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2012年1月16日月曜日

★ 成田空港の不幸な出自と幸せ伝える人

体が不自由になってしまった僕が無理矢理日本に。さあ、成田に到着だ。狭いイスから立ち上がると、やっぱり左足が猛烈に痛い。無理して立ち上がったが、はてさて、この広い成田空港をイミグレーションまで到達し、無事出て、バスか電車に乗れるのか。その瞬間、僕でも車イスを要請できるのかなあと考えた。先日のハノイ貿易大学の採用でいらしたお客様には、「大丈夫です、車イスは、時間かかりますので」と恐縮ながらお別れして、グランドスタッフの女性がその辺にいないか探した。

案の定、飛行機から出て、200mぐらいの所に二人の女性スタッフが「お早うございます」とか降りてきた乗客らに言っていた。ちょっとキリッとしたお顔で優しそうな女性の方に「悪いんだけれど、ベトナムでヘルニアが発症して、歩けない。車イスある?」と声を掛けたところ、彼女は「ハイ」と明るい声を出し何処かにいき、3分もしないうちにあこがれの車イスを持ってきた。ハノイフランス病院の古くて重たそうなイスと全く違い軽快な動きが出来そうな車イス。で、彼女は僕を座らせ、僕の足をとって、足のせを素手で出し体制を整え、「では、よろしいですか」と快活そして、なぜか色っぽい声で言ってくれた。最高だぜ、空港のグランドスタッフ。

成田空港は言うまでも無く、政治の都合で強引に設置したのもであった。当時18才の僕には飛行場の羽田につぐ設置が日本経済の構造の中で特に必要であったと思わなかったし、千葉で在る必要もないと思って居たので、学生と農民の連帯という観点で、何度も成田の闘争現場に行った。特に1968年の3月の数度にわたる「成田空港公団」「市民グランド」での闘いは5〜6000規模の学生部隊、青年労働者が結集して、全国民の関心の中で壮絶に闘われた。中核派は単純ゲバルト(暴力)グループらしく、2千人ぐらいが一気にどこかに隠してあったゲバ棒を取り出し、公団に突入しようと意思統一を図って決起していた。僕は当時早稲田の反帝学生評議会という青ヘルメットグループにいた。大先輩の大口昭彦さんが「市民と農民との連帯はゲバ棒による武装闘争では生まれるものではない。我々は何も持たず、固いスクラム組んで、デモ隊列だけで、機動隊や公団の鉄条網のバリケードを突破してゆくぞう!」とあの誠実で骨太の面構えでアジッた。

「ええっ、素手で突破するのかよ〜」と一瞬思ったが、あの大口さんの信頼できるアジテーションにはかなわない。我々青いヘルメット1000名は何も持たず、スクラムだけで機動隊に突撃していった。鉄条網はみんなでスパナで切って公団のバリケードの中に入り込んだが、僕の前で何人も転んで立ち上がれない学生がいるし、僕もそこに押されてのってしまい、身動きできず息も出来ないほど苦しい。全身に力を入れて後ろを見ると僕に5〜6人は乗っかって彼らももがいている。「オレ、ここで窒息死か」と覚悟したね。ホント。 *大口さんは現在弁護士として市民運動や庶民の立場で現在も活躍されています。

で、そんな闘いは続き農家の家に泊まらせて頂き美味しい食事を頂いた事もあった。1978年の「管制塔占拠闘争」時点はリクルート社で仕事をしていた時代になっていたが、100万人集会に参加するために岩波映画労組の陣内さんらと現地に。集会現場や道道では既にビジネスマンになっている友人たちにと同窓会のようにたくさん会った。フジサンケイグループの印刷会社に居る川上にも「おお、きてたか」とかいって、二人で笑い合ったことを覚えている。僕は30才近くであったし、娘も生まれていたころだ。そして、その3才の娘と妻と3人で成田空港を使って80年頃の夏、グアム島旅行に行った。作家の野坂昭如さんは、いま、寝たきり状態だが、当時「生涯成田空港は使わない。」って宣言していたっけ。闘った場が、完成してから、どう対処したらいいのか、当時どう考えたのだろうか。僕はその頃、何の矛盾もなく、何のためらいや思いもなく、成田を使用して観光ツアーに行けたのか。ほとんど思い出せない。ただ、離脱していたことは事実だ。

闘いって、どんなに激烈でも闘う当事者の立場と意志が関係している。僕等は観念的に学生と農民と労働者が一体となるチャンスのような幻想を抱いていた。自分の土地を守りつつ、反権力の立場を提示してきた反対派の農民の方々は偉大だし、歴史に残るであろう「農に生きる」人民の戦列を構築した。百姓一揆として大切な魂を全国民に知らしめた。でも、一部の住み着いた学生や、そのことで出会って結婚して、闘いを生活にした学生はいるものの、僕等のように外部から時々援農したり、時々ゲリラ戦や集会に参加していた大半の、数十万の学生にとって、成田闘争は何であったろうか、と改めて思う。闘争を拡大するために支援・協力をすることは重要だ。重要であるが、「層」としての学生は4年もすれば、人が入れ替わる。拠点がない浮遊した存在であったことは、以前から言われていたことだ。

たくさんの学生運動の総括書、運動史の本を紐解いてきたが、結局五木寛之さんの「デラシネの旗」じゃあないけれど、根無し草の自分をどのように自立・自律させて、生きて行くのか。僕なんか、そんな時代から40年間、63才の今も問われるし、ある意味今も問い続けている。ベトナムで学校を経営したり、ベトナム人の学生を日本の優良中堅企業に正社員で送り出している仕事が、僕にとっての「三里塚・成田闘争」を含めたベトナム反戦闘争・全共闘闘争の総括的な事なのであろうか。自律を追求し、これとは別な道はなかったのだろうか。これが終着点?なかなかむずかしいね。80才ぐらいまで生き延びることになれば、後20年何するかも含めて自立・自律した人生の構想と総括を考えねばならないだろうなあ。

当時の僕の心中の深いところにあるメンタリティーは、「反権力」以上でも以下でもなかった様な気がする。社会主義革命や階級闘争を自らの思想に高めていくという風ではなかったと思う。貧しい人たちを助けたい。弱い人々に協力したい。大人社会の汚さ、ばからしさに染まらない。権力と権威を振りかざす腐った連中をぶっ飛ばす。おそらく、僕だけでなく60年代から70年代の初期に学生運動に関係した数百万の学生の大半は、こんな心情であったはずだ。高倉健さんらの東映の「唐獅子牡丹」「網走番外地」などの映画や小林旭らの日活の不良青年映画の持つ「反権力の正義」とは、僕等の心情とシンクロしていた。「♪やがて、夜明けの来るそれまでは、意地でささえる夢ひとつ、背中で呼んでる唐獅子牡丹〜♪」僕たちは「弱者への」義理と人情で運動をしていたと言っても誰も否定出来ない。もっと言えば、鞍馬天狗も月光仮面もゴジラも僕たちのヒーローであったし、その環境の中で僕たちは、「正義」感の強い大学生になった。そしてその後、超速で突き詰めてしまい、運動として「自己否定」に行き着いたとき、僕等は自壊してゆく。ここで当時の僕等の命を賭けた闘争を落とし込めるつもりはまったくない。本格耕論は別に譲る。

成田空港のバリアフリーの良さについて語りはじめて、大分道草した。彼女はすいすいと僕の車いすを押す。すすむ路面は絨毯が多いので、弾力性もあり進行は快適そのものだ。過日、フランス病院にて、車イスの楽しかった様を書いたが、車イスの性能も格段と違うし、通路は良質の絨毯だから、「車イス」ファンには答えられない充実感。僕が今までたぶん何百回と上下していたこの空港の階段やエスカレーターの裏側にはキチンと必ずエレベーターがあって、今回初めて、何カ所もエレベーターに車イスごと乗せていただいた。彼女はそういった度毎に、宜しいですか?乗りますよう、とか気持ちの良い言葉で僕を励まし、そして車を押してくれていた。こんな贅沢許されるんだろうか。貧乏性の僕らしく、申し訳ないという気持ちがまずは先に出る。何度も上下して、イミグレーションに。これも驚いた。車イス専用の窓口が別にあった。日本人や外人が長蛇の列つくって、モタモタしている間に、僕は誰も並んで居ない専用窓口でスムーズに通過。荷物の取り出しコンベアーでは、運良く僕の車いすが到着したとたんに、僕の荷物が目の前に。彼女がすかさず、僕を制してカバンをゲット。ありゃ、ホントに良い日だぜ。で、最終の荷物検査通過して、リムジンバスのチケット購入。バスの乗降口まで連れて行ってくれるという。嬉しいねえ。嫁さんにしたい娘だと恋愛の折れ線グラフが右片急上昇。彼女の手でも握りたい心境さ。で、彼女にお礼を言いつつ、グランドスタッフという仕事について聞いた。彼女は学生でアルバイトだという。へーっ、こんなにプロフェッショナルに仕事をこなしてきたのに凄い。ぼくは、今朝、ベトナムからもどったこと、ハノイで学校をしていることを簡単に言った。

「私はインドから来ました」という。「君、インドでうまれたの?珍しいね」と聞き返してから、「えっ」とおもい、振り返って僕の後ろにいる彼女を見た。「インド人です。ラードルと言います」、と言ったので、本当に驚いた。まじまじと見ると美しいインド人に見える。色の白い美人が優しい笑顔で僕の背後に立っている。目鼻立ちは確かに深いし言われれば、インド系だと言うことは確かだ。でもさ〜、道々僕と話してきた日本語はなんなんだよ〜。不覚にも全く日本人だと思っていた、だって、言葉の発音もイントネーションも完璧に日本人でした。インドの北部の町の出身で珍しく仏教徒だという。地元の高校を出て、全く日本語が出来ない状態で来日、でもがんばって日本の短大をでて、今は空港関連の専門学校で、空港職員の仕事を学びつつ、実習でこの現場にでているんだという。すごいなあ。えらいなあ。16才で来て、7年目。23才だという美しい人。惚れたね〜。でもハグも出来ない不自由さ。恋人のことや結婚の事も聞いた。インドは宗教対立が今でもあるので、彼女は仏教徒だから、ヒンズーやイスラムの人とは絶対に結婚はあり得ない。お付き合いする前にお互いに調べるのだそうだ。後で困るからね。また、カースト制もまだ生きていて、仏教の中にさえその制度はあるので、カーストの違う友人と食事したりは出来ないという。下の階層の友人とランチなどでもするものなら、親が「その階級の人と思われるから、辞めなさい」と言うそうだ。信じられないけれど、世界史の途轍もない法則の現実を若い彼女から、しっかりとした日本語で教えられた。

で、時間が来たので、リムジンバスの乗り場に。ありがとう、ラードルさん。あなたのようながんばるアジアの女性に乾杯。がんばって。僕は別れるときに目頭が熱くなった。あなたのような女性が、これからの社会を作っていくんだね、平和なアジア、インドをね。がんばれ、ラードルさん。「どうもありがとう。本当に助かった。感謝します」「お体を大切にしてください」とお互いに言って別れて、乗車して窓から手を振った。彼女も心持ち強く僕に手を振っているように見える。バスが発車して動き出した後まで、ラードルさんは、さよならの手を振ってくれた(感極まる)。

空港のバリアフリーというか正確にはアクセシビリティー(accessibility)と言うんだそうだが、とっても配慮が行き届いているとうに感じた。だけど、やっぱり、人だね。事をなす人の思いやりが在ってこその施設だね。空港が開港して30年強。人を大事にした政策を空港公団が港内でして来たかどうか僕は知らない。でも「名もない」アジアの若い女性ががんばっていることで、施設は支えられている。小さいが確実な仕事が人に感動を伝えるということが、当たり前であるけれどとっても大事な、これ以上大事なことがないくらい大切なことだとあのインドから来た娘さんに改めて教えてもらった。リムジンバスに揺られながら、ベトナムの学校のこと、ベトナム反戦闘争のこと、そして親切や思いやりとか・・・・、色々と考えながら睡魔に身を任せた。


《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルと日付け、紹介致します。
ぜひ、ご高覧ください。多いのは一日1400名の閲覧もありました。

・2008年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC /  立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・2011年7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人

これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行


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