テトと言う言葉は、僕なんか団塊世代では「テト攻勢」を思い起こすのじゃあないだろうか。確か1968年1月末、ベトナム解放戦線と北ベトナム軍が旧正月の慣例的な停戦の禁を破って南ベトナム全土で総攻撃を仕掛けた世界的な事件であった。とりわけ、首都サイゴンのアメリカ大使館とタンソンニャット空港、中部にある古都フエへの攻勢は凄まじく、一時的にはベトナム側が覇権を取った地域もあったようだ。アメリカ大使館は、最終的に軍事的には米軍が奪い返したものの、解放戦線の武装ゲリラの決死隊数十人が半日程度占拠し、世界を震撼させるニュースなった。
そのころ、世界の大国アメリカとのベトナム人民の必死の戦闘を、硝煙まみれた実写ニュース画面から衝撃と感服の念で受け取っていた僕ら東京の学生たちは北区王子に在った米軍の病院のベトナム戦争へ加担する「王子野戦病院反対闘争」、成田空港建設への「三里塚闘争」「佐世保にきた空母エンタープライズへの寄港反対闘争」、始まっていた「東大闘争」と「日大闘争」などへ更に積極的に参加していった。僕らはそれぞれの個別の戦いを自分なりに理解してはいたと思うが、それより増してベトナム戦争における闘う人民と連帯したいという、間接的にでも支援したいという、今思えばいささか観念的ではあったが、熱いヒューマンな感情を滾(たぎ)らせていたのは間違いない。その感情と押さえきれない次の時代への渇望感、さらに青年のピュアな正義感などが自分の肉体の中でカオス化していった。1968年春は、19才であった僕の青春の旅の開始ともいえる激烈な季節となった。
で、昨日で当ハノイ日本アカデミーも「正月休み」にはいった。官庁と同様2月22日月曜の「正月明け」の再開まで、約10日もの長い休みである。僕は15日(テト二日目)の深夜に帰国便に乗る予定である。テト期間のハノイ滞在は実は二回目だ。一昨年のテトは大分長く滞在し、ブオンの父方や母方の親戚のお年寄り10人以上は紹介されて、何人かには涙を流されたりした。そのお年よりの多くがお婆様で、皆さん威厳があり美しい人ばかりであった。特に感じたことは、日本では失って久しい敬老の心、あるいは敬老の儀式がベトナムの大家族にまだまだ健在で、若者や子供たちにもそれが自然に継承しているように見えた。さて、今回は2月13日土曜の大晦日、14日日曜元旦、15日月曜の正月二日目が楽しみである。短期間だし、今回は懐具合も頼りないが、どんなテトを体験できるのだろうか。楽しみである。
ハノイは「師走」たけなわである。街自信のバイオリズムがテト用に高揚し、而して市井の人々は朝からテンションが上がって落ちることはない。だから、色んなことも起きる。今朝7時頃、チャオ(おかゆ)をすすりに、外に出たところ、数軒先でパジャマ姿のおばさんらが群がっていた。そこは小さな変電所があるところで、日頃誰も関心を示さない無人の場所だ。行ってみて驚いた。その公的な鉄柵の中に黒鶏と思われる高価そうで美味しそうな大きな鶏が赤い鶏冠を振り乱して40羽はいるだろうか。鶏業者か誰かが保管場所が無くて、一時しのぎにそこに投げ込んだのだろうが、その業者もバカなもので、ぼやっとしていたら、近所のおばさんらの願ったりの正月用馳走になりはてるはずだ。だって、「これ、貰って構わないわよねえ。誰か若い人、柵を登ってよ」みたいな大胆な密談をしているのだけは、ベトナム語のわからない僕でも雰囲気が読めた。
昨晩は、休みの前の日で、NGOCさんらが、残業してて、ピザの宅配たのむというので、僕もご相伴にあずかった。ブオンの家が数日前泥棒にねらわれたので、窓格子の修繕工事が在るというので、夕飯が無かったからだ。ベトナムに来るとどうしても食が進む僕は、4,5ピースのピザだけでは飽きたらず、みんなが帰った頃を見計らって、喧噪の表に出た。とびきり美味しいフォーガー(鶏うどん)を食べにである。時間は20時半を過ぎていたので、売れきれ閉店が不安であった。こういう不安は妙に当たるね。的中で、シャッターが無慈悲にも降りてあって、その前の路上にはすでに2軒ほどの路上店が進出しておばちゃんらが何やら営業していた。舌打ちするまもなく、僕は「pho ga」の看板を探しつつ、夜の雑踏を歩き始めた。
ちょっと、うどんの説明をしておきましょう。ブンという、丸細米麺はブンタンとか、ブンオクとか多様な具とスープがあるのですが、こと「フォー(細きしめん)」となると、「ga 鶏」と「bo 牛」しかない。そして、ブンはそれなりのレストランでもメニューにあるところからして、どうも身分的にはフォーの方が低いらしいのである。知った上で無理して「エムオイ(ボーイさん)、フォーあるかい?」というと、言下に「フォーはウチには無いさ、ブンならあるよ」と言われてしまう。また、ハノイでは「牛うどん」のお店の方が圧倒的に多い。「牛も鶏も」の店もたまにあるが、専門性の無さは評価が低く、通常の店ではあり得ない。小さな路上店辺りのメニューだ。ブオンによると牛の調理、煮込みなどは、鶏よりも難しいし時間もかかるので「プロのお店らしさ」が「牛うどん屋」にはあるんだという。一方鶏うどん屋は、牛に比べて手軽に作って出せるので、家庭料理の延長にあるものなんだそうだ。家庭ではどこの家庭でも鶏は自分でさばくからね。確かに、家庭では鶏ミエン(春雨)、鶏ブンが宴会の締めの料理に出てくる。これがどこの家庭でも絶品なのです。
で、雑踏を歩き出したぼくではあるが、その辺りに知った店もないので、「店構え、清潔度、御客の入り具合」などを注意深く査定仕分けして、間口2mぐらいの「ga」の店にはいった。
釜とうどん、多様な具を一手に引き受けている婆が何とも良〜い。ブラジル人も驚く「ケツとおっぱい」で、でんと構えている。外人の僕はめずらしいらしく、満席で立ち往生をしていた僕に相席を勝手に指示した。反抗老人の僕もこういう揺るがない指示はうれしくなって、おとなしく着席した。見渡すと、ここはどうも飲食の店舗でないことに気がついた。どう見ても工場だなあ。それも鉄材の加工工場のようだ。だって、機械が奥にはいくつか見えるし、僕の足下には、切った鉄材の切れ端やら、鉄くずが積まれていた。ひゃーというより、この鉄工所とうどん屋の大胆な昼間と夜間の入れ替わり店舗はサントリーの「プロント」を完全に凌駕してるなーと、僕は素直に唸った。その上最高の出汁を出している。もう、何とも言えないほど「ウゴーン(美味)」であった。いつもの最高な「ga」店より、スープの色も塩気もわずかに「濃い目」であったので、刺激を求めていた僕の胃は、図らずも狂喜していたようであった。
・・・店舗、市場、庶民・・つづく・・
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