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2009年3月3日火曜日

「青いパパイヤの香り」と「戦争の悲しみ」

堰を切ったようにとは、多分こういうことなんだろう。この2,3日、ロシア映画で10年ほど前に話題になった「父帰る」、ペネロペ・クルスの「帰郷」、T・A・ユン監督の「青いパパイヤの香り」、キュブリックの「アイズ ワイド シャット」、J・クルーニーとキャサリーン・ゼダ・ジョーンズ主演のコーエン兄弟のコメディ「ティーボーズ・ショー」、小津安二郎の「晩春」、「麦秋」、誰監督か解らない「ブエノスアイレスの夜」、テレビでは大半かつて見ていた「セックスアンドザ シティ」を夜を徹して見た。本当は、「パパは出張中」作った確かユーゴの監督の「黒い猫白い猫」いきなりまた見たくなって、レンタル屋で探して見つからず、仕方なく前に見た作品を色々軽い酔いに任せて借りてしまったんだ。なんだか、目とか頭を疲れさせたいというか、脳みそとかを虐めたい気分がわき起こってるみたいな気がする。

で、これ以上、いま書く気になれないなあ。例のカラマーゾフの兄弟3巻もやっと351ページ。読むと一気に進むが、気分次第で、この一週間、止まってる。上記ユン監督が2月から「ノルエーの森」をクランクインさせたようだ。今日はここまでだな。今までで最短の私信となったかな。ただし、近々「青いパパイヤの香り」と僕の小津さん評と、僕の東映大泉撮影所のことは、書くつもりです。ユン監督の「夏至」は見たような気がするがどうだったかな。まあ、今夜は石川淳「新釈雨月物語」の一ページを開こうと思う。

・・続き・・今日は6日金曜。それも4時。オフィス。僕の本6000冊ぐらいが部屋に積まれた段ボールに入っている。2年まえ、自宅にも入りきれなくなったので、4000冊ほど早稲田の古本屋に売って残った分だ。で、その一部であるが、読み残したり、あるいは気になる本だけ本棚に別においてあり、時間ある時、少しずつ読了して”潰して”いる。で、今日はいま、オフィスに誰もいないので、仕事をサボる訳じゃあないが、何気なくその棚から「戦争の悲しみ」を抜き出した。ベトナムのほとんど唯一ヨーロッパ数カ国で翻訳されヒットしたベトナムの有名な小説である。僕にとっては、曰わく付き本の一冊と言えよう。奥付を見ると発行は1997年だ。僕が買ったのはたぶん、話題になって直ぐだから、約10年前と言うことだろう。ただし勇んで読もうにも、何せテーマが「戦争」と「悲しみ」である。読むにも覚悟というか、意を決した突撃が必要だろうが、当時軟弱になりかけていた自分としては、うむむ・・という精神環境で、いわゆる”つんどく”本の一冊になりさがり、手付かずでいた。

毎月買ってしまう本はドンドン増えるし、「あ、きれいないい女だ」と街で麗しい女性とすれ違うぐらいに自分の本棚での出会いが運命的でないと、読み残した気がかり本を読む気にはなれない。換言すると本棚とか、段ボール巡っっていて「今日は焼き肉食いて〜」って、全身が求める病理学的な身体のざわめきと、本の出会いは同一だから、それが無いと本を自分の眼前に引き寄せたりしないのである。そして、天使の瞬きの瞬間にたまたま、我が輩の白羽の矢に射止められし幸運な読み残し本のみ、私めにに文学的良い言葉を大量に供出する運命になるのさ。で、この本は一度、5,6年前に「買ったから、一応読まなくっちゃ」貧乏精神で、ページめくったが、20p程度で、その不埒な精神を真っ向から蹴散らされたようだ。まったく覚えていないが・・。21頁に中断の折り目が付いているものね。作者に対して生半可な気持ちで本を手に取った恥さらしな軌跡が、21頁の上の隅の斜めの折り筋に表示されている。うむ、本は読むだけでも決意がいるんだなあ、なんて、改めてこのBao Ninhの「戦争の悲しみ」の美しい装丁を見つめて思った。
尊敬する辺見庸さんが腰巻きに激賞文を書いているし、ニューヨーカー、タイム、エコノミスト、インデペンデント紙などが、絶賛したこの本の重みが改めて、太り気味の僕の生活態度に「真剣」を刺してくる。ということで数日間、”人間の悲しみ”を本気で読み解くことになりそうだ。

映画「青いパパイヤの香り」は今回で2回目、劇場では見ていない。ユン監督(僕らハノイにいる人間からするとhungさん、つまり、フンさんである)の映像の最大特徴である静寂さはほとんど接写に近いクローズアップの多用からくると思われる。人物の接写は人間を物質化してしまう。彼の映し方は人間をそのままで捉えず、人間は皮膚で覆われた生命であると暴き、更に皮膚は美しい元素から成り立っている事を暗示させる。彼の物質化は、俗としての人間を超克し、人間を構成する生命の神秘の物質を愛おしくさせる効果を持っている。そのいわばナノの映像世界に世俗の音声が入ってくる隙はない、深閑とした世界が画面に広がる。彼の静寂さの第二は、庭と家屋を自在に移動するカメラにある。移動車と小型クレーンを使用したものだろう。CGのデジタル的な画面変化でなく、カメラとレンズの移動という現場で創作される画面の艶やかさは、映画の古典的な技法だが、光と影がレンズを通過してフィルムの銀箔に定着されたものである。ここでも不逞な雑音の侵入を拒絶している。・・続きは、この土日に書きますね。
さてさて、今勤務時間中。ハノイの学生管理課主任のNGOCさんから、SKYPE入った。仕事の振りして、さあ、「なんだね、NGOCさん・・ご苦労様」とチャット始め・・た。普通は、こうじゃあないぜ、一心不乱に仕事してるんだよ、スタッフ諸君。運命の本を手にとってしまって、30分ばかり魔が差してブログをしたためただけさ。許せ。

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