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2010年2月27日土曜日

テト元旦 ベトナムの”スローな”一日

16年ハノイに通い詰めて初めての事故であった。事故と言うにはちとお粗末な事故でしたが。昨日夜、ハノイに着いて、ブオンもリンも頭痛だというので、ビールでも飲んで何かつまもうと思って夜のLE THANH NGHIの街へ一人で出た。夜風が心地良いななどと風情を味わいながら車道の端を歩いていたら(歩道は駐車のバイクや商店の荷物で歩けない)、いきなり僕の右足に衝撃が走った。瞬間ぼくはよろけ、僕に後から衝突したと思われる女性のバイクが歩道側に半分倒れた状態で「きゃー」とか発していた。まともに前を見ていたら、どうして僕にぶつからなきゃならないのか不思議な事故なんですがね。仕方ないので、僕が彼女のバイクを立ててやり、路上に投げ出されたバックとビニール袋を拾ってあげ日本語で「何処を見てるんだよう!」と軽く怒鳴った。僕に謝罪も何も言わないでいる20才前半のピンクヘルメットの彼女に外人だけれど、僕は怒っていますよ〜、と一応表明しておいたのだ。

で、ビールの飲みたいので時間が無駄だと思い、彼女を無視して踵(くびす)を返してすたすた歩き始めた。足が結構痛いので近くの飯屋(コムビンザン)に入って、ビールとおかずを数点頼んで、古い脂が染みついた様なテーブルに着いた。ここの息子かバイトか解らないがどう見ても小学生の小僧がこれほど汚いウエス(雑巾)って、この世にないぜ、みたいなどろどろ真っ黒な布で、僕のテーブルを拭こうと、いや、力無くなぞろうとしたので、「NO!ビア、ニャインニャイン」とビールを督促した。今日はあんまり良い日じゃあねえな、と独りごつ。
2月26日の事でした。

さて、先週ドストエフスキー「罪と罰 全三巻」(光文社亀山翻訳版)のラストの詳細なる読書ガイドや年表部分も読了。昨日は機中にて中勘助の「銀の匙」を、今日は朝方「日本語は生きのびるか」(平川祐弘著)を読了した。「銀の匙」は以前ブログに記述したように灘高の国語授業として、1年間はこれ一本というNHKのドキュメントが読む切っ掛けとなった。明治の末期というか大正の初期というか、その時代の生活空間を子供の視点で微細にかつ子供の知的な思考にたって描いている。明晰な大人批判も心地良い。そしてそれだけでなく、軍国的な気風に走りがちな友人や教員への反発と批判も極めて冷静で鋭い。それを美しい彫琢と端正な記述を織り交ぜて終始させる才は凄い。この間僕は、疲れたときとか、身体が美しい物をもとめているなあと自覚したときに、この文庫本をひょいと取り出して読んでいた。40年前ぐらいに中島敦を読んだときに経験した文字を目でなぞるときのキリッとした感覚が何故か甦った。

「日本語は生きのびるか」はなかなかたいした著作であった。作者は知らなかったが「河出書房」の物だし、安心して読んでみた。文字文化の混淆とか、遣唐使遣隋使から、フルブライト留学生までの文化の交差を丹念に書いていて、僕の知らないこともおおく、興味を注ぐことが出来た。特に、著者が漢文、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語に精通しているようで、文化の混淆と言葉の生成の視点は的を得ている。多分彼の今までの大分な著作のエッセンスをまとめた物と推察できる。しかし中半に出てくる大江健三郎や加藤周一、また、それをもひっくるめた戦後の”有名”インテリゲンチャーや戦後左翼への批判がヒステリックで矮小だ。研究者とは思えないほど情緒的で、正面からの批判にまるでなっていない。むしろ著者がキチンとした批判が出来ない事を表明したような逆効果を生んでいる。

また、最後に出てくる「今後の日本の文化ソリューション」の章も唯フランスのエリート教育のマネに近い方策しか提案できておらず、貧相。調べたら、東大名誉教授である著者の先輩で同じく東大教授であった竹山道雄が彼の義父らしく、なるほど「この戦後嫌いは」家系のなせる技か。しかし、第二章までは、知識に溢れた著作であって、全体も批判的に読めば、知的なエッセンスが得られ1200円にしては良い本であると言っておこう。しかし心配もある、彼の最後の英語を軸としたエリート育成の構想への焦心は尋常でなく、ご自身が現在何らかの重篤な病気なのかも知れないと思ってしまう。さあ今日からは、加藤周一さんの「日本文学史序説」だ。去年秋に購入していたが、移転の騒ぎに段ボールの何処かに隠れていたが、先日ふと出てきたのだ。

先日、TET(旧正月)の大晦日(本年は2月13日土曜)まで書いておいた。せっかくの元旦と二日目もハノイにいたので、その関連を時系列で記しておこう。元旦はまず、ブオンの父方のお姉さんの家に挨拶しにお昼にリンとブオンの母と昨日から義母の家に泊まりに来ていたブオンの姉ディエップさんの長男(中学3年)と5人で出かけた。行ってみたら、ハノイホテルのそばの何度も通過した事があるエリアで、2年前もお邪魔したことを思いだした。その義父のお姉さんは亡くなられているので、今日の主役はその長男と次男でともに40歳代だ。長男は警察などの人脈が厚い武道家の様で、寡黙だし目つきも普通じゃあない。のに彼の女房が前もそうであったが、絹の高価なパジャマで現れ、ブランドのバックを見せつけたりする「お水」風な化粧の厚い女だ。これに比べ次男夫婦はニコニコで、愛想が良い。この日はたまたま、次男の自慢の可愛い娘がテレビのバラエティーショウに子役で、出演するとかで、お昼の宴は盛り上がった。因みに通常この様な宴は、テーブルを使わず車座になって胡座(あぐら)状態で食事をする。

ブオンの娘のリンは、日本で言えばいま小学校六年で既に僕より身長があり、真野響子が子供になったような風貌。とっても個性な瞳と顔立ち、そして長い黒髪の美しい少女である。最近母親に買って貰った赤いコンバースのバスケットシューズがイカしている。ブオンの自慢の一人娘だ。それで、かのテレビ出演で本日話題の親戚の女の子は実に可愛らしい4才少女で、言わばフォトジェニックな子。踊りや歌も出来るようで将来のタレント性に期待が持てる。テレビ業界に近いところにいた僕は、聞かれて思わず「恥ずかしがらずにまっすぐに相手を見て、ハキハキと話せば、すぐ次のオファーが来るさ、楽しみですね」などとお追従。僕って人がいいのです。

家族や我々13〜14名が円陣になり座して囲んだ中には、豚、牛、鶏の丸焼きから、サラダまで山盛り。ベトナムの食堂では、中国同様「味の素」が大量に使用されている訳ですが、自宅は全く違う。素材を厳選し、鶏や魚を一晩煮込んでの出汁とか、本当の”スローフード”が楽しめるんです。本物の味は、正にこうだあ、と言いたいほどの味の妙味です。デブタレントの石チャンなら「ホントにマイウー」と絶句するさ。さてこういう場では、ブオンの家でもそうであるが、ミエン(春雨)の鶏そばが出てくる。これがどの家でも非常に美味である。外人の僕にはとっておきの高価なウイスキーを出してくれたりの大サービスもあった。親戚の暖かさとか契りがまだまだ健在のベトナムの伝統を改めて感じられる。で、お腹もいっぱいとなり、僕ら5人はブオンの姉の家に行くべくお暇した。

僕ら5人はバスを乗り継いで、ブオンの姉ディエップさんの家に行った。ブオンは初めてバスに乗ったらしい。ちょっと驚き。僕も初めてバスに乗ったわけだが、ブオンは「私も貧乏になったもんだ」とちょっと愚痴た。確かに、ブオンの大学時代のお友達はみんな女性にも係わらず、銀行の役員とか、企業のトップ、お金持ちの奥さんとか裕福な人が多く、大抵車を既に持っている。そうかあ、ブオンは不憫だなあと思いつつ、バスに乗ることの良さを情報取得の面からとか、僕流にいろいろ強弁した。日本じゃあ、車を持っているとか持っていないとかは、生活の豊かさの証にはほとんどなっていないよ、と僕が正論を吐いたら、彼女は呆れた表情を浮かべて、話題を変えた。

で、無事にブオンのお姉さんディエップさんの新居に到着。政府系団地の新築のアパートだ。大型の3DKだ。6階だし眺めもいいし、良い風も入って来る。さて、内装の細部を目で探索した。日本人からすると、ベトナムの建築工事の最大の課題は何処のビルを見ても細部化粧が下手なのだ。いい加減と言った方が良いのかも。それこそ、地元のゼネコンが作ったのだろうけれど、日本の工事現場でタイルの張り方、壁の塗りから、ペンキの塗り方など、1〜2ヶ月見学しただけで、充分に修練になる程度の課題が多い。つまり、仕上げ時に細部のチェックがまるで大甘になってるので、進歩しないんだ。日本の品質の管理は在る意味優れて特殊だろうが、もう少しキレイな仕上げをしようとすれば、直る範囲の課題点である。15年前、僕はお仏壇の長谷川さんのランドマークビルの建設に携わったからかも知れないが、今でも建築現場では同レベルの仕上げが多いので、うんざりしている。「器用」で一定の評価があるベトナムで、これですよ。他国はどうなっているんだろうと思うね。不器用なアメリカ人が作っているアメリカのビルはもっとキレイな訳だから、一度でも「高品質のものを見せる」「触らせる」「良い物と悪い物を対比させる」「良い仕事のための改善方法を丁寧に教える」・・ことがあれば、我が頑張るベトナム人は直ぐに順応し工夫始めるだろうに・・。

で、デイエップさんのご自慢の新型テレビで、ガンガン歌番組をやっている。お正月は何処の国でも、つまらん歌謡ショーが氾濫するようだ。それに出演している女流スターたちの化粧がケバイ事、ケバイこと。歌舞伎か京劇かあ〜と、くさしたい気分だ。男性歌手は結構まともでハンサムのオンパレードだが見た感じだと、韓流のハンサムもチャイニーズのスターもベトナムのスターも相似というか、美の基準が同一で、違いがほとんど無いよね。ベトナムでも汗をかかない草食系が主流さ。頭がガンガンする大音響のボリュームなので、御茶だけで這々の体で出て、今度は時々僕も行く義母の家のそばのお寺さんへ。また、バスだ。バスには僕らと、2〜3人の言わば市井の人のみ、運転手は大声で、僕らにも他のおばさんにも何やら話しかけ、陽気にドライビングを楽しんでいる。ブオンも笑ったりしながら、大声で運転手らとやりとりしている。何が楽しいんだか・・。バスって、こういうのが良いんじゃあないの。結構楽しいじゃあないか、とブオンに聞こえない程度に僕はバスの良さをつぶやいた。

その時、バスの内部を見渡した。変哲もない天上部分、床部分、窓、手すりやつり革。製造は韓国のヒュンダイ社のようだ。見渡すとハッキリ言って汚いのだ。履いたり、拭いたりしていなさそうなのであった。日本の交通機関と歴然の差があるね。如何に清掃やメンテが重要であるということが解る。ベトナム航空の機体内部も似た状態ですね。自分の仕事場であるバスとか電車内をキレイに維持したいのは、何も日本人だけではあるまい、ベトナムの運転手だって変わらないはずだよね。ベトナム人は個人生活では実はかなりのキレイ好きなのだ。アメリカやヨーロッパだって、キレイな街頭や公共の交通機関は少ない。おおっぴらに街にゴミが散乱していることは珍しいわけではない。ベトナムだけじゃあないのさ。逆に今オリンピックやってるバンクーバーやシンガポールは特別で過剰なほど汚れの無い無菌の街になっており、ちょっと薄気味悪い。

日本だって、家の中はキレイにしてはいたが、実は美しい山や森にゴミを不法に投棄してきた。さらに川とか空気も汚染させて無責任でいられた時代があったのだ。厳密に言えば今もだよね。「無菌商品」は買うが、外はどうでも良いってことだ。僕はベトナム人の事を責めている訳じゃあないよ。ベトナムでも早めに「公共」という考え方を教育でキチンと取り上げて欲しいだけなんだ。「環境問題」という押さえ方と「公共」という物と両方面からのアプローチが効果的だからだ。ハノイは空気や川の汚染は重症だからね。「公共」に関して言うと早稲田の公共政策学部が出来てまだ10年経ったかどうか、実は日本もその程度なんだ。

公共という市民の生活の場を皆の責任で維持管理(ある時は創造してゆく)して行く事の意味を教える教育を戦後の日本は長い間ネグレクトして来た。それは「公共」がかつて国家(国家権力)と結びつけられた不幸な歴史を日本は持っているからだ。戦中の軍国的な国家主義の時代がそれだ。平然と「国家」が「公共」を奪胎して国家に包摂したのだ。その軍国主義のリバウンドで戦後は「国家と結合した公共」は遠ざけられ、個人の生活と個人の自由を優先してきてしまったのだ。「国家と社会」の概念の違えさえ知らない若い人が多い現在の日本で、公共の意味を教えるのは困難さが伴う。ベトナムのバスの内部の汚れの事から、やや強引に論旨を引っ張ってきたけれど、僕の気持ちを解ってくださいね。

まだ、元旦の1日は終わっていない。この後、僕、ブオン、リンとディエップの次男のいたずらっ子と4人で、当校の女中のフンさんの自宅に遊びに行った。やっとこの時間はお腹の中の処理作業もようやく片付いた様で、僕もみんなもまた、食が進んだ。この女中さんは40才後半で独身。料理が上手で、若いときはそれなりに魅力を発散させていたグラマー美女。若いときの写真が整理されて飾られている。ブオンが日本の化粧品会社のハノイ支店にいた十数年前からの付き合いらしい。彼女のベトナム風おせち料理はとっても美味しいが、どこの家庭もメニューは大概同一だ。だから旨いが飽きも来るので、僕はビール(ベトナムではBIAと書く)をグイグイといった、正月だもの。お部屋の調度品も良いものが整理されており、おしん(女中さんの事)の家とは到底思えない作りであった。近所には父母や兄弟の家もあるという。ああそれなりの家の出自だから、当校での仕事ぶりが超一流なんだね。それこそ雑巾の拭き方も挨拶も計画性も日本流だもの。

20時位かな、お腹いっぱいになり、御茶しようと言うことで、隣家のお父様の家に皆で行った。お正月だから親戚などもあつまっていて、賑やかで楽しげ。お父さんを紹介されたら、何と彼はベトナム戦争当時(ベトナムでは対アメリカ戦争という)に活躍した報道カメラマンであった。ホー叔父さん(ホーチミン大統領)の写真も直に撮ったこともあったそうだ。うれしくなって僕はブオンを通訳にして、いろいろと彼の戦争での経験を聞き始めた。また美味しいもの食べながらね。スローフードでスローな一日はまだまだ終わらない。

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