2010年2月13日土曜日

ハノイの大晦日

2月12日朝方、目が痛いと思ったら何か左目に入っている。ちょっと慌てて引き出し探って目薬を取り出し、「ゴミ流さなくっちゃあ」と大量に上方から目に点滴落としたが、何やら痛みと異物感が納まらない。そのうちに僕の顔とかシャツに何匹の蟻がいることに気がつき、「蟻がはいりやがったな」と悟り、またして目を洗浄したが、すぐには回復しなかった。枕にも10匹は居たし、どうなってるんだろう、と思いつつも、昨晩は風呂入ってるし、甘い物をベッドで食べた記憶は無いしで、見当がつかないが、シャワー浴びて、戻ってきてベッドを探ったがいつの間にか、蟻の義勇軍は、阿部襲撃を終え撤退していた。

何故義勇軍などと、少し好意的な名称を今使ったというと、実は今回のハノイ出張では、どういう訳か、僕のデスクに蟻の大群が登ってきて、大切なMAC・G4のキーボードに出たり入ったりして、遊んでいたんだ。以前からたまにはあったが、現在は冬で僕のMACの熱が暖房となってるようなのだ。蟻の死体がキーボードの奥に累々と溜まるのはタイピング機能上、良くないし、僕の意地悪心もあって、持って来ているご用達ヨードチンキをティッシュとか、綿棒に浸して、パソコンの裏に敷いたり、キーボードの端っこに置いたりして、あの激しいスメルにてほぼ撃退した矢先の朝の襲撃であったから、その心意気良しとして、義勇軍と思わず名付けてしまったのだ。蟻ながら天晴れ。
1974年頃と思う。新婚の僕と晃子が新所沢の団地に居た或る夏の朝、いきなり耳が痛くて「痛ててて」と目が覚めて、「どうしたの」と彼女に言われて、耳に人差し指をつっこんだ。何やら居る、と言うことは解った。「ブイブイ」と僕の耳の洞窟奥で音もするほど暴れているようだ。耳鼻科にいったら、「あんたカナブンだよ。珍しいね」と医者がぼそりと言ったことを想起した。

しかし、蟻はどう考えても偉大ですね。どんな目的で、この5階まではい上がってくるのか。
よく言われるけれど、勤勉、努力、集中力、共同性・・どれをとっても人間様以上だよね。僕に義勇軍を編成して、復讐戦まで挑むんだぜ。僕の左目に侵入した輩はいわば自爆テロの殉教者なのかな。それにしても、人間社会は蟻社会を超えているのか。菌の社会、植物の社会、動物の社会の上に覆い被さるように後発で参入し、暴れまくった人類の社会。結局、蟻の社会も、植物の社会も、動物の社会もゴキブリの社会もおそらく地球上で綿々と生と種を継続していくだろうと言うのに、人間様の社会だけはタイフーンの様に駆け足で来て駆け足で何処かに去って行くようだ。

ハノイの大晦日は日本と違い、大晦日(本日)や前日の12日など「年末が押し迫った」感がないのである。日本なら、新宿やアメ横、築地など買い出しの客で押すな押すなの大盛況ですが、こちらハノイは繁華街でも、市場でもこの2,3日、日を追って閑散傾向。2日ほど前に仕事の関係者から「ハノイの年末どうですか」とメールで問われて「いやあ、街中がアメ横状態ですよ」何んてしゃれたつもりで返事書いたが、その日から街の雑踏は減少傾向。あれれ、だね。今朝13日も、近所で「ブン 鶏・タケノコ」うどん食べに行ったら、昨日よりも出店が減ってるし、買い物のパジャマおばさんたちもめっきり減っていた。ハノイの人は大半が田舎から来ているし、都会育ちの若者も祖父や、大祖父の実家に正月”やり”に帰郷するので、400万のハノイの人口は半分以下になるのだろうなあ。一作年の元旦に僕とブオンとリンと3人で朝9時頃散歩に出かけた時の僕が撮った写真がある。”あの渋滞で有名なフランス病院前のフンマイ通り(芳梅通り)に、僕ら以外人一人、オートバイ一台も映っていない広々のストリート。そんな写真が本当に在るんですよ。一年に元旦の朝だけだと思いますが、ハノイがゴーストタウン(正月に相応しくない修飾ですが)と化すのです、元旦は。

ハノイでは子供の写真を使ったカレンダーが「横行」している。ちょっと、「どうかなあ」と思うところが在るので揶揄して横行とした。僕の学校のスタッフも、ブオンの親戚も「幼児」がいる家庭では、子供の晴れ姿などの写真を使って、自前のカレンダーを作成し親戚に配る。1枚物もあるし、12枚の月めくり物もある。それを売ってる小売店もある、他人の子供のを誰が買うんだとい思っちゃいますが。大抵5セットから10セット程度の小ロットの印刷のようだから、オフセットではなく、コピー系の印刷機を使うのだろう。NGOCさんの娘さんのカレンダーはレイアウトにも工夫があるし、何せ子供が美人の母親似でかわいいんだ。ボーイッシュでね。僕、ほしいなあ、と言った。

ブオンの妹のホアさんのも、母親のホアが美人だけに幼児も可愛い。僕には男児か女児の区別つかないがね。カレンダーは、母親が容姿端麗の家庭しかつくらないのかな、かもね。日本でカレンダーを子供の写真で作成する大胆な家庭は無いと思うが、例の「子供写真の年賀状」あれには今でもうんざりというか、親の発想のセンスが疑問だよね。よく晃子が昔、「私は親と友人であるが、この赤ちゃんとは友達じゃあないのに。親子一緒の写真は勿論いいけれど、赤ちゃん単独のもらってもねえ」と、理路整然と評論していたっけ。そのイデオロギーが僕にもおおいなるインフルーエンスの狼煙となり、いつの間にかこの事の僕の考えとして定着したのだ、正直に吐露すると。奥方の意見は偉大さ。

ハノイにも意地悪夫婦がいた。僕のような所詮外国人は、表面のベトナム社会を愛でてる場合が多いので、良いことだけが多く目につく。僕のように16,17年も頻繁に通っていると、イヤなこと、悪いことも大分目についてくる訳ですが、この様な意地悪な老夫婦はちょっと初めてだ。しかし、その夫婦にインタビューして、詳細を調査しないと本来は論断出来ないが、市場のなかの「場所取り」を巡っての攻防が結構強烈であったのだ。12日の朝、ブオンが6時から買い出しだと言うので、リンと連れだって、近所の青空市場に行った。アメ横状態かなと先入観で思っていたら、先ほど書いたようにそうでも無いお客さんたちの出足であった。市場の真ん中では、数軒の鶏屋が占拠していて、鶏を事務的に絞めてさばいて、さばいては熱湯につけたりの大忙しさ。その自分の順番を待つ鶏の哀れさは、勿論市場には微塵もない。食欲と購買欲が朝焼けの市場を支配している。果物、お花、屠殺直後の豚肉、牛、地べたに置いたままの魚を売ってる店舗と多彩である。

市場の入り口に3畳ほどの食品店があって、店舗は朝早いのでシャッターは半開き状態だが店舗前にそこの経営者らしい中年夫婦がいて、何やら店舗前の小娘がやってる花屋(大量の薔薇を並べているだけ)に文句を言ってる風であった。ブオンとリンは市場のあちこちで買い物を始めていた、僕は例によって、入り口付近で待機中。ブオンが言うには外人(僕)が同行して買い物すると、2,3割ぐらい割高になるので、付いてくるなとのお達しが在ったからである。今時、外人金持ちじゃあないぜ。まあとにかく、事態は夫婦の実力行使で一変した。花が入った大きなザルなどを、目の前から引きずって市場の隅に持って行ってしまったのであった。
ひょとすると昨日は、場所を使っても帰りにキチンと掃除が出来ていなかったのかもしれない。何があったかも知れないが、10Mばかり、強制的にその田舎娘の花屋は移動させたれた。通常は露天や路上店には、一定のルールを満たしていれば、誰も文句は言わないし、あれはあれ、これはこれといった何となしの共同性の文化でベトナムの小売りは成り立っているので、この事態はちょっと驚いたし、正義の味方の阿部としては、「そこまでしなくとも、いいんじゃあないか」と言おうしたが、小娘に付いていたお客さんたちが同情もあってか、人数が倍増し、商売は端っこでも結構ほくほく。僕が出て行くほどでもないか、と矛を収めた。そういえば、通訳も要るしね。

で、そうこうしているとその空いた空間に老婆がスーと来て、露天を張り出した。慌てたさっきの中年夫婦が「ここはダメですよ、おばあさん。当店の邪魔だし」みたいなことを言い出した。面白くなってきたぜ。この大婆は70才ぐらいかな。何をいわれても怯(ひる)むことない。耳が聞こえない振りなどしながら、せっせと準備。小テーブル一つの小間物屋のようで、お客さんもすかさず付いて、営業が開始された。中年夫婦は、年寄りじゃあどうしようもないなあとそそくさと退散、二人のパジャマの後ろ姿が、ちと憐れ。

その後三人で市場を移動、別な露天の集合エリアに向かった。途中で、ブオンが出会ったおばさんと何やら一瞬立ち話、おばさんもニコニコしてるので、僕も営業スマイル。愛想良しにこれ勤める。で、誰ってブオンに歩きながら聞いたら「知らない人」という。「そのお花はしっかりした花びらね。何処で買ったの?」ときいただけという。なるほどね。日本じゃあ、老人同士が電車の席で赤の他人でも話し始める事が在るけれど、道ばたで売ってる場所と金額も見ず知らずの他人に聞くんか〜。街中が親戚感覚なんだね。ベトナムの良いところの一面ですね。*しかし、大阪のおばちゃんあたりはどうなんだろう。

亡くなった妻晃子(てるこ)は、1947年生まれ。伝統あるF電工創業の筋の家庭(父が旧制東京高校から東大、母親も御茶水女子大)という金持ちではなかったが、毛並みの良いインテリの極地の環境で育ったし、しかも小中高と学芸大付属とか教育大付属(現筑波大:何せクラスの半分は東大に行っていたらしい:鳩山邦夫とかもクラスにいたと言っていた)であったので、家庭だけでなく学校の校風の影響も手伝って、生活の仕来り(しきたり)とか、伝統的文化に明るかったし、とても大切にしてきたようだ。僕など田舎の教員の息子だし、戦後民主主義の体現者の一人であった親爺であったので、「伝統とか、古い物」を否定する気風が我家の趨勢であったので、僕なんかは何も考えずに「やりたいから、やる」で、学生運動に走ったりしたわけだが、その一群のシンパサイザーになって一時期活動していた妻は、僕ら田舎者単純派と大分違って大いなる葛藤が心中に在ったものと思われる。

で、何を言いたいかというと、家庭での躾けとか仕来り、とくに正月の質素だがキチンとした準備の思い出などをちょっと記したいので、その前提というか背景をつまんで書いたのだ(天国から「こんな書き方しないでください」と叱責の声がしたような・・)。妻の日常のお料理も多彩なメニューで、どれもこれも美味しかった。彼女は華美なものとか派手な演出されたものは嫌いで、服装もそうだが「良い物を手入れし長く使う」センスであった。端正な事を好んだ。無農薬や自然農法の食材をも積極的に昔から食卓に出していた彼女でしたので、お正月はさらに格別で、ほとんど一切手料理で作って「お重」に盛り付けていた。おせちをデパートで買う風潮の、彼女はその対極に居た。その幸福なおせちは毎年紅白歌合戦が終るころできあがり、「行く年来る年」が始まると乾杯し、子供たちとちょっとつまんで、旧年を語り、新年を祝った。注連(しめ)飾り、お花、床の間の巻物を変えたり、細々(こまごま)手作りで晃子は準備し、謹んで正月を迎え(僕と子供にとっては、迎えさせてもらった感)、元旦には子供が小さい頃は書き初めとか、親類の子供交えて百人一首などを一緒に楽しんでいた。当初、歌留多じゃあなくて百人一首を悠長にやってる家庭もやっぱーあるんだあ、と僕なんか思ったね。で彼女と結婚してから、初めてやってみた。別に面白くはなかったが、一応、ニコニコと。「天の原ふりさけ見れば春日なる〜」しか知らないもん、負けるに決まってる。

日本では松飾り以外、あまりお部屋のお花飾りは床の間程度で、派手にあちこち置いたりはしないが、ベトナムはちょっと違うようだ。高さ2m位の桃の苗木をまず玄関先に置く。松飾りと同じ意味合いでしょうね。で家の中では、壁の上部に設えられた祭壇以外にも高さ50センチもある大きな花瓶数個に大量の色々なお花が投入され美しく飾られる。だから小さな家はお花で埋まる。色とりどりで香しい正月をこの様にして迎えるのだ。ブオンは若い割には仏教とか風水とか、ベトナムの神事や伝統を特に大切にしている一人だ。だから信心も深い。自宅の神棚とVCIのオフィスの神棚に果物からバインチュウという餅米のおこわとか、アメリカドルの偽札約数千万ドル分とか(100ドル札が束で山積みだぜ)、ご先祖が天国での生活に困らないような多彩な貢ぎ物を納める。さあ、あと5時間で新年だ。*なぜ神事に米ドルかは、別の機会に。

寒い、極寒といったら嘘になるだろうか、確かにそれは嘘になるが、僕もコートを着ないと、寒気がするくらいなのである。ベトナムの家には通常暖房がない。最近でこそ、電気ストーブとか、暖冷房のエアコンを入れてる家が増えたが、床がタイル敷きの建築法が一般だから(夏涼しい)、冷え冷え感は、解消出来ない。今年は特に寒い、朝方などは雪が降ったり氷がはる一歩手前の気温だとおもう。ブオンは「元旦はこの様に寒い方がいい」とセンスの良いことを宣う。冬は寒く、夏は暑く、春と秋はメリハリつけてしっかりと在るべきだと僕は思ってるので、東南アジアのベトナムのブオンに、そう言われると、感慨深いものあり。そう言えば、最近の日本は春と秋という四季の移り変わりの微妙なソラリゼーションが「退色」気味。存在感が激減している印象だね。昔親爺は冬のオーバーコート以外に春先用のスプリングコートなるものを着こなしていた。こういう季節の移り変わりの時間と変化の推移は日本人の大切な機微とか感受性とかを育んできていた。この先、季節は、特に春と秋はどの様に変容していくのか。感性やひいては文化も変容していくということだろう。

で、元旦である。
僕は、本年二度目の元旦。ラッキーかな。では。

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