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2011年3月21日月曜日

大震災VS,仙台二高のネットワーク

■いま、狩野研二郎くんの死亡の情報が寄せられた。実に残念です。彼の17才当時の顔と声が蘇ってくる。彼は石巻の市立病院に勤務医としており、院内かその近隣で巨大な壁のような津波を受けたようだ。途轍もない海水の洪水の中で自らを顧みず懸命に患者さんら多数を救助し遂には命尽きたと聞いた。本当に悲しい。早すぎたよ、狩野。次々に情報が入ってくるが、君が残念ながら僕たち仙台二高(19回卒業者)の一人目の犠牲者となってしまったようだ。君の善意と強い意志はおそらく君の石巻の病院の医師や看護師の復興の志として受け継いでくれるはずだよ。見守っていてください。さようなら。合掌。

現在、仙台二高(19回卒)地震安否情報のメイリングリストに、仙台で地震と津波に遭遇した体験、友人たちの安否情報、また、他県から仙台や多賀城、また塩竃などにいる親や親戚の救助に向かった同窓生たちの行動や目視したことの生なメールがたくさん綴られて来ている。狩野研二郎くんの悲しい知らせもその一つである。この情報のネットワークは同窓会の幹事でもあった庄子友康くんが、19日から自発的に始めたネットワークだ。同窓生は400名位はいたと思う。彼の手元にある120名のメールアドレスを頼りに「あいつは無事だ」「昨日電話通じた。無事だ」「被害は相当だが、家族も生きていると聞いた」と言うようなメール登録のない友人情報が庄子の所にたくさん寄せられている。こういう時、まずは情報だ。その情報に従って人はより合理的で実現性の高い行動が確実に取れる。そういう意味では、いま、僕らの信頼できる最も重要な情報源となっている。僕の弟は20回卒だし、僕のハノイの学校の教員に仙台二高の後輩同窓生(現在46才かな)がいるが、そういったネットワークは無いようだ。

僕たちは1964年四月に市内の上杉山中学や、二中、五橋、付属、木町通りあたりの中学から、宮城県立仙台第二高等学校に入学した。そして、狩野も含む僕たち16才の少年は輝くような希望の息吹を体中から発散させて、三年間を広瀬川ほとりの校舎で過ごした。その僕たちは現在62才となった。そして、大震災と向き合っている。

■この地震安否情報に寄せられた津田裕司くんと、ネットの中心の庄子友康くんの「仙台の被災のリアル」報告をお二人の許諾を得て転載した。
2011年3月16日3時22分
(庄子)津田裕司君から詳細なメールが来ました。
3Dというよりも補習科関本先生にお世話になった津田です。
庄子さん、幹事ご苦労様です。

小職は現在千葉県市川におりますが、母が仙台の南光台に居るので、13日(日曜日)に車で仙台に行きました。本日朝4時30分に市川に戻ってきました。母も小職も無事で問題はありません。南光台での1週間の生活をご参考までに以下に記します。

日曜日の夜、仙台へ車で行きました。4号線を北上して10時間程かかりました。福島県との境の国見峠を越えた途端に真っ暗になりました。全く光のない世界に入った感じです。車の光だけで周りには光はありません。光があるのは、自家発電をしている病院だけのようです。仙台市内まで信号は大きな道路との交差点のみついていました。電源車でも使っているものと思いました。市内中心部には電気はきていましたが、周りは消えているところが多いように感じました。
小職の母の居る南光台も真っ暗でした。水道も出ません。ガスは自宅が古く、都市ガスができる前からのプロパンガスなので大丈夫でした。母は元気ですが、家の中を片付けるまではできませんので、一週間仙台にいることにしました。

この1週間の生活状況を報告します。
1.水
給水所に月曜日に行きました。4時間待ちましたが、あきらめました。夜遅くなったのと600人ほど並んでおり、小職は300人程のところにいたのですが、19時30分になっても給水車が来ないので、帰ることにしました。火曜は朝から並びました。それでも2時間待って一家族10リットルの配給でした。隣の独居老人から頼まれている、という人がいましたが、給水の係員から、確認できない、と言われて再度並ばされたといっていました。新聞報道で南光台は25日には回復する予定とのことですが、場所によってはもう少し早めに出ると思われます。
2.食品
食品を購入するにも行列です。近くの小さな地元スーパーに行きました。運がよく、早めに並ぶことができ、1時間ほどで一人5点の制限分を購入できました。火曜日は生協のスーパー、大型スーパー2軒に行きましたが、開いていたのは大型スーパーだけでした。しかし、行くのが遅かったためか、本日の営業はここまで、と並ぶことさえできませんでした。歩いて帰る途中に100円ローソンが開いていましたので並びました。小職の後5人ほどで本日は終了となりました。約1時間並びましたが、店の中に入るのではなく、入り口に店にある品物を数十種類並べてそれをお客が10個選ぶ形で対面販売をしていました。
16日頃に青果市場が開いた為、野菜も陳列されていました。しかし、値段は2倍から3倍になっていました。おそらく入荷が少ない為と思われました。来週にはもう少し潤沢になると思います。
3.電気
小職の実家は月曜日の朝10時に通電しました。しかし、数十メートル先には火曜日にも電気はきていませんでした。運が良いといえます。19日夜に仙台を出たときには、4号線の沿線は福島県との境まで全て電気がついていました。
4.ガソリン、灯油
売っているお店がほとんどありません。それでもガソリンスタンドの前に車が100台以上並んで待っています。いつタンクローリーが来るか全く判らないまま、待っていると話していました。小職のインサイトは満タンにすると40リットル入るので
東京・仙台間360kmの往復は可能でした。東京で満タンにしてきており、来る時は24.5km/?でした。帰りは万一ガス欠になったらと考え交通渋滞のない夜に仙台を出ることにしました。21時に南光台を出て、市川に4時30分に着きました。7時間30分で着いたことになります。帰りは渋滞がなかったこともあり、26Km/?走りました。往復720Kmですが、あと、100Kmは余裕で走れると思います。
なお、灯油も同様で売っているところはありません。水曜日から仙台は雪が降っておりますので、寒い中暖房なしで過ごす人がほとんどだと思います。
5.ガス
都市ガスからの発表では復旧に1ヶ月以上はかかるとの情報です。食品購入や水をもらうために行列で並んだ時に周りの人達と話したところ、電気で料理をしている人や、庭で木々を燃やしてバーベキューのようにして炊飯をしている、との話でした。
6.お店
95%以上のお店が閉まっています。開いている店には必ず行列になっています。床屋が開いていましたが、『断水のためシャンプーはできません』との張り紙が出ていました。
7.建物
自宅(南光台:仙台の北側の丘陵地)の近所を約1時間ほど歩きましたが、かなり建物がダメージを受けています。
 1)10分も歩けば5~6ヶ所でブロック塀が倒れているのを見つけることができます。倒れているのは鉄筋が入っていないあるいは少ないブロック塀や大谷石の塀がほとんどです。方向での割合は東西方向が5対南北方向2位でした。
 2)瓦屋根で稜線に山のように瓦が数段載っているようなものは殆どがその部分が倒れています。その結果だと思いますが、屋根の瓦も一部剥がれています。スレートや軽量瓦は問題ないようです。
 3)ビルでも地盤が悪いものや、古い建物はヒビが入って立ち入り禁止になっている2~4階建のビルがあります。壁がはがれ落ちているのも何軒か見られました。
8.道路
5cmから10cmずれて盛り上がっている道路があります。道路のヒビ割れは2cm位までならいたる所に見られます。但し、ヒビについては車が通るのに支障はあり ません。
9.液状化
この団地ではほとんどみられませんが、一番低いところでは若干の液状化現象がみられました。但し、泥や砂が少し出てきたという程度で、泥の量も2~3cm厚位で広がりも2mx10m程度でした。  
以上ご参考まで。津田裕司

■庄子友康くん報告  メール  sho-app001@nifty.com
私(庄子友康)自身の状況をお話しします。

東京に住んでいる長女が仙台で痔の手術をするため生後8ヶ月の孫を連れて帰ってきており、3月11日の午後午後1:30から手術というので、終わったら泉区にある肛門科の病院に行こうと思っていました。
そこへ兄から電話があり、老人ホームに入居している92歳の母が肺炎になり、厚生病院に救急車で運ばれるので行ってくれと言われました。2時半頃厚生病院の1階に入ったところで地震に遭いました。
しばらくして母が着きましたが、停電で病室まで運べません。夕方になってやっとエレベーター1基が自家発電の電源で動き、病室に運びしばらく付き添ってから自宅に帰ったのは午後7時頃でした。33年前の宮城県沖地震では信号が消え、道路が車で溢れて身動きが取れなかったことを思い出し、多分今回も同じだろうと思っていたら、幹線道路は信号がついていて意外とスムーズに家に帰れました。
翌日以降は家内か私のどちらかは赤ん坊を見なければいけないので一人しか動けず、代わりばんこで水や食料の行列に並び、合間に二つの病院を回りました。そのうち、娘のいる肛門科の病院から1週間入院の予定だったが、食料がないので退院してくれと言われ、13日に引き取りました、また、厚生病院でも母の状態はほぼ回復したのでベッドを空けてくれと言われ、14日に退院して老人ホームに連れていきました。

市の中心部にあるマンションの事務所では15日から従業員に出てきてもらい、書類や本、パソコン等が散乱した室内の片付けを始めましたが、電気は来ていたもののエレベーターは止まっており、水道もでないし、従業員も自宅の片付けや買出しが必要なので、18日までは午前中だけの勤務にしました。それでもなんとか室内は片付き、エレベーターも復旧し、水道も出るようになり、私はこの連休も仕事をしています。何ヶ月かしたらみんなで集まりましょう。庄子友康
■以上 ハノイ市 阿部

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