■昨日、僕はハノイの農業大学で350人規模の学生に「日本語を学んで、日本で農業法人に就職しよう」という当校のオリジナルの学生募集セミナーを実施していた(近々ハノイ工科大などでも恒例実施)。成果もまずまずで、学校に戻り簡単な総括済ませた後、日本教師3人と連れだって、近所の何時ものBIAHOIに行った。いつものように地生ビールと「ゆで豚」など頼んだりして、今日の疲れを癒して「ああだ、こうだ」と雑談。良い夕餉であったが、オフィスに8時過ぎ戻ってパソコン開いて緊張が走った。と、同時に教務室に一緒に戻って、事態を知ったらしい仙台出身の先生が僕の部屋に飛び込んできた。仙台と東京が大地震で被災したという。それも6時間も前のようだ。酔いが一気に引いた。
僕のパソコンには東京の娘から、緊急の知らせメールが2,3本来ていた。無事らしい。すぐに、災害のなさそうな宮崎の息子に電話。彼は仙台の母を気遣って、世話している弟の家族に既に電話をいれれおり、母は無事らしいことはとりあえず解った。ありがとう。後は、所沢の僕の家にある亡くなった妻の祭壇と同居の2匹猫のことだ。地震の瞬間、部屋の中はどうだったのだろうか。娘が、西武線などの電車稼働状況見て、今日明日中に行ってくれるとのことで、とりあえずは安心。
こういう時って、人は慌てるよね。仮に若い妻と幼子が、仙台にいるとすれば、ハノイの僕は動転したのだろうと想像出来る。でも、今回多少血相を変えたが僕自身の内心はさして慌てることもなく、さめた状態で母親の安否を息子から聞いた。「ああそうか、良かった」とは言ったものの、僕の安堵感とはこんな程度なのかと思うほどだった。僕を生んで育ててくれたあの優しいそして美しく老いた母親の安否を確認しての喜びというか、安堵感ってものの自分の受け止めの表現が何故この程度なのか。解らない。そういえば、去年3月1日に94才で亡くなった父の時もそうであったが、父親の死を悲しいと思うという自然現象を自分で上手く組み立てが出来なかった気がした。亡くなったという事態は論理的に受け入れ、厳粛に遠いハノイから夜空を仰ぎ、天に祈ったが、慟哭には至らず、幾つかの僕の幼少時の思い出に浸っただけであった。僕はいつの間にそういう感情を枯渇させてきたのか。老齢になるとはこういう事なのか。
たったいま、オフィスにいる僕にちょっと離れたところにある自宅にいるブオンから、スカイプが入った「こちらに来る前にオフィスの神棚にお線香を上げて来てください、日本の被災のためのお祈りです。いま、家でも、同じ事を祈ってお線香をあげました。ニュース画像を見ていて涙がとまらない」という。有り難いなあ。ベトナム人の素直な感情に対して心から敬意を払うよ、ありがとう。事態への自然な理解と衒いのないヒューマンな思いに人間の希望を見る。眼球の深部と脳髄の交差する地点あたりから熱いものがこみあげてくる。
僕の母は1925年、大正14年生まれだ。今回の津波でも大きな被害が出たであろう宮城県志津川町で生まれ幼少をそこで過ごした。彼女は僕が小学校6年生であった1960年のチリ地震の津波の時に仙台の家でとても印象深い話しを僕たち兄弟にした。彼女が小学校2年か3年生のある晩に母親と手をつないで、海岸に散歩に出た。母の実家は呉服屋で海岸まで4,5分の所にあった。実は僕が30才代のとき、妻と母と子供たちと訪れた事があるので、位置関係は覚えている。8才の母と当時30才前後と思われる祖母は、散歩の途中に砂浜の小高いところに佇んで、暗い海と夜空を見たそうだ。多分何気なくね。そこには満天の星々が煌めきさんざめいていたという。
でも、その星々の輝きは美しすぎるほどで放つ光は暗い海を見渡せるほどに強く明るかった。「お母ちゃん、お星様がとっても明るいね」と手を引いている若い母に彼女は不思議さと不安もあって声を掛けたであろう。驚異の思いで見つめたであろうその光景が母の記憶から消えることはなかった。そして次の朝、昭和の三陸沖大地震と巨大な津波がこの町や周辺のリアス式海岸を襲った。1933年、昭和8年の事だ。今度、来月でも母を訪ねたとき、このことを改めて聞いてみようと思う。「さあ、どうだったかしら、忘れたわ。ふふ」と老人ホームの一室でスマイルで応えそうだが。世話している弟によると、母は多分恐怖からだと思うが、精神的に興奮しているとメールに書いてきた。
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