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2009年11月20日金曜日

たまには儀式も良いものだ

数日前、ハノイでうら若きホテルの営業ウーマンとお話した。彼女は、2年ほどハノイで多様の日本企業の方と毎日商談している強者だから、かなりハノイの企業情報に明るい。そのdep(ベトナム語で麗しい)な彼女から最新の韓国企業情報を聞いた。もともと韓国のベトナム進出は今までもの凄いものがあった。この数年間、ベトナムへの投資件数などは、日本を上回っているほどだ。事前調査も、本格参入もスピードは、まさに風のようだった。そう言うとかっこよすぎるので、突風と言っておこう。韓国だけではないが東アジア系の企業進出の先兵は若い社員がおおい。大抵はせいぜい課長か係長クラスだ。彼らが手付け金などの現金をたんまりもって、即刻買収。即時進出だ。つまり全権をもって来ているのだろう。日本企業の様に「では、会社に帰りまして検討し、次回社長に来てもらうつもりです」となんか言ってるぼんやりした企業はないのさ。ベトナム人ビジネスマンは日本人が好きで、日本人と仕事をしたがっている人は多い。でも、「JAPANは遅くて遅くて」どうにもならないと嘆く。

韓国人は、言うまでもなくリアルなのだ。経済とか仕事のセオリーとかが「現金」なのだろう。去年の秋の世界同時不況のあおりで、韓国経済は相当の打撃を受けた、その現れはベトナムにある韓国企業の動静ではっきり見える。この一年「インターナショナルスクールにあんなに居たコリアの子供たちが、ほとんど消えた」と言われるほど、韓国企業の素早い撤収は”呆れた感”交えてよく日本人に語られたものだ。「あいつら、早いね、凄いほどだ」と揶揄してね。でもさあ、それってどうなの。ビジネスの世界じゃあ、当たり前じゃあ無いの「電光石火」。ベトナムのそのへんは、全く同様だ。僕ら日本の方がとろいと言うか、「慎重に」という言葉で御茶を濁している。

で、そしてその話、「ベトナムには誰もいなくなった韓国勢」と、僕らは思っていた。が、しかし。もう韓国勢は生き返ったのだ。さっきのホテル嬢の情報では9月ぐらいから、いっきに復活だと・・。僕の目勘定でも10月ぐらいから、急に韓国のツアー客が、ノイバイ空港に一年振りあふれ出した印象を持つ。韓国人は生命力があると言ったらいいのだろうか。敗れたら時を置かず去り、機が見えたら敏で、すぐ捲土重来する印象ですね。日本人は文化も含めた社会そのものが成熟しすぎ、体内にある遺伝子とかDNAとか、生命の持続への執着力が薄くなってきているとしか言えないね。60数年前、戦争で敗北し、国土が焦土になっても死に物狂いのエネルギーで復興した日本人の生命力の強さに世界は目を見張ったものだったが。

さて、4,5日前に、当校の5階のベランダで、宗教儀式を胆嚢した。いま、東京で思い出しながら書いている。僕が帰国する日だから、その日は11月16日。で、実はその前の日にフンマイ町にあるブオンの実家に二人でお土産もって寄った時に、田舎の親戚という婆様が二人いた。その一人が僕のことマサユキアベと言って、「私は記憶力が良いんだから・・」見たいな仕草と表情を見せて、お祈りを二人揃って始めた。ああそうだ、二年前の12月に親戚を30人ぐらい集めて僕らの結婚宴席をこの実家で先行して行ったときにも、このペアの婆様は居てやはり”宗教部門”を受け持っているようで、当時もなにやら仏教のようでもあり、先祖との対話もできる霊媒師のようでもあり、僕にとって新鮮で愉快だった儀式を思い出した。

この義理の母系の婆ふたりとブオンと義理の母が良くわかんないけれど、親戚の噂や何かの風 評とかなのだろうか、笑いを交えて話していた。僕は専ら「ふむふむ・・」とかいって、無為に軽いうなずきをして、フルーツを食ったり、別なことを考えてい たりしていた。耳が遠くなり、歩行もちょっと大変な義父は、隣室で専らテレビ。おしゃべりの義母とブオンが婆二人の相手だ。因みに義母は僕と同じ年なので ある。で、帰りに聞いたのだが、僕の事業が今不景気で大変だから、明日帰国前にオフィスで祈祷すると言うことに、どうもなったらしい。ふふふ有り難いことだ。

で、その日夕方に、当校に視察に来ていた建設機械関係のお客様を政府担当幹部に紹介して18時頃オフィスに戻ったら、僕の仕事部屋がある5階が騒がし い。ブオンは不在だが、経理課のタオとか、当校男子学生とか、プロモーション課のフエンとかが、あわただしく部屋の神棚をキレイにした上、沢 山のフルーツをお供えしたりしていた。神棚だけでなく六畳程度あるベランダもあわただしい準備。例の婆二人がベランダにあったリゾート風ガラステーブルに たんまり果物などを盛り付してる。日本人から見ると十五夜のお供え風だな。ベトナム風大型のお線香などコップに入れたお米に差しシンメトリーにレイアウトされてい る。使い方はちょっと違っても、やはりお米の国だ。何か感覚が通底するものがある。塩がお供えに無いのは、ハノイが内陸部だからかも。

香港のタイガー バームガーデンを訪れた方も多かろう。全体的に安っぽく、色はケバく、ペイントの塗りが幼稚なスタイルね。あれは、東アジアから東南アジア全体の色のセンスだと思う。だから、ベトナムの寺院も神社も古いものは、朽ちて「渋めの色」になっているが、改修したモノは大抵ケバく、チープな意匠だ。日本もそうだね、奈良、平安 など比較的古いものの改修したものは、色合いは激しい、言わば中国的だ。鎌倉や江戸などの新しい建築物や彫塑などには、”侘び寂び”の渋みがあるが、古代ア ジアの繁栄時は安っぽいほど色合いが原色でいわばケバい訳です、我が日本もね。さてさて、我がベランダには既に3体の人形が鎮座。というほどでなく壁に立 てかけてあった。これが紙人形というか、小学校の時に作った学芸会用のお人形の佇まい。背丈は50センチぐらい。装飾は色紙の切り貼りだ。神なのか、 後で焼いたりする生け贄風な存在か。ともかく、いっちゃあ悪いが、安っぽい。燃やすからなのかな。

神事で焼くものでの代表格は何と言ってもアメリカのドル札だろう。あはは、ドル札だぜ。お寺さんや神社にいけば、お年寄りも中年も若者も古いベトナム紙幣の偽物印刷とおもちゃ紙幣レベルの ニセ100ドル札が、果物などのお供え物に数百ドルぐらい挟んだり、豪勢に一万ドルが紙テープ束のまま積んだりされていて、供養が終了するとドンドン燃やされる。か つての敵アメリカのドル札が何時から神事に登場したのか、誰にも聞いていないが、ベトナム戦争(彼らは「対アメリカ戦争」と言う)後だろうなあ。だとするとこの風習は30数年の比較的新しいものだね。まあともかく、天国でも現世同様にドルが無いと仏さんも困るだろうと、ベトナムではドル札で供 養するようになったのだろう。この現世利益的な宗教観がベトナムらしくって微笑ましい、と言っておこう。これが自国ニッポンだと、微笑ましいではおさまらず、その宗教的ていたらくに嘆かわしいとか一言いいたくなるだろうけれど、僕。

この婆のお経が結構良い、お坊さんの読経の様でもある。写本、実は正にノートに書き写したもので、もうぼろぼろになっているノートのお経を忠実に歌い上げている感じが伝わる。左手でページを手繰り、右手は木魚ならぬ板を小刻みにたたきリズムを演出している。時にリンを「か〜ん」と鳴らす。形式は仏教のようで、延々続く。今ハノイはちょっと異常気象で、夜は10度以下で、冷える。僕は半袖にトレーナーだけで、寒い。冷たいタイルに直に正座させられているので、冷たいし、びりびりしびれている。タオあたりが、時々顔だして、僕を見てクスクス。「社長、大丈夫ですか?よく付き合ってますね〜」見たいな含み笑いの表情。

何回か婆の一人が、この人はどちらかというと年長に見えるが助手にも見える人だが、僕の名前を覚えていた方、この人が僕に時々指示するが、全く意味不明。僕はニコニコして、手を合わせて合掌を継続するしかない。ブオンは相変わらず居ないし、電話にもでないし、タオにこっそり聞くと、お客さんと会ってると言うし、「まだしばらく、儀式は続きそうです」と言う。まいったな、後1時間後には、ノイバイ空港にタクシーを飛ばさなくてはならないし、腹も減ったし。そのとき、いきなり赤い布を頭からすっぽり、被せられた。婆が双方とも僕に何か言っている。頭上にお皿が乗せられた感触。なんだあ、これ。果物の皿か、100ドルの束満載の皿か。重さから、果物ではない。札束の皿らしい。するてえと、燃やすのか、俺の頭上で。まいったなあ。何か臭うな。燃える臭いだぜ。おいおい、ホントかとおもったら、その皿は下げられ、紙人形3体にかわり、頭上に置かれ、両手で持てと指示あり。紙製とはいえご神体が3体も己の頭の上にあり、魔女めいたばばあが二人で、読経していると、赤い布を通してわずかに周りの儀式の景色も見えてきて、目は開けているが、赤い布のなかで、瞑想に入りたくなる気分の僕。

カトリックの教会の懺悔の箱に入った感覚をデジャブーした感じで、もちろん入った経験はないんですが、F・フェリーニの「8か二分の一」教会シーンを思い出したり、頭上のドル札に火が付けられる恐怖以外、赤い布の中も悪くはなかった。この婆さんペアの呪いと占いは小皿にちゃりんちゃりんと落とした古銭で何かを見通す方式のようなのだが、今日は本格作業とみえ、大きな皿に古銭を30個ぐらい大量にちゃりちゃりしたり、お米を古銭にまぶしたり、火であぶったり、していた。あげく、僕に左手に小刀を持たせ、右手で全部の古銭を一個一個皿に落下させて、落下した瞬間に小刀で落ちた古銭の上の空を切れという。このときは赤布ははずしていたので、ハイ、ちゃりん、小刀をス〜で、30回ほどなんなく、終わらせた。そろそろ解放してくれないかなあ。両足にもう感覚が無い。びりびり感すらないぜ。それはともかく、大ベテランの祈祷師の婆二人で、一心不乱に拝んでくれたんだ。うむ、気分は良い感じになってきだぜ。来年、経営環境も、回復だあ〜。

終わったらしく、ばあさんが、なんだかんだ僕にいうので、「シン カムン」とかいって、謝意を表し、お供えしていた赤い餅米ご飯をみんなでちょっとずつ食べた。東京に持って行けとか言ってるらしいので、果物何個かと一緒にご飯もスーツケースにパッキング。ブオンから電話があって、「あははは、どうだった?」と聞くので「かなり、面白かったよ〜」と答えた。「今日は、そう言うことで、日本に行くのに一緒に夕食できずにゴメン」とブオン。「気にしない、今から近所でフォーボウでも食うさ」と言って、タオたちや、婆さん方と別れてフォー屋に僕は向かった。悪霊が消えたのかなア(笑い)、僕は爽快、軽い足取りであった。

三日前から、思い出して講談社の思想誌「RATIO 2号」を読み出した。チョムスキーの「テロと正義」が掲載されている。極めて重要な論文だ。二年前に一部つまんで読んでいたモノだが、例によって身体がほしがる感で、改めて紐解いた。これほど深く透徹した視座で地球上の事象を読み解ける人は現在、チョムスキーを置いていないだろう。ソシュールやチョムスキーに我々世代は、学生から20代の頃とても憧れたものだ。レビーストロース、メルロポンティ、アルチュセール、、フーコー。ほとんど実に成りはしなかったが、なぜか強烈に僕らのハートを引きつけたものだった。意味もわからず「シニフィエ」などの新しい概念を広告の企画書などに使った軽薄も、随分やったなあ〜。

2009年11月14日土曜日

ベトナムの洪水のごときオートバイの群れ

先日、講談社の「月刊現代」後継誌の「g2」の事に少し触れた。ともかく創刊号だからの理由だけれど、内容が充実していたわけですが、凄いと言えるのがふたつ。まず芥川賞作家柳美里の自分の子供に対する虐待の告白とカウンセラーとの対話が凄まじい。カウンセラーに「あなたは、あなたの子供さん(小六)を殺さないとは言えない」と作家柳美里が言われる。凄いよ。このドキュメント。彼女は自分の心の暗渠を今後も書き続けるとここで宣言している。もう一つは沢木耕太郎の翻訳ノベル「神と一緒に」だ。英国の作家トニー・パーカーと言う人の「殺人者の午後」飛鳥新社刊の中の一遍である。人間の心のもの凄く深いところまでおりていった表現者T・パーカーのドキュメントに近い小説なのです。沢木はこの翻訳作業に10年以上を結果要したようだ。さらに、「講談社ノンフィクション賞」の選考会の公開ドキュメントなど、全体に新しいモノへの「試み」の意気が感じられる。「g2」の2号目以降、どうなるのか気になるが、ノンフィクションのラジカルな成果の場として期待したい。

さて、久しぶりにベトナムについて書いてみるか。まあ「ベトナム私信」だから、ベトナムから書いて送ればいいわけで、別にベトナムの関連事項にこだわることも無いが、ハノイに年間100日以上は居る人間として、何か書かないとね。日本のテレビとか、CM関連だけじゃ・・ね〜。昔取った杵柄というか、そう言うことばっかりの50才までの仕事や生活だったから、どうしても気になることがメディア関係に多くなるんだ。
さあ、さて、オートバイのことでも行こう。
今から書くことのデータは、ベトナム政府に問い合わせたわけでもないし、日本工業会からデータを取り寄せた訳じゃあないので、僕の「目換算」と現地の「評判とか噂」が基本だから、まちがいがあったら、ごめんなさい。

まず、「HONDA」のおおさが凄い。言うまでもないね。僕の目換算だと少なくともハノイの市内を怒濤のように走ってる65%はホンダだね。なぜ、ホンダが多いかというと「伝聞」では、数年間使用後の下取りシステムが整備されており、例えば1000ドルのバイクが、2年乗って、800ドルで、中古に出せるということのようだ。ヤマハやスズキは中古システムがそうなっていないらしい。とくにヤマハは、デザインが格好いいので、若者に人気がたかいのだが、下取りの時点で、急激に価格が下がるので、そこいらへんが販売力のもう一つの高まりに繋がらないらしい。韓国のSYMとかいうブランドが、伸びている。耐久性はどうだか知らないが、極めて安価なので、台数の増加は勢いづいている。ついでに言うと、既に日本よりも携帯電話の所持率が上回ったベトナムの携帯のメーカの大半はノキアだ。これも目換算で80%ぐらいだろうと思う。ソニーエリクソンとか誰も持っていないもの・・。ホンダより、寡占率は大分上ですね。近々ドコモがベトナムにくるようですが、どのような魂胆か良く分かりませんね。いままで、まさにドメスティック企業として日本政府を通じて「拝外的」な動きしかしてこなかったのに。お陰で通信分野は、「日本は、ガラパゴス」と揶揄されていましたよね。

さて、かつて中国にホンダの偽物工場が幾多もあった。その中の最有力偽物工場は品質も高く、ホンダの技術者もその技術のレベルとホンダへのこだわりに舌を巻いていたとか。で、心の狭い日本の普通の企業なら、裁判に訴えるところを、さすが世界のホンダですね。創業者の技術者魂がいまだ、健在なのでしょう、「そんなにホンダが好きで、ここまでの技術があるんだったら、仲間になろうよ」というわけで、訴えるどころか、買収し傘下に治めた訳なのです。したがって、この会社からの偽物ホンダで溢れていた我がベトナムは、次の日からめでたく本物のホンダとなったので、ござい〜〜。というわけで、ベトナムのホンダは、もちろんホンダの工場もベトナム国内にできたこととあいまって、全部本物となり、ベトナム国民の数千万人が、毎朝安心して快適なホンダでご出勤ということになったのです。本当の話です。

洪水のようにドドドドッと走っているオートバイもよく見ると、いわゆるオートバイ系(120CC前後のものが多い)とスクーター系のふたつに分かれる。タイヤが大きいのがバイクで小さいのがスクーターと僕は見分けている。でいま、このスクーター系がかなり増殖。例によってぼくの目換算ですが、30%ぐらいにはなっているように思える。めざましいのがイタリアの名車VESPAだ。70万80万円するのに、凄い勢いで増えていますね。ホンダやヤマハも負けじとスクータータイプを出している。乗っている人の多くが若い女性です。オフィスウーマンが増えていることとパラレルなのでしょう。スカートを身につけたら、やっぱし、またがるオートバイじゃあないでしょうからね。ちょこっと座れるようなスクーターが断然機能的です。ベトナムの女性の騎乗スタイルは極めて姿勢がいい。背骨垂直で、両腕は地面とまったく平行に。乗り慣れないひとが、慎重に慎重に騎乗している風だが、そのキチンとした姿は、他の仕草同様にベトナム人の女性たちの几帳面さを現しているようで、見ていても微笑ましいものが在るんですよ。

昨日、ブオンと娘のリンと、ブオンの友人のファッションデザイナーのフックさんと四人でアヒル料理を食べに行くことになった。いつものことだ。ブオンのVESPAが今日使えないので僕とブオンは自転車で、リンはフックさんのバイクに乗せられて、出発。距離は高田馬場から、新宿ぐらいの距離で、自転車では、結構距離がある。その道程を思い切って自転車で走ってみたわけです。時間は18時。ラッシュ時だ。オートバイと自動車の津波というか、大洪水と言えばいいのか、その流れにはいると凄まじいぜ、ホントに。外から見るのとか車中にいるのとは、まるで違った。まず、トヨタランクルなどアウトドア風の4WDの曲線ボディー車が何台も何台もぶっ飛ばしながらグイグイ車線を変えてくる。この種の四駆がいま、わんさか花盛りなのである。

それに負けじとばかりに、2,3人が乗った若造のバイクが、また時には5人ぐらい乗ったガキのやんちゃ組が、ブイブイ飛ばしてくる。親父やおばちゃんのバイクも結構に軽業で、僕の中古自転車の脇をすり抜ける。それだけじゃあなく、僕を追い越し、僕の前でハンドルを切る。だから、僕の自転車の前輪が彼らの後輪に何度も触れそうになった。ホントに・・。生きた心地がしなかったぜ。一度、信号が赤になって、僕が先頭でストップしたことが在った。やおら後を振り替えると、闇夜に数千の色とりどりのヘルメットが鈍く光っている。多分、その後も同様にヘルメット軍団が隊列を組んでいるわけだから、気の遠くなる数のオートバイの群れが、アイドリングして、信号青を待つ。青になる前から、ブイ〜〜ンと数台が走り始める。つづいて、どっと全部が唸り出す。真っ青な僕も仕方ないので死ぬ覚悟でペダルに力を込めて発車した。

ブオンは時々僕の自転車に接近してきたり、追い抜いていたり、バイク騎乗と同様に姿勢良く背骨垂直にして、すいすい洪水の波間を泳いでいるように進んで行く。場所が場所だけに、緊張して一生懸命ペダルを漕ぐ僕を見ての「さあ、行くわよ〜」みたいなスマイルは、とっても凛々しく惚れちゃうなあ。で、アヒルづくし料理をたらふく食べて、例によってフックさんのお店にいって、リンとブオンがあれ着たり、これ着たりのファッションショー繰り広げた。時間は8時ぐらいなのだろうか、近所のおばさんや若奥さんも、パジャマ姿でお店に出入りして、とっかえひっかえして、2,3点買っていく人もいた。先日、上海では「パジャマで町に出ないように」とお触れが出たそうですが、ハノイでは堂々、毎日近所の買い物はパジャマ姿です。昨今はハノイは寒いし、イタリアン式のPコート(立て襟)が、売れ筋のようで、フックさんのデザインも、かなり冴えていて格好いいモノが多かった。

僕は東京でロードサイクルのような自転車で毎日走っているので、そんなに疲れはしなかったが、かなりの冒険譚であったのでした。ブオンは「あんな混んだ道に自転車で出たのははじめてだけれど、楽しかった」とか、ダックを頬張りながらお店で屈託もなく言っていたが、今日になって、流石疲れた様子であった。でも、優しさに溢れたスマイルは、今日も変わらない。嬉しいね。

2009年11月11日水曜日

僕は保守なのであった / 検挙率の激減の現象は一連の低迷とパラレル

■最近「34才の女」とか「35才の女」とか、アラフォー(にやや近い)詐欺女子の活躍がめざましい。草食系男子の増加とか、冗談言っているうちに肉食系を突き抜け「破滅系」女子がいつのまにか華やかな町の裏道で、静かに増殖していたと言うことだろう。共通点は、何のためらいもなく大の大人の男性を殺していることだ。いままでは、詐欺は詐欺、借入金の踏み倒しは踏み倒しで、独立していた犯罪であったが、今回はわりに自然な形で殺人も混在させている。もの凄く乱暴に相手にリセットを架けている。計画的なばれない詐欺とか、逃避行とセットにした詐欺や踏み倒しは、よく在ることは知っている。こういうのが自然だ。おそらくニュースにならないレベルや提訴さえされていない事件はおそらく数十万件いな数百万件も在るんじゃあないかな。

今回は、ばれる程度の詐欺だからリセットしている。つまり、ばれないように計画的に芝居を徹底させる詐欺行為がめんどうだからの殺人なのだろうか。踏み倒しも、「返してくれ」と借金取りが来たら、いとも簡単に殺している。どうも、彼女ふたりは、「詐欺や踏み倒しは、ばれやすいが、むしろ殺人はばれない」と確信を持っていたかのようである。
警察もなめられたものである。警察の委託の司法解剖の医者が少なくて問題になっているのは解るが、「暴行の跡が明確だけど、事故死」とか「遺書らしきものが在ったので自殺」とか「足跡が本人のモノしか発見できなかったので自殺」とか、多くの警察署が予算がかかるもの、面倒そうなものは蓋をしてともかく「事件性はない」と目を塞いできたことがもろに露呈している。さらに、捜査力の衰え、プロの不在は明白だ。破滅系が更に増殖すれば、発想の及ばない警察の混乱は火を見るより明らかだ。

今から何十年か前、弟とテレビを見ていたら「日本の殺人の検挙率は99%ぐらい。それに引き替え殺人の多いブラジルでは、20%程度」とアナウンサーが言っていた。僕と弟はおおいに笑い遅れた国ブラジルをなじったものだ。そのJAPANは、いまどうだ?自然死、自殺、事故と処理されてきたものが、実は殺人であった事件が山のようにあるのではないか。真剣に捜査しているのだろうか。捜査技術も、他の業界と同様に格段と低下しているんじゃあないだろうか。彼女たちも元は「普通の少女」だ。第一回目の殺人の時はおそらく慎重に計画的に何か小説などを参考にして、「丁寧」に行ったに違いない。まさに、それが”運悪く”、ぼんやり警察は、執ような捜査もせず、すぐに遠くにいってしまい、いつの間にか「事故死で処理」とかの情報が当人たちに風聞として、もたらされたに違いない。
「殺人は意外に簡単だ」とそのとき、次の計画のイメージと共に彼女たちは、その甘味な祝祭を体験したのだろう。彼女らはおそらく、5〜6人の殺人を犯している。そう言う意味では死刑は抑止力になっていない時代にほぼなりつつあるようだ。それにしても、詐欺罪などで逮捕されている二人の写真や容疑者としての実名を新聞とテレビが隠している理由がわからない。実名を出している週刊誌の販売促進に寄与しているだけとしか思えないな。

■ ところで、講談社が「月刊現代」の後継雑誌として9月に創刊したのが「g2」だ。嵐山光三郎が週刊朝日で絶賛していたので、日本にいる娘に購入を頼んでいた。数日前彼女からもらって、確かにふむふむ。創刊号の宿命だろう、熱気溢れて「閑話休題」風な階段の踊り場的休憩所もない一気呵成のものであった。表紙も漆黒。時代離れしたエネルギー感覚をまともにぶちかまそうとしているようだ。いま、ハノイで、読んでいる。僕は創刊号をかつて集めていた時期がある。「ダカーポ」「フォーカス」、変わったところでは河出新社の「終末から」とか、30冊ぐらいはもっているんだぜい。さて、2号目はどの程度、落ちるか。

■ 先日NHKで「新日本紀行ふたたび」をやっていた。その日は木場・深川がテーマのようだ。ご存じの方も多いと思いますが、昭和30年代、40年代の最優良テレビシリーズ「新日本紀行」は、富田勲の音楽と共に我々の世代には、お馴染みですね。で、この「ふたたび・・」はその30〜40年後の変化を検証し、日本の社会の移ろいを描写するモノ。たまにしか見れないが本当に意義深く優良な作品が多い。

「Google」で「新日本紀行ふたたび」を検索すると、音楽を聴けるボタンも付いていますよ。今度は歌詞つきだ。何とかという琵琶奏者が演奏とボーカルをやっている。これがちょっとおどろおどろしさも加わり、あの富田サウンドが正に過去を振り返るのに相応しい音階を奏でている。とても良い。さて、その木場は大いに変化した。何十とあった材木屋はほとんどが大型高層マンションに変わって、風景は激変している。人も世代が変わり、72年に撮影した当時若者の一人であった職人はいま、「ふたたび」では、初老の棟梁に。時代の変遷が明瞭に描写される。しかし、変わらないモノは伝統をしっかり受け継ごうとする庶民のしっかりとした意志だ。

木場には昔、流れる水路の材木に乗り製材所に材木を寄せる職人を川並さんと言う職人衆がいた。その行き交う風情は江戸の庶民文化の一つだった。川並さんは角材にのり、粋と腕前を競ったものだ。この川並衆のはっぴ姿。鳶のスタイル。火消し衆も含めた江戸のいなせや粋の極みと言って良いでしょう。さらに、木遣り(きやり)歌は泣かせる。江戸の労働歌であったものが、各地の風土と交わって伝播していったもののようだ。2009年の現在のシーン、角乗り(角材に乗る)を学んでいる若い衆の結婚式で歌う数十人のいなせな男衆。労働と伝統を歌い上げる凛とした男衆の木遣り。この美しさと人々の伝統を守る意志から畏敬すら感じた。テレビの画面に引き込まれ自然と熱いものがこみ上げ、大粒の涙となって僕の頬を伝って零れた。江戸のデザインの斬新さ、江戸の文化の格好良さ。雅とはちがう庶民の洗練。

女房自慢になっちゃうが、これらの江戸前の美しさを僕に気がつかせてくれたのも、亡くなった晃子だ。西洋ヒューマニズムに基づいた単なる左翼急進派であった僕に、70年代初期から無農薬・有機農業の大切さを教えてくれたのも彼女だし、歌舞伎や江戸文化さらには日本の絵師、彫刻師たちの事、さらに山登り(登山というほどじゃあないが)、自然を愛でたりと、多様な価値や視点を学んだり、関心を持つ切っ掛けは全て彼女に負ったものなのである。
片や、言わなければならないのが僕の親父の事だ。彼は青学や早稲田、日本医科歯科など7つの大学に籍を置いたことがある強者であり、最終的には、早稲田の文学部心理学科のマスターを出て、故郷仙台の高校教員になった人物である。

心理学科では一年後輩に本明寛さんがいたらしい。親父はこういう環境で学んだインテリゲンチャーなので、いわずながな西洋的金縛りから抜け出せないのだ。どんなに知識欲があり、学習に励んでも日本やアジアの歴史の面白さとか価値に気づかない。気づかないだけならまだ良いが、「遅れた」ものとして、自分のテリトリーから無視し排除する傾向が強い。だから、僕が育った環境はわかりやすくいうと「クラシック音楽は良い。民謡や歌謡曲は程度の低いもの」という、絵に描いたような戦後(アメリカ)民主主義の楽天的なインテリの家庭環境であったのだ。親父は、熱心じゃあないがキリスト者だし本当に善良な人物。93,か94才あたりで、まだ”ご存命中”だ(笑い)。今頃彼のことをとやかくいうつもりもないが、日本に生まれ育った僕が日本の良さに触れ始めたのは22,23才、晃子と付き合い始めてからだ。だからやはり、慚愧な気持ちが幾分残る。僕の日本(亜細亜)回帰的保守的感覚は影響の大きかったこういう父への反発の中で次第に育ってきたものだ。

小沢さんが、昨日あたり、「キリスト教は排外的・・」とか言って物議を醸しているらしいが、彼のそれはめずらしく、正しいね。好戦的お節介屋キリスト教と、ホワイト中心の民主主義、そして貧乏になる自由だけが横溢している世界資本主義が三位一体でこの数百年地球を覆って来た。本当に不幸なことだ。この呪縛から抜け出さないことには、暴力と差別と戦争と資本抗争にみまわれているこの美しい星に未来は決して来ない。

2009年11月6日金曜日

君との出会いは、奇蹟だった

ヤンキース松井がメジャーで遂に日本人として初めてMVPを取った。素直におめでとうと言いたい。今時、彼ほど謙虚さが身に付いている青年(35才は青年でないかもしれないが)は、他にいないだろうね。彼ほどの人物になると、強運もあろう。たしか、7年前の春のデビューの試合でいきなりホームランをかっとばしたよね。戦後日本の復興のシンボル「ゴジラ」の名前を戴く人物に本当にふさわしいスタートであった。ただ、もっと凄いのはその後だ。その後の怪我や不調は、どのように彼を苦しめたのであろうか。おそらく挫折体験がないはずの松井がめげずに努力の鬼として、復活を遂げたと言うこと、これが一番賞賛されて良いことであろう。松井の努力には、素直に評価したくなる。そう言う魅力を寡黙ななかに持っている。尊敬する野茂さんにつながる人物の譜系だろう。

イチローは、凄い。いわゆる天才なのだろう。更に日興コーディアル証券のCMにも取り上げられているが、この天才は松井同様努力の人なのだ。CMで「毎日の繰り返しが、イチローの場合、何故未来に繋がるのだろうか」とかCMのナレーションが語っている。毎日の規則正しい訓練の繰り返しを継続できてこそ、輝かしい未来が近づく、基本中の基本をイチローは毎日たゆまず継続しているのだ。でも、何故かイチローはちょっと俗っぽい。軽薄で鼻につくものの言い方をする。野球の面白さは、ホームランだけのアメリカベースボールより、スピードとRUNと、レーザービームのイチロー流の方が好きだけれど、彼は話すとどうもいけない。女子アナ出の女房の影響が悪くでているのかしらん。いつも「今日は特別の日です・・・」とか大抵嫌みな話し方で、僕は常に鼻白む。

先日、NHK見ていたら、小田和正と財津和夫のお互いの心の交流というか、音楽の交流と言った方が良いかもしれない、アマチュア時代からの付き合いのドキュメントを放送していた。二人とも僕と同世代だし、特に小田さんは、僕の故郷仙台の東北大で建築を学んでいたので、なんとなく昔から興味は引かれていた。軽妙洒脱な彼独特のトークは昔から有名だが、年輪を重ねた50歳代以降のは本当にただ者じゃあない。確かNHKBSで2001年か2002年頃に放送していた3〜4時間のライブは、見応えがあったし、晃子と二人でとても楽しめた記憶がある。

このドキュメントは語っていた。今回、財津から初めて小田に曲を依頼したらしい。
小田は詩も書いた。ドキュメントの後半にこの作られた曲が流れた。財津が歌い演奏して作成した試作CDを小田がじっくりと聞き始める。その時初めて、曲全体を通して聞くことができた。その中に「君との出会いは奇蹟だった」とある。仮のタイトルもそうだったかもしれない。それって、インパクトがある言葉でもないし、気が利いた高校生ならそのぐらい書けそうなフレーズだ。この言葉をきいてしばらくして、ぼくは何か、そうだよね、そうなんだよね、とだんだん引き込まれていった。とりとめない普通の様に見える言葉に深みがある上手さ。小田さん、流石だね。こころが解放されたような気分で、この「君との出会いは奇蹟だった」をゆっくりリフレインしたんだ。そうだよ、やっぱり晃子との出会いは奇蹟であったのだ。はるひや一行との出会いも奇蹟であったのだ。親父とお袋との出会いも、たくさんの友人たちとも、手塚治虫先生と同じ空気を吸って生きて来れたのも、”チェ”という異国の革命家と1950年代60年代同じ地球上に存在していたことも、僕が58才の時ベトナムという国でVUONGという愛すべき美しい女性と出会えたのも奇蹟なんだ、そうなんだね。かけがえのない人々との出会い。神の作意でも、赤い糸に引かれたのでもなく、偶然という必然に形作られた奇蹟が僕の頭上に無尽に降り注いでくれたんだね。光のように。
ありがとう、宇宙の森羅万象。

もうひと月ぐらいは経つだろうか、音楽家加藤和彦さんが自死した。「音楽に於いて、もうやることがない」と語っていたようだ。あの「帰ってきたヨッパライ」で鮮烈にデビューしたのは、確か僕が大学一年の冬に仙台に帰省していた時であった。1967年末〜1968年1月頃、仙台の町でもこの曲は町のあちこちから聞こえていた。テレビの音楽番組では、加工した音楽だからライブができず、画面を色とりどりにしたり、サイケな面白い演出でテレビにクルセダーの3人は出ていた。でも、すぐに「イムジン河」とか、辛くて悲しいような楽曲などの方向に変わっていった記憶があるね。作詩の北山修は、精神医になって離れるし、元々友人でなかったはしだのりひこは路線の違いとかで別れていくこととあいまって、加藤はもっと先鋭的に歩をすすめ、サディスティックミカバンドへと昇華してゆく。

ぼくは、別に加藤さんのフアンではなかったが、加藤やミカバンドに理解を示す妻晃子の影響もあって、注目していた。と言うより、感心は失わないでいた。今後、加藤さんは世界に初めて日本のロックを輸出し始めたアーチストとして、かつプロデューサーとして、日本ロック史に大きく刻まれよう。当時このクルセダーの周りには平凡パンチの有名編集者になった松山猛さんも作詞で参加していたと言うから、この一群は音楽における革命を目指していたのかもしれない。もし、そうであるなら「前衛」加藤和彦の死は、ろくな音楽が生成してこない今、無念の死と捉えるより仕方ない。それであっても、彼もまあ若者じゃあないから、心の中はあくまで静謐であったろう。まさに音や言葉のない世界にゆっくり旅立ったのだと思う。

そう言えば、1976〜7年頃、つまり33年も昔のことだ。そのころ、東映の一員でもいたが、アルバイトで、チューリップのPRドキュメンタリー作品の助監督をしたことがあり、財津和夫さんらと、3〜4ヶ月行動を共にしていた。僕も財津さんも、お互いに27,28才ぐらいであったと思う。そのころ大ヒットしていた「心の旅路」。その美しいメロディーが何処からか聴えるたびに今でも当時の撮影の現場とか、会話などが思い浮かぶ。これも僕の出会いの奇蹟の一つだね。

2009年11月3日火曜日

「救うのは太陽だと思う」

” 救うのは太陽だと思う ” 鮮烈だね。CMとして極めて秀逸だ。カンツォーネ「オーソレミヨ」がバックで流れる中を吉永小百合さんが、意志を込めた口調でスクウノハタイヨウダトオモウと語る。今春から流れ始めたような記憶ですが、何度耳にしても「良いねえ」と感激してしまう。この一言だけで、これからの時代の社会システムの構想の全てを語っているかのようだ。企業としてのシャープが何処まで、太陽光発電を含むグリーンニューディール産業を構想し、強い意志を固めたかは、不明だが言葉が持つ強烈なイメージを毎日1億人の市民にテレビを通して提案し続けている責任は果たしてもらいたいと思う。インパクトが強いといわれる映像メディアをすら超越して僕らの心に響くラジカルな言葉、現代的なフレーズだろう。CM史に残る名作といえる。

ついでに、気がついたCMを。けっこういけてるのは、今夏まで放映していた資生堂の「かわいいは、つくれる」かな。まさに身も蓋もなくて、最高だね。かわいいも、キレイも作っちゃえるってわけだから、あけすけで凄いです。化粧品会社の本音だし、実は女性たちの本音でもあるので、「もともとそんなこと知ってる」男としての僕は見ていてクスッとなる。これで”ブス”で有名だった南海キャンディズの静ちゃんがいっきにメジャーになったし、何でもかでもオープンな時代にふさわしく、みんなあけすけで、てれずに、いや、恥ずかしさも棚上げにして、ハッピーとなっている。電車の中で化粧に勤しむ女性が結構いる現象と同列な位相だろう。だって、とりあえず、うわべだけでOK、とみんなで認め合っているんだもの。

同じく資生堂の最近フジテレビを退社した滝川クリステルも加わった「椿 TUBAKI」のセクシーでリズミカルに揺れる豊かな黒髪と後ろ姿。ウーマンたちの眼差しやボディーラインが僕の目をいつも奪う。SMAPの楽曲もなかなかだね。僕の好きな鈴木京香(仙台出身)とか、蒼井優、仲間由紀恵もいるし・・・。髪は女の命というのは、多分世界共通だろうね。ベトナムも、文化として女性はロングヘアーに常にこだわりを持っている。長い黒髪とアオザイ。CM的最高の絵柄だなあ。「椿」のベトナム版の作成を期待したいものだ。

で、読書の秋で、例のドストエフスキー亀山郁夫訳「罪と罰」はいま、2巻目の丁度200P。加藤周一さんが亡くなって、そろそろ一年だなあ、と思って「日本文学史序説 上巻」買って、20ページほどよんでいたが、引っ越しの騒乱とぶつかって、なぜだかこれだけ見つからず、ストップ状態。書籍を入れたままの段ボールの山に紛れたのかも。もし、紛れたのなら来年夏移転までは、封印状態だな。先日、馴染みの病院にいったときに、なぜかうかつにも、カバンに本が一冊も入っていないことがあり、1時間も待合室でぼんやりできないから、慌ててこの病院のそばの本屋へ。花小金井駅のそばだから、本らしき本が売っていない。受賞ものとか、勝間和代とかのはやりものしかないのには困った。

が、文庫コーナーが在ったのでちょっと思い出して中勘助の「銀の匙」を探したが無いので、どうするべえと考え、じゃあ読んだこと無い作家にしようと思い山本周五郎の短編集「日々平安」に。9月ぐらいにNHKでやっていたドキュメントに灘校の国語の元教師がでており、驚いたことに灘校の三年生の国語の授業は一年間この中勘助「銀の匙」に取り組むだけなのだという。この先生は30年間ほど、毎年それ一本槍で、受験教育いっさい無しでやってきたのだという。受験学習をそれなりにやらなくてはいけないという世間的誘惑や教員組織の圧力に負けず、生徒も生徒だし、親も凄いが、この老教員の一徹さは教師の鏡だぜ。定年で引退して、20年近く経ったようで、50歳代の企業幹部や官僚の幹部、学者になった人たちがこの老先生の一年間の国語の授業の豊かさと、「本物の授業」の偉大さをそれぞれに語っていた。教え子の中の一人は灘校の国語の教員になっており40歳代の彼は「源氏物語」を1年間一本槍でやっている。老教員の本質を学ぶ伝統を継承しているらしい。「流石、灘校」と脱帽だね。

僕が仙台二高の時、国語の担当は担任でもある辺見裕先生で、あの尊敬する作家辺見庸さんの兄貴であった人だが、僕が2年生か3年生の時分に「日比谷高校や灘高では、教員がカリキュラムに沿って教えたりしない。できる生徒が教壇にたって、授業を展開している」と言ったことがあった。「都会にはスゲー高校があり、スゲー連中がわんさかいるもんだ」と僕らは一斉に驚嘆しざわついたものだ。あるとき彼は国語の教材に関係なく天才寺山修司の(残念ながら詳細は思い出せないのだが)「少女」と「半島」に関するものの短歌を取り上げ、大分時間を使って、魚群相手の夜の漁船のランプのように煌々と、僕たち16才に現在からの出口の在処を暗示させていた。懐かしさと同時に良質な教員たちの知性とか努力とかが僕の脳裏に甦ってくる。「今後思想家トロッキーが見直される」と授業でぼそっと語った世界史の佐藤英樹先生もいた。お二方とも、既に亡くなられている。
■《ブログご高覧感謝》
ついでに僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
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・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

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2009年10月7日水曜日

ハリマオ亀井の獅子奮迅

♪♪真っ赤な太陽燃えている 南の果ての十字星 轟き渡る雄叫びは 正しい者に味方する ハリマオーハリマオー♪でも良いし、♪♪月光仮面のおじさんは正義の味方だ良い人よ 疾風のように現れて〜〜♪・・・・まあ、亀井のおじさんは我がテレビのヒーローの様だ。懐かしさを込めて、悪との闘い振りを小林少年になったつもりで、我が亀井明智小五郎探偵をフォローしたいと考える。
かつて、「自民と民主の違いはカレーライスか、ライスカレーかの程度」と名言を吐いたのは福島瑞穂だが、いざ、若造民主が、動きだして、この数週間どうだろうか。前原とか、長妻とか、岡田とか、結構やるじゃん、と思う。鳩山さんも、奥さんに助けられながらも、上手いデビューを国際的に勝ち取った様に見える。期待していなかった分だけ、意外に精力的に主力部隊は動き回っておりちょっと期待してもいいのかなあ、と思わせる。

が、期待の管さんは、どうしたの?「国家戦略局」なんてネーミングはいけてるのだが、動きが鈍い。財務省や仙谷の「行政刷新会議」とのA工事か、B工事かのダブりの迷いなのか、つまんないところで、意外にも滞っている感じだね。さそった外部メンバーももう一つだなあ。例えば、立花隆さん、東大の藤原帰一さん、日本総研の寺島実郎さん、早稲田のミスター円榊原英資さん、スタンフォード名誉教授の青木昌彦さんとか、思い切っていれりゃーいいんだよ。元左翼を集めれば良いってもんじゃあないが、国家の運営の頭脳から変革しなくてはならない事態に至った日本の運命は、大きなパラダイムシフトによってでしか、解決は無いだろうと、僕はまじめに考えているからなのであります。そういえば盟友田中康夫ちゃんだって、悪くないぜ。権威に遠慮がないと言う意味ではピカイチだよ。

正義の味方は、いつも悪代官とかギャングたち、はたまた秘密研究所の悪学者たちから恨まれてきた。亀井の銀行批判、モラトリアム提案の何処が悪いんだ。一体徳政令の何が悪いっていうのだい。銀行イデオロギーにがんじがらめになったマスコミの軽薄諸氏よ。大手銀行から大金を借りている輩の、本当に限界というべきでしょうね。でも、現場の記者はそんなの無視して、ペン1本で悪漢とたたかうべきなのに。

日本の銀行は僕が言うまでもなく、護船団方式で、戦後一貫して守られてきた。国費で守られてきたが、中は自在に利益の分配と行内留保を継続してきた。アメリカなどの外圧で護船団が維持できなくなったり、バブルで遊び呆けて一気に沈没しかけ(ホントに経営者の質が問われる)ると、今度は公然助けを求めた。「公的資金」の注入だ。公的資金だってさ。朝日新聞はじめ何処も「血税の投入」と記事に書けなかったんだから、非道いもんさ、日本のジャーナリズム。

あのね、銀行が金融の中心機関であることは、僕でさえ知ってる。問題はアメリカイデオロギーかぶれの連中が「銀行の時代は終わった」「保険会社、証券会社との垣根がなくなった」とか、吹くものだから、頭の固いドメスティック派銀行人は、慌てて本業以外の参入に追い込まれ、弱肉強食の世界に引きっぱりこまれて、翻弄されたと言うことだろう。それこそアメリカの大学では、就職できないクラスの下位の連中の就職先と小馬鹿にされてきた、地味な存在が銀行。うん、でもそれでいいんじゃあないの?地味で堅くて、1円でも帳尻合わせるまじめな銀行が銀行さ。そこを本懐とすべし、ですよね。

銀行が国営であって、何が悪いの?県営や、道州制ならそれぞれの州の公的銀行が競争すれば良いんじゃあないの。みずほが神奈川県営銀行、東京UFJが東京都営銀行、もちろん、埼玉にもちょっとあげないといけないから、東京UFJの大宮支店と浦和支店分の財産は、埼玉へくれてやりゃあいいさ。少ないなら、荒川支店あたりもやってもいいよ、都内だが。ともかく、銀行をNPOにして何が問題ですか。健全な財団法人にして、何処が問題ですか。だいたいさあ、銀行は私利私欲に走っていけないんでしょう?本来中立な立場であるべきですね、存在自体も公的なものであるべきでしょう。だったら、色々工夫できるはずだ。
現状のように、保護や救済だけ税金使用で、儲けるときは勝手にぼろもうけ。僕の友人や知人の50歳代の連中、年収2000万はもらってるんだよ、いっかいのサラリーマンで。証券・保険の連中もそうだが、退職金は数千万。ほんとに我が身を振り返ってトホホ・・だよ。我が仕事仲間の中小企業では、社長や会長でも、そんな金額に届かない人が大半だ。それが現実。

そんな銀行にたてついている正義の味方が白馬童子の亀井さんだ。主演であった今夏亡くなった山城新吾さんとは、35年ほど前、京都駅でばったり会い「おお阿部ちゃん」と声をかけられ、たまたま一緒だった新婚の妻を紹介し、内心「どうだ、山城さんも、俺の知人だぜ。妻よ」と並んでいた若々しい妻の横顔を拝しながら得意がったことを思い出す。まあ、いいや、テーマは亀井のおじさんだ。後藤田さんもそうだが亀井さんしかり、庶民の味方は警察官僚あがりだけ??情けないねえ。もともと、民主党は僕は好きでない。だって、松下政経塾とか、如何にもMBAとった若者とか苦労知らずのアメリカナイズの事務屋さん的右派政党と僕には見えていた。特に外交はね。中高年は知ってるわけだが、民主党の基本人脈は自民党の田中派です。だから、自民の別働隊といわれても仕方ない出自だ。カレーライスかライスカレーかとか、言いたくなるのは、良く分かる。

自民党は伝統的にそれなりの「人物」で溢れていた時代もあった。僕の好きな人もたくさんいた。三木さん宮沢さんはかわいかったし、田中さんは天才だったし、きらいだが小泉さんは最盛期セクシーであった。リベラルで感じの良いおじさんから、古武士のような人物までいた。中村錦之助、市川右太衛門、片岡知恵蔵、東千代之介、大川橋蔵・・東映のオールスターも驚く布陣であったよねえ。自民党の良さをいうと、いい加減さと社民的ヒューマニズムに在った様な気がする。方や日本社会党だって、ズーズー弁の佐々木更三、機関車浅沼稲次郎、インテリ成田知巳とか、役者は結構いたね。まあ、きょうはそこまで。亀井さんのこと書かないと、テーマとずれる。

若造民主党の党や政府のなかでは、政治家然とした旧タイプの輩は悪代官風小沢と亀井ぐらいしかいまい。ミニ政党の宣伝を兼ねているから、純粋な心じゃあないだろうが、亀井さんの言っている「借金の返済の延期」はまったく、問題ない。庶民の声さ。問題は延期にしてもらった企業が次の資金手当がしにくくなるだろうという点だけだろう。銀行は意地悪だからね。もちろん、中小企業の救済と育成の方法は他にも幾つもあろう。が、この際、銀行の肥大した官僚体質に政治的にメスをスパッといれて、銀行は中小企業の目下であり、国民の丁稚であることを再認識させつつ、中小企業対策を敢行すべきだとおもう。

僕の母かたのおじさんに地方銀行の元頭取がいるから、言う訳じゃあないが、個々人に悪い人はそういない。そこは攻めて無いですからね、勘違いしないでくださいね。問題は組織体質と構造にあるんだ。
徳政令、何が悪い。ガラガラポンが今ほど必要な時期はない。国民が、希望を持てる未来の構築のため、活力を再生するために、無邪気な亀井さんを励まそう。
♪♪雲か嵐か稲妻か平和を愛する人のため、諸手を高くさしのべて、宇宙にはばたく快男児、その名はキッド、ナショナルキッド、僕らのキッド、キッド〜〜♪(松下電器提供)

2009年10月3日土曜日

”石原五輪音頭”の終末 / 中秋の名月

昨日の深夜、僕はハノイで東京が2016年のオリンピック候補地争いで落選したことを知った。インターネット新聞でだ。関心の無い僕も何となくそぞろな気持ちで、そのニュースを待った。落選の報を見た時、最初に口をついて出てきた言葉は「ザマーミロ」であった。ちょっと我ながらえげつない言葉だなと思ったが、出てきたからには仕方ないね。この言葉は何かに投げつけるのが普通だから、正に石原都知事へということだろう。要するに、このオリンピック招致活動もこの二回目の東京五輪自体も、解せないうちに始まり予定通り敗北した”石原さんのオリンピック”であったからだったと思う。

素人の僕でさえも動機が不純であったと、合点がいかなく思っていた。いや、否が応でもある臭いがしていた。5年ほど前だったろうか、石原さんが言い出した時、その唐突さに多くの都民、国民も僕同様に違和感をもった人も多かったろう。誰か石原にたきつけた人間が居るだろうが、傲慢男の面目躍如の提案として世に問われたのだった。
冷静に見てよ。だって、どう考えたって、傲慢だよ。まず東京は2回目なんだよ。名古屋も、大阪もこの20〜10年の間に、落選しているんだよ、その意味を理解できないのだろうか。今回決まったブラジルのリオは、南米大陸初めてなのだ。スペインのマドリードだって、今まで開催がないのだよ、あの美しい都市でさえ、ね。つまり、我がTOKYOは当初から常識的な必然性に欠けていたのだ。

日本人は幸いにして大半が傲慢じゃあない、むしろ、大抵のことに公平感を持っている。この僕ら日本人の多くは世界平和とか民族の交流を考えるのなら「やっぱーオリンピックの開催地は順番でしょ」と考えるのが普通。南米で今までなかったのなら、リオでしょ!今後イスタンブールだって、良いだろうし、ニューデリーだって、ハノイだって立派な候補地だろう。そうだなー、イスラエルとパレスチナでやったって良いんだぜ。日本がこういうとき銭金のスポンサーになったっていいのさ。世界中から尊敬さ。毎年日本のODAで、ベトナムに供出してるのが約1000億円(純粋寄贈は40億だけですが)。それを考えれば、まったく不可能な話じゃあない。「ガザ+テルアビブ共同(共生)オリンピック」実施に一役買うのが政治というものさ。

日本仕切りで、あるいは都知事引退後の石原さん仕切りでやればいいのだが・・。
僕、石原さんが「中共といって何が悪い」「ばばーに婆ー」といって何が悪いと言ってニコッとするような悪ガキ慎太郎が大好きです。また、「ジャーナリスト的に自分を育ててくれたのは、ベトナムです」と率直に語る慎太郎さんは尊敬しているが、彼は気の毒にもこの野暮な招致活動で人生の末節を汚してしまったようだ。

今回「環境とコンパクト」とか、言ってるが当初とは大分違う。5年前「経済効果」という御旗の錦をぐいっと掲げ、不景気感漂っていた庶民レベルの「なんか、パッとしたものほしい」感に上手くつけ込んで、石原さんが始めた。でも、実は石原さんご当人は経済効果なんか考えていなかったんじゃあないかなあ。一応経済界の協力が必要だから、経済効果の御旗を掲げたが、本心はもっと個人的事情に基づいていたんじゃあないかと僕は思っている。オリンピック招致と決定は、長男石原伸晃の「総理大臣」就任へのおおいなる後押しに活用しようと考えたんじゃあないだろうか。政権変わったし、格好いい世襲をねらったが、2009年は石原さんにとって最悪の年になったかも。いま、老境だからちょっと気の毒だが、敗北や挫折も大切だよ、青年の樹の御仁よ。

都庁の幹部もスポーツ関係者も経済人も「東京に2016年オリンピックが来る」と信じていた人間は一体、幾人いたろうか。当の石原も敗色を早い時期に内心認めていただろうと推測する。だってさあ、東京でオリンピックを近々やる「理由が無い」もの。でしょ?何かありますか?ご近所の北京じゃあ、去年やったんだぜ。バカじゃないの・・・。北京の次の年のIOCの総会での決議事項なら、IOCの理事が「東京は二回目だし、アジアが多すぎるんじゃあないの。20年前ソウルもあったし・・」と思うのは当たり前。どんなにIOCの理事たちにご機嫌を伺っても、150億円もかけた立派な招致:プレゼンをやっても、儲かったのは「電通・博報堂」かどうか知らないが、広告代理店とPR代理店、プロモーションプロダクションの数社だけというのは、笑えない。
だから最後の最後まで、IOCの多くの理事の指摘にあった東京のマイナス点は、”国民の支持が薄い点”であった。石原が作ったプロモーションは金をかければかけるほど、作為的でしかなく、国民的支持にはほど遠かったわけだ。それにしても鳩山さん、のこのこ行って、人が良すぎるよ〜!自分の能力を勘違いしないほうがいいぜ。

一連の過程で評価できるのは、昨夜の最終プレゼンに皇太子殿下が行かなかった事だろうね。流石、賢明である。立派だよ。”東京の招致活動”に政治の臭いをかぎ取ったからに相違ない。
♪♪ また会いま〜しょと、オリンピックの金と影、ソレ、どどんかどどんか、金と瑕疵(かし)〜〜♪(三波春夫)

日本でもそうだろうが、今ハノイでは中秋の秋祭りの時節だ。街中で金アカの装飾の仮店舗が溢れ、そこでは中秋の名月で欠かせない月餅を売っている。甘いモノに目がない市井の人々がオートバイを店先に止め、何箱もまとめ買いしている風景はめずらしくない。そう言えば仙台の実家で僕と弟二人とが、暗空に静かに鎮座した白色の満月を仰ぎ見て、お饅頭と果物が盛られた卓袱台を囲む。僕らがちぎって持ってきたススキ束が花瓶にさしてあった。美しい母親に促されて、弟たちとお月様に手を合わせたのは、何時のことであったろうか。

昨夜はハノイの市中で、中秋の子供のお祭りなどがあり、遅くまで賑わっていた。今朝は土曜日ということもあって早くから、秋の運動会(らしい)が近所のハノイ工科大のグランドで開催されていた。この辺では一番NGON(美味しい)のフォーガー(鶏うどん)を7時頃食べに行ったかえり、そのグランドに行ってみた。色んな催事があるらしく、子供からおばさんまできれいな色とりどりの衣装やアオザイを着ていた。中国や北朝鮮などと違いちょっと微笑ましいのは、行進や待機中の人々に統一感や「きちっと」感があんまり無いことである。

北朝鮮や中国の軍隊やマスゲームを見せられると、僕ら日本人はやや鼻白んで、「気持ち悪いな」なんていうが、どうしてどうして、実は僕ら「キチンと」や「一糸乱れぬ」やメリハリや、制服の統一などは結構大好きだ。まあ考えれば昭和10年代の日本は、世襲の君主を頂いた絶対軍国主義国家であり、外国から見れば、今の北朝鮮と似たように目に映っていただろうと思う。特攻隊などはイスラム原理主義者のテロの先駆だものね。ちょっと歴史を辿れば、日本も正気の沙汰と思えぬ「国体」だったのだ。日本は現在幸運にも成熟した社会になった。でも、東アジア的「規律と統制」のDNAを歴史的に引き継いでいることを忘れない方が良い。

で、ベトナムである。言っちゃ悪いが彼らはビシっと「統制・統一」ができない文化なのである。列強に分裂させられていた国家は統一したが、庶民の心まで、同じ色には染められない。昔から正規軍じゃあなく、ゲリラ戦に強いと言われているのは、そのあたりだ。もちろん実戦のゲリラ戦に於いては生死の架け橋のうえで、電撃を繰り返すわけで、5,6名の軍事的統制はもちろん必須だろうが・・ね。
一応、彼らの名誉のために言っておくが、僕らから見ていると幾分ダラダラと見えるが、実はいい加減というのとは違うのである。僕らが彼らの文化の形式:プラットホームを読み取れていないということなのです。例えが難しいがフォーディズムの権化であるベルトコンベアーによる生産方式の見た目の統一性や合理性と、セル方式による新しい生産方式の比較とちょっと似ています。ベトナム人は一人で何でもこなす。また見た目より組織性が実はしっかりしている。つまり、「セル」的なのだと言っておこう。

落選という事態を迎えてしまったにも拘わらず、石原さんが即刻辞任しない場合、厚顔無恥の誹りはまのがれないだろうなあ。マスコミは豹変するからね。
僕の知っている限り、東京五輪は止めよう、とテレビ番組で語った事があるのは元宮城県知事でいま病気療養中の浅野さんだけである。「やめよう論」を各紙もテレビ各局もタブー視していた中で、彼は立派だ。
八ッ場ダムも同じだが、無理と気づいたら、あるいは、おかしいと気づいたら、誰か止めなくてはならない。

2009年9月13日日曜日

水虫には歯磨き「つぶ塩」が良い

■ 今年、3年振りかな。水虫だ。かなり、かゆい。親父の時代から我が家はなんでも「ヨードチンキ」だ。子供時代、仙台のガキ友達はみんな「赤チン」派で、僕は孤立ぎみであったが、インテリ親父の台詞をそのまま使用「赤チンは周りだけの消毒だ。ヨーチンは、内部まで消毒するんだ」どうだあ、みたいなことをあちこちの怪我の現場で奮戦して喧伝していた。昔の子供は傷だらけだったからね。みんなの傷口は赤く、僕だけ茶黄色。堂々55年以上ヨーチン派だ。現に家に1本、ハノイのオフィスに1本。切れたことがない。

妻晃子(てるこ)は、自然派だった。だから、彼女のアドバイスに従って、水虫予防には桑の葉が効くという思し召しを頂くと僕は実行したものだった。1990年代の夏は大抵靴の下敷きよろしく桑の葉を靴の中に1、2枚敷いていた。中高生ぐらいの娘や息子は靴にハッパを入れて歩く父をどう見ていたか解らないが、不思議な父母だったかも知れません。地下鉄で一回、このハッパを靴にしいている秘密が公然とばれたことがあった。当時イタリアの靴(生活ちょっと豊か)愛用で、浅いタイプのモノで、一瞬何かにこけて、脱げた。勢いで靴が50センチほどずりずりっと、前に行ってしまった。見るとイタリア靴のなかに、ちょっと立派な形の桑のハッパが2枚堂々顔を出していた。立っていた人が少ない環境であったので、この僕の「ハッパを敷いている男」という秘密を知った人は、5,6人じゃあくだるまい。一瞬熱湯の様な熱いモノが顔前を通り過ぎたが、そこは激しい闘争をくぐり抜けてきた私です、悠揚迫らぬ足つきで、何もなかったようにケンケンして、イタリア靴に左足を納めたのでした。

さて、治療です。ヨーチン派の弱点は水虫を治せないことだ。万能薬として、何でも使ってきていますが、水虫には、どうも分野が違うというか、水虫族に相手にされていない様なのだ。
3年振りに水虫におかされてしまって、ヨーチンをまあおなぐさみにつけたり、2年前の皮膚科にもらった良く分からないチューブ入り軟膏を漬けたりしても、もちろん効くわけがない。そうするうちにベトナムに来ちゃったので、さあこまった。VUONGに言ってベトナム製か、中国製の水虫クスリを買ってもらうか。効きそうもないし、水虫はいい歳してもちょっと言いにくい。そのとき気がついたのは、愛用の花王の練り歯磨き「つぶ塩」だ。

塩は、勘で効きそう風だし、これも以前だが、「ナス焼き塩」の歯磨き粉を使っていた時代(歯磨きすると口の周りが真っ黒になる)にそれを水虫退治に応用したことがあった。結構善戦したのだった。完治したかどうか記憶がないが、「塩は使える」という確信はそのとき持ったような記憶あり。思い立って、すぐ実行。17日から毎日、2回ぐらいすり込んで、ちょっとたっぷりめにね。3日間、水虫軍の騒ぎは収まっていた。治まったが、4日目に反撃があり、また、たっぷりめにすり込んで、今日に至った。勝利は近い感じもするが、水虫は、ご存じのように完全ジェノサイドと季節が終わらないと、終息しないものだから、まだ、皆さんに報告はできません。
( *水虫と戦闘中の御仁は相変わらず多いようで、この項のページビューはかなり多い。だから、申し訳ないので結論を言っときます。付けた緒戦の3〜4日は、完治かなと思うほど、効き目有り。しかし、何度か挑戦したが、これだけでは完治はしないようだ。でも、かなりの所までいけるよ。初冬まで軽いデッドヒート。そのうち「水虫専門薬」などミサイル軽く投入してその年の争乱は鎮静する。でも、昨日あたり、左足の中指と薬指の桶狭間古戦場が、半年ぶりにカユ〜。2011/3/24)


■ まあ、驚きですね。6月の後半から、今日まで、大体2ヶ月半ぶりにベトナムに来たのです。今日。この5年で、こんなに来ないことは、初めてだ。つまり、それくらい日本で僕が「営業」に専念せざるを得ない事情があったということでしょう。9月5日に息子の結婚式が上高地の澄んだ空気の中で行われ、というか、そういう前から動かない日程も他にもいくつかあり、タイミングも上手く取れなかったこともあるにはあったんですがね・・。この夏ほど忙しくかつ、疲れた夏は今までないでしょう。8/31の61歳の誕生日もはじめてかなあ、一人で東京で過ごした。

・・ここから22日記述。
この明るくは決してない現在の心境の時にまたしても最悪に暗くて貧乏な物語に、また手を染めてしまった。ハノイで、14日から読み始めた。カラマーゾフの兄弟全5巻に続いて選んだ長編は「罪と罰 全3巻」であった。昔から、僕は何となくソ連とかロシアが好きでなく、でもそれも全く根拠のない嫌悪であるので、理性派の僕としては、なるべく排外主義にならないように公平にと自身の内部では扱ってきたものの、老人化してくると、なんだか率直になり、わがままとはちと違うが理性や思想を超えて好き嫌いが頭を出してくるようになってきた。で、そんなことより、凄いよ「罪と罰」。流石のドストエフスキー。

どビンボー元学生ラスコリニコフのサスペンスが連続する。先にネタばらしする刑事コロンボ形式の元祖ですね。それが、暗くどんよりとしたペテルスブルグにじわじわっと展開する。罪と罰を選んだのは、ただただ「亀山郁夫」さんの翻訳文をもう一回「カラマーゾフ」に引き続いて読みたかったことに尽きる。天衣無縫な表現は、ある意味原作者を超えるかも。が、翻訳者が書き下ろした小説で良い物は無いので、そこは要注意だ。現在390ページ。アジアビジネスの本や池田晶子さんの「14歳からの哲学」の読み直しと並行している割には、読み方が早い。サスペンスの力は強いね。



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・2008年9月  水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC /  立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・2011年7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港のバリアフリーと幸せ伝える人

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2009年8月14日金曜日

何となく書かないで来たがやっと・・・

見たら、約2ヶ月書いていない。激動の初夏・・はっはは、まあ大したこと無いが人事の面倒加減に疲れます。結局は構想通りなのだが、相手は人間、手間がかかる。大事なことは今後どう、レベルの高い人材を確保できるかだね。人事は人間学そのもの、苦しいがまた、知的に面白い。いつも学ぶことが多い。
さて、「カラマーゾフの兄弟」は、既に全5巻エピローグまで、すべて読み終わっている。6月20日土曜に終えている(ハノイで)。万歳!とうとうおわったぞ〜〜、と叫びたいが、そのころ、そんな気分じゃあ無かったようで、いま、今日現在、やっと、気分がすっきりしつつあるので、ちょろっと、書いてみたわけだ。

でも、正確にいうと、5巻目は読了したが、その巻にある解題とか、ドストエフスキーの生涯とか、付帯ものが、終わっていない。あと、50ページほどだが。さあさあ、そろそろ、また、書きだそう、ぞえ!まあ、本日は短めにね。前項目のタイトルは近々、修正予定。
佐藤優さんの「私のマルクス・・甦る怪物」を今朝早く読了した。相変わらずの彼の記憶力と多様な知識に驚かされる。

2009年6月13日土曜日

読書考 最近版

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟 第四巻」(光文社刊・亀山郁夫訳)も610ページまで行ったので、そろそろと思い最終巻である第五巻を買った。意外に薄くて軽い。最終ページをめくったら360ページほどしかない、今までで一番薄手だ。それも物語部分はエピローグとなっており、60ページほど。残りは「ドスとエスキーの生涯」とか「解題」とかだ・・。やっと、頂上の袂にきたか、と言う安堵感が率直に胸に沸き起こる。

神戸女学院の内田樹さんの「街場の教育論」もの凄く良い本ですね。4月始めに読了したもので、誰かに推薦したくて、したくてたまらなくなった一冊です。ハノイの当校の教員全員に買ってあげたい気にもなったが、「他人様に書籍を送るのは、失礼で良くない」と亡くなった妻にかつて諫められたことを思い出して止めた。この本の内容は、中高の教員などを対象にした彼の教育論授業の採録が元になっています。定説に流されない根源的な捉え方、平易な表現、理解しやすい展開などサービス精神も溢れている。前書きからユニークだ、のっけから「お買い上げありがとうございます」とある。嬉しいじゃあないですか。学者だろうが詩人だろうが、本を著して販売したらありがとうございますは、ただしい。そういう余裕の心を持って学者先生も文学者も自説や自著を販売してもらいたいものだ。

大学の現役の教員で冴えた頭と論理で、ぐっと魂をつかめてるのは、この内田樹(たつる)教授と早稲田の生物の池田清彦教授ぐらいだろうなあ。今、双璧でしょう”冴えと切れ”では。もちろん、東大の上野千鶴子さんら、勘定していけばいろいろ居ないわけではないが・・ね。

で、事はいきなりやってくるのです、ベトナムでは。13日記述予定。

2009年6月7日日曜日

スクリーンがくれた仄かな夢

今は7日日曜の早朝3時半。眠くない。何となく書かずに居れない集中心が脳とか手に満ちている。先日、「ダビンチコード」をDVDで見た。どう見ても駄作としか思えない。比べるのも無理があるけれど、ジャン・ジャック・アノー監督の「薔薇の名前」を思い出して、これも見た。こちらは異端審問官との闘いであるが、キリスト教のおどろおどろしさに触れる作品としては、雲泥の差がある、というか「ダビンチ・・」は映画としてはB級と言っておこう。で、僕はトムハンクスの相棒を務めるオドレイ・トトウにだけ、視線が行っていたのである。死んだ女房にそっくりだったからだ。二十代後半の妻とね。亡くなった人間はひいき目に思い出が昇華しているので、美しく思えるのだろうが、でもまあ、よく似ているのであった。

そう言えば、この女優は「アメリ」で評判になった人だと思いだし、前に見たときにどうして気がつかなかったのだろうかと、不思議に思って「アメリ」見始めたら、コマーシャルや広報関係の媒体だけで、見ていた気になったようで、実は初めての鑑賞であったことに気づいた。
「アメリ」は最高だね。フランスらしいエスプリ満載、遊びいっぱいの映画で、大分前の「地下鉄のザジ」を想起しながら、見終えた。「地下鉄のザジ」はルイマルの初期の傑作中の傑作、あまり評価されない嫌いがあるが、どうしてどうして、こういうのがザ・映画だとおもうよ。で、オドレイ・トトウである。かみさんは「アメリ」のキャラでは、ちょっと似つかわしくないが、アメリでもなく、ダビンチコードでもなく、「太陽はひとりぼっち」とか「スエーデンの城」「赤い砂漠」などのミケランジェロ・アントニオーニの映画の常連女優のモニカ・ビッティのようなちょっとけだるさを演じるような役を与えられたら、最高だし、亡くなった妻に更に似てくるだろうと思われる。多分、うちの娘や息子もそう思うだろうナ。

これとは別に、3,4年前、ロビン・ウイリアムス主演の「奇蹟の輝き」を見たときに釘付けになったことがあった。ロビン・ウイリアムスの妻アニー役で、自殺し天国の夫を追う女優に、だ。アナベラ・シオラという。一線級の女優でもないようだから、まったく知らなかった麗しい人だ。仕草や物腰、醸し出す雰囲気も亡くなった妻晃子その人に見えた。見てて釘付けってこういうものなのだなと、初めて体験した。映画の内容が天国でのストーリーだし、天国のCGが油絵タッチでその美しさも初めて見るモノであったからなおさらだった。映画として決して一級作品ではないが、妻に瓜二つの女優を戴く映画だもの、大事な映画として大切に記憶している。VUONGさんには、ちょっと悪いけれど、大切な思い出だし、それを時々丁寧に思い出すのが、亡くなった人への祈りの一つだろうと考えている。鎮魂と言うには大げさだけれど、美しい過去は脳裏にしっかりと仕舞っておきたいし、奥に仕舞い込んだ物を時折空気を入れ換え太陽光に晒すのと同じで日々思い出して名前を声にし、僕の脳内で彼女の笑顔のイメージを紐解く・・・僕の重要で意識的な儀式なのである。個人的心情を晒すのはとても恥ずかしい。恥ずかしいだけでなく、書くのもどうかと思わぬでもないが、表に部分的でも表すことで、心が安まるような気がしている。

で、アナベラ・シオラとオドレイ・トトウが双方で似ているかといえば、別にそう言うわけでもない。二人の女優の共通点は黒髪で目鼻立ちがはっきりしていることだけだね。妻晃子はそれぞれに似ているが、この女優二人が相互に似ているということではない。彼女は2003年12月20日午後、病床で天命を受け入れた。10年間という長い期間、癌との静かなる死闘を尽くした結果であった。彼女は紛れもなく聡明な女性であった。美しく聡明でいつも善意と愛に溢れていた。東京学芸大学付属大泉小学校、筑波大付属中学・高校を出て1967年早稲田の第一法学部に入学した。その後ベトナム反戦闘争のバリケードのキャンパスで彼女と僕は出会った。1969年初夏であったと思う。

最近見た映画・・
「スタンドバイミー」見たのは何度目だろうか、良い物はいい。相変わらず名曲が胸に迫るね。僕は、仙台での小学校や中学時代の沢山の冒険譚の記憶にいっとき浸れる。
「大いなる陰謀」R・レッドフォード監督の面目躍如の傑作。まさに名著ベストアンドブライテストのとおり、作戦はワシントンのオフィスで決定され、片や青年たちは泥まみれで死んでゆく。
「中国女」ゴダール先生の過去の栄光。でも、やぱっぱあ、凄い。
「リチャード・ニクソン暗殺を企てたおとこ」ショーペンが正に適役。
「ダビンチコード」つまんない。
「ヒットラー最後の12日間」凄い映画だ、本当のヒットラーの女性秘書の証言が元になった作品だから、リアリティがあり、全編ドイツ語だから、さらに本格的だ。

「アメリ」愛すべき映画的映画。
「プライベートベンジャミン」まあまあだが、薦めるほどじゃあない。
「薔薇の名前」さっき書いたが、ダビンチコードがおもろくないので思い出して借りて見た。必見。異端と正系って吉本隆明の著作のタイトルだが、これはキリスト”業界”の血で血をあらう争闘。
「ストレンジャーザンパラダイス」ジャームッシュの快作。いつ見ても良いねえ。
「時計仕掛けのオレンジ」40年ぶりにみた。キュブリックの先見性に改めて敬意。
「チェ 28歳の革命」S・ソダーバーグ監督でも、むずかしかったのであろう。偉人の伝記ものは、ドキュメントでもないし、芸術映画にもなりにくい。一定の水準の面白い映画ではあったが、傑作にまでは至っていない。残念というより、仕方ないのだと思う。チェを改めて世界の青年に知らしめた功績を大いに讃えよう。

「ブエナビスタソウシャルクラブ」何せライ・クーダーがプロデューサーでバンドに加わり、ヴィム・ベンダースが監督だ。面白くないわけがない。浮き浮きの傑作。キューバのしゃっきり老ミュージシャンたちの楽しそうな老境サルサ。
「素顔のままで」デミームーアがストリッパーと言うところで、勇んで借りたが、どうもこうもない作品。
「アラモ」中学校1年ぐらいの時にロードショウで見ただけだから、まあ50年振り、とおもいきや、これは、ジョンウエインの監督作品でなく、リアリズムなリメイク。もし、アラモで勝利し、テキサス州がデビー・クロケットらを先頭にして当時独立し、アメリカに併合されなかったら、北米の政治地図も大分変わったかも・・。
「続・荒野の七人」最悪。40年ぐらい前映画館で見て、同じく「非道いな」と言ったような気がする。
「奴らを高く吊せ」テレビで小学校6年の時毎週見ていた「ローハイド」のあんちゃんのロディことクリント・イーストウッドが、「荒野の用心棒」で世界デビューした後、ハリウッドに凱旋デビューしたのがこれ。なんで、こんな最低のシナリオ選んだのだろ。

「ボビー」弟ロバート・ケネディが暗殺される1日を多様な人々が集う演説会場のホテルを舞台に臨場感たっぷりに展開する。必見の傑作。アンソニー・ホプキンスがプロデューサーである。ちょい役も豪華出演者で驚かされる。
「アラビアのロレンス」名画中の名画だろう。改めてデビット・リーンが「サー」の称号を持っているのが、身に染みるぐらい気高く剛毅な映画である。ロードショウで見た後、テレビやビデオで4回程度みているが、今回はじめて、パソコンの小さな画面で見た。砂漠の超望遠を使ったシーンなど、やっぱり、シネラマとかでまた見たいものだ。英国や列強の政治的詐欺の中でロレンスは自滅したのだろうが、国際政治の暗部は砂塵で隠蔽されているのもある意味で見事だ。

「カーポティ」大傑作。トルーマン・カーポティの伝記ものだ。僕は1967年大学に入学して間もなく買ったのが、彼の代表作「冷血」であった。その冷血の取材の過程を追ったのがこの映画だ。当時サリンジャー、カーポティ、ノーマンメイラー、カミュ、ポール・ニザン、サルトルなどが僕らの魂を席巻していた。かれは、4人を殺した殺人犯に友人として近づき、取材しつつ、取材対象である犯人である死刑囚が自分にとって「金脈」であると気づく・・。取材とは何かが問われる。
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2009年5月31日日曜日

★ カムイと「ベスト&ブライテスト」

例の「カラマーゾフの兄弟」読破への速報(大げさですね)です。まだ、第4巻の538ページ。去年のブログの11月18日に「10月末、ハノイへの機上で読み始めた」とあるので、いま、丁度7ヶ月たったわけだ。こんなに面白く、磁力というか、魔力に満ちた文学はそう他に無いと思いつつも、7ヶ月も掛かって”まだ一巻分と200ページ”も残ってる。本好きな諸兄で、全く時間が取れる御仁なら(リタイアの輩とか)、2週間で集中完読可能だろうね。ただし、一気に行くとこれは体力もかなり消耗するので、要注意。

さて、デビット・ハルバースタムの「ベスト アンド ブライテスト」をご存じだろうか。アメリカの良書中の最高の書のひとつであろう。タイトルは正に「最良で、最高に輝かしい人々」に在るように、1960年代初期のケネディ時代から、ホワイトハウスに集結したアメリカの最高の英知たちが、何故にベトナム戦争の泥沼に入り込み、国威が解体し、如何にしてベトナム戦争に敗北していったのかを克明に追ったドキュメントである。僕らが中学校と高校時代に新聞やテレビで名前を毎日聞いていたあのマクナマラ、バンディー大統領補佐官、ロストウ、ラスク国務長官、テーラー、それにJFK、ロバート・ケネディー司法長官、ジョンソン・・。懐かしいアメリカ政治家のトップたちの名前や肩書き。

1990年頃だと思う、僕はこの本に出会った。これを読みながら、作品の舞台である1960年代は僕が野球少年であり、またニュース好きの少年であった事とか、高校の「倫理社会」授業の試験で「倫理や哲学の授業でテストはするのは絶対おかしい」と拒否し、いつも廊下に出て行った16歳の自分を思い出したりした。当時未熟ではあるがでもそれなりに、僕には充分な未来があり、また反抗する相手も見えていた。そしてそれこそ輝かしくピュアでありたいと願い胸を膨らませていたはずだ。毎日、勉強とロックと映画に夢中だった。日本社会に明るい希望が約束されていた時代でもあった。そんな十代の頃の感覚もを確かめながら、上中下3巻(サイマル出版)という大ボリュームだが、こんなに面白い本はないとばかりに一気に読み上げた。訳は元朝日の記者で、キャスター経験もある浅野輔さんだ。

南部あがりのジョンソン(ケネディの次の大統領)以外は、東部アイビーリーグといわれるハーバードやエール、プリンストンなどをトップで卒業しMBAを取得しているエリートたち、子供の時は神童と命名された若い俊英たちが主人公の、見方を捻っていえば、”鼻持ちならない”アメリカの頭脳たちの誠実さ、愛国精神、キリスト教的ヒューマニズム、そして「無謬神話」が、アジアの小国ベトナムにすら通用しない机上の思想であり、戦略であったことを徹底して、暴いた本である。ハルバースタムの取材はおそらく、ベトナム戦争後半から、敗戦後に掛けてであるので、取材された人々が敗北に至る経緯を意外に率直に語る素直さに、この本の取材の仕方の巧みさと、アメリカ人の気質を大いに学んだ。

ご存じかもしれないが、マクナマラは、ケネディに乞われ国防長官に就任し、1968年辞任(事実上のジョンソン大統領による解任)し、世界銀行総裁に転出したわけだが、言わば「功なり名を遂げた」1990年代にベトナム戦争はベトナム人民の民族解放戦争であったとし、自分の遂行してきた「ベトナム戦争」のアメリカの位置付けである反共ドミノ理論を否定した総括を行い、さらに、北爆の直接の要因と言われたトンキン湾での北ベトナムからの挑発砲撃は実は米軍のでっち上げであり、戦争敢行のための謀略であったことをほぼ認めて、本も出し、映画でも語った。勇気ある行動というか、誰も恐くない老人になってからの行動だから、どう評価して良いか解らないが、少なくとも彼及び彼らがホワイトハウスの大統領オーバルルームの卓上に広げられた「地図」上で議論し作成した戦略と作戦で、ベトナムでは300万人以上が無惨に殺された。一方アメリカ兵も3万名が死亡し、5万人の帰還青年兵士たちが精神的に病み自殺したと言われている。この責任を彼と彼らは、どのように取るのであろうか。

先日、このマクナマラが語ったドキュメンタリー映画「フォッグオブワー(戦争の霧)」をDVDで見た。淡々とベトナム戦争の総括を吐露する80歳のマクナマラ、ハノイに行き当時のベトナムの将軍たち(ボー・グエン・ザップら)と、シビアに当時の戦争の功罪を議論するマクナマラ、どこか上手に切り抜けを計る老獪マクナマラ・・。もの凄く「面白い」映画であった。実はこの映画を見て、先ほどの「ベストアンドブライテスト 全3巻」を読了した当時の感想と、また同時に僕の1960年代中葉を想起したのであった。マクナマラはケネディに抜擢される直前は、フォードの新任社長であった。この俊英が将軍たちが待ちかまえる国防省に持ち込んだのはコンピュータによる管理と、数値解析による戦争戦略の立案方法であった。

学習していないのだろう、アメリカ政府はイラク戦争でも同様のでっち上げと、コンピュータによる「ホワイトハウスのオフィスで行う戦争」を繰り返しているとしか思えない。MBAの英知たちが描き出す寸分の迷いもない戦争計画。きれいな戦争。民衆が見えない戦争。アジアの、イスラムの、民衆と文化と歴史を顧みない戦争が、また、また、繰り返され敗北しつつある。マイノリティーのオバマは、白人アイビーリーグのエリートでうち固められている議会やホワイトハウスの中で、さらにアメリカの軍需産業と米軍一体となった政治的総攻撃に、果たして対抗できるのか。

カムイ伝は言わずと知れた白土三平による「忍者武芸長」と並ぶ日本漫画史に燦然と輝く傑作長編である。三島由紀夫に単なる西洋ヒューマニズムと批判された手塚治虫が、深く嫉妬したと言われるのが、この狂気の天才白土三平である。法政の田中優子さんが、カムイ伝とカムイ外伝の全集を使った授業を近年行っているらしい。言わばもう一つの「江戸学」といえるものだろう。それをまとめた「カムイ伝講義」(田中優子 小学館)を昨日から読み始めた。田中さんは15年ぐらい前に松岡正剛さんに紹介されて、何かのパネリストにお願いする際、電話をして話しただけだが、その後テレビでのコメント等も時々聞いていて、いつも見識のある答えに好感が持てる着物姿の艶やか女史だ。

この本のリードタイトルに「カムイ伝の向こうに広がる江戸時代から、いまを読む」とある。なるほど。まだ、出だしと、途中のつまみ読みしかしていないから、安直には言えないが、カムイ伝の半分ぐらいと、カムイ外伝のほとんど読んだ僕としては、咀嚼しながらじっくり読み始めている。アメリカは言うまでもなく、先住民であるモンゴロイド系アメリカインディアンの数百万人を大虐殺した上に建国された清教徒国家である。悲しい運命的歴史を背負っている。その凄惨な西部開拓は日本の江戸後期から、明治になった頃であり、それは1900年頃まで続いている。おいおい、そんな近代まで、自国で民族圧迫やジェノサイドやってる国って他にない。僕の祖父でも1885年生まれだ。古い話じゃあないぜ。

世界有数といわれる豊かな文化に溢れた江戸。この江戸時代には多様な知恵と技術を持つ百姓、商人、職人が、地方や裏町にはマタギやサンカ、穢多、忍びの者、遊女、河原者等など多様な人々が居た。カムイ伝にはその日本社会を克明にかつ、社会的な価値観でなく生き物としての視点をもち、広大な構想に基づいて描写されている。今でも根強い差別の根幹を白土は、言わば唯物史観的なリアルさで何者も恐れず、描ききっている。1967年には大島渚が忍者武芸帳のコマのスチール写真のモンタージュだけでで完成させた映画「忍者武芸帳」を世に問うている。10・21国際反戦デーが全世界で闘われて、ベトナムへのアメリカの侵略に抵抗する若者たちのインターナショナルな連帯が一気に生まれた年である。

ベトナム戦争後アメリカ人たちも自分を見つめるために自分探しを始めるが、連続テレビドラマ「ルーツ」で、黒人はアフリカのクンタ・キンテ少年にたどり着きはしたが、片や”ホワイト”たちの見つめる作業あるいは自省の旅は、ほとんど無いように日本からは見える。5万人のジャングルからの帰還兵が自殺したと聞くが、ホワイトハウスに居た政治エリートで自死した者はいない。アメリカの戦争決定者や政策決定者たちがなぜ、古い歴史をもつアジアや中近東の国の民衆から学べないのか。学ばずして、戦争を始めるのか。それも、原爆や東京大空襲のように市民殺戮を推し進めてきたのか。敢えて言えば、アメリカの政治エリートたちが、カムイ伝に、否カムイ伝に書かれている視点の様なアメリカ大陸歴史書に巡り会っていない不幸が、そうさせるとしか言いようがない。君たち、ネイティブのカムイを見たか?第二第三のジェロニモを見たか!乱暴にはしょると、政治エリートやMBA教育では「市井」とか「民衆」とか、地べたに這い蹲って仕事をし、生活をしている人々の人間性や知恵、文化が埒外として排除されているからだ。フランスなどは、大分違う。パリ国立行政学院などの政治や官僚エリートたちから、革命的レギュラシオン派などが今でも生成している。

キリスト教特にピューリタン的原理主義が横行するアメリカにあって、僕らが高校生時代の1960年代中葉でさえ(たった40年前だよ)、南部の大多数の黒人は、白人と同じレストランにも入れず、バスの席まで車内で隔離され、大学まで入学を制限していた彼の国は、チョムスキーやアントニオ・ネグリなどが「帝国」(帝国主義じゃあないよ)と命名したネットワーク型の資本主義最終形へ行くのだろうか。あるいは、この世界同時不況が、偶然にもアメリカの致命的瓦解から、救い出すための産業構造大変革の切っ掛けになるのであろうか。マスコミでは余り指摘しないが、オバマ時代になり、アメリカ経済は一部とはいえ、昔で言う社会主義政策を実行している。

「ベスト アンド ブライテスト」の読了後、ハルバースタムの作品は大分読んだ。「ネクストセンチュリー」「フィフティーズ」「メディアの権力」かな。どれも卓抜な作品である。因みに彼も、ハーバード大卒業である。

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2009年5月17日日曜日

ハノイで観た映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」

エルネスト・チェ・ゲバラの映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」をDVDで観た。ハノイの僕のオフィスで。以前このブログに「東京のオフィスの近所のレンタルビデオ屋で借りたが、40分ぐらいの所に傷があるらしく、何度掛けてもそこで止まるので諦めた・・」旨の事を書いたことがあった。それを読んでいた当校の佐藤文先生が「お気の毒に」ということで、貸してくれたのだ。ビデオ屋のレンタルものと違って、佐藤先生のは二枚組であった。本編とドキュメンタリー(普通のメイキング映画とは違う)という僕にとっては垂涎ものだ。

15日深夜と16日に何と本編は2回も観てしまった。本編も単に本編だけでなく、「未使用のシーン」とかプロデューサーであったロバート・レッドフォードのインタビューとか、監督のインタビューまで入っているサービス振りなのだ。ヘラルドとアミューズに乾杯だぜ。何処から書いたらいいか迷っちゃうほどの内容盛りだくさんなのである。

さてさて、僕にとっても英雄のゲバラを今更僕が論評してもしょうがないので、この映画を通じてお話ししたい。マックス・フォン・シドーを若くしてそれに草刈正雄をちょっと入れたような、キリスト役が相応しいような知的ハンサムな(修飾が長くなったが)監督のウオルター・サレスがインタビューで語っていた。「原作は、僕らの世代(ラテンアメリカ)のバイブルでした」とね。そうなんだろうと思う。調べたら、彼は1956年生まれだから、いま52歳。で驚いたのはあの驚愕のブラジル映画「シティーオブゴット」のプロデューサーであったのだ。そうか、そうか、流石だと合点した。

1952年1月、エルネスト(チェ・ゲバラ)23歳医学生と生化学者アルベルト29歳の二人のロードムービーがチェが書き残した日記の原作通りに始まる。きまじめでやや線の細いエルネストとラテン系そのもので明るくナンパなアルベルト。旅は人を成長させると昔から言われる。まさにかわいい子には旅をさせろだ。衝突しながらも、友情を深めてゆく二人は、南米におけるスペインの歴史的暴虐を知り、またアメリカとアメリカの国策企業に莫大な富を独占され、古代から自分たちの土地で文化を育み生活してきたアンデスの先住民族や地元民が南米各地で駆逐され、まったくの無権利で悲惨な生活をしいられている現実を見て行くことになる。青年のその認識過程をこの映画は作意をせず、役者ガエル・ガルシア・ベナル(エルネスト役)自身の変容とエルネストとの成長を共振させ、見事な青年の成長の記録して描ききっている。天空の古代都市マチュピチュの誰もいない遺跡で佇み思索する二人、印象的なシーンだ。

ペルーのハンセン氏病のサナトリウムで、ボランティアの医療従事者として働きながら、エルネストは、24の誕生日に無謀な河泳ぎをして、向こう岸の重症患者の隔離病棟へ渡りきる。多分、この行為は今までの自分と別れを告げ、次の世界に踏み込むための彼にとっての必要な儀式であったに違いない。いわば、ルビコン川を渡るための、シーザーの様にね。医学生エルネストから、革命の司令官チェ・ゲバラになるための賽(さい)はこのシーンで正に投げられたのであった。

映画の中程から(エルネストが世界の矛盾を感じ取り始めてから)、モノクロの記念写真風な肖像ムービーのシーンが多用されてくる。アンデスの先住民、放浪を強いられた人々やクスコの市井の民衆たちの、悲しみに満ちた表情が止まったレンズ空間の中にも微妙に動くこの肖像の撮影はこの映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」のエルネストとウオルター・サレス監督のメッセージを忠実にスクリーンに投影せしめる新しいメソッドになった。「うう〜む」唸るほど、効果的な演出だ。ちょっと観念的過ぎる我がゴダール先生の有名”黒画面”より上等な演出術だね。

また、2002年撮影当時83歳で生存しているアルベルトの逞しい記憶力による映画の演出へのアドバイスが、このオートバイ南米縦断ツアー映画の成功を導いている。
もう一度言う。旅を通しての成長物語である。青年の成長を自然に効果的に表現するのは2時間程度の時間しかない映画的表現では困難な代物である。この課題をしなやかにクリアできている秀作だろう。というより映画史に残るロードムービーとして、後世の識者からも賛辞を送られよう。

僕は20代の前半から中半まで、日活と東映の映画現場に居た。撮影現場はいつもプロとしての、職人としての自己主張と喧噪とが、言葉には尽くせぬ緊張を醸し出していた。監督の「アクション!スタート!」という瞬間に全てを集中させるエクスタシー。素人とかミーハーは入れないぞと言うようなギルド的な仲間意識。本編に付いていた「ドキュメンタリー:ゲバラと共に」はメイキング映画であると共に、83歳で生存しているアルベルトの50年後の追体験の旅の記録でもあった。

このドキュメント作品(本編でない方)を見ていて南米の映画チームも日本も同じだなと、懐かしさで僕の口元がほころんできちゃう。撮影助手が女性でいつも執ようにレンズの焦点を合わせている技は見ていて格好良かった。助監督の多分フォース(4人目)のカチンコを持った女性、そしてスプリクター(記録)とおぼしき女性も格好いい、いい女だ。音声、撮影監督、小道具のおっさんたちもジーンズで決めたしゃれ者ばかりだ。まったく日本と同じ雰囲気。嬉しくなってしまう。映画を理解するためには映画言語(マルセル・マルタン:みすず書房)があるわけだが、現場には現場の”撮影現場言語”みたいな共通言語もやはり在って、これもインターナショナルなんだなあと、あらためて解った。アルゼンチンタンゴ、マンボ、サルサなどなど、このドキュメンタリーにはラテンアメリカの快適な楽曲が満載だ。これもこのドキュメンタリーを楽しい作品にしている。

ロングインタビューの中で、当時はちょっとエルネストに比べて兄貴分であったアルベルトが、伝説になってしまった当時の相棒エルネストをちょっと褒めすぎかなと思わぬでもないが、無理もないか。相棒があの司令官チェ、になってしまったのだからね。
老翁アルベルトの相貌のクローズアップには、友情と希望に満ちた一群の青年たちが闘った革命への情熱がそこに蘇って満ちているかのように見えた。静寂な佇まいの中だけれどね。
エルネスト・チェ・ゲバラ・・僕の永遠のヒーローである。天才政治家フィデル・カストロが生存している内にキューバのチェの墓前に行き英雄チェ・ゲバラと対面したい。僕の当面の夢さ。でもこの忙しさで、それは叶うのかしら。