2010年3月5日金曜日

親爺の94年



ぼくの親爺が死んだ。3月1日朝方、仙台の実家の近くの病院で逝った。大正4年生まれ(1915年)の94才であった。この10年以上同居の弟夫婦が84才の母も含めて面倒をすべて見てきて貰い、僕はたまに訪れるだけなので、実は父の死に実感があまり無い。言いにくいのであるが、まだリアル感が起きてこないのである。今もハノイにいる僕は、彼の死を見取る事も、葬式にすら出席していない(3月6日土曜日)。現在観光シーズンでチケットがキャンセル待ちすら入手できない事情でそうなってしまったが、そんなことは理由にならない。しかし、恐ろしいほど僕は冷静で、弟夫婦に喪主をお願いし、娘はるひ(33才)と息子の一行(29才)に家督である僕の名代を頼み、ハノイの自室の祭壇にベトナム独特の太い線香を毎日手向け、親爺の在りし日の表情や動作を思い起こし、亡くなった妻晃子と代わるがわるに過去のイメージを引っ張り戻しその脳裏の中に鮮明化された五十歳代ぐらいの親爺の相貌に「お父ちゃん」と声を出して祈ることで、自分なりに良しとした。ここに評伝(らしいもの)を書くことで、僕と親爺との愛情と相克を思い起こしたいと願う。           
* 写真は1955年(昭和30年)秋と思われる。私(中央)が小学校1年で7才、父が40才、母が31才。右が年子の弟で、赤ん坊は生まれてまだ半年の三男。

【評伝 阿部六郎】
あべろくろうは、大正4年宮城県仙台市で12人兄弟の六男として生まれた(11人説もある)。父親は阿部太助という宮城県の県議会の議長で、有力な政治家であったようだ。仙台で一番の繁華街は「東一番町」という。その一番町の中央部に実家を持ち、東一番町一帯の多くを所有していた。が、僕の母によると、12人兄弟の家督で市議会議員や不動産業を営んでいた来太郎が、仙台ではちょっとした有名人なので毎日芸者をあげて遊びに遊び呆けた結果、多くを取り巻きの連中に騙されたりして手放してしまったようで、やや口惜しい様にそれを大昔に言っていたことがあった。しかし僕の子供の頃でさえも松竹文化ビル(松竹系と洋画ロードショーの高級映画館があった)と横町挟んで新東宝系の中央劇場(現在は中央ビル)とその周辺の横町(小路)の商店街など主要な一角は所有していた。

僕たち六郎一家はその中央劇場のスクリーン裏の長屋に当時住んでおり、僕は3才から5才の小学に上がる前、ここの良好な映画環境の中で過ごした。それを解りやすく言うと、我が家の廊下にあるいくつかの穴から中を覗くとスクリーンの反対側ではあるが、暗がりの中に映画の世界が広がっていたんだ。今は無き「新東宝」系だからいつも鞍馬天狗とか、東千代介ものとか宇津井健の「スーパージャイアンツ」とかが架かっていた。来太郎叔父は確か立教大学の野球部あがりである。長嶋や本屋敷、杉浦ら後輩の活躍する東京六大学のエピソードを僕が幼少時、テレビを囲んだ本家の、ロータリークラブの額入り標語が欄間に架かっていた大きな茶の間での団欒(だんらん)でいつも嬉しそうに何度も話していたような気がする。親爺はいつも「六ちゃん」と、ぼくは「正坊」と叔父に呼ばれていた。その大家族の団欒には、何故かいつも見知らぬ客人がいたものであった。
彼はハンサムで豪放磊落な人物であった様に僕には見えた。その来太郎叔父の奥さん、つまり僕にとっては本家の叔母様である操(みさお)叔母さんはとても艶やかで美しい人であった。東北には珍しい江戸っ子風情の女性で、気っ風も良く僕ら分家のガキどもにはお小遣いの有力なルートの一つであった。母によると、叔母さんは東京の弁護士さんのお嬢様とかで、田舎町仙台の豪族に嫁入りしたので、出の良いお嬢様にとっては精神的に苦労したとかでかつて同情的に言っていたことがあった。
本家の子供は四男一女の五人いたが大概なぜか高校から慶応と慶応女子に行った。僕らと仲の良かった同世代の四男の和夫さんは、父親似で大変美男子な人で慶応からフジテレビに行った。現在、岩手辺りのフジテレビ系放送局の社長をしていると聞いた。

さて、親爺の「評伝」なので話を父に引き戻す。東二番町小学校時代、おそらく大正末ごろだろうか、クラス担任の教員から、あらゆる事で意地悪を露骨にされたらしい。金持ちに対する僻み(ひがみ)のような事だろうか。徹底していた様だが、気丈夫な女中が毎日付き添いで登校してくれ、休むことはなく対抗して通学していたという。中学校は当時中学校であった仙台育英に。その後東京の旧九段高校の予科というクラスに入り、青山学院に行ったようだ。学究的な父六郎は家督来太郎が継いでいた実家に馴染まずに反抗することが多く、早くから仙台を離れたかったらしい。その後、日本医科歯科大学、九州大学、広島大学など早稲田に行き着くまでに五つほど大学に短期的に入り腰掛け的に浮遊していたようである。

大学は七校に行ったと語った父の話はかなり鮮明に覚えている(ちょっと普通の話じゃあ無いからね)。各大学の授業料とか生活はどうしていたのか、つまびらかにはならないが、かなりの余裕が在ったのであろう。実家には寄りつかなかったが、それにしても、普通じゃあない身分であったのだと想像できる。で、最後に早稲田大学文学部心理学科に入学し、博士課程にも進学した。しかし、先輩か、教授と反りが合わず、やや孤立気味になり中途で辞めたのではなかったか、僕の記憶は曖昧だ。マスコミにも良く出ておられた本明寛さんが同輩か後輩に居たようだ。阿部六郎が学業を終え、郷里で教員になったのは1946年(昭和21年)32才である。つまり、普通の大学生より早稲田の大学院を含め約10年間自由に学んでいたわけだ。

仙台を出て、あちこちの大学で流浪していた風来坊的な彼が何故この時期に仙台に定住することになったのかは良く分からない。が、宮城県北部の漁村志津川村出身で仙台中央部にある花京院通りで、日本専売公社とか森永製菓の代理店をしていた旧制仙台一中出の数学マニア阿部憲助の長女で仙台二女とその後常磐木学園に行った目鼻立ちがハッキリとした可憐な娘愛子とお見合いしたことが、間違いなく大きかったのであろうと思う。早稲田の心理学の大学院から見合いのため戻ってきたのが終戦直後の昭和21年ですぐに愛子と結婚。僕正行(昭和23年8月生まれ)文明(昭和24年)、高也(昭和30年)の男子3名が生誕した。帰郷と結婚と同時に六郎は、最初東北学院の英語教員として就職した。
この終戦後の2年間は帰郷、就職、結婚とめまぐるしいほど忙しかったと思う。だけれども平和ニッポンの全国的な明るい活気と相まって、充分過ぎるほどの幸福感が阿部六郎と妻愛子に天与されていたのではなかったろうか。父と母と僕ら3人の兄弟の昭和20年後半から30年中葉までの白黒写真にはその幸せを享受していた市井の若い教員の小さな幸福が素直な表情の中に現出している。おそらくは、僕ら団塊の世代が持っている無数の古いアルバムにも同様な家庭写真が輝きに充ち満ちて各頁に貼付されているに違いない。

東北学院はキリスト系の高校であったので、当時の教員の集合記念写真には、米国人も散在しており、バックに映っている校舎に刻印されている標語は「LIFE LIGHT LOVE」とある。
六郎は学院に数年間在籍した後、宮城野地域にある仙台工業高校で同じく英語教員となる。僕が松尾神社幼稚園に通っていて物心付いていたときは既にその市工高の教員で、1953年頃に福沢町に新婚に相応しい自宅を新築した。白とくすんだ赤を基調にしたツートンカラーの洋風のガラスのテラスもあるハイカラな家であった。屏(へい)は木製の白い柵で、そんな家はここら一体に全くなく、近隣のしもた屋の家の佇まいに比べかなりあか抜けていた。僕ら兄弟は、そのような西洋風なデザインを選択した父の指向性を良しとするセンスを自然と受け入れていたと思う。周囲には田んぼと森しかない新居から、出勤してあぜ道を歩いて行く父に「いってらっしゃあ〜〜い」と4,5才の僕と年子の弟が大声を架けると、まさしく点景となりつつある遠くの父が大きな仕草で手を振って応えてくれた記憶が鮮明に甦る。当時、労働組合の活動など戦後民主主義の謳歌の環境の中で父は高教組に入っていた。活動家でもリーダーでも管理者でも全くなかった研究肌の父であったが、明るい未来に希望と夢を託している若い英語の教員の姿には、愛子や僕らから見て、おそらく目映(まばゆ)いものがあったはずだ。

少年である僕を彼は一貫して「正行君」と呼んでいた。子供でも人格が有るという考えなのであったろう。でも、僕の友人が僕にこっそり「お前の親爺は息子にクンを付けて、他人行儀だべ〜」と言ったことがあり、僕は悔しくて父に激しく抗議したことがあった。父は仙台工業高校から、仙台商業高校に転勤したのは、僕が上杉山中学の頃だろうか。その後、僕や弟の文明が仙台第二高等学校に入ったので、父の通勤と僕らの通学が学校同志が隣接していたこともあって、時々一緒に家を出たりしたものであった。当時は全く思念が及ばなかったが、たまにではあれ、青年になりつつある息子たちと肩触れ合い連れだって、また満員の市バスに一緒に乗車して職場に向かう父の胸中には、家庭を持つことの尊さや特に語ってはくれなかったが、息子たちとの大切な思い出として、永く脳裏に納められて居たのでは無かろうか。
仙台商業高では、英語だけでなく、倫理社会とカウンセリングルームを預かっていたと思う。

ところが、1970年前後に自殺を予告して自殺をしてしまった教え子が出現し、父に大きな精神的なダメージを与えたことがあった。僕は東京に行った後で、大分経ってから母や弟から聞いた。アメリカの臨床心理学者カール・ロジャーズなどの本格的なカウンセリングを研究し、”共感”というテーマを実際に臨床現場で苦闘し、実践していた父にとっては苦しくて悲しい未曾有な初めての困難になったのではなかろうか。とりわけて、挫折感との戦いの経験が少ない六郎にとっては、自分の精神史に残った大きなエポックとなったに違いない。僕が東京で生活を始め、弟が京都立命館に行った後の父50才代前半の事であった。
父が、仙台高等工業専門学校(名取高専)に転勤したのはその後だと思う。高専では仙台のような地方の教育界にはほとんどいない本格的な心理カウンセリングの専門家として、カウンセリング専門教員になった。自分の本当にやりたい研究と臨床だけとなり、仕事の実践ということで言えばおそらく一番充実していた時期ではないだろうか。    《中断》どうも評伝にはならず、思い出のアラカルトだけになりそうで、熟考。書けない状態が続き、本日3月25日。続きは、4月初旬にハノイで記述予定。

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