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2009年11月6日金曜日

君との出会いは、奇蹟だった

ヤンキース松井がメジャーで遂に日本人として初めてMVPを取った。素直におめでとうと言いたい。今時、彼ほど謙虚さが身に付いている青年(35才は青年でないかもしれないが)は、他にいないだろうね。彼ほどの人物になると、強運もあろう。たしか、7年前の春のデビューの試合でいきなりホームランをかっとばしたよね。戦後日本の復興のシンボル「ゴジラ」の名前を戴く人物に本当にふさわしいスタートであった。ただ、もっと凄いのはその後だ。その後の怪我や不調は、どのように彼を苦しめたのであろうか。おそらく挫折体験がないはずの松井がめげずに努力の鬼として、復活を遂げたと言うこと、これが一番賞賛されて良いことであろう。松井の努力には、素直に評価したくなる。そう言う魅力を寡黙ななかに持っている。尊敬する野茂さんにつながる人物の譜系だろう。

イチローは、凄い。いわゆる天才なのだろう。更に日興コーディアル証券のCMにも取り上げられているが、この天才は松井同様努力の人なのだ。CMで「毎日の繰り返しが、イチローの場合、何故未来に繋がるのだろうか」とかCMのナレーションが語っている。毎日の規則正しい訓練の繰り返しを継続できてこそ、輝かしい未来が近づく、基本中の基本をイチローは毎日たゆまず継続しているのだ。でも、何故かイチローはちょっと俗っぽい。軽薄で鼻につくものの言い方をする。野球の面白さは、ホームランだけのアメリカベースボールより、スピードとRUNと、レーザービームのイチロー流の方が好きだけれど、彼は話すとどうもいけない。女子アナ出の女房の影響が悪くでているのかしらん。いつも「今日は特別の日です・・・」とか大抵嫌みな話し方で、僕は常に鼻白む。

先日、NHK見ていたら、小田和正と財津和夫のお互いの心の交流というか、音楽の交流と言った方が良いかもしれない、アマチュア時代からの付き合いのドキュメントを放送していた。二人とも僕と同世代だし、特に小田さんは、僕の故郷仙台の東北大で建築を学んでいたので、なんとなく昔から興味は引かれていた。軽妙洒脱な彼独特のトークは昔から有名だが、年輪を重ねた50歳代以降のは本当にただ者じゃあない。確かNHKBSで2001年か2002年頃に放送していた3〜4時間のライブは、見応えがあったし、晃子と二人でとても楽しめた記憶がある。

このドキュメントは語っていた。今回、財津から初めて小田に曲を依頼したらしい。
小田は詩も書いた。ドキュメントの後半にこの作られた曲が流れた。財津が歌い演奏して作成した試作CDを小田がじっくりと聞き始める。その時初めて、曲全体を通して聞くことができた。その中に「君との出会いは奇蹟だった」とある。仮のタイトルもそうだったかもしれない。それって、インパクトがある言葉でもないし、気が利いた高校生ならそのぐらい書けそうなフレーズだ。この言葉をきいてしばらくして、ぼくは何か、そうだよね、そうなんだよね、とだんだん引き込まれていった。とりとめない普通の様に見える言葉に深みがある上手さ。小田さん、流石だね。こころが解放されたような気分で、この「君との出会いは奇蹟だった」をゆっくりリフレインしたんだ。そうだよ、やっぱり晃子との出会いは奇蹟であったのだ。はるひや一行との出会いも奇蹟であったのだ。親父とお袋との出会いも、たくさんの友人たちとも、手塚治虫先生と同じ空気を吸って生きて来れたのも、”チェ”という異国の革命家と1950年代60年代同じ地球上に存在していたことも、僕が58才の時ベトナムという国でVUONGという愛すべき美しい女性と出会えたのも奇蹟なんだ、そうなんだね。かけがえのない人々との出会い。神の作意でも、赤い糸に引かれたのでもなく、偶然という必然に形作られた奇蹟が僕の頭上に無尽に降り注いでくれたんだね。光のように。
ありがとう、宇宙の森羅万象。

もうひと月ぐらいは経つだろうか、音楽家加藤和彦さんが自死した。「音楽に於いて、もうやることがない」と語っていたようだ。あの「帰ってきたヨッパライ」で鮮烈にデビューしたのは、確か僕が大学一年の冬に仙台に帰省していた時であった。1967年末〜1968年1月頃、仙台の町でもこの曲は町のあちこちから聞こえていた。テレビの音楽番組では、加工した音楽だからライブができず、画面を色とりどりにしたり、サイケな面白い演出でテレビにクルセダーの3人は出ていた。でも、すぐに「イムジン河」とか、辛くて悲しいような楽曲などの方向に変わっていった記憶があるね。作詩の北山修は、精神医になって離れるし、元々友人でなかったはしだのりひこは路線の違いとかで別れていくこととあいまって、加藤はもっと先鋭的に歩をすすめ、サディスティックミカバンドへと昇華してゆく。

ぼくは、別に加藤さんのフアンではなかったが、加藤やミカバンドに理解を示す妻晃子の影響もあって、注目していた。と言うより、感心は失わないでいた。今後、加藤さんは世界に初めて日本のロックを輸出し始めたアーチストとして、かつプロデューサーとして、日本ロック史に大きく刻まれよう。当時このクルセダーの周りには平凡パンチの有名編集者になった松山猛さんも作詞で参加していたと言うから、この一群は音楽における革命を目指していたのかもしれない。もし、そうであるなら「前衛」加藤和彦の死は、ろくな音楽が生成してこない今、無念の死と捉えるより仕方ない。それであっても、彼もまあ若者じゃあないから、心の中はあくまで静謐であったろう。まさに音や言葉のない世界にゆっくり旅立ったのだと思う。

そう言えば、1976〜7年頃、つまり33年も昔のことだ。そのころ、東映の一員でもいたが、アルバイトで、チューリップのPRドキュメンタリー作品の助監督をしたことがあり、財津和夫さんらと、3〜4ヶ月行動を共にしていた。僕も財津さんも、お互いに27,28才ぐらいであったと思う。そのころ大ヒットしていた「心の旅路」。その美しいメロディーが何処からか聴えるたびに今でも当時の撮影の現場とか、会話などが思い浮かぶ。これも僕の出会いの奇蹟の一つだね。

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