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2010年4月6日火曜日

エンゼルス松井

うれしいね。松井が赤いユニフォームでいきなり入団開幕ホームランだぜ。松井のフアンじゃあないけれど、嬉しくなるね。素直に楽しい気持ちになりますね。今日はヒットもあって4−2らしい。凄いや。ヤンキース入団開幕戦もホームランで飾ったね、あれは満塁ホームランだったかな。いやはや、ゴジラはやはり、日本のスターです。今年はハリウッドがまたまた、「ゴジラもの」の映画製作に入るらしいし、西地区にゴジラが二匹というか二頭登場ということになる。松井を語るには、イチローもいわねばね。僕はイチローも好きです、というか、あの「才能」と「毎日同じ事を積み重ねる尋常でない努力」はまさに天才だし、尊敬している。が、前にも触れたが「言うことに臭み」があるのでつらい。女子アナあがりの女房の教育とアドバイスも在るかも知れないが、それこそ持って生まれた嫌み性分があると言った方が、奥さんに非難も行かず、無難な解釈だろう。

それに比べて、ゴジラ君はミテクレとは違い、謙虚であくまで良い奴なのだ。青春の巨匠といえばインチキ知事森田健作だが、天下の善人の二大巨匠といえば、やっぱー今は、まぎれなくゴジラ松井と浩宮皇太子だろう。浩宮さんは40歳代にして正に純粋。数年前の雅子さんの孤立を心配し、妻を守ると宣言した男気を見て僕は感銘を受けたね。今ではすっかり浩宮フアンさ。彼を見ていると、僕も良い人になろうと不思議に心がクールダウンできる。さて、それはそれとして、ゴジラは余計なことや、小難しい風情の言い回しはしないのだ。ゴジラなどと、ネーミングしたスポーツ紙のデスクは誰だか知らないが、あまりにも絶妙で、若手の時の松井には本当に気の毒な気もしたが、本人も今となっては話題作りとCM受注には、わるくないとか、割り切った大人の判断もしてはいよう。飾らない。そして控えめ。だけれど、これぞという時にスターの真価をはっきする。最高のアスリートだね。彼のオヤジが新興宗教の教祖らしいというのも、世界ゴジラになった昨今は、ご愛嬌となったってことで・・。天の邪鬼の僕も、松井の「良い奴」には、弱いんです。では、臨時ニュースでした。ハノイ発■

2010年4月5日月曜日

ミス別府にベトナム人留学生♪♪

いまどき「ミスなんとか」とは、かなり古めかしいが、ともあれ湯の町別府の伝統あるミスコンテストで優勝はめでたいめでたい。地元新聞や朝日によると、彼女はホーチミン出身のチャンさん(22才)、立命館アジア太平洋大学(APU)の三年生という。写真を見ると、同時に選ばれたもう一人のミスの阿部さんという日本人と写真下のキャプションがないと見まがうほど、区別がつかない印象。プレティーでとっても良い感じ。APUは、名称通り日本で一番留学生が多い大学だ。約3000名ほど居るはず(2位は早稲田で2500名くらい)。そのうち700名は中国からの留学生だ。ベトナム人のデータはないが他国のデータから推測すると数十人規模かしらん。ついでに言うと日本政府はこの10年で留学生を30万人にする計画を進めているが現在約12万人で、増加度合いから言って、目標達成はほとんど無理の状態。

更に、この不景気の蔓延と長期化で、頼みの中国からの留学生やエンジニアたちが帰国を始めている。確かに、それはそうでしょうね。好景気真っ盛り、今年は上海万博もあるし、不景気な日本でもたもたしたくないものね。そう言う意味ではその「間隙」ぬって、ベトナム人に活躍してもらいたいものです。別府のチャンさ〜ん、頑張ってくださいね。別府の町の人たちは美しいベトナム人のミス別府にまったく違和感は無いっていってますよ(新聞報道によると)。2年間の活動期間があるようだけれど、あなたの活動は「ベトナム人にはスレンダーな美人が多いこと、また、熱心に仕事に取り組む姿勢を日本国民に見てもらうことでしょう。ぜひ、多くの日本人との交流を宜しく、お願いいたします。チャンさん、頑張れ。 *日本在留のベトナム人の総数は約4万人、留学生はそのうちの約3000名です。ついでに主な在留外国人のデータ。中国人約70万人、朝鮮・韓国人約60万人(従来からの在日の方が内40万人)、ブラジル人30万人、フィリピン人20万人、アメリカ人5万人、ペルー人5万人です(つかみの人数です)。

最近、動きが急なので、進出・投資ニュースを何本か。
本年は何といっても日本の「新幹線のハノイ・ホーチミン市間の導入」が明るいニュースの嚆矢でしょう、正月明けの大ニュースでした。最近でも日本の4大ビール会社やブリジストンの全国販売会社、本日は神戸製鋼の進出のニュースが日経などの見出しを飾っています。日本の不況で進出を見合わせていた、数多くの企業群が今夏の回復を見込んで一斉に動き出し始めたと言うことだろう。自国の景気が悪いから進出を止めるのでなく、景気が悪いから故に景気の良いベトナムや中国で新たなビジネスを始める、これ自然なことですね。がんばろうニッポン。

2010年4月3日土曜日

金のTSUBAKIの女優たち / リクルートの罪

綺麗です。本当に美しい6名の女優さんたちが、資生堂「金のTSUBAKI」CMの発表を行い、舞台で挨拶をしていた。ハノイで見た映像だから、ちょっと動きがスムーズではなく、30秒ごと位に止まっては動き、声を発してはとまる体なので、せっかくの美しい人たちなのにちょっと無惨。帰国したら、スムースな映像でもう一回見ておきたい。多くのオヤジたちもご存じ、軽快なSMAPの唄に合わせて、日本を代表する気品在る女優さんたちや、フジテレビ退社すぐの滝川クリステルらが、ご自慢の豊かな黒髪をたわわに実ったフルーツのようにリズムカルに揺らせた姿を主に後から撮影した言わば”華作のCM”でお馴染みですね。ぼく、正直大好きです。サブミナルが仕込んであると疑いたくなるほどセクシーです。天国の女房やブオンさんには、内緒だけれど、許されればあの女神たちのあの豊かな黒髪に顔をそっと埋ずめたい、埋めて脳髄を刺激するフェミニンの香りを胸一杯吸い込みたいものですなあ。そういう、CM戦略に僕なんかすぐ引っかかっちゃいますねえ。第一号の部類でせう。引っかかって何が悪いの、と居直りもしたいですがね。どう、ご同輩?でもこういう絶世の美女たちにもそれぞれ夫や恋人が居るわけだからねえ。どういう男子たちなのだろう、癪だねえ。

今回の6名では、ぼくはありさ観月さんにはもう一つ関心が薄いのですが、他5名は大将に鈴木京香、前衛に蒼井優、飛車角級に竹内結子と広末涼子、正に金将に仲間由紀恵という、豪華な配置だぜ。これに、木村多江とか滝川、黒川メイサあたりが、赤と白のTSUBAKIシリーズのように勢揃いしたら、垂涎して眩暈(げんうん)。さてさて、YOUTUBEで見た約4分弱の取材映像で、奇異なことに気がついた。最近の一般的な傾向だから、とやかく美女には言いたくないのですが、女神たちの敬語の使い方が過剰極まりなかったのだ。ぼくの愛して止まない女神たちですから、個々人へは、言いたくないのですが、ある人は「ロサンゼルス郊外で撮影させてもいただき・・」と。税金で撮影に行ったわけでもなく、オバマ政府に無理して特別な場所を借りて撮った訳でもないんだよ。そんなにへりくだらなくてもいいんだよ。「私はダチョウと撮影させていただいた」といった美女もいた。おいおい、ダチョウ倶楽部が何時からそんなに偉くなったのか。「・・に行かせていただき、ライオンの子供と撮影させて・・」スポンサーの制作費でアフリカに行ったのは事実さ、だけれども、視聴者やお客さんの前で「行かせていただき・・」は、発言の弁えが分かっていないよ。それは楽屋でスポンサーに挨拶する場面での言い方だよ。で、百獣の王ライオンは偉大だよ。でもさあ、前足が太い可愛い無垢なレオちゃんにまで敬語かよ〜〜。なぜ、ロスの郊外で撮影しました、と言わないのか。「私はダチョウと共演したのです」といわないのか。

もし、舞台挨拶にシナリオが在り、その段取りで進められたならちょっと非道い話だ。宣伝部と広告代理店の御客をなめた、むしろ愚弄した態度の、その反作用として生起した過剰な被害妄想だとしか思えない。ぼくが30年以上毎日乗車している西武線の車掌に至っては「ドアーを閉めさせていただきま〜す」と叫ぶ。バカじゃんかあ。ドアは「閉めま〜す」か「閉まりま〜す」でいいんだ。言葉は目的をふまえ端正に発すべきなんだ。バカ殿鳩山さんは、昔から過剰敬語で、つまり、国民を知らないから慮(おもんぱか)りすぎになり、過剰反応で、言われても喜んでいない国民を異常に奉ってしまっている。それは大金持ちの(悪気はないが)国民への無知から来ている。ということで、ぼくの大切な女神の皆さん、気をつけようね。

■ 最近、身体が古典を欲している。加藤周一さんの「日本文学史序説」を読みつつ、夏目漱石を読もうと思い立って、晃子の祭壇に積まれている「我が輩は猫である」「こころ」等を取り出した。その本を手にとって眺めていたら、この日本古典的名作をキチンと終わりまで何故か読了していないことが改めて思い起こされてきて恥じた。円地さんか、瀬戸内さんの「源氏物語」も読まずに昇天したくないし、「風姿花伝」「五輪書」も欠かしたくない。少なくとも専門家で無くても読める明治大正の名作は一応全部読もうと心に誓った。今まででも石川淳とか、藤枝静男、正宗白鳥、中島敦、石川啄木、泉鏡花とかそれなりに読み込んできたつもりだが、一万冊も蔵書があって、自分は今まで何を読んできたかと、焦心してしまう。日本の名著の未読の大穴が開きっぱなしである事が、悔しいけれど改めて明白だ。漱石も鴎外も龍之介、志賀直哉、有島武郎も部分しか読んでおらず、晶子や藤村、一葉などにいたっては、多分一冊すら読んでいない最低な読書傾向であったことが今更ながらわかる。

岩波や新潮などが少なく特に文庫本が少なく、みすず、河出、筑摩、技術評論、亜紀書房、工作舎、集英社、現代思潮社、藤原書店、白水社、朝日出版、草思社、国書刊行会、青土社、晶文社、勁草書房、ミネルバ、早川、イカロス、作品社、鹿砦社、美術出版社、パルコ出版、有斐閣などあたりが思い出すだけでも多い気がする。これじゃあ、日本の古典が少ないよね。今後は、限られた時間だからその分翻訳物を読む時間は減らさざるを得ない。でも長谷川宏さんのへーゲル全集の「精神現象学」などヘーゲルの主要なものだけは読まずに、死にたか〜ないぜ。資本論も分かりやすい新訳が出たら読むし、以前ブログに書いたがプルーストの「失われた時を求めて」も必須だしなあ、J・ジョイスも一冊も読まないのは、人生に悔いが残るし。61才のぼくがボケる前に何冊読めるのかなあ。100冊×15年=1500冊だけかあ。両手が使えなくなったら、ほとんど読書が無理になる。でも我がアップルか開発したiPADなら、身体が不自由でも、コンテンツさえ、売ってれば、読書可能かも。

■ なぜ、今の若い人は「ノウハウ」ばかり追いかけるのであろうか。先日、確かNHKで「男子の婚活」を伝えていた。すね毛を抜いたり、「お話教室」に通ったりして口説き方を学習・・・。おいおい、「就活」の後は婚活かあ。悲惨なもんだぜ。ここでは、このヒステリー状況というか「ノウハウ依存症候群」を少し論耕したい。ぼくは1972年ぐらいから、5年ほどそのころはときめく江副さんのリクルートに居た。正確に言うとそのころは東映でテレビドラマの「キイハンター」「アイフル大作戦」「刑事君」「プレイガール」の助監督をぼくはしていたが、僕らの東映での小さい急進的反主流派労働組合の闘いの都合上の「凌ぎ」で、僕はリクルートにいた。「トラバーユ」が発刊されたり、フロムAが創刊された、企業としてのリクルートに華があった時代、ぼくは、そこで映像ディレクターとかコピーライターとして仕事を始めていたのであった。そこには優秀な若い強者がたくさん居た。僕が24,25才の頃だ。

話が逸れるが、リクルートは東大新聞会の営業部の江副さんが「大学新聞広告社」として独立し新橋の森ビルの屋上のプレハブからスタートした、ベンチャーの走りな訳です。そう言う意味で、とっても画期的であり、歴史に名を残す企業となったと思う。リクルート(ぼくが居た当時は日本リクルートセンターと言った)が出来たので、ダイアモンドビッグ社が、文化放送ブレーンが、また日経ディスコが生まれた。つまり、業界というか新しい産業を創造したのだ。これで、今までの「大卒就職・・新聞広告か職業安定所かコネ」の流れが全く生まれ変わったのである。従って、企業サイドも大きく変容し人事部の社員募集と採用のシステムとスタイルを根本的に変革することになったのだ。無論構造的には時代の要請がそうさせたのだろう。しかし一種の革命児江副浩正がほとんど構想し実現した本物のベンチャーであった。だから、社内組織もフラット型(ヒエラルヒーでなく平たい体制)で、江副さんは社内で「社長」とは言わずあくまで「江副さん」であった。70年代初頭にそのような企業が他にあったかどうかは知らない。知らないが、新しい企業組織のあり方に先鞭を付け、何か次の時代を予感させる夢を創造したことだけは確かだ。

しかし、罪も重いものがあるぜ。この項はここからを言いたいわけさ。「学生が、学業や探究をそっちのけで、企業に就職することが大学生の目的となり、血相を変え三年生から就職活動にあたふたとなる運命に引導した」罪はやっぱり、重いね。ぼくが携わった70年代の前半に「企業の調査」という言葉で充分なのに「企業研究」なるインチキ言葉を開発し、流布しつつあった時、ぼくはあきれかえったものだ。でもその「人をその気にさせるマヌーバー(maneuver)な言葉」を書き、媒体化していた一人がリクルートにいたぼくでもあったのだ。僕もその企業研究メディアに色んな原稿を書いていたわけだ。その結果というか、「就職狂想曲に躍らされ自分の主体性に自信のない大半の学生が、採用・面接技術だけへの偏執過多になり、企業サイドから深刻な事態だと警鐘が鳴らされている」現実になってしまった事についてここでオイオイ!と注文をつけたいのだ。最近、企業では面接を通るためだけに腐心する彼らを「攻略世代」とも言っている。この深刻な状況を作り出し、面接攻略だけの一群の、否大半の学生群を結果作り出したのは、やはりリクルートと言えるだろう。しかし、大半の罪は言い出しっぺ、先駆のリクルートにあるのではなく、それに乗せられ大学生の本来の意味を見失った企業と大学と、学生当人にあると敢えて言わせていただく。

若者だけでなく、30歳代の人間も電車の中とかを見ていると何かのハウツー本を読んでいる人をよく見かける。どうして、安直に方法と答えを求めるのだろうか。本当に不思議でならない。自分で考え、自分なりの方法を確立した方が楽しいし、オリジナリティーをみんなに認めてもらえるわけで、先生と言われる他人が適当に、部下や弟子に書かせた「魂が無い」本を読んで何が、何処がどうして参考になるのだろうか、そんな幻想を持つこと自体が不思議としか言いようがないぜ。本質を極めないで(極めようとしないで)、鋭いノウハウなど習得できるはずがないじゃん。俺なんか、30年ぐらい前かな、会社の設立の本と、確か税務の本を買ったぐらいしか、覚えてないよ。

まあそれは良いとして、企業の求める人材はハッキリしている。将来性が見込め優秀と思われる少数の人材(こういう人物には主体性を発揮できるような環境を与え個性を引き出そうとする)と大半の普通の人間と可能性の見込めない人間(これらには、ルーティンな作業を唯諾々とキチンとこなせる様に育成する)とをバランス良く採用する。ただそれだけです。ぼくがリクルートに居た時分と人事や組織、採用方法は大分変化した、確かに大きく変わったが、欲しい人材の本質的なことは不変と言って良い。平たく言うとこういう事です。これ以上でもこれ以下でも無いんです。東大や早稲田、慶応、優良国立ばっかり大量に採用していた東京海上は入社後の熾烈な争いで、自殺者が極めて多い企業として、70年代は一部に知られていた。そう言うこともあって、採用の「層のバランス」にも理があるといえば、あるのだ。

良いとか悪いとかじゃあ無い、組織とは、どうしてもこの様になる。こういう企業の現実の中で「僕ら普通の人間」は、問題はどう仕事上で闘っていくのか、なのだ。そのためにはノウハウがある(あははは、自己矛盾)。でも、このブログは、就職期の若者が読んでいないので、敢えて書かないよ。ただ、企業の人事部の目はもの凄く肥えており、粉飾は瞬く間に見破られると言うことさ。大切なことは、入ることじゃあ無く、入ってからの20年ぐらいをイマジネーションできるかどうかとだけ、ここでは言っておこう。企業研究などすぐ止めて、自分研究を直向(ひたむ)きにね。むだ毛剃って合コンに出てどうするの?自分にはムダな部分なんかありはしない、と開き直ってくれ。人間は十色だ、たで食う虫も好き好きさ。「ノウハウ依存」を脱する事から始めてくれ。就職も結婚も言わずもがな、ゴールじゃあないんだ。でも、本当にあれだよなあ、自分に自信を持てず、いつも不安に苛まれている現代青年は本当に不幸だ。気の毒と言うしかないねえ。ベトナムにでも、来いよ!毎日刺激だらけだぜっと、一応言ってみるか。さてさて、溜息は出てしまうが、何も悲嘆に暮れることもないよ。教育政策と社会政策(多様だが)を”志ある”テーマを決めてキチンと執行すると、10年後には子供たちの生活態度や学習能力が目に見えて向上することは、北欧やフランス、イギリスなどの例でハッキリしている。

2010年3月31日水曜日

いきなり有名、生方さん

俺がこんなに強いのも当たり前だのクラッカー。僕らが中学の頃、一世風靡した藤田まことさんのコマーシャルフレーズだ。多勢に無勢でも、立ち上がるときにやらねば、何時やるの。民主党の生方(うぶかた)は、元早稲田の全共闘(で、多分解放派系)だよ。あれぐらいの反旗は当たり前だのクラッカーだよナー。それぐらいはやらないと、全共闘あがりの政治家として、恥だよね。当時の記憶ではかなり童顔の人であった印象であったが、最近のテレビでは”内蔵助”が相応しいくらいのサムライ顔になっているね。結構凛々しく画面に映っている。ところで高嶋とかいう「筆頭副幹事長」の面(つら)があまりにも貧相であったので調べてしまった。
時間が無駄なのにね。やっぱー労組(ろうくみ)あがりのようだ。まさしく馬鹿面だものね。小沢が凄いのは、党内で人数の少ない小沢の自由党系(かつての新進党など)を膨らませるには、頭の悪いかつての労組あがりの日本社会党系を騙せば、かなりの党内磁力を発揮できると踏んだことであろう。赤松とか、輿石とか、社会党を「右旋回」して裏切って来た連中の脆弱心理を鷲づかみさ。赤子を捻る何とかのレベルでの党内権力掌握。流石は天下の田中派さ。まあいい、生方さんの次の一手に注目したい。テレビに引っ張りだこに一時的になっても、ながもちはしない。バカ殿鳩山をけしかけて、腰抜かす「普天間案」とか、ぶっ飛ぶほどの成長戦略構想、またアジア共生ニューディール施策などを打ち出さなければ、一時のスポットおっさんで終わるぜよ。やや頼りない海江田も慶応のフロントあがり。仙石さんは東大のブント系らしい動きが最近垣間見れる。民主党、変わらなくっちゃあ。このままなら、自民の河野太郎らのグループの方がまだマシだぜ。

3月中旬機上でリチャードギアの「ハチ公物語」のリメイクを見た。こういった思わせぶりな涙作品は昔から嫌いだ。安直の権化だぜ、と言いながら、途中だが見始めた。それもレシーバーをもらって居ない環境で。つまり音無で、途中から見始めたという訳さ。サイレント映画と同一条件での観客と相成った。今までの機上のビデオ映画の鑑賞で隣席の人の目も気にせず大泣きしたのは2年ほど前に見たジョニーデップの「ネバーランド」だが、この「ハチ公」も正面から正攻法で涙腺を刺す。これでもか、という「フジテレビドラマ」風な厭らしさがまったく無かったので、涙が止めどなくこぼれた。映画の品質が良いと言うより、直(ひた)向きに待つハチ公という犬の無垢な気持ちが、心を打つ。敢えて言えば、ハチ公という伝説のそして、映画の役としてのハチ公でなく、演じている白い秋田犬その「本人」の持っている無垢さ、純真さが、リチャードギアほか人間の演者の演技を遠慮無く超越出来ていた。信じる事の尊さ、ひたすらに待つという静かな熱情。僕たちがとっくの昔に忘れ去り、何処かに置き去りにしてきた大事なことを犬の瞳が思い起こしてくれる。説得力ある映像はやはり、サイレントにも耐えられるんだね。音が普通に聞こえていたと、途中から錯覚してしまって居たくらいだった。

先日、久しぶりにホーチミン市に商用で行った。ホーチミンは元々大統領の名前だから、通常「市」を付けて区別し、ハノイは、通常HNと書きCITYは添えない場合が多い。だからホーチミンはHCMCと略す。最後のCは、CITYである。午前中に重要な会議があり、それはともかく上手く進展し、午後の次の企業に訪問となった。会議の場所からこの企業の工場は結構離れていた。11区から7区への移動であったが、大分遠回りをしないと行けない様で300000ドンぐらいタクシー料金がかかった。1500円超だから、結構な距離となった。が、目的地が工業団地の中で、帰りの車も探すのもやっかいと思ったので、待たせてまた乗った方が楽だな、と判断し丁度ランチタイムであったので、タクシー運転手にも、ランチご馳走し一緒に食べた。終わってもまだ相手さんの約束時間まで30分ぐらいある。そうしたら、運転手がお礼にコーヒーを飲みに行かないか、それは俺が払うと言ってきた。それは嬉しいし、じゃあ行こうと言うことで、工業団地の入り口のイタリア人らしい男が経営しているカフェーに入った。レジに居たちょい悪風イタ公オヤジがぼくにチャオと言った。ベトナムのCHAOなのか、イタリアのCIAOなのか、分からないが。

運転手の青年は注文してくれたり、運んでくれたりといそいそと動いてくれる。なかなか良い奴じゃん。お互いの意志の疎通は、双方の片言な英語だ。だから、話すのが面倒で沈黙が二人を支配して、ただ黙々コーヒーを嗜む時間が多かった。でも、どうも大学はかつて行ったらしく、今は仮の姿のようで、何か次のやりたいことに向かって準備中の様である。なるほど、良い奴じゃん。で、ぼくはオシッコに行こうと腰を上げようとしたとき、ふと次の動きをどうしようか迷いだした。PCや財布などが入っているショルダーバックを肩にして、立ち上がりトイレに行こうか。いやあ、それは、コーヒーを奢ってくれた人の良さそうな青年にあまりにも失礼じゃあないか。もうかれこれ1時間半ぐらい一緒だし、安いランチに対して、ほぼ同額のコーヒーを勧めた青年だぜ。それじゃあいくら何でも、カバンがとても心配で、持ってトイレに行きますと、あからさまに言うも同然じゃあないか。ちょっと、それはないぞ。でも、でもだよ、万が一トイレの留守中にこの青年にカバンごと盗まれたら、これは、最悪だよ。お金はまだ良いが、あらゆる資料データが入った我がMACが無くなったら、俺の人生どうなるんだべ。心配の神がぼくを覗いて強く言った。でも、タクシーで犯罪はしにくいだろう。ぼくは客として後の席からメーター近くにあるタクシー会社の名前入り掲示を見ている訳だし、この青年、それを無視するほどの馬鹿者には見えないし、人は信じるべきさ、とヒューマン神も強く反発している。どっちにも一理はあるが、やっぱー青年の心を傷つけたくないな〜。で、その時、僕の常連のアイディアの神がいきなり舞い降りてきて、オシッコを我慢することにしたさ。既に苦しいほどにぼくの膀胱は悲鳴を挙げ始めていたが、アイディア神の「お告げ」なので仕方なくこのままお客さんであるTAZMOさんへ彼のタクシーで向かった。

2010年3月30日火曜日

★ 僕流アミニズム / 僕の岡本太郎体験 / テレ朝「サンデープロジェクト」の打ち切り

■ 先日、3月中旬に鎌倉の鶴岡八幡宮の大きな銀杏が倒壊した。神社仏閣に不案内なぼくはニュースで知っただけで、とりわけての感情も湧いてこないが、ご近隣の主婦がかわいそうにポロポロ涙をこぼしながら自分の人生と照らし合わせてカメラに向かって語っていた。おそらく「ともかく取材してこい」と言われるままに来たとみられる無能そうな青年のインタビューに答えていた。最近の情報だと、「今まであったそばに移植し若い芽の成長を見守る」ことになったようで、産経新聞などは「今後1000年間参拝者は、同時進行でその生育を目撃出来よう」とか、かなり大時代的表現で伝えている。また、そのちょっと後、昨今のLEDの時代に押されて「マツダランプ」でお馴染みの電球の製造が老舗東芝で終了したこともニュースになった。中小の他社では、しばらく継続されるようだが、あのエジソンが創った暖かそうな色合いのフィラメント付き電球とも僕らはいずれおさらばする事になるらしい。ニュースでは、数十年にわたってこの白球電灯を地味に製造してきた「機械」様に東芝の現場の社員たちが神妙に手を合わせ、涙していた。樹木に祈る。機械にさえ涙する感性。解る、分かる、その気持ち重々に分かります。神社や仏閣が継承してきたいにしえからのご神託の神木とか御石とかは、天の邪鬼のぼくにはもう一つ心の乗りは悪いが、故郷の森や山河また、長らく愛玩してきた物に畏敬や生命を感じて祈る姿は、とっても分かります。

何を隠そう、ぼくはかなりのアニミズム派なのです。ぼく流の解釈でそれは、あらゆる事物に生命が宿っていると考えることであり、モノによっては神すら宿っているという伝統生活に根ざした文化の事だ。山や岩、巨木は言うに及ばず、いま目の前にあるコップ、薬瓶、カメラ、時計、鉛筆とかボールペンにも何らかの生命というか「人格」が、有るだろうとぼくは思う。いや、在るだろうと考える性癖、否もっと正確に分析すると、そういう感覚がぼくの生活と思想の起点を為している様なのである。これは、子供の時から随分と長い間続いているぼくの生の感性なのだ。これに関しては親爺とか、誰かの影響を受けたわけではないし、幼少期にそのような影響を与えるような本を読んだわけもない。いわば、性癖に近い感覚なのだと思う。

先日テレビで「熊野参詣」についてのドキュメントを見た。所謂、神社神道に収斂されないもっと原初的なアニミズムの世界であった事についても解説もしていた。僕ら人間は、何故に自然や事物に命とか神の降臨をみとめるのか、そして何故祈るのか。人は自然界に神の存在を認め、何故対自化するのか。そして祈ることで何を解決しようとするのか。日本人は何処の森から来て、何処へ去ろうとしているのか。その森に生命が在ったのではなかったか。さらにそこは密度の高い祈りの場ではなかったか。ぼくのなぞは深まるだけで、むしろ言葉で綴る答えも必要としていない感もあるような・・。日本原住民、縄文人、大陸から来た文明的弥生人たちが、何万年と培ってきた生活のなかの様式の一つの祈り。その祈りや生命への畏敬は森や山岳、海原の中から現出してきたものなのだろうと思う。世界のあらゆる生活の場に祈りはほとんど同じ意味合いで発生し、現代に連なっている。その祈りは、時代が変遷し、さらに異文化の流入も相次ぎ、さらには地球上のエントロピーの増大が急激化し、あらゆる事象が猛スピードで変化していく時代になっても、祈りは、綿々と静かに伝承し、継続されてきた。そして現代はその環境の中で、民衆はむしろ祈りに対する関心というか、内的な誘導を強めていると思えることが多い。

ぼくが中学校の時、高校の受験を目指して、毎日学習に励んだ一時期があった。その時、ぼくはぼくに付き合ってくれた辞書とか、鉛筆、あるいはノート、教科書、消しゴム、デスク、イスに至まで、ぼくは感謝の祈りを捧げていた。ぼくの祈りはお寺さんや神社での手を合わせた祈祷とは違い、黙礼のようであったと記憶している。ぼくはいつも机上の本とか、ノート、鉛筆まで全ての物は、毎日勉強終了時に整頓し、一カ所に集め、本とノートが机上で離ればなれにならずみんな一緒に手を繋ぎ、イスまでもデスクから離さずデスクに触れた状態にし、寒さ対策で着ていたちゃんちゃんこも丁寧にイスの背もたれに掛け、離れたところに在った消しゴムも、キチンと辞書さんとかノートさんと触れるところに置いてあげるのであった。お世話になった人々に感謝すると同時に消灯後真っ暗な子供部屋で、大切な文具さんたちに不利益がないように、孤立して寂しいことも無いように、配慮しそして就寝していたのである。
永い人生の歩みで幾分老獪になった今は、その所作はほとんど無いが、僕の体内に流れている感覚は、そう薄まっているわけではない。

今年になって、無垢とか無為について少し書いた。そのことと同じ軌道にこの「祈り」と何にでも命が宿っていると思う感覚が現在のぼくの内部に静謐に漂っているようである。

■ 大阪万博の40周年だそうだ。♪♪「こんにちは、今日は、世界の国から〜〜」の三波春夫の万博音頭も耳奥に甦るね。確かぼくが短期にいた日活撮影所から、練馬大泉の東映に来て間もないころであったはずだ。ぼくが早稲田を中退し仕事を始めたまさに1970年の3月だ。ぼくより年長のスタッフが、「万博行きたいね。面白そうだ」とかほざいたので、当時のぼくには”こういうバカな祭典は、日本帝国主義の子供だまし”程度にしか理解していなかった青っぽいというか、狭量な左翼急進派のガキとしては、瞬間湯沸かし器のごとくに沸騰し「インチキ祭りで、ほいほい浮かれるんじゃあないぜ」みたいなことをその先輩の特機(撮影のためにカメラをカメラマンごと乗せて、移動するトロッコ状の特殊な車を扱う人)の兄ちゃんに言い放ち喧嘩になったことを思い出す。まあ仮にそう思ったら、そう思ったでキチンと丁寧に説明すればいいものを、そう言う過程も七面倒くさいフテた苛立ちと、その幼稚な対処の仕方を恥じるね、40年前でもね。

万博と言えば、太陽の塔だ。岡本太郎さんだ。青山のこどもの城に在る作品も、世界のいくつかに設置されている一連の作品も、全部似ている。同じといっても良い。頑固なのだろう。言わば絶対進化なぞしないぞという頑固さ。そう簡単に世情に連動して変えてなるものか、俺はこれだけで行く、というこういう孤高の個性が、言葉を換えれば、芸術って奴さ。この一貫したアホさがなけれ世界の芸術界の頂点には立てない。ダリもピカソも顔を見ただけで、その常人でない何かは分かるよね。その常人でない同族の士、世界の「TARO OKAMOTO」と南青山のアトリエで1対1で面談したことがある。1980年代中半であったと思う。

正確に言うと3人での打ち合わせであった。事実上の奥さまで、長年秘書をされている美しく気丈夫な佇まいのその筋では超有名な敏子さんも仕事だから当然同席された。ぼくは当時ある企業の大型のイベントのプロデューサとディレクターを兼務で仕事をしており、縄文文化をいわば、大爆発させる構想で企画を推進していた。縄文なら、縄文大好きな岡本先生にも一部加わっていただこうと、生意気にもアトリエにお邪魔したと言う訳なのである。先生から「縄文車」を創って、都内を駆け回ろうというアイディアも出た。乗用車に「縄文的な設えのデコレーション」を施して、縄文車を作る訳だが、警察の許可が全く取れず往生した。また、ホテルの中に縄文的なイニシエーション空間を作り出し、お客さんを集めた衆目の中で美しく幻想的な儀式を執り行うなど、企画は先生とお会いして一挙に進捗したことが思い出される。

当時の南青山のご自宅兼アトリエは、現在のようにカフェーなどが併設されておらず、静かで広い庭のお屋敷の様相であった。ファサードを進み玄関に入ると岡本太郎先生が出迎えてくれる。あははは、勿論ご本人ではない。精密なレプリカだ。確か赤い服をお召しの人形であったような記憶だ。やや暗がりの玄関口ではあったが、一瞬どきりとさせるリアリティがある。先生らしい遊びなのだろう。それはどなたか有名な方からのプレゼントだとも先生は言っていた。庭には、芝生の上に色々な動物の造形の作品と太陽の塔の小型のような作品も数多く、かなり無造作な印象で展示というか、設置されていた。先生の年表を今紐解くと、ぼくがお会いしたときは74,75才で在ったようだ。が、「芸術は爆発だ」の叔父さんは、全く衰えを知らず、若造のぼくにアイディアを惜しげも無く、息継ぎも忘れたようにまくし立ててくれたのであった。紛れもない不世出の天才とは、こういう御仁を言うのであろう。

岡本先生と敏子さんとは、その1,2年後に飛行船研究会という空にロマンを求める人たちのグループの忘年会(か、新年会)で、再会した。当時ぼくは日本で本格的飛行船を製造・運行しようとされている方に賛同して、いろいろ協力していたので、その関係で、またお会いできたのだ。長女が3,4才の頃、小平の広々とした霊園公園で遊んでいたとき、頭上から「ルルルルル〜」と軽快な機械音が聞こえてきた。ふと見上げると巨大な飛行船が、あのヒンデンブルグを想起させる飛行船が悠然と、さらに威風堂々と東に航路をとり進んでいた。その偉容は名状できない何かのイメージをぼくに植え付けた。「飛行船だよ。飛行船だ、これが飛行船なのか」と娘に語るように自分の感嘆詞をつぶやいた。それが研究会入会に直結した。

■ 3月28日の日曜日自宅でいつものようにTBSの「爆笑問題のサンデージャポン」と「田原さんのサンデープロジェクト」のどっちを見ようかなと思ってザッピングしていたら、「サンプロ」が最終日であることが分かった。民主党の管と亀井の言った言わないのアホな水掛論をやった日だ。田原総一朗さんには、昔とてもお世話になった。このブログの2008年11月23日にも少し触れたが、彼が岩波映画製作所から、東京12チャンネルに移動して、「青春の映像」などそれまでのテレビではあり得ない、逆に今は絶対にあり得ない「青春の戦いを恐れず突き進む群像たち」の応援歌的なドキュメンタリー番組であった。同番組の仲間の作家たちも異端で凄烈な戦士たちが集まり一つの闘うドキュメンタリストの徒党が現出したのであった。その後1970年になり、田原さんはテレビ東京で干された状況となり、ぼくがお会いした時には退社され、テレ朝の当時の大人番組「トウナイト」の政治コーナーなどを仕切り始めていた時分であったと思う。

関係者に聞いたら、ぼくは全く知らなかったが、去年の年末には「サンプロ」終了がきまっていたらしい。テレ朝の新社長である早河氏は、サンプロより永い長寿番組「朝まで生テレビ」という深夜から朝にかけての時間帯に政治や社会をとことん論じようと出来たテレビ史に刻まれる番組のプロデューサーであった人だ。ニュースステーションを創った人でもある。いわば、田原さんの同志的パートナーだ。その彼を社長に押し上げたのは会長の君和田氏だ。有名なドンであり、田原嫌いは周知だ。去年田原さんは、全く正直に「北朝鮮に拉致された何とかさんは、外務省も実はその死亡事実を知っている」と発言したことで、拉致家族会とかいう団体から圧力が君和田社長(当時)にかかり、これに乗じて喜々として君和田は田原排除に動いたらしい。田原さんの盟友だが、サラリーマン社長早河はそれを止め得ず、番組が打ち切りとなったということである。

田原さんは、番組中相当ぶれた発言もするし、一見天狗になってしまったような素振りさえ感じることもある。日本を代表するジャーナリストの「現存の」代表者の一人には違いないが、自民党や民主党など、また官界や経済界とも、危なっかしいと思われる付き合いも多い。見ていて「なんなんだよう〜」とうんざりさせられることも実は多かった。ジャーナリストの概念とおさらばしつつ、今は亡き竹中労のトップ屋的な面と政治評論家的な側面も併せ持っている田原さんは、昔から言う清濁併せのむ”立ち位置”を自然に確立してきたのであろう。理屈はもう良い、彼を支えているのはストレートな怒りと言い切って間違いない。
BS朝日で新番組が始まるようだが、朝日のBSなど誰も見ていない。でもだけも見ていないチェック不能な時間帯の番組の良さで、ラジカルに何でも可能だろう。ご自愛しつつも更に過激に、そしてストレートに怒りを噴出させて欲しい。ジャーナリズムは乱暴で無遠慮で、品格などない方が良い。真実は多様な価値の衝突現場から、目視不能な現場から、意外な場所からビームを発する。

出版の予定があり、調査でハノイ市内の大手書店を見に行った。前より単行本のデザインが明るくなり種類も多種多様になってきた事がハッキリ分かる。日本語関係の棚に寄ってみた。大分辞書なども充実してきている。5メートルほどの長さの棚は、それなりに配慮された配置にもなっている。その向かい側に韓国語関係コーナーがあり、日本語コーナーと棚の面積と扱う数量は同等かな。だが、だが、中国語コーナーは、何とざっと3倍はあろうか。日本語の棚の3倍以上の面積を中国関係の書棚が占めているのだった。中国語熱というか、その勢いは知っていたが、書棚の大きさでその差が歴然としていることを思い知らされた。スタッフのNGOCさんにかつて居た外国語大学のその時代の各国学習者の比率を聞いた。勿論英語は必須なので、欄外だが、彼女が言うには当時「中国語学習者人数を仮に10とすると日本語学習者は2か3。コリアは1だ」そうだ。彼女は今28才。したがって、このデータは、6年前の事になる。中国語熱はもちろん、この間に冷めている訳はないので増加は想像に難くない。かなりの脅威ということになるね。彼女はこうもいった「漢字は大変だが、文法が簡単で、覚えやすいようです」と。ムムムムムだね。

2010年3月5日金曜日

親爺の94年



ぼくの親爺が死んだ。3月1日朝方、仙台の実家の近くの病院で逝った。大正4年生まれ(1915年)の94才であった。この10年以上同居の弟夫婦が84才の母も含めて面倒をすべて見てきて貰い、僕はたまに訪れるだけなので、実は父の死に実感があまり無い。言いにくいのであるが、まだリアル感が起きてこないのである。今もハノイにいる僕は、彼の死を見取る事も、葬式にすら出席していない(3月6日土曜日)。現在観光シーズンでチケットがキャンセル待ちすら入手できない事情でそうなってしまったが、そんなことは理由にならない。しかし、恐ろしいほど僕は冷静で、弟夫婦に喪主をお願いし、娘はるひ(33才)と息子の一行(29才)に家督である僕の名代を頼み、ハノイの自室の祭壇にベトナム独特の太い線香を毎日手向け、親爺の在りし日の表情や動作を思い起こし、亡くなった妻晃子と代わるがわるに過去のイメージを引っ張り戻しその脳裏の中に鮮明化された五十歳代ぐらいの親爺の相貌に「お父ちゃん」と声を出して祈ることで、自分なりに良しとした。ここに評伝(らしいもの)を書くことで、僕と親爺との愛情と相克を思い起こしたいと願う。           
* 写真は1955年(昭和30年)秋と思われる。私(中央)が小学校1年で7才、父が40才、母が31才。右が年子の弟で、赤ん坊は生まれてまだ半年の三男。

【評伝 阿部六郎】
あべろくろうは、大正4年宮城県仙台市で12人兄弟の六男として生まれた(11人説もある)。父親は阿部太助という宮城県の県議会の議長で、有力な政治家であったようだ。仙台で一番の繁華街は「東一番町」という。その一番町の中央部に実家を持ち、東一番町一帯の多くを所有していた。が、僕の母によると、12人兄弟の家督で市議会議員や不動産業を営んでいた来太郎が、仙台ではちょっとした有名人なので毎日芸者をあげて遊びに遊び呆けた結果、多くを取り巻きの連中に騙されたりして手放してしまったようで、やや口惜しい様にそれを大昔に言っていたことがあった。しかし僕の子供の頃でさえも松竹文化ビル(松竹系と洋画ロードショーの高級映画館があった)と横町挟んで新東宝系の中央劇場(現在は中央ビル)とその周辺の横町(小路)の商店街など主要な一角は所有していた。

僕たち六郎一家はその中央劇場のスクリーン裏の長屋に当時住んでおり、僕は3才から5才の小学に上がる前、ここの良好な映画環境の中で過ごした。それを解りやすく言うと、我が家の廊下にあるいくつかの穴から中を覗くとスクリーンの反対側ではあるが、暗がりの中に映画の世界が広がっていたんだ。今は無き「新東宝」系だからいつも鞍馬天狗とか、東千代介ものとか宇津井健の「スーパージャイアンツ」とかが架かっていた。来太郎叔父は確か立教大学の野球部あがりである。長嶋や本屋敷、杉浦ら後輩の活躍する東京六大学のエピソードを僕が幼少時、テレビを囲んだ本家の、ロータリークラブの額入り標語が欄間に架かっていた大きな茶の間での団欒(だんらん)でいつも嬉しそうに何度も話していたような気がする。親爺はいつも「六ちゃん」と、ぼくは「正坊」と叔父に呼ばれていた。その大家族の団欒には、何故かいつも見知らぬ客人がいたものであった。
彼はハンサムで豪放磊落な人物であった様に僕には見えた。その来太郎叔父の奥さん、つまり僕にとっては本家の叔母様である操(みさお)叔母さんはとても艶やかで美しい人であった。東北には珍しい江戸っ子風情の女性で、気っ風も良く僕ら分家のガキどもにはお小遣いの有力なルートの一つであった。母によると、叔母さんは東京の弁護士さんのお嬢様とかで、田舎町仙台の豪族に嫁入りしたので、出の良いお嬢様にとっては精神的に苦労したとかでかつて同情的に言っていたことがあった。
本家の子供は四男一女の五人いたが大概なぜか高校から慶応と慶応女子に行った。僕らと仲の良かった同世代の四男の和夫さんは、父親似で大変美男子な人で慶応からフジテレビに行った。現在、岩手辺りのフジテレビ系放送局の社長をしていると聞いた。

さて、親爺の「評伝」なので話を父に引き戻す。東二番町小学校時代、おそらく大正末ごろだろうか、クラス担任の教員から、あらゆる事で意地悪を露骨にされたらしい。金持ちに対する僻み(ひがみ)のような事だろうか。徹底していた様だが、気丈夫な女中が毎日付き添いで登校してくれ、休むことはなく対抗して通学していたという。中学校は当時中学校であった仙台育英に。その後東京の旧九段高校の予科というクラスに入り、青山学院に行ったようだ。学究的な父六郎は家督来太郎が継いでいた実家に馴染まずに反抗することが多く、早くから仙台を離れたかったらしい。その後、日本医科歯科大学、九州大学、広島大学など早稲田に行き着くまでに五つほど大学に短期的に入り腰掛け的に浮遊していたようである。

大学は七校に行ったと語った父の話はかなり鮮明に覚えている(ちょっと普通の話じゃあ無いからね)。各大学の授業料とか生活はどうしていたのか、つまびらかにはならないが、かなりの余裕が在ったのであろう。実家には寄りつかなかったが、それにしても、普通じゃあない身分であったのだと想像できる。で、最後に早稲田大学文学部心理学科に入学し、博士課程にも進学した。しかし、先輩か、教授と反りが合わず、やや孤立気味になり中途で辞めたのではなかったか、僕の記憶は曖昧だ。マスコミにも良く出ておられた本明寛さんが同輩か後輩に居たようだ。阿部六郎が学業を終え、郷里で教員になったのは1946年(昭和21年)32才である。つまり、普通の大学生より早稲田の大学院を含め約10年間自由に学んでいたわけだ。

仙台を出て、あちこちの大学で流浪していた風来坊的な彼が何故この時期に仙台に定住することになったのかは良く分からない。が、宮城県北部の漁村志津川村出身で仙台中央部にある花京院通りで、日本専売公社とか森永製菓の代理店をしていた旧制仙台一中出の数学マニア阿部憲助の長女で仙台二女とその後常磐木学園に行った目鼻立ちがハッキリとした可憐な娘愛子とお見合いしたことが、間違いなく大きかったのであろうと思う。早稲田の心理学の大学院から見合いのため戻ってきたのが終戦直後の昭和21年ですぐに愛子と結婚。僕正行(昭和23年8月生まれ)文明(昭和24年)、高也(昭和30年)の男子3名が生誕した。帰郷と結婚と同時に六郎は、最初東北学院の英語教員として就職した。
この終戦後の2年間は帰郷、就職、結婚とめまぐるしいほど忙しかったと思う。だけれども平和ニッポンの全国的な明るい活気と相まって、充分過ぎるほどの幸福感が阿部六郎と妻愛子に天与されていたのではなかったろうか。父と母と僕ら3人の兄弟の昭和20年後半から30年中葉までの白黒写真にはその幸せを享受していた市井の若い教員の小さな幸福が素直な表情の中に現出している。おそらくは、僕ら団塊の世代が持っている無数の古いアルバムにも同様な家庭写真が輝きに充ち満ちて各頁に貼付されているに違いない。

東北学院はキリスト系の高校であったので、当時の教員の集合記念写真には、米国人も散在しており、バックに映っている校舎に刻印されている標語は「LIFE LIGHT LOVE」とある。
六郎は学院に数年間在籍した後、宮城野地域にある仙台工業高校で同じく英語教員となる。僕が松尾神社幼稚園に通っていて物心付いていたときは既にその市工高の教員で、1953年頃に福沢町に新婚に相応しい自宅を新築した。白とくすんだ赤を基調にしたツートンカラーの洋風のガラスのテラスもあるハイカラな家であった。屏(へい)は木製の白い柵で、そんな家はここら一体に全くなく、近隣のしもた屋の家の佇まいに比べかなりあか抜けていた。僕ら兄弟は、そのような西洋風なデザインを選択した父の指向性を良しとするセンスを自然と受け入れていたと思う。周囲には田んぼと森しかない新居から、出勤してあぜ道を歩いて行く父に「いってらっしゃあ〜〜い」と4,5才の僕と年子の弟が大声を架けると、まさしく点景となりつつある遠くの父が大きな仕草で手を振って応えてくれた記憶が鮮明に甦る。当時、労働組合の活動など戦後民主主義の謳歌の環境の中で父は高教組に入っていた。活動家でもリーダーでも管理者でも全くなかった研究肌の父であったが、明るい未来に希望と夢を託している若い英語の教員の姿には、愛子や僕らから見て、おそらく目映(まばゆ)いものがあったはずだ。

少年である僕を彼は一貫して「正行君」と呼んでいた。子供でも人格が有るという考えなのであったろう。でも、僕の友人が僕にこっそり「お前の親爺は息子にクンを付けて、他人行儀だべ〜」と言ったことがあり、僕は悔しくて父に激しく抗議したことがあった。父は仙台工業高校から、仙台商業高校に転勤したのは、僕が上杉山中学の頃だろうか。その後、僕や弟の文明が仙台第二高等学校に入ったので、父の通勤と僕らの通学が学校同志が隣接していたこともあって、時々一緒に家を出たりしたものであった。当時は全く思念が及ばなかったが、たまにではあれ、青年になりつつある息子たちと肩触れ合い連れだって、また満員の市バスに一緒に乗車して職場に向かう父の胸中には、家庭を持つことの尊さや特に語ってはくれなかったが、息子たちとの大切な思い出として、永く脳裏に納められて居たのでは無かろうか。
仙台商業高では、英語だけでなく、倫理社会とカウンセリングルームを預かっていたと思う。

ところが、1970年前後に自殺を予告して自殺をしてしまった教え子が出現し、父に大きな精神的なダメージを与えたことがあった。僕は東京に行った後で、大分経ってから母や弟から聞いた。アメリカの臨床心理学者カール・ロジャーズなどの本格的なカウンセリングを研究し、”共感”というテーマを実際に臨床現場で苦闘し、実践していた父にとっては苦しくて悲しい未曾有な初めての困難になったのではなかろうか。とりわけて、挫折感との戦いの経験が少ない六郎にとっては、自分の精神史に残った大きなエポックとなったに違いない。僕が東京で生活を始め、弟が京都立命館に行った後の父50才代前半の事であった。
父が、仙台高等工業専門学校(名取高専)に転勤したのはその後だと思う。高専では仙台のような地方の教育界にはほとんどいない本格的な心理カウンセリングの専門家として、カウンセリング専門教員になった。自分の本当にやりたい研究と臨床だけとなり、仕事の実践ということで言えばおそらく一番充実していた時期ではないだろうか。    《中断》どうも評伝にはならず、思い出のアラカルトだけになりそうで、熟考。書けない状態が続き、本日3月25日。続きは、4月初旬にハノイで記述予定。

2010年2月28日日曜日

ビートルズを聴きながら

先日、ハノイで友人のドマンホーンさんが訪ねてきた。彼は、ハノイ軍事大学と経済大学を出たあと桜美林大学で経済系の講師を務めている誠実を絵に描いたような青年だ。青年と言ってももう40才にちかい齢である。その訪問時、彼からとても覚醒のアドバイスがあった。僕は日頃から、ベトナム語は難しい。特に声(音)の読み取りが日本人に困難。また、日本人の発音を彼らは、完全に正確でないと、聴解してくれない(理解してくれない)と愚痴っぽく言った。うどん屋に行って「フォー(うどん)ください」と言っても不思議な顔をされたことがある。確かにフォーにはスペルに僅か違いがあるが「道路」という意味とかもある。だけれどさ〜、うどん屋で「道路ほしい」って言う奴はいないだろう?って、例をつかって解説した。

ホーンさんは、やっぱり他でも日本人に言われたことが在るのだろう、即僕の考えを否定した。おっしゃるには「日本人はベトナム語の単語しか言わない。前後のことをすこしでも言えれば、発音が悪くともキチンと通じるよ」という。確かにいまでは僕は「鶏(ga)のうどん」と言っているので間違ってミー(中華麺)が来ることはなくなっていた。「私」とか、「欲しい」とか、フォー「ボー(牛肉)」とか何か前後に付ければ、少々の音声のズレは問題ないという。そうかあ。日本人だって、外人から発音不明瞭に単語だけ、唐突に発せられたら困るものねえ。僕もちょっと傲慢になって、”単語だけで理解せよ!”と言っていたと言うことなのだろう。本当に猛省だね。ホーンさん、cam on。    *このcam onは 感(かん)恩(おん)から来ています。感恩ですから、「ありがとう」ですね。

先日NHKのドキュメントで立花隆さんと梅宮辰夫さんが出ていた。実は1月の再放送で、前回は見ていない前半も、今回偶然だが見た。作家であり、現代ジャーナリズムの押しも押されもしない巨星と東映の番長シリーズのお馴染み辰兄いの組み合わせが面白いね。二人とも茨城大学付属小中の陸上部で一緒だったという。僕が昔東映にいた頃、梅宮さんとは何回かすれ違ったことがあった。華のあるスターって感じであったね。梅宮さん、去年なくなられた山城さん、千葉ちゃん。あの辺りのいい加減で、映画少年な不良中年たちは一癖あって好きだね。千葉さんとは、「キーハンター」で何度も、山城さんとは数回、助監督のセカンドとして、当時ご一緒した事がある。1970年代の初頭にね。で、茨城大付属の二人は陸上部でその上、ハイジャンプの選手でお互いが競い合ったという。傑作だね。

二人に共通していることが、実はそれだけではないのだ。癌を患っているのである。梅宮さんのは、僕が東映にいた35年前のこと。立花さんは現在形だ。梅宮さんは癌になり完治したあと、ああ見えても銀座とかでの遊びは一切辞めて、毎日撮影所から一目散に自宅に帰っていたのだと、信じられないことを告白した。そうか、あの遊び人風情はプロモーションであったのだ。まじめで誠実な家庭人であったのだ。つまり、何時再発しても良いように家族中心の生活に完全に切り替えたのだという。番長、やっぱー凄いね。現在型の立花さんは「あと何冊書けるか。あと何冊読めるか」がいま一番気になることだと言う。70年代前半の「田中金脈」のドキュメントから始まり、政治、社会、宇宙、脳、生命誌まで、日本の知性を代表する思考と探索を重ねてきた。その立花さんの思索的文献があと数冊で終わるのだろうか。彼はいつものちょっととぼけた味わいの話し方で、「人生は思い通りにならない。思い通りにいかない」と語り、梅辰兄いも「そうだね」と静かな口調で同調した。

■TET(テト:旧正月)二日目の15日、僕は東京に戻る日だ。ブオンが友人の家に行こう、彼女が迎えに来る、といった。オフィスで仕事をしていた僕は、予定より遅れて学校の自転車でエッチラおっちら、ペダルを漕いでブオンの家に向かった。彼女の家のそばの路地に黒い車が駐車しており、そばにリンが立っていた。黒塗りの乗用車の持ち主らしいサングラスの男もそのそばに見える。「おおい、リン」とエッチラおっちらしながら声かけるとリンが「はあ〜い」とスマイル。ええっもしかして、もしかして。この車は・・・。丁度その時、ブオンと友人のフエンさんが、こちらに向かって談笑しながら来た。ブオンが「前会っているわよね」と改めて彼女を紹介し、ついで黒グラサンの夫を紹介してくれた。なにせ、僕は自転車片手のシェイクハンド。ベトナムの30歳代ビジネスマン夫婦が黒塗りの自家用車で、ママチャリで汗かいて来た僕のお出迎えの図。ふむふむ、NPOのボランティア稼業には辛い面が在るぜ。ブオンはニコニコ。ジェラシーの微塵も見せず、堂々と僕を誘い、車に乗り込んだ。えらいぞ、ブオン。いい女だ。

自宅は、白亜の宮殿とはいかないが、それなりの作りの小さいがシックなものであった。会社役員のフエンさんは、美人ではないがエレガンスな佇まいが魅力的な女性だ。片や夫はやせ形でハンサムでもなく、良くしゃべる男で、軽薄感は否めない。ブオンと同学年の奥さんだから、この遊び人風夫も30才後半だろうに、ハノイ工科大ともう一つ大学を出ていまは、何処かの社員というわけでなく、フリーランスで経営を手伝っているような、そんな軟派稼業の様だ。奥さんが「夫はいまでも、ガールフレンド何人かがいるのよね〜」と別に暗い顔にならずに宣う。丁度そのとき、それらの一人らしいかなりケバイ若い女が玄関から登場した。煙草をすぱすぱ吸った上、下種なGUESSのハンドバックをちらつかせて、子供らと遊んで風の如く帰って行った。僕とブオンはかなり唖然。僕が「奥さん、辛くないの?」と聞いたが、ブオンが「そんな野暮なこと聞かないの!」と通訳拒否。

でなんだかんだで、夕飯に。連日のベトナムおせちだ。ここのもかなり旨い。隣にすむ奥さんのお母さんが手伝ってつくってくれたそうだ。素材にこだわり本物の味を出した手作り、言わばスローフードだ。BIA、ウイスキー、ウオッカなどをしたたか飲んで、お別れかな、と思ったら、フエンさんが阿部さんを空港に送っていきますわよ、と嬉しい下知を夫に通告。結構酔ってる様だし、大丈夫かと思ったが、しばらく醒まして、一路ノイバイ空港へ車を飛ばした。ノリノリの若い主人は車のカーステレオから軽快なミュージックをガンガン送り出す。ブオンとの別れも(2月26日にはまたハノイ)10日ほどだし、明るく行こうと思ったら、ビートルズの「抱きしめたい」「ラブミードゥ」「ヤーヤーヤー」「シーラブズユウ」など初期の楽しい楽曲が連続してかかり始めた。ビートルズは僕らにとって特別な意味があるからね。ぶっ飛ばす僕らの車のサウンドが夜空に駆け散る。僕が中学校三年の時、「なんでだか、聞いてる女たちが、卒倒するんだべさ〜、四人組に」と、なぜか僕らの魂を騒がせる異国の最新情報をクラスの音楽通大沼くんが語っていた懐かしい情景が、流れる満天の星空に浮かんでは消えた。

2010年2月27日土曜日

テト元旦 ベトナムの”スローな”一日

16年ハノイに通い詰めて初めての事故であった。事故と言うにはちとお粗末な事故でしたが。昨日夜、ハノイに着いて、ブオンもリンも頭痛だというので、ビールでも飲んで何かつまもうと思って夜のLE THANH NGHIの街へ一人で出た。夜風が心地良いななどと風情を味わいながら車道の端を歩いていたら(歩道は駐車のバイクや商店の荷物で歩けない)、いきなり僕の右足に衝撃が走った。瞬間ぼくはよろけ、僕に後から衝突したと思われる女性のバイクが歩道側に半分倒れた状態で「きゃー」とか発していた。まともに前を見ていたら、どうして僕にぶつからなきゃならないのか不思議な事故なんですがね。仕方ないので、僕が彼女のバイクを立ててやり、路上に投げ出されたバックとビニール袋を拾ってあげ日本語で「何処を見てるんだよう!」と軽く怒鳴った。僕に謝罪も何も言わないでいる20才前半のピンクヘルメットの彼女に外人だけれど、僕は怒っていますよ〜、と一応表明しておいたのだ。

で、ビールの飲みたいので時間が無駄だと思い、彼女を無視して踵(くびす)を返してすたすた歩き始めた。足が結構痛いので近くの飯屋(コムビンザン)に入って、ビールとおかずを数点頼んで、古い脂が染みついた様なテーブルに着いた。ここの息子かバイトか解らないがどう見ても小学生の小僧がこれほど汚いウエス(雑巾)って、この世にないぜ、みたいなどろどろ真っ黒な布で、僕のテーブルを拭こうと、いや、力無くなぞろうとしたので、「NO!ビア、ニャインニャイン」とビールを督促した。今日はあんまり良い日じゃあねえな、と独りごつ。
2月26日の事でした。

さて、先週ドストエフスキー「罪と罰 全三巻」(光文社亀山翻訳版)のラストの詳細なる読書ガイドや年表部分も読了。昨日は機中にて中勘助の「銀の匙」を、今日は朝方「日本語は生きのびるか」(平川祐弘著)を読了した。「銀の匙」は以前ブログに記述したように灘高の国語授業として、1年間はこれ一本というNHKのドキュメントが読む切っ掛けとなった。明治の末期というか大正の初期というか、その時代の生活空間を子供の視点で微細にかつ子供の知的な思考にたって描いている。明晰な大人批判も心地良い。そしてそれだけでなく、軍国的な気風に走りがちな友人や教員への反発と批判も極めて冷静で鋭い。それを美しい彫琢と端正な記述を織り交ぜて終始させる才は凄い。この間僕は、疲れたときとか、身体が美しい物をもとめているなあと自覚したときに、この文庫本をひょいと取り出して読んでいた。40年前ぐらいに中島敦を読んだときに経験した文字を目でなぞるときのキリッとした感覚が何故か甦った。

「日本語は生きのびるか」はなかなかたいした著作であった。作者は知らなかったが「河出書房」の物だし、安心して読んでみた。文字文化の混淆とか、遣唐使遣隋使から、フルブライト留学生までの文化の交差を丹念に書いていて、僕の知らないこともおおく、興味を注ぐことが出来た。特に、著者が漢文、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語に精通しているようで、文化の混淆と言葉の生成の視点は的を得ている。多分彼の今までの大分な著作のエッセンスをまとめた物と推察できる。しかし中半に出てくる大江健三郎や加藤周一、また、それをもひっくるめた戦後の”有名”インテリゲンチャーや戦後左翼への批判がヒステリックで矮小だ。研究者とは思えないほど情緒的で、正面からの批判にまるでなっていない。むしろ著者がキチンとした批判が出来ない事を表明したような逆効果を生んでいる。

また、最後に出てくる「今後の日本の文化ソリューション」の章も唯フランスのエリート教育のマネに近い方策しか提案できておらず、貧相。調べたら、東大名誉教授である著者の先輩で同じく東大教授であった竹山道雄が彼の義父らしく、なるほど「この戦後嫌いは」家系のなせる技か。しかし、第二章までは、知識に溢れた著作であって、全体も批判的に読めば、知的なエッセンスが得られ1200円にしては良い本であると言っておこう。しかし心配もある、彼の最後の英語を軸としたエリート育成の構想への焦心は尋常でなく、ご自身が現在何らかの重篤な病気なのかも知れないと思ってしまう。さあ今日からは、加藤周一さんの「日本文学史序説」だ。去年秋に購入していたが、移転の騒ぎに段ボールの何処かに隠れていたが、先日ふと出てきたのだ。

先日、TET(旧正月)の大晦日(本年は2月13日土曜)まで書いておいた。せっかくの元旦と二日目もハノイにいたので、その関連を時系列で記しておこう。元旦はまず、ブオンの父方のお姉さんの家に挨拶しにお昼にリンとブオンの母と昨日から義母の家に泊まりに来ていたブオンの姉ディエップさんの長男(中学3年)と5人で出かけた。行ってみたら、ハノイホテルのそばの何度も通過した事があるエリアで、2年前もお邪魔したことを思いだした。その義父のお姉さんは亡くなられているので、今日の主役はその長男と次男でともに40歳代だ。長男は警察などの人脈が厚い武道家の様で、寡黙だし目つきも普通じゃあない。のに彼の女房が前もそうであったが、絹の高価なパジャマで現れ、ブランドのバックを見せつけたりする「お水」風な化粧の厚い女だ。これに比べ次男夫婦はニコニコで、愛想が良い。この日はたまたま、次男の自慢の可愛い娘がテレビのバラエティーショウに子役で、出演するとかで、お昼の宴は盛り上がった。因みに通常この様な宴は、テーブルを使わず車座になって胡座(あぐら)状態で食事をする。

ブオンの娘のリンは、日本で言えばいま小学校六年で既に僕より身長があり、真野響子が子供になったような風貌。とっても個性な瞳と顔立ち、そして長い黒髪の美しい少女である。最近母親に買って貰った赤いコンバースのバスケットシューズがイカしている。ブオンの自慢の一人娘だ。それで、かのテレビ出演で本日話題の親戚の女の子は実に可愛らしい4才少女で、言わばフォトジェニックな子。踊りや歌も出来るようで将来のタレント性に期待が持てる。テレビ業界に近いところにいた僕は、聞かれて思わず「恥ずかしがらずにまっすぐに相手を見て、ハキハキと話せば、すぐ次のオファーが来るさ、楽しみですね」などとお追従。僕って人がいいのです。

家族や我々13〜14名が円陣になり座して囲んだ中には、豚、牛、鶏の丸焼きから、サラダまで山盛り。ベトナムの食堂では、中国同様「味の素」が大量に使用されている訳ですが、自宅は全く違う。素材を厳選し、鶏や魚を一晩煮込んでの出汁とか、本当の”スローフード”が楽しめるんです。本物の味は、正にこうだあ、と言いたいほどの味の妙味です。デブタレントの石チャンなら「ホントにマイウー」と絶句するさ。さてこういう場では、ブオンの家でもそうであるが、ミエン(春雨)の鶏そばが出てくる。これがどの家でも非常に美味である。外人の僕にはとっておきの高価なウイスキーを出してくれたりの大サービスもあった。親戚の暖かさとか契りがまだまだ健在のベトナムの伝統を改めて感じられる。で、お腹もいっぱいとなり、僕ら5人はブオンの姉の家に行くべくお暇した。

僕ら5人はバスを乗り継いで、ブオンの姉ディエップさんの家に行った。ブオンは初めてバスに乗ったらしい。ちょっと驚き。僕も初めてバスに乗ったわけだが、ブオンは「私も貧乏になったもんだ」とちょっと愚痴た。確かに、ブオンの大学時代のお友達はみんな女性にも係わらず、銀行の役員とか、企業のトップ、お金持ちの奥さんとか裕福な人が多く、大抵車を既に持っている。そうかあ、ブオンは不憫だなあと思いつつ、バスに乗ることの良さを情報取得の面からとか、僕流にいろいろ強弁した。日本じゃあ、車を持っているとか持っていないとかは、生活の豊かさの証にはほとんどなっていないよ、と僕が正論を吐いたら、彼女は呆れた表情を浮かべて、話題を変えた。

で、無事にブオンのお姉さんディエップさんの新居に到着。政府系団地の新築のアパートだ。大型の3DKだ。6階だし眺めもいいし、良い風も入って来る。さて、内装の細部を目で探索した。日本人からすると、ベトナムの建築工事の最大の課題は何処のビルを見ても細部化粧が下手なのだ。いい加減と言った方が良いのかも。それこそ、地元のゼネコンが作ったのだろうけれど、日本の工事現場でタイルの張り方、壁の塗りから、ペンキの塗り方など、1〜2ヶ月見学しただけで、充分に修練になる程度の課題が多い。つまり、仕上げ時に細部のチェックがまるで大甘になってるので、進歩しないんだ。日本の品質の管理は在る意味優れて特殊だろうが、もう少しキレイな仕上げをしようとすれば、直る範囲の課題点である。15年前、僕はお仏壇の長谷川さんのランドマークビルの建設に携わったからかも知れないが、今でも建築現場では同レベルの仕上げが多いので、うんざりしている。「器用」で一定の評価があるベトナムで、これですよ。他国はどうなっているんだろうと思うね。不器用なアメリカ人が作っているアメリカのビルはもっとキレイな訳だから、一度でも「高品質のものを見せる」「触らせる」「良い物と悪い物を対比させる」「良い仕事のための改善方法を丁寧に教える」・・ことがあれば、我が頑張るベトナム人は直ぐに順応し工夫始めるだろうに・・。

で、デイエップさんのご自慢の新型テレビで、ガンガン歌番組をやっている。お正月は何処の国でも、つまらん歌謡ショーが氾濫するようだ。それに出演している女流スターたちの化粧がケバイ事、ケバイこと。歌舞伎か京劇かあ〜と、くさしたい気分だ。男性歌手は結構まともでハンサムのオンパレードだが見た感じだと、韓流のハンサムもチャイニーズのスターもベトナムのスターも相似というか、美の基準が同一で、違いがほとんど無いよね。ベトナムでも汗をかかない草食系が主流さ。頭がガンガンする大音響のボリュームなので、御茶だけで這々の体で出て、今度は時々僕も行く義母の家のそばのお寺さんへ。また、バスだ。バスには僕らと、2〜3人の言わば市井の人のみ、運転手は大声で、僕らにも他のおばさんにも何やら話しかけ、陽気にドライビングを楽しんでいる。ブオンも笑ったりしながら、大声で運転手らとやりとりしている。何が楽しいんだか・・。バスって、こういうのが良いんじゃあないの。結構楽しいじゃあないか、とブオンに聞こえない程度に僕はバスの良さをつぶやいた。

その時、バスの内部を見渡した。変哲もない天上部分、床部分、窓、手すりやつり革。製造は韓国のヒュンダイ社のようだ。見渡すとハッキリ言って汚いのだ。履いたり、拭いたりしていなさそうなのであった。日本の交通機関と歴然の差があるね。如何に清掃やメンテが重要であるということが解る。ベトナム航空の機体内部も似た状態ですね。自分の仕事場であるバスとか電車内をキレイに維持したいのは、何も日本人だけではあるまい、ベトナムの運転手だって変わらないはずだよね。ベトナム人は個人生活では実はかなりのキレイ好きなのだ。アメリカやヨーロッパだって、キレイな街頭や公共の交通機関は少ない。おおっぴらに街にゴミが散乱していることは珍しいわけではない。ベトナムだけじゃあないのさ。逆に今オリンピックやってるバンクーバーやシンガポールは特別で過剰なほど汚れの無い無菌の街になっており、ちょっと薄気味悪い。

日本だって、家の中はキレイにしてはいたが、実は美しい山や森にゴミを不法に投棄してきた。さらに川とか空気も汚染させて無責任でいられた時代があったのだ。厳密に言えば今もだよね。「無菌商品」は買うが、外はどうでも良いってことだ。僕はベトナム人の事を責めている訳じゃあないよ。ベトナムでも早めに「公共」という考え方を教育でキチンと取り上げて欲しいだけなんだ。「環境問題」という押さえ方と「公共」という物と両方面からのアプローチが効果的だからだ。ハノイは空気や川の汚染は重症だからね。「公共」に関して言うと早稲田の公共政策学部が出来てまだ10年経ったかどうか、実は日本もその程度なんだ。

公共という市民の生活の場を皆の責任で維持管理(ある時は創造してゆく)して行く事の意味を教える教育を戦後の日本は長い間ネグレクトして来た。それは「公共」がかつて国家(国家権力)と結びつけられた不幸な歴史を日本は持っているからだ。戦中の軍国的な国家主義の時代がそれだ。平然と「国家」が「公共」を奪胎して国家に包摂したのだ。その軍国主義のリバウンドで戦後は「国家と結合した公共」は遠ざけられ、個人の生活と個人の自由を優先してきてしまったのだ。「国家と社会」の概念の違えさえ知らない若い人が多い現在の日本で、公共の意味を教えるのは困難さが伴う。ベトナムのバスの内部の汚れの事から、やや強引に論旨を引っ張ってきたけれど、僕の気持ちを解ってくださいね。

まだ、元旦の1日は終わっていない。この後、僕、ブオン、リンとディエップの次男のいたずらっ子と4人で、当校の女中のフンさんの自宅に遊びに行った。やっとこの時間はお腹の中の処理作業もようやく片付いた様で、僕もみんなもまた、食が進んだ。この女中さんは40才後半で独身。料理が上手で、若いときはそれなりに魅力を発散させていたグラマー美女。若いときの写真が整理されて飾られている。ブオンが日本の化粧品会社のハノイ支店にいた十数年前からの付き合いらしい。彼女のベトナム風おせち料理はとっても美味しいが、どこの家庭もメニューは大概同一だ。だから旨いが飽きも来るので、僕はビール(ベトナムではBIAと書く)をグイグイといった、正月だもの。お部屋の調度品も良いものが整理されており、おしん(女中さんの事)の家とは到底思えない作りであった。近所には父母や兄弟の家もあるという。ああそれなりの家の出自だから、当校での仕事ぶりが超一流なんだね。それこそ雑巾の拭き方も挨拶も計画性も日本流だもの。

20時位かな、お腹いっぱいになり、御茶しようと言うことで、隣家のお父様の家に皆で行った。お正月だから親戚などもあつまっていて、賑やかで楽しげ。お父さんを紹介されたら、何と彼はベトナム戦争当時(ベトナムでは対アメリカ戦争という)に活躍した報道カメラマンであった。ホー叔父さん(ホーチミン大統領)の写真も直に撮ったこともあったそうだ。うれしくなって僕はブオンを通訳にして、いろいろと彼の戦争での経験を聞き始めた。また美味しいもの食べながらね。スローフードでスローな一日はまだまだ終わらない。

2010年2月13日土曜日

ハノイの大晦日

2月12日朝方、目が痛いと思ったら何か左目に入っている。ちょっと慌てて引き出し探って目薬を取り出し、「ゴミ流さなくっちゃあ」と大量に上方から目に点滴落としたが、何やら痛みと異物感が納まらない。そのうちに僕の顔とかシャツに何匹の蟻がいることに気がつき、「蟻がはいりやがったな」と悟り、またして目を洗浄したが、すぐには回復しなかった。枕にも10匹は居たし、どうなってるんだろう、と思いつつも、昨晩は風呂入ってるし、甘い物をベッドで食べた記憶は無いしで、見当がつかないが、シャワー浴びて、戻ってきてベッドを探ったがいつの間にか、蟻の義勇軍は、阿部襲撃を終え撤退していた。

何故義勇軍などと、少し好意的な名称を今使ったというと、実は今回のハノイ出張では、どういう訳か、僕のデスクに蟻の大群が登ってきて、大切なMAC・G4のキーボードに出たり入ったりして、遊んでいたんだ。以前からたまにはあったが、現在は冬で僕のMACの熱が暖房となってるようなのだ。蟻の死体がキーボードの奥に累々と溜まるのはタイピング機能上、良くないし、僕の意地悪心もあって、持って来ているご用達ヨードチンキをティッシュとか、綿棒に浸して、パソコンの裏に敷いたり、キーボードの端っこに置いたりして、あの激しいスメルにてほぼ撃退した矢先の朝の襲撃であったから、その心意気良しとして、義勇軍と思わず名付けてしまったのだ。蟻ながら天晴れ。
1974年頃と思う。新婚の僕と晃子が新所沢の団地に居た或る夏の朝、いきなり耳が痛くて「痛ててて」と目が覚めて、「どうしたの」と彼女に言われて、耳に人差し指をつっこんだ。何やら居る、と言うことは解った。「ブイブイ」と僕の耳の洞窟奥で音もするほど暴れているようだ。耳鼻科にいったら、「あんたカナブンだよ。珍しいね」と医者がぼそりと言ったことを想起した。

しかし、蟻はどう考えても偉大ですね。どんな目的で、この5階まではい上がってくるのか。
よく言われるけれど、勤勉、努力、集中力、共同性・・どれをとっても人間様以上だよね。僕に義勇軍を編成して、復讐戦まで挑むんだぜ。僕の左目に侵入した輩はいわば自爆テロの殉教者なのかな。それにしても、人間社会は蟻社会を超えているのか。菌の社会、植物の社会、動物の社会の上に覆い被さるように後発で参入し、暴れまくった人類の社会。結局、蟻の社会も、植物の社会も、動物の社会もゴキブリの社会もおそらく地球上で綿々と生と種を継続していくだろうと言うのに、人間様の社会だけはタイフーンの様に駆け足で来て駆け足で何処かに去って行くようだ。

ハノイの大晦日は日本と違い、大晦日(本日)や前日の12日など「年末が押し迫った」感がないのである。日本なら、新宿やアメ横、築地など買い出しの客で押すな押すなの大盛況ですが、こちらハノイは繁華街でも、市場でもこの2,3日、日を追って閑散傾向。2日ほど前に仕事の関係者から「ハノイの年末どうですか」とメールで問われて「いやあ、街中がアメ横状態ですよ」何んてしゃれたつもりで返事書いたが、その日から街の雑踏は減少傾向。あれれ、だね。今朝13日も、近所で「ブン 鶏・タケノコ」うどん食べに行ったら、昨日よりも出店が減ってるし、買い物のパジャマおばさんたちもめっきり減っていた。ハノイの人は大半が田舎から来ているし、都会育ちの若者も祖父や、大祖父の実家に正月”やり”に帰郷するので、400万のハノイの人口は半分以下になるのだろうなあ。一作年の元旦に僕とブオンとリンと3人で朝9時頃散歩に出かけた時の僕が撮った写真がある。”あの渋滞で有名なフランス病院前のフンマイ通り(芳梅通り)に、僕ら以外人一人、オートバイ一台も映っていない広々のストリート。そんな写真が本当に在るんですよ。一年に元旦の朝だけだと思いますが、ハノイがゴーストタウン(正月に相応しくない修飾ですが)と化すのです、元旦は。

ハノイでは子供の写真を使ったカレンダーが「横行」している。ちょっと、「どうかなあ」と思うところが在るので揶揄して横行とした。僕の学校のスタッフも、ブオンの親戚も「幼児」がいる家庭では、子供の晴れ姿などの写真を使って、自前のカレンダーを作成し親戚に配る。1枚物もあるし、12枚の月めくり物もある。それを売ってる小売店もある、他人の子供のを誰が買うんだとい思っちゃいますが。大抵5セットから10セット程度の小ロットの印刷のようだから、オフセットではなく、コピー系の印刷機を使うのだろう。NGOCさんの娘さんのカレンダーはレイアウトにも工夫があるし、何せ子供が美人の母親似でかわいいんだ。ボーイッシュでね。僕、ほしいなあ、と言った。

ブオンの妹のホアさんのも、母親のホアが美人だけに幼児も可愛い。僕には男児か女児の区別つかないがね。カレンダーは、母親が容姿端麗の家庭しかつくらないのかな、かもね。日本でカレンダーを子供の写真で作成する大胆な家庭は無いと思うが、例の「子供写真の年賀状」あれには今でもうんざりというか、親の発想のセンスが疑問だよね。よく晃子が昔、「私は親と友人であるが、この赤ちゃんとは友達じゃあないのに。親子一緒の写真は勿論いいけれど、赤ちゃん単独のもらってもねえ」と、理路整然と評論していたっけ。そのイデオロギーが僕にもおおいなるインフルーエンスの狼煙となり、いつの間にかこの事の僕の考えとして定着したのだ、正直に吐露すると。奥方の意見は偉大さ。

ハノイにも意地悪夫婦がいた。僕のような所詮外国人は、表面のベトナム社会を愛でてる場合が多いので、良いことだけが多く目につく。僕のように16,17年も頻繁に通っていると、イヤなこと、悪いことも大分目についてくる訳ですが、この様な意地悪な老夫婦はちょっと初めてだ。しかし、その夫婦にインタビューして、詳細を調査しないと本来は論断出来ないが、市場のなかの「場所取り」を巡っての攻防が結構強烈であったのだ。12日の朝、ブオンが6時から買い出しだと言うので、リンと連れだって、近所の青空市場に行った。アメ横状態かなと先入観で思っていたら、先ほど書いたようにそうでも無いお客さんたちの出足であった。市場の真ん中では、数軒の鶏屋が占拠していて、鶏を事務的に絞めてさばいて、さばいては熱湯につけたりの大忙しさ。その自分の順番を待つ鶏の哀れさは、勿論市場には微塵もない。食欲と購買欲が朝焼けの市場を支配している。果物、お花、屠殺直後の豚肉、牛、地べたに置いたままの魚を売ってる店舗と多彩である。

市場の入り口に3畳ほどの食品店があって、店舗は朝早いのでシャッターは半開き状態だが店舗前にそこの経営者らしい中年夫婦がいて、何やら店舗前の小娘がやってる花屋(大量の薔薇を並べているだけ)に文句を言ってる風であった。ブオンとリンは市場のあちこちで買い物を始めていた、僕は例によって、入り口付近で待機中。ブオンが言うには外人(僕)が同行して買い物すると、2,3割ぐらい割高になるので、付いてくるなとのお達しが在ったからである。今時、外人金持ちじゃあないぜ。まあとにかく、事態は夫婦の実力行使で一変した。花が入った大きなザルなどを、目の前から引きずって市場の隅に持って行ってしまったのであった。
ひょとすると昨日は、場所を使っても帰りにキチンと掃除が出来ていなかったのかもしれない。何があったかも知れないが、10Mばかり、強制的にその田舎娘の花屋は移動させたれた。通常は露天や路上店には、一定のルールを満たしていれば、誰も文句は言わないし、あれはあれ、これはこれといった何となしの共同性の文化でベトナムの小売りは成り立っているので、この事態はちょっと驚いたし、正義の味方の阿部としては、「そこまでしなくとも、いいんじゃあないか」と言おうしたが、小娘に付いていたお客さんたちが同情もあってか、人数が倍増し、商売は端っこでも結構ほくほく。僕が出て行くほどでもないか、と矛を収めた。そういえば、通訳も要るしね。

で、そうこうしているとその空いた空間に老婆がスーと来て、露天を張り出した。慌てたさっきの中年夫婦が「ここはダメですよ、おばあさん。当店の邪魔だし」みたいなことを言い出した。面白くなってきたぜ。この大婆は70才ぐらいかな。何をいわれても怯(ひる)むことない。耳が聞こえない振りなどしながら、せっせと準備。小テーブル一つの小間物屋のようで、お客さんもすかさず付いて、営業が開始された。中年夫婦は、年寄りじゃあどうしようもないなあとそそくさと退散、二人のパジャマの後ろ姿が、ちと憐れ。

その後三人で市場を移動、別な露天の集合エリアに向かった。途中で、ブオンが出会ったおばさんと何やら一瞬立ち話、おばさんもニコニコしてるので、僕も営業スマイル。愛想良しにこれ勤める。で、誰ってブオンに歩きながら聞いたら「知らない人」という。「そのお花はしっかりした花びらね。何処で買ったの?」ときいただけという。なるほどね。日本じゃあ、老人同士が電車の席で赤の他人でも話し始める事が在るけれど、道ばたで売ってる場所と金額も見ず知らずの他人に聞くんか〜。街中が親戚感覚なんだね。ベトナムの良いところの一面ですね。*しかし、大阪のおばちゃんあたりはどうなんだろう。

亡くなった妻晃子(てるこ)は、1947年生まれ。伝統あるF電工創業の筋の家庭(父が旧制東京高校から東大、母親も御茶水女子大)という金持ちではなかったが、毛並みの良いインテリの極地の環境で育ったし、しかも小中高と学芸大付属とか教育大付属(現筑波大:何せクラスの半分は東大に行っていたらしい:鳩山邦夫とかもクラスにいたと言っていた)であったので、家庭だけでなく学校の校風の影響も手伝って、生活の仕来り(しきたり)とか、伝統的文化に明るかったし、とても大切にしてきたようだ。僕など田舎の教員の息子だし、戦後民主主義の体現者の一人であった親爺であったので、「伝統とか、古い物」を否定する気風が我家の趨勢であったので、僕なんかは何も考えずに「やりたいから、やる」で、学生運動に走ったりしたわけだが、その一群のシンパサイザーになって一時期活動していた妻は、僕ら田舎者単純派と大分違って大いなる葛藤が心中に在ったものと思われる。

で、何を言いたいかというと、家庭での躾けとか仕来り、とくに正月の質素だがキチンとした準備の思い出などをちょっと記したいので、その前提というか背景をつまんで書いたのだ(天国から「こんな書き方しないでください」と叱責の声がしたような・・)。妻の日常のお料理も多彩なメニューで、どれもこれも美味しかった。彼女は華美なものとか派手な演出されたものは嫌いで、服装もそうだが「良い物を手入れし長く使う」センスであった。端正な事を好んだ。無農薬や自然農法の食材をも積極的に昔から食卓に出していた彼女でしたので、お正月はさらに格別で、ほとんど一切手料理で作って「お重」に盛り付けていた。おせちをデパートで買う風潮の、彼女はその対極に居た。その幸福なおせちは毎年紅白歌合戦が終るころできあがり、「行く年来る年」が始まると乾杯し、子供たちとちょっとつまんで、旧年を語り、新年を祝った。注連(しめ)飾り、お花、床の間の巻物を変えたり、細々(こまごま)手作りで晃子は準備し、謹んで正月を迎え(僕と子供にとっては、迎えさせてもらった感)、元旦には子供が小さい頃は書き初めとか、親類の子供交えて百人一首などを一緒に楽しんでいた。当初、歌留多じゃあなくて百人一首を悠長にやってる家庭もやっぱーあるんだあ、と僕なんか思ったね。で彼女と結婚してから、初めてやってみた。別に面白くはなかったが、一応、ニコニコと。「天の原ふりさけ見れば春日なる〜」しか知らないもん、負けるに決まってる。

日本では松飾り以外、あまりお部屋のお花飾りは床の間程度で、派手にあちこち置いたりはしないが、ベトナムはちょっと違うようだ。高さ2m位の桃の苗木をまず玄関先に置く。松飾りと同じ意味合いでしょうね。で家の中では、壁の上部に設えられた祭壇以外にも高さ50センチもある大きな花瓶数個に大量の色々なお花が投入され美しく飾られる。だから小さな家はお花で埋まる。色とりどりで香しい正月をこの様にして迎えるのだ。ブオンは若い割には仏教とか風水とか、ベトナムの神事や伝統を特に大切にしている一人だ。だから信心も深い。自宅の神棚とVCIのオフィスの神棚に果物からバインチュウという餅米のおこわとか、アメリカドルの偽札約数千万ドル分とか(100ドル札が束で山積みだぜ)、ご先祖が天国での生活に困らないような多彩な貢ぎ物を納める。さあ、あと5時間で新年だ。*なぜ神事に米ドルかは、別の機会に。

寒い、極寒といったら嘘になるだろうか、確かにそれは嘘になるが、僕もコートを着ないと、寒気がするくらいなのである。ベトナムの家には通常暖房がない。最近でこそ、電気ストーブとか、暖冷房のエアコンを入れてる家が増えたが、床がタイル敷きの建築法が一般だから(夏涼しい)、冷え冷え感は、解消出来ない。今年は特に寒い、朝方などは雪が降ったり氷がはる一歩手前の気温だとおもう。ブオンは「元旦はこの様に寒い方がいい」とセンスの良いことを宣う。冬は寒く、夏は暑く、春と秋はメリハリつけてしっかりと在るべきだと僕は思ってるので、東南アジアのベトナムのブオンに、そう言われると、感慨深いものあり。そう言えば、最近の日本は春と秋という四季の移り変わりの微妙なソラリゼーションが「退色」気味。存在感が激減している印象だね。昔親爺は冬のオーバーコート以外に春先用のスプリングコートなるものを着こなしていた。こういう季節の移り変わりの時間と変化の推移は日本人の大切な機微とか感受性とかを育んできていた。この先、季節は、特に春と秋はどの様に変容していくのか。感性やひいては文化も変容していくということだろう。

で、元旦である。
僕は、本年二度目の元旦。ラッキーかな。では。

2010年2月11日木曜日

旧正月(Tet)直前のハノイ

テトと言う言葉は、僕なんか団塊世代では「テト攻勢」を思い起こすのじゃあないだろうか。確か1968年1月末、ベトナム解放戦線と北ベトナム軍が旧正月の慣例的な停戦の禁を破って南ベトナム全土で総攻撃を仕掛けた世界的な事件であった。とりわけ、首都サイゴンのアメリカ大使館とタンソンニャット空港、中部にある古都フエへの攻勢は凄まじく、一時的にはベトナム側が覇権を取った地域もあったようだ。アメリカ大使館は、最終的に軍事的には米軍が奪い返したものの、解放戦線の武装ゲリラの決死隊数十人が半日程度占拠し、世界を震撼させるニュースなった。

そのころ、世界の大国アメリカとのベトナム人民の必死の戦闘を、硝煙まみれた実写ニュース画面から衝撃と感服の念で受け取っていた僕ら東京の学生たちは北区王子に在った米軍の病院のベトナム戦争へ加担する「王子野戦病院反対闘争」、成田空港建設への「三里塚闘争」「佐世保にきた空母エンタープライズへの寄港反対闘争」、始まっていた「東大闘争」と「日大闘争」などへ更に積極的に参加していった。僕らはそれぞれの個別の戦いを自分なりに理解してはいたと思うが、それより増してベトナム戦争における闘う人民と連帯したいという、間接的にでも支援したいという、今思えばいささか観念的ではあったが、熱いヒューマンな感情を滾(たぎ)らせていたのは間違いない。その感情と押さえきれない次の時代への渇望感、さらに青年のピュアな正義感などが自分の肉体の中でカオス化していった。1968年春は、19才であった僕の青春の旅の開始ともいえる激烈な季節となった。

で、昨日で当ハノイ日本アカデミーも「正月休み」にはいった。官庁と同様2月22日月曜の「正月明け」の再開まで、約10日もの長い休みである。僕は15日(テト二日目)の深夜に帰国便に乗る予定である。テト期間のハノイ滞在は実は二回目だ。一昨年のテトは大分長く滞在し、ブオンの父方や母方の親戚のお年寄り10人以上は紹介されて、何人かには涙を流されたりした。そのお年よりの多くがお婆様で、皆さん威厳があり美しい人ばかりであった。特に感じたことは、日本では失って久しい敬老の心、あるいは敬老の儀式がベトナムの大家族にまだまだ健在で、若者や子供たちにもそれが自然に継承しているように見えた。さて、今回は2月13日土曜の大晦日、14日日曜元旦、15日月曜の正月二日目が楽しみである。短期間だし、今回は懐具合も頼りないが、どんなテトを体験できるのだろうか。楽しみである。

ハノイは「師走」たけなわである。街自信のバイオリズムがテト用に高揚し、而して市井の人々は朝からテンションが上がって落ちることはない。だから、色んなことも起きる。今朝7時頃、チャオ(おかゆ)をすすりに、外に出たところ、数軒先でパジャマ姿のおばさんらが群がっていた。そこは小さな変電所があるところで、日頃誰も関心を示さない無人の場所だ。行ってみて驚いた。その公的な鉄柵の中に黒鶏と思われる高価そうで美味しそうな大きな鶏が赤い鶏冠を振り乱して40羽はいるだろうか。鶏業者か誰かが保管場所が無くて、一時しのぎにそこに投げ込んだのだろうが、その業者もバカなもので、ぼやっとしていたら、近所のおばさんらの願ったりの正月用馳走になりはてるはずだ。だって、「これ、貰って構わないわよねえ。誰か若い人、柵を登ってよ」みたいな大胆な密談をしているのだけは、ベトナム語のわからない僕でも雰囲気が読めた。

昨晩は、休みの前の日で、NGOCさんらが、残業してて、ピザの宅配たのむというので、僕もご相伴にあずかった。ブオンの家が数日前泥棒にねらわれたので、窓格子の修繕工事が在るというので、夕飯が無かったからだ。ベトナムに来るとどうしても食が進む僕は、4,5ピースのピザだけでは飽きたらず、みんなが帰った頃を見計らって、喧噪の表に出た。とびきり美味しいフォーガー(鶏うどん)を食べにである。時間は20時半を過ぎていたので、売れきれ閉店が不安であった。こういう不安は妙に当たるね。的中で、シャッターが無慈悲にも降りてあって、その前の路上にはすでに2軒ほどの路上店が進出しておばちゃんらが何やら営業していた。舌打ちするまもなく、僕は「pho ga」の看板を探しつつ、夜の雑踏を歩き始めた。

ちょっと、うどんの説明をしておきましょう。ブンという、丸細米麺はブンタンとか、ブンオクとか多様な具とスープがあるのですが、こと「フォー(細きしめん)」となると、「ga 鶏」と「bo 牛」しかない。そして、ブンはそれなりのレストランでもメニューにあるところからして、どうも身分的にはフォーの方が低いらしいのである。知った上で無理して「エムオイ(ボーイさん)、フォーあるかい?」というと、言下に「フォーはウチには無いさ、ブンならあるよ」と言われてしまう。また、ハノイでは「牛うどん」のお店の方が圧倒的に多い。「牛も鶏も」の店もたまにあるが、専門性の無さは評価が低く、通常の店ではあり得ない。小さな路上店辺りのメニューだ。ブオンによると牛の調理、煮込みなどは、鶏よりも難しいし時間もかかるので「プロのお店らしさ」が「牛うどん屋」にはあるんだという。一方鶏うどん屋は、牛に比べて手軽に作って出せるので、家庭料理の延長にあるものなんだそうだ。家庭ではどこの家庭でも鶏は自分でさばくからね。確かに、家庭では鶏ミエン(春雨)、鶏ブンが宴会の締めの料理に出てくる。これがどこの家庭でも絶品なのです。

で、雑踏を歩き出したぼくではあるが、その辺りに知った店もないので、「店構え、清潔度、御客の入り具合」などを注意深く査定仕分けして、間口2mぐらいの「ga」の店にはいった。
釜とうどん、多様な具を一手に引き受けている婆が何とも良〜い。ブラジル人も驚く「ケツとおっぱい」で、でんと構えている。外人の僕はめずらしいらしく、満席で立ち往生をしていた僕に相席を勝手に指示した。反抗老人の僕もこういう揺るがない指示はうれしくなって、おとなしく着席した。見渡すと、ここはどうも飲食の店舗でないことに気がついた。どう見ても工場だなあ。それも鉄材の加工工場のようだ。だって、機械が奥にはいくつか見えるし、僕の足下には、切った鉄材の切れ端やら、鉄くずが積まれていた。ひゃーというより、この鉄工所とうどん屋の大胆な昼間と夜間の入れ替わり店舗はサントリーの「プロント」を完全に凌駕してるなーと、僕は素直に唸った。その上最高の出汁を出している。もう、何とも言えないほど「ウゴーン(美味)」であった。いつもの最高な「ga」店より、スープの色も塩気もわずかに「濃い目」であったので、刺激を求めていた僕の胃は、図らずも狂喜していたようであった。
・・・店舗、市場、庶民・・つづく・・

2010年2月9日火曜日

MAC MAC / 立松和平さんの訃報

昨日、ベトナムの中大手のツアー会社の幹部が面談したいと来校してきた。ベトナムのある地域に現在のVCIの「ハノイ日本アカデミー」を分校として出しませんか、という提案であった。問題は日本の景気の回復の時期と初頭の予算であると明確に返答した。地元の有力大学と或る政府の省庁と提携しなんとかなる、という。彼は、その旅行会社の社長であり、もう一つの肩書きはその省庁の副局長級であった。日本とちがって、官僚のアルバイトは全く問題ない。問題ないというどころか、そっちが本業の官僚も少なくない。霞ヶ関の高級官僚とちがって、この国では高級な立場にいても、給与は薄給。政府としては有能な人材を手放さないためにも、個人の「多角経営」「二毛作」を重要な施策にしている。

更に、観光開発の話に及んで、一家言ある僕としてはかつて観光総局時代に女性大臣に「ベトナムの観光のあり方、改善策」を提案したしたこと、2005年春に当時の服部日本大使に直々に大使室で「観光資源の活性化の支援」のようなタイトルのオリジナル提案をして、大使が「阿部さん、これは良いね、進めたい」とおっしゃったことを彼らに滔々と伝えアドバイスした。この企画書は、30ページぐらいの物ですが、かなり丁寧に観光資源の地元住民が主体となったあり方、つまり、地元住民組織、地元大学、地元自治政府が三位一体になって初めて、観光資源は磨かれ活きてくると、世界の例なども交えて展開した物で、5年振りに読みたいとおもったが、ハノイに持ってきているIBOOKにはその原稿データが入っていないようであった。

ついでに、その企画書にも記述してあるが、香港130万人、韓国230万、タイが80万(だったかな)の日本人の渡航人数に大分水を空けられているベトナムで、現在の日本人のベトナムへの渡航者40万人を倍にするにはどうしたらいいか。
そのソリューションの一部を思い起こしながらアドバイスした。僕は80年代バブルの時代、時代の風に乗って、全く今となっては赤面ですが、リゾート開発の「先端企画」の提案者として、あちこちに係わったことがあった。その時代とは今は大分違いますが、観光地やリゾートを訪ねる日本人の目的や感性を簡単にお教えした。日本社会はスピードと利便性に価値を見いだしている(今までの大要)が、お金を出して、物見遊山するわけだから、価値観が逆転し「ゆっくりで、不便」な非日常を楽しむ志向が強いことなど話した。

更にベトナム人が苦手とするホスピタリティーについても、現状のハノイでの実例を出汁にいくつか手振り身振りを交えてお話しした。勿論、ここにはちょっと書かないが彼らからの良いアイディアも頂いた。お二人の幹部の一人は女性で、僕が時々お邪魔するブオンの実家のアパートの上階に住んでおられるとのこと。その関係でいろいろおしゃべりする機会も今まであって、今日お呼びしたとブオン。如何にもベトナムらしい関係でのビジネスの切っ掛けですね。

■ 僕が1990年に起業してから、20年。それに連れ添ってきてくれたのがMACさ。女房じゃあ無いけれど、労苦を共にしてきたって奴だ。黒のパワーノート、ミニの一体型(モノクロモニターやカラーモニターも買った)、から始めて、CRTだけでも当時60万円ぐらいした(確かIBMと共作?)デスクトップとか、半透明でカラフルなIMACも2台連続して使っていたし、今のIBOOKG4まで2台並行の時もあったが、数えると10台ぐらいのようだから、MACファンの割には、購入台数は少ない方ですね。エバンジェリスト(伝道師)的なファンが多いMACの世界では僕などまったく熱に浮かされない地味な使用者に過ぎない。
アップルにおいては、創始者ジョブスが、自分が引き入れたペプシコーラの会長(砂糖水親爺)に放逐され、キャノンなどとくっついてNEXTコンピュータなどをやっていた10年ほどの空白などいつも暴れん坊スティーブ・ジョブスを中心に会社は混乱・脱皮・変革を繰り返してきた。

かつて、ジョブスはソニーの「バイオpc」をsexyだと言った。ジョブスらしい公平な評価だし、更に彼の余裕の現れだとも取れる。マッキントッシュは設計の思想が、悪いけれどMS系の有象無象(富士通やNEC、東芝・・MS系でバイオとパナソニックのレッツはまあ良い)と違うのさ。イノベーションに振り回されない。ビジネスなど人生の一部に偏した道具と考えない、人間の全生活にとけ込めるものとして開発する。さらに、次の時代をブレークスルーさせるための革命の武器であり、高く掲げ進軍する蒼氓のフラッグであると考えている、と僕は信じている。だから、格好いいし、その革命性に惚れてきた。インターネットは、アメリカ国防省の通信であった。ご存じのようにね。そのインターネットは誰の物でもない空気や水、海として解放され、享受できるように全世界の通信革命家たちが、ビジネスとはまったく違う「位相」で構築してきたのだ。毎日お世話になってる「SKYPE」もその一つだし、リナックスもまさにそうだ。マックは、所詮「商品」ではあるが、その「同時代」精神はジョブスを中心に引き継がれている。

僕の好きな言葉の一つ「君子豹変す」。僕の理解では、賢明なアイディアや高邁な考え方を思いついたら、朝令暮改でも良いさ(暴論ですがね)、なのである。ということで、アップルに於いてはやはり、あんなに敵対していたのにIBM製のプロセッサーからインテル(MS派)に豹変した。こんな事ってあるかいな?とこの臆面の無さには「豹変好き」な僕でも驚いた。さらに、PC以外の音楽産業に参入し、IPODはじめめざましい多角的な経営で大成功に至った。僕のような保守派からすると、この様変わりが、なんだか落ち着かないというか。IPHONE IPAD・・アップルっぽくおしゃれで楽しそうな製品で、まあ、アップルらしいとは思いまますよ。だけれど、肝心な原点であるPCにちょっと精彩がないというか。

IPADは板だ。考えるボードだね。これはIPHONEの仕組みを大きくした製品だといえよう。でも、実は今後、PC系ツールから出発した本格ボードも研究中であるそうで、つまり、そうなってゆくと、PCは無くなる運命かな?だから、現在の新しいMACBOOKに何故か、「もうひとつ感」があるのかしら。僕勿論買いますよ。スペックも悪くないし。価格も下がったからね、IBOOKG4よりも。でも、いつもの「革命」がない、画面から心地よい酸素を放射するごときの新鮮さが、今ひとつ。やはり、現在は「新ボード」革命への助走中ってことなのかしら?
先日、仕事で東北大学病院の教授である高校の同級生を訪ねたとき、彼の教授室にどんとMACが鎮座していた。研究者は画像が多いのでMACさ、と友人がさりげなく言った。

■ 訃報である。作家の立松和平さんが亡くなったとインターネット新聞が報じた。まさに同時代人だ。彼は早稲田の政治経済学部に入学後、ベトナム反戦闘争や全共闘を戦った。彼の作家としての骨太さと誠実な筆致は、むしろ大学から離れた後、日雇いなど肉体労働者を経て書き始めたことにあると言われている。そう言えば作家となってから、久米宏さんのニュースステーションにて、自然を探索するガイド役で、かなり長期に出ていた。独特の声と栃木の言い回しは視聴者で覚えておられる方も多いことだろう。僕の友人の橋浦方人監督が1984年本編「蜜月」を撮った際、お誘いを受け、原作者である立松さんとご一緒する機会が二三回有り、楽しく談笑させていただいたことがあった。立松さん、全く惜しい。悔しい。今から、老練な領域に行けたのに・・。心から哀悼を表したい。「途方にくれて」「遠雷」「火の車」「光匂い満ちてよ」「蜜月」「世紀末通りの人々」素晴らしい作品でした。立松さんありがとう。合掌。ハノイにて。

2010年2月6日土曜日

マッキントッシュで20年

当校スタッフは、本日土曜に拘わらず、一心不乱に明日の準備に勤しんでいる。僕も何かやらせてよ、といってもNGOCさんあたりに「良いですから、御茶でも飲んでて」ときっぱり。凄いね。で、ブオンが持ってきたランチを食べながら、ブログのネタを考えていた。MACがいいね、と良い案がひらめいたが、僕だけノンビリとブログなぞ、認ためてて良いのかいな。さて、マックだけ使って20年だ。1990年からだから、丁度というわけだ。その前は、義理の兄が富士通の役員であったので、どうでも良いが余り考えずに、親指シフト程度の話題性でオアシスを2台買って、僕は自分の会社を90年に青山で起業したのであった。しばらくして、松岡正剛さんのところの太田くんの推奨とPC詳しい当社スタッフのお薦めでマックを買い始めた。トラックボールがついた黒いノート(パワーブックだったかな)とか、縦型のかわいい一体型のモノクロ画面のものであったと思う。

マックは楽しい。そして可愛いのである。マイクロソフトはダサクて、使いにくい上に独占的で高飛車。いかにも帝国主義そのものだ。大体ウインドウズなど名乗れる資格などないんだでよ〜。マックはその何年も前から、画面ではウインドウシステムで、マックの良さの一つであったんだ。マネしてくるなよ、と文句のひとつも言いたくなる。マッキントッシュ(ベトナムでも非主流派。マッシントッシュと発音)のベトナムでの販売代理店をやりたくて、1993〜4年、結構動いた時期があった。アップル日本の友人の幹部から、米国本社を紹介され、東南アジアの総合代理店であるシンガポールの何とか社にわざわざ会議に行って・・。何故かしら当時ベトナムのアップル社の総合代理店はホーチミン市にある共産党総婦人同盟とでも訳すようないかめしい団体がやっており、その副会長に直談判でハノイでの権利を分けてくれるように交渉したっけ。

副会長殿は、40歳代後半の長身で周囲を圧倒する知的な美人であった。高級そうなアオザイの出で立ちで、交渉に臨んでこられたときは美しい上に英語も堪能で僕はその聡明さにしてやられ、初頭から上気気味。僕の脳内メーカーは「美・好き・SEXY・恭順」の文字だらけ。このカリスマ的美人を妻にしてるのはどんな奴だあ。こういう場合、夫は意外に大したことの無い男のはずだとか、つぶやきながら、45才の僕は目を輝かせた。真野響子さんがブルー系のアオザイをお召して颯爽と僕に近づいてくるイメージだったような。

マッキントッシュはビジネスの中で成り立っている製品である。言うまでもない。でも、マイクロソフトとは、やっぱり違う。成立の過程が、あるいは初期の開発時の文化というか、当時のベトナム反戦を戦い、既成概念を破ろうとしていた学生たちの時代的な気分と重なり合っているんだ。MACのジョブスもMSのビルゲーツも同時代人であるし、友人同志で有るとも聞く。そう言う意味ではビジネスモデルの建て方の方向が真逆であったと言うことかも知れない。MSという新しいプラットホームをIBMをコアにして、全世界に波及せしめる戦略と独自の楽しさと面白さ、もっと言うと大人の玩具として追求したグループの違いかな。ビルゲーツは、全世界の空気と水に税金を掛け、徴税を独り占めにしたようなとてつもない結果を現出させた。

マックは世界的に多分4〜5%の普及率。かなり認知されている日本でも15%ぐらいだと思う。・・この項続く・・

2010年2月4日木曜日

無為に生きる / そろそろテト(Tet)だ

やっとドスとエスキー亀山郁夫翻訳の光文社版「罪と罰」が2月2日ハノイへの機上で読了。第三冊目の読書ガイド部分が50ページほどまだ残っているが作品は終わった。大地と時代が織りなす病理を脳髄に堆積させた俊才な青年の殺意。不条理の殺人はカミユの「異邦人」ムルソーの「太陽のまぶしさが殺意を生んだ」のが有名な分けだが、よく考えると殺人は最後の一線を越える瞬間、不条理以外の何ものでもないだろう。不条理ではなく計画的にかつ理性的に実行される殺人ってそれは多分戦争と死刑だろう。ただし、これは少し前までの古流な認識であるかも。いま、現実のニッポンでは不条理の枠にも到底入らない「リセット型幼稚な殺意」が横行し始めている。警察や検察の今までの捜査方法やファイリングでは、解に導けない。担当の弁護士すらとまどいが多いという。不条理の次に無条理か。否、夢条理なのかも知れない。人類のメンタリティーは所謂「進化」とは全く別物のようで、一定の成熟による複雑化だけが急激に進んでいる。

さて、親爺は「復活」し危機を一応脱したようだが、危険水域に漂っていることには違いない。

■かつて昭和20年代、30年代は街の何処にでも小さな小売りの商店が散在していた。当時の「三ちゃん」農業ならぬ「母ちゃん切り盛り」商店と言えようか。繁華街の整った立派なストア以外には、従業員なんかいないのさ。母ちゃん一人で踏ん張っていたわけさ。かつて、日本中の何処の街にも在ったこのような小さな小売店は、まさにいま、ハノイの僕らの視界の中にある。ハノイの街で僕はこの愛すべき星の数ほどのお店の数々を毎日見ては、感心したり、あきれたり、昔をしのんだり、ある時は「行く末」を心配したりしている。ベトナムでは、更にこれより小さな路上商店が圧倒的である。

この路上商店の多くは「路上食堂」と「路上喫茶店」である。火の釜戸とナベ、ヤカンと(日本の公衆浴場にあるお馴染みの)小さなイスが10〜20個並べただけのお店だ。お店と言うより、場所取りに過ぎない。彼らの特徴は通行の邪魔とか、そばの店舗の迷惑などに関心が無く店の規模というか、「成り」の割に実は大きな顔をしていることで、僕からすると微笑ましい。面白いのはその路上「うどん屋」が、ちょっとキレイなレストランの店先に在っても、レストラン側は、文句の一つも付けない。路上食堂の機材の一部が住宅の屏(ヘイ)にぶら下げられていたり、テントの一部がヘイに結わえられたりは、何処にもある普通の風景で家主からの抗議はなさそうだ。

つまり、共生的な雰囲気があり、「ここはウチのヘイだ、ウチの土地だ」とあまり野暮なことは言わない。従って、お願いしているサイドも至って平気なのである。すみませんね、いつも・・ってな顔はしていない。当然とばかりに平然顔。また、かなりの年齢の老人は、見ているとどうもお金は払っていない様子である。「シルバーパス」の様な伝統が在る(?)ようで、食事を終えると払わないで悠然と去る(近々ブオンに聞いておきます)。そして、飲食だけでなく、物販の路上店もあるが、商品の陳列の関係で完全路上店はなく、小売店と路上店のいわば中間にあたる「仮設テント店」となって、洋品とか、生活道具などを販売している。10数年もベトナムに皆勤していると、いつの間にかそういった市井の小さき店舗の常連となってしまったので、僕の短い足でさえ持てあます小さいイス(台)に腰掛けつつ、あちこち見渡してみる。

僕らが中学校の時、ヤコペッティ監督のイタリアの記録映画「世界残酷物語」という当時としては衝撃的なタイトルのがあった。世界中でヒットして、続編や類似な映画も数多く見られた。奇習や性風俗などをやらせも含めてまとめたキワモノでもあった。しかし、世界の広がりや世界の文化情報に飢えていた僕ら一般大衆は、奇異さも含め飛びついた。内容の記憶は余り実はないのだが、極めて驚いたことが一つだけ在った。12,13才ぐらいの日本人少年の僕に驚きを与えたのが「着飾ったり、お化粧したり、遊んだり、暇を弄んでいるのは、世界的には男性」であったということであった。特にアフリカのシーンでの、その描写は目に焼き付いている。西洋てきなもの、日本的な物以外に、まだまだ世界には不思議な文化で満ちあふれていたのだ。驚くのも無理はない。学校で着飾る男性のこの話になり、誰か「ライオンの世界と同じらしいよ。雄は悠然と何もしない」と言っていた。

40年前の1970年の12月に僕は初めて海外に出た。東映の撮影スタッフとしてグアム島とサイパン島に船で4日も掛けて行ったのだった。東京12チャンネルの「プレイガール」という沢たまきをボスにしたお姉ちゃんアクションもの。そのとき、初めて見た。街でも住宅街でも玄関の三和土あたりにぼんやりと腰掛けて煙草を燻(くゆ)らせている男どもの何と多いことか。全員が失業者なのだろうか。南洋だから、無理して労働しなくても食えるのかもね、などと同行のスタッフと軽口たたいて蔑んだことを思い出す。そして、その後もセイロン(とはいま、言わないか、スリランカだね)とかモルジブ、フィリピンなどでも同様の「何かさあ、無為な生活してんじゃあねーの。時間が無駄だよねー。」と感じてしまう場面に遭遇することがたびたびあった。スペインあたりもそうだったし、NYでもクイーンズのほうで「憐憫の情」を感じたりした。「彼らは時間の無駄に気がついていない」と。

そういう体験から、30年も40年も経て、僕自身はどうなのだろうか。ハノイの路上食堂でうどんをすすりながら、ふと思う。ともかく忙しくしてきた。「そんなに急いで何処行くの?」の交通標識にグサリと刺されるほどに何かに憑かれるように急いできた。安定した企業に入ろうとしなかったので、一人で(勿論、いつも良い仲間たちには恵まれていた)起業し何が何でも自分の家庭をそれなりに豊にというか、ハッピーな生活にしたいがための焦心がそのように急がせてきたような気がする。しかし、その忙しがってきた人生って、「どんだけ〜」。ちょっと前の流行言葉で、すっかり総括されてしまった。まいったぜ。どんだけ〜、どの様な価値があるの〜?とオカマタレントは、鋭いことを大衆に投げかけた。

僕って、人生の「成果」としてのお金や蓄財にはほど遠いものになってしまったわけだが、待てよ、他にはないのかい?むむ、素晴らしき友人知人とか日本とベトナムの家族たち。これは一応「成果」としては120点としておこう。他にはないのか?あわわわわ、知識とか、想像力とか、他人様の脳内海馬あたりにちょっと残した僕という画像記憶かな。せいぜいそんなもんかあ。僕の人生の「成果」って、2,3行で書かれ片付けられるものでしかない様子だね。ホントに貧しいというかほとんど無に等しいね。僕らは西洋合理主義の環境で教育をうけ、その線で、つまり日本社会の要請のラインに従って育成され、大人になった。個性など意味がないほど社会の要請の形状に当てはまった大人になったのさ。諸君、そこいらは冷静に認識した方が良いぜ。

僕らの人生って、ほとんど画一化に近い人生を歩んできた。個性的って思っても、「許容の範囲」、蟻の個性とそう変わらんさ。僕の仕事をしてからの40年ってさ、毎日玄関先に座り込んで道行く人々を眺めているのと、どの程度違いがあるかってことさ。フィリピンやスリランカで、煙草を燻らせながら、僕を見詰めていた無表情の親爺や若者があのまま数十年、たいして変わらない「風景」として、今日も継続していたら、それらと僕の40年間とどの程度違いがあるって言うのだろうか。今日もハノイの路上茶店で「無為な時間」を過ごしている様に見える親爺や若者たちがわんさか存在する。しかしひょっとしてもし、彼らがムダの意味の「無為な生き方」でなく、哲学的に”無為に生きていた”ら、僕ら近代合理主義の御曹司たちは、戸惑わざるを得ないだろう。無為に生きるとは、「流れゆく時間を受け入れる」ということだろう。路上の喫茶店で、玄関先で佇み、己を時間の大河に晒し、神のように静かに受け入れるということだ。

もし、彼らがそのような域にいるならば、我々のあやふやで軽薄な人生観を簡単にひっくり返す破壊力さえ持っているかもしれない。無為に生きるを実践しているサバンナのライオンたちも、ちまちました世間から離脱し、ゆったりとした時間を王の佇まいの中で受け入れている。僕が60年間培ってきた知識とか教養とか、地上の愛とか、そんなものをどんなに総動員しても無為に生きる彼らには勝てないと思ってしまう。滔々(とうとう)と流れゆく無限の時間を宇宙の森羅万象の中で、人々は淡々と受けいれ、受け流している。そのことを理解すること、自分も受容すること、それ以外に自分のソリューションはないだろう。あれれれれ、どうしても西洋合理主義風情でというか論理的に解釈しようとしてしまうね(笑い)。僕にとって、今「無為」と「無垢」は大切な言葉である。更に言うと阿部の「阿」も重要な意味を持ちつつある。

「地球の記憶」という言葉がある。40数億年の「生物である地球」の各時代の痕跡の事である。この記憶には日本人どころか人類という記憶すらに残らないかも知れない。

■本年の旧正月(TET)の元旦は来週14日日曜だ。だから今日土曜日は、ブオンさんも何かと忙しい。いま、ベトナム全土は言わば「師走」なのだ。朝早くから、近所の市場の買い出しに僕も動員され、専ら自転車でのもの運びだ。混んだ市場の中にバイクでグイグイ入ってきたおっさんにチオイ(おばさん)が「何よ、あんた、非常識よ」みたいな罵声も飛ぶ中、自転車番の僕なんかも身の置き場もなく、ブオンがあれやこれや買った食品の袋とか、見守ってるだけ。”我が家”で正月に食される鶏などは、足を縄で縛られたまま白っぽい目をぱちくりさせていた。ああ無情。市場は何時来ても楽しいものがある。ハノイでは郊外型のスーパーの進出も出始めており、この様な自然発生的にできあがった昔からの青空市場は、10年後霧消しているかも知れない。ブオンの家でお肉とか、ゴハンとか残った食べ物を冷蔵庫にしまうとしたら、「だめよ」と止められた。気温25度とかでは、お肉を置きっぱなしに出来なくなった僕らは、食品管理の原点を忘れて、何でもかんでも冷蔵庫だ。大丈夫か?と返事したが内心、嗚呼そうかもねと合点した。なによりも、ベトナム人の口に入る牛、豚、鶏は、今朝に屠殺しさばいたものだ。新鮮な物は当面腐らないということなのだろう。味を大切にする彼の国の人々は、冷蔵庫に頼っていないのだ。

今日は当校の5階にある神棚の大掃除。あたらしい果物とか、チープな印刷の100ドル札の束とか、紙製の金赤の帽子とか人形とか、お餅とか、供えた。なぜか、今日は台所の神様の「元旦」らしく、オフィスの小さな炊事場のガスコンロの上にお供え物など置いてブオンと仲良くお祈りした。台所の神様は各家庭の様子を早めに天国に報告する役目があるらしく「それで、元旦が一週間ほど早いのです」とブオン。彼女の祝詞は何いってんだか、わからないが、信心深いお祈りを僕もマネして挙げたりすると、結構楽しい。ガキのころは宗教なんて蹴散らす対象でしかなかった左翼急進派であった僕でも、いい年になると宗教的儀式は楽しめるね。特にベトナムの場合、儀式は仏教と民間自然宗教的なもの、風水などが混じり合った感じの物なので、日本仏教や神社のような高額な献金とか、過度な形式主義がない分、僕など反抗老人はうれしくなる。

これを書いている時分には、1階の玄関先で、チープ印刷の金赤の代物をブオンやスタッフが燃やす儀式を執り行っているようだ。5階まで燃える臭いがしてきた。当校は相変わらずお金はないが、どうやら安寧なお正月をむかえられそうな・・。後は仙台の親爺に気を張ってもらうしかないね。
明日、日曜なのだけれど、大阪の優良企業の企業プレゼンと面接がある。学生もNGOCさんらスタッフも土曜まで出勤して頑張っている。ベトナム人のスタッフには、心から敬意。彼らに今年幸せ有れ!