられることもあった。空気読む日本的臭覚(姿勢)がやや過度になっている。ただし、厳密に言うと、人生初めての激烈な体験をした人の中には、予定調和を見事に超えて、詩人かと思わせる言葉を背骨のあたりから聖出していた人も居たことは事実だ。ただし、このような鮮烈な言葉を嘔(は)いた人は、少数派だ。

なぜ、地方の言葉が消滅しつつあるのか。その大きな要因は、改めて言うまでも無い。各家庭への情報窓口を戦後一貫して勤めてきたテレビジョンだ。言うまでも無く、明治時代の富国強兵の施策の下で言語は標準語として統一されてきた。しかし、事はそんなに容易ではなく、書き言葉と読み言葉は標準でも、日常の話し言葉は、ズウズウ弁であったのだ。そう言う意味では、テレビ以前から、何時かは会話も標準へと変更を強いられる運命に在ったことは事実だ。それが、テレビという情報統一機器にて、加速されたと言うことだろう。日本が、朝鮮や台湾を植民地にしたときもそうだ。ベトナムも同様で、フランスによって漢字も廃棄させられた。言語の統一はイデオロギー施策の基本。焚書坑儒もクーデターや革命で「何を置いてもテレビ局と新聞社の制圧」も情報の管理ということでは、同根の施策だろう。

大阪はその点凄い。もちろん京都も言葉に関しては根強い。もちろん、沖縄のヤマトンチューに対抗するウチナンチューの文化の対抗は本格的だね。独自性の自覚と自信に溢れている。独立国であった歴史が物語る凄みさえあるからね。大阪人はテレビでも大阪弁を多用するし、許し合っている。沖縄のテレビも人の話で聞いた範囲だが多分、沖縄弁堂々使っていよう。東北のテレビ局の弱いところはズーズー弁を堂々使用する事が出来なかった。使おうという対抗心が欠如していたというべきだろう。そのような「文化の保護」と「対抗文化」を持とうとしなかったことが、東北人の弱さだ。具体的には仙台弁をつかうテレビ局を作れなかったことが、敗北の象徴かもしれない。(個人として、新沼健二とかいなかっぺいなど一部の芸能人と懐かしき社会党佐々木更三のがんばりは、あったが・・)

僕などは18才で東京に出てきた1967年3月、前からまったく使っていなかった顔をして、我が仙台弁を下宿のゴミ箱にこっそり捨てたのだった。そして7月の夏休みには帰郷してすでに「だからさぁ」とか「そうじゃん」などという横浜訛りの標準語で、ぺらぺらぺら。東北大に行っていた大沼安史などは「阿部凄いね。もう東京人になったべえか、はえーな。」とかいって、僕をからかったモノだ。赤面、赤面、何と軽佻浮薄な僕なんだろう。岩手の「めんこいテレビ」局は、社名だけだしね。いとこの和夫さんが社長らしい。
僕が子供の頃、アンクルトム物語の米国製テレビドラマをやっていた、もちろん科白は日本語吹き替えだ。善良なアメリカ南部の黒人のアンクルトムは何と「ズーズー弁」の吹き替え日本語であった。「そんだんべぇ、おぼっちゃま」とか優しそうに白人の子供たちと話して居たのだ。僕は笑った。が、おいおい、黒人はなぜ、東北弁なのか。誰が決めたのか。バカじゃないのと当時思った。悲しい背景を持った南部の黒人が大阪弁の当てレコじゃあ、演出上、都合悪いのか!

いま、時代はダイバーシティー(diversity)の時代だ。固有の文化を大切にし、それぞれに発展させることを良しとする考え方だ。多様な社会に多様な文化。僕はとても理に適ったトレンドだと思う。その多様な文化のセンターに位置するのが言語だろう。その意味では、消滅気味の東北弁の復興を震災からの復興と同時に試みる必要が在ると思う。東北弁を僕らはなぜ、恥ずかしく思ってきたか。みんな何故隠してきたのか。直そうとしてきたのか。この答と東北の復興と新たなる発展は、実は繋がっていると思う。ただし、その東北弁の「同時復興」を唱える僕自身は仙台弁の大半を記憶の彼方に放り出してきた資格無しの情けない人間なんです。


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・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ★ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 ★カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
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2011年6月10日金曜日

日本を超えた韓国人気!!急げチャンネルニッポン開局!!

前項の「留学生問題」に続いて、それにも関係することだが、日本のプレゼンス:魅力の低迷について、語っておきたい。今回ここで言いたいことは、日本が好きな人が多いベトナムでさえ、いつの間にか韓国贔屓(ひいき)が急増していて、日本への関心や興味にまさる勢いだ、というかもう超えられている現実を伝えておきたいのだ。言っておきますが、僕は韓国や中国が嫌いだというような偏狭な愛国主義者じゃあ決してないし、排外的な感覚は一切無い人間ですよ。つまらない勝ち負けを煽るつもりはありません。

韓国(人口4800万人)の「コンテンツ戦略省」と言うのかどうか解らないが、その例の省庁が5〜6年前に出来てから、例の韓流恋愛ドラマは世界的な認知になったし、それだけで無くインドネシアのある地域は「ハングル」を公用語と定めた。中国語のPR機関であり、学校でもある孔子学院は日本含めアフリカなど世界各国に戦略的に設置されている。アフリカでの中国語公用も進んでいる。(*下記に日本の海外広報の無さを書いた記事を添付した)海外広報は戦略的に推進した方がすぐに優位に立てる。戦略と物量の誰でも解る関数だ。

日本の恒常的な主なものといえば、NHK国際放送の日本語と英語の放送のみ。コンテンツはニュースを中心に毎日3時間分しかなく同じ番組を毎日4回くり返しているだけなのだ。これは、外国の現地の国民に見て楽しんでもらおうと言う趣旨ではなく、海外にいる日本人サービスのためのものだから、つまりは恒常的な海外PRのためのツールというか、インフラが無いというお寒い状況にある。

そこで解りやすいように日本語の「凋落」ぶりをあえて、現象でお伝えしておく。世界各国の「日本語ブーム」なんて、10年前までの幻想なのです。少なくともベトナムではね。
1 ベトナムの大変有名で歴史在るDZ日本語学校は、以前まで年間5千人ほどの日本語を学ぶ生徒を預かって来たのですが、去年などは2千人程度までに落ち込んでいる現実。
2 あるハノイの有名大学の日本語学部では、学生の定員を集めにくくなっていると教授にお聞きした現実。
3 HCMC国家大学の人文社会科学大学の東洋学部から、日本学科は、近々学部として独立予定ですが、韓国学科は、既に学部として独立している現実。
4 英語と日本語を学んでいるブオンの娘(中学校1年)は、毎日欠かさず韓流ホームドラマを2〜3時間嬉々として見ている現実。クラスの多くもそうらしい。
5 そして、書店では大きな変化もあった・・以下読んでください。

括弧内は去年ニュースに書いたものだが、事態は急変しているので、お知らせしたい。
「・・・・僕の本の出版のことで、調査としてハノイ市内のホアンキム湖脇の大手書店を見に行った。前より単行本のデザインが明るくなり種類も多種多様になってきた事がハッキリ分かる。日本語 関係の棚に寄ってみた。大分辞書なども充実してきている。5メートルほどの長さの棚は、それなりに配慮された配置にもなっている。その向かい側に韓国語関係コーナーがあり、日本語コーナーと棚の面積と扱う数量は同等かな。だが、だが、中国語コーナーは、何とざっと3倍はあろうか。日本語の棚の3倍以上の面 積を中国関係の書棚が占めているのだった。中国語熱というか、その勢いは知っていたが、書棚の大きさでその差が歴然としていることを思い知らされた。ス タッフのNGOCさんにかつて居た外国語大学のその時代の各国学習者の比率を聞いた。勿論英語は必須なので、欄外だが、彼女が言うには当時「中国語学習者 人数を仮に10とすると日本語学習者は3。コリアは1だそうだ。・・・」これ、去年書いたものです。

本年5月、実は同じ書店に行った。事態は変わっていた。中国関係の書籍の量は相変わらず、英語関係に続いて多いわけだが、実は韓国の棚が2棚になっていたのだ。スタッフが数年前に学生であった時代は上記にあるように日本が3なら、韓国は1の相対的な認知度であったのに、去年本棚の数は1:1になっていたのだ。ぐいぐい追いついて来ていたのだ。そして本年は遂に2棚になっていたのだ。韓国は日本の2倍の本棚数になっていたのだから、事態は深刻と言っていいんじゃあないか。

本屋の棚の数なんて、どうでもいいやとか、「そんな些末なこと」だと思っても良いですよ。でも、マーケティングに長く携わってきた僕の目からすると、こういう「つまらない動きのそばに真実がある」と学んできた。国民の嗜好や志向は、音楽のリクエストの数とか若者街に転がっている「些細なこと」に新しい趨勢が表現される場合が多い。上記の情報は、確証的なものではないが、その趨勢はすでにはっきりと現されていると見た方が良い。下記の新聞記事原稿にも書いたけれど、24時間毎日、美男美女の美しい恋愛を放映していれば、いつの間にかコリア式生活に親しみを感じてアイデンティファイされるのは生理的に当然だろう。僕らが、少年の頃「ローハイド」「パパ大好き」「名犬ラッシー」「陽気なネルソン」「幌馬車隊」「奥様は魔女」「ルート66」などで、アメリカの価値観を「学んで」大人になったようにね。

政治には幻想を全く持っていないが、志在る経産省と外務省の中堅が、「これじゃあ、まずいぜ」と言い出さないのだろうか。
もう、道路、橋、ダムにODAの数百億を費やしている場合じゃあないよ。海外PRに全力を注いで欲しい。すべて現地語による現地の国民が楽しめる「チャンネルニッポン」テレビ局の設立が急がれる。海外広報協会なる政府外注機関のWEBサイト見た。まさに笑止千万です。

・・・・・・・以下、記事の生原稿・・・・・(ご参照)

             ニッポン海外広報考
〜海外諸国の庶民の理解と好意を本気に求めたい〜

私はこの十数年ほど、ベトナムのハノイ市と日本をほとんど毎月往復している。ハノイにも家があるのでテレビ番組を見ることも多い。彼の国のテレビ番組で特徴的なことは、いくつかのチャンネルで「ディズニーチャンネル」「韓流ドラマ」「中国歴史ドラマ」を朝から晩まで放映している事だ。チャンネルを回してあちこち見ているが、それらは洪水のようだ、と言っておこう。

私は団塊の世代である。私たち少年少女の当時の世界の中心は「ぼくら」「なかよし」「冒険王」「少年サンデー」「少年マガジン」などのマンガ誌と数々のアメリカ製テレビドラマであった。
『うちのママは世界一』『パパ大好き』『ビーバーちゃん』『名犬ラッシー』思い起こすだけでも楽しい。『ローハイド』『名犬リンチンチン』『ルート66』『ララミー牧場』なんて格好良いのだろう。毎晩僕らをわくわくさせたハリウッド製プログラムの数々。僕たちはこれらのアメリカ映画を見てアメリカ市民の生活に憧れ、勇気と正義を学んで大きくなった。大人の背丈もある冷蔵庫、大きな牛乳瓶、そして各家庭には必ず大きな車が在ることを知ったのであった。

聞くところによると1950年代当時に日本のテレビの各キー局では、それらのハリウッドテレビドラマをほとんど無償か超廉価で仕入れて放映していたようだ。言うまでもない。アメリカの組織的文化戦略の一環であったからだ。ごはん食でなくパン食の積極普及とか大家族から核家族への社会的再編作業などと、これらハリウッド製テレビ番組の広範な放映は文化・広報戦略として一体であったのだ。僕らは、当時無自覚だったけれど。

アメリカはおそらく、戦後の日本での広報戦略スタイルをこの60年間、世界中で継続しているだろうと思う。結果、英語の普及は地球上で圧倒的だ。中国も孔子学院を使い同様に広報に力を入れ始めている。韓国では最近コンテンツとその販売の世界戦略を統括する省庁が発足した。日本への「韓流モノ」の攻勢もその一環なのだろう。

一方、日本はどうか。私は今ベトナム以外の事情には不案内だが、国民の大半が日本を敬愛しているベトナムに於いてさえ、テレビなどを通じた広範な国民への広報活動は完全に出遅れている。

はっきり言って、日本の良質な番組を日本政府は日本の各テレビ局や映画会社から計画的に買い上げ、アジア各国の主要メディアに無償で大量に供給したらいい。各国の国民が現地語で視聴できる独自の「チャンネルニッポン」を各国に設置することだって不可能ではない(NHK国際放送は各国在住の主に日本人向けの日本語放送のみ)。現地新聞の活用とか、現地語のインターネットWEB展開など経費「縮減」の施策はいくらでもある。

世界語になった日本語は多い。中でも「もったいない」が世界語になったことは、環境を大切にする新しい時代の嚆矢だろう。日本古来のリサイクルシステムや節約の心から最先端技術まで、私たちが東の端から世界に提案し広報するものは少なくない。 *2009/12 
  
日刊工業新聞「主張」記事は、本ブログ2011年2月のページに掲載 pdf                             以上。

2011年6月7日火曜日

ベトナム人留学生は3千人しかいないのだ。

第一章−10 中国人留学生は8万人もいる。日本政府の「30万人留学生計画」とは何だろう?簡単に説明しよう。
*福島原発の影響など、加筆訂正が一部必要です。
2008年日本の文部科学省は、2020年までに日本に居る留学生の数を30万人にしたいとの計画を大々的に発表した。これが「留学生30万人計画」である。留学生を受け入れる日本の考えは、色々な要素があるけれど、一番大切に考えたことは、アジアの優秀な青年を留学で来てもらい、日本の魅力や日本の文化を世界に特にアジアに彼らを通じてさらに強力に各国に伝播(でんぱ)させたいということだ。まず、魅力的な国でなければ、留学生は集まらないだろ?

日本には、先端の技術がある。また、農業や漁業の先端技術がある。最近ではアニメーションやマンガなどのサブカルチャーは、正に世界TOPだろう。「COOLJAPAN」は、世界の若者のあこがれのひとつだぜ。「かわいい」という新しいファッションカテゴリーも最近世界的になってきた。東京は、「かわいいギャルズファッション」のメッカだぜ。また、伝統的な美しさは京都や奈良だけでなく、富士山もふくめて全国津々浦々に美しい自然が存在している。このような日本だからといって、留学生を30万人集めるなんて、簡単か?

アメリカには世界から留学生が約70万人、フランスには27万人(中国には24万人)来ている。それぞれの学生の感じている魅力、もっというならば、自己投資に適う(かなう)何かをそれらの国は持っていると言うことだ。日本に来ている世界からの留学生は残念ながら、現在17万5千人だけだ。勿論、留学は個人の投資と言う側面もあるが、国家からすると、知識や技術や文化の移転や遷移(せんい)でもあるので、留学生を世界に出すことも実は国家の戦略でもあるのだ。中国はアメリカに13万人も留学生を出している。これが国家戦略でないはずがない。まあ、見事ですね。韓国でもアメリカに7万人(韓国の総人口は4800万人の小さな国なのに)を送っている。

でも、1億2000万人の日本がアメリカに2万5千人だけなのである。年々じり貧状態。「出不精」の若者の増大との関連さ。世界の主要各国に留学生を出している数字もお教えしよう。国家戦略が見えてくる。中国はなんと20万人の最優秀者を世界各国に出している。インドも凄いよ、13万人送り出している。韓国は10万人を世界各国に送り出している。ベトナムも世界に約3万人を出している。結構すごいね。日本が世界に送っている留学生はなんと9万人だけ。有力国と比べてやる気無しとしか、見えないね。ついでに、披露しておこう。日本に来ている留学生は現在17万5千人で内訳は以下の通りである。1位が8万人の中国人、2位が2万人の韓国人、3位が5000人の台湾人、そして、ベトナム人が堂々の4位の3000人である。新しい凄い情報もここに書いておこう。アメリカはいま、全世界から天才・秀才の高校生と大学生を年間16万ドルの奨学金を5年間支払うという約束で毎年30名も集めている。まあ、これは、留学というより、金で集めた「誘拐犯罪」だね。ここに記述した人数は解りやすくするために切り上げや切り捨てをして大づかみにしてある。留学の最終決定は学生個人だが、各国政府の戦略が色濃く出ている。とくに中国と韓国は「国を挙げて」取り組んでいることが解る。

さて「30万人計画」の問題を話そうね。現在の日本への留学生数はたかだか、17万5千人に過ぎない。上記に在るように2020年までに、果たして30万人の目標を達成できるのだろうか。勿論、現状の戦略と方針では、全く届かないだろう。政府内で大きな問題となっている。
さて、この状況を君はどう思う?「さあ、しめた、チャンスだ」と思うべきだよな。政府や民間の奨学金も、現状より種類も金額も増えていくだろうし、入国の条件も幾分緩和されるだろう。でも、実はこの30万人計画にはそれなりの理由がある。既に、君に教えたはずだ。日本の若者の人口がかなり減り始めている現実と関係があるのさ。

現在、全国に在る大学1200校(短大含む)の中の人気や信頼のない大学の倒産が予想されているのだ。設立が10〜30年前からという程度の歴史がない新しい大学で、特に経営が低レベルの大学には、学生が集まらず、結果学生募集を止めたり、廃校を告知したり始めている。大学を作りすぎた日本政府はたぶん低位の大学の200や300校は無くなっても良いと思っている。僕もそうおもうよ、過剰なのさ。だから、このレベルの大学のことは、どうでも良いのだが、問題はそろそろ、伝統在る中堅の大学でさえも、留学生がいないと経営が困難になってきている事なのだ。だから、30万人も必要なのだ。

東大、京大、東工大などの最有力校はさすが、優秀者の人数の維持は問題ないといわれている。では、他はどうか。最有力校の一つである東北大はもちろん、構造的には問題ないのだが、「最近の大学院の学生の質、精神力に弱さを感じて」ベトナム他数カ国から、パワフルな大学院学生を積極的に受け入れ始めている。東北地方の有力大学である山形大も、2008年から留学生受け入れのためのオフィスをハノイ市内に開いた。あの京都大学もオフィスを持っている。つまり、歴史在る有力校でも今後の10年、20年を構想した上で日本人だけでなく、ダイバーシティー(diversity)の考えに基づいて、多様な国際化を計ろうとしているのだ。重要な、よい発想だね。
有力な有名大学でさえも、アジアの優秀学生を受け入れたくて、積極策に出てきているのである。お〜い、日本語サムライの出番だぜ。チャンスを見逃すな。    *ただし、民主党が政権を取って以来、30万人ぐらいは入れよう、という方向性はあるようだが、計画そのものは、不明にあいなっている。*6月12日、一部留学生数を訂正した。


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・2008年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
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・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
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・2010年2月 MAC・MAC /  立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
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2011年6月4日土曜日

「ロックンロールよろしく」のご老人 / 火野正平のインターナショナル 

■ 大きな震災があって、みんながまとまって頑張れニッポンなどと言ってる時に火野正平のことなど書いていていいんでしょうか。火野葦平じゃあないよ。作家じゃあなく、軟派な男の人の件なのです。若い人にはよくわかりにくいかも知れないが、1970年代に小学校であれば、知ってるかも知れない。若いときから猿顔というかくちゃ顔で、テレビや映画の女性スタッフから、女優、歌手まで切れることなく手を出し子供の認知も3人ぐらいあったか無かったか。たしか、僕と同年で、僕が東映でキーハンターとか、プレーガール、柔道一直線、刑事くんとかの助監督をやっていた時分に急に芸能ニュース部門で有名になった輩のことだ。最近、ちょっとまた目立つ。

お相手は一流の芸能人でなく、二番手ぐらいに的を絞って確実にしているのが嫌らしい。西川峰子とか、新藤恵美とか、「ベッドでたばこを・・」のリリーとか、相手はたいしたことないのだが、何時も戦時体制で、まめで成果を上げているように見えた。確か「刑事くん(桜木健一主演)」で1〜2回一緒だったような。当時、若く同年代であった僕には、彼のモテ具合がほとんど想像がつかない事に思えた。ハンサムは業界にたくさんいる。話のうまい人も多い。でも彼は身長もないし、ぼそぼそとしか言わない印象。当時、何でこいつ女にもてるか解らなかった。「まめさ」がモテの最大武器であるなんと気づいたのは、40才になってからじゃあないの。今の若者は情報社会で育ってるから、若い内から「まめさ」が重要ぐらいしってるんだろうなあ。知ったからと言って若い内に「まめさ」で勝負するの、どうなの。若い内は戦略も計画もなく、ぶち当たって、転けてしまうのが相応しい。そのうち学習して行く訳で、若い時から、手練手管の成功「チャート図」だけ知っていてもしょうがないぜ。おっとっと、話はすぐ若造批判に行ってしまう。

で、火野正平はベトナムにも結構いると言う話をしたいのさ。昨日夕方、寂しくもひとりで、角のBIAHOIで、VNのソーセージ「ネムチュア」をかじりながら、生ビールをぐびぐびやっていたら、僕の目の前に火野正平がいた。いつものように女を口説いている。身なりはワイシャツ、黒いズボンの造作ないカッコウで、火野正平はお相手を飽きさせず、囁いている。彼はNHKのBSでロード自転車で全国行く「ちいさんぽ」みたいな新番組を始めたので、彼は当人でないことはすぐ解ったが、たれ目の猿顔、飽きさせない話題、落ち着いた話し方をサポートするような大きくはないが何か意味を暗示する手の仕草、料理を仕分けして、勧める際の優しい破顔。まさにそっくりのプロの火野正平だ。女性は、こんな場末のBIAHOIが似合わない富裕層のグラマラスな40才代。たまたま、西川峰子似であるのが可笑しい。周りには場所柄ハノイ工科大学の学生どもが騒がしく飲んだくれていたが、そんな騒音モノともせず、夜の帳が下りた頃、まさにスポットライト当たっているような、独壇場な風情であった。

冒険家で医師の関野吉晴さんが十何年継続している人類の移動の踏査「グレートジャーニー」に従えば、人類が誕生したアフリカ中部を10万年前に出発した火野正平、いや人類はどうも猿顔アジアモンゴロイド種をあちこちに分散定着させながら、1万五千年前までに、アリューシャン列島から北米、中米そしてチリマゼラン海峡まで行進し人類は地の果てに到達した。よく考えると、グレートなジャーーニーの実行に及んだクロマニオン人は、大型ネアンデルタール人と違って、モンゴロイドのつまり火野正平種の相貌と体系を形作りながら、海をわたり、アラスカから、一直線に南下した。だから、火野正平は、トルコやウズベキスタンあたりにもきっといるし南下したベトナムに、北上して中国、韓国そして、アラスカ、メキシコ、中米、インカ・チリあたりにわんさかいて、可笑しくないわけだ。つまり、まめな御仁も世界にゃあ多いってことでしょうか。

日本人で火野正平より、ちょっといい男だが、まさにそっくりのお猿男で、後藤勇というこれまた同年の友人がいる。彼とは20才代からの付き合いで本当にモテテいた。彼は、「地球の歩き方」の創設編集者のひとりだから、ロンドンにも恋人が、キューバにも、東京にも2,3人いて、僕も随分付き合わされて一緒に酒飲んだ。まめな人は一生懸命だから、ロンドンのレイチェルが、別れのレターを寄越したときには、僕は新宿のジャズバーあたりに彼を誘わないと心配なくらい落ち込んでいたな〜。まだ、本当の紙のメールの時代。リタイアして、今日あたりも豪華船(先日乗船するとメール在った)で、どこかの海原にいて、白いテーブルを挟んで、麗しいお姉様と微笑み交わしているはずだ。

■なんだか、芸能ネタがつづくね。初めてのことです。内田裕也さんが、ロック業界のドン風になってきたのは、いつからだろう。芸能界の女のドンは前からいるが、魔法使いのような白髪の風采で、ツエを持っていれば、確かに怖い。とくに「俺はヤクザとお友達です」と手紙を送れば、もらった女性は震えるでしょう。この人は何でも「ロックンロールよろしく」で済んできたので、幼稚さが抜けないうちに感情が発育不全に、つまり、若い頃から脳内イメージは「自由・平和・愛・あぶり・ロックンロール・J.レノン」などの強烈な言葉でいっぱいになり、新規な言葉が入りにくくなったのさ。大分経って「仕分け」が入ってきたようですがね。だから現在は、借金するときでも「ロックンロールよろしく」でしょう。ご飯食べるときも「ロックンロールよろしく」、寝るときも、夜に事に及ぶときも「ロックンロールよろしく」で始まるんでしょう、この御仁のことだから。これほどすっきり解りやすいことはないね。

言葉は、多ければ多いほど、文化が深いと言われる。アフリカの在る部族(ちょっと今となっては差別的)では200言語で生活が間に合っているという話がなんとなく、僕の記憶に置き去りになっている。でも、良いんじゃあないの。人生、言葉だけでないよ。微妙で深いことは、日本では「言葉にはあらわせない」ほど綺麗とかいう。それを特化したのが、この「ロックンロールよろしく」のお爺さんだ。だって、人生、たった一言で乗り切ろうというわけだからね。特許庁にたぶん、サービスマーク、商標とか、多分内田プロで申請済みと思うが、逆に賢いどこかの輩が、すでに「ロックンロールよろしく」を既に申請済にしていたら大変だよ。「ロックンロールよろしく」と書いたメモを持たされて、あの魔法のツエでボコボコさ。

25年ほど前、バブルがバブルと言われず、「ジャパンアズナンバーワン」って、大騒ぎしていた頃の六本木。僕も社会の浮ついた波には抵抗できず、毎日高い酒を驕っていただいていた。アイビーホテルの裏あたりにあったおしゃれなバーで、大抵そこで、社長の河村と僕とかが、毎日無駄な話をしていた。僕も常務とかいう肩書きで、ダブルのスーツなど着込んで威勢も良かった。そこに裕也さんが怒鳴り込んできたことがあった。そして、彼は痩せた体をしならせて、ある小柄なおっさんに飛びかかった。「この野郎、浅葉、ロックンロールよろしく」と捕まえて倒した。有名グラフィックデザイナーで、最近は世界の言語の収集家でもある巨匠浅葉克己さんも「ロックンロールよろしく」にはお手上げ。でも、ママ(もちろん男性)や、ちいママ(もちろん男性)らに、力ずくでガブリと取り押さえられ、そこで、幕は閉じたので、「決闘の終わった西部のサルーンバー」のように、一気に和やかさがあたりを包み、音楽もがんがん奏でられたような記憶。

保釈され、記者会見で見せた片膝付いて「ロックンロールよろしく」の挨拶は、初めてのバージョンだね。流石、裕也さんは良いスタイルを編み出す。カッコマンで来た人は良い感覚をお持ちですね。でも、どう見ても「ヤクザの仁義を切る」儀礼に近づいたように見えるね。「お控えなすって、手前、生国と発しまするは、銀波・・・」のあれだ。日本のヤクザは60%が同和関係、30%が在日の韓国・朝鮮系、残りがそのほかの外人だと、元公安調査庁の有名人菅沼さんが、プレスセンターで語っていたが、今回、「ロックンロールよろしく」界から、初めての参入になるかもしれないね。裕也さんに頑張ってもらって、日本中のヤクザを感化していただき、”仁義切り”をみんな「ロックンロールよろしく」に変えてくれれば、日本は平和になるので、裕也さんは樹木希林さんに、初めて挨拶が出来るのじゃあないですか。今回は本当に恥ずかしいですね。

宮城県石巻市(石をrollする)に縁があるとおっしゃる裕也さんですが、基本的な質問があるんです。「ロックンロールよろしく」という名フレーズの「・・・ロール」と「よろしく」の間に「、」入れた方が良いですか?また、この言葉の意味するところですが国民の皆さんに対して「ロックンロールという音楽や魂を、これからもよろしくね」という意味なのですか。それとも「ロックンロールの神様、どうぞ、我が国民をよろしくお願いいたします」と言うことなのでしょうか。あるいは「ロックンロール」というFAVORITEな言葉と「世露死苦」みたいなちょっと怖そうな挨拶を並べてモンタージュさせてみただけなのでしょうか。今後重要なフレーズになっていくはずです。流行語大賞の筆頭候補でしょう。ですので、正確に知っておきたいのです。お忙しいとは存じますが、お時間在る時お教えくださいますよう、ROCK'N'ROLL YOROSHIKU お願いいたします。

2011年5月30日月曜日

梅原猛先生が「文明災」について語った。

梅原猛・哲学者――原発事故は「文明災」、復興を通じて新文明を築き世界の模範に
*梅原先生のお言葉があまりにも素晴らしいので、「東洋経済」さんには勝手で申し訳ないが、是非多くの方に読んでいただきたいので、以下全文「コピー」させていただきました。この責任は阿部正行にあります。 
11月5日、当「ハノイ日本アカデミー」の授業にて、この先生の「文明災」を使わせていただきました。
・・・・・・
30年来、原子力発電の危険性を説き、反対を主張し続けてきた哲学者、梅原猛氏。今回の福島第一原発の事故をきっかけに、原発に頼らない新しい国をつくり、世界の模範となるべき――震災の被災地でもある仙台に生まれた梅原氏は、日本人の道徳心の高さに希望を感じつつ、これからの国づくりの方向性を語った。
※ ※ ※
今回の東日本大震災で、被災した方々の道徳心の高さ、生きていることを喜んで、互いに助け合って生きている姿を知り、日本の将来に希望を感じている。
ここ数年、一部の日本人の道徳心が堕落したことにより、動機のはっきりしない凶悪犯罪も起きていた。しかし、ほとんどの人々は、非常にしっかりとした道徳心を持っている。

仏教の徳が、日本の人々の心のどこかでいきづいているように思う。たとえば、思うようにならない天災を、「仕方がない」と受け入れ、逆に前向きに生きていこうとする。こうした姿勢は、大乗仏教の忍辱(にんにく)、つまり、精神的な屈辱や苦難に耐え、自分の道を貫くという考えからきている。日本のようなモンスーン地域では、しょっちゅう天災がある。このような地域で、自然とともに生きていくための知恵だ。一種のあきらめの精神ではあるが、日本の優れた文化でもある。

・道徳心を失った政治家、企業の罪
このように一般の人々の道徳心が高い一方で、政治家、実業家、学者、芸術家などの多くが、道徳心を失っている。特に政治家は、金銭欲、権力欲にとらわれ、私的利益ばかり追っている。

また、スリーマイル島やチェルノブイリの反省も生かさず、今回福島でも事故を起こした原子力発電を推進している東京電力は、優良企業と呼ばれてきた。しかし、これはどこか間違っていたのではないか。
福島原発の事故の後に行われたドイツの州議会選挙では、反原発を掲げる緑の党が躍進した。今や、原発は日本だけでなく、世界の問題となっている。原発をやめさせようとする世界的な流れが起こっているのだ。とはいえ、原発を廃止するのもおカネがかかる。廃棄物処理の問題も残ったままだ。人間は、本当にやっかいなものをつくってしまった。

・太陽エネルギー推進と生活の改善が大切
今回の事故は、あらためて近代文明の是非を問い直し、新しい文明を作るきっかけにもなるのではないか。まずは日本が率先して原発のない国を作り、それを世界に広げていくべきだと思う。

・そのためにやるべきことは二つ。
まず、代替のエネルギーとして、太陽光エネルギーの研究をすすめるべきだ。これまで、原発を推進する研究に莫大な研究費を投じてきた。その研究費を、太陽光エネルギーに投入する。日本企業も京セラなどはこれまでも取り組んできたが、それ以外の企業も本気で取り組むべきだろう。

もう一つは、過剰なエネルギーを浪費するような生活から脱却すること。今原発が賄っている電力は全体の3割程度。太陽エネルギーによる代替とともに、一人ひとりが生活を改めることが重要だ。

スリーマイル島の時も、チェルノブイリの時も、国や東京電力は、日本の原発は絶対に安全だと言い続けてきた。しかし、日本の原発だけが安全などということはあるわけがない。今回の事故で、それが明らかになった。今こそ原発から脱却する新しい国をつくらなければ、必ずまた同じような事故が起こる。

・福島第一原発の事故は「文明災」でもある

原発の事故は、近代文明の悪をあぶりだした。これは天災であり、人災であり、「文明災」でもある。
今回の震災について、石原慎太郎さんが「天罰」という発言をされたが、何の罪もない一般の人々が被害にあわれたこの災害に対して、「天罰」という表現は間違っている。もし「天罰」があるとすれば、それは道徳心を失った政治家、実業家に対して下らねばならない。

今も原発の現場では、自らの身の危険を顧みずに復旧作業にあたっている作業員の方もいらっしゃる。日本人には、本当に立派な人がいると感じる。こういう心を皆が持って、新しい国づくりをしていかなくてはいけない。そして、新しい日本が模範となれば、世界をも変えていけるのではないか。今こそ、経済力だけでなく、新しい価値観で世界に範を垂れる国をつくるときだ。

* 梅原先生、東洋経済さん、ありがとうございました。

うめはら・たけし
1925年、宮城県仙台生まれ。京都大学文学部哲学科卒。立命館大学教授、京都市立芸術大学学長、国際日本文化センター所長などを歴任。『隠された十字架 法隆寺論』(毎日出版文化賞)、『水底の歌』(大佛次郎賞)など著書多数。近著に五木寛之氏との共著『仏の発見』(平凡社刊)など。


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・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
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・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・2011年7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人

これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2011年5月25日水曜日

★ 街が明るくなってきた / ★ 海外進出企業が国内雇用を守っている現実

《海外進出企業が国内雇用を守っている現実》は、下方に記述。
■ 最近街が明るくなってきた。言っておくけれど「気分」が明るくなってきたと言うことじゃあないよ。今回僕は5月4日~26日まで日本にいた。珍しく三週間超もいたことになる。その三週間で街の照明の印象は大分変化したように思う。4月5月当初は各家庭や工場、店舗などもまじめに15~25%も節電しようと「みんなで渡れば怖くない」方式で、だいぶ節電頑張ったよね。僕もけっこうこまめに気を遣った。だから、駅とか近所の西友ストアなどは、「本日お休みですか?」と聞かないといけないくらいの照度にさえしていた。全国民がこぞって粘り強くがんばり、落とした。でも、目が慣れたのかしら?いま、ちょっと照度が上がった?

今月20日前後から、みんなで頑張ることに飽きたのかな。飽きやすいからね日本人。かつてのように煌々と隅々まで照らして、まるで暗闇はあってはいけないモノノケのように、暴力的に闇を蹴散らしてきた異常な照度環境であった3月11日以前に比べれば、もちろん暗いさ。でも、商業施設は何時も何時も競争に曝されている。夏に飛ぶ虫の様に僕らは、何と言っても明るい所に吸い寄せられるよね。そう言うわけで、飽きたと言うことより、差し迫ったお客の誘導という仕事の癖で、商業施設から、じりじりと明るくなって行きそうな予感。実際、5月後半から点灯したランプの総数はかなり、増えてきたはずだ。ま、節電はライトだけじゃあないけれどね。

ていうか~。だんだんバレてきたのだが、「原発必要論」だ。全国的に電力会社が火力や水力の稼働率をいままで30%〜40%あたりにしていたし、電気を過剰に「オール電化」で垂れ流してきたので、原発が必要になるように演出していたに過ぎなかったということが、次第にぼんくらな僕らにも解ってきた。CO2の削減という2000年以降の「クリーンな空気」とかいう理由は実は後付けの論理で、「原発はクリーンです」と原発派が飛びついただけなのさ。京大あたりの脱原発の「原子力」専門家や電力事情の詳しい専門家の情報では、10年程度のタームでじっくり原発を減らしてゆけば、産業界への悪影響も、我々の生活への影響のほとんど無くスムーズに原発への依存度を低下させていけるようだ。

もちろん、ソーラーや地熱などの再生可能な自然エネルギー分野への国家的開発及び利用の強力推進とか、僕らの生活を質実剛健で簡素なスタイルをめざした場合ですがね。「僕らの電気バブル」な生活を見直して、新しい価値観を模索すれば、もともと「つなぎのエネルギー」であった原子力は、そろそろ退場してもらって良いの季節なのだ。誰でも知っている知識だが、原子力の基本になるウランは、石油と同時期の70年後に、地球上から枯渇する。地球上に無くなるのさ。プルサーマルという苦肉の策的「永久生産」運動も実のところはせいぜい7~8年程度しか延命出来ないと言われている。その7年に100億円以上使ってる僕らニッポン国民。善良でお人好しの僕らの社会。

ついでに・・・
原発事故の記事で、最もきちんと良い記事を書いているのは、東京新聞らしい。僕は読んだことがほとんど無いので、周囲から教えてもらったのだ。理由はちょっと考えてみれば解る。前に書いたことだが、日本で一番に広告・広報費を使っているのはトヨタだ。年700億円。二位は花王の500億円だ、でも東電は広告・広報、マスコミ対策費で、毎年2000億円支払っている。あの世界のトヨタの三倍近くなのですよ。読売、朝日、毎日、日経と各テレビキー局の営業部にとって、東電は「お客様は神様です」の最重要の「数百億円」ぼた餅クライアントなのさ。だから、どうも、常日頃、ほとんどおこぼれをいただいていない地方新聞東京新聞は断固として、戦えるのさ。ほとんど、銭をもらっていないんだもの。腐れ縁が無い分だけ、健全に戦っているらしいのだ。頑張れ、東京新聞。

読売のオーナーの正力が1950年初頭にアメリカから誘われて持ち込んできたのが、原発ビジネスだ。今までの「軍産協同」に代わる「産官政」の戦後の新セットメニューであったのさ。だから、今回もナベツネ(正力とは、ちょっと違う)が、若い頃の反逆精神発揮しないと、読売は最後まで原発を死守するのかな。片や「毎日新聞」は、1970年代に一度倒産した貧乏新聞社で、創価学会の印刷物を一手に引き受けているので、命脈がぎりぎり続いている新聞社だ。有名な事実さ。多分、今回脱原発に踏み切れない中途半端な「毎日」の論調は、経営資金の足らない分を原発関連費用で賄っていたのかも。そう勘ぐられても仕方ないね。

よく、構図を眺めれば、簡単なことさ。原発を欲したのは、国民じゃあないのさ。強欲な一部の「産官政」の連中なのだ。税金を湯水のように使って建設現地を買収し御殿の様な市役所や公民館こさえ健全な市民的自治を後退させてきた。さらに世界一高い電気料金を集めてマスコミを把握しきってきた。いつの間にか日本じゃ、原発は、天皇制や同和に次ぐ、タブーとなってしまったのだ。唐突だが、JFK大統領はアメリカのタブーであった軍産一体体制をつぶそうとして、暗殺された。我がニッポンには、幸いリーダーが不在な分その様な事件は起きにくいね(笑い)。でも、その様な国家の体制と体質が変わっていく時代において、今までタブーで見えなかった”階級的衝突”とでも言うべき巨大なうねりを福島の事件は図らずも生起させてしまったのだ。だから、原発問題は21世紀の日本人の矜恃のあり方をひとり一人に突きつけていると言って良い。

■ 最近の僕の読書は、どうもリズムがないというか、意欲的な目で文字を追う飢餓感もなく現在の僕の精神的な現状を現しているようだ。大佛次郎の「天皇の世紀 全十二巻」の第五巻からまだ抜け出ていない。はっきり言うとこの一ヶ月これをほとんど紐解いていないのさ。まあ、体調を整えているって感じかな。いま、手元に置いて、少しずつおもろいかどうかの感触を探ってるのが、・・・・日本の天才の一人赤瀬川源平先生の「東京随筆」、中公新書「消費するアジア」。腰巻きに「国別のGDPはもはや指標ではない」と僕好みのキャッチが大文字で書かれてあったので初めての著者だが買ってみた。はい、更に現在、内田樹さんと共に信じられる論客の一人池田清彦先生の「進化論を書き換える」と大胆なタイトルの本、先生らしい。目次とか後書きとかちょっとぺらぺら探っただけでもドキドキするね。

五木寛之・梅原猛の「仏の発見」もよさそうだ。日本を代表する知性の梅原さんの老境の中で紡ぐ言葉を味わいたいものです。まだ、イントロ触れただけで読み始めていない。僕らの10年先輩で60年安保の全学連幹部(東大の社学同)で現在保守の論客の西部邁(すすむ)さんと佐高信さんの対談で朝日ニュースターTVの番組「学問のすすめ」を採録した安直本「難局の思想」。田中角栄から三島、親鸞、マイケル・サンデルまで論じたもの。まあ、ちょう軽い流し読みにちょうどいいもの。女房が生きていたら確実に「そんなくだらない本、何処が面白いの」と一喝だね。「マルコムX自伝 全二巻」は、最高な興奮モノ。先々週一気に読めた。いまは、亀山郁夫翻訳ドストエフスキーの「悪霊 全三巻」の第二巻を読んでいる。1969年、20才になったばかりで塀の内側で読んだ印象とは、時代も翻訳者もなにもかも違っているので、同じ著作物と思えないね。僕が読んだのは米川訳か江川訳か思い出せない。黒と赤のややどぎつい装丁で、版の少し大きめのモノであったような記憶なのだが。

■ 24日NHKの19時半からの「クローズアップ現代」見ていて、「そうだろう。そうなんだぜ。本当にさあ」と独りごちっぱなし。それも大声でね。僕の大好きな国谷裕子さんが僕のほしかったボードを画面に出してくれたのだ。そのデータのタイトルには、こう書いてあった。「海外に進出した中小企業の方が国内の雇用が増える」なんとまあ、言い得て妙の棒グラフのタイトルだこと。中小企業庁が実施した2000年から2007年までの調査「中小企業白書」に基づいているから、まんざら良い加減なモノでは無かろう。”意外です”が、海外に進出することは、社内に新しい事業モデルと社風を作り上げることになり、実は社内を活性化することに繋がるというのが、このデータなのさ。海外進出は、多面的な波及効果が在ると言うことなんだろうね。工場現場でもオフィスでもね。

しかし、巷(ちまた)では「安易に海外に進出すべきではない。日本から工場と技術が無くなってしまう。雇用は大幅に落ち込み空洞化して、悲惨な経済環境となる」こう言われているようだ。実際、僕も地方周りすると、そう宣う中小企業の社長や自治体の職員にたまに出くわす。既成概念ではそう思いがちなのだが、実際には先の「中小企業白書」のように結果は反対なのだ。進出の優良企業の先達のお話を良く聞こう。実際は「思い切って海外に進出したり、外国人を雇用することは、次の何かを国内(社内)で育む」と言うことなのである。

この回の「クローズアップ現代」のテーマはその意義あるデータのお披露目ということではない。ベトナムで自家用車を開発生産始めているベトナム大手機械企業「ビナスキ」社に応援で技術を提供している日本企業、金型専門企業の「ナガラ」という会社のあり方についての番組である。このナガラは、現在日本の本社工場の有力ベテランを5名を毎月(ナレーションでは、毎月と明言しなかったが)1名50万円のギャラで貸している。ベトナムにとっては大変な高額の投資だが、ナガラにとっても、ベテランを5名も取られるのは大きな負担だろう。

ナガラの社長が「若いベトナムの技術者はみんな熱心だし、教えを強く求められている所に、当方も正面から応えることは、久しぶりの充実感がある」。そして派遣されているベテランも、大体同じ心境のようで「初のベトナム国産車開発を支援するやり甲斐」で満たされている。ベトナムの初めての自動車産業を日本人が支える。まさに、メイド・イン・ジャパンでなく「Made by japanese」なのである。そう言う時代認識が必要なのではないか。番組に出演していた立教大学の山口という先生は言っていた。「現地で求められるモノが次第に変わりつつある。」と。つまり、相手国を豊かにするためのものが、求められつつあるのだ。答は実はそう難しくはない。それは何か。

ブログのこの前項の「復興に必要な8000万人サイズの国づくり発想」でも、少し触れているが、3月13日の「Made by JAPANESEの時代認識へ」でかなり展開した。僕は日本国の将来で工業に関してはモデル工場や必要な生産拠点以外は海外に移転し、日本人が培って持っている高度知識、それも産業教育や職業訓練(モビケーション)を世界から一手に引きうける仕事に特化すべきである、と考えている。資源が無い国といわれていた日本は実は「高度知識」の世界一の資源国であった。レアメタルでなくレアな「高い知識」が集積している東の辺境国であったのさ。人類が誕生して以降、人類の持つ文化と文明は東に移動して、東の突端の日本で重なり合って集積してきた。

その中でいま、極めて世界の人々にお返しできるのは、狭い範囲でいえば、産業技術であり、それを教育するノウハウだ。実は、日本の「成長産業」は、ここらあたりに求めざるをえない環境になりつつある。2050年ごろ我が国は8000万人台のサイズダウンした大きさになる。産業人口も5000万人台に。今は青年3人で老人一人をささえているが、その頃は青年が一人で老人一人を支える時代なのだ。その流れに沿って考えれば、雇用の空洞化どころか働いてくれる若い日本人が激減しているのである。企業も雇用も再編されていく時期に入っていく。規模は小さいがレベルの高い「ピリリと辛い小粒な山椒」のような新しい国づくりさ。明治元年は日本の人口は何と3500万人に過ぎない。太平洋戦争突入時でさえ、6000万人であったニッポン。再構築可能な「事態」さ。

その際必要なことは、必要不可欠な工場以外はアジア・アフリカ・東欧・中南米などに進出してゆき、現地の国民と互恵的にもの作りを発揮することだろう。ここで必要なことは、技術の大胆な開示・技術の遷移である。技術は、防衛できるモノではない。日本は漢字・仏教・稲作・製鉄も含めて”特許権”なしで、無料でいただいてきた(笑い)。文化や技術の遷移は、歴史的現実だね。3万年ぐらいの長い人類史のなかで温故知新で思考しよう。僕らは「教えること。伝えること。交流すること」で稼ぐ方策と戦略を編み出す事が求められつつある、そう言う時代の予感。そういう時代に入りつつある事をじっくり認識する必要があるのだと、考える。

さあ、「高度知識」の産業教育、(身の丈に相応しい精度の高い)工業分野、観光、農業、コンテンツ、工芸・芸術、サービスで喰っていくニッポン。結構いいんじゃあないかい。その頃は今ある原発は、自然的に廃炉になっているでしょう。反比例して再生可能な自然エネルギーは30〜40%になるだろう。というか、エネルギーを過度に消費しないですむコンパクトでシステマチックな時代をそのころは迎えているだろうね。高度知識を歴史的に集積して来た日本人です、まあ楽観的に期待しようじゃあないの。

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・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
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2011年5月15日日曜日

復興に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想《要約》

《要約》「ダウンサイズ時代の国づくり」
1■2,3日前に自動車のスズキの鈴木会長は流石の会見をした。管首相の浜岡原発の停止について、産業界ではほぼ唯一、賛意を強く示した。あの御大は昔から大好きだ。本当に脳裏がクリアな経営者だと思う。去年の1月にも僕の敬意をこのブログに書いているので読んでほしい。僕らはこの2ヶ月間に、電気の過剰な使い方に自省し始めている。デパートもスーパーも駅もちょっとぐらい暗くてもいいさ、と思い始めている。普通の人間でも前からコンビニの煌々とした過剰照度は、異様に感じていたよね。

2■2050年には日本の人口は8000万人台となる。太平洋戦争に突入時、日本の人口は6000万人に過ぎなかった。ついでに、幕末は3500万人に過ぎない。現在は若者3人で老人一人を養う構造であるが、今から40年後は若者がたった一人で、老人一人を支えなければならない社会となる。生産人口はせいぜい5000万人ぐらいのようなサイズになるのだ。サイズは「自然現象」で小さくなるが、機能的で上質な社会をめざす方向を選択したい。

3■東電やソニー(情報漏洩)に於ける日本の組織や技術の劣化の現実を露呈させた。実は、もの作りの現場も、既に空洞化現象が始まっている。「食」の現場では「焼き肉」だけでなく、プロの技術が激減し荒廃して久しい。公共の見直しと公共政策の確立、さらに「太平洋戦争の敗北の研究」の重要性が増してくる。特に津波に関する温故知新を忘れ目先の利潤に振り回されている「科学と技術」の軽佻浮薄。

4■日本は世界に冠たる「資源国」であった。石油など化石燃料の資源はほとんど無かったけれど、高度知識の最たる資源国であったのだ。文化・文明の集積しやすい極東の辺境にある故だ。日本の主たる産業は教育・コンテンツ・観光・農業に収斂する予感が見えてきた。工業はメイド・イン・ジャパンでなく「Made by JAPANESE」の時代認識で、世界を内需に止揚する。世界の開発途上国の「裾野産業」構築を産業教育や職業訓練(モビケーション)の分野で協力する役目は日本の独壇場である。5月24日クローズアップ現代「アジアの工場の先生になる:先生ビジネス」を放映。まさにそれなんだ。

5■ウランは石油と同時期の70年後に枯渇する。プルサーマルは、それを7年延期するに過ぎないこともはっきりした。日本の原発は、新規建設をしなければ、2050年までにゼロとなる。原子力は、安価でない上に、クリーンでもないをはっきりさせた。さらには、原発が無くとも、「ちっとも困らない」充足環境であることも解ってきた(みんなの節電が期待できればね)。また、多様で本格的な再生可能エネルギー開発(登場)までの、単なる「つなぎのエネルギー」であることが明白となった。

6■原発は、日本のかつての軍部関係者ら(読売の正力・中曽根)が持ち込んだ「軍需」に代わるあたらしい形の「軍産官」利権体制であった。系列が違うが田中角栄がそれに加わり、現在までに「地域独占体制」を軸に産業界・政界・官僚の圧倒的な巨大利権構造を構築することになってしまった。そしてマスコミも抱き込んだタブーを生んできた。広告費の日本一は、トヨタの年間700億円だ。第二位は、花王の500億円である。が、東電だけで広告・広報費を毎年マスコミに2000億円を払っていることが暴露された。さらに、原発立地の地方への莫大な原発交付金は、本当の豊かさを生起できず、むしろ地方の自立的自治を放漫にしてきてしまった。

7■《雑情報》アメリカの無人偵察機グローバルホークからの重大情報の秘匿が、近々暴露された場合、本当のパニックになる。福島は数十年立ち居得れない事態が予想される。更に、広島・長崎で原子力被害者であった日本が世界への「加害者」になってしまったのである。コントロールできない巨大科学についての考察が少なすぎる。事故後原発構内の放射能が大きい場合、誰が修理するのか。全員下請けの元農民の特攻隊が日当5万円〜日当40万円で何とか作業できている現実。東電の社員労働組合には社員を事故時に現場に行かせない労使協定あり。原発がテロリズムの最大のターゲットになってしまっていることもはっきりした。
     ** 近日に上記全部をひっくるめた長文「ダウンサイズ時代の国づくり」執筆予定。

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2011年5月12日木曜日

ベトナム人と計画性

またまた、面倒で生原稿を持ってきた。仮題「めざせ、サムライ!日本語SAMURAI」の原稿さ。現在ベトナム語に翻訳中。
第三章四項の2 「計画はきらいですか?」
18年もベトナムのいろいろな階層の人々つきあっている。総じて言えることは、「計画」というものに関心が無い人が多い。計画が苦手というより、計画というものは大して意味がないと思っているようにも見えるね。確かにいろいろな客体的な要素で成立させた計画は、自分に関係ない客観的状況によって、どんどん変化する。変化すれば、計画も変更をしいられる。だから、あまり計画にこだわりたくないと思うのであろう。それはわからないでもない。

君らと反対に日本人は計画が大好きなのだ。何をするにもすぐ、計画を作り始める。正確に言うと「計画書」作りが好きなのだ。
一般的に僕らの言う計画は「1:期間、2:費用、3:事業の内容の詰め」 という3点だ。この3点がどうなるのかを現在の時点で論理的に想像し構築するのが計画というものだろう。とくに3は、事業の内容を構成している客観的な要素が多い。わかりやすく言うと、他人や他社と絡んでいるわけだから、自分ではどうしようもないことが、突然起きることも多い。そこが変更になれば、当然1が変わる、普通は期間が延びてしまう。そうすれば、2も、大きく変わってくる。そんなことは、百も承知だけれど、日本人は会社や、役所の中で予算を確保するために、時によっては「形式的に」事業計画を作る場合さえ在るのだ。計画書は、心の安心材料と言っても良いかもしれない。

それに比べて、ベトナム人は一般的に、そのような変化があるから、特に計画書を熱心に作ることは意味ないんじゃあないかと考えているように、日本人の目には映っている。だから、積極的に計画「書」は作らない人がおおいね。

ここは比較文化論のページじゃあないので、話を戻す。この「日本語を学習する計画」の場合の3は、他人とか客観的な要素がほとんど無いと言っていいだろう。問題は、自分だよ。自分が決意して進めていくだけの計画書なのだ。自分の意志が弱くなければ、ほとんど変更はない。だから、この1年間の計画を立案することは意味があるし、十分に可能だと言うことさ。計画書は実は自分の決意の書なのだ。

第三章四項の3 「目標」をたてることから
計画作成の第一は、自分の目標を立てることだ。
第二に、期間を決める。ここでは、1年間が良いだろう。
第三に2ヶ月とか3ヶ月とかのSEGMENTに分ける。三段跳びのホップ・ステップ・ジャンプと同じだ。階段を作って上がっていくといっても良い。ここでは3ヶ月ずつにSEGMENT(分ける)して、1年間を4段階に分けて、それぞれに主力の学習テーマと、短期(年を4つに分けた3ヶ月分の))の目標を設ける。そして、その分けられた4ステップの短期目標と成果を比較して、評価をすることが重要で、基準を満たしていないものを次のステップで、どのように扱うか。ここが肝心である。
断っておくがこの計画は、自分の自習用である。日本語学校を選択する際にその学校の計画のあり方をチェックする時にも使えるぜ。
当校は、こういうセグメント方式をとっている。

上記の4つのステップのそれぞれの中身は、たくさんのアイディアや、成果の上がった方法があるが、ここでは、割愛しておこう。当校スタッフがあんまり開示してはいけません!!とうるさいからね(笑い)。教科書の選択だけは記しておこう。「みんなの日本語 初級1・2」「中級に行こう」「みんなの日本語中級」は、間違いなく良い教科書である。もちろん、他にも良い物は数多い。 《了》

2011年5月10日火曜日

ベトナム好き多いんだ、ニッポン!

またまた、『めざせ、サムライ。日本語SAMURAI!』の生原稿から持ってきた。今秋の出版時は全部ベトナム語になるよ。
第一章9項「 何故か、日本人はベトナムが大好きなのだ。本当だよ!」

韓国人への差別意識は、日本に隠然とあった。侵略者である軍国日本が作り出した風唱というかマハトの一つだ。でも、近年になりハンサムな韓国男優や美しい女優の活躍とかアイドルの連日の来日とか、サッカーのワールドカップ大会を日韓で共同開催したころから、若い人を中心に大分その差別意識は薄れた。現在はほとんど無くなったと言って良いかな。中国には、最近の経済の勢いもあるので、日本の側のやっかみも在るし、嫌悪(けんお)現象は、当面双方に続くだろう。黄砂に含まれる放射能物質問題など再燃する懸案も数多い。残念だがね。それと反対に日本人はベトナム人とか、ベトナム国に好意を持っている人が多い。実は僕、嫌いだという日本人に会ったことがないのだ。理由を整理しながら解き明かそう。今後付き合いがどんどん広く深くなる両国にとって、とても重要な事だ。
時間軸に沿って書いてみた。

1 やはりベトナム戦争(対アメリカ戦争)の悲惨さが挙げられる。これは、たいていの人の一致した見方だ。当時の日本人の多くは「アメリカはひどい。小さな国のベトナム人民はかわいそうだ。ベトナム、がんばれ」と考えていた。日本ではアメリカ大使館や、防衛庁、自民党本部に突入して、ベトナム戦争反対を意思表示した我々など大学生・青年労働者中心の戦闘的なグループは当時100万人ぐらいいた。その数は、全国の良心的で、反戦的な感情をもった広範な人々の一部に過ぎなかったのだが、実に多くの市民がベトナム人にシンパシーを感じていた。そして対アメリカ戦争後、“世界の帝国アメリカに唯一勝った国”として、その民族のがんばりと優秀性は、世界の人々に感銘を与えた。ベトナム戦争の最後の日、南ベトナムのサイゴンの大統領官邸に解放戦線と北ベトナム軍の戦車が突入し、ベランダから勇敢な兵士たちが解放戦線旗や北ベトナム旗を振っているニュース画面に引きつけられ、日本人の多くが涙して喜んだ。本当に多くの日本人が嬉しくて泣いたり、拍手したんだよ。静かに感動をかみしめていた人も実は多い。もちろん、反戦運動を激烈に戦っていた僕の目からも熱い涙が、止めどなく流れたのを覚えている。1975年4月30日のことであったね。

2 ベトナム戦争が終わった後も、インドシナ地域からのボートピープルで日本に流れ着いた人もたくさんいて、どの様なことが在ったのかは知らないが、日本人は心を痛めて、同情していた。
3 1980年代後半からのドイモイ政策がかなり日本でも話題になり、国家としての新しいあり方の評価が高まった。
4 1990年代初頭からの日本企業の投資やビジネスの本格開始、観光旅行などを通じて、ベトナム人は戦争に勝利する精神力だけでなく、誠実で、日本などとも共通する「東アジア的価値観」があり、さらに器用な民族であることが日本のマスコミでどんどん、知られることとなった。僕はPRやマーケティングが専門のプロデューサーであったので、1990年代当時の観光総局、外務省、投資計画省、交通運輸省、情報文化省の幹部との色々の多様な会議に基づいて、日本の新聞やテレビ(当時インターネットは、まだ始まったばかり)、雑誌を通じてベトナムの文化や現状を一生懸命に日本の国民に送り出す仕事をしていた事を感慨深く思い出す。我田引水(がでんいんすい)で言わせてもらうが、効果というか、成果はかなり在ったと思うぜ!

5 2000年代には、日本の大都市には、ベトナム料理レストランがあちこちにでき、若い女性だけでなく、ベトナムツアーには中高年の方たちも大量に増えた。企業や、農漁業関係の視察も増加した。それに従って、世論としてベトナム「ファン」が大量に発生した。2006年安倍首相の時代には「日越パートナー宣言」という友好条約も結んでいる。そして、2010年5月の、日本の新幹線や原発、水処理plantを日本政府がベトナム政府へ営業している今日まで続いているのだ。

6 大切な情報なので加えておくが、ベトナムが他国に比べて有利なことは実はこれだけではないのだ。実は日本のマスコミのジャーナリストにベトナムフアンが圧倒的に存在しているという事実だ。昔から日本と関係が深いタイやマンミャーのニュースはいつも、どうも最近は政治的混乱と軍事政権の横暴の情報ばかりだ。インドネシアやフィリピンのニュースは、日本に来て、がんばっている看護士さんたちのニュースばっかりで、政治も良いニュースがないね。それに比べて、朝日新聞(リベラル系:毎日800万部発行)、毎日新聞(中道・リベラル系:毎日400万部発行)、読売新聞(保守系:毎日1000万部発行)、日経新聞(中道系:毎日350万部発行)、産経新聞(民族派系:毎日200万部発行)などの新聞やテレビの報道分野の人々のとくに中堅やベテランのジャーナリストがベトナムのファンなのだ。ニュースの量が他のアジア諸国と違う(小さな事でもニュースをセレクトして掲載してくれる)、ニュースの扱いが好意的(ここが肝心)だと言い切って良い。

理由は実はハッキリしている。彼らが、中学校、高校、大学生の時に、ベトナム戦争(対アメリカ戦争)があり、青年として、少年少女として心を痛め、なんとか、ベトナムに勝ってもらいたい、戦後もぜひ、民族自決でがんばってもらいたいという、そのような暖かい心がある人たちが、ジャーナリストになることが多いし、さらにまた、実際に反戦運動を担った若者が大学を卒業して、ジャーナリストになった例が多いからだ。僕の周辺や先輩後輩には実に多い。もし、調査できれば、よりハッキリするだろう。考え方の右翼左翼に拘わらず、このマスコミ界にベトナム好きな人が多いというのが、他のアジア諸国には無いベトナムにとって最大の「武器」だろうと思われる。日本で有名な作家であり、東京の都知事である石原慎太郎は、いわば「反中国派」の急先鋒なのだが、大のベトナム好きでも有名なのさ。彼は「僕を作家として育ててくれたのはベトナムだ」とかつて産経新聞などに書いていた。だからだと思うのだが、都庁には、ベトナムとの友好の促進事業が割と多い。知っていたかい? (了)

2011年5月9日月曜日

フツーの人が優れている我がニッポン!

またまた、「めざせ、サムライ!日本語SAMURAI」(仮題)の生原稿から引っ張ってきた。翻訳も大分進捗。今秋は、ベトナムの主要都市の書店の店頭に並ぶ予定。*3月11日以降の事態・現象を加筆予定。
■第二章六項 「日本の学力と教育システム。日本は”フツーの人”がすごいのだ。」  
2010年6月、新政府の「成長戦略」が提案された。主な骨格は「人材の育成」だ。朝日新聞や毎日新聞などリベラル派の新聞からは良い評価があったようだ。でも、中身はもう一つ冴えない。さて、教育は日本のお家芸(おいえげい)であることは、世界中が知っている。何故に日本には教育や学習のノウハウが蓄積されているのだろうか。さらに、何故に中間層のレベルが高いのだろうか。ちょっと考えたい。1850年代つまりサムライのいる江戸時代の後期、江戸を中心に全国に公立や私立の学校がすでに2万校もあり、身分を超えて子供たちに主に漢文やソロバン、礼儀作法を教えていた。こういう教育への熱心さが、1868年の明治維新以降、「富国強兵」のスローガンと平行して「教育立国」が掲げられ続けたのだ。この教育については、韓国も中国も異常なほどの熱の入れ方だ。が、日本と違うのは、エリートや金持ち中心にこれは展開されている。

日本人の心の内部では、この大事な5〜14歳ぐらいまでの義務教育期間に社会人としても基礎力をつけ無ければならないという大人の側の義務感があると言って良い。行列をつくって、順番をまつ。足で物を取ったり、動かしてはならない。自動車のクラクションは普通は鳴らさない。部屋をあるくとき、本や新聞を踏んではならない。親切にしてもらったら、「ありがとう」とキチンという。道路につばを吐かない。ゴミはゴミ箱にいれる。川や山にゴミを捨てない。むやみに道路を走らない。お店やレストランでは大声や奇声を発しない、座るとき足を投げ出さない・・いくら書いても終わりがないのでやめるが、こういう当たり前の事はたいてい母親の「しつけ」というものである。母親が世間の常識的なしつけをし、父親が人生への覚悟を教えるのが、日本の普通以上の家庭の一般的な家庭教育であった。もちろん近所のおばさんやおじさんも、子供へのアドバイスや注意は、田舎ではまだ、健在だ。子供は社会が育てるということだ。さらに家庭によってはおばあさんから伝統的な食べ物の作り方や、裁縫(さいほう)、台所の合理的な工夫を教えてもらい、おじいさんからは郷土の歴史を教わる事も多かった。

戦後の日本では、戦前の軍国主義の反省から、いきなり西洋的民主主義を敗戦の1945年の秋から急展開で教え始めた。だから、現在の日本の教育の指針のようなものは、古来からの中国の儒教的な要素、明治時代のドイツ的な要素、戦後のアメリカ的な要素が実は混在している。地球の東の端の辺境国日本は古代から多様な文化の受容と顴骨奪胎(かんこくだったい)に長(ちょう)じており、いまでは、日本独特の文化というか、社会的なルールとして生活の規範となっている。製銅、稲作から漢字、儒教、道教、仏教などの思想や規範まで、多くの文化が、そうやって、日本に同化してきたのだ。

全く時代は変わるが、新しいものもあるぜ。現在、日本中で、燃えるもの、燃えないもの、資源になるゴミ、カンやビンを分別しているが、実は新しい規範なのだ。1980年代から、北欧などの真似をして、始めた訳だから、まだ、30年未満のルールといえる。順応も早いんだよ。1964年のオリンピックの前までは、立ち小便のおじさんも多かったし、つばを道に吐(は)く人も多かったのだ。中国はオリンピックと万博でどのような「社会人基礎力」をつけるか楽しみというものだ。社会人の基礎力は、「公共」ということを市民の一人として考えて活動して身につくものだ。
公共とは「社会という市民の生活の場を皆の責任で維持管理(ある時は創造してゆく)して行く事」だろう。その意味を教える教育を戦後の日本は長い間ネグレクトして来た。それは「公共」がかつて国家(国家権力)と結びついて、戦争に総動員していった不幸な歴史を日本は持っていたからだ。

公共の感覚をもち、社会人としての基礎力がそれなりに持っている日本人の能力の特徴は「中間層」が強いということだ。中間層が常識や社会的な情報をきちんと取得しているので、レベルが高いのだ。
たとえば、アメリカなどは、一部の能力的ハイクラスと、労働者クラスしかない。つまり、中間層が弱い。こういうと、あちこちの大使館からおしかりの電話があるかもしれないが(笑い)、ラテン系の諸国もたぶんそこが弱い。ところが、日本はその中間層がパワーがあるし、知的で意欲的なのさ、たとえば有名な電気店街の秋葉原の電気店の店員さんたち。たいていは高卒か、地方の名も無い大学卒者が多いとお聞きしているのだが(幹部候補者は別だが)、家電やITに関する知識の深さやサービスに対する意欲は感心することが多い。技術者並みのレベルの人も多いんだぜ。日本のパワフル中間層の代表だとおもう。企業とか政治のトップ層は、大したことがない例が多いが、中間層、労働者層が優秀なのさ、我がニッポン。

また、引っ越しのスタッフ、トラックの「サービスドライバー」、スーパーマーケットや、デパートの店員さん、ブランドショップの店員、キャバクラやバーのセクシーな女性たちなどなどあげたらきりがないほど、こういった中間層には、責任を持ちまた目標をもってがんばる人々が多いのだ。もちろん、工場労働者層もほとんどは高卒者で、何らかの理由で労働者になった大卒者も多い、また、農家は、冬の仕事がないので、季節的に農民が労働者になっている場合もおおい。従って、社会との関わりも自覚的であり、仕事に工夫やアイディアもだすし、たんなる労働力ではない。日本の労働者は他の国で言えば中間層ぐらいの社会人の基礎知識を持っている。1970年代前半に日本の首相であった田中角栄氏は、中学校しか出ていないが、寒い田舎で、土建企業の社長になり、最後は日本首相になった。日本はそういう国なのある。 *3月11日以降の事態を加筆予定。

2011年5月8日日曜日

やっぱり、ニッポンは社員教育だね。

《写真》4月は日本で活躍の当校卒業生の講義やスピーチが相次いだ。             東証第一部上場の株式会社ニフコ(横浜)に約3年前に就職した卒業生(709クラス)テー君が休暇で里帰りしたので、当校で日本での体験記を授業してもらった。後輩たちには最高の情報と知識の提供となりました。


仕事の関係でハノイを訪れた株式会社タイショー(埼玉)の橋本社長と卒業生ヒュー君が、日本の工場に付いて後輩のクラスにて、特別講義。お忙しいのに、ありがとうございました。


近日、姫路のアユミ工業に就労予定のチュンとフックの両君が後輩のクラスにて「出発の決意」表明と日本語学習の経験を披瀝。後輩たちは全員、一年後の自分をダブらせて、目を輝かせていました。頑張ろう。


また、ブログ書く時間が無く、僕のベトナムで出版する生原稿から引っ張り出した。

■ 第四章−5項「入社すると、徹底した社員教育がある。日本企業の特徴の一つだ。」

前項4−4もそうだが、入社してからの安心感をここで君らに話をしておこう。
日本人は誰でも教育が大好きなんだ、教えるのも学ぶのも伝統的に好きなんだ。今から400年以上も前の江戸時代の前期の1600年頃でも、すでに身分の高いサムライの子弟だけでなく町民や農民、職人の子供たちが学べる民間の寺子屋や手習指南所という学校が江戸を中心に全国のあちこちにたくさんできていた。1800年頃の江戸時代の後期には、江戸に1500校、全国には約20000校も在ったと言う調査がある。子供に読み書きや算盤(そろばん)から「十八史略」などの歴史書や「四書五経」などの儒学書、吉田兼好の名作「徒然草」とか、地理の本などを大きな声で読んだり書き写したりすることが行われていた。

驚くことに江戸の子供の就学率は約80%であった。同じ時期の英国の就学率が25%、フランスなどは2%に満たない時期にだぜ。どうだ!すごいだろ、ニッポン。やがて、オランダ語や医学、天文学を学ぶ20歳代青年中心の塾という学校も江戸や大阪、長崎などに続々設立され、封建的な武家社会だけではない、次の社会を模索する身分の低い武士の青年たちが大きなうねりとなって育っていった。これが1868年の明治維新という革命となっていく。前書きが長くなったが、従ってこういった伝統のなかで、日本企業は歴史的に社員の育成は当然視されているのさ。全く当たり前なのである。

日本は前に記述したが、社員を家族と見る傾向が強いんだ。(もちろん、不況が続いてきたので、そうではない側面も増えてきたことも事実だ)だから、17時以降の飲食も共にすることも、多いし、土曜、日曜日には社員同士とか上司と部下のゴルフも多い。社員が一緒に出かける社員旅行とか、運動会、クリスマス会もある。毎月一回その月の誕生日があった人用のお誕生会など、まさに家族と同様に「私的な時間」までみんなで一緒、と言った傾向がいまでも在る。さすがにこの20年前からは社員旅行と運動会は大分減ったが・・。
現代日本は個人主義が行き過ぎた傾向も在って、内にこもる心持ち方の青年も多く見かけ、みんなと一緒に居たくないだけならともかく、深刻な人は孤立を好みインターネットとゲームとしかつきあわないような一群の若者も生んでしまった。その問題在る「おたく」な人々も居るけれど、本来からの日本人が持っている心情とか感覚の人がまだ圧倒的に存在して、企業を支えている。

言うまでも無いけれど、家族なら、当然大きく育って欲しい。つまり立派な社員になって欲しいと思う。だから、日本企業はかなりの費用をかけて社員の教育に取り組んでいる。日本の社員教育は新人の時のはじめの半年間とか、一年間だけじゃあないんだよ。かなりベテランになった課長さんたちの研修とか、部長の研修とかもたくさんある。新人に技術や会社の仕事の事を教えるだけが研修ではないのだ。また、上位の人の研修は、仕事だけについてではない、内容は健康とか、精神衛生とか、だから、外部のコンサルタントや大学の先生とか、いろいろな分野の専門家も参加する。30才代なら、彼らが抱えやすい問題、課長になったら、直面する精神的な問題の解決とか、多岐にわたる。

例えば、先日、雑誌に掲載されていた即席ラーメンの日清食品の課長さんら上級の人たちの研修は、ちょっとユニークだ。
日清の課長さんらが20名ぐらい集められて、無人島に連れて行かれた。そこでは教育係の社員が待っていて、全員から携帯電話、財布など私物をすべて没収され、代わりにナイフとか、テント用のビニールシート、水と小麦粉、2,3個の即席ラーメンだけしか渡されない。これで、2泊3日を生活しろという研修だ。目的はこのサバイバル体験を通じて精神的、肉体的に強い人間を育成することであり、生きる強さを今誰が持っているかの評価でもある。

今時の「ひ弱な」ベトナム人青年大丈夫か?火も自分で熾(おこ)すんだぜ。食べ物も自分で取ってくるんだよ。雨風しのぐテントもビニールしかないわけだから、工夫して作らねばならない。
もし、病気になったり、餌がとれず、お腹がすいてギブアップしたら恥ずかしいですねえ。“私は弱い男です”を丸出しにしてしまうわけさ。また、一部の大きな会社では、定年(普通60〜62才ぐらい)になったときに備えた精神的ケア(care)とか、第二の人生の生き方の指針を提案したり、僕からすると、あれこれ、親切すぎでかえってひ弱な老人を作るようで、やや疑問も抱くが、このように日本は「家族」に定年まで、かなり親切なのである。日本では社会保険がそれなりに充実しているので、その余剰金とか蓄積金でこのようなことがいろいろとできるのだ。

  *ただその保険を扱う社会保険庁が、長年にわたって汚職や隠然としたサボタージュ、税金の不当使用などで、大きな問題を現在起こしている。

いま、幾つかのことを君に教えたが、当面君らが入社後に体験するのはたいていの場合、半年間ぐらい、いろいろなセクションを体験させられる事が多い。会社によって違うけれど、会社全体の仕組みを知ってもらいたいからだ。さらに、君の才能とか興味が何処にあるかを君と一緒に発見するためでもある。能力開発と言っておこう。君が自分で専門だと言ってきたこと以上に君の興味とかやり甲斐が感じそうな仕事が、他の分野で在るかもしれないからだ。良く考えてごらん。大学の学部はたいてい16才、17才の時の頭脳で、その上少ない情報量で考えたことだ、人によっては父親が勧めたので、何となくそうした人も結構多いだろう。つまり、“自分の人生の本当の専門”など全く解らない中で、自分の専門をとりあえず決めたに過ぎない場合が多いだろう。その上、日本企業は、日本人の新入社員であれ、ベトナム人であれ、学生が持っている「専門」を、あまり期待していないのだ。たいしたレベルではない、プロの技術は会社でおしえるよ、と考えている場合が多いのだ。これ間違いないぜ。大事なのは高校や大学の1〜2学年で学んだ基礎知識、つまり、数学や物理、生物などの基礎知識に期待している。面接の項で詳しく教えたね。

さらに、教育は、実は与えられる物ではない。日本人の先輩や優秀な友人と積極的につきあうなかで、学ぶ事が基本だ。日頃職場で「迷惑にならない程度に」お聞きして学ぶ事が重要だ。与えられることを待っているのではなく、自分から積極的にアタックして、上位者から技術を“いただくこと”が基本なのだ。そもそも、日本語の「学ぶ:まなぶ」は、言葉が変化したもので、もともとは「まねぶ・・・まねる」から来ている言葉なのである。つまり、優秀な人の技術や知識を「まねる:真似る」事と言うことなのだよ。だから、日本の職場では工場でもオフィスでも堂々と、先輩のノウハウを盗め、と言ったりする。そばにいて、やり方を盗み、真似ることから、成長が始まるということなんだぜ。おい、青年、解ったか?サムライが武士道に入門するスタートはここからだ。
■《ブログご高覧感謝》
僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
多いのは一日1400名閲覧もあります。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行