2010年3月30日火曜日

★ 僕流アミニズム / 僕の岡本太郎体験 / テレ朝「サンデープロジェクト」の打ち切り

■ 先日、3月中旬に鎌倉の鶴岡八幡宮の大きな銀杏が倒壊した。神社仏閣に不案内なぼくはニュースで知っただけで、とりわけての感情も湧いてこないが、ご近隣の主婦がかわいそうにポロポロ涙をこぼしながら自分の人生と照らし合わせてカメラに向かって語っていた。おそらく「ともかく取材してこい」と言われるままに来たとみられる無能そうな青年のインタビューに答えていた。最近の情報だと、「今まであったそばに移植し若い芽の成長を見守る」ことになったようで、産経新聞などは「今後1000年間参拝者は、同時進行でその生育を目撃出来よう」とか、かなり大時代的表現で伝えている。また、そのちょっと後、昨今のLEDの時代に押されて「マツダランプ」でお馴染みの電球の製造が老舗東芝で終了したこともニュースになった。中小の他社では、しばらく継続されるようだが、あのエジソンが創った暖かそうな色合いのフィラメント付き電球とも僕らはいずれおさらばする事になるらしい。ニュースでは、数十年にわたってこの白球電灯を地味に製造してきた「機械」様に東芝の現場の社員たちが神妙に手を合わせ、涙していた。樹木に祈る。機械にさえ涙する感性。解る、分かる、その気持ち重々に分かります。神社や仏閣が継承してきたいにしえからのご神託の神木とか御石とかは、天の邪鬼のぼくにはもう一つ心の乗りは悪いが、故郷の森や山河また、長らく愛玩してきた物に畏敬や生命を感じて祈る姿は、とっても分かります。

何を隠そう、ぼくはかなりのアニミズム派なのです。ぼく流の解釈でそれは、あらゆる事物に生命が宿っていると考えることであり、モノによっては神すら宿っているという伝統生活に根ざした文化の事だ。山や岩、巨木は言うに及ばず、いま目の前にあるコップ、薬瓶、カメラ、時計、鉛筆とかボールペンにも何らかの生命というか「人格」が、有るだろうとぼくは思う。いや、在るだろうと考える性癖、否もっと正確に分析すると、そういう感覚がぼくの生活と思想の起点を為している様なのである。これは、子供の時から随分と長い間続いているぼくの生の感性なのだ。これに関しては親爺とか、誰かの影響を受けたわけではないし、幼少期にそのような影響を与えるような本を読んだわけもない。いわば、性癖に近い感覚なのだと思う。

先日テレビで「熊野参詣」についてのドキュメントを見た。所謂、神社神道に収斂されないもっと原初的なアニミズムの世界であった事についても解説もしていた。僕ら人間は、何故に自然や事物に命とか神の降臨をみとめるのか、そして何故祈るのか。人は自然界に神の存在を認め、何故対自化するのか。そして祈ることで何を解決しようとするのか。日本人は何処の森から来て、何処へ去ろうとしているのか。その森に生命が在ったのではなかったか。さらにそこは密度の高い祈りの場ではなかったか。ぼくのなぞは深まるだけで、むしろ言葉で綴る答えも必要としていない感もあるような・・。日本原住民、縄文人、大陸から来た文明的弥生人たちが、何万年と培ってきた生活のなかの様式の一つの祈り。その祈りや生命への畏敬は森や山岳、海原の中から現出してきたものなのだろうと思う。世界のあらゆる生活の場に祈りはほとんど同じ意味合いで発生し、現代に連なっている。その祈りは、時代が変遷し、さらに異文化の流入も相次ぎ、さらには地球上のエントロピーの増大が急激化し、あらゆる事象が猛スピードで変化していく時代になっても、祈りは、綿々と静かに伝承し、継続されてきた。そして現代はその環境の中で、民衆はむしろ祈りに対する関心というか、内的な誘導を強めていると思えることが多い。

ぼくが中学校の時、高校の受験を目指して、毎日学習に励んだ一時期があった。その時、ぼくはぼくに付き合ってくれた辞書とか、鉛筆、あるいはノート、教科書、消しゴム、デスク、イスに至まで、ぼくは感謝の祈りを捧げていた。ぼくの祈りはお寺さんや神社での手を合わせた祈祷とは違い、黙礼のようであったと記憶している。ぼくはいつも机上の本とか、ノート、鉛筆まで全ての物は、毎日勉強終了時に整頓し、一カ所に集め、本とノートが机上で離ればなれにならずみんな一緒に手を繋ぎ、イスまでもデスクから離さずデスクに触れた状態にし、寒さ対策で着ていたちゃんちゃんこも丁寧にイスの背もたれに掛け、離れたところに在った消しゴムも、キチンと辞書さんとかノートさんと触れるところに置いてあげるのであった。お世話になった人々に感謝すると同時に消灯後真っ暗な子供部屋で、大切な文具さんたちに不利益がないように、孤立して寂しいことも無いように、配慮しそして就寝していたのである。
永い人生の歩みで幾分老獪になった今は、その所作はほとんど無いが、僕の体内に流れている感覚は、そう薄まっているわけではない。

今年になって、無垢とか無為について少し書いた。そのことと同じ軌道にこの「祈り」と何にでも命が宿っていると思う感覚が現在のぼくの内部に静謐に漂っているようである。

■ 大阪万博の40周年だそうだ。♪♪「こんにちは、今日は、世界の国から〜〜」の三波春夫の万博音頭も耳奥に甦るね。確かぼくが短期にいた日活撮影所から、練馬大泉の東映に来て間もないころであったはずだ。ぼくが早稲田を中退し仕事を始めたまさに1970年の3月だ。ぼくより年長のスタッフが、「万博行きたいね。面白そうだ」とかほざいたので、当時のぼくには”こういうバカな祭典は、日本帝国主義の子供だまし”程度にしか理解していなかった青っぽいというか、狭量な左翼急進派のガキとしては、瞬間湯沸かし器のごとくに沸騰し「インチキ祭りで、ほいほい浮かれるんじゃあないぜ」みたいなことをその先輩の特機(撮影のためにカメラをカメラマンごと乗せて、移動するトロッコ状の特殊な車を扱う人)の兄ちゃんに言い放ち喧嘩になったことを思い出す。まあ仮にそう思ったら、そう思ったでキチンと丁寧に説明すればいいものを、そう言う過程も七面倒くさいフテた苛立ちと、その幼稚な対処の仕方を恥じるね、40年前でもね。

万博と言えば、太陽の塔だ。岡本太郎さんだ。青山のこどもの城に在る作品も、世界のいくつかに設置されている一連の作品も、全部似ている。同じといっても良い。頑固なのだろう。言わば絶対進化なぞしないぞという頑固さ。そう簡単に世情に連動して変えてなるものか、俺はこれだけで行く、というこういう孤高の個性が、言葉を換えれば、芸術って奴さ。この一貫したアホさがなけれ世界の芸術界の頂点には立てない。ダリもピカソも顔を見ただけで、その常人でない何かは分かるよね。その常人でない同族の士、世界の「TARO OKAMOTO」と南青山のアトリエで1対1で面談したことがある。1980年代中半であったと思う。

正確に言うと3人での打ち合わせであった。事実上の奥さまで、長年秘書をされている美しく気丈夫な佇まいのその筋では超有名な敏子さんも仕事だから当然同席された。ぼくは当時ある企業の大型のイベントのプロデューサとディレクターを兼務で仕事をしており、縄文文化をいわば、大爆発させる構想で企画を推進していた。縄文なら、縄文大好きな岡本先生にも一部加わっていただこうと、生意気にもアトリエにお邪魔したと言う訳なのである。先生から「縄文車」を創って、都内を駆け回ろうというアイディアも出た。乗用車に「縄文的な設えのデコレーション」を施して、縄文車を作る訳だが、警察の許可が全く取れず往生した。また、ホテルの中に縄文的なイニシエーション空間を作り出し、お客さんを集めた衆目の中で美しく幻想的な儀式を執り行うなど、企画は先生とお会いして一挙に進捗したことが思い出される。

当時の南青山のご自宅兼アトリエは、現在のようにカフェーなどが併設されておらず、静かで広い庭のお屋敷の様相であった。ファサードを進み玄関に入ると岡本太郎先生が出迎えてくれる。あははは、勿論ご本人ではない。精密なレプリカだ。確か赤い服をお召しの人形であったような記憶だ。やや暗がりの玄関口ではあったが、一瞬どきりとさせるリアリティがある。先生らしい遊びなのだろう。それはどなたか有名な方からのプレゼントだとも先生は言っていた。庭には、芝生の上に色々な動物の造形の作品と太陽の塔の小型のような作品も数多く、かなり無造作な印象で展示というか、設置されていた。先生の年表を今紐解くと、ぼくがお会いしたときは74,75才で在ったようだ。が、「芸術は爆発だ」の叔父さんは、全く衰えを知らず、若造のぼくにアイディアを惜しげも無く、息継ぎも忘れたようにまくし立ててくれたのであった。紛れもない不世出の天才とは、こういう御仁を言うのであろう。

岡本先生と敏子さんとは、その1,2年後に飛行船研究会という空にロマンを求める人たちのグループの忘年会(か、新年会)で、再会した。当時ぼくは日本で本格的飛行船を製造・運行しようとされている方に賛同して、いろいろ協力していたので、その関係で、またお会いできたのだ。長女が3,4才の頃、小平の広々とした霊園公園で遊んでいたとき、頭上から「ルルルルル〜」と軽快な機械音が聞こえてきた。ふと見上げると巨大な飛行船が、あのヒンデンブルグを想起させる飛行船が悠然と、さらに威風堂々と東に航路をとり進んでいた。その偉容は名状できない何かのイメージをぼくに植え付けた。「飛行船だよ。飛行船だ、これが飛行船なのか」と娘に語るように自分の感嘆詞をつぶやいた。それが研究会入会に直結した。

■ 3月28日の日曜日自宅でいつものようにTBSの「爆笑問題のサンデージャポン」と「田原さんのサンデープロジェクト」のどっちを見ようかなと思ってザッピングしていたら、「サンプロ」が最終日であることが分かった。民主党の管と亀井の言った言わないのアホな水掛論をやった日だ。田原総一朗さんには、昔とてもお世話になった。このブログの2008年11月23日にも少し触れたが、彼が岩波映画製作所から、東京12チャンネルに移動して、「青春の映像」などそれまでのテレビではあり得ない、逆に今は絶対にあり得ない「青春の戦いを恐れず突き進む群像たち」の応援歌的なドキュメンタリー番組であった。同番組の仲間の作家たちも異端で凄烈な戦士たちが集まり一つの闘うドキュメンタリストの徒党が現出したのであった。その後1970年になり、田原さんはテレビ東京で干された状況となり、ぼくがお会いした時には退社され、テレ朝の当時の大人番組「トウナイト」の政治コーナーなどを仕切り始めていた時分であったと思う。

関係者に聞いたら、ぼくは全く知らなかったが、去年の年末には「サンプロ」終了がきまっていたらしい。テレ朝の新社長である早河氏は、サンプロより永い長寿番組「朝まで生テレビ」という深夜から朝にかけての時間帯に政治や社会をとことん論じようと出来たテレビ史に刻まれる番組のプロデューサーであった人だ。ニュースステーションを創った人でもある。いわば、田原さんの同志的パートナーだ。その彼を社長に押し上げたのは会長の君和田氏だ。有名なドンであり、田原嫌いは周知だ。去年田原さんは、全く正直に「北朝鮮に拉致された何とかさんは、外務省も実はその死亡事実を知っている」と発言したことで、拉致家族会とかいう団体から圧力が君和田社長(当時)にかかり、これに乗じて喜々として君和田は田原排除に動いたらしい。田原さんの盟友だが、サラリーマン社長早河はそれを止め得ず、番組が打ち切りとなったということである。

田原さんは、番組中相当ぶれた発言もするし、一見天狗になってしまったような素振りさえ感じることもある。日本を代表するジャーナリストの「現存の」代表者の一人には違いないが、自民党や民主党など、また官界や経済界とも、危なっかしいと思われる付き合いも多い。見ていて「なんなんだよう〜」とうんざりさせられることも実は多かった。ジャーナリストの概念とおさらばしつつ、今は亡き竹中労のトップ屋的な面と政治評論家的な側面も併せ持っている田原さんは、昔から言う清濁併せのむ”立ち位置”を自然に確立してきたのであろう。理屈はもう良い、彼を支えているのはストレートな怒りと言い切って間違いない。
BS朝日で新番組が始まるようだが、朝日のBSなど誰も見ていない。でもだけも見ていないチェック不能な時間帯の番組の良さで、ラジカルに何でも可能だろう。ご自愛しつつも更に過激に、そしてストレートに怒りを噴出させて欲しい。ジャーナリズムは乱暴で無遠慮で、品格などない方が良い。真実は多様な価値の衝突現場から、目視不能な現場から、意外な場所からビームを発する。

出版の予定があり、調査でハノイ市内の大手書店を見に行った。前より単行本のデザインが明るくなり種類も多種多様になってきた事がハッキリ分かる。日本語関係の棚に寄ってみた。大分辞書なども充実してきている。5メートルほどの長さの棚は、それなりに配慮された配置にもなっている。その向かい側に韓国語関係コーナーがあり、日本語コーナーと棚の面積と扱う数量は同等かな。だが、だが、中国語コーナーは、何とざっと3倍はあろうか。日本語の棚の3倍以上の面積を中国関係の書棚が占めているのだった。中国語熱というか、その勢いは知っていたが、書棚の大きさでその差が歴然としていることを思い知らされた。スタッフのNGOCさんにかつて居た外国語大学のその時代の各国学習者の比率を聞いた。勿論英語は必須なので、欄外だが、彼女が言うには当時「中国語学習者人数を仮に10とすると日本語学習者は2か3。コリアは1だ」そうだ。彼女は今28才。したがって、このデータは、6年前の事になる。中国語熱はもちろん、この間に冷めている訳はないので増加は想像に難くない。かなりの脅威ということになるね。彼女はこうもいった「漢字は大変だが、文法が簡単で、覚えやすいようです」と。ムムムムムだね。

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