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2010年4月3日土曜日

金のTSUBAKIの女優たち / リクルートの罪

綺麗です。本当に美しい6名の女優さんたちが、資生堂「金のTSUBAKI」CMの発表を行い、舞台で挨拶をしていた。ハノイで見た映像だから、ちょっと動きがスムーズではなく、30秒ごと位に止まっては動き、声を発してはとまる体なので、せっかくの美しい人たちなのにちょっと無惨。帰国したら、スムースな映像でもう一回見ておきたい。多くのオヤジたちもご存じ、軽快なSMAPの唄に合わせて、日本を代表する気品在る女優さんたちや、フジテレビ退社すぐの滝川クリステルらが、ご自慢の豊かな黒髪をたわわに実ったフルーツのようにリズムカルに揺らせた姿を主に後から撮影した言わば”華作のCM”でお馴染みですね。ぼく、正直大好きです。サブミナルが仕込んであると疑いたくなるほどセクシーです。天国の女房やブオンさんには、内緒だけれど、許されればあの女神たちのあの豊かな黒髪に顔をそっと埋ずめたい、埋めて脳髄を刺激するフェミニンの香りを胸一杯吸い込みたいものですなあ。そういう、CM戦略に僕なんかすぐ引っかかっちゃいますねえ。第一号の部類でせう。引っかかって何が悪いの、と居直りもしたいですがね。どう、ご同輩?でもこういう絶世の美女たちにもそれぞれ夫や恋人が居るわけだからねえ。どういう男子たちなのだろう、癪だねえ。

今回の6名では、ぼくはありさ観月さんにはもう一つ関心が薄いのですが、他5名は大将に鈴木京香、前衛に蒼井優、飛車角級に竹内結子と広末涼子、正に金将に仲間由紀恵という、豪華な配置だぜ。これに、木村多江とか滝川、黒川メイサあたりが、赤と白のTSUBAKIシリーズのように勢揃いしたら、垂涎して眩暈(げんうん)。さてさて、YOUTUBEで見た約4分弱の取材映像で、奇異なことに気がついた。最近の一般的な傾向だから、とやかく美女には言いたくないのですが、女神たちの敬語の使い方が過剰極まりなかったのだ。ぼくの愛して止まない女神たちですから、個々人へは、言いたくないのですが、ある人は「ロサンゼルス郊外で撮影させてもいただき・・」と。税金で撮影に行ったわけでもなく、オバマ政府に無理して特別な場所を借りて撮った訳でもないんだよ。そんなにへりくだらなくてもいいんだよ。「私はダチョウと撮影させていただいた」といった美女もいた。おいおい、ダチョウ倶楽部が何時からそんなに偉くなったのか。「・・に行かせていただき、ライオンの子供と撮影させて・・」スポンサーの制作費でアフリカに行ったのは事実さ、だけれども、視聴者やお客さんの前で「行かせていただき・・」は、発言の弁えが分かっていないよ。それは楽屋でスポンサーに挨拶する場面での言い方だよ。で、百獣の王ライオンは偉大だよ。でもさあ、前足が太い可愛い無垢なレオちゃんにまで敬語かよ〜〜。なぜ、ロスの郊外で撮影しました、と言わないのか。「私はダチョウと共演したのです」といわないのか。

もし、舞台挨拶にシナリオが在り、その段取りで進められたならちょっと非道い話だ。宣伝部と広告代理店の御客をなめた、むしろ愚弄した態度の、その反作用として生起した過剰な被害妄想だとしか思えない。ぼくが30年以上毎日乗車している西武線の車掌に至っては「ドアーを閉めさせていただきま〜す」と叫ぶ。バカじゃんかあ。ドアは「閉めま〜す」か「閉まりま〜す」でいいんだ。言葉は目的をふまえ端正に発すべきなんだ。バカ殿鳩山さんは、昔から過剰敬語で、つまり、国民を知らないから慮(おもんぱか)りすぎになり、過剰反応で、言われても喜んでいない国民を異常に奉ってしまっている。それは大金持ちの(悪気はないが)国民への無知から来ている。ということで、ぼくの大切な女神の皆さん、気をつけようね。

■ 最近、身体が古典を欲している。加藤周一さんの「日本文学史序説」を読みつつ、夏目漱石を読もうと思い立って、晃子の祭壇に積まれている「我が輩は猫である」「こころ」等を取り出した。その本を手にとって眺めていたら、この日本古典的名作をキチンと終わりまで何故か読了していないことが改めて思い起こされてきて恥じた。円地さんか、瀬戸内さんの「源氏物語」も読まずに昇天したくないし、「風姿花伝」「五輪書」も欠かしたくない。少なくとも専門家で無くても読める明治大正の名作は一応全部読もうと心に誓った。今まででも石川淳とか、藤枝静男、正宗白鳥、中島敦、石川啄木、泉鏡花とかそれなりに読み込んできたつもりだが、一万冊も蔵書があって、自分は今まで何を読んできたかと、焦心してしまう。日本の名著の未読の大穴が開きっぱなしである事が、悔しいけれど改めて明白だ。漱石も鴎外も龍之介、志賀直哉、有島武郎も部分しか読んでおらず、晶子や藤村、一葉などにいたっては、多分一冊すら読んでいない最低な読書傾向であったことが今更ながらわかる。

岩波や新潮などが少なく特に文庫本が少なく、みすず、河出、筑摩、技術評論、亜紀書房、工作舎、集英社、現代思潮社、藤原書店、白水社、朝日出版、草思社、国書刊行会、青土社、晶文社、勁草書房、ミネルバ、早川、イカロス、作品社、鹿砦社、美術出版社、パルコ出版、有斐閣などあたりが思い出すだけでも多い気がする。これじゃあ、日本の古典が少ないよね。今後は、限られた時間だからその分翻訳物を読む時間は減らさざるを得ない。でも長谷川宏さんのへーゲル全集の「精神現象学」などヘーゲルの主要なものだけは読まずに、死にたか〜ないぜ。資本論も分かりやすい新訳が出たら読むし、以前ブログに書いたがプルーストの「失われた時を求めて」も必須だしなあ、J・ジョイスも一冊も読まないのは、人生に悔いが残るし。61才のぼくがボケる前に何冊読めるのかなあ。100冊×15年=1500冊だけかあ。両手が使えなくなったら、ほとんど読書が無理になる。でも我がアップルか開発したiPADなら、身体が不自由でも、コンテンツさえ、売ってれば、読書可能かも。

■ なぜ、今の若い人は「ノウハウ」ばかり追いかけるのであろうか。先日、確かNHKで「男子の婚活」を伝えていた。すね毛を抜いたり、「お話教室」に通ったりして口説き方を学習・・・。おいおい、「就活」の後は婚活かあ。悲惨なもんだぜ。ここでは、このヒステリー状況というか「ノウハウ依存症候群」を少し論耕したい。ぼくは1972年ぐらいから、5年ほどそのころはときめく江副さんのリクルートに居た。正確に言うとそのころは東映でテレビドラマの「キイハンター」「アイフル大作戦」「刑事君」「プレイガール」の助監督をぼくはしていたが、僕らの東映での小さい急進的反主流派労働組合の闘いの都合上の「凌ぎ」で、僕はリクルートにいた。「トラバーユ」が発刊されたり、フロムAが創刊された、企業としてのリクルートに華があった時代、ぼくは、そこで映像ディレクターとかコピーライターとして仕事を始めていたのであった。そこには優秀な若い強者がたくさん居た。僕が24,25才の頃だ。

話が逸れるが、リクルートは東大新聞会の営業部の江副さんが「大学新聞広告社」として独立し新橋の森ビルの屋上のプレハブからスタートした、ベンチャーの走りな訳です。そう言う意味で、とっても画期的であり、歴史に名を残す企業となったと思う。リクルート(ぼくが居た当時は日本リクルートセンターと言った)が出来たので、ダイアモンドビッグ社が、文化放送ブレーンが、また日経ディスコが生まれた。つまり、業界というか新しい産業を創造したのだ。これで、今までの「大卒就職・・新聞広告か職業安定所かコネ」の流れが全く生まれ変わったのである。従って、企業サイドも大きく変容し人事部の社員募集と採用のシステムとスタイルを根本的に変革することになったのだ。無論構造的には時代の要請がそうさせたのだろう。しかし一種の革命児江副浩正がほとんど構想し実現した本物のベンチャーであった。だから、社内組織もフラット型(ヒエラルヒーでなく平たい体制)で、江副さんは社内で「社長」とは言わずあくまで「江副さん」であった。70年代初頭にそのような企業が他にあったかどうかは知らない。知らないが、新しい企業組織のあり方に先鞭を付け、何か次の時代を予感させる夢を創造したことだけは確かだ。

しかし、罪も重いものがあるぜ。この項はここからを言いたいわけさ。「学生が、学業や探究をそっちのけで、企業に就職することが大学生の目的となり、血相を変え三年生から就職活動にあたふたとなる運命に引導した」罪はやっぱり、重いね。ぼくが携わった70年代の前半に「企業の調査」という言葉で充分なのに「企業研究」なるインチキ言葉を開発し、流布しつつあった時、ぼくはあきれかえったものだ。でもその「人をその気にさせるマヌーバー(maneuver)な言葉」を書き、媒体化していた一人がリクルートにいたぼくでもあったのだ。僕もその企業研究メディアに色んな原稿を書いていたわけだ。その結果というか、「就職狂想曲に躍らされ自分の主体性に自信のない大半の学生が、採用・面接技術だけへの偏執過多になり、企業サイドから深刻な事態だと警鐘が鳴らされている」現実になってしまった事についてここでオイオイ!と注文をつけたいのだ。最近、企業では面接を通るためだけに腐心する彼らを「攻略世代」とも言っている。この深刻な状況を作り出し、面接攻略だけの一群の、否大半の学生群を結果作り出したのは、やはりリクルートと言えるだろう。しかし、大半の罪は言い出しっぺ、先駆のリクルートにあるのではなく、それに乗せられ大学生の本来の意味を見失った企業と大学と、学生当人にあると敢えて言わせていただく。

若者だけでなく、30歳代の人間も電車の中とかを見ていると何かのハウツー本を読んでいる人をよく見かける。どうして、安直に方法と答えを求めるのだろうか。本当に不思議でならない。自分で考え、自分なりの方法を確立した方が楽しいし、オリジナリティーをみんなに認めてもらえるわけで、先生と言われる他人が適当に、部下や弟子に書かせた「魂が無い」本を読んで何が、何処がどうして参考になるのだろうか、そんな幻想を持つこと自体が不思議としか言いようがないぜ。本質を極めないで(極めようとしないで)、鋭いノウハウなど習得できるはずがないじゃん。俺なんか、30年ぐらい前かな、会社の設立の本と、確か税務の本を買ったぐらいしか、覚えてないよ。

まあそれは良いとして、企業の求める人材はハッキリしている。将来性が見込め優秀と思われる少数の人材(こういう人物には主体性を発揮できるような環境を与え個性を引き出そうとする)と大半の普通の人間と可能性の見込めない人間(これらには、ルーティンな作業を唯諾々とキチンとこなせる様に育成する)とをバランス良く採用する。ただそれだけです。ぼくがリクルートに居た時分と人事や組織、採用方法は大分変化した、確かに大きく変わったが、欲しい人材の本質的なことは不変と言って良い。平たく言うとこういう事です。これ以上でもこれ以下でも無いんです。東大や早稲田、慶応、優良国立ばっかり大量に採用していた東京海上は入社後の熾烈な争いで、自殺者が極めて多い企業として、70年代は一部に知られていた。そう言うこともあって、採用の「層のバランス」にも理があるといえば、あるのだ。

良いとか悪いとかじゃあ無い、組織とは、どうしてもこの様になる。こういう企業の現実の中で「僕ら普通の人間」は、問題はどう仕事上で闘っていくのか、なのだ。そのためにはノウハウがある(あははは、自己矛盾)。でも、このブログは、就職期の若者が読んでいないので、敢えて書かないよ。ただ、企業の人事部の目はもの凄く肥えており、粉飾は瞬く間に見破られると言うことさ。大切なことは、入ることじゃあ無く、入ってからの20年ぐらいをイマジネーションできるかどうかとだけ、ここでは言っておこう。企業研究などすぐ止めて、自分研究を直向(ひたむ)きにね。むだ毛剃って合コンに出てどうするの?自分にはムダな部分なんかありはしない、と開き直ってくれ。人間は十色だ、たで食う虫も好き好きさ。「ノウハウ依存」を脱する事から始めてくれ。就職も結婚も言わずもがな、ゴールじゃあないんだ。でも、本当にあれだよなあ、自分に自信を持てず、いつも不安に苛まれている現代青年は本当に不幸だ。気の毒と言うしかないねえ。ベトナムにでも、来いよ!毎日刺激だらけだぜっと、一応言ってみるか。さてさて、溜息は出てしまうが、何も悲嘆に暮れることもないよ。教育政策と社会政策(多様だが)を”志ある”テーマを決めてキチンと執行すると、10年後には子供たちの生活態度や学習能力が目に見えて向上することは、北欧やフランス、イギリスなどの例でハッキリしている。

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