昨日の深夜、僕はハノイで東京が2016年のオリンピック候補地争いで落選したことを知った。インターネット新聞でだ。関心の無い僕も何となくそぞろな気持ちで、そのニュースを待った。落選の報を見た時、最初に口をついて出てきた言葉は「ザマーミロ」であった。ちょっと我ながらえげつない言葉だなと思ったが、出てきたからには仕方ないね。この言葉は何かに投げつけるのが普通だから、正に石原都知事へということだろう。要するに、このオリンピック招致活動もこの二回目の東京五輪自体も、解せないうちに始まり予定通り敗北した”石原さんのオリンピック”であったからだったと思う。
素人の僕でさえも動機が不純であったと、合点がいかなく思っていた。いや、否が応でもある臭いがしていた。5年ほど前だったろうか、石原さんが言い出した時、その唐突さに多くの都民、国民も僕同様に違和感をもった人も多かったろう。誰か石原にたきつけた人間が居るだろうが、傲慢男の面目躍如の提案として世に問われたのだった。
冷静に見てよ。だって、どう考えたって、傲慢だよ。まず東京は2回目なんだよ。名古屋も、大阪もこの20〜10年の間に、落選しているんだよ、その意味を理解できないのだろうか。今回決まったブラジルのリオは、南米大陸初めてなのだ。スペインのマドリードだって、今まで開催がないのだよ、あの美しい都市でさえ、ね。つまり、我がTOKYOは当初から常識的な必然性に欠けていたのだ。
日本人は幸いにして大半が傲慢じゃあない、むしろ、大抵のことに公平感を持っている。この僕ら日本人の多くは世界平和とか民族の交流を考えるのなら「やっぱーオリンピックの開催地は順番でしょ」と考えるのが普通。南米で今までなかったのなら、リオでしょ!今後イスタンブールだって、良いだろうし、ニューデリーだって、ハノイだって立派な候補地だろう。そうだなー、イスラエルとパレスチナでやったって良いんだぜ。日本がこういうとき銭金のスポンサーになったっていいのさ。世界中から尊敬さ。毎年日本のODAで、ベトナムに供出してるのが約1000億円(純粋寄贈は40億だけですが)。それを考えれば、まったく不可能な話じゃあない。「ガザ+テルアビブ共同(共生)オリンピック」実施に一役買うのが政治というものさ。
日本仕切りで、あるいは都知事引退後の石原さん仕切りでやればいいのだが・・。
僕、石原さんが「中共といって何が悪い」「ばばーに婆ー」といって何が悪いと言ってニコッとするような悪ガキ慎太郎が大好きです。また、「ジャーナリスト的に自分を育ててくれたのは、ベトナムです」と率直に語る慎太郎さんは尊敬しているが、彼は気の毒にもこの野暮な招致活動で人生の末節を汚してしまったようだ。
今回「環境とコンパクト」とか、言ってるが当初とは大分違う。5年前「経済効果」という御旗の錦をぐいっと掲げ、不景気感漂っていた庶民レベルの「なんか、パッとしたものほしい」感に上手くつけ込んで、石原さんが始めた。でも、実は石原さんご当人は経済効果なんか考えていなかったんじゃあないかなあ。一応経済界の協力が必要だから、経済効果の御旗を掲げたが、本心はもっと個人的事情に基づいていたんじゃあないかと僕は思っている。オリンピック招致と決定は、長男石原伸晃の「総理大臣」就任へのおおいなる後押しに活用しようと考えたんじゃあないだろうか。政権変わったし、格好いい世襲をねらったが、2009年は石原さんにとって最悪の年になったかも。いま、老境だからちょっと気の毒だが、敗北や挫折も大切だよ、青年の樹の御仁よ。
都庁の幹部もスポーツ関係者も経済人も「東京に2016年オリンピックが来る」と信じていた人間は一体、幾人いたろうか。当の石原も敗色を早い時期に内心認めていただろうと推測する。だってさあ、東京でオリンピックを近々やる「理由が無い」もの。でしょ?何かありますか?ご近所の北京じゃあ、去年やったんだぜ。バカじゃないの・・・。北京の次の年のIOCの総会での決議事項なら、IOCの理事が「東京は二回目だし、アジアが多すぎるんじゃあないの。20年前ソウルもあったし・・」と思うのは当たり前。どんなにIOCの理事たちにご機嫌を伺っても、150億円もかけた立派な招致:プレゼンをやっても、儲かったのは「電通・博報堂」かどうか知らないが、広告代理店とPR代理店、プロモーションプロダクションの数社だけというのは、笑えない。
だから最後の最後まで、IOCの多くの理事の指摘にあった東京のマイナス点は、”国民の支持が薄い点”であった。石原が作ったプロモーションは金をかければかけるほど、作為的でしかなく、国民的支持にはほど遠かったわけだ。それにしても鳩山さん、のこのこ行って、人が良すぎるよ〜!自分の能力を勘違いしないほうがいいぜ。
一連の過程で評価できるのは、昨夜の最終プレゼンに皇太子殿下が行かなかった事だろうね。流石、賢明である。立派だよ。”東京の招致活動”に政治の臭いをかぎ取ったからに相違ない。
♪♪ また会いま〜しょと、オリンピックの金と影、ソレ、どどんかどどんか、金と瑕疵(かし)〜〜♪(三波春夫)
日本でもそうだろうが、今ハノイでは中秋の秋祭りの時節だ。街中で金アカの装飾の仮店舗が溢れ、そこでは中秋の名月で欠かせない月餅を売っている。甘いモノに目がない市井の人々がオートバイを店先に止め、何箱もまとめ買いしている風景はめずらしくない。そう言えば仙台の実家で僕と弟二人とが、暗空に静かに鎮座した白色の満月を仰ぎ見て、お饅頭と果物が盛られた卓袱台を囲む。僕らがちぎって持ってきたススキ束が花瓶にさしてあった。美しい母親に促されて、弟たちとお月様に手を合わせたのは、何時のことであったろうか。
昨夜はハノイの市中で、中秋の子供のお祭りなどがあり、遅くまで賑わっていた。今朝は土曜日ということもあって早くから、秋の運動会(らしい)が近所のハノイ工科大のグランドで開催されていた。この辺では一番NGON(美味しい)のフォーガー(鶏うどん)を7時頃食べに行ったかえり、そのグランドに行ってみた。色んな催事があるらしく、子供からおばさんまできれいな色とりどりの衣装やアオザイを着ていた。中国や北朝鮮などと違いちょっと微笑ましいのは、行進や待機中の人々に統一感や「きちっと」感があんまり無いことである。
北朝鮮や中国の軍隊やマスゲームを見せられると、僕ら日本人はやや鼻白んで、「気持ち悪いな」なんていうが、どうしてどうして、実は僕ら「キチンと」や「一糸乱れぬ」やメリハリや、制服の統一などは結構大好きだ。まあ考えれば昭和10年代の日本は、世襲の君主を頂いた絶対軍国主義国家であり、外国から見れば、今の北朝鮮と似たように目に映っていただろうと思う。特攻隊などはイスラム原理主義者のテロの先駆だものね。ちょっと歴史を辿れば、日本も正気の沙汰と思えぬ「国体」だったのだ。日本は現在幸運にも成熟した社会になった。でも、東アジア的「規律と統制」のDNAを歴史的に引き継いでいることを忘れない方が良い。
で、ベトナムである。言っちゃ悪いが彼らはビシっと「統制・統一」ができない文化なのである。列強に分裂させられていた国家は統一したが、庶民の心まで、同じ色には染められない。昔から正規軍じゃあなく、ゲリラ戦に強いと言われているのは、そのあたりだ。もちろん実戦のゲリラ戦に於いては生死の架け橋のうえで、電撃を繰り返すわけで、5,6名の軍事的統制はもちろん必須だろうが・・ね。
一応、彼らの名誉のために言っておくが、僕らから見ていると幾分ダラダラと見えるが、実はいい加減というのとは違うのである。僕らが彼らの文化の形式:プラットホームを読み取れていないということなのです。例えが難しいがフォーディズムの権化であるベルトコンベアーによる生産方式の見た目の統一性や合理性と、セル方式による新しい生産方式の比較とちょっと似ています。ベトナム人は一人で何でもこなす。また見た目より組織性が実はしっかりしている。つまり、「セル」的なのだと言っておこう。
落選という事態を迎えてしまったにも拘わらず、石原さんが即刻辞任しない場合、厚顔無恥の誹りはまのがれないだろうなあ。マスコミは豹変するからね。
僕の知っている限り、東京五輪は止めよう、とテレビ番組で語った事があるのは元宮城県知事でいま病気療養中の浅野さんだけである。「やめよう論」を各紙もテレビ各局もタブー視していた中で、彼は立派だ。
八ッ場ダムも同じだが、無理と気づいたら、あるいは、おかしいと気づいたら、誰か止めなくてはならない。
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