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2010年2月4日木曜日

無為に生きる / そろそろテト(Tet)だ

やっとドスとエスキー亀山郁夫翻訳の光文社版「罪と罰」が2月2日ハノイへの機上で読了。第三冊目の読書ガイド部分が50ページほどまだ残っているが作品は終わった。大地と時代が織りなす病理を脳髄に堆積させた俊才な青年の殺意。不条理の殺人はカミユの「異邦人」ムルソーの「太陽のまぶしさが殺意を生んだ」のが有名な分けだが、よく考えると殺人は最後の一線を越える瞬間、不条理以外の何ものでもないだろう。不条理ではなく計画的にかつ理性的に実行される殺人ってそれは多分戦争と死刑だろう。ただし、これは少し前までの古流な認識であるかも。いま、現実のニッポンでは不条理の枠にも到底入らない「リセット型幼稚な殺意」が横行し始めている。警察や検察の今までの捜査方法やファイリングでは、解に導けない。担当の弁護士すらとまどいが多いという。不条理の次に無条理か。否、夢条理なのかも知れない。人類のメンタリティーは所謂「進化」とは全く別物のようで、一定の成熟による複雑化だけが急激に進んでいる。

さて、親爺は「復活」し危機を一応脱したようだが、危険水域に漂っていることには違いない。

■かつて昭和20年代、30年代は街の何処にでも小さな小売りの商店が散在していた。当時の「三ちゃん」農業ならぬ「母ちゃん切り盛り」商店と言えようか。繁華街の整った立派なストア以外には、従業員なんかいないのさ。母ちゃん一人で踏ん張っていたわけさ。かつて、日本中の何処の街にも在ったこのような小さな小売店は、まさにいま、ハノイの僕らの視界の中にある。ハノイの街で僕はこの愛すべき星の数ほどのお店の数々を毎日見ては、感心したり、あきれたり、昔をしのんだり、ある時は「行く末」を心配したりしている。ベトナムでは、更にこれより小さな路上商店が圧倒的である。

この路上商店の多くは「路上食堂」と「路上喫茶店」である。火の釜戸とナベ、ヤカンと(日本の公衆浴場にあるお馴染みの)小さなイスが10〜20個並べただけのお店だ。お店と言うより、場所取りに過ぎない。彼らの特徴は通行の邪魔とか、そばの店舗の迷惑などに関心が無く店の規模というか、「成り」の割に実は大きな顔をしていることで、僕からすると微笑ましい。面白いのはその路上「うどん屋」が、ちょっとキレイなレストランの店先に在っても、レストラン側は、文句の一つも付けない。路上食堂の機材の一部が住宅の屏(ヘイ)にぶら下げられていたり、テントの一部がヘイに結わえられたりは、何処にもある普通の風景で家主からの抗議はなさそうだ。

つまり、共生的な雰囲気があり、「ここはウチのヘイだ、ウチの土地だ」とあまり野暮なことは言わない。従って、お願いしているサイドも至って平気なのである。すみませんね、いつも・・ってな顔はしていない。当然とばかりに平然顔。また、かなりの年齢の老人は、見ているとどうもお金は払っていない様子である。「シルバーパス」の様な伝統が在る(?)ようで、食事を終えると払わないで悠然と去る(近々ブオンに聞いておきます)。そして、飲食だけでなく、物販の路上店もあるが、商品の陳列の関係で完全路上店はなく、小売店と路上店のいわば中間にあたる「仮設テント店」となって、洋品とか、生活道具などを販売している。10数年もベトナムに皆勤していると、いつの間にかそういった市井の小さき店舗の常連となってしまったので、僕の短い足でさえ持てあます小さいイス(台)に腰掛けつつ、あちこち見渡してみる。

僕らが中学校の時、ヤコペッティ監督のイタリアの記録映画「世界残酷物語」という当時としては衝撃的なタイトルのがあった。世界中でヒットして、続編や類似な映画も数多く見られた。奇習や性風俗などをやらせも含めてまとめたキワモノでもあった。しかし、世界の広がりや世界の文化情報に飢えていた僕ら一般大衆は、奇異さも含め飛びついた。内容の記憶は余り実はないのだが、極めて驚いたことが一つだけ在った。12,13才ぐらいの日本人少年の僕に驚きを与えたのが「着飾ったり、お化粧したり、遊んだり、暇を弄んでいるのは、世界的には男性」であったということであった。特にアフリカのシーンでの、その描写は目に焼き付いている。西洋てきなもの、日本的な物以外に、まだまだ世界には不思議な文化で満ちあふれていたのだ。驚くのも無理はない。学校で着飾る男性のこの話になり、誰か「ライオンの世界と同じらしいよ。雄は悠然と何もしない」と言っていた。

40年前の1970年の12月に僕は初めて海外に出た。東映の撮影スタッフとしてグアム島とサイパン島に船で4日も掛けて行ったのだった。東京12チャンネルの「プレイガール」という沢たまきをボスにしたお姉ちゃんアクションもの。そのとき、初めて見た。街でも住宅街でも玄関の三和土あたりにぼんやりと腰掛けて煙草を燻(くゆ)らせている男どもの何と多いことか。全員が失業者なのだろうか。南洋だから、無理して労働しなくても食えるのかもね、などと同行のスタッフと軽口たたいて蔑んだことを思い出す。そして、その後もセイロン(とはいま、言わないか、スリランカだね)とかモルジブ、フィリピンなどでも同様の「何かさあ、無為な生活してんじゃあねーの。時間が無駄だよねー。」と感じてしまう場面に遭遇することがたびたびあった。スペインあたりもそうだったし、NYでもクイーンズのほうで「憐憫の情」を感じたりした。「彼らは時間の無駄に気がついていない」と。

そういう体験から、30年も40年も経て、僕自身はどうなのだろうか。ハノイの路上食堂でうどんをすすりながら、ふと思う。ともかく忙しくしてきた。「そんなに急いで何処行くの?」の交通標識にグサリと刺されるほどに何かに憑かれるように急いできた。安定した企業に入ろうとしなかったので、一人で(勿論、いつも良い仲間たちには恵まれていた)起業し何が何でも自分の家庭をそれなりに豊にというか、ハッピーな生活にしたいがための焦心がそのように急がせてきたような気がする。しかし、その忙しがってきた人生って、「どんだけ〜」。ちょっと前の流行言葉で、すっかり総括されてしまった。まいったぜ。どんだけ〜、どの様な価値があるの〜?とオカマタレントは、鋭いことを大衆に投げかけた。

僕って、人生の「成果」としてのお金や蓄財にはほど遠いものになってしまったわけだが、待てよ、他にはないのかい?むむ、素晴らしき友人知人とか日本とベトナムの家族たち。これは一応「成果」としては120点としておこう。他にはないのか?あわわわわ、知識とか、想像力とか、他人様の脳内海馬あたりにちょっと残した僕という画像記憶かな。せいぜいそんなもんかあ。僕の人生の「成果」って、2,3行で書かれ片付けられるものでしかない様子だね。ホントに貧しいというかほとんど無に等しいね。僕らは西洋合理主義の環境で教育をうけ、その線で、つまり日本社会の要請のラインに従って育成され、大人になった。個性など意味がないほど社会の要請の形状に当てはまった大人になったのさ。諸君、そこいらは冷静に認識した方が良いぜ。

僕らの人生って、ほとんど画一化に近い人生を歩んできた。個性的って思っても、「許容の範囲」、蟻の個性とそう変わらんさ。僕の仕事をしてからの40年ってさ、毎日玄関先に座り込んで道行く人々を眺めているのと、どの程度違いがあるかってことさ。フィリピンやスリランカで、煙草を燻らせながら、僕を見詰めていた無表情の親爺や若者があのまま数十年、たいして変わらない「風景」として、今日も継続していたら、それらと僕の40年間とどの程度違いがあるって言うのだろうか。今日もハノイの路上茶店で「無為な時間」を過ごしている様に見える親爺や若者たちがわんさか存在する。しかしひょっとしてもし、彼らがムダの意味の「無為な生き方」でなく、哲学的に”無為に生きていた”ら、僕ら近代合理主義の御曹司たちは、戸惑わざるを得ないだろう。無為に生きるとは、「流れゆく時間を受け入れる」ということだろう。路上の喫茶店で、玄関先で佇み、己を時間の大河に晒し、神のように静かに受け入れるということだ。

もし、彼らがそのような域にいるならば、我々のあやふやで軽薄な人生観を簡単にひっくり返す破壊力さえ持っているかもしれない。無為に生きるを実践しているサバンナのライオンたちも、ちまちました世間から離脱し、ゆったりとした時間を王の佇まいの中で受け入れている。僕が60年間培ってきた知識とか教養とか、地上の愛とか、そんなものをどんなに総動員しても無為に生きる彼らには勝てないと思ってしまう。滔々(とうとう)と流れゆく無限の時間を宇宙の森羅万象の中で、人々は淡々と受けいれ、受け流している。そのことを理解すること、自分も受容すること、それ以外に自分のソリューションはないだろう。あれれれれ、どうしても西洋合理主義風情でというか論理的に解釈しようとしてしまうね(笑い)。僕にとって、今「無為」と「無垢」は大切な言葉である。更に言うと阿部の「阿」も重要な意味を持ちつつある。

「地球の記憶」という言葉がある。40数億年の「生物である地球」の各時代の痕跡の事である。この記憶には日本人どころか人類という記憶すらに残らないかも知れない。

■本年の旧正月(TET)の元旦は来週14日日曜だ。だから今日土曜日は、ブオンさんも何かと忙しい。いま、ベトナム全土は言わば「師走」なのだ。朝早くから、近所の市場の買い出しに僕も動員され、専ら自転車でのもの運びだ。混んだ市場の中にバイクでグイグイ入ってきたおっさんにチオイ(おばさん)が「何よ、あんた、非常識よ」みたいな罵声も飛ぶ中、自転車番の僕なんかも身の置き場もなく、ブオンがあれやこれや買った食品の袋とか、見守ってるだけ。”我が家”で正月に食される鶏などは、足を縄で縛られたまま白っぽい目をぱちくりさせていた。ああ無情。市場は何時来ても楽しいものがある。ハノイでは郊外型のスーパーの進出も出始めており、この様な自然発生的にできあがった昔からの青空市場は、10年後霧消しているかも知れない。ブオンの家でお肉とか、ゴハンとか残った食べ物を冷蔵庫にしまうとしたら、「だめよ」と止められた。気温25度とかでは、お肉を置きっぱなしに出来なくなった僕らは、食品管理の原点を忘れて、何でもかんでも冷蔵庫だ。大丈夫か?と返事したが内心、嗚呼そうかもねと合点した。なによりも、ベトナム人の口に入る牛、豚、鶏は、今朝に屠殺しさばいたものだ。新鮮な物は当面腐らないということなのだろう。味を大切にする彼の国の人々は、冷蔵庫に頼っていないのだ。

今日は当校の5階にある神棚の大掃除。あたらしい果物とか、チープな印刷の100ドル札の束とか、紙製の金赤の帽子とか人形とか、お餅とか、供えた。なぜか、今日は台所の神様の「元旦」らしく、オフィスの小さな炊事場のガスコンロの上にお供え物など置いてブオンと仲良くお祈りした。台所の神様は各家庭の様子を早めに天国に報告する役目があるらしく「それで、元旦が一週間ほど早いのです」とブオン。彼女の祝詞は何いってんだか、わからないが、信心深いお祈りを僕もマネして挙げたりすると、結構楽しい。ガキのころは宗教なんて蹴散らす対象でしかなかった左翼急進派であった僕でも、いい年になると宗教的儀式は楽しめるね。特にベトナムの場合、儀式は仏教と民間自然宗教的なもの、風水などが混じり合った感じの物なので、日本仏教や神社のような高額な献金とか、過度な形式主義がない分、僕など反抗老人はうれしくなる。

これを書いている時分には、1階の玄関先で、チープ印刷の金赤の代物をブオンやスタッフが燃やす儀式を執り行っているようだ。5階まで燃える臭いがしてきた。当校は相変わらずお金はないが、どうやら安寧なお正月をむかえられそうな・・。後は仙台の親爺に気を張ってもらうしかないね。
明日、日曜なのだけれど、大阪の優良企業の企業プレゼンと面接がある。学生もNGOCさんらスタッフも土曜まで出勤して頑張っている。ベトナム人のスタッフには、心から敬意。彼らに今年幸せ有れ!

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