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2010年2月11日木曜日

旧正月(Tet)直前のハノイ

テトと言う言葉は、僕なんか団塊世代では「テト攻勢」を思い起こすのじゃあないだろうか。確か1968年1月末、ベトナム解放戦線と北ベトナム軍が旧正月の慣例的な停戦の禁を破って南ベトナム全土で総攻撃を仕掛けた世界的な事件であった。とりわけ、首都サイゴンのアメリカ大使館とタンソンニャット空港、中部にある古都フエへの攻勢は凄まじく、一時的にはベトナム側が覇権を取った地域もあったようだ。アメリカ大使館は、最終的に軍事的には米軍が奪い返したものの、解放戦線の武装ゲリラの決死隊数十人が半日程度占拠し、世界を震撼させるニュースなった。

そのころ、世界の大国アメリカとのベトナム人民の必死の戦闘を、硝煙まみれた実写ニュース画面から衝撃と感服の念で受け取っていた僕ら東京の学生たちは北区王子に在った米軍の病院のベトナム戦争へ加担する「王子野戦病院反対闘争」、成田空港建設への「三里塚闘争」「佐世保にきた空母エンタープライズへの寄港反対闘争」、始まっていた「東大闘争」と「日大闘争」などへ更に積極的に参加していった。僕らはそれぞれの個別の戦いを自分なりに理解してはいたと思うが、それより増してベトナム戦争における闘う人民と連帯したいという、間接的にでも支援したいという、今思えばいささか観念的ではあったが、熱いヒューマンな感情を滾(たぎ)らせていたのは間違いない。その感情と押さえきれない次の時代への渇望感、さらに青年のピュアな正義感などが自分の肉体の中でカオス化していった。1968年春は、19才であった僕の青春の旅の開始ともいえる激烈な季節となった。

で、昨日で当ハノイ日本アカデミーも「正月休み」にはいった。官庁と同様2月22日月曜の「正月明け」の再開まで、約10日もの長い休みである。僕は15日(テト二日目)の深夜に帰国便に乗る予定である。テト期間のハノイ滞在は実は二回目だ。一昨年のテトは大分長く滞在し、ブオンの父方や母方の親戚のお年寄り10人以上は紹介されて、何人かには涙を流されたりした。そのお年よりの多くがお婆様で、皆さん威厳があり美しい人ばかりであった。特に感じたことは、日本では失って久しい敬老の心、あるいは敬老の儀式がベトナムの大家族にまだまだ健在で、若者や子供たちにもそれが自然に継承しているように見えた。さて、今回は2月13日土曜の大晦日、14日日曜元旦、15日月曜の正月二日目が楽しみである。短期間だし、今回は懐具合も頼りないが、どんなテトを体験できるのだろうか。楽しみである。

ハノイは「師走」たけなわである。街自信のバイオリズムがテト用に高揚し、而して市井の人々は朝からテンションが上がって落ちることはない。だから、色んなことも起きる。今朝7時頃、チャオ(おかゆ)をすすりに、外に出たところ、数軒先でパジャマ姿のおばさんらが群がっていた。そこは小さな変電所があるところで、日頃誰も関心を示さない無人の場所だ。行ってみて驚いた。その公的な鉄柵の中に黒鶏と思われる高価そうで美味しそうな大きな鶏が赤い鶏冠を振り乱して40羽はいるだろうか。鶏業者か誰かが保管場所が無くて、一時しのぎにそこに投げ込んだのだろうが、その業者もバカなもので、ぼやっとしていたら、近所のおばさんらの願ったりの正月用馳走になりはてるはずだ。だって、「これ、貰って構わないわよねえ。誰か若い人、柵を登ってよ」みたいな大胆な密談をしているのだけは、ベトナム語のわからない僕でも雰囲気が読めた。

昨晩は、休みの前の日で、NGOCさんらが、残業してて、ピザの宅配たのむというので、僕もご相伴にあずかった。ブオンの家が数日前泥棒にねらわれたので、窓格子の修繕工事が在るというので、夕飯が無かったからだ。ベトナムに来るとどうしても食が進む僕は、4,5ピースのピザだけでは飽きたらず、みんなが帰った頃を見計らって、喧噪の表に出た。とびきり美味しいフォーガー(鶏うどん)を食べにである。時間は20時半を過ぎていたので、売れきれ閉店が不安であった。こういう不安は妙に当たるね。的中で、シャッターが無慈悲にも降りてあって、その前の路上にはすでに2軒ほどの路上店が進出しておばちゃんらが何やら営業していた。舌打ちするまもなく、僕は「pho ga」の看板を探しつつ、夜の雑踏を歩き始めた。

ちょっと、うどんの説明をしておきましょう。ブンという、丸細米麺はブンタンとか、ブンオクとか多様な具とスープがあるのですが、こと「フォー(細きしめん)」となると、「ga 鶏」と「bo 牛」しかない。そして、ブンはそれなりのレストランでもメニューにあるところからして、どうも身分的にはフォーの方が低いらしいのである。知った上で無理して「エムオイ(ボーイさん)、フォーあるかい?」というと、言下に「フォーはウチには無いさ、ブンならあるよ」と言われてしまう。また、ハノイでは「牛うどん」のお店の方が圧倒的に多い。「牛も鶏も」の店もたまにあるが、専門性の無さは評価が低く、通常の店ではあり得ない。小さな路上店辺りのメニューだ。ブオンによると牛の調理、煮込みなどは、鶏よりも難しいし時間もかかるので「プロのお店らしさ」が「牛うどん屋」にはあるんだという。一方鶏うどん屋は、牛に比べて手軽に作って出せるので、家庭料理の延長にあるものなんだそうだ。家庭ではどこの家庭でも鶏は自分でさばくからね。確かに、家庭では鶏ミエン(春雨)、鶏ブンが宴会の締めの料理に出てくる。これがどこの家庭でも絶品なのです。

で、雑踏を歩き出したぼくではあるが、その辺りに知った店もないので、「店構え、清潔度、御客の入り具合」などを注意深く査定仕分けして、間口2mぐらいの「ga」の店にはいった。
釜とうどん、多様な具を一手に引き受けている婆が何とも良〜い。ブラジル人も驚く「ケツとおっぱい」で、でんと構えている。外人の僕はめずらしいらしく、満席で立ち往生をしていた僕に相席を勝手に指示した。反抗老人の僕もこういう揺るがない指示はうれしくなって、おとなしく着席した。見渡すと、ここはどうも飲食の店舗でないことに気がついた。どう見ても工場だなあ。それも鉄材の加工工場のようだ。だって、機械が奥にはいくつか見えるし、僕の足下には、切った鉄材の切れ端やら、鉄くずが積まれていた。ひゃーというより、この鉄工所とうどん屋の大胆な昼間と夜間の入れ替わり店舗はサントリーの「プロント」を完全に凌駕してるなーと、僕は素直に唸った。その上最高の出汁を出している。もう、何とも言えないほど「ウゴーン(美味)」であった。いつもの最高な「ga」店より、スープの色も塩気もわずかに「濃い目」であったので、刺激を求めていた僕の胃は、図らずも狂喜していたようであった。
・・・店舗、市場、庶民・・つづく・・

2010年2月9日火曜日

MAC MAC / 立松和平さんの訃報

昨日、ベトナムの中大手のツアー会社の幹部が面談したいと来校してきた。ベトナムのある地域に現在のVCIの「ハノイ日本アカデミー」を分校として出しませんか、という提案であった。問題は日本の景気の回復の時期と初頭の予算であると明確に返答した。地元の有力大学と或る政府の省庁と提携しなんとかなる、という。彼は、その旅行会社の社長であり、もう一つの肩書きはその省庁の副局長級であった。日本とちがって、官僚のアルバイトは全く問題ない。問題ないというどころか、そっちが本業の官僚も少なくない。霞ヶ関の高級官僚とちがって、この国では高級な立場にいても、給与は薄給。政府としては有能な人材を手放さないためにも、個人の「多角経営」「二毛作」を重要な施策にしている。

更に、観光開発の話に及んで、一家言ある僕としてはかつて観光総局時代に女性大臣に「ベトナムの観光のあり方、改善策」を提案したしたこと、2005年春に当時の服部日本大使に直々に大使室で「観光資源の活性化の支援」のようなタイトルのオリジナル提案をして、大使が「阿部さん、これは良いね、進めたい」とおっしゃったことを彼らに滔々と伝えアドバイスした。この企画書は、30ページぐらいの物ですが、かなり丁寧に観光資源の地元住民が主体となったあり方、つまり、地元住民組織、地元大学、地元自治政府が三位一体になって初めて、観光資源は磨かれ活きてくると、世界の例なども交えて展開した物で、5年振りに読みたいとおもったが、ハノイに持ってきているIBOOKにはその原稿データが入っていないようであった。

ついでに、その企画書にも記述してあるが、香港130万人、韓国230万、タイが80万(だったかな)の日本人の渡航人数に大分水を空けられているベトナムで、現在の日本人のベトナムへの渡航者40万人を倍にするにはどうしたらいいか。
そのソリューションの一部を思い起こしながらアドバイスした。僕は80年代バブルの時代、時代の風に乗って、全く今となっては赤面ですが、リゾート開発の「先端企画」の提案者として、あちこちに係わったことがあった。その時代とは今は大分違いますが、観光地やリゾートを訪ねる日本人の目的や感性を簡単にお教えした。日本社会はスピードと利便性に価値を見いだしている(今までの大要)が、お金を出して、物見遊山するわけだから、価値観が逆転し「ゆっくりで、不便」な非日常を楽しむ志向が強いことなど話した。

更にベトナム人が苦手とするホスピタリティーについても、現状のハノイでの実例を出汁にいくつか手振り身振りを交えてお話しした。勿論、ここにはちょっと書かないが彼らからの良いアイディアも頂いた。お二人の幹部の一人は女性で、僕が時々お邪魔するブオンの実家のアパートの上階に住んでおられるとのこと。その関係でいろいろおしゃべりする機会も今まであって、今日お呼びしたとブオン。如何にもベトナムらしい関係でのビジネスの切っ掛けですね。

■ 僕が1990年に起業してから、20年。それに連れ添ってきてくれたのがMACさ。女房じゃあ無いけれど、労苦を共にしてきたって奴だ。黒のパワーノート、ミニの一体型(モノクロモニターやカラーモニターも買った)、から始めて、CRTだけでも当時60万円ぐらいした(確かIBMと共作?)デスクトップとか、半透明でカラフルなIMACも2台連続して使っていたし、今のIBOOKG4まで2台並行の時もあったが、数えると10台ぐらいのようだから、MACファンの割には、購入台数は少ない方ですね。エバンジェリスト(伝道師)的なファンが多いMACの世界では僕などまったく熱に浮かされない地味な使用者に過ぎない。
アップルにおいては、創始者ジョブスが、自分が引き入れたペプシコーラの会長(砂糖水親爺)に放逐され、キャノンなどとくっついてNEXTコンピュータなどをやっていた10年ほどの空白などいつも暴れん坊スティーブ・ジョブスを中心に会社は混乱・脱皮・変革を繰り返してきた。

かつて、ジョブスはソニーの「バイオpc」をsexyだと言った。ジョブスらしい公平な評価だし、更に彼の余裕の現れだとも取れる。マッキントッシュは設計の思想が、悪いけれどMS系の有象無象(富士通やNEC、東芝・・MS系でバイオとパナソニックのレッツはまあ良い)と違うのさ。イノベーションに振り回されない。ビジネスなど人生の一部に偏した道具と考えない、人間の全生活にとけ込めるものとして開発する。さらに、次の時代をブレークスルーさせるための革命の武器であり、高く掲げ進軍する蒼氓のフラッグであると考えている、と僕は信じている。だから、格好いいし、その革命性に惚れてきた。インターネットは、アメリカ国防省の通信であった。ご存じのようにね。そのインターネットは誰の物でもない空気や水、海として解放され、享受できるように全世界の通信革命家たちが、ビジネスとはまったく違う「位相」で構築してきたのだ。毎日お世話になってる「SKYPE」もその一つだし、リナックスもまさにそうだ。マックは、所詮「商品」ではあるが、その「同時代」精神はジョブスを中心に引き継がれている。

僕の好きな言葉の一つ「君子豹変す」。僕の理解では、賢明なアイディアや高邁な考え方を思いついたら、朝令暮改でも良いさ(暴論ですがね)、なのである。ということで、アップルに於いてはやはり、あんなに敵対していたのにIBM製のプロセッサーからインテル(MS派)に豹変した。こんな事ってあるかいな?とこの臆面の無さには「豹変好き」な僕でも驚いた。さらに、PC以外の音楽産業に参入し、IPODはじめめざましい多角的な経営で大成功に至った。僕のような保守派からすると、この様変わりが、なんだか落ち着かないというか。IPHONE IPAD・・アップルっぽくおしゃれで楽しそうな製品で、まあ、アップルらしいとは思いまますよ。だけれど、肝心な原点であるPCにちょっと精彩がないというか。

IPADは板だ。考えるボードだね。これはIPHONEの仕組みを大きくした製品だといえよう。でも、実は今後、PC系ツールから出発した本格ボードも研究中であるそうで、つまり、そうなってゆくと、PCは無くなる運命かな?だから、現在の新しいMACBOOKに何故か、「もうひとつ感」があるのかしら。僕勿論買いますよ。スペックも悪くないし。価格も下がったからね、IBOOKG4よりも。でも、いつもの「革命」がない、画面から心地よい酸素を放射するごときの新鮮さが、今ひとつ。やはり、現在は「新ボード」革命への助走中ってことなのかしら?
先日、仕事で東北大学病院の教授である高校の同級生を訪ねたとき、彼の教授室にどんとMACが鎮座していた。研究者は画像が多いのでMACさ、と友人がさりげなく言った。

■ 訃報である。作家の立松和平さんが亡くなったとインターネット新聞が報じた。まさに同時代人だ。彼は早稲田の政治経済学部に入学後、ベトナム反戦闘争や全共闘を戦った。彼の作家としての骨太さと誠実な筆致は、むしろ大学から離れた後、日雇いなど肉体労働者を経て書き始めたことにあると言われている。そう言えば作家となってから、久米宏さんのニュースステーションにて、自然を探索するガイド役で、かなり長期に出ていた。独特の声と栃木の言い回しは視聴者で覚えておられる方も多いことだろう。僕の友人の橋浦方人監督が1984年本編「蜜月」を撮った際、お誘いを受け、原作者である立松さんとご一緒する機会が二三回有り、楽しく談笑させていただいたことがあった。立松さん、全く惜しい。悔しい。今から、老練な領域に行けたのに・・。心から哀悼を表したい。「途方にくれて」「遠雷」「火の車」「光匂い満ちてよ」「蜜月」「世紀末通りの人々」素晴らしい作品でした。立松さんありがとう。合掌。ハノイにて。

2010年2月6日土曜日

マッキントッシュで20年

当校スタッフは、本日土曜に拘わらず、一心不乱に明日の準備に勤しんでいる。僕も何かやらせてよ、といってもNGOCさんあたりに「良いですから、御茶でも飲んでて」ときっぱり。凄いね。で、ブオンが持ってきたランチを食べながら、ブログのネタを考えていた。MACがいいね、と良い案がひらめいたが、僕だけノンビリとブログなぞ、認ためてて良いのかいな。さて、マックだけ使って20年だ。1990年からだから、丁度というわけだ。その前は、義理の兄が富士通の役員であったので、どうでも良いが余り考えずに、親指シフト程度の話題性でオアシスを2台買って、僕は自分の会社を90年に青山で起業したのであった。しばらくして、松岡正剛さんのところの太田くんの推奨とPC詳しい当社スタッフのお薦めでマックを買い始めた。トラックボールがついた黒いノート(パワーブックだったかな)とか、縦型のかわいい一体型のモノクロ画面のものであったと思う。

マックは楽しい。そして可愛いのである。マイクロソフトはダサクて、使いにくい上に独占的で高飛車。いかにも帝国主義そのものだ。大体ウインドウズなど名乗れる資格などないんだでよ〜。マックはその何年も前から、画面ではウインドウシステムで、マックの良さの一つであったんだ。マネしてくるなよ、と文句のひとつも言いたくなる。マッキントッシュ(ベトナムでも非主流派。マッシントッシュと発音)のベトナムでの販売代理店をやりたくて、1993〜4年、結構動いた時期があった。アップル日本の友人の幹部から、米国本社を紹介され、東南アジアの総合代理店であるシンガポールの何とか社にわざわざ会議に行って・・。何故かしら当時ベトナムのアップル社の総合代理店はホーチミン市にある共産党総婦人同盟とでも訳すようないかめしい団体がやっており、その副会長に直談判でハノイでの権利を分けてくれるように交渉したっけ。

副会長殿は、40歳代後半の長身で周囲を圧倒する知的な美人であった。高級そうなアオザイの出で立ちで、交渉に臨んでこられたときは美しい上に英語も堪能で僕はその聡明さにしてやられ、初頭から上気気味。僕の脳内メーカーは「美・好き・SEXY・恭順」の文字だらけ。このカリスマ的美人を妻にしてるのはどんな奴だあ。こういう場合、夫は意外に大したことの無い男のはずだとか、つぶやきながら、45才の僕は目を輝かせた。真野響子さんがブルー系のアオザイをお召して颯爽と僕に近づいてくるイメージだったような。

マッキントッシュはビジネスの中で成り立っている製品である。言うまでもない。でも、マイクロソフトとは、やっぱり違う。成立の過程が、あるいは初期の開発時の文化というか、当時のベトナム反戦を戦い、既成概念を破ろうとしていた学生たちの時代的な気分と重なり合っているんだ。MACのジョブスもMSのビルゲーツも同時代人であるし、友人同志で有るとも聞く。そう言う意味ではビジネスモデルの建て方の方向が真逆であったと言うことかも知れない。MSという新しいプラットホームをIBMをコアにして、全世界に波及せしめる戦略と独自の楽しさと面白さ、もっと言うと大人の玩具として追求したグループの違いかな。ビルゲーツは、全世界の空気と水に税金を掛け、徴税を独り占めにしたようなとてつもない結果を現出させた。

マックは世界的に多分4〜5%の普及率。かなり認知されている日本でも15%ぐらいだと思う。・・この項続く・・

2010年2月4日木曜日

無為に生きる / そろそろテト(Tet)だ

やっとドスとエスキー亀山郁夫翻訳の光文社版「罪と罰」が2月2日ハノイへの機上で読了。第三冊目の読書ガイド部分が50ページほどまだ残っているが作品は終わった。大地と時代が織りなす病理を脳髄に堆積させた俊才な青年の殺意。不条理の殺人はカミユの「異邦人」ムルソーの「太陽のまぶしさが殺意を生んだ」のが有名な分けだが、よく考えると殺人は最後の一線を越える瞬間、不条理以外の何ものでもないだろう。不条理ではなく計画的にかつ理性的に実行される殺人ってそれは多分戦争と死刑だろう。ただし、これは少し前までの古流な認識であるかも。いま、現実のニッポンでは不条理の枠にも到底入らない「リセット型幼稚な殺意」が横行し始めている。警察や検察の今までの捜査方法やファイリングでは、解に導けない。担当の弁護士すらとまどいが多いという。不条理の次に無条理か。否、夢条理なのかも知れない。人類のメンタリティーは所謂「進化」とは全く別物のようで、一定の成熟による複雑化だけが急激に進んでいる。

さて、親爺は「復活」し危機を一応脱したようだが、危険水域に漂っていることには違いない。

■かつて昭和20年代、30年代は街の何処にでも小さな小売りの商店が散在していた。当時の「三ちゃん」農業ならぬ「母ちゃん切り盛り」商店と言えようか。繁華街の整った立派なストア以外には、従業員なんかいないのさ。母ちゃん一人で踏ん張っていたわけさ。かつて、日本中の何処の街にも在ったこのような小さな小売店は、まさにいま、ハノイの僕らの視界の中にある。ハノイの街で僕はこの愛すべき星の数ほどのお店の数々を毎日見ては、感心したり、あきれたり、昔をしのんだり、ある時は「行く末」を心配したりしている。ベトナムでは、更にこれより小さな路上商店が圧倒的である。

この路上商店の多くは「路上食堂」と「路上喫茶店」である。火の釜戸とナベ、ヤカンと(日本の公衆浴場にあるお馴染みの)小さなイスが10〜20個並べただけのお店だ。お店と言うより、場所取りに過ぎない。彼らの特徴は通行の邪魔とか、そばの店舗の迷惑などに関心が無く店の規模というか、「成り」の割に実は大きな顔をしていることで、僕からすると微笑ましい。面白いのはその路上「うどん屋」が、ちょっとキレイなレストランの店先に在っても、レストラン側は、文句の一つも付けない。路上食堂の機材の一部が住宅の屏(ヘイ)にぶら下げられていたり、テントの一部がヘイに結わえられたりは、何処にもある普通の風景で家主からの抗議はなさそうだ。

つまり、共生的な雰囲気があり、「ここはウチのヘイだ、ウチの土地だ」とあまり野暮なことは言わない。従って、お願いしているサイドも至って平気なのである。すみませんね、いつも・・ってな顔はしていない。当然とばかりに平然顔。また、かなりの年齢の老人は、見ているとどうもお金は払っていない様子である。「シルバーパス」の様な伝統が在る(?)ようで、食事を終えると払わないで悠然と去る(近々ブオンに聞いておきます)。そして、飲食だけでなく、物販の路上店もあるが、商品の陳列の関係で完全路上店はなく、小売店と路上店のいわば中間にあたる「仮設テント店」となって、洋品とか、生活道具などを販売している。10数年もベトナムに皆勤していると、いつの間にかそういった市井の小さき店舗の常連となってしまったので、僕の短い足でさえ持てあます小さいイス(台)に腰掛けつつ、あちこち見渡してみる。

僕らが中学校の時、ヤコペッティ監督のイタリアの記録映画「世界残酷物語」という当時としては衝撃的なタイトルのがあった。世界中でヒットして、続編や類似な映画も数多く見られた。奇習や性風俗などをやらせも含めてまとめたキワモノでもあった。しかし、世界の広がりや世界の文化情報に飢えていた僕ら一般大衆は、奇異さも含め飛びついた。内容の記憶は余り実はないのだが、極めて驚いたことが一つだけ在った。12,13才ぐらいの日本人少年の僕に驚きを与えたのが「着飾ったり、お化粧したり、遊んだり、暇を弄んでいるのは、世界的には男性」であったということであった。特にアフリカのシーンでの、その描写は目に焼き付いている。西洋てきなもの、日本的な物以外に、まだまだ世界には不思議な文化で満ちあふれていたのだ。驚くのも無理はない。学校で着飾る男性のこの話になり、誰か「ライオンの世界と同じらしいよ。雄は悠然と何もしない」と言っていた。

40年前の1970年の12月に僕は初めて海外に出た。東映の撮影スタッフとしてグアム島とサイパン島に船で4日も掛けて行ったのだった。東京12チャンネルの「プレイガール」という沢たまきをボスにしたお姉ちゃんアクションもの。そのとき、初めて見た。街でも住宅街でも玄関の三和土あたりにぼんやりと腰掛けて煙草を燻(くゆ)らせている男どもの何と多いことか。全員が失業者なのだろうか。南洋だから、無理して労働しなくても食えるのかもね、などと同行のスタッフと軽口たたいて蔑んだことを思い出す。そして、その後もセイロン(とはいま、言わないか、スリランカだね)とかモルジブ、フィリピンなどでも同様の「何かさあ、無為な生活してんじゃあねーの。時間が無駄だよねー。」と感じてしまう場面に遭遇することがたびたびあった。スペインあたりもそうだったし、NYでもクイーンズのほうで「憐憫の情」を感じたりした。「彼らは時間の無駄に気がついていない」と。

そういう体験から、30年も40年も経て、僕自身はどうなのだろうか。ハノイの路上食堂でうどんをすすりながら、ふと思う。ともかく忙しくしてきた。「そんなに急いで何処行くの?」の交通標識にグサリと刺されるほどに何かに憑かれるように急いできた。安定した企業に入ろうとしなかったので、一人で(勿論、いつも良い仲間たちには恵まれていた)起業し何が何でも自分の家庭をそれなりに豊にというか、ハッピーな生活にしたいがための焦心がそのように急がせてきたような気がする。しかし、その忙しがってきた人生って、「どんだけ〜」。ちょっと前の流行言葉で、すっかり総括されてしまった。まいったぜ。どんだけ〜、どの様な価値があるの〜?とオカマタレントは、鋭いことを大衆に投げかけた。

僕って、人生の「成果」としてのお金や蓄財にはほど遠いものになってしまったわけだが、待てよ、他にはないのかい?むむ、素晴らしき友人知人とか日本とベトナムの家族たち。これは一応「成果」としては120点としておこう。他にはないのか?あわわわわ、知識とか、想像力とか、他人様の脳内海馬あたりにちょっと残した僕という画像記憶かな。せいぜいそんなもんかあ。僕の人生の「成果」って、2,3行で書かれ片付けられるものでしかない様子だね。ホントに貧しいというかほとんど無に等しいね。僕らは西洋合理主義の環境で教育をうけ、その線で、つまり日本社会の要請のラインに従って育成され、大人になった。個性など意味がないほど社会の要請の形状に当てはまった大人になったのさ。諸君、そこいらは冷静に認識した方が良いぜ。

僕らの人生って、ほとんど画一化に近い人生を歩んできた。個性的って思っても、「許容の範囲」、蟻の個性とそう変わらんさ。僕の仕事をしてからの40年ってさ、毎日玄関先に座り込んで道行く人々を眺めているのと、どの程度違いがあるかってことさ。フィリピンやスリランカで、煙草を燻らせながら、僕を見詰めていた無表情の親爺や若者があのまま数十年、たいして変わらない「風景」として、今日も継続していたら、それらと僕の40年間とどの程度違いがあるって言うのだろうか。今日もハノイの路上茶店で「無為な時間」を過ごしている様に見える親爺や若者たちがわんさか存在する。しかしひょっとしてもし、彼らがムダの意味の「無為な生き方」でなく、哲学的に”無為に生きていた”ら、僕ら近代合理主義の御曹司たちは、戸惑わざるを得ないだろう。無為に生きるとは、「流れゆく時間を受け入れる」ということだろう。路上の喫茶店で、玄関先で佇み、己を時間の大河に晒し、神のように静かに受け入れるということだ。

もし、彼らがそのような域にいるならば、我々のあやふやで軽薄な人生観を簡単にひっくり返す破壊力さえ持っているかもしれない。無為に生きるを実践しているサバンナのライオンたちも、ちまちました世間から離脱し、ゆったりとした時間を王の佇まいの中で受け入れている。僕が60年間培ってきた知識とか教養とか、地上の愛とか、そんなものをどんなに総動員しても無為に生きる彼らには勝てないと思ってしまう。滔々(とうとう)と流れゆく無限の時間を宇宙の森羅万象の中で、人々は淡々と受けいれ、受け流している。そのことを理解すること、自分も受容すること、それ以外に自分のソリューションはないだろう。あれれれれ、どうしても西洋合理主義風情でというか論理的に解釈しようとしてしまうね(笑い)。僕にとって、今「無為」と「無垢」は大切な言葉である。更に言うと阿部の「阿」も重要な意味を持ちつつある。

「地球の記憶」という言葉がある。40数億年の「生物である地球」の各時代の痕跡の事である。この記憶には日本人どころか人類という記憶すらに残らないかも知れない。

■本年の旧正月(TET)の元旦は来週14日日曜だ。だから今日土曜日は、ブオンさんも何かと忙しい。いま、ベトナム全土は言わば「師走」なのだ。朝早くから、近所の市場の買い出しに僕も動員され、専ら自転車でのもの運びだ。混んだ市場の中にバイクでグイグイ入ってきたおっさんにチオイ(おばさん)が「何よ、あんた、非常識よ」みたいな罵声も飛ぶ中、自転車番の僕なんかも身の置き場もなく、ブオンがあれやこれや買った食品の袋とか、見守ってるだけ。”我が家”で正月に食される鶏などは、足を縄で縛られたまま白っぽい目をぱちくりさせていた。ああ無情。市場は何時来ても楽しいものがある。ハノイでは郊外型のスーパーの進出も出始めており、この様な自然発生的にできあがった昔からの青空市場は、10年後霧消しているかも知れない。ブオンの家でお肉とか、ゴハンとか残った食べ物を冷蔵庫にしまうとしたら、「だめよ」と止められた。気温25度とかでは、お肉を置きっぱなしに出来なくなった僕らは、食品管理の原点を忘れて、何でもかんでも冷蔵庫だ。大丈夫か?と返事したが内心、嗚呼そうかもねと合点した。なによりも、ベトナム人の口に入る牛、豚、鶏は、今朝に屠殺しさばいたものだ。新鮮な物は当面腐らないということなのだろう。味を大切にする彼の国の人々は、冷蔵庫に頼っていないのだ。

今日は当校の5階にある神棚の大掃除。あたらしい果物とか、チープな印刷の100ドル札の束とか、紙製の金赤の帽子とか人形とか、お餅とか、供えた。なぜか、今日は台所の神様の「元旦」らしく、オフィスの小さな炊事場のガスコンロの上にお供え物など置いてブオンと仲良くお祈りした。台所の神様は各家庭の様子を早めに天国に報告する役目があるらしく「それで、元旦が一週間ほど早いのです」とブオン。彼女の祝詞は何いってんだか、わからないが、信心深いお祈りを僕もマネして挙げたりすると、結構楽しい。ガキのころは宗教なんて蹴散らす対象でしかなかった左翼急進派であった僕でも、いい年になると宗教的儀式は楽しめるね。特にベトナムの場合、儀式は仏教と民間自然宗教的なもの、風水などが混じり合った感じの物なので、日本仏教や神社のような高額な献金とか、過度な形式主義がない分、僕など反抗老人はうれしくなる。

これを書いている時分には、1階の玄関先で、チープ印刷の金赤の代物をブオンやスタッフが燃やす儀式を執り行っているようだ。5階まで燃える臭いがしてきた。当校は相変わらずお金はないが、どうやら安寧なお正月をむかえられそうな・・。後は仙台の親爺に気を張ってもらうしかないね。
明日、日曜なのだけれど、大阪の優良企業の企業プレゼンと面接がある。学生もNGOCさんらスタッフも土曜まで出勤して頑張っている。ベトナム人のスタッフには、心から敬意。彼らに今年幸せ有れ!

2010年1月31日日曜日

生死の淵に佇む人へ / 藤原新也さんのこと

■ 先ほどNHKで、「私の子供時代」とか言う番組でたまたま藤原新也さんの子供時代をやっていた。偶然途中から見た。藤原さんは、写真とエッセイを両建てで展開する写真家であり、思索家というか哲学家である。僕は20歳代から好きで「七彩夢幻」とか「全東洋街道」「逍遙遊記」「メメントモリ」「アメリカ」とか、持っている。「東京漂流」も在ったかも知れない。「七彩夢幻」は当時華々しかった池袋パルコとタイアップした作品であったと思う。大分後で一緒に一度だけ仕事でご一緒させていただいた石岡瑛子さん、山口はるみさんらも、この本のアートディレクターとして参加していたんじゃあないかな。残念ながらこの大判の美しく怪しげな原色の色彩光線を放つこの本は、誰かに貸してしまって無くなっている気がする。藤原さんは、僕のたかだか4才上に過ぎないのに、僕ら20歳代のもの好きなややとんがっっていた連中に圧倒的な影響を与えた。天才だと僕は思っている。

この番組によると藤原さんの生家は、小さな割烹旅館のようだったらしい。伊達巻き卵を作るのが得意な板前であった父親の不思議な存在というか生き方が藤原少年の脳裏に威厳とファンタジーがない交じった感覚で残っているようだ。父親は、渡世人でもあったようだし、いつも周りには風の様に出入りする得体の知らない大人たちがいた。おそらくその周りにあった風来とか、旅そして別れなどが写真家としての藤原さんの思索と漂流に大きな影響を与えたのだろう。16才の時父の家業が破綻し一文無しで東京に。その後、東京芸大へ行かせ、写真家に押し上げる何かが、その当時に醸造されていったのであろう。

その藤原さんをやはり普通のアーチストとしてではなく特別視して、在る意味で対抗視していたのが荒木経惟(のぶよし)さん、天才アラーキーさんである。もちろん、荒木さんは藤原さんとは、まったく別な意味で、森山大道さんも、別格視している。そのアラーキーさんとは1980年代数年間ビデオの仕事が中心だが、ご一緒に仕事をさせてもらう機会があった。まだ、奥さまの陽子さんが健在の時分である。そういえば、静岡の富士山が見えるデパートの芸術イベント会場で今は30才ぐらいになった息子が彼の天才にだっこしてもらったことが、あったっけ。そのころ、荒木さんの広い交友の中から、作家の小林信彦さんを紹介してもらったこともあったなあ。当ブログの2008年11月の「赤塚不二夫先生」の項にもかいたが、赤塚先生を僕に紹介してくれたのはこのアラーキーさんでした。

その荒木さんとも、10年も前に飲み屋でばったりとか、渋谷の街頭で「どうもどうも」が2,3回あっただけで、最近は全くご無沙汰している。でも、最近の様子を撮った写真を見るとベランダ風景が見えるので、豪徳寺のお宅は変わっていないようで、何となくうれしくなる。最近は梱包して奥にしまってあるが、いただいたA全の額入り作品を持っている。僕の数少ない財産の一つだ。ついでにちょっと得意気にご披露すると日比野克彦さんからいただいた段ボール系作品も持っています、エヘン。

■ さっき(2月3日夕刻)東京の娘から至急のメールと電話がハノイの僕へ。仙台の親爺が危篤だという。もっと正確に言うと心肺停止状態という。で、10分ぐらい後の次の報で、何と息を吹き返したという。流石94才まで伊達に生きていない。3日前の1月30日土曜には入院していた仙台の病棟で会った。この半年で急激に全体の老衰が進んでおり、両腕などは胸に押し抱いて硬直状態であった。でも、面倒を見ている弟が言うには、久しぶりの長男の帰還で顔色がいい、と。既に声を発する力がないのだろうか、読唇術でもない限り、父親のほぼ最後であろうメッセージも読み取れないもどかしさに苛まれる。毎日父と顔を合わせている弟や奴の奥さんからしてみると「マ・サ・ユ・キ」って言ってるとか。ほんとかえ。

元来、102まで頑張るって言っていた手前、94才程度では、死んではいられないだろう。が、インテリ親爺らしく、根拠は良く分からないが「95〜96才が山場だから」と弟に言い切ってもいたようだから、本年7月に95になる彼としては、断固としてクリアしたい心中だろう。僕も、ハノイに昨日来て、最大限重要課題に7日まで取り組んでいるので、そう簡単に天国に召し上げられても仕事関係が大混乱に陥りそうで、不安がよぎる。
でも、何故か悲嘆に暮れたりのリアクションが僕の体内から湧き出てこない。小学校の高学年時には父親が最大の尊敬人物であり「親爺のためなら死ねる」と途方もない観念を膨張させた少年であったこの僕が、なぜいま、客観的にこのブログなどを認ためられるのか。不思議なものだ。生の絶対値が終焉しようとしている時には何処でも生成されるのだろうか、ハノイからでも僕の意志が伝播するかのような不思議な錯覚作用体内物質が僕の脳髄辺りを支配する。「お父ちゃん、がんばってくれ」

2010年1月28日木曜日

ジャーナリストの激減 / 阿倍仲麻呂はハノイの知事なのさ

■ 雑誌「マリークレール」が廃刊になったらしい。とっても残念だ。なぜって、この「マリクレ」は映画特集とベトナム特集が有名であったし、内容も充実していたからだ。また女性編集長が、ベトナムマニアで知られていたし、特に今年はベトナムの観光キャンペーンの年になるだけに悔しいなあ。僕の娘もここのそばにいたはずだ。彼女からこの件のコメントも聞いていないが、どう言うのかしら。ついでに言うと、僕とか当校のことを去年取材してくれた「フォーブス日本版」とか、一時代を築いた「Hanako」、僕が30歳代、40歳代に愛読していた「スタジオボイスと「エスカイヤ」、リクルートの「ガテン」、天野さんの「広告批評」も去年で終焉を迎えたようだ。残念、寂しい。

インターネットの時代を受け入れた僕らは、今までとても大切にしていた雑誌文化を手放しつつある。これで良いのだろうか。新聞さえも地球上に張り巡らされた情報蜘蛛の巣通信に敗北しつつある。メディアとして敗北し、次のメディアへ席を譲るのは仕方ないが、問題は洗練されたコンテンツだ。研ぎ澄まされたジャーナリズムの行方だ。これらは、雪崩をうって歴史の彼方に廃棄されるのではないか。その不安はほぼ当たりそうで恐い。かつては明治大正昭和を股にかけ活躍した反骨の「宮武外骨」とか元朝日の「むのたけじ」などがいた。彼らは日本のジャーナリズムを創始し、かつ権力から守ってきた。現在、テレビによくでている良識派的な報道人でも、筑紫さんは1年半に亡くなってしまった。立花隆さんや鳥越俊太郎さんも病を抱えている(お二人とも今元気だが、癌を自ら明らかにしている)。

鎌田慧さんとか、広河隆一さん、吉岡忍さんとかほとんどテレビに出ない一群の人たちはもちろん数多くいます。新聞社やテレビ局にも志の高い記者、編集者、ディレクター、ドキュメンタリストがいることでしょう。でも、まともなジャーナリストが次第に暫減状態であることは各社の内部ではハッキリしている。しかも何故か、若い俊英なジャーナリストがあまり育っていない様子。僕らが知らないところで、そして認識できない形の新しい心あるジャーナリストたちが育っているなら良いのだが・・。どうなのだろう。キチンとしたプロのメディアが衰退し、更にこの社会を凝視し批評する者が激減していく日本の姿。ジャーナリズムが脆弱な時代ってどんな社会になるのだろう。暗澹たる気持ちになってくる。

■ 本年2010年は奈良の遷都1300年であるそうだ。テレビコマーシャルで最近時々流している。そこで、日本とベトナム政府は、丁度遷都1000年のハノイと共同で歴史的文化的催事を行っていくようだ。我々ベトナム関係者にとって大変興味深い一年間となろう。ところで、歴史の教科書に出てくる阿倍仲麻呂をご存じですね。奈良時代の遣唐使の一人ですね。李白の友達にもなったそうです。遣唐使はいわば学生ですが、その勉学への一途な意志は僕らの想像を超えますね。彼は何度か日本帰国を試みたが不運にも上手くいかず、約30数年後(凄いですね。20歳代の学生が50歳代に!)に何度目かのチャレンジで、最悪なことに乗船した船が難破し南方に漂流してしまった。

そして流れ着いた先が実は何とベトナムであった。歴史の何と面白いことか。彼はベトナムで10年ほど世話になり、現地で行政の経験を積み、長安に陸路帰還したが、ベトナムでのその力量を認められ、正式にベトナムの総督(当時はこの一帯は大国である唐の一つの地方であったので、総督は県知事である)として赴任した。つまり、あの有名な阿倍仲麻呂って、結局一度も日本に戻れないまま、ベトナムのハノイで波乱の生涯を閉じたのでした。知ってました?いがいと知られていないよね。この彼の総督の城とお墓などがハノイにあり、現在発掘中と報道されています。もし、これがはっきりすれば、大変な観光資源となりましょう。

現在日本からのベトナム渡航はざっと年間40万人です(最近、伸びが遅くなってる)。韓国へが240万人、香港へが130万人を考えれば、今後まだまだ伸びしろがあるでしょう。是非、観光やビジネスでの渡航が促進されますよう、関係者みんなで頑張らないとね。CHAO:チャオは、「今日は」の意味です。イタリア語のCIAO:チャオと同義で発音も同じです。またベトナム人は電話での初めの挨拶を「アロー、アロー」とフランス語風に言う。昔の宗主国のフランス語の影響ですね。このあたりが、ベトナムにヨーロッパの痕跡みえるところ。現在、キャンペーン中の「ようこそ、ニッポン」ならぬ「ようこそ(CHAO)、ベトナム」をあちらこちらで振りまきたいですね。日本人関係者は、今年の観光キャンペーンに協力したいものですね。
■《ブログご高覧感謝》
僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
多いのは一日1400名閲覧もあります。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行

2010年1月24日日曜日

田中派の残滓

マスコミの一極集中の報道はどうにかならないのか。また、歴史に照らした冷静な報道やコメントが少なすぎる。最近の報道の現場は20歳30歳代が多く、ベテランがデスクとして現場から離任させられるマスコミの人事制度にそのゆがみの主な原因が在るといえるだろう。欧米のように管理者の道と、「一生現場」の道の選択可能な制度にしないと、ますます知識や洞察力に欠けるジャーナリズムが横行することになる。政治家を取り囲んだ記者が「幹事長!辞任するのですか」「石川逮捕の責任はないのですか。ゼネコンからの5000万はもらってないのですか!」とか、横柄にかけ声を投げつける様は、現在のジャーナリズムの現状の一端を見事に見せてくれている。これではメディアのテクノロジーが発達しても意味がない。

僕は民主党はどうも好きになれない。何かもう一つ引っかかるものがあるんだ。党内のリベラル系の人とは僕なんかと感覚が近いのであるが、なじめない何かがある。民主党は前から女性からの支持が薄い。臭覚すぐれた女性のその反応は僕なりに解るような感じがするね。その一つが、松下政経塾出身者を中心とした「好青年、さわやか、高学歴エリート、無表情、アメリカ一体派、苦労知らず、すらすらとおしゃべり・・」の印象が強い面々が多いということだ。どうもいけ好かないのはこのあたりかも知れない。嘘臭いというか、違和感がずっとあるんだ。

更に、前原、原口、長嶋、西村などの「日米同盟」べったりなタカ派的というか、旧民社党系というか、彼らはアメリカ共和党の知日派とかいってるアーミテージや軍事産業グループ、ネオコンに近い連中と親交が在ると聞いていることも、僕に違和感を感じさせる理由の一つだ。僕の経験値では、「保守ではない右派は危険」であるのだ。更に、言うまでも無く小沢、山岡らを中心にした田中派的ゼネコン土建グループの存在だ。ここに間違いなく収賄・不正は付きものだ。小沢は、「そろそろ、その体質を辞めようかと思っていた節もあるが・・」止められず、今回の問題が起こった。女性たちは結構こういう民主党の体質を正確に嗅ぎ取っているような気がする。最近の支持率の急降下は、彼女らが興味を失ったからなのさ。なお、旧社会党系の赤松とか参院の輿石(日教組)などのアホ連中は”ほぼ小沢派”になっている。

今回の問題で、小沢は政治家の矜恃として、即刻自ら議員辞職すべきだろう。今回の検察の動きは、検察の「正義」を御旗に「田中派的土建体質」の政界からの一掃を図っている気配も無いではない。この際、管や仙石らのリベラルグループは「自民党小沢」を切る決断を明確に打ち出すべきではないのか。140名の新人議員は、小沢の選挙支援によって当選したばかりであるので、動き難い面があるのは認めよう。しかし、管、仙石、岡田、野田とかそれにつづく、古川、大塚、枝野ら期待の中堅の言わばリベラル系の人たちが何も言わない体質は非道すぎる。政治家としての決断が欲しい。民主党内の自民党田中派系と訣別すべきだ。そういう、良いチャンスが到来したんだぜ。鳩山もしっかりせい。

自民党は元来、保守本流、保守系リベラル、革新土建グループの3系列で成立していた。三つ目が言わずと知れた不世出の天才的政治家田中角栄の流れだ。彼らは、国土を全てコンクリートで固める「土建重商主義」を掲げていた。であるからしてイデオロギーはほぼ無色で「銭の臭い、土建工事の臭い」がするモノは全て良しだから、中国との国交も可能であった。田中の「今太閤」的出世物語と貧しい新潟を背景に田中派は、1960〜70年代の民社党や日本社会党の右派よりも政治的志向が「貧乏人の味方」、つまり「左」であった。だが問題は裏金・収賄の不正まみれの体質である。ゼネコンからのキックバックで政治が引っ張られていく最悪の体質にあった。その体質が厳然と民主党に生き残っている訳だから、この際、この時代錯誤な「コンクリート派」は絶滅させる時代がきたと民主党は考えるべきでしょう。

自民党はいい加減な政党であったが、一貫して「人間味」もあった。田中角栄の様に貧しい階層と共鳴可能な政治家も結構おおく、共産党などがいう大企業だけにぶら下がっているわけではなかった。特にリベラル系には良い人物も多い。リベラルと言う概念は、結構微妙で難しい側面も持っているが、ここでは、大雑把に言って自民党の加藤紘一元幹事長、谷垣総裁(かわいそうな人)河野太郎、後藤田、塩崎あたりの面々の意味だ。系列では、藤山愛一郎、三木武夫、河本敏夫、宮沢喜一、河野洋平の流れに近い人々のことを指す。宏池会もリベラルも混在しているが・・。この政治家の人たちの方が民主党より、ちょっとマシと思う人は結構多いのではないか。まあ、日本の健全な第一歩、つまりとりあえず、民主党に負託して4ヶ月。この後3月までに予算だけは通して、すべからく、民主党のまともなグループと自民の保守リベラルが、2〜3年間「契約結婚」して、日本の舵取りの当面の基礎を培って欲しい。ついでに日共も名称変更とかしたほうが良いだろうね。

ところで、もう、僕も老人だ。
東京に来て42〜43年。初めて今冬「ズボン下」というかアンダーウエアを買った。高校まで居た仙台では、寒いので子供の時分から分厚いメリヤス股引を履いていた記憶あり。今年は別に寒い冬でもないのであるが、なんだか急に寒いという感覚に襲われて、西友で12月に買った。否買ってしまった。ひゃーっ暖けー。一度着ると止められないね、ももひきって。まあ、僕も老境に入ってきたと言うことだろう。老人になるとなんだか、足回りというか、腰回りがスースーする感じになってくるようだ。去年までそんなこと全くなかったし、冬でも靴下はかなくても、室内なら平気であったんだよ。今冬は、どうしたことか。61歳で、急に老人化が進むのだろうか。いやになるね。去年まで、朝起きると僕の下腹部にはたいてい力強さが満ちていたのになあ。考えれば、それも急に減退してるのかも。ふむふむ・・。そろそろ、介護士・看護士のベトナムプロジェクト本格化せんと、間に合わんなあ。僕もお世話になる季節なのかも。

2010年1月21日木曜日

青春の光芒

日頃、テレビ番組をぼろくそに言ってる私ではありますが、ちょっと褒めたい時もある。最近のテレビ番組で、評価できるのは民放でもサイエンスものや、「日本の中小企業の技術」などを扱う情報番組がいっきに増えてきたことだろう。時代の雰囲気が「日本は金融とかじゃあなく、技術で生きるべし」なトレンドの勢いが出てきたからだろうな。また「農」の復活を後押しするような番組もかなり増えているね。「田舎住まいが格好いい」価値観も、ジャニーズ系の出演も多く一気に増大している印象がある。なかなか日本のテレビも棄てたもんじゃあないね。また、知識力とか雑学や漢字の知識量と深さを競うクイズキング争い番組は今の日本のテレビ番組の世界に誇って良いノウハウだと思う。アイディアや工夫のレベルはもの凄いモノがあるね。世界へ今後ドンドン売っていける正に日本のエンターテインメントの真骨頂だろうと思う。たまに見てるが、京大卒のロザンの宇治原(彼の漫才とかコントなど見たこと無いが)とか、早稲田出のマンガ家やくみつるさんとか、麻木久仁子さんあたりの知識量は幅広いし凄いものがあるね。

まず、「企業と技術」にわかりやすくエンタメ的に触れている番組の増大はうれしい。例えば先日こういうのがあった。「世界中の企業で200年以上の歴史を持ってる老舗は何社ありますか」7000社強在るそうだ。「その中に日本企業は何社ありますか」3500社強が、なんと日本企業なのですね。凄いですね。我がニッポンは東の端、つまり島という辺境に在ったのであちこちから来る文化が集積しやすい地勢にあったことがその要因と思われるが、それにしても驚きですね。金剛組という宮大工の会社が聖徳太子の時代に創立されて、世界一古い企業であることはかねてから有名ですが、この綿々と繋がってきた伝統が技術を支え、新しい技術を生みだし日本の現代にも受け継がれてきている訳だ。こういう事が日本の底力なのだろう。世界に冠たる事実だね。こういう日本の産業や企業文化、さらに高い技術を扱う番組やコーナーが凄く増大した。良いことですね。うれしくなる。

今後、内需にやはり限界が見えてくるだろうし、我が日本はアジアとどの様に付き合っていかなければいけないのであろうか。言うまでもなく日本は環境に関連した技術だけではなく、機械関連や通信関連には世界トップの技術を持っている。マンガやアニメ、サービスなどのコンテンツ産業も世界一と言って良いだろう。また、農業技術も自然農法も含めアジア全体を豊にしていける技術を持っている。昨日設立された慶応大学の清水教授の電気自動車の会社は、世界最新の省力型電気自動車の技術をリナックスと同様にオープンソースにするという。凄い。世界は第二期の産業革命に入りつつある。購買をあおり、企業が成長していけば事は足りる単純な世界では無くなった。天然資源は、30〜50年後には枯渇する。人口も一気に100億人に到達してしまう。如何に地球環境を持続させるか。大きな価値観の変化、パラダイムシフトが求められている今、日本には技術大国として、中国を筆頭とするアジアの「エネルギー燃焼」的産業構造を共生的なかつグリーンニューディール的な構造に再構築して、双方を共に豊にしてゆく義務が在るのだろうと思う。東の端にあり「世界の文化と技術を数千年に渡って堆積させてきた」日本はその経験と伝統を活かして、アジアの皆様にお返しして行く順番なのかも知れない。

今日(23日)、車メーカーのスズキの鈴木会長がNHKに出ていた。この矍鑠(かくしゃく)とした大人(たいじん)は、昔から僕が大好きな叔父様連の中の一人だ。70歳代だろうが、彼はいつも新鮮な事を宣う。スズキは去年ドイツのフォルクスワーゲン社と提携した。司会者が「スズキはインドが強い。ワーゲンは中国、ブラジルが強いわけですから、まずは販売ネットワークから提携を始まるのですか」ときいたら、言下に否定「私らはもの作りで生きてきた。ですから、ワーゲン社とは共通部品の設計の摺り合わせからはじめている」とすらりと言ってのけた。「向こうは大型が強い、当方は小型がつよい」とかの提携は上手く行かない。かつてクライスラーと失敗した経験がある。「今回は両者とも小型につよい」から、上手くいくのだ、と堂々と宣う。強さを相互にぶつけ合って更に良い物に止揚するという意気込みなのだ。通常の提携や合併は自分の弱いところを相手が持っており、相手が弱い点を当方が持っている場合に遂行される。が、おっとどっこい、鈴木さんは並の人とはちがうんだなあ。だから、スズキに納品している部品や素材メーカーは新たな意気込みで機能部品開発に余念がない。相変わらず御大は「うちらは中小企業ですから・・」と衒い無く語っていた。更にこういう番組が増えればなあ。

最近は読んでいないが、旋盤工で町工場の研究とか、時評をされていた小関智弘という人がいる。作家と言った方が良いのかな。1980年代に彼の本を1冊読んだことを思い出した。朝日や日経にも時々論評も寄せていたので、知っている人も多いかも。もの作りの現場からの旋盤工本人からの本当の報告であり、批評なのであったので、淡々とした著作ではあったが、人の心を揺さぶった。彼のプロフィールをコピーしてみた。キャリア50年の職人さんです。この小関さんのような人も番組にどんどん登用してほしいね。

■ 小関智弘さんプロフィール
都立大学付属工業高校を卒業後、地元の複数の町工場で施盤工として50年働く。1975年に『粋な旋盤工』で作家デビュー。町工場で働く人々の生活やものづくりへの取り組み方を自身の眼に写る観点から捉えた著書が話題を呼ぶ。2003年 文部科学大臣表彰受賞。
■職歴・経歴
1951年 都立大学付属工業高校卒業
      以後、大田区の複数の町工場で旋盤工として50年間働く。
1975年 『粋な旋盤工』(風媒社)で作家デビュー(岩波・現代文庫で再刊)
1981年 『大森界隈職人往来』(朝日新聞社)で第8回日本ノンフィクション賞受賞。    
     (岩波・現代文庫で2002年再刊)
2003年 文部科学大臣表彰受賞
2004年 『職人学』(講談社)で日経BP図書賞受賞

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先日、新宿を歩いていたときに、急に新宿御苑にいってみたくなり、30分ぐらい時間があったので、寄ってみた。入ったのは何年ぶりだろうか。撮影かなにかで、20年ぐらい前に来たような気がしないでも無いが、思い出したのは妻晃子と1970年かそこらに、言わば熱々カップルとして、手を繋いでゆっくり散策したことだ。公園に差し込む光と影が僕たち二人の思い出を甦らせてくれた。その時何を話したのだろう。将来のこと。結婚のこと。映画のこと。親たちのこと・・何を話ながら歩いたのだろうか。愛しているときの感情、恋しているときの高ぶり、今となっては、ほとんど忘れかけている感情かもね。無垢な無償の情感。人生で一番大切な心だろう。それを僕らは自然に共有していたんだ。そのとき、僕らから仄かであっても光芒が未来に向けて確実に放たれていたはずだ。考えると目頭が滲んでくるけれど、その心の高ぶりは遠い彼方だね。晃子と出会ったのは1969年、結婚したのは1972年、旅だったのは2005年12月。毎朝、自室で線香を手向け、僕は彼女の笑顔を脳裏に呼び寄せ彼女の声を静かに聞いている。

その新宿御苑の入り口に新しい作りの建物があり、喫茶室やオフィスや誰も見ていない都庁関係のガイダンス機械などがあった。アートギャラリーという部屋があったので、そっと入ってみた。中には沢山の小鳥やフクロウ、ミミズクなどのカラーリングされた木彫が展示されていた。表示を見ると「八王子何とか会」とか「新宿小鳥・・会」とかあり、趣味のご老人が心を込めて作成した作品とわかる。さえずりが聞こえてきそうな秀逸な作品もある。一人の老人が展示会の「店番」をしていた。御客は、僕と立派なニコンをぶら下げた70歳代の方。僕ももう少し経つと小鳥と戯れたり、草木を愛でたり出来る老境に入っていけるのだろうか。穏やかな日々って、僕にも来てくれるのであろうか。求めなければ来ないのであろう。でも、僕の場合強く求め探してもそのような安寧な環境は来ないかもしれないなあ。僕はどう生きて行ったらいいのだろう。

 

2010年1月19日火曜日

頑張れ辻井くん / テレビカメラマンの無能 / 青春の蹉跌

■ 年末年始に書いた前項の「爆笑問題の失笑問題」は今までで最高のアクセスであったようだ(一日1400アクセス)・・さてさて、
なんだか最近、ベトナム私信とは言いつつ毎回テレビやCM評が増えてしまっているね。阿部さんひまだなあ、と言われそうだが、現に2,3名の仕事関係者に言われてしまったが、暇なわけでも無く、むしろシンドイ運営問題(不景気が長引いて日本企業の採用数がまだまだ回復して来ないんだよ〜)もあるし、かなり忙しいんだぜ、本当は。気持ちも晴れないしね。

まず、去年大変感動的に話題となった辻井伸行君のこと。去年初夏にアメリカのバンクライバーンピアノコンクールで優勝した、あの盲目の青年だ。ぼくはその優勝した当時、彼の幼少からの足跡などは良く知らなかったが、優勝を告げられた会場の舞台で長身のクライバーン氏に抱擁されてとまどい気味にしがみついていた辻井君の白くてまろやかな顔が忘れられない。おめでとう。僕は君をよく知らないが、おめでとう、やったね。僕もうれしい。テレビのニュースに出るたびに自分の息子が優勝したような錯覚が襲ってきたほど、狂喜できた。その彼のドキュメントを年末に見た。知性豊かな家族環境のなかで、育ってきたことが解る。キチンとした家庭、冷静でエネルギッシュなお母様、堂々と共に歩む息子。ドキュメントそのものはたわいもないプログラムであったが、登場する一人一人の心の豊かさがしみじみと見る者に伝播してくる。

見ていて、フジテレビで長年追いかけていたバイオリニスト五嶋龍くんと彼のお母さんを思い出した。龍君の姉は言わずと知れた天才バイオリニスト五嶋みどりさんだ。このお母さんがまた良いのだ。この二人の母親の共通項は多い。考え方や人生観が軽やかだ。無理はしない。モノの捉え方とか発想が自由。自立を促し、的を射たアドバイスは常に欠かさない。所謂教養というものをお持ちなのだろう。そうでないと天才は自在に飛翔できない。このフジテレビの番組「五嶋龍のオデッセイ」は10年ぐらいつづいたのだろうか。最近はみないが・・。番組はかつてのフジテレビの会長夫人で元NHKアナウンサーの頼近美津子さんの進行で展開していた。その頼近さんは、去年若くして逝去した。
話を戻そう。辻井君、さあ地球の真っ青な海原が君の前に広がっているよ。良い風も吹いてきた。地球の美しさは君のものだよ。

■ またまた、ドキュメントだ。偶然途中から見た。栗城史多(のぶかず)という30歳にもならないアルピニストの青年が主人公だ。凄い。畏敬。彼は、無酸素で既に世界の7サミットを登り切っており、最後のチャレンジがチェモランマ(エベレスト)なのだ。このNHKの番組では天候の悪化と疲労で、チャレンジは失敗する。大泣きに泣く栗城さん。でも、この番組の白眉はこれじゃあないんだ。凄いのは自分の登山の行程をインターネットで全世界に中継しているのである。従って、エベレストの頂上の中継はまだ為されていないわけですが、視聴者は天国に隣接した群青色の青空の中から通信される画像と音声を通じて、アタックの苦しみと頂上に屹立した歓喜を登山者と一体になり味わえることになる。本当に凄い。

かつて、1990年湾岸戦争の時、CNNの戦争特派員ピーター・アーネットがイラクから撤退せず残留し、怒濤のように攻撃してくる米軍をイラクサイドからパラボラアンテナを使って衛星中継した驚きに、この栗城さんのプロジェクトは似ている。生死を彷徨いながら孤独にたえて、「臨場の今を知らせたい」本能的欲望は同一だろう。ところで、アルピニスト野口健はすっかり胡散臭い環境イベント屋に成り下がっようだね。小池百合子の隣で万歳叫んでいたし。俗物は今後聖地へいちゃあいかんぞよ。

■ 最近というより、この方20年ぐらい気になっていることなのです。とくに、この10年は、非道いと思う。テレビのカメラワークの事である。ENGスタイルになり、取り直しが利くからかも知れないが、センス無い乱暴なテレビカメラ(マン)が多すぎる。僕は民放のドラマなぞ30年は全く見ていないので、ドキュメントやニュース分野しか言えないが、訓練を受けた痕跡すら見えないカメラワークが多い。一番のダメさは、カメラの対象者に涙が溢れてくる時のカメラマンのセンスだ。悲しさが極まり目から涙が溢れる状況に立ち会った際、すぐにズームレンズで、顔や目にアップで寄ってしまう。”きらりと光る涙を撮影できればニュースだ”と勘違いしないでほしい。ズームアップを我慢しろ、顔や目頭にある悲しみは、悲しみの一部に過ぎない。

悲しみは引いた画面全体に溢れているものである。深い悲しさは、顔や目にだけにあるのではないのだ。悲しみに耐えようとする手や指に、震える肩や胸に、全身からあふれ出てくる人間の悲しみは、全身に接している空気そのものを震わせる。悲しみに遭遇して悲しみに耐えようとしている人間の深い思索と感性は、立ちつくしている人間の全身を描写することに主眼を於かなければならない。こんな作法は古典的名画も含めた多くの優秀な映画を見ていれば、技術としても学べるはずなのだ。画面の人物が泣きそうになると、フラッシュが機関銃のごときに連射され、ビデオカメラのレンズはズームアップのバカの一つ覚え。もう、バカな撮り方は止めてくれ。いい加減にしてくれ。テレビカメラの放列に陣取る各局の”素人カメラマン”たちよ。サイズを引いた広い落ち着いた画面の中全体に被写体の悲しみを静かに表現せよ。

■ いま、ドストエフスキー亀山翻訳版「罪と罰 第三巻」が、やっと200P。あと半分だ。次は何読もうかなあ。日本の古典的な長編かなあ。身体の生理はそんな感じである。さて、2,3日前に読み終わった本『村上春樹と小坂修平の1968年』について。著者のとよだもとゆきさんという、初めての人だ。1968年とみれは、その関係者というか、団塊の世代の人はすぐに気がつく。1968年はまず、フランスのカルチェラタン(左岸)で、大学生と高校生がたちあがった大闘争「5月革命」があったし、この年の10月21日の世界反戦デーはベトナム反戦闘争として、全世界的に高揚した。この様な中で日本でも東大闘争とか日大闘争が急激に広範にたたかわれ、今までの全学連内部に巣くっていた新左翼諸党派の退屈な党派的形式的な闘いをラジカルな一般学生が軽々と超えていった。その「全共闘の戦い」が全国に広まった重要な年がこの1968年であったのだ。

日比谷高校とか青山高校でも、バリケードストライキに入っていたし、ほとんどの有力大学を中心に全国的に大学も高校も「ベトナム反戦」をコアにした紐帯で決起していた。僕は1967年早稲田入学だから、この68年は法学部二年生でその高揚した学内と街頭の戦いを毎日祝祭のように自由に遊泳していた。様々な出会いと怒りと悲しみなどが記憶されている年でもあったのだ。田舎の高校生が大人にならざるを得ない激烈な年でもあったということだ。
このとよだ氏の本はそのときの早稲田の事を書いたものであった。というより、全く僕と同じ時期に同じキャンパスにいた人物の言わば総括的な本なのだ。実はこの本の面白さはそのときの僕の感覚と共通性が多いことなのだ。

僕は19歳であったし、みんな生意気で議論付きな若造真っ盛りであった。多くは政治的というよりベトナム戦争へのヒューマンなリアクションであったり、「大学立法という治安維持法的な管理法案」へのアンチテーゼで瞬発的に反撃していた。そう言う感性で決起していたのだ。そう言えば早稲田祭のその年のキャンペーン命題は「感性の無限の解放を」であったっけ。センスの無い日本共産党系は、ただ縮こまって「ストライキ反対」とかいって、大学当局とほとんど一体に見えた。新左翼諸党派も「社会総叛乱」を捉えきれず、慌てふためいていて、政治的計画を膨大な数になっていた”闘う普通の学生たち”に押しつけていたように見えた。当時僕は「社会総叛乱としての全共闘」と位置づけ、いろいろな檄文を書いていたように、この著者のとよだ氏も芸術とか、デザインとか、映画・演劇も含めた戦いであったと回顧している。

僕らも他に負けじと、シュールリアリスム革命派とか、スパルタクスとか名乗っていた。「キリスト者反戦」と大書きした赤旗を掲げた黒ヘルメットの一群がキャンパスを走り抜けていったりしていた。一見遊びに見え冗談に映っていたかもね。でも、みんなアメリカのベトナムへの侵略や、日本の大人社会に本気で怒っていたんだ。法学部の僕が毎月「美術手帳」とか「映画評論」「映芸」とか愛読していたし、当時「朝日ジャーナル」とか「読書新聞」とか、「平凡パンチ」とか、あらゆる媒体が戦いの狼煙をあげていた。小田実さんや野坂昭如さんを直接電話して学内に招聘したり、キャンパスも街(主に新宿)も言わば高度成長期最後の徒花繚乱の季節であったのだった。この年、僕は新宿中心に映画を100本見た。東映任侠映画、フランスヌーベルバーグもの、アメリカンニューシネマ(初期)とか小川プロの三里塚の記録などの歴史に燦然と輝く秀作が街中の小屋(げきじょう)に架かっていた。もちろん、唐十郎さんの赤テントや寺山修司さんの天井桟敷、更に暗黒舞踏派などが、大都会東京の暗渠で蠢いていた。

海の彼方のカンヌ映画祭だって、ゴダールとか、ルイ・マル、トリュフォーとかが、スクリーンを引きちぎり、映画会場を占拠して毎日「革命論議」さ。ウッドストックでは数十万人のヒッピーが既成概念と既成のライフスタイルを突破しようとしていたし、黒豹党やマルコムXらがアメリカの都市部を震撼させていた。そう言う時代の政(まつりごと)について・・・・この項、近々継続。

2009年12月31日木曜日

爆笑問題の失笑問題

■年末、三波春夫と村田英男のドキュメントと、ジョンレノンのドキュメントを見た。で、いま。実は1月17日日曜になってしまっている。年末から、書こう、書きたい、でも、見たいテレビもあるし、本も読まねば、ということで、新年もおわり、1月も半月たってしまった。で、書きたいことは結構たまっているので、短文にしあげて、アラカルトを記るしてみたい。

■さあ、まず書道が良い。年末に「書道ガールズ甲子園」という高校生たちのドキュメントを見た。いいねえ。書道を介したパフォーマンスなのだが、何せ参加各高校の「書」のレベルが高いのだ。それも、数メートルの巨大な紙に書くものばかりである。流行の女流紫舟とか、へたくそ相田みつをなどより、数段上の格調さがある作品を身体を使って次々に生み出していく。ちょっと小学生の「30人31足」徒競走の共同性と似ていて、思わず応援してしまう何かがある。NHKの朝の連ドラも、今年は「書道もの」らしい。実は僕は小学校3年から6年まで「東北書道展」という奴に学校を通じて出していて、初段であった六年生の時、銀賞に選ばれて、仙台の丸光デパートであったか、三越であったか忘れたが、授業中に教員と受賞式に行ったことを覚えている。僕のばあい、上手いというより大胆な形に描いての受賞だと思う。

■亡くなった妻の義母はお茶の水大学を卒業した後、「ひらがな」書の師範になり、70歳ぐらいまで原宿あたりで個展などもよくやっていた。デザイナーの浅葉克己さんがドンパ文字とか阿比留草文字など世界の文字をあつめていたり、僕の先輩の田中穣さんが、「世界の文字美術館」をつくる構想で動いていた時期もあるので、僕なりの文字や書に対する価値観や美意識はある。書というより「画」という意識で見ているのかも知れない。ピカソとマチスの作品の感覚が昔から大好きで、心と目にに送り込んでくる色彩とフォルムは、何といっても世界一と確信している。でも、その感覚を超えるような書や文字のフォルムは、古代中国や現代の日本書壇にも沢山ありそうだ。色彩と輝きを放つ墨。平面とは思えない文字の構成。この流行を切っ掛けに書にもっとアートとしてのスポットが当てられるといいなあと、切に願う。

■全国に阿部正行さんは、何人いるのであろうか。インターネット上で探すと、WEBやブログを持っている阿部正行さんは、4〜5名いる。建築家とか、フィギアの有名作家も居るようだ。
65歳ぐらいに引退したら、「全国の阿部正行(読みも漢字も同一が条件)で、集まりませんかあ」という集いをやってみたいと思っています。まあ、おそらく10数名は居ると思う。そこで司会の僕が「阿部正行の皆さん、こんにちは、ご苦労様です。今日司会の阿部正行です。」とやりたいのです。皆さんにお会いして聞きたいことはこれだけです。 ”阿部正行、あべまさゆき”って子供の時から言われてきて、どうでしたか?良い気分でしたか。自分の身体と、脳髄と名前が昔から一体化していましたか?何か不思議じゃあなかったですか?

■■NHKの番組で時々見ているのが爆笑問題の「爆問学問」だ。太田と田中の、どっちかと言えばこの番組の場合、田中のリードで進んでゆく。結構面白い。太田の乱暴な論理の構築と対案が見物であるシナリオとなっている。で、気づいたことは、大半のお相手は理系の学者なのだが、文系の先生と太田は何故か対峙できないことが解ってしまった。去年の11月ぐらいに東京芸大の学長とか、芸大関係の対論が2回ほど連続であったが、太田の芸術の感覚とか、知識は非道いものだった。単に論駁するために強引にあれやこれやいうだけで、番組として内容の無いものになった。画面で彼らを取り囲んでいた、絵画とか、音楽のアーチストの卵たちも爆問の薄っぺらさに辟易したんじゃあないかな。僕もチト驚いた。理系相手だと結構善戦しているのにね。

正月になってから、東京外大の亀山郁夫学長と対論していた。この一年僕が読んでいるドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」とか「罪と罰」の光文社版の翻訳でも有名なロシア文学の先生だ。この時も太田さんは、惨め。話せば話すほど敗残者に落ちて言っていた印象であった。何をどういったか、いまおぼえていないんだがね。問題はシャイで対人関係が不器用で、内弁慶な太田が、彼にとって全くの未知の領域の科学に挑んだ場合、相手の科学者が「素人」に丁寧に教え諭してくれるので、番組構成としては解りやすく良好になるのだろう。しかし、文学や芸術の場合の相手は、太田が一応「芸術分野」であるだろうと知った上で対応してくるので、実は容赦がないのだ。さらに、太田当人も「文化系のインテリ芸人」として知ってるべき事を生半可であることが多いので、どうも大胆に論理構成が出来ず、容赦ない攻勢に押しまくられやすく、「そうか、そんなもんかね」「意外に、程度ひくいのねえ」などと唾棄っぽい台詞を吐くので精一杯とあいなる。太田さんの踏ん張りに期待したい。

■12月8日は、ジョンレノンの命日だ。だから、例年12月はビートルズものや、レノンの回想もの、洋子オノの番組が増える。年末に民放の割に丁寧に作られたレノンの回想番組があった。オノ洋子のインタビュー中心にして進行する充実した内容であった。今までも何度も取り上げられているが、小野洋子の出現でビートルズが解散に向かう下りのリアルな様は凄い。ザ・ビートルズはいわずとも「ア ハードデイズナイト」「抱きしめたい」のややポップなロックではじまり、ラビシャンカールなどの影響、60年代後半の反戦・ヒッピー運動が開花した全世界的な潮流の影響もあって、後半「マジカルミステリーツアー」とか「サージェントペーパーズロンリー ハーツクラブバンド」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」などをリリース、芸術に見事に昇華したロック界から来た初めてのアーチストである。ことばどおり、ベートーベンを超えたのだと思う。

改めて、ジョンの足跡を見てゆくと、解散は必然であったことが解る。ヨーコオノの芸術的な影響が解散を促進させたことはまさにその通りであるが、「イマジン」「ハッピークリスマス」「パワーツーザピープル」を聞くと、芸術に優しさが加わった独特の世界観に到達している。世界的歴史的普遍性を獲得していると換言していい。(ここ、近々加筆する。)

■最近、いやらしいコマーシャルが流れている。大和証券キャピタル何とかという企業のものだ。画面ではカリブ海の島々の民謡(サルサとかレゲエとか)のような音楽を貧しい身なりの民衆アーチストがソウルフルに歌ったり演奏している。アフリカの楽曲も入っているかも知れない。優れてよい。心地よい楽曲である。かつてハッピーエンドの細野晴臣さんが収集していた「地球の声」のようなすこぶる良い曲が画面から流れてくる。でも、なんで、証券会社のCMなの??開発途上の国の文化を使える立場にないんじゃあないか、あんたたち。金融企業のいままでの足跡をわきまえないいやらしいCMだなあ。何処の広告代理店がこういう嘘つきの企画を彼の証券会社に提案したのだろうか。こういう周辺に自分もいたことを恥じる。広告代理店の責任も大きい。こう いう下劣なことはもうよそうよ。
■《ブログご高覧感謝》
僕の人気・ページビュー多いタイトルと日付け、紹介しておきます。
以下は、毎日100人以上の”人気”ページです。ぜひ、ご高覧ください。
多いのは一日1400名閲覧もあります。

・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・     5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
      3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行 

2009年12月28日月曜日

家族の肖像

昨夜、中勘助の「銀の匙(さじ)」を読み始めたら、急に家族が愛おしくなり、その分寂しさが募った。僕には三つの家族が存在する。ルキノ・ビスコンティ監督の「家族の肖像」をなぞってこのタイトルにしたわけじゃあない。歴史の狭間で倒壊してゆく貴族の家族とは、違うからね。まず、僕にはベトナムに家族がある。仕事のパートナーでもあるVUONGと、娘のLINH。今年は、不況の荒波の中で家族として一緒に居られる時間が激減してしまった。今年は例年と違って、彼女の誕生日もクリスマスも、ぼくの8月の誕生日も一緒に家族としてお祝いをすることすらが出来なかった。例年より大分少なく90日ぐらいしか、ハノイに居られなかったのである。10月のLINHの誕生日だけは、幸い辛うじて一緒に家でお祝いができたが・・。近日もらったブオンからのグリーティングカードはとっても心がこもって、制作に時間もかかった物と思われるうれしい、かわいらしいカードであったわけだが、彼女の言葉には意図せずも「来年はたくさん、一緒に家族でいましょうね」と英語で認ためてあった。そうだね、来年はできるだけ一緒に居ようね。食事もLINHの学校のことも一緒に悩もうね。心優しく、この一年の困難を一生懸命に支えてくれたブオン、本当にありがとう。ブオンの肖像は時間をかけて描写したい。この母子は、僕の新しい大切な命であるからね。今日は「ごめんね」と言う範囲でしかここに書けない。

もう一つの家族は娘のはるひと一行だ、そして、彼と9月に結ばれた嫁さんの紘子さんだ。12月20日は、亡くなった妻晃子(てるこ)の命日。最期は2003年だから、まる6年経過した訳だ。自分の愛する妻が病死してしまう人生を僕が歩むことになるなんて、全く信じられない。が現実は、既に7年目に入っている。彼女と僕は32年生活を共にした。楽しみとか、価値観の共有とかあらゆる事を共にした32年であったように思う。彼女は発病して10年間病魔と闘い続けたが、56歳で天命に従った。その10年間、僕は何をしていたのだろうか。彼女の孤独とか、悲しみや不安に僕は応えてあげられなかった。どう悔やんでも遅いのだが。

晃子の肖像を何時か書かなければならない。ただ、彼女を書くことは、僕自身の内部を誠実に切開せざるを得ないだろう。とてつもない刻苦を身に受けつつ書き進めることになろう。今日は、何も書けない。何時書き始めるのかも、良く分からない。最近、やはり自分も老境なのだなあと感じる。はるひと一行への愛おしさに自然に浸ることが出来てきたもの。出来るだけ会う機会を作って、普通のオヤジとしての会話をすこしずつ、していかねば。子供たちには晃子の人生を伝えたいし、な。僕の義務だ。30日にこの3人(はるひ、かずゆき、ひろこ)と会った。家でぼくは、4人家族として酒を交わし、張り切って手料理を振る舞った(ここだけ31日加筆)。

もう一つの家族は仙台の父親94歳と、母親85歳と、彼らの世話をしてくれている弟とその家族の事である。以前に書いたが、大学七つに籍をおいていた学者肌の教員の父の子供として生を受けた僕。田舎の地主の気丈夫な美しい娘であった母から生をもらった僕。
僕は、この三家族の中で生きている。と言うより、地球上の生のよりどころの在処をここでしか見つけられないのだろうなあ。そういう運命の中で、僕は61歳の自分をどのように見詰めていけば良いのだろうか。どのように思考していけばいいのやらも良く分からない。何時か、何時か、そして何故か、この地上の悲しみに耐えきれず、号泣したい想いが強いことに気がついた。誰に何を叫びたいのか。号泣したい欲求が、肺腑の下あたりに堆積しているような感じ。不思議な感覚だ。この俺が屹立したまま涙を拭こうともせず大声で泣くのだろうか。

「銀の匙」については11月3日のこの欄に書いた。神戸の灘校の国語の1年間はこの「銀の匙」しかやらなかったらしい。あの灘校は、つまらぬ受験用ハウツー学習などせず、何十年もの間、ある教員の下これだけに集中して、国語と文学を体得していたという。その本質的な凄さに驚いて、やっと最近買い求め、読み始めたと言う訳なのだ。

2009年12月19日土曜日

理解を本気に求める

うう〜ん、鳩山さんの目が完全に宙を泳いでいる。自信なげな表情が丸出しとなっていて、気の毒なくらいだね。会見前にマイクの前で転けそうになったりさ。鳩山さんにリーダーシップがないことは、大分前から関係者は充分に知っているわけだから、問題は国家戦略局というか、管さんが活発に動いていないことにありそうだ。何故かね。国連では、CO225%削減をひっさげて登壇して目立ったし、良いデビューを飾ったことになったが、今回のコペンハーゲンのCOP15会議のように開発途上国がガンガン発言し、つわものの海外NGOが跋扈するなかで、どんなに「金だすよ〜」と叫んでも、誰も振り向いてくれない。この世界における日本のプレゼンスと政治力の無さの現実を直に肌で感じたと思う。だいたい、そのような闘いの場に着物着た女房つれていって、どうするんだ。まったく〜〜。

最近小沢さんが、いらついて思わず表面に出始めたが、事態が落ち着けば、裏に回るはずだ。彼は保守の革命家であって、つまり総理大臣は自分に無理と自覚もしていると思う。民主党結党の総費用20億円全額は鳩山さんちのママが提供したわけだから、鳩山さんはオーナーとしてもっとメリハリ付けて欲しいですね。それにしても、すぐに官僚に取り込まれて「省益」にきゅうきゅうし始めた元社会党の赤松とか、防衛の北澤とか、総務の原口とか最低だ。彼らの政治センスは本当に情けない。しかし、期待できそうな副大臣が結構いるね。大塚さんとか、古川さんとかね。なかなか溌剌としています。年末を迎え、気持ちは明るくしていこうぜ。

六月十三日のこの欄に書いたことだが、今時の冴えてる学者は神戸女学院大学の内田樹(たつる)さんと元早稲田の生物の池田清彦さん、東大の上野千鶴子さんぐらいとね。で、いま、内田さんの新しい「日本辺境論」を読んでいる。いままでなかった最深の(最深だよ)知識をもたらしてくれる。彼は丸山真男さんや川島武宜さんの受け売りですとか、埋もれていてもったいないので掘り起こしているだけと謙虚だが、日本に横行する現実主義という仮面や、戦争責任でさえ誰もそれを負うことがない日本の国家の姿、また世界基準に準拠しないと不安になる日本人の位相を余すところ無く暴く。「和を以て貴しと為す」という”思想や戦争をも超越する感覚”。我がニッポンという辺境の思想と文化の成立を語り部の如く平易に解き明かしてくれる。そして、その辺境者の文化を安易に否定せず、より深く論を進めてゆく。本年最高の収穫だといえそうだ。良い本です。先週あたり、ベストセラー上位ランクに顔を出していた。
ページに線を引いたり明快白眉のページの上部を折って、後でまた読もうと意識するのはホントに何年振りだろう。

同時に元朝日ジャーナル編集長の村上義雄さんの「朝日ジャーナル・現代を撃つ」も読んでいる。「朝ジャ」の歴史的意義などだけでなく、小田実さんや、久野収さん、加藤周一さんらの当時の記事や対談もあり楽しい。今となってはとんちんかんに見える当時の論旨もあって、全体が無理せず自然体に仕上がっている。でも去年逝去された筑紫哲也(かつてやはり「朝ジャ」の編集長であった)さんのことが何故か触れられていないようだ。さらに、昨日から四方田犬彦さんの「日本映画100年」も並行して読み始めた。

さてさて、ドストエフスキーの「罪と罰 第三巻」がちょっと進みが悪い。最終巻に来ているのでスパートかけようかな。実はまだ20ページそこそこなんだ。そういえば僕が中学校の時、文学好きなクラスの女の子が既に「罪と罰」を読んでいたことを思い出した。ぼくの高校は男子校であったので、その彼女は間違いなく中学三年の同級生だと思う。多分、江川卓さんの翻訳本かと思ったが不安で調べたら、江川さんのは1965年翻訳だから違うようだ。1965年は僕ら高校だったからね。おそらく戦前からの大御所米川正夫訳なのだろう。その文学好きなクラスの女性は中学三年の14歳で「罪と罰」読んだ後、60歳過ぎたまた最近読んだかしらん。そんな本好きな女の子は結構周りにいましたよね、昔。僕らはまじめな女子と違ってもっぱら「マガジン」」とか「サンデー」。ラジオは「小島正雄の9500万人のポピュラーリクエスト」とか。なつかしいな。洋画は叔父さんが、東一番町に映画館を持っていたので、かなり見た。それについてはまた、次回に。
 
最近のCM。資生堂のヘアスプレー「UNO」かな。なつかしきリバプールの風情の4人が「シュシュッ」とか「ススス」とかしか言わない。たぶん瑛太とか小栗何とかが出ていると思う。みんな似ているんで、見分け付かず。4人ともハンサムで、ほっそり。胸毛もなさそうで、汗もかきそうにないさわやか草食男子。ビートルズの初期のスーツっぽい物着ててかなり格好いい。ビートルズは襟無しだったがね。実に快適シュシュシュッの30秒。ところでリズミカルなデブの踊りは、けっこう小気味良い。シュシュシュの4人と正反対で、迫力あっておもしろい。「凄麺」とかいう即席麺のCM。かなりいける。お相撲さんといっても三段目とかぐらいの髷が小さい連中が、ガンガン踊ってラーメン食うだけだが、なんか可笑しい。微笑ましい。パパイヤ鈴木的なメリハリが効いたダンスだ。見てて気持ち良し。ジョン・ランディス監督の「ブルースブラザース」をちょっと彷彿とさせる。

■先日書いた「ニッポン海外広報考」を整理し、字数を半分以下にして改竄(ざん)した。大分、わかりやすくした。

タイトル『海外諸国の庶民に理解と好意を本気になって求めたい』

私はこの十数年ほど、ベトナムのハノイ市と日本をほとんど毎月往復している。ハノイにも家があるのでテレビ番組を見ることも多い。彼の国のテレビ番組で特徴的なことは、いくつかのチャンネルで「ディズニーチャンネル」「韓流ドラマ」「中国歴史ドラマ」を朝から晩まで放映している事だ。チャンネルを回してあちこち見ているが、それらは洪水のようだ、と言っておこう。

私は団塊の世代である。私たち少年少女の当時の世界の中心は「ぼくら」「なかよし」「冒険王」「少年サンデー」「少年マガジン」などのマンガ誌と数々のアメリカ製テレビドラマであった。
『うちのママは世界一』『パパ大好き』『ビーバーちゃん』『名犬ラッシー』思い起こすだけでも楽しい。『ローハイド』『名犬リンチンチン』『ルート66』『ララミー牧場』なんて格好良いのだろう。毎晩僕らをわくわくさせたハリウッド製プログラムの数々。僕たちはこれらのアメリカ映画を見てアメリカ市民の生活に憧れ、勇気と正義を学んで大きくなった。大人の背丈もある冷蔵庫、大きな牛乳瓶、そして各家庭には必ず大きな車が在ることを知ったのであった。男女の逢い引きが、気軽なデート (Date)と言う言葉に置き換わったのも僕らが中学校の頃であったと思う。

聞くところによると1950年代当時に日本のテレビの各キー局では、それらのハリウッドテレビドラマをほとんど無償か超廉価で仕入れて放映していたようだ。言うまでもない。アメリカの組織的文化戦略の一環であったからだ。ごはん食でなくパン食の積極普及とか大家族から核家族への社会的再編作業などと、これらハリウッド製テレビ番組の広範な放映は文化・広報戦略として一体であったのだ。僕らは、当時無自覚だったけれど。

アメリカはおそらく、戦後の日本での広報戦略スタイルをこの60年間、世界中で継続しているだろうと思う。結果、英語の普及は地球上で圧倒的だ。韓国も、中国も同様に広報に力を入れ始めている。韓国では最近コンテンツとその販売の世界戦略を統括する省庁が発足した。日本への「韓流モノ」の攻勢もその一環なのだろう。ベトナムで日本映画の放映があまりにも少ないので現地テレビ関係者に聞いたら、日本の番組は高額すぎると言う。いま、ベトナムの或る局ではエミー賞受賞のドラマ『アグリーベティー(NHKで深夜放送している)』の「番組フォーマット」(番組のコンテンツとノウハウの売買)を購入し、ベトナム版連続ドラマを制作し、ゴールデンタイムに放映までしているのだ。私は今ベトナム以外の事情には不案内だが、国民の大半が日本を敬愛しているベトナムに於いてさえ、テレビなどを通じた広範な国民への広報活動は完全に出遅れている。

「えっ、内需の拡大?」でも、それが限界に来ていることは誰でも知っている。日本は、社会も文化も成熟し、情報も物品も溢れに溢れている。「これ以上どうしても買いたいという物はないよ。」と大半の“大人な国民”は既に解っている。むしろ、技術移転も含む裾野産業構築を基礎にした各国国民との「共生的な外需」の方向に行かざるを得ないと、これも多くの人は既に予感している。そう言う意味でタイ、カンボジア、ラオス、ベトナムなどのメコン流域地域などは、これからの正にパートナーになっていくだろう。
我々がそれらの国々に提供できるものは多い。「環境分野などを中軸とした技術とサイエンス」や「観光」、「サービス、サブカルチャー(マンガやアニメなど)、食と農などのコンテンツ分野」などは、成長分野であると同時に外需向けに相応しい。しかも、新政権が東アジア共同体構想を本気に押し進めるなら、日本語の流布拡大と日本社会をアジアの皆さんに身近に感じていただく広報活動を貿易、投資、企業進出に先駆けて本気で始めるべきだ。広報はそれらの基礎を作る先行のファンダメンタルだからだ。

はっきり言って、日本の良質な番組を日本政府は日本の各テレビ局や映画会社から計画的に買い上げ、アジア各国の主要メディアに無償で大量に供給したらいい。各国の国民が現地語で視聴できる独自の「チャンネルニッポン」を各国に設置することだって不可能ではない(NHK国際放送は各国在住の主に日本人向けの日本語放送のみ)。現地新聞の活用とか、現地語のインターネットWEB展開など経費「縮減」の施策はいくらでもある。

世界語になった日本語は多い。中でも「もったいない」が世界語になったことは、環境を大切にする新しい時代の嚆矢だろう。日本古来のリサイクルシステムや節約の心から最先端技術まで、私たちが東の端から世界に提案し広報するものは少なくない。 

2009年12月10日木曜日

”ニッポンの海外広報”考

僕は1948年 (昭和23年)生まれである。いわゆる団塊の世代の真ん中に位置し、中学一年生の僕のクラス名は1年18組であり、確か1年生は21組までクラスがあった 。体育館はベニヤ板で仕切られ、教室がまったくの不足状態であった。その当時、僕ら小学生や中学生、つまり少年少女の世界の中心はマンガとテレ ビであった。
「ぼくら」「少年」「なか よし」「冒険王」などの月刊雑誌は誰もが読んでいた。その中の大ヒットは「少年ケニヤ」と「月光仮面」だろう。追って「少年サンデー」「少年マガジン」などの週刊雑誌が主流にな り、「おそまつくん」や「スポーツマン金太郎」などに出会ったものだ。そこでは先代の朝潮や、長嶋さんら僕らのヒーローが表紙を飾っていた。僕たちはこのマンガを毎週毎月むさ ぼり読んで、クラスの友人たちに新しいストーリーの展開や情報を教室や廊下で語り合い伝え合った。

こ れらのマンガと同様に、いやそれ以上に僕らの心をワクワクさせ、話題を提供していたのは、家庭向けや少年少女向けのアメリカの30分ドラマであったろう。 『うちのママは世界一』『シャープさんフラットさん』『パパ大好き』『ビーバーちゃん』「ミッチーミラーショー」『名犬ラッシー』思い起こすだけでも楽し い。『ローハイド』『名犬リンチンチン』『サーフサイド6』『ルート66』『ララミー牧場』なんて格好良いんだ、毎日毎晩僕らをぞくぞくさせたハリウッド 製アメリカ映画のプログラムの数々。

僕 たちは、毎日これらのアメリカ映画を見て育った。毎日少年たちは胸を躍らせながら、アメリカの生活に憧れ、勇気と正義を学んで大きくなった。大人の背丈も ある冷蔵庫、大きな牛乳瓶、そして、勝手口には網戸があり、各家庭には、必ず大きな車が在ることを知ったのであった。男女の逢い引きが、気軽なデート(date)と言う言葉に置き換わったのも僕らが中学校の頃であったと思う。つまり、”中流家庭の幸せ”というもののアウトラインを僕らはアメリカから教わったのだ。

さ て、一年前からの世界同時金融不況が、今となってなにやら日本だけが取り残され、原因の本家アメリカでさえ、現在持ち直しつつあるという現在、内需拡大が 必定な条件だとマスコミや政府は喧伝している。国民の多くは「この様な成熟した社会になって別に買いたい物もない」とおそらく10年前から、そのような気 分となっている。内需の本格的な掘り起こしは、各家庭での太陽光発電とか、電気自動車とか、skype携帯電話とかが、社会的トレンドになる時までまたね ばならないだろう。まあ、10年後か。それまで、社会的なパワーとなる内需が期待できないとすると、力点を置くのは言うまでも無くいわゆる「外で稼ぐ」外 需だ。

我 が日本が世界に向けて売り出せるのは、沢山あるが「環境分野などを中軸とした技術全般」と「サイエンス」と「観光」「サービス、サブカルチャー(マンガや アニメなど)、メディア、食などを中核としたコンテンツ分野」などは、かなり行けると、国民の多くが理解している。しかも、どれもこれからのアジアや世界 にとって必要なことだし、世界からの希求は強いモノばかりだ。つまり、これからの時代の「売りの商品」を我が日本はかなり持っていると言うことだ。

そこで、ここでは、それらの産業を世界に発信する基本となる「ザ・ニッポン」のPR(パブリック・リレーションもしくはマーケティング・コミュニケーション)について、力説したくて、回りくどいが、冒頭の戦後のテレビについて書いた。

私 は、ベトナムのハノイ市に16年間通い詰めの生活を送っている。日本とハノイに家があり、ほぼ毎月往復している。日本語が堪能なベトナム人大卒エンジニア を育成する学校をハノイで運営しているからだ。ベトナムの家庭には、何処の家にもテレビがある。パソコンや電子レンジもオートバイ同様に都市部の家庭には 大抵ある。そのテレビ番組で特徴的なことは、いくつかのチャンネルで「韓流ドラマ」「中国歴史ドラマ」「ディズニーチャンネル」が朝から晩まで放映されて いる事だ。聞くと、たまに日本の映画の放映はあるようだが・・。

「よ うこそ、ニッポン」キャンペーンもまあ良いだろう。観光庁の発足も悪くはないが、精彩ある方針には見えないし、大局的戦略性が見えない。少なくとも海外での広報活動の軸はどうも見えない。鳩山新政権は、その あたり、どうするのだろうか。国家戦略局あたりの仕事だと思うが、次代の成長戦略や、いわゆるグリーンニューディール的な産業の育成やそれに伴う新しい社 会システムの構築構想がまだまだ、提案されていない現状では、広報戦略が出てこないのは、順番からして仕方ない面があるけれども、せっかく日本びいきの国であるベトナムでさえ、全くの無策・無防備状態に見えるのが現状なのだ。ベトナムのかつての宗主国であるフランスは流石で、ハノイ の言わば銀座の様な繁華街に大きくておしゃれな文化センターを運営しており、何時でも誰でも入れ、フランスの名画も無料で見られる。しっかりと「おフランスの文化の高さ」を恒常的に市民に提示している。
いわゆる教科書問題も靖国問題も起こることはなく、日本が大好きだと国民の多くが語るベトナム。そのベトナムへさえ、文化の発信が不足していると言わざるをえない。大分前だがPRを本業としていた人間として、かなりの焦燥を覚える。国家の動向に関心がやや薄い僕でさえも、海外の各国で海外広報がどうなっているのか不安になる。

上 記に日本の戦後、僕らが親しんだハリウッド製テレビ番組を挙げた。聞くところによると当時日本のテレビのキー局では、それらのプログラムをほとんど無料か超廉価で仕入れて放映していたようだ。言うまでもない。アメリカの組織的文化戦略の一環であったのだ。ご飯食でなくパン食の普及、大家族から核家族への再 編と、ハリウッド製テレビ番組はこれらと一体となった文化・広報戦略であった。一言で言えば戦勝国側からの「新しい価値観の刷り込み」であった訳だ。それは、敗戦国として僕らは強いられたことであったわけ だ。現在、我がベトナムやまた今後更にお付き合いが必要なアジア全体では、どのような海外広報、もしくは文化戦略を日本は構想しているのだろうか。東アジア共同体構想があるのなら、まさに具体化を急ぎ鮮明にしてほしい。

も う一回言う。ベトナムではかつての敵国アメリカが、子供たちが大好きなディズニーチャンネルを朝から晩まで放映している。たぶん、アメリカは、世界中で戦略的に実施しているだろうと思う。韓国も、中国も同様に広報に力を入れ始めている。韓国では最近コンテンツの世界戦略とその販売戦略を統括する省庁が発足したようだ。日本への「韓流モノ」の攻勢もその一環なのだろう。ベトナムのテレ ビ関係者に聞いたら、日本の番組は高すぎて買えないと言っていた。いま、ベトナムの或る局ではアメリカのテレビの「フォーマット販売」(番組のコンテンツ とノウハウの販売)を買って、ベトナムで「ベトナム版」番組を作っている。NHKで深夜放映している「アグリーベティー」のベトナム版がゴールデンタイムに放映されている時代なのだ。 韓国のホームドラマも中国の歴史物も、大半は正直言ってどう見ても安手の作品で、市民は良質のドキュメンタリーやドラマを希求している声も在るようだし、韓国のドラマを日本製と勘違いしている視聴者も少なくないと聞くと、ちょっと参ってしまう。 はっきり言って、日本の良質な番組を日本政府はODA予算で買い上げ、アジア各国の主要メディアに無料で配布したらいい。話題の官房機密費を使用してもいいんだぜ。それぐらいの戦略的な施策は、いま、海外各国で、日 本の良好なイメージを構成し醸造するためには必須と思うが、どうだろうか。日本語の普及と日本国(文化)の広報は、今後の日本の立ち位置を明確にするためにも急務だろう。

僕が、ベトナムに行き始める直前の1990年代始め、ベトナムを含むアジア各国ではNHKの 「おしん」がテレビ連続放映された。その放映となった経緯はつまびらかではない。しかし、大変な日本ブームとおしんブームがベトナムでも沸き起こった。テ レビから伝わるおしんの前向きな人生をベトナムの人々は自分たちの生活に重ねたのだろう。そこで共感と共鳴が起き国中にアイデンティファイしたのだ。広報はここが何より肝心だ。そして今では「おしん」はベトナム語となった。ホンダがオート バイの一般用語となったのと同じ様に民衆の中におしんは、「女中さん」という意味の言葉として定着している。