2012年1月19日木曜日

凄いな「マネーグラム」 / 赤塚不二夫先生と談志師匠

僕はハノイ日本アカデミーを2005年6月に創設以降、初期投資は500万円以上かかったけれど、人件費、家賃、諸経費として毎月ウン十万円をハノイに送金し続けてきた。東京の経費や僕の行ったり来たりの飛行機代はまた別途ではあるが、高給サラリーマンでも個人経営できそうな全く小規模な金額である。海外送金は今までは、別に理由はないけれど、都銀を使って送って来た。手数料は決まって8000円、本当に高すぎだよ。で、ハノイの学校の口座に届くのに三日間は優にかかった。現金を空輸して物流するわけでもないのに、時間のかかりすぎだと常々思って居た。

今回、僕もうっかりしていたけれど、23日がテトの元旦で、20日から、ベトナムの銀行が一斉にコンピュータ遮断して休みに入るのだという。いやはや、困った。全く間に合わない事態だ。考えを巡らせた結果「ブラジル銀行がはやい」という噂を思い出して、早速電話したところ、電話に出た原田さんという方は、都銀より速いが、今回は間に合うか保証出来ないという。他銀行のことで詳しくは解らないけれどと、へりくだりながら「マネーグラム」という送金システムがあって、電話番号は****と、更に住所までお教えいただいた。これなら「10分」でベトナムに送金出来るとおっしゃる。本当ですか、原田さん。有り難い。他社のことなのにお会いしたこともない僕にご親切に。感謝です。この有り難い情報で、一気に間に合う展望が開けた。なんせ「10分」ですからね。驚きです。

お聞きした番号に電話した。「マネーグラムの事をお聞きしたいのですが」「担当者がいま、居ません、後で電話させます」という外国人らしい声。で30分後「阿部さんですか」、とアジア系と思われる外国人から電話あり。WEBや基本的な要領について教えてくれた。彼はインドネシア人だという。「ふう〜〜ん」有り難いけれど、ちと怪しいアトモスフェア。で、昨日の朝、そこに行った。新大久保のビルの一角にあった。それだけで小心の僕には疑念が湧いてくる。朝、1番で入ったが日本人が考える銀行の様子ではない。窓口のカウンターに3名の係員が居て、フィリピーナとおぼしき女性、インドかパキスタン風な男性と、僕の担当者の3人がいて、僕の担当者はネパール人だという。日本語は上手い。振り向くとお客さんのイスには既にインドアーリア系の女性、とやはりその系の男性、「フランスからのお金を受け取りに来た」という僕と全く同じような初体験の日本人の老人がいた。

僕の所定の手続きが済んだ。ひと息ついてオフィスを見渡すと奥から、パキスタンかイラクかといった黒いタートルネックの男が奥から出てきて外出へ。見たところ詐欺師かゲリラ戦士の風情だ。他にもそういう服装で顔の線が濃い男たちが出入りしている。心配だなあ。「つまり、地下銀行が表にでた企業なのかな。」所員とお客の判別が付かないが、ともかく怪しさというか、初体験だからの緊張感で一杯。手続き終わっていて、担当者の入力作業待ちであったので、ラックにあったパンフを手にとって見た。パキスタン、バングラディッシュ、スリランカ、インドネシア、ベトナム、フィリピン、マレーシア人に向けた送金便利帳もあった。日本人らしいの中年男も奥のドアから出てきたが彼も黒ずくめ、警察官ににらまれやすいタイプだな。

担当のネパール人に聞いた。「KYODAIは、兄弟。アジアはみんな兄弟みたいな物で、協力しあうということで、命名した送金会社です」と丁寧に話してくれた。ここは「兄弟送金会社という関東財務局に登録済みの金融企業で、マネーグラムシステムと、IMEシステムをつかってサービスしている」と言うことが解った。で、その時ブオンから、早速「お金の入金在った」と明るい声の国際電話が僕の携帯に入ってきた。すごいねえ。僕がこのオフィスに入ってきてから、30分後だよ。今日は会員手続きとかあるので、時間がちょっとかかったが、次回からは登録済みだから、10分もあれば、とネパール氏がスマイル。

何と、送金料も都銀の半額の4000円、ひえ〜〜。本当に凄いシステムがあるもんだね。
おどろくね、うれしいね。アジア各国の経済と日本がここ新大久保のビルの中でしっかりと通底している現実。それも今まで貧しいと言われていた途上国の経済力と金融力がこの小さなビル、小さなカウンターとしっかり結ばれている現実を思い知らされた。IT革命や「カテゴリーキラー」の怒濤の進撃がこういう分野まできているんだね。不景気とか言ってモタモタしていられないですよ〜。日本人には感じにくいのかもしれないけれど、時代の裏舞台では地下水脈を伝わって沸騰間際のマグマが煮えたぎっている。

■一昨日と昨夜と、BSのアーカイブという番組で、2時間もののドキュメントを連続して放映していた。天才赤塚先生と、天才談志さんの2008年頃に作成したモノのようだ。天才のドキュメント(正確に言うと、記録だけでなく、雑誌的構成になっていた)を深夜1時頃から、2時間、連続二日。結構重いね。亡くなって間もないお二人だしね。腰が痛くて、確かにベッドで体をまっすぐにして寝れない僕には朝までの時間稼ぎにはもってこいの番組ではあった。天才たちの息吹に触れるだけで、嬉しいからね。

この二人の共通点は「笑わせるために生身を臆せず削ってきた」ことだろう。談志さんは直接お会いしたことがないので、テレビを通して入ってくる情報しかないが、赤塚先生とは、80年代僕の企画製作した、ビデオプログラムで2年ほどご一緒させていただいたので、プロデューサーと赤塚監督という関係でね、少しは語れるし、語っても良いのだろうと思う。
* 当ブログ 2008年11月の項に詳しくかいてある。

赤塚先生と仕事でお付き合いした時期は、80年代後半で、頂点を行き過ぎて、何をしていいのか、天才の先生でも迷いがあった時期ではなかろうか。朝から、焼酎のお湯割りとか、ウイスキーのウーロン割のようなモノをがぶ飲みに近く召し上がっていた。お昼には近所の焼き肉にいき、また飲む。手に震えもあると語って居られた。だから、ぼくなどは、「先生、気分転換に映画の監督でもしてください」というような考えで、映画狂で有名なこの巨匠とビデオプログラム作り始めた訳だった。そういう意味では、良好で才能が花開いているような明るい時期ではないので、出入りの編集者や「業界人」たちがあまり周辺にいない、ちょっと先生も寂しさを味わっていた時期ではなかったろうか。だから、僕でもお付き合いいただけたのだろう。

この項、「つづく」にして、本日1月28日で、大分経ってしまって、何を書きたいのか、怪しくなって、戸惑い手つかずにして来たが、書きたい動機は、赤塚先生を見ていて、「笑ってくれるなら(喜んでくれるなら)死んでも良いと何時も(真面目に)考えていたんだ」と言うことを僕は皆さんに言いたかったんです。おそらく、異端児とか天才とやはり言われてきた談志師匠も同じように本気で肉体を痛め、削り、肉体が亡くなっても古典落語で笑わせたい一心で人生を歩んで、いや自分の人生というか今生(こんじょう)の肉体を食べてきたと言った方が良いかなあ、まあ、そういう人生観をおふたりは、まさに同じようにお持ちになってきたんだろうと思う。特に赤塚先生は「バカなことを真面目にやってきた」、生来の性格が生真面目な人で在った。でも、幸運にもお二人は、早世せず、なんとか持ちこたえて70才代まで生き続けて来られた。ご当人にとっても良かったと思うが、僕たち作品とか偉人の足跡から、何かを学ぼうとする愚輩やファンの側からすると、本当に長く生きて頂きラッキーであったと、テレビを見ながら、改めて感じた。赤塚先生、談志師匠に合掌。

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