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2011年7月17日日曜日

★ 草間彌生という人生(完了)


1■先日、お客様の会社にお邪魔するので、炎天下久しぶりに青山の骨董通りを黙々と歩いた。久しぶりでゆっくり周辺見ながら歩くと、骨董通りの六本木よりのエリアの没落の激しいことが解る。僕が1990年代、独立して青山のこどもの城の隣のオーバルビルにオフィスを持った時代から20年は経っているので、時代の厳しい推移がはっきりと見えて来る。青山通りの表参道交差点とか、外苑前もそうだが、メイン通りにも活力が見えないとこの2、3年何となく感じて居たが、骨董通りの表情を見て、やっぱりだな、と改めて感じたわけだ。

骨董通りのビルが歯抜けになっていたおかげで、岡本太郎先生の美術館が表から見えた。時間に余裕があったので、かつてのご自宅のお庭部分に入って、頭上を見上げ太陽を仰いだ。そして、お庭に陳列されてあった太陽の塔の「孫」みたいな金色のオブジェの写真をカメラが無いので、携帯で撮った。そういえば岡本太郎先生と直に二人でお話しした事があった。1985年頃だと思う。その話はこのブログの2010年3月30日の項に「岡本太郎体験」として書いてあるので、ぜひ、参考にお読みください。ともかく、今は「会館」となっているこのご自宅で、「縄文文化」のイベントの企画をお願いしたのであった。岡本先生は爆発する人でも、多弁のひとでもなく、落ち着いた論旨でお話しする方で在った。芸術家は当然ながら、自らを演出する演出家だということだろう。でも、縄文車などアイディアを湧き起こしたときの瞬発力は腰抜かすほど僕の魂を震わせたという思い出がある。

2■先ほど(16日深夜)、草間彌生(やよい)さんの4〜5時間のドキュメントをNHKBSでやっていた。本年世界での移動展があるそうで、その準備と最新作品の100点の絵画作品を82歳の彼女が、力業でやり遂げるまでのドキュメントだ。僕の写真の師アラーキーさんとの対談まである見応えがある5時間であった。今回、草間さんをここで取り上げたのは、ちょっと微妙な事だけれど、精神的疾患と芸術のこと、また、商品としての「芸術」のことなど際どい所を耕論してみたくて、・・。ちょっとめんどうなのですがね。岡本太郎、YOKO ONO、山下清、ジミー大西、詩人の何人か・・など登場させて書きたいと思っています。・・・ハノイで授業はじまるので、準備で。ちょっと中断させてくださいね・・・。

・・なでしこジャパンが勝ったという。凄いね。彼女らの世界一をめざすイメージ力がまずは勝っていたということでしょう。おめでとう・・・
・・・ぼやぼやして、書くのをサボっていたら、草間さんの項が、毎日100pvぐらいで、読んでくれて居る人いるのに、ほとんどタイトルだけで、本当に失礼しました。

1990年頃、青山通りから、明治公園の方にちょっと入った所にポスターとか、ポストカード等を売っていたおしゃれな古くからの紙屋のギャラリーがいきなり僕の大好きなマリオ・ボッタが建築した美術館「ワタリウム」に変身した。まあ、拡大したのだろう。経営者はちょっと五月蠅そうな母子で、ほとんど記憶が薄れつつあるが、何故か草間さんのアートのことでその母子と「もめた」ことあった。というより、会議がその母子と気まずくなったというか、事実上決裂したというような事であった。そのときが、草間アートに僕が仕事で関係しようとした最初であったのだろうと思う。そのころ、そこが草間さんの代理人であったのだろうか、定かではない。草間彌生さんにとっては、全くあずかり知らない話だが、印象悪い雰囲気でその出会いをしてしまったのだ。こういう記憶の残滓は、意外にやっかいなものだ。

このBSの長時間ドキュメントは、彼女のアート以外の生活は全く触れない。触れないことが製作開始時点での双方の了解点なのだろう。子供時代から、1950年代にまったく単身でNYのアートシーンに乗り込み奮戦していたことなど、彼女の生い立ちや今に至る軌跡はインタビューも交えて丹念に追っている。でも、現在の彼女は生誕地の松本市に居ると言う以外触れようとしていなかったが、街中を車いすで介助されながら移動する彼女の画像にかぶらせて、「草間さんは、アトリエに近い精神病院から、毎日通っています」と唐突にナレーションで触れた。その言葉選びに制作側のこの番組への意図は伝わってきた。

3■3,4年前、ジミー大西のカリブ海を旅するドキュメントを見た。吉本のお笑い芸人から売れっ子画家に変身したジミーの原点の旅と言えるものである。ご存じの方も多いと思うが、彼のテーマとか、筆致また彩色は、カリブの民族絵に近い原色を多用した目映いばかりの、動的なスタイルである。イラストレーション・絵画に詳しい人なら知っている宇野亜喜良さんのタッチに極彩色の色がついたような作品が多い。さらに、このドキュメントだけではないが、ジミーのアート展開には吉本がプロモーションしているので、気の毒にも逆に「臭さ」が顔を出してしまったりしている。テレビ製作サイドの意図にも拘わらず、このテレビの中で、カリブのアーチストたちの作品の「プリミティブ」度は日本人の持っているジミー程度の「プリミティブ」度をあっさり突き抜けていた。そのせいか、この番組では絵画の比較シーンは避けられ押さえられていたように思った。

いまさら、言うまでも無いけれど世界の「西洋流」絵画、アートは、ピカソやマチスを言うに及ばず、アフリカのそれも旧植民地の原始的民俗的職人芸の影響、言い換えると侵略的な遷移、パクリというと身も蓋もないけれど、現代アートはそのアフリカのプリミティブを吸収して、それに依って中世的、あるいはキリスト教的呪縛から、解放され開花した。人類が誕生したその聖地が育んだ人類の営為は白人が作り出したキリスト教、西洋ヒューマニズム、資本主義という小賢しくて暴力的な三大制度に負けないオリジナリティーがあり、国家の覇権では敗走の連続であったが、精神性やアート、民芸では、見事に抗することが出来ていたのだと思う。アフリカ大陸の人類史がたい積させてきた「プリミティブ」な営為は西洋の「洗練」された価値観を粉砕し、見事に改宗させるほどの磁力を蓄えていたのだった。

4■岡本太郎先生の芸術表現は、いえ、岡本先生も営為という文字でなぞった方が、彼の一人の芸術運動にふさわしいかもしれない。岡本太郎先生は、メキシコ革命であり、民衆の壁画運動であり、「シケイロス」であり「リベラ」であり、インカであり、中南米大陸にある民衆と民俗史総体と同化し、全く衒いもせず、そのことをオープンにして、安穏として均質を良しとし、和を以て良しとするニッポンに火山の様な形相で、挑みかかっていったのである。岡本先生の作品は太陽の塔だろうが、青山の子供の城のファサードにあるオブジェにしても、ご自宅(今は会館)の狭いお庭に鎮座している像たちも皆〜な同じ形状だし、同じ主張だ。同じ事をくり返しています。見る人を呆れさせるほど、同じ作りです。そしてこの継続・持続の爆発を画壇や、マスコミ、そして日本の戦後の民衆の渇望感の真上から、ぶちまけたのである。恐れおののき呆れた画壇とか怖いモノには目をつぶる大勢の輩など無視して、中南米大陸のプリミティブを日本人の芸術フィールドのど真ん中に屹立させたのである。それは日本人にとって見たこともない圧倒的な「無垢」であった。

アフリカの人類の営為からでた表現も、中南米の民衆からでた表現も吉本隆明的にいえば「自己表出」だが、民衆の表出として、無意識のまさに生活の営為が「民俗の道具や装飾」として、白人社会が無視してきた暗黒大陸に鮮烈なアートとして存在していたのだ。岡本太郎の凄さは、そのアフリカのプリミティブがピカソやマチスなど白人アーチストや画商を驚愕させたのと同様な中南米民衆の魂を一人で背負い、世界の芸術戦線で一人で戦闘してきたことにある。換言すると、中南米の民衆の本源的な「無垢」の化身となって、歩んできたとことに誰もが真似の出来ない偉大さがあるのだ。

5■1980年代の後半に6,7回ニューヨークに仕事でいった。有名JAZZライブ店「ビレッジバンガード」を東京に持ってくるためである。もちろん、ブルーノート青山に触発されたことは否めない。ヤッパー、老舗中の老舗で無くっちゃー、と僕の発案でNYに通い始めた。初めは、家族四人で行った。早稲田の全共闘の仲間で、妻晃子の同級であった島津隆文が、当時東京都庁を代表してNY市庁舎(シティーホール)に出向していたので、彼にも大分助けてもらった。ビレッジバンガードのオーナーのマックスゴードンが亡くなったばかりで、ゴードン未亡人は、店舗の東京への拡大を固辞して、この件は不調に結果終わったのだが、実は同時に僕はアフリカ美術の専門家たちとNYで会い、東京での展示会をイメージし始めていた。彼らの紹介で、「日本アフリカ夫人の会」の重光代表を紹介されて、目黒だったかのご自宅に伺った。現代史に詳しい人は解りますね。重光のお名前。やんごとない戦時中の外務大臣であり、ミズーリ艦上で戦争終結のサインをした人だね。その娘さんが彼女で、それはそれは美しいおばあさまでした。格調の高い古い洋館のご自宅はなにせ、土足です。靴はいたまま、応接室にとうされたのですから、二重三重に驚かされました。本外交官のご主人も最高のキャラなのですが、主題じゃあないので別項に譲ります。

さて、ユッソー・ウンドールはアフリカの音楽アーチストですが、彼の様に有名な画家やデザイナーの名前が忘れてしまったのですが、名前の大きさに関係なく見る機会は東京でも80年代から90年代のバブル期にありました。重光さんに教えていただいたり、ご紹介いただいたり。セネガル、コートジボアールなどの作家や作品がおおい印象でした。NYの友人からは、彼らがアメリカで展開した展示会の公式作品集(立派な装丁)などもいただいたり、そのカタログに在るモノは日本に送れるから、展示のチャンスがあったら、連絡欲しいとなったり、随分動いたのですが、やっぱりアフリカのアートとなると、好きな人は好きですが、スポンサーなどを見つけることが出来ず、僕が事務局長やっていた「青山国際村」(国連大学と子供の城と、楕円形のオーバルビルのビルの三連の空間を活用した活動)で、アフリカのバザール中心のお祭りを二回やってお茶を濁すことになりました。盛況でしたがね。そんな活動の中で、アフリカの骨太い民芸的営為の作品の驚くべき強さを(少しですが)認識したのでした。

6■村上隆のかわいいセクシーな「アート」フィギアが16億円だとか、奈良美智の不機嫌そうな女の子のイラストが数千万でNYのMOMAが買い取ったとか。悪い話ではありません。僕が昔仕事で付き合ったイラストレーターの鈴木英人さんが、風の動きや光のハレーションを可視化したひとで、1980年代は教科書にも使われたりで、イラスト界の寵児でもあり、「イラスト料金の底上げを結果押し上げた人」として、売れっ子でした。現在は、横尾忠則さんや横山明さんと同様、イラストレイターを廃業し画家になっています。でも、村上隆や奈良美智の場合は、全く位相が違う。現金の値を一気に上昇させたい画商と幻想と話題を作りたいミュージアムなど世界の業界、マスコミ、ついでに言うと「騙されたい常連の芸術愛好家・金持ち」の共同戦線の成果に過ぎない。恣意的な共同幻想が生み出した「価値」だ。

草間さんが不運なのは、このドキュメントにある彼女の世界展の準備中に3月11日の大震災をうけ、日本人や世界の人々の意識が大分「地殻変動」をしてしまったと言うことだ。もう、彼女の一流のオリジナルとはいえ水玉模様の連続を壁や乗り物に、またキャンバスに描いても誰も幸せにならなくなったと言うことだろう。ひらめきの抽象だけでは誰の心も引きつけない時代になったことだ。80才代だから「利用の限界の最後の世界キャンペーン」を張ろうと考えていた賢い画商たちの、こうなったときのひねりはどうするのだろうか。それも見物だけれど、肉体の最後の機能を全力展開させてキャンバスに向かう彼女の姿は強欲婆の生々しさは薄れ、むしろお気の毒な雰囲気で映像の奥に沈殿物のごとくたゆたっているようにも見える。

7■はっきり言って、草間さんの「アート」とか村上隆のフィギュアとか奈良美智のイラストなど、束になってかかっても岡本太郎先生にはまったく敵わないこと。全く次元がちがうレベルにあること。日本の飛鳥奈良時代から、江戸の浮世絵、そして岡本先生まで連綿と続く日本の芸術と芸術家たちの系譜。「アート」を振りかざして、何をいいたいの?お宅ら。ここは草間彌生の項目だから老婆には非道いことを言いにくいが、画商とプロデューサーを使って演出の価値を上げ、価格を上げて、一気に売り抜くビジネスは、空しくないかい?株取引とまったく一緒だね。本年に彼女が展示会用に書いた100枚は、テレビで見た限りだが何の躍動もなく、見る者を震わす何ものも見受けられなかった。ただ、周りの取り巻きが、良いですね、元気ですね。世界に見せたいですね、みたいなおべんちゃら言って、彼女もホッとして微笑む。はっきり言って、余生を静かにそして、書きたいことをだれに見せるでなく描いて、ラッキーな人生を終わればいいのに。歩けない老人までもこき使い、最後まで金のなる木から絞ろうとする人々。まあ、無惨な世界展示会の総括を予感して、この項を終えたい。


《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルと日付け、紹介致します。
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・2008年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC /  立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・2011年7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人

これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

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