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2010年1月19日火曜日

頑張れ辻井くん / テレビカメラマンの無能 / 青春の蹉跌

■ 年末年始に書いた前項の「爆笑問題の失笑問題」は今までで最高のアクセスであったようだ(一日1400アクセス)・・さてさて、
なんだか最近、ベトナム私信とは言いつつ毎回テレビやCM評が増えてしまっているね。阿部さんひまだなあ、と言われそうだが、現に2,3名の仕事関係者に言われてしまったが、暇なわけでも無く、むしろシンドイ運営問題(不景気が長引いて日本企業の採用数がまだまだ回復して来ないんだよ〜)もあるし、かなり忙しいんだぜ、本当は。気持ちも晴れないしね。

まず、去年大変感動的に話題となった辻井伸行君のこと。去年初夏にアメリカのバンクライバーンピアノコンクールで優勝した、あの盲目の青年だ。ぼくはその優勝した当時、彼の幼少からの足跡などは良く知らなかったが、優勝を告げられた会場の舞台で長身のクライバーン氏に抱擁されてとまどい気味にしがみついていた辻井君の白くてまろやかな顔が忘れられない。おめでとう。僕は君をよく知らないが、おめでとう、やったね。僕もうれしい。テレビのニュースに出るたびに自分の息子が優勝したような錯覚が襲ってきたほど、狂喜できた。その彼のドキュメントを年末に見た。知性豊かな家族環境のなかで、育ってきたことが解る。キチンとした家庭、冷静でエネルギッシュなお母様、堂々と共に歩む息子。ドキュメントそのものはたわいもないプログラムであったが、登場する一人一人の心の豊かさがしみじみと見る者に伝播してくる。

見ていて、フジテレビで長年追いかけていたバイオリニスト五嶋龍くんと彼のお母さんを思い出した。龍君の姉は言わずと知れた天才バイオリニスト五嶋みどりさんだ。このお母さんがまた良いのだ。この二人の母親の共通項は多い。考え方や人生観が軽やかだ。無理はしない。モノの捉え方とか発想が自由。自立を促し、的を射たアドバイスは常に欠かさない。所謂教養というものをお持ちなのだろう。そうでないと天才は自在に飛翔できない。このフジテレビの番組「五嶋龍のオデッセイ」は10年ぐらいつづいたのだろうか。最近はみないが・・。番組はかつてのフジテレビの会長夫人で元NHKアナウンサーの頼近美津子さんの進行で展開していた。その頼近さんは、去年若くして逝去した。
話を戻そう。辻井君、さあ地球の真っ青な海原が君の前に広がっているよ。良い風も吹いてきた。地球の美しさは君のものだよ。

■ またまた、ドキュメントだ。偶然途中から見た。栗城史多(のぶかず)という30歳にもならないアルピニストの青年が主人公だ。凄い。畏敬。彼は、無酸素で既に世界の7サミットを登り切っており、最後のチャレンジがチェモランマ(エベレスト)なのだ。このNHKの番組では天候の悪化と疲労で、チャレンジは失敗する。大泣きに泣く栗城さん。でも、この番組の白眉はこれじゃあないんだ。凄いのは自分の登山の行程をインターネットで全世界に中継しているのである。従って、エベレストの頂上の中継はまだ為されていないわけですが、視聴者は天国に隣接した群青色の青空の中から通信される画像と音声を通じて、アタックの苦しみと頂上に屹立した歓喜を登山者と一体になり味わえることになる。本当に凄い。

かつて、1990年湾岸戦争の時、CNNの戦争特派員ピーター・アーネットがイラクから撤退せず残留し、怒濤のように攻撃してくる米軍をイラクサイドからパラボラアンテナを使って衛星中継した驚きに、この栗城さんのプロジェクトは似ている。生死を彷徨いながら孤独にたえて、「臨場の今を知らせたい」本能的欲望は同一だろう。ところで、アルピニスト野口健はすっかり胡散臭い環境イベント屋に成り下がっようだね。小池百合子の隣で万歳叫んでいたし。俗物は今後聖地へいちゃあいかんぞよ。

■ 最近というより、この方20年ぐらい気になっていることなのです。とくに、この10年は、非道いと思う。テレビのカメラワークの事である。ENGスタイルになり、取り直しが利くからかも知れないが、センス無い乱暴なテレビカメラ(マン)が多すぎる。僕は民放のドラマなぞ30年は全く見ていないので、ドキュメントやニュース分野しか言えないが、訓練を受けた痕跡すら見えないカメラワークが多い。一番のダメさは、カメラの対象者に涙が溢れてくる時のカメラマンのセンスだ。悲しさが極まり目から涙が溢れる状況に立ち会った際、すぐにズームレンズで、顔や目にアップで寄ってしまう。”きらりと光る涙を撮影できればニュースだ”と勘違いしないでほしい。ズームアップを我慢しろ、顔や目頭にある悲しみは、悲しみの一部に過ぎない。

悲しみは引いた画面全体に溢れているものである。深い悲しさは、顔や目にだけにあるのではないのだ。悲しみに耐えようとする手や指に、震える肩や胸に、全身からあふれ出てくる人間の悲しみは、全身に接している空気そのものを震わせる。悲しみに遭遇して悲しみに耐えようとしている人間の深い思索と感性は、立ちつくしている人間の全身を描写することに主眼を於かなければならない。こんな作法は古典的名画も含めた多くの優秀な映画を見ていれば、技術としても学べるはずなのだ。画面の人物が泣きそうになると、フラッシュが機関銃のごときに連射され、ビデオカメラのレンズはズームアップのバカの一つ覚え。もう、バカな撮り方は止めてくれ。いい加減にしてくれ。テレビカメラの放列に陣取る各局の”素人カメラマン”たちよ。サイズを引いた広い落ち着いた画面の中全体に被写体の悲しみを静かに表現せよ。

■ いま、ドストエフスキー亀山翻訳版「罪と罰 第三巻」が、やっと200P。あと半分だ。次は何読もうかなあ。日本の古典的な長編かなあ。身体の生理はそんな感じである。さて、2,3日前に読み終わった本『村上春樹と小坂修平の1968年』について。著者のとよだもとゆきさんという、初めての人だ。1968年とみれは、その関係者というか、団塊の世代の人はすぐに気がつく。1968年はまず、フランスのカルチェラタン(左岸)で、大学生と高校生がたちあがった大闘争「5月革命」があったし、この年の10月21日の世界反戦デーはベトナム反戦闘争として、全世界的に高揚した。この様な中で日本でも東大闘争とか日大闘争が急激に広範にたたかわれ、今までの全学連内部に巣くっていた新左翼諸党派の退屈な党派的形式的な闘いをラジカルな一般学生が軽々と超えていった。その「全共闘の戦い」が全国に広まった重要な年がこの1968年であったのだ。

日比谷高校とか青山高校でも、バリケードストライキに入っていたし、ほとんどの有力大学を中心に全国的に大学も高校も「ベトナム反戦」をコアにした紐帯で決起していた。僕は1967年早稲田入学だから、この68年は法学部二年生でその高揚した学内と街頭の戦いを毎日祝祭のように自由に遊泳していた。様々な出会いと怒りと悲しみなどが記憶されている年でもあったのだ。田舎の高校生が大人にならざるを得ない激烈な年でもあったということだ。
このとよだ氏の本はそのときの早稲田の事を書いたものであった。というより、全く僕と同じ時期に同じキャンパスにいた人物の言わば総括的な本なのだ。実はこの本の面白さはそのときの僕の感覚と共通性が多いことなのだ。

僕は19歳であったし、みんな生意気で議論付きな若造真っ盛りであった。多くは政治的というよりベトナム戦争へのヒューマンなリアクションであったり、「大学立法という治安維持法的な管理法案」へのアンチテーゼで瞬発的に反撃していた。そう言う感性で決起していたのだ。そう言えば早稲田祭のその年のキャンペーン命題は「感性の無限の解放を」であったっけ。センスの無い日本共産党系は、ただ縮こまって「ストライキ反対」とかいって、大学当局とほとんど一体に見えた。新左翼諸党派も「社会総叛乱」を捉えきれず、慌てふためいていて、政治的計画を膨大な数になっていた”闘う普通の学生たち”に押しつけていたように見えた。当時僕は「社会総叛乱としての全共闘」と位置づけ、いろいろな檄文を書いていたように、この著者のとよだ氏も芸術とか、デザインとか、映画・演劇も含めた戦いであったと回顧している。

僕らも他に負けじと、シュールリアリスム革命派とか、スパルタクスとか名乗っていた。「キリスト者反戦」と大書きした赤旗を掲げた黒ヘルメットの一群がキャンパスを走り抜けていったりしていた。一見遊びに見え冗談に映っていたかもね。でも、みんなアメリカのベトナムへの侵略や、日本の大人社会に本気で怒っていたんだ。法学部の僕が毎月「美術手帳」とか「映画評論」「映芸」とか愛読していたし、当時「朝日ジャーナル」とか「読書新聞」とか、「平凡パンチ」とか、あらゆる媒体が戦いの狼煙をあげていた。小田実さんや野坂昭如さんを直接電話して学内に招聘したり、キャンパスも街(主に新宿)も言わば高度成長期最後の徒花繚乱の季節であったのだった。この年、僕は新宿中心に映画を100本見た。東映任侠映画、フランスヌーベルバーグもの、アメリカンニューシネマ(初期)とか小川プロの三里塚の記録などの歴史に燦然と輝く秀作が街中の小屋(げきじょう)に架かっていた。もちろん、唐十郎さんの赤テントや寺山修司さんの天井桟敷、更に暗黒舞踏派などが、大都会東京の暗渠で蠢いていた。

海の彼方のカンヌ映画祭だって、ゴダールとか、ルイ・マル、トリュフォーとかが、スクリーンを引きちぎり、映画会場を占拠して毎日「革命論議」さ。ウッドストックでは数十万人のヒッピーが既成概念と既成のライフスタイルを突破しようとしていたし、黒豹党やマルコムXらがアメリカの都市部を震撼させていた。そう言う時代の政(まつりごと)について・・・・この項、近々継続。

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