VCIは長年ハノイで学校(現地ではセンターという)を運営してきたけれど、僕の個人史の中では、つまり40年のビジネス激闘史の中ではたったの7年に過ぎず、やっぱりほぼ30年間携わってきたマーケティングコミュニケーション分野の体験は自分でいうのもなんですが、半端じゃあないよ。でも、そのMarCom分野も範囲が割に広く、PR中心の時代、イベントやパンフ、本などの印刷物がらみ中心の時代、また、大手広告代理店の企画のほぼ代行に近い「物書き」風プランナー時代、バブリーな建築プロデュース時代、また、国連ビルなど使用した海外企画やフィランソロピー&CSR展開(企業市民)時代、さらには1993年頃からのベトナムの建築含むマーケ・プロデューサー時代、早稲田のインキュベーションに絡む仕事の時代、など、幾つかの混在した時代も多いけれど、多様に営業し、クリエイターとして色々対応してきた。
で、僕も今月で64歳だし、VCIの学校以外のことも無性にやりたくなってきたので、先ほど書いたような経験値の高い仕事の中から、出版コーディネート、と自前の著作に全力を挙げることにした。もちろん、NGOCの協力もあるので、「優秀学生の育成事業」は継続しますよ。
本日、いつの間にか9月3日なのである。いやはや。上記の中途半端な短文を書いたのがどうも8月8日らしいので、一ヶ月近く、例によって書きたくない、読みたくない症候群が襲ってきていたのである。老人になると頑張り(ふんばり)がでない、集中できないとは、よく言われているので、百も承知である在るけれど、いざ怒濤のように倦怠感が襲ってくると、寝るしかないのである。最近のハノイの生活でいうと、18時頃に皆さんが帰り、僕は自分で夕飯を作って、ビールとか、焼酎とか、ウオッカをちょっとたしなんで、夜9時頃までにメール整理して送付したり、英語による「NHK国際放送や「ファッションTV」、「ベトナム公安チャンネル」みたりして、ベッドにごろ寝して、零時前後に水飲んだり小便したり、NGOCやスタッフに指示のメール書いたりして、また寝て朝4時頃から、本格的に仕事始め、5時半頃にご飯と味噌汁つくって、VNのニュースや、往年の映画の一部を映画チャンネルでみたりのお得意のザッピングして朝食を終え、屁でも一発して、風呂に入って、7時半ぐらいから、仕事の戦闘態勢にはいる毎日だ。
なんだか、中途で中断していたので、ここで書く今の気持ちとすでにずれが生じていて、テーマさえ、ぼけぼけさ。ぼけぼけなら、いい機会さ。ここで終止にしよう。だってさ、今ラオスに始めて行こうと思い立ち、NGOCにチケット買ってもらって、ノイバイ空港の待合にいるんだ。なぜか、待合のBGMでカスカイズの「悲しき雨音」がながれてきた。「リッスントーザミズムオブザ・・」とね。さあ、そろそろかな。
2013年ごろから、断続的になっていた。facebookに関心が移ったこともある。それにしても、長文を書いていた数年前が懐かし・・。で、また、書かねばというエネルギーふつふつ。 2019年夏VCI創立15周年の催事あった。ベトナムに仕事で来始めて多分27年目、随分と遠い町に長くいたもんだ。ところで、日本に対するうんざり感も頂点を極めつつあるが、山本太郎の「れいわ新選組」の登場で、久しぶりに、あえて言えば「光明」が、「光明と言わずも、面白感」が出てきたのが、平成の最後の年、2019年であった。本年2020は、去年10月の消費税増税で、デフレ不況が鮮明となった故、全力でアイディアと身の軽さを投入していく、大変だが実験的な年になろう・・。
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2012年8月8日水曜日
2012年7月16日月曜日
中沢新一と内田樹というオバサン二人の漫才(完)
最近、読んだ書籍についてほとんど書かなくなったね。書きたくなくなって1年たっただろうね。というか、実は読みたくなくなって1年経つわけよ。やっぱあー去年の3月11日以降、どういう訳か、というより、理由など知ろうとも思わなかったけれども、その日とどうも符牒していて、ちょうどそのときは「大佛次郎 天皇の世紀」第五巻を読んでいて、どうも、進まなくなり、現在1年経ってもやっと六巻の前半だし、ほかの本もぺらぺら読みしかできなくなった感がある。それでも、渡辺京二の名著「逝きし世の面影」はだいぶ読んだが、読了できずに、というよりもペラ読みどころか、雑誌と新聞すら、読もうとしない体質に変化までしたかのように、読まなくなった。
去年、死ぬまでに何冊読めるかの僕の計算で750冊のみと(2011年1月ブログ)出て慄然としたことがあったけれども、今や慄然どころか、まあいいじゃん体質になったようだ。まあ、進歩だね。進歩って言葉も腐ってだいぶ経つから、言いたくないなあ。ちょっとだけ「頭が丈夫になった」と言っておこうか。この頭が丈夫な「風な」二人の対談本が中沢新一、内田樹の「日本の文脈」(角川書店)で、どっちかが養老先生に教えてもらったとかで、頭の丈夫な人間について語っていたので、それからの引用。だから、これもたいして意味があるわけではありません。
僕の性格だからはじめにいってしまうので、演出的ではなく、展開を危うくして仕舞うわけであるが、どうしても性格なので我慢できずに言いますが、おもしろい本だし、僕にとっては学べることも多い対談本であった。が恐ろしいほどのペダンチックな機関銃乱射で、辟易するのが普通だと思う。おもしろい本だと曖昧に書いたのはペダンチックだけではなく、本当の意味での前衛としてタイトロープの上をひやひやさせながら、かつ怪しげに渡っていこうとするエバンジェリストの仲良し(この本によると会いだしたのは最近らしい)ふたりの漫談なので、受け狙いでその分「反常識」を振りまくリップサービスも多いからだが、思想に誠実に取り組んでいるその筋の分野の特に女性からは、批判や非難が出そうな口のなめらかさがあって、酔ってはなくとも「ハイ」の感じで、何回かの対談をしているからなんです。
「贈与が経済システムを変える」「日本人は国民的規模でトリックスター」「キリスト教のお節介」を肯定的にな言葉で使う。「ユダヤ教の始原の遅れ」「日本人の得意な換骨奪胎」「中空構造の日本文化はヨーロッパ人にはスノッブに見える」「村上隆のスーパーフラット」「里山は、日本文化の達成、日本文化が生き延びた大きな要因」「万世一系といわれるくらい、一つの系統が続いている王権はない」「清水次郎長の明治維新後の社会貢献」「昭和残侠伝 人斬り唐獅子」「仁義なき戦い 代理戦争」「映画の中で菅原文太が安全保障って実際に言うんです」「日本人は自然にオーバーアチーブできる」「オバサンがいなくなったのが日本の問題」「正しいおじさんは女性ジェンダー化するんです」「レーニンは革命的オバサンであった」
大事なことは、日本は農業大国を目指すべきである、これ以上大事なことはない、と僕はいま、強く思っている。もちろん言うまでもなく工業を放棄することでない。重要なことは開発技術、生産技術などを惜しげもなく、アフリカやアジアの最貧国に惜しげもなく、この二人の言葉を使えば贈与することである。我が東方の、最東方の大きな島日本国は奇跡とも言っていいような文明と文化を人類の偉大なる東方へのジャーニーとともに、そしてそれ以降も地球の自転に逆らうように伝播し続け、ユーラシア、インド、中国、シルクロード、朝鮮半島から、それは誰おもが認める文明の遷移となった。銅の作り方、鉄の製造、高度な武器、稲作、漢字、仏教、そしてその白眉は渡ってきた大陸人による弥生文化の開幕だろう。そういう頂き物を僕らは放っておくのか。
日本は40年後に8000万人台の、大きくはない国になるだろう。明治元年は3500万人だし、日本は6000万人で無謀な太平洋戦争に突入した。さてその頃までにどのように政治が右往左往するか全く不明だけれど、実はタイのお馴染みのクーデターのように政治領域は無視され、範囲を縮め形骸化していく可能性もある。電力やエネルギーの産業構造は大きく様変わりするだろう。2015年ぐらいには、読売・正力グループも減原発は言わざるを言わざるを得ない状況に追い詰められるし、続いて経団連も私的な家族たち、特に聡明な奥様たちに論破されつつ、さらには社員幹部に大胆な提案をぶつけられ、「UAEなみの第二のマスダール」やりませんかのような「大津波」を受け、同意せざるを得なくなるだろう。
ベトナムハノイには、チャンネルが70chほどある。このブログを書きながら、先ほど映画チャンネル「HBO」で「007は二度死ぬ」をやっていて、9割方見てしまった。理由は丹波哲郎さんが出ていたからだ。完璧な英語でショーンコネリーと堂々競演していた。浜美枝のボンドガールも当時の大学生になったばかりの田舎者の僕らには大いに話題であった。でも、なんと言っても丹波さんとは、「キーハンター」で、1970年から、1972年ぐらいまで東映の大泉撮影所(正確には製作所)でご一緒させていただいた。僕は早稲田を中退して照明部から助監督に成り立ての時代。本当の大人の魅力とはどういうことかを、あるいは「大人 たいじん」の風情・風格とは何かを僕に直に学ばせてくれた人であったのさ。
もちろん、当時大スターであった丹波さんと親しかった訳じゃあない。「ぺーぺー」の助監督がスターに話すことはせいぜい「丹波さん、そろそろ、出番です」と待機していたカフェーに僕が走っていって、お声をかけるくらいさ。すると元気な艶のある声で「いや〜そうか、よし。シーンはどこからだ」と返ってくる。21歳の僕なんかカチンコ持ちながら彼のそばに立っただけでニコニコさ。丹波さんの悠然は当時出色であった。1時間や2時間の遅刻はいつもだし、台詞も覚えてこない。遅れながらも「諸君、ボンジョルノ〜。仕事はすすんでいるかな」などとスタジオにはいってくるだけで、30名のスタッフの丹波さんへの遅刻の不満など一気に吹き飛んだものさ。すぐに、笑いの渦が丹波さんを中心にして始まるんだ。
そんなことを書いていたら、久しぶりに下半身に否、否全身に文字渇望の渦巻きが沸き上がって来たようで、昨日久しぶりに大型書店に行った。「J・L・ゴダールの映画史(全)」(筑摩書房学芸文庫)、アンリ・ルフェーベルの「パリ・コミューン(上・下)」(岩波文庫)、ジョセフ・キャンベル「神話の力」(早川書房)、H・G・ウエルズの「世界文化小史」(講談社学術文庫)を買った。一年ぶりに読みたいもの、ばばっと5分で買ったので、爽快感あったね。空腹感強かったからね。
ジョセフ・キャンベルのは、80年代に確かNHKの教育テレビでこの本の元になった対談があり、見たはずだ。たぶん数回にシリーズ化されていて、かなりの衝撃を受けながらじっくり聞いた記憶があり、それまでほとんどブランキやソレル、クラウゼビッツあたりにしか関心を持てないでいた、僕の狭量な劇的フィールドに天使・女神から、老子・荘子、ブッダらの主演級人物を上手(かみて)や下手、さらには天上から、登場せしめた対談であった。僕に視聴を誘い僕がビール片手に(確か17時ぐらいの放映であったような)ドッかとテレビの前に座らせたのはいつものように母のような妻であった。「面白いわよ、見たら。」とね。時代のわずかな胎動の響きを僕に教えてくれたのはいつも晃子だ。ああ、いつも奴さ。
で、早めに終えたいのでまあ、おばさんお二人のこの「日本の文脈」の評価をしておく。この本は僕は良書だと言っておくが、筑摩が網野善彦「日本の歴史を読み直す 全一巻」のキャッチとしてあちこちに流布させている「今、読んでいる本をやめても読んでほしい日本人必読の書です」ほど、力んではいいませんが、純情な「学徒」(居るのかな?)やえげつない論争などを経ていない柔な御仁はまあ、買って損する本、というより、「この二人への信頼が紛れもなく減退していく」と想像できる本だろうね。僕なんかのように矛盾したボロ盾もって、錆矛ふりまわしてきた中年の輩には結構おもしろく、アイディア満載の書に思えるだろう。対談本「仏の発見」(平凡社刊)の梅原猛さんと五木さんの対談に比べると刺激物が細々(こまごま)して、仕上がりは悪い(当ブログ 2011年7月)。
丹波哲郎さんを登場させたのは男オバサンをいきなり標榜始めたお二人の「オバサン」の使い方が余りにもつまんなくて、他者を魅了する人物の魅力のことを身近な経験で言っておきたかったからだ。オバサンは、特に男オバサンは、そういった人間身の色艶をほとんど消し去った存在だと僕には捉えるしかないので、超有名なお二人が身も蓋もないことをいい加減に(そう思えた)思いつきでいいはじめたので、大人物の後光指す魅力について、触れておきたかったのです。(強引に完)
・・・おいおい、いつの間にか8月だぜ。スタッフNGOCほかがいま、日本で仕事中で、過剰に忙し・・・。
去年、死ぬまでに何冊読めるかの僕の計算で750冊のみと(2011年1月ブログ)出て慄然としたことがあったけれども、今や慄然どころか、まあいいじゃん体質になったようだ。まあ、進歩だね。進歩って言葉も腐ってだいぶ経つから、言いたくないなあ。ちょっとだけ「頭が丈夫になった」と言っておこうか。この頭が丈夫な「風な」二人の対談本が中沢新一、内田樹の「日本の文脈」(角川書店)で、どっちかが養老先生に教えてもらったとかで、頭の丈夫な人間について語っていたので、それからの引用。だから、これもたいして意味があるわけではありません。
僕の性格だからはじめにいってしまうので、演出的ではなく、展開を危うくして仕舞うわけであるが、どうしても性格なので我慢できずに言いますが、おもしろい本だし、僕にとっては学べることも多い対談本であった。が恐ろしいほどのペダンチックな機関銃乱射で、辟易するのが普通だと思う。おもしろい本だと曖昧に書いたのはペダンチックだけではなく、本当の意味での前衛としてタイトロープの上をひやひやさせながら、かつ怪しげに渡っていこうとするエバンジェリストの仲良し(この本によると会いだしたのは最近らしい)ふたりの漫談なので、受け狙いでその分「反常識」を振りまくリップサービスも多いからだが、思想に誠実に取り組んでいるその筋の分野の特に女性からは、批判や非難が出そうな口のなめらかさがあって、酔ってはなくとも「ハイ」の感じで、何回かの対談をしているからなんです。
「贈与が経済システムを変える」「日本人は国民的規模でトリックスター」「キリスト教のお節介」を肯定的にな言葉で使う。「ユダヤ教の始原の遅れ」「日本人の得意な換骨奪胎」「中空構造の日本文化はヨーロッパ人にはスノッブに見える」「村上隆のスーパーフラット」「里山は、日本文化の達成、日本文化が生き延びた大きな要因」「万世一系といわれるくらい、一つの系統が続いている王権はない」「清水次郎長の明治維新後の社会貢献」「昭和残侠伝 人斬り唐獅子」「仁義なき戦い 代理戦争」「映画の中で菅原文太が安全保障って実際に言うんです」「日本人は自然にオーバーアチーブできる」「オバサンがいなくなったのが日本の問題」「正しいおじさんは女性ジェンダー化するんです」「レーニンは革命的オバサンであった」
大事なことは、日本は農業大国を目指すべきである、これ以上大事なことはない、と僕はいま、強く思っている。もちろん言うまでもなく工業を放棄することでない。重要なことは開発技術、生産技術などを惜しげもなく、アフリカやアジアの最貧国に惜しげもなく、この二人の言葉を使えば贈与することである。我が東方の、最東方の大きな島日本国は奇跡とも言っていいような文明と文化を人類の偉大なる東方へのジャーニーとともに、そしてそれ以降も地球の自転に逆らうように伝播し続け、ユーラシア、インド、中国、シルクロード、朝鮮半島から、それは誰おもが認める文明の遷移となった。銅の作り方、鉄の製造、高度な武器、稲作、漢字、仏教、そしてその白眉は渡ってきた大陸人による弥生文化の開幕だろう。そういう頂き物を僕らは放っておくのか。
日本は40年後に8000万人台の、大きくはない国になるだろう。明治元年は3500万人だし、日本は6000万人で無謀な太平洋戦争に突入した。さてその頃までにどのように政治が右往左往するか全く不明だけれど、実はタイのお馴染みのクーデターのように政治領域は無視され、範囲を縮め形骸化していく可能性もある。電力やエネルギーの産業構造は大きく様変わりするだろう。2015年ぐらいには、読売・正力グループも減原発は言わざるを言わざるを得ない状況に追い詰められるし、続いて経団連も私的な家族たち、特に聡明な奥様たちに論破されつつ、さらには社員幹部に大胆な提案をぶつけられ、「UAEなみの第二のマスダール」やりませんかのような「大津波」を受け、同意せざるを得なくなるだろう。
ベトナムハノイには、チャンネルが70chほどある。このブログを書きながら、先ほど映画チャンネル「HBO」で「007は二度死ぬ」をやっていて、9割方見てしまった。理由は丹波哲郎さんが出ていたからだ。完璧な英語でショーンコネリーと堂々競演していた。浜美枝のボンドガールも当時の大学生になったばかりの田舎者の僕らには大いに話題であった。でも、なんと言っても丹波さんとは、「キーハンター」で、1970年から、1972年ぐらいまで東映の大泉撮影所(正確には製作所)でご一緒させていただいた。僕は早稲田を中退して照明部から助監督に成り立ての時代。本当の大人の魅力とはどういうことかを、あるいは「大人 たいじん」の風情・風格とは何かを僕に直に学ばせてくれた人であったのさ。
もちろん、当時大スターであった丹波さんと親しかった訳じゃあない。「ぺーぺー」の助監督がスターに話すことはせいぜい「丹波さん、そろそろ、出番です」と待機していたカフェーに僕が走っていって、お声をかけるくらいさ。すると元気な艶のある声で「いや〜そうか、よし。シーンはどこからだ」と返ってくる。21歳の僕なんかカチンコ持ちながら彼のそばに立っただけでニコニコさ。丹波さんの悠然は当時出色であった。1時間や2時間の遅刻はいつもだし、台詞も覚えてこない。遅れながらも「諸君、ボンジョルノ〜。仕事はすすんでいるかな」などとスタジオにはいってくるだけで、30名のスタッフの丹波さんへの遅刻の不満など一気に吹き飛んだものさ。すぐに、笑いの渦が丹波さんを中心にして始まるんだ。
そんなことを書いていたら、久しぶりに下半身に否、否全身に文字渇望の渦巻きが沸き上がって来たようで、昨日久しぶりに大型書店に行った。「J・L・ゴダールの映画史(全)」(筑摩書房学芸文庫)、アンリ・ルフェーベルの「パリ・コミューン(上・下)」(岩波文庫)、ジョセフ・キャンベル「神話の力」(早川書房)、H・G・ウエルズの「世界文化小史」(講談社学術文庫)を買った。一年ぶりに読みたいもの、ばばっと5分で買ったので、爽快感あったね。空腹感強かったからね。
ジョセフ・キャンベルのは、80年代に確かNHKの教育テレビでこの本の元になった対談があり、見たはずだ。たぶん数回にシリーズ化されていて、かなりの衝撃を受けながらじっくり聞いた記憶があり、それまでほとんどブランキやソレル、クラウゼビッツあたりにしか関心を持てないでいた、僕の狭量な劇的フィールドに天使・女神から、老子・荘子、ブッダらの主演級人物を上手(かみて)や下手、さらには天上から、登場せしめた対談であった。僕に視聴を誘い僕がビール片手に(確か17時ぐらいの放映であったような)ドッかとテレビの前に座らせたのはいつものように母のような妻であった。「面白いわよ、見たら。」とね。時代のわずかな胎動の響きを僕に教えてくれたのはいつも晃子だ。ああ、いつも奴さ。
で、早めに終えたいのでまあ、おばさんお二人のこの「日本の文脈」の評価をしておく。この本は僕は良書だと言っておくが、筑摩が網野善彦「日本の歴史を読み直す 全一巻」のキャッチとしてあちこちに流布させている「今、読んでいる本をやめても読んでほしい日本人必読の書です」ほど、力んではいいませんが、純情な「学徒」(居るのかな?)やえげつない論争などを経ていない柔な御仁はまあ、買って損する本、というより、「この二人への信頼が紛れもなく減退していく」と想像できる本だろうね。僕なんかのように矛盾したボロ盾もって、錆矛ふりまわしてきた中年の輩には結構おもしろく、アイディア満載の書に思えるだろう。対談本「仏の発見」(平凡社刊)の梅原猛さんと五木さんの対談に比べると刺激物が細々(こまごま)して、仕上がりは悪い(当ブログ 2011年7月)。
丹波哲郎さんを登場させたのは男オバサンをいきなり標榜始めたお二人の「オバサン」の使い方が余りにもつまんなくて、他者を魅了する人物の魅力のことを身近な経験で言っておきたかったからだ。オバサンは、特に男オバサンは、そういった人間身の色艶をほとんど消し去った存在だと僕には捉えるしかないので、超有名なお二人が身も蓋もないことをいい加減に(そう思えた)思いつきでいいはじめたので、大人物の後光指す魅力について、触れておきたかったのです。(強引に完)
・・・おいおい、いつの間にか8月だぜ。スタッフNGOCほかがいま、日本で仕事中で、過剰に忙し・・・。
2012年7月13日金曜日
咲いた、ひまわりがベトナム・ブンタオで咲いている。
石巻の大川小学校のご遺族であるひまわりのグループの福田さんや狩野さんからいただいたひまわりと朝顔の種子。朝顔は当校のオフィスでもやっと咲いたけれど、ベトナムでは、学生含む友人知人20名ぐらいに小分けして、ひまわりをお願いしていたのですが、僕の種植えのアドバイスの失敗や、ベトナム特有の大雨で、種や苗が流されたり、そういえばネズミに食べられた種もあったようで、なかなか「朗報」がなかったのですが、友人のマリン財団のツーさんの友人で東京で4月にお会いし会食たファムクオックさんから、生育の日にち別の写真ときれいにさいたひまわりの写真が送られてきた。ファムクオックさんありがとう。本当に良い花を咲かせていただきました。彼は南のブンタオというリゾート地で活躍している会社の社長です。では、お写真を順を追って掲示しますね。
7月15日
種をお渡しして、二ヶ月ちょっとぐらいでしょうか。超スピードで、もう、つぼみですね。流石ベトナムのホーチミン市よりちょっと南のブンタオです。6月22日とあります。
6月30日お庭の一角で。
同日、つぼみに黄色い花弁が見え始めていますね。すごい、すごい。
堂々咲いています。7月2日です。やっとベトナムで、感無量です。ファムクオックさん、感謝です。本当にありがとうございます。ベトナムで最初に咲いた石巻大川小学校のひまわりとなりました。記念すべきひまわり写真です。
7月12日のお写真。お花も新旧入れ替えで次のつぼみが待機中の写真のようです。
下記は、ファムクオックさんからお写真と一緒に来た英文です。
Hi Mr. Masayuki;
I was very happy to see you in Japan, and thank you verry much.
The seeds of sunflower you gave me , now become the beautiful sunflowers, please see the pictures.
Good luck to you, and see you soon on Vungtau city Vietnam ;
Pham Quoc Suy. 7月13日
ありがとうございます。
大川小学校のご遺族の方々にこのお写真を見ていただくつもりです。阿部
7月15日
Dear Mr. Masayuki,
The story of Bereaved family has been told to all my friends and they feel very touched about this story. We really like Japanese culture about sharing with other people when they have to face with unlucky problems in their life. The sunflower has 7 flowers and lots of seeds and these seeds will be sent to all my friends in order to growth beautiful flowers and understand about Japanese culture.
Thank you and see you in Vung Tau city soon.
Best regards,
Suy Pham Quoc.
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2012年7月9日月曜日
こんなラジカルなファッション写真初めてだ。
こんな格好いい、戦闘的なファッションイメージは誰が作り出したのだろうか。朝日電子版によるとイタリアのドルチェ&ガッパーナというチームらしい。僕は知らない。モデルも素人らしい。黒い古くさいカバンをどうどうと引っさげ(こういう時に使いたいね)、前を凝視している。無造作にTシャツを大きめなパンツにガバッといれてキャットウオークを歩んで行くんだね、少年。最高だぜ。騙しのファッションなんか蹴散らして、強く歩め。大人の景況騒ぎなんかやり過ごして、道を行こう。
大川小学校の七夕 / ハノイのオフィスに朝顔が
大川小学校のご遺族のひまわりのお母さんぐるーぷ福田さんからいただいた学校門に6日に設置したときに撮った七夕飾りの写真です。昨日8日はご遺族と石巻教育委員会の話し合いが行われたと新聞にでていました。教育委員会はなぜ、亡くなった子供たちの気持ちや子供や家族を亡くした、それも兄弟姉妹を一度に亡くされたご遺族も多い遺族会に少しでも近づこうとしないのかわかりません。七夕飾りに託された皆さんのお気持ちが少しでも実現されますように。
さっき狩野さんから送られてきたまさに7月9日月曜朝の三角地帯のひまわりたちです。
スピーディにだいぶ生育していますね。
6月24日のお写真。苗の植え付けを皆さんでやっておられます。
これは朝顔。6月28日
以上のお写真はひまわりのグループ福田さん、狩野さんから送っていただいたものです。
【参考】以下は朝日新聞電子版の7月9日朝刊からです。
東日本大震災による津波で児童・教職員計84人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の大川小学校の惨事について、8日、市教委による遺族への5回目の説明会があった。遺族からは市教委のこれまでの説明の矛盾点が指摘され、「もっと真剣にやってもらわなくては」との声が上がった。
児童の遺族ら約40人が出席。5時間以上にわたって質疑応答が行われた。
震災当時、同小の校庭では児童が教師に山へ逃げるよう求めていたことが、助かった児童の証言で分かっている。これについて市教委は今年3月の説明会で「こちらの聞き取りでは把握していない」と回答した。
だが、昨年6月に行われた説明会の記録を調べた遺族が、その時は「『山さ逃げよう』という男子がいた」と市教委は説明していたと指摘。市教委側は根拠を明確に答えられず、子どもから山へ避難するよう進言はあったと認めた上で、改めて調査する考えを示した。遺族からは「真実が知りたい」との声が上がった。
同小にいて助かった男性教諭は現在休職中で、市教委は証言させることについては主治医の許可が出ないと説明。だが、行方不明の児童の母親は「責めるつもりはない。1年4カ月も子どもを捜している。何かの手がかりが聞きたい」と訴えた。
また、大川小の被災に関連する公文書の保存期間がものによってまちまちであるとの疑問が出され、市教委は今後はすべて「永年保存」にすると回答した。
説明会では遺族から市教委の責任を問う声が上がったが、説明会後の記者会見で境直彦教育長は、関係者の処分は行わない考えを示した。
同小6年だった次女を亡くした佐藤敏郎さん(48)は説明会の後、「『行ってらっしゃい』と言われた『命』が波にのまれていった。分からないことは最後まで分からないかも知れないが、真剣に向き合ってほしい。命の話をしたい」と語った。
■やっと、ハノイのオフィスの朝顔が開花した。
あんまり植物を愛でることがなかった僕ですが、年齢もねんれいになってきたこともあり、正直うれしい。ただ、ひまわりが、うまくいかずに、知人がいま、ベトナムの南部のリゾートのブンタオに植えてくれて、いま、開花しはじめたらしい。苗床で保護しながら一定の大きさまで生育させてからでないと、大雨もあるベトナムでは難しいね。方法を検討しないとね。ブンタオからは近日写真がきます。楽しみですね。今年は、ベトナム各地とはいかなかったけれど
大川小学校のお母様たちの思いは広がっています。
2012年7月8日日曜日
阿部ブログのアクセス多いもの
《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルを紹介致します。
ぜひ、ご高覧ください。多いのは一日1400名の閲覧もありました。
★印は、論文風長尺もの
★印は、論文風長尺もの
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ★ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・ 5月 ★カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年9月 水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年4月 リクルートの罪 / 金のTSUBAKIの女優たち
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 ★メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
・ 3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 ★復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・ 5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 ★消滅している東北弁
・ 6月 ★日本超えた韓国人気、急げチャンネル日本!!
・ 6月 ★日本超えた韓国人気、急げチャンネル日本!!
・2011年7月 ★なぎさホテルという哀愁
・ 7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 ★成田空港の不幸な出自と幸せ伝える人
・ 1月 お正月は竹内まりや「人生の扉」だね
・2012年3月 関西セイキ工業さんに今朝、到着
・ 3月 日刊工業新聞で当校の大きな記事2本掲載
・ 3月 ベトナムの床屋さんの良い感じ
・ 3月 ★ 文系のベトナム青年に進んでほしい「経済」以外の分野
・ 3月 なんだか家族に会いたくなった 写真集
・2012年4月 石巻・大川小学校のひまわりがベトナムで咲く!
・ 4月 VCIの概要と実績をまとめた
・ 4月 原宿の幼稚園でも大川小学校のひまわりが芽吹いた
・2012年5月 TBS「たけし・安住のニュースキャスター」にVCI登場
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行
2012年7月6日金曜日
会計士さんがハノイ当校に大勢みえた。
7月3日の午後、斉藤栄太郎先生が幹事の会計士さん中心の勉強会グループの14名の先生方が、当校に来られた。もちろん、ベトナムが初めての方だけではないようですが、皆さん、ベトナムさらにハノイについてご関心の高い方ばかりだから、僕の2時間の「セミナー」へのご質問も「会社のプロ」のみなさんですので、反応もストレートであったし、具体的でありました。
今までも税理士さん、会計士さんのグループツアー(通常1グループは15名平均かな)が当校の視察や交流で5団体ほどお見えになっています。今秋には30名の大型団体もお見えの予定です。ベトナムへの関心は、このような企業のプロの方達の深い関心から、産業社会に自然と伝播して行くものでしょう。そういう意味では、日本企業の「サービス・小売り、流通」系の本格進出と、製造業の「日本にいるだけでは、如何ともしがたい」という状況下での進出方針ですが、その活性に少なからずの影響を与えていくことでしょう。
先生方の「ベトナム課題」のお客様への提案に今後の動静が掛かっていますね。ハノイ貿易大の僕の教えた女子学生も3名参加、時間があまりなかったが、交流をしてもらった。先生方も熟知の名古屋の「名南」税理士法人国際部門に採用された学生を紹介した際、「オオー」とい一種のどよめきというか、祝福のお声が出た。ありがたいことです。その彼女は今月末に日本渡航です。
今までも税理士さん、会計士さんのグループツアー(通常1グループは15名平均かな)が当校の視察や交流で5団体ほどお見えになっています。今秋には30名の大型団体もお見えの予定です。ベトナムへの関心は、このような企業のプロの方達の深い関心から、産業社会に自然と伝播して行くものでしょう。そういう意味では、日本企業の「サービス・小売り、流通」系の本格進出と、製造業の「日本にいるだけでは、如何ともしがたい」という状況下での進出方針ですが、その活性に少なからずの影響を与えていくことでしょう。
先生方の「ベトナム課題」のお客様への提案に今後の動静が掛かっていますね。ハノイ貿易大の僕の教えた女子学生も3名参加、時間があまりなかったが、交流をしてもらった。先生方も熟知の名古屋の「名南」税理士法人国際部門に採用された学生を紹介した際、「オオー」とい一種のどよめきというか、祝福のお声が出た。ありがたいことです。その彼女は今月末に日本渡航です。
ラックとモモも窓越しに参加。
大川小学校のひまわり育った原宿幼稚園行った
ちょっと前になるけれど、経産省の渡辺さんの奥さんのご案内で、6月26日にマリオ・ボッタ作(僕の好みの建築家)のワタリウムで待ち合わせて、原宿幼稚園にお邪魔した。
建物の彩りも鮮やかで、地中海の高台にでもあるようなしつらえであった。僕は40年前にみたJ・L・ゴダール監督の「軽蔑」や「中国女」の色彩をふとおもった。おそらく、この建築の作家は地中海の高級集合住宅などをモデルにしたかイメージしたものと思えた。
そこの一角に、写真のように先生と児童によって丁寧にひまわりと朝顔がしっかり育っていた。本当にありがたいですね。僕は年長さんのクラスでお話しする機会をいただいたが、幼児というか児童というか、4〜6歳の子供たちとお話ししたなんて、何十年もないわけで、嬉しいけれど戸惑った。地震、津波、人がたくさん亡くなった、放射能も出た、大川小学校というちいさな小学校で80人近くの「君たちのお兄さん、お姉さんぐらいの小学生」が亡くなったんだよ、子供を一度に兄弟2人もなくしたお母さん、お父さんもおおぜいいるんだ、どんなお気持ちだろう、きみらも想像できるかい・・そんなことをどのようにお話ししたらいいんだろうか、本当に戸惑った。
でも、流石に原宿幼稚園の園長先生とご担任の先生はプロだね。そういう、むずかしいこと、考えてほしいことをしっかりと事前にお話しされていたようで、僕の慣れないスピーチでも、まあまあ伝わったようだし、想像力、理解力って、こどもにはかなわないなあ、と改めて思い知らされたね。「笑顔の子供に囲まれたまだ青いひまわりの図」の写真が欲しかったが、事情によって無理みたいで残念でしたがね。渡辺さん、園長先生、先生方、こどもたち、ありがとう。ひまわりをよろしくね。
建物の彩りも鮮やかで、地中海の高台にでもあるようなしつらえであった。僕は40年前にみたJ・L・ゴダール監督の「軽蔑」や「中国女」の色彩をふとおもった。おそらく、この建築の作家は地中海の高級集合住宅などをモデルにしたかイメージしたものと思えた。
そこの一角に、写真のように先生と児童によって丁寧にひまわりと朝顔がしっかり育っていた。本当にありがたいですね。僕は年長さんのクラスでお話しする機会をいただいたが、幼児というか児童というか、4〜6歳の子供たちとお話ししたなんて、何十年もないわけで、嬉しいけれど戸惑った。地震、津波、人がたくさん亡くなった、放射能も出た、大川小学校というちいさな小学校で80人近くの「君たちのお兄さん、お姉さんぐらいの小学生」が亡くなったんだよ、子供を一度に兄弟2人もなくしたお母さん、お父さんもおおぜいいるんだ、どんなお気持ちだろう、きみらも想像できるかい・・そんなことをどのようにお話ししたらいいんだろうか、本当に戸惑った。
でも、流石に原宿幼稚園の園長先生とご担任の先生はプロだね。そういう、むずかしいこと、考えてほしいことをしっかりと事前にお話しされていたようで、僕の慣れないスピーチでも、まあまあ伝わったようだし、想像力、理解力って、こどもにはかなわないなあ、と改めて思い知らされたね。「笑顔の子供に囲まれたまだ青いひまわりの図」の写真が欲しかったが、事情によって無理みたいで残念でしたがね。渡辺さん、園長先生、先生方、こどもたち、ありがとう。ひまわりをよろしくね。
《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルを紹介致します。
ぜひ、ご高覧ください。多いのは一日1400名の閲覧もありました。
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・ 5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年9月 水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年4月 リクルートの罪 / 金のTSUBAKIの女優たち
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 ★メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
・ 3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 ★復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・ 5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 ★消滅している東北弁
・2011年7月 ★なぎさホテルという哀愁
・ 7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港の不幸な出自と幸せ伝える人
・ 1月 お正月は竹内まりや「人生の扉」だね
・2012年3月 関西セイキ工業さんに今朝、到着
・ 3月 日刊工業新聞で当校の大きな記事2本掲載
・ 3月 ベトナムの床屋さんの良い感じ
・ 3月 ★ 文系のベトナム青年に進んでほしい「経済」以外の分野
・ 3月 なんだか家族に会いたくなった 写真集
・2012年4月 石巻・大川小学校のひまわりがベトナムで咲く!
・ 4月 VCIの概要と実績をまとめた
・ 4月 原宿の幼稚園でも大川小学校のひまわりが芽吹いた
・2012年5月 TBS「たけし・安住のニュースキャスター」にVCI登場
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行
2012年6月30日土曜日
ハノイ貿易大学の「JAC」の第一期生が卒業。
卒業式での勢揃い。ハノイ貿易大学の大会議室にて。
「JAC」は学生と僕らの通称。本当はハノイ貿易大学日本プロジェクト「日本社会の基本学教程」さ。JACは、長過ぎる本名じゃあ日常的に疲れるので「JAPANESE ABE CLASS」といかにも日本語英語風にスラング化して、使ってきた。第一期生は少数7名。みんな日本で本物のビジネスを数年経験し、ベトナムの産業社会に貢献しようと決意している「女流samurai」なんだ。
彼女たちは16日のJAC卒業と同時期に今月ハノイ貿易大学も卒業した現役生と一昨年6月に卒業してOLしていた2年先輩組との連合クラスだ。といっても7名のミニクラス。その分教えがいもあったよ。去年の9月から今月6月16日までの10ヶ月間、土曜日も含んだ150時間。チャウ学長との契約は112時間であったがうっかり忘れてしまい、超大盛り定食になってしまった。だけれども、112時間では、全く不足だし、今回は試験的でもあるので、やりたいことを十分にやれたので、僕なりの充足感は大きいし、第二期の内容や方法の大いなる礎になった。
7名のうち5名は既に日本企業に採用いただいた。うち2名は名古屋の超大手税理会計事務所の国際部に、残り3名は女性の総務・営業・マーケなどの活躍に期待を寄せている秋田のメーカー。この秋田のメーカーは新規に水耕栽培の「農業の工場」を試験中で、VCIの方からもハノイ農業大学の女性優秀生も採用いただいた。同時にハノイ工科大機械学部卒の1名も採用していただいた。景況がこんなに不明のこの時期にありがたいことだ。
JACは7名ですので、あと2名。別にこの二人が劣っている訳でなく、やりたい仕事にフィットしていなかっただけで、問題はない。だって、その中の一人はハノイの日系有名メーカーでとりあえず社員として通訳しています。まあ、そんな実力なんです。僕には不安もないし、8月中になんとかなりましょう。
「日本プロジェクト」を即断いただいたチャウ学長、急な出張で当日出席できなかったナム国際部長、僕の猛烈な授業を無欠勤でがんばった上の写真の赤い服の通訳チャンさん。代行で支えてくれた只木先生、そして、当校のNGOC 部長。皆様のお陰です。さあ、8月から、いくぞぉ!第二期。
日本語学部ツイ副学部長と阿部
ツイ先生の講話
破顔。
はにかみ。
大照れ。
向かって左からクックさん、リーさん、ニャンさん、アインさん、ガンさん。
卒業生を代表してニャンさんからVCIに胡蝶蘭いただいた。
恩師と。二つの学部を出た勉強大好き少女アインさん。
乾杯。リーさん、笑顔満開。
《ブログご高覧を感謝いたします》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルと日付け、紹介致します。
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・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・ 5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年9月 水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年4月 リクルートの罪 / 金のTSUBAKIの女優たち
・2010年12月 映画「ノルウエーの森」の失態
・2011年1月 「お笑いの山崎邦正のベトナムアルバイト」
・2011年3月 メイドインジャパンから「Made by JAPANESE」の時代認識へ
・ 3月 「大震災をベトナム人は語る」
・2011年4月 映画「東京物語・荒野の7人・シンドラーのリストほか」
・2011年5月 復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・2011年5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 消滅している東北弁
・2011年7月 なぎさホテルという哀愁
・ 7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年 1月 成田空港の不幸と幸せ伝える人
・2012月 1月 お正月は竹内まりあの「人生の扉」だね
・2012月 3月 ベトナムの床屋さんの良い感じ
・2012月 3月 ベトナムの青年に進んでほしい「経済以外の分野」
・2012年 4月 ベトナムで石巻・大川小学校のひまわりの芽がでたよ
・2012年 5月 ベトナム国会のとんでもVAIO
・2012年 5月 猫の流転譚 ハノイ漂着
・2012年 6月 TBS「たけしと安住のニュースキャスター」にVCI登場
・2012年 7月 日本の会計士さんたちが当校に大勢みえた
・2012年 9月 第二期のハノイ貿易大学のプロジェクトが始まった
・2012年10月 経済学者中谷巌先生が当校で学生と交流
これからも、よろしく、ご高覧ください。阿部正行
2012年6月11日月曜日
ハノイのヘタウマ猫写真 / 大川小学校の朝顔
「流浪」の末ハノイに来た二匹ももう2週間以上たった。結構平気っぽいね。ベトナムに来たこと判ってるのかね、この二匹。
モモが睡眠。ラックうろうろ。
モモ目明き状態でまだ熟睡。
「遊んで!」「遊んで!」
猫族の睨みをもう一題。
大川小学校のひまわりのお母様たちにいただいた朝顔。場所はレータンギー通りのオフィスのベランダ。まだ花の咲く気配ない。朝顔もbimbim(びんびん)という名前で、ベトナムの夏の朝に咲くそうだ。朝顔の涼やかな雰囲気がないけどね、びんびんじゃあね。ツタを絡ませる棒は、100円ショップのダイソーハノイ店にあった。流石は日本の店舗。 何でもあるね。ここではオール4万ドンで売っているので、日本円では150円。ダイソーの商品の多くはベトナム製と聞くんだが、現地では100円でなく、150円ショップだなんだぁ。ふ〜ん。
2012年6月3日日曜日
きむらゆういち先生のご自宅でのバーベキュー
バーベキューパーティーに参加させていただいた、これもだいぶ経っちゃったね。5月19日の事です。日本に戻るから軽く会議したいのですが、といったら、たまたまご自宅で恒例のパーティーだという。まあ、10人ぐらいの出版関係者のあつまりかと勝手に思って居たら100名ぐらいの大が付く催事。いやはやその混雑ぶりには恐れ入った。僕は当校卒業生の山形YCC社員のANHさんと連れだっていった。彼女とも3年ぶりかな、東京支店に転勤になったから会いましょうとなったが、ただ会うよりこういうパーティーも良いだろうと言うことで久しぶりの「師弟」の再会をこの焼き肉の喧噪の中での事にした訳よ。
「あらしのよるに」で特に知られるきむら先生のご自宅はオフィスと同じ祐天寺。良いところさ。ちょっと早めにお邪魔したところ、既にオフィスのスタッフやおばさまファンか、出版社のベテランか、童話スクールの優秀生徒さんかは解らないがいわば割烹着で麗しいアラフォー、アラフィーの20名ぐらいの女性陣がえっさえっさ、たべもの作り、独身の先生と同じく立場は同じだけれど、貧富の差歴然の僕と、まずはベトナムのキムドン社ともう一社の契約の方向性(ファンドも作る)について僕の案に賛同をいただき、訪問の大事なテーマは5分で終了、深々とやわらかいコーチに身を委ねて、僕等二人はいそいそ働いている女性の方々の品評、いな否そんなお下劣なことじゃあなく、女性の生き方、独身の僕等の今後のこと語り合いながら、パーティー開始を待った。
こんな美味しい牛肉(VN語でboという)食べたこと無いよ。本当に美味しかった。部位が解らないけれど、最初に出てきたお肉は本当に絶品。高級の牛タンのようなお味であった。見た目からするとタンじゃあないけれど、味は高級タン。仙台名物も思い出したり。焼き肉仕切っていた宮本さんという先生のお仲間が言っていた「築地で今朝6キロ買ってきた」と。あれ、60キロかな、いやあ、60キロは無いべさ。ともあれ最高のお肉で、しばらくすると、美味しいけれど普通のお肉になった。きむら先生を僕に紹介してくれた田中穣さんも途中からいらっしゃり、田中さんと最近の仕事の情報交換をしつつ、ご一緒に帰途についた。きむら先生にジャガーに乗せてもらったり、そういえばジャガーはベトナムに日本企業として70年代後半に最初の投資企業となった「飛行船」の奥山社長に20年以上前に吉祥寺あたりを何度も乗せてもらった事を思い出すなあ。きむら先生、ご馳走様でした。赤ちゃん抱いて奮闘のスタッフの小森さん、鳴海さんご苦労様でした。ANHさん、またね。(近日写真掲載・・・)
「あらしのよるに」で特に知られるきむら先生のご自宅はオフィスと同じ祐天寺。良いところさ。ちょっと早めにお邪魔したところ、既にオフィスのスタッフやおばさまファンか、出版社のベテランか、童話スクールの優秀生徒さんかは解らないがいわば割烹着で麗しいアラフォー、アラフィーの20名ぐらいの女性陣がえっさえっさ、たべもの作り、独身の先生と同じく立場は同じだけれど、貧富の差歴然の僕と、まずはベトナムのキムドン社ともう一社の契約の方向性(ファンドも作る)について僕の案に賛同をいただき、訪問の大事なテーマは5分で終了、深々とやわらかいコーチに身を委ねて、僕等二人はいそいそ働いている女性の方々の品評、いな否そんなお下劣なことじゃあなく、女性の生き方、独身の僕等の今後のこと語り合いながら、パーティー開始を待った。
こんな美味しい牛肉(VN語でboという)食べたこと無いよ。本当に美味しかった。部位が解らないけれど、最初に出てきたお肉は本当に絶品。高級の牛タンのようなお味であった。見た目からするとタンじゃあないけれど、味は高級タン。仙台名物も思い出したり。焼き肉仕切っていた宮本さんという先生のお仲間が言っていた「築地で今朝6キロ買ってきた」と。あれ、60キロかな、いやあ、60キロは無いべさ。ともあれ最高のお肉で、しばらくすると、美味しいけれど普通のお肉になった。きむら先生を僕に紹介してくれた田中穣さんも途中からいらっしゃり、田中さんと最近の仕事の情報交換をしつつ、ご一緒に帰途についた。きむら先生にジャガーに乗せてもらったり、そういえばジャガーはベトナムに日本企業として70年代後半に最初の投資企業となった「飛行船」の奥山社長に20年以上前に吉祥寺あたりを何度も乗せてもらった事を思い出すなあ。きむら先生、ご馳走様でした。赤ちゃん抱いて奮闘のスタッフの小森さん、鳴海さんご苦労様でした。ANHさん、またね。(近日写真掲載・・・)
2012年6月2日土曜日
TBS土曜の「たけし安住のニュースキャスター」にVCI登場。
でも、うっかり忘れていたのだけれど、当校と阿部がその中の10分間の「就職戦線が変わった」というメインテーマ項目に目いっぱい採り上げたれたのは4月21日土曜日22時のこと。大分経っちゃったね。大事なこと忘れて居ちゃいけないなあ。TBSのディレクターからDVDいただいたので、その部分の10分だけでもここで画像が見られるように後日したい。でも画像の掲載の仕方が解らないのです。
ということで、当校のお客様で、この度ハノイ貿易大学の優秀女子学生を2名採用いただいた愛知の大手税理士法人の吉田理事長がベトナムに採用面接に行く関空からドキュメントは始まる。時間の関係で山梨県のお客様も含む中小企業の皆さんのベトナム志向などのインタビューや描写が割愛されたが、やはり当校のお客様で、ハノイ工科大卒のベトナム人青年を採用していただいている、千葉のスノウチさん、ハノイの東京マイクロさんなどが取材された。僕の授業やインタビューまだハノイ工科大での授業なども採り上げられ、まあ、あんなもんかと思いますが、当校の「日本就職」のベトナムに於ける中心的な役割と立場がよくまとめられていたと思いました。
中国にいてたまたま見たという当校の前の先生からとか、何人ものお客様、友人まで「見たよ。いいね!」と連絡が結構在った。これがテレビの力ですね、流石です。まったく、費用がかからないPR。つまりパブリシティーは、本当に有り難いですね。視聴率は当夜11%と聞いた。すごいね。そうであれば、1100万人が見たと言うことです。PR作戦成功。(*画像動画は、近日掲載)
ということで、当校のお客様で、この度ハノイ貿易大学の優秀女子学生を2名採用いただいた愛知の大手税理士法人の吉田理事長がベトナムに採用面接に行く関空からドキュメントは始まる。時間の関係で山梨県のお客様も含む中小企業の皆さんのベトナム志向などのインタビューや描写が割愛されたが、やはり当校のお客様で、ハノイ工科大卒のベトナム人青年を採用していただいている、千葉のスノウチさん、ハノイの東京マイクロさんなどが取材された。僕の授業やインタビューまだハノイ工科大での授業なども採り上げられ、まあ、あんなもんかと思いますが、当校の「日本就職」のベトナムに於ける中心的な役割と立場がよくまとめられていたと思いました。
中国にいてたまたま見たという当校の前の先生からとか、何人ものお客様、友人まで「見たよ。いいね!」と連絡が結構在った。これがテレビの力ですね、流石です。まったく、費用がかからないPR。つまりパブリシティーは、本当に有り難いですね。視聴率は当夜11%と聞いた。すごいね。そうであれば、1100万人が見たと言うことです。PR作戦成功。(*画像動画は、近日掲載)
《ブログご高覧感謝》
僕のブログの中でアクセスとページビューが多いタイトルを紹介致します。
ぜひ、ご高覧ください。多いのは一日1400名の閲覧もありました。
・2008年11月 赤塚不二夫先生のこと
・2009年1月 「ジャクリーヌ・ササールとかBB(べべ)とか」
・2009年5月 ゲバラの映画「モーターサイクルダイヤリーズ」
・ 5月 カムイと名著「ベストアンドブライテスト」
・2009年9月 水虫には歯磨き「つぶ塩」が効く?!
・2009年10月「救うのは太陽だと思う」
・2009年12月「爆笑問題の失笑問題」・・・・・1日で1440のPV
・2010年1月 阿倍仲麻呂はハノイの知事である。
・2010年2月 MAC・MAC / 立松和平さんの死。
・2010年3月 「サンデープロジェクトの打ち切り秘話」
・2010年4月 リクルートの罪 / 金のTSUBAKIの女優たち
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・ 3月 「大震災をベトナム人は語る」
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・2011年5月 ★復興構想に必要な「人口8000万人時代の国づくり」発想
・ 5月 梅原猛先生が「文明災」について語った。
・2011年6月 ★消滅している東北弁
・2011年7月 ★なぎさホテルという哀愁
・ 7月 辺見庸氏が3・11とその後にある本質を語った。
・2011年10月 石巻の大川小学校に行った
・2011年11月 石巻・大川小学校のひまわりのお母さんたち
・2011年12月 ハノイ貿易大学日本プロジェクトの学生たちのブログができたよ。
・2012年1月 成田空港の不幸な出自と幸せ伝える人
・ 1月 お正月は竹内まりや「人生の扉」だね
・2012年3月 関西セイキ工業さんに今朝、到着
・ 3月 日刊工業新聞で当校の大きな記事2本掲載
・ 3月 ベトナムの床屋さんの良い感じ
・ 3月 ★ 文系のベトナム青年に進んでほしい「経済」以外の分野
・ 3月 なんだか家族に会いたくなった 写真集
・2012年4月 石巻・大川小学校のひまわりがベトナムで咲く!
・ 4月 VCIの概要と実績をまとめた
・ 4月 原宿の幼稚園でも大川小学校のひまわりが芽吹いた
・2012年5月 TBS「たけし・安住のニュースキャスター」にVCI登場
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2012年5月27日日曜日
★猫の流転譚、ハノイ漂着の巻(完)
とうとう猫をハノイに連れてきた。我が家に10年ぐらい飼われているアラフィー(人間なら50才前後相当)おばさん猫二匹。妻晃子(テルコ)が亡くなったのは、2003年12月で、その2年ぐらい前にいつの間にか妻と娘はるひのさしがねで我が家に来た生後半年位の「白黒」と「三毛」の事です。僕は喘息持ちだ。猫は室内での生活が一緒だから、喘息のアレルギーの主要原因の毛だらけは厭だった。僕は血液検査で、猫ダニ、家カビなどで季節的に反応するとことは、はっきりしているのにいつの間にか白黒はラック、三毛はモモとなって、応接などで無邪気に飛び回って遊んでいる。テルコもはるひもニコニコしている。厭だっていうのにさあ。息子の一行は男の子なのでまったく女子に関係なく猫を脅したりしている。
そのだいぶ前に白い犬「白」がいた。僕が深夜西武線の小平駅を酔って寝ていて乗り過ごし、新所沢で目覚め、仕方ないので、線路を歩いて小平めざしてとぼとぼ歩いていたときに僕の頼りない足に絡みついてきた白いもの。それが目もほとんど開いていない幼犬白さ。それ以来老人犬で老衰死するまで小平の家でみんなで飼った。義父義母、はるひ、一行そして動物大好きのテルコ(晃子)皆でかわいがったものだ。途中で我が家には黒豹のような猫が加わった。これも、いつの間にか意味不明の「ファーディー」だという。
1990年代後半にこの白も黒猫ファーディーも相次いで老衰か、動物ガンで寿命を全うして死んだ。墓は庭に作って葬ってある。テルコや子供たちは泣いていた。身近な初めての「死」であった。そのあと、同居の義父や義母も80才代で老衰とガンで亡くなった。六人家族に動物2匹の大きな家族が我が家だけの4人となった。その途中の1993年秋にはテルコにガンの告知があった。5年生き延びる可能性が25%の第三ステージだという。可愛そうな晃子。そのテルコの寂しさ一番の頃来たのが、この白黒と三毛なのだ。はるひに確認すれば正確に分かると思うが、たぶん2001年頃に知っている動物病院の関係者からもらった様で、それもはじめは三毛だけだったらしいが、どうせ飼うなら白黒もという事で2匹にしたようだ。テルコらしいね。
はじめはテルコの部屋と隣接の20畳ぐらいの大納戸だけで飼う約束であったが、当時は「広大な」家にいたので(延べ床67坪の青森ヒバ木造三階建て)、すぐ約束は反故となり、家中を闊歩していた。そのうちジャングルのような庭にも進出し、ノミを家に大量に持ち込んで流石の当家猫マニアの女性二人も閉口していたようだ。当時我が家には「外猫」といわれる家には入れないけれど(この2匹がいるので、入れたら嫉妬するので)、庭でエサだけ与えている猫が雉(きじ)猫、茶、白、くろ、怪獣顔、など5〜8匹は居たんじゃあないかなあ。赤ん坊も軒下で2,3回も生まれたりして、子猫がたくさん徘徊していた時期もあった。
南側にいた三浦さん宅のご夫婦はとってもいい人なんだが猫嫌いらしく、犬はいた時期があったが、庭に消毒剤を散布するときがあって、臭いに困らされた。たぶん、当家の外猫(三浦さんにとっては、外猫も阿部さんちの猫)と猫ノミ対策なのかもしれないね。まあそんな消毒薬とかのことは、「数奇な運命に」関係ないので進める。といいつつ、猫の毛だらけの生活にハノイでなったので、くしゃみは出るは、喉奥がかゆくなるは、目がくしゃくしゃになるはで、体調も思わしくないのだ。まいったぜ。
晃子(テルコ)は1993年9月にステージ3というもう直らないほど進行していたのは書いたね。10年間果敢にガンとたたかったが、丁度10年後の12月20日、天の国へ渡った。そのときこの猫2匹はご主人様の死をどうとらえていたのだろうか。葬儀を自宅で行い、庭も明かりなど普通の葬儀用とは違う設えをしたので、ラックとももは、何も現実を知らず、ただ、家の奥に行き喧噪からただ逃れたい一心であったのだろう。冷たい奴らだ。お線香の1本でも挙げろよ。でも、猫の手だからなあ、お線香持てないね。でもさあ、それにしても晃子(てるこ)のご遺体を安置してある棺の周りをうろついて、「ああ、猫もわかっているのね」と親類縁者の涙を誘うとかしてくれてもよかったんじゃあないの、オイ、ラックともも。
妻が亡くなった後、2年弱ほどこのまま居て、毎日僕は朝ご飯と夕ご飯を作り、洗濯して、3人と2匹の共同生活が続いた。一行が北海道に転勤し、はるひも自立するというので、家を売る頃は僕と猫だけとなった。さあ、ここからが、流転の猫。数奇な運命というより、流浪の猫、棲み家不確定猫の方が合うかもね。猫は昔から家に付くというよね、てるこから聞いた、主人変わっても家に執着するのが猫で、主人に付いていく忠義な犬とそこが違うわけだが、可愛そうに奴らの場合、主人は僕(はるひ、一行がたまに)で、それも積極的に主人になったわけでもなく、てることはるひの圧力というかそういうものの影響でそうせざるを得なくなっただけの、消極の主人なわけさ。その飼い主と彼らの8年間、家は小平から東伏見、早稲田、早稲田のオフィス、途中で短期間はるひの本郷、狭山市、一行の江東区、はるひの中央区湊そして、ハノイ市レータンギー通りさ。
いきなりベトナム航空の荷物入れ(飛行機の胴体部分の温度調整など期待できない)に積まれてさ、お気の毒に。で、ハノイに到着して心配で急いでバッケージクレーム機に行ったが、まさが他のスーツケースと一緒にドスンと出てきてぐるぐる客の前を曝すのかなと、思ったので空港の暇そうな青いアオザイの娘に「動物はどこだ、どうやって出てくるのか」とブロークンで聞いたら「あっちだ」という。指も指す。「あっちはトイレだ」と反論すると良いから行けと顔の眉と唇を段違い平行棒にして宣うのでしょうがないので歩きだすと、確かにトイレとクレーム機の間に我が家のなつかし猫ゲージが2列に置かれていた。駆け寄るとラックは目がまん丸に開いていて、完全にくたばった感。ももは、そうでもないが、元気なく寝そべっていたので、あわてて水ボトルを買って、蓋を皿にしてのませたが、ほとんど飲まない。本当にちょっと焦った。
でも、タクシーで自宅に向かう中で、次第に回復し、猫好きで猫が4〜5匹いる大家さんとNGOCさんや女中さん、chiさんらが自宅で迎えてくれて、歓迎の雰囲気の中ですっかり良い気分になったのか、体調も回復し大きなタイル張りのトイレに取り合えず閉じ込めて、みんなとオフィスに向かい、そのまま仕事さ。夜帰ってくると日本製のエサが、大家さんからもらったりして、彼らもまんざらではない感じ。ただし、大家さんの猫は見たところチンチラとシャムらしく如何にも由緒正しい出自のようで、我が平民出身の雑猫が、対面したらちょっと怖じ気づくかな。
偶然にも良かったのは気温だ。湿度は何時もの70〜80%で、日本と環境が違うが気温がいきなり40度にはならず、本物のファーコート着てるので暑いだろうけれど、30度程度であったりで、猛暑に出会っては居ず、心配するほどではなかったが、今後盛夏が乗り切れるか、日本の電力事情と似ているけれど、猫は猫として工夫すれば、なんとかなるさ。ベトナムの家は寒さ対策はなっていないけれど、暑さ対策は建築に一定程度施されている。その1は、何処の家も床が総タイル敷であることだ。だから、冷やっとする床に我が2匹も盛んに寝そべっていて、もう、慣れた装いで仰向けなどしていて快適なようだ。二つ目は天上が高く、暑い空気は上に集めて部屋の下方は涼しいなるような構造になっていることだ。
さあ、数奇な運命の猫ちゃん2匹よ、妻の魂も宿っているような猫ちゃんよ。上手く生きてくれ。ここは君らまるで知らないだろうけれど、ベトナムと言う亜熱帯の新興国さ。金持ちの猫も居るだろう。流転の末たどり着いたベトナム・ハノイで、熟女の幸せを探してくれ。飼い主の僕もそれぐらい手伝うぜ。
後日、ベトナムにいる写真を2,3載せようね、ラック、モモ。 《完》
そのだいぶ前に白い犬「白」がいた。僕が深夜西武線の小平駅を酔って寝ていて乗り過ごし、新所沢で目覚め、仕方ないので、線路を歩いて小平めざしてとぼとぼ歩いていたときに僕の頼りない足に絡みついてきた白いもの。それが目もほとんど開いていない幼犬白さ。それ以来老人犬で老衰死するまで小平の家でみんなで飼った。義父義母、はるひ、一行そして動物大好きのテルコ(晃子)皆でかわいがったものだ。途中で我が家には黒豹のような猫が加わった。これも、いつの間にか意味不明の「ファーディー」だという。
1990年代後半にこの白も黒猫ファーディーも相次いで老衰か、動物ガンで寿命を全うして死んだ。墓は庭に作って葬ってある。テルコや子供たちは泣いていた。身近な初めての「死」であった。そのあと、同居の義父や義母も80才代で老衰とガンで亡くなった。六人家族に動物2匹の大きな家族が我が家だけの4人となった。その途中の1993年秋にはテルコにガンの告知があった。5年生き延びる可能性が25%の第三ステージだという。可愛そうな晃子。そのテルコの寂しさ一番の頃来たのが、この白黒と三毛なのだ。はるひに確認すれば正確に分かると思うが、たぶん2001年頃に知っている動物病院の関係者からもらった様で、それもはじめは三毛だけだったらしいが、どうせ飼うなら白黒もという事で2匹にしたようだ。テルコらしいね。
はじめはテルコの部屋と隣接の20畳ぐらいの大納戸だけで飼う約束であったが、当時は「広大な」家にいたので(延べ床67坪の青森ヒバ木造三階建て)、すぐ約束は反故となり、家中を闊歩していた。そのうちジャングルのような庭にも進出し、ノミを家に大量に持ち込んで流石の当家猫マニアの女性二人も閉口していたようだ。当時我が家には「外猫」といわれる家には入れないけれど(この2匹がいるので、入れたら嫉妬するので)、庭でエサだけ与えている猫が雉(きじ)猫、茶、白、くろ、怪獣顔、など5〜8匹は居たんじゃあないかなあ。赤ん坊も軒下で2,3回も生まれたりして、子猫がたくさん徘徊していた時期もあった。
南側にいた三浦さん宅のご夫婦はとってもいい人なんだが猫嫌いらしく、犬はいた時期があったが、庭に消毒剤を散布するときがあって、臭いに困らされた。たぶん、当家の外猫(三浦さんにとっては、外猫も阿部さんちの猫)と猫ノミ対策なのかもしれないね。まあそんな消毒薬とかのことは、「数奇な運命に」関係ないので進める。といいつつ、猫の毛だらけの生活にハノイでなったので、くしゃみは出るは、喉奥がかゆくなるは、目がくしゃくしゃになるはで、体調も思わしくないのだ。まいったぜ。
晃子(テルコ)は1993年9月にステージ3というもう直らないほど進行していたのは書いたね。10年間果敢にガンとたたかったが、丁度10年後の12月20日、天の国へ渡った。そのときこの猫2匹はご主人様の死をどうとらえていたのだろうか。葬儀を自宅で行い、庭も明かりなど普通の葬儀用とは違う設えをしたので、ラックとももは、何も現実を知らず、ただ、家の奥に行き喧噪からただ逃れたい一心であったのだろう。冷たい奴らだ。お線香の1本でも挙げろよ。でも、猫の手だからなあ、お線香持てないね。でもさあ、それにしても晃子(てるこ)のご遺体を安置してある棺の周りをうろついて、「ああ、猫もわかっているのね」と親類縁者の涙を誘うとかしてくれてもよかったんじゃあないの、オイ、ラックともも。
妻が亡くなった後、2年弱ほどこのまま居て、毎日僕は朝ご飯と夕ご飯を作り、洗濯して、3人と2匹の共同生活が続いた。一行が北海道に転勤し、はるひも自立するというので、家を売る頃は僕と猫だけとなった。さあ、ここからが、流転の猫。数奇な運命というより、流浪の猫、棲み家不確定猫の方が合うかもね。猫は昔から家に付くというよね、てるこから聞いた、主人変わっても家に執着するのが猫で、主人に付いていく忠義な犬とそこが違うわけだが、可愛そうに奴らの場合、主人は僕(はるひ、一行がたまに)で、それも積極的に主人になったわけでもなく、てることはるひの圧力というかそういうものの影響でそうせざるを得なくなっただけの、消極の主人なわけさ。その飼い主と彼らの8年間、家は小平から東伏見、早稲田、早稲田のオフィス、途中で短期間はるひの本郷、狭山市、一行の江東区、はるひの中央区湊そして、ハノイ市レータンギー通りさ。
いきなりベトナム航空の荷物入れ(飛行機の胴体部分の温度調整など期待できない)に積まれてさ、お気の毒に。で、ハノイに到着して心配で急いでバッケージクレーム機に行ったが、まさが他のスーツケースと一緒にドスンと出てきてぐるぐる客の前を曝すのかなと、思ったので空港の暇そうな青いアオザイの娘に「動物はどこだ、どうやって出てくるのか」とブロークンで聞いたら「あっちだ」という。指も指す。「あっちはトイレだ」と反論すると良いから行けと顔の眉と唇を段違い平行棒にして宣うのでしょうがないので歩きだすと、確かにトイレとクレーム機の間に我が家のなつかし猫ゲージが2列に置かれていた。駆け寄るとラックは目がまん丸に開いていて、完全にくたばった感。ももは、そうでもないが、元気なく寝そべっていたので、あわてて水ボトルを買って、蓋を皿にしてのませたが、ほとんど飲まない。本当にちょっと焦った。
でも、タクシーで自宅に向かう中で、次第に回復し、猫好きで猫が4〜5匹いる大家さんとNGOCさんや女中さん、chiさんらが自宅で迎えてくれて、歓迎の雰囲気の中ですっかり良い気分になったのか、体調も回復し大きなタイル張りのトイレに取り合えず閉じ込めて、みんなとオフィスに向かい、そのまま仕事さ。夜帰ってくると日本製のエサが、大家さんからもらったりして、彼らもまんざらではない感じ。ただし、大家さんの猫は見たところチンチラとシャムらしく如何にも由緒正しい出自のようで、我が平民出身の雑猫が、対面したらちょっと怖じ気づくかな。
偶然にも良かったのは気温だ。湿度は何時もの70〜80%で、日本と環境が違うが気温がいきなり40度にはならず、本物のファーコート着てるので暑いだろうけれど、30度程度であったりで、猛暑に出会っては居ず、心配するほどではなかったが、今後盛夏が乗り切れるか、日本の電力事情と似ているけれど、猫は猫として工夫すれば、なんとかなるさ。ベトナムの家は寒さ対策はなっていないけれど、暑さ対策は建築に一定程度施されている。その1は、何処の家も床が総タイル敷であることだ。だから、冷やっとする床に我が2匹も盛んに寝そべっていて、もう、慣れた装いで仰向けなどしていて快適なようだ。二つ目は天上が高く、暑い空気は上に集めて部屋の下方は涼しいなるような構造になっていることだ。
さあ、数奇な運命の猫ちゃん2匹よ、妻の魂も宿っているような猫ちゃんよ。上手く生きてくれ。ここは君らまるで知らないだろうけれど、ベトナムと言う亜熱帯の新興国さ。金持ちの猫も居るだろう。流転の末たどり着いたベトナム・ハノイで、熟女の幸せを探してくれ。飼い主の僕もそれぐらい手伝うぜ。
後日、ベトナムにいる写真を2,3載せようね、ラック、モモ。 《完》
上記の文にある家から、また移転して、この写真は僕のオフィスの猫部屋の二匹。
ラック(白黒)にかいがいしくつくすモモ。でも二匹ともおばさん猫です。
写真は2012年9月。
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