2009年11月20日金曜日

たまには儀式も良いものだ

数日前、ハノイでうら若きホテルの営業ウーマンとお話した。彼女は、2年ほどハノイで多様の日本企業の方と毎日商談している強者だから、かなりハノイの企業情報に明るい。そのdep(ベトナム語で麗しい)な彼女から最新の韓国企業情報を聞いた。もともと韓国のベトナム進出は今までもの凄いものがあった。この数年間、ベトナムへの投資件数などは、日本を上回っているほどだ。事前調査も、本格参入もスピードは、まさに風のようだった。そう言うとかっこよすぎるので、突風と言っておこう。韓国だけではないが東アジア系の企業進出の先兵は若い社員がおおい。大抵はせいぜい課長か係長クラスだ。彼らが手付け金などの現金をたんまりもって、即刻買収。即時進出だ。つまり全権をもって来ているのだろう。日本企業の様に「では、会社に帰りまして検討し、次回社長に来てもらうつもりです」となんか言ってるぼんやりした企業はないのさ。ベトナム人ビジネスマンは日本人が好きで、日本人と仕事をしたがっている人は多い。でも、「JAPANは遅くて遅くて」どうにもならないと嘆く。

韓国人は、言うまでもなくリアルなのだ。経済とか仕事のセオリーとかが「現金」なのだろう。去年の秋の世界同時不況のあおりで、韓国経済は相当の打撃を受けた、その現れはベトナムにある韓国企業の動静ではっきり見える。この一年「インターナショナルスクールにあんなに居たコリアの子供たちが、ほとんど消えた」と言われるほど、韓国企業の素早い撤収は”呆れた感”交えてよく日本人に語られたものだ。「あいつら、早いね、凄いほどだ」と揶揄してね。でもさあ、それってどうなの。ビジネスの世界じゃあ、当たり前じゃあ無いの「電光石火」。ベトナムのそのへんは、全く同様だ。僕ら日本の方がとろいと言うか、「慎重に」という言葉で御茶を濁している。

で、そしてその話、「ベトナムには誰もいなくなった韓国勢」と、僕らは思っていた。が、しかし。もう韓国勢は生き返ったのだ。さっきのホテル嬢の情報では9月ぐらいから、いっきに復活だと・・。僕の目勘定でも10月ぐらいから、急に韓国のツアー客が、ノイバイ空港に一年振りあふれ出した印象を持つ。韓国人は生命力があると言ったらいいのだろうか。敗れたら時を置かず去り、機が見えたら敏で、すぐ捲土重来する印象ですね。日本人は文化も含めた社会そのものが成熟しすぎ、体内にある遺伝子とかDNAとか、生命の持続への執着力が薄くなってきているとしか言えないね。60数年前、戦争で敗北し、国土が焦土になっても死に物狂いのエネルギーで復興した日本人の生命力の強さに世界は目を見張ったものだったが。

さて、4,5日前に、当校の5階のベランダで、宗教儀式を胆嚢した。いま、東京で思い出しながら書いている。僕が帰国する日だから、その日は11月16日。で、実はその前の日にフンマイ町にあるブオンの実家に二人でお土産もって寄った時に、田舎の親戚という婆様が二人いた。その一人が僕のことマサユキアベと言って、「私は記憶力が良いんだから・・」見たいな仕草と表情を見せて、お祈りを二人揃って始めた。ああそうだ、二年前の12月に親戚を30人ぐらい集めて僕らの結婚宴席をこの実家で先行して行ったときにも、このペアの婆様は居てやはり”宗教部門”を受け持っているようで、当時もなにやら仏教のようでもあり、先祖との対話もできる霊媒師のようでもあり、僕にとって新鮮で愉快だった儀式を思い出した。

この義理の母系の婆ふたりとブオンと義理の母が良くわかんないけれど、親戚の噂や何かの風 評とかなのだろうか、笑いを交えて話していた。僕は専ら「ふむふむ・・」とかいって、無為に軽いうなずきをして、フルーツを食ったり、別なことを考えてい たりしていた。耳が遠くなり、歩行もちょっと大変な義父は、隣室で専らテレビ。おしゃべりの義母とブオンが婆二人の相手だ。因みに義母は僕と同じ年なので ある。で、帰りに聞いたのだが、僕の事業が今不景気で大変だから、明日帰国前にオフィスで祈祷すると言うことに、どうもなったらしい。ふふふ有り難いことだ。

で、その日夕方に、当校に視察に来ていた建設機械関係のお客様を政府担当幹部に紹介して18時頃オフィスに戻ったら、僕の仕事部屋がある5階が騒がし い。ブオンは不在だが、経理課のタオとか、当校男子学生とか、プロモーション課のフエンとかが、あわただしく部屋の神棚をキレイにした上、沢 山のフルーツをお供えしたりしていた。神棚だけでなく六畳程度あるベランダもあわただしい準備。例の婆二人がベランダにあったリゾート風ガラステーブルに たんまり果物などを盛り付してる。日本人から見ると十五夜のお供え風だな。ベトナム風大型のお線香などコップに入れたお米に差しシンメトリーにレイアウトされてい る。使い方はちょっと違っても、やはりお米の国だ。何か感覚が通底するものがある。塩がお供えに無いのは、ハノイが内陸部だからかも。

香港のタイガー バームガーデンを訪れた方も多かろう。全体的に安っぽく、色はケバく、ペイントの塗りが幼稚なスタイルね。あれは、東アジアから東南アジア全体の色のセンスだと思う。だから、ベトナムの寺院も神社も古いものは、朽ちて「渋めの色」になっているが、改修したモノは大抵ケバく、チープな意匠だ。日本もそうだね、奈良、平安 など比較的古いものの改修したものは、色合いは激しい、言わば中国的だ。鎌倉や江戸などの新しい建築物や彫塑などには、”侘び寂び”の渋みがあるが、古代ア ジアの繁栄時は安っぽいほど色合いが原色でいわばケバい訳です、我が日本もね。さてさて、我がベランダには既に3体の人形が鎮座。というほどでなく壁に立 てかけてあった。これが紙人形というか、小学校の時に作った学芸会用のお人形の佇まい。背丈は50センチぐらい。装飾は色紙の切り貼りだ。神なのか、 後で焼いたりする生け贄風な存在か。ともかく、いっちゃあ悪いが、安っぽい。燃やすからなのかな。

神事で焼くものでの代表格は何と言ってもアメリカのドル札だろう。あはは、ドル札だぜ。お寺さんや神社にいけば、お年寄りも中年も若者も古いベトナム紙幣の偽物印刷とおもちゃ紙幣レベルの ニセ100ドル札が、果物などのお供え物に数百ドルぐらい挟んだり、豪勢に一万ドルが紙テープ束のまま積んだりされていて、供養が終了するとドンドン燃やされる。か つての敵アメリカのドル札が何時から神事に登場したのか、誰にも聞いていないが、ベトナム戦争(彼らは「対アメリカ戦争」と言う)後だろうなあ。だとするとこの風習は30数年の比較的新しいものだね。まあともかく、天国でも現世同様にドルが無いと仏さんも困るだろうと、ベトナムではドル札で供 養するようになったのだろう。この現世利益的な宗教観がベトナムらしくって微笑ましい、と言っておこう。これが自国ニッポンだと、微笑ましいではおさまらず、その宗教的ていたらくに嘆かわしいとか一言いいたくなるだろうけれど、僕。

この婆のお経が結構良い、お坊さんの読経の様でもある。写本、実は正にノートに書き写したもので、もうぼろぼろになっているノートのお経を忠実に歌い上げている感じが伝わる。左手でページを手繰り、右手は木魚ならぬ板を小刻みにたたきリズムを演出している。時にリンを「か〜ん」と鳴らす。形式は仏教のようで、延々続く。今ハノイはちょっと異常気象で、夜は10度以下で、冷える。僕は半袖にトレーナーだけで、寒い。冷たいタイルに直に正座させられているので、冷たいし、びりびりしびれている。タオあたりが、時々顔だして、僕を見てクスクス。「社長、大丈夫ですか?よく付き合ってますね〜」見たいな含み笑いの表情。

何回か婆の一人が、この人はどちらかというと年長に見えるが助手にも見える人だが、僕の名前を覚えていた方、この人が僕に時々指示するが、全く意味不明。僕はニコニコして、手を合わせて合掌を継続するしかない。ブオンは相変わらず居ないし、電話にもでないし、タオにこっそり聞くと、お客さんと会ってると言うし、「まだしばらく、儀式は続きそうです」と言う。まいったな、後1時間後には、ノイバイ空港にタクシーを飛ばさなくてはならないし、腹も減ったし。そのとき、いきなり赤い布を頭からすっぽり、被せられた。婆が双方とも僕に何か言っている。頭上にお皿が乗せられた感触。なんだあ、これ。果物の皿か、100ドルの束満載の皿か。重さから、果物ではない。札束の皿らしい。するてえと、燃やすのか、俺の頭上で。まいったなあ。何か臭うな。燃える臭いだぜ。おいおい、ホントかとおもったら、その皿は下げられ、紙人形3体にかわり、頭上に置かれ、両手で持てと指示あり。紙製とはいえご神体が3体も己の頭の上にあり、魔女めいたばばあが二人で、読経していると、赤い布を通してわずかに周りの儀式の景色も見えてきて、目は開けているが、赤い布のなかで、瞑想に入りたくなる気分の僕。

カトリックの教会の懺悔の箱に入った感覚をデジャブーした感じで、もちろん入った経験はないんですが、F・フェリーニの「8か二分の一」教会シーンを思い出したり、頭上のドル札に火が付けられる恐怖以外、赤い布の中も悪くはなかった。この婆さんペアの呪いと占いは小皿にちゃりんちゃりんと落とした古銭で何かを見通す方式のようなのだが、今日は本格作業とみえ、大きな皿に古銭を30個ぐらい大量にちゃりちゃりしたり、お米を古銭にまぶしたり、火であぶったり、していた。あげく、僕に左手に小刀を持たせ、右手で全部の古銭を一個一個皿に落下させて、落下した瞬間に小刀で落ちた古銭の上の空を切れという。このときは赤布ははずしていたので、ハイ、ちゃりん、小刀をス〜で、30回ほどなんなく、終わらせた。そろそろ解放してくれないかなあ。両足にもう感覚が無い。びりびり感すらないぜ。それはともかく、大ベテランの祈祷師の婆二人で、一心不乱に拝んでくれたんだ。うむ、気分は良い感じになってきだぜ。来年、経営環境も、回復だあ〜。

終わったらしく、ばあさんが、なんだかんだ僕にいうので、「シン カムン」とかいって、謝意を表し、お供えしていた赤い餅米ご飯をみんなでちょっとずつ食べた。東京に持って行けとか言ってるらしいので、果物何個かと一緒にご飯もスーツケースにパッキング。ブオンから電話があって、「あははは、どうだった?」と聞くので「かなり、面白かったよ〜」と答えた。「今日は、そう言うことで、日本に行くのに一緒に夕食できずにゴメン」とブオン。「気にしない、今から近所でフォーボウでも食うさ」と言って、タオたちや、婆さん方と別れてフォー屋に僕は向かった。悪霊が消えたのかなア(笑い)、僕は爽快、軽い足取りであった。

三日前から、思い出して講談社の思想誌「RATIO 2号」を読み出した。チョムスキーの「テロと正義」が掲載されている。極めて重要な論文だ。二年前に一部つまんで読んでいたモノだが、例によって身体がほしがる感で、改めて紐解いた。これほど深く透徹した視座で地球上の事象を読み解ける人は現在、チョムスキーを置いていないだろう。ソシュールやチョムスキーに我々世代は、学生から20代の頃とても憧れたものだ。レビーストロース、メルロポンティ、アルチュセール、、フーコー。ほとんど実に成りはしなかったが、なぜか強烈に僕らのハートを引きつけたものだった。意味もわからず「シニフィエ」などの新しい概念を広告の企画書などに使った軽薄も、随分やったなあ〜。

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