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2011年9月21日水曜日

盲目のモテ爺 (筆授10回目)/ AKB48のじゃんけん大会は最高

今読んでる宮本常一のいわば生活誌の記録「忘れられた日本人」(岩波文庫)は最高だね。宮本さんは戦後すぐ(昭和25年頃)くらいに尋ねた老人たちの話をそのまま採録しているのがこの本で、昔のひとは本当にフツーの人でも凄いのである。明治初期に南太平洋のフィジー島に出稼ぎに行った人とか、ハワイにいくのが流行ってのう、と宣う老人もいれば、「殿様がおりんさったころとちごうて、この頃はみんなはしっこうなった」と愚痴る明治初頭に少年や青年であった人々。我々が教科書で学習したその時代とはまったく様子が違い、豊かな発想の人々が意外なほどコミニュケーション濃厚な暮らしをしていたことが解る。長男、次男が分家して、たいてい末っ子が家督になる地方とか、あっけにとられることも多い。驚かされる。

この本の中に「土佐源氏」というタイトルの盲目の老人の話がある。日本の原風景と僕らの2,3代前の日本人の心の持ちようが見えて来るので、長いけれど思い切って全文採録する。発表当時、研究者や文学者などから圧倒的な支持と評判を得た聞き取りだ。折しも「チャタレー判決」が出た時分で、宮本さんは発禁を避けるために何人か出てくる女性との秘め事の箇所は大分割愛したという。宮本民俗学の白眉です。《岩波さん、勝手に済みませんが土佐源氏を全文写させてください。》
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「あんたはどこかな?はぁ長州か、長州かなぁ、長州人はこのあたりへはえっときておった。長州人は昔からよう稼いだもんじゃ。このあたりへは木挽きや大工で働きにきておった。大工は腕利きでみなええ仕事をしておった。
時にあんたはなにが商売じゃ?百姓じゃといいなさるか、百姓じゃあるまい、物いいがちがう。商売人じゃないのう。まあ、百姓でもいいわい。わしの話しをききたいといいなさっても、わしは何も知らんのじゃ。何もなぁ。ばくろうしておったから牛や馬のことなら知っとる。しかし、ほかの事は何にも知らん。

どうして盲目になったといいなさるか。盲目にのう、盲目になって、もうおっつけ三十年が来る。ごくどうをしたむくいじゃよ。まぁ、ずいぶん極道しよったでのう。極道がすぎて、まともなくらしもようせなんだ。
あんたは女房はありなさるか。女房は大事にせにゃぁいけん。盲目になっても女房だけは見捨てはせん」いろりには火がチロチロもえていた。そのそばに八十をかなりこえた小さい老人があぐらをかいてすわってる。いちじく形の頭をして、歯はもう一本もなくて頬はこけている。やぶれた着物の縞もろくに見えないほどよごれている。
ここは土佐の山中、ゆす原村。そしてこの老人のこの住居は全くの乞食小屋である。ありあわせの木を縄でくくりあわせ、その外側をむしろでかこい、天上もむしろで張ってある。そのむしろが煙でまっくろになっている。天上の上は橋。つまり橋の下に小屋掛けしているのである。土間に籾(もみ)がらをまいて、その上にむしろをしいていて生活をしている。入り口もむしろをたれたまま。時々天上の上を人の通っていく足音がきこえる。寒そうないそぎ足である。

「あんたもよっぽど酔狂者じゃ。乞食の話を聞きに来るとはのう・・・。また誰があんたをわしの所へ寄越しなさったか・・・。はぁ、那須のだんなか?那須のだんなか。あの方はええ方じゃ、仏のような方じゃ。わしがここへおちついたのもあの人のおかげじゃ。婆に手をひかれて流れ流れてここまで来たとき、あのだんなが、目が見えいではどこでくらすも同じじゃいうて、人様に迷惑をかけさいせねば、かつえ(飢え)させはせんものじゃいうて、親切にして下さったので、この橋の下におちついいたが、ほんに人のあまりものをもろうて食うて、この橋の下でもう三十年近うになる。しかし、わしはあんたのような物好きにあうのははじめてじゃ、八十にもなってのう、八十じじいの話しをききたいというてやって来る人にあうとは思わだった。

しかしのう、わしは八十年何もしておらん。人をだますこととおなごをかまう事ですぎてしまった。かわいがったおなごの事ぐらいおぼえているだろうといいなさるか?かわいがったおなごか・・・。遠い昔の事じゃのう。わしはててなし子じゃった。母者が夜這いに来る男の種をみごもってできたのがわしで、流してしまおうと思うて川の中へ入って腰をひやしても流れん。木の上からとびおりても出ん。あきらめてしもうていたら、月足らずで生まれた。生まれりゃころすのはかわいそうじゃと爺と婆が隠居へひきとって育ててくれた。母者はそれから嫁にいったが、嫁入り先で夜、蚕に桑をやっていて、ランプかねって、油が身体中へふりかかって、それに火がついて、大やけどをしてむごい死に方をしなさった。じゃから、わしは父御(ててご)の顔も、母者の顔もおぼえておらん。気がついたときには子守といっしょに遊んでおった。わしに子守がついていたんじゃない、よその子守をしているおなごの子のあとをついてあそびあるいていた。

昔は貧乏人の家の子はみんな子守奉公したもんじゃ。それが頭に鉢巻して子供をおうてお宮の森や村はずれの河原へ群れになって出てままごとをしたり、けんかをしたり、歌をうとうたりして遊うでいた。わしら子守のない男の子は、そういう仲間へ何となくはいって遊うだもんじゃ。親がなくとも子は育つちうがほんとうにそうじゃな。ただみんな学校にいくようになってもわしは行かなんだ。子守と遊ぶ方がよかった。子守にも学校へいかんのがえっとおった。わしの子供の頃はまだ学校へいく事をあんまりやかましういわなかったでのう。女の子と遊ぶ方がよかった。それに十になっても学校へいかん男の子は少なかったで、守りたちの仲間と遊んでいると、かわいがってくれたもんじゃ。ほかに学校へいかん男の子があっても貧乏な家の子はみな家の手伝いをしたもんじゃが、わしはまっぽり(私生児)で、爺婆に育てられたから、山へ行け、田へ行けということもなかった。そのころからわるいことをおぼえてのう。雨の日には遊ぶところがない。子守らはどこかの納屋に三、四人ずつ集まってあそびよった。そうして、子供がねむりよると、おろしてむしろの上にねがせて守りは守りであそぶのよ。あそぶといってもこれという事もない。積んである藁の中へもぐったり、時には前をはだけて、股の大きさをくらべあわせたり、×××をくらべあわせたり、そこへ指をいれてキャアキャさわぐ。おまえのも出せちゅうてわしのも出させておもしろがっていろいよる。そのうちにな、年上の子守が、「××するちうのはここへ男のをいれるのよ。おらこないだ、家の裏の茅のかげで姉と若い衆がねているのをみたんじゃ。お前もおらのに入れて見い」いうてな。別にええものとおもわなかったし、子守も「なんともないもんじゃの」いうて・・。姉はえらいうれしがりよったがと、不審がっておった。それでもそれからあそびが一つふえたわけで、子守たちがおらにもいれて、おらにもいれていうて、男の子はわし一人じゃで、みんなにいれてやって遊ぶようになった。たいがい雨の日に限って、納屋の中でそういう事をしてあそんだもんじゃ・・・。
あんまりええとも思わだったが、それでもやっぱり一番おもしろいあそびじゃった。あんたは喜多郡の方から歩いてきたんなら、あのあたりの村の様子はよくわかるじゃろう。家は谷底のひろうなったところに十軒もかたまったところがあろうか。あとは大がい山腹に一軒二軒とポツリポツリある。50戸の在所というてもずいぶん広うにちらばっている。雨がふらねば子供らはおらびあうて(大きな声で呼び合って)お宮や河原へあつまって来るが、雨がふれば、となり近所の四、五軒の子供があつまるのが、せいさい(精一杯)じゃ。女の子と仲良うしたちうても、つい三、四人のことじゃが、仲良うしておった。そのうち年上のの一人が、わしとねているとき、えらい血をだしてのう、たまげたなんの。女はないていによった(かえった)。わしはまたその子がし死ぬるのじゃないかと思うて、おそろしうて、その晩は飯ものどを通らだった。あくる日河原へいってみたら、その子が来てけろっとしている。「どうしたんじゃ」いうてきくと「おらもう大人になったんじゃ、あれは月のさわりちうもんで、大人になったしるしじゃ、じゃから、もうちかいうちに子守りはやめるんじゃ」いうて急にえらそうにいいよる。そしてのう、「もうおまえとは遊ばん」いいよる。」「どうしてじゃ」ちうと「もう大人じゃけん、二三日うちにおばさん(雇われている家の主婦)が赤飯たいて祝ってやるいいよった。赤飯たべたら、若い衆がよばいに来るけえ気をつけんといけんと」わしはそういうもんかと思うた。「わしでいけんのか」ときいたら、「お前は若い衆じゃないもん」いいよる。わしは早う若衆になりたいもんじゃと思うようになった。

わしが十五になった年に爺は中風でポックリ死んだ。伯父が、お前ももう大人になったんじゃ、爺もしんだことじゃし、百姓家へ奉公にいくか、うちの手伝いでもするとええが、爺が遊ばせて何にもできんなまくら者になってしもうたから、ばくろうの家へ奉公にいった。・・・・・・・・続く(文庫の24頁分続く)



■ このAKBのじゃんけん大会を電子版だが朝日とか読売も報じていた。じゃんけんは子供でも大人でも遊びでも何かの順番を決める時でも使う。結構便利な文化で、どうも世界各国にあるらしい。今日も日本全国でじゃんけんは10万人ぐらいの人は、やるだろう。20万かな。それもどうでも良いし、じゃんけんの文化論とじゃんけん史を語るつもりもない、朝で忙しいし、もうちょっとで学生も集まってくる時間だし。
でさあ、秋元康さんは、頭のいい人だが、あの柔和な肉付きの頬に意地悪さも隠し持っている。「じゃんけんが報道されるか」これが彼の元々の彼一流の遊びなわけさ。全国で、じゃんけんしている小学生とか、サラリーマンの所にテレビ局のカメラマンが飛んできた、などというニュースは聞かない。

秋元さんは、「あのさあ、テレビ局バカだからさ、じゃんけんでも報道に来るぜ」と若手の放送作家らに言ったんだと思う。賭けもしたかも。で、その結果、もう2〜3年の定番番組になったようだ。いま彼は「ほらね、バカだろ、フフフ・・」と心で語り、混雑の中を必死に撮影にきた40才代とかの各局報道スタッフや新聞記者たちが、少女たちのじゃんけん大会の取材後、「良い仕事したね」と笑顔でビール飲んだかどうか知らないが、そう言う顛末のなかで、テレビ番組は粛々と澄まして製作されオンエアーされてゆく。で、売れっ子秋元さんは、「要は仕掛けさ」とにんまりしつつ、「でもさあ、おいおい、大丈夫か。じゃんけんなんか報道にきてさあ。もっと本来の仕事あるんじゃあないのか」と実は内心心配顔なのさ。

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